上達した方には初心者の指導を行っていただいていますが、これは指導を通じて人を観る目を矢視に自分の修業をしていただくためです。
私は初心者には人によって指導を変えています。人にはそれぞれの人生があり、その中で経験したことが異なり、体の感覚も、同じ言葉の持つ意味さえもが人によって異なるからです。
肩に力みが入る人に、振りかぶって斬り下ろす手順ばかりを教えても肩の力みは抜けませんし、足首・膝に力みが入り突っ立つ人に歩み方の手順を教えても、歩めるようにはなりません。人に応じてまず何を教えるべきなのかを考え、その人に合った指導をしなければならないのです。
人を観て其人に合った指導をするように努めることは、指導する者の観る目を養います。自分がこう教えられたからといって、それにこだわっていたら自分と同じような人しか上達させることはできません。
先日羽田空港を利用した時に前回の展示の続きをしていました。
江戸時代に書かれた絵入り平家物語の殿下騎合の場面です。
- 2014/12/01(月) 21:25:34|
- 居合・剣術・柔術 総論
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武道を稽古される方の中には、人に教えるのは面倒で、自分の稽古時間が減ってしまい自分のためにはならないと考える方もおられるようです。自分をえらく見せるために弟子がほしいというのは論外ですが、人に教えることは自分の上達につながっていく場合があるという事は確実に言えます。
人に教える場合には、真摯に道を求める方にはすべてを伝え、自分より上達していかれるように指導してください。あくまでも我をなくし、真摯に道を求める方に限られることですが、そのような方は自分がお教えすることを自分以上にできるようになることがあります。部分的であるにせよ弟子が自分よりも上回ることができるようになれば、導いているものが弟子を見て学べるようになります。
私はこれまでにそのような経験を通じて得るところが大いにありました。今の私があるのはそのような弟子の存在があったからだと言っても過言ではありません。
各支部長も学べるような弟子を持てるよう頑張って指導してください。
明治27年に描かれた平重盛が、後白河院を幽閉しようとする清盛を諫めに行った場面です。
- 2014/12/02(火) 21:25:07|
- 居合・剣術・柔術 総論
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長い間稽古していると、不思議なことが一つや二つは起こります。
何十年も前に教えられ、忘れていたことが「こういうことだったのか」と急に思い出されて納得したり、ふと、今は天界におられるはずの師に見つめられているような気がしたときに急にできるようになったり、寝ているときに急に分ったり・・・。
武道史の研究にしてもしかりで、こういう史料が出てくれば良いのにと思っていて、導かれるようにして行ったある資料館で発見したり、わからなかったことが偶然、資料と資料がつながることによってわかったり・・・。
私の場合は自分の人生は全く思い通りになりませんが、求めていれば武道と研究への助けは不思議に与えられてきたと思います。
木曽義仲と平家の倶利伽羅峠の戦いの場面です。ここには火牛は描かれていません。倶利伽羅峠は三度訪れましたが、そのうち一度は不可思議な事が起こりました。
- 2014/12/03(水) 21:25:15|
- 居合・剣術・柔術 総論
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10歳のころ、崖から落ちたというか、飛び降りたというか微妙な状態の時に、瞬間的にそれまでの短い人生が走馬灯のように頭の中で廻ったことがあります。それ以後に、死ぬ間際ににそんなことが起こるのだと聞きましたが、不思議でも何でもありませんでした。 相手の動きがまるでスローモーションのように見えたこともあります。これあらおこることが10分以上わかったこともあります。ほかにもいろいろな経験をしていますが、こんなことも起こるのだろうと感じていましたので全ては思い出せません。命が助かったようなこともあったと思います。
人には元々そのような能力が備わっていて、普段は眠っているだけなのでしょう。それを少しでも用いたら人並み以上のことができるようになると思いますが、私はそのような能力を開花させようとしたことがありませんでした。いろいろな経験をしましたが、ただ言える事はそのような経験をするときには心も体も楽な状態にあったときだという事です。
一谷の坂落の場面です。
- 2014/12/04(木) 21:25:55|
- 居合・剣術・柔術 総論
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自分があることについて知っていて、それが真実であったとしても、間違ったことが真実であると信じている人が大半である場合には時を掛けて慎重に真実を知らしめなければなりません。
人は一度間違ったことを真実であると思い込んでしまうと、自分と違う考えを持った者は、たとえその考えが正しかろうと、よく検証することなしに自分と異なる考えの者を排除しようとします。
先日剣道日本の方が取材にお越しいただいたときに、少し土佐の居合の資料を見ていただき「これを世に出したら、これまで是が正しいと主張している多くの人が困ることになります。」とお話したことがあります。「しかし、正しい事は知ってもらうべきだ。」と話されましたが、真実を話して多くの敵を作るのであれば秘するのも道であり、秘しながら、敵を作らずに知らしめる最適な方法を探っていかなければなりません。
30年前は「植田平太郎先生経由の細川義昌先生の居合です。」といっても誰も信じず、認められることもありませんでした。よくて直伝の亜流扱い、ひどい場合には詐欺師まがいに扱われたこともあります。此処まで来るのに30年かかったことになります。
有名な扇の的の場面です。
- 2014/12/05(金) 21:25:25|
- 居合・剣術・柔術 総論
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昨日の続きになりますが、真実を語ることは時として敵を作ることがありますので十分に注意しなければなりません。人は自分の実力の限界がわかっている場合、自分を権威づけるために、師を利用とします。たとえ師が言っていないことであっても自分の想像で作り出したことを真実として話し、師がこれだけ素晴らしいのだから、その師に習った自分も・・・。という事になるのです。
それが2,3代続いてしまったらもうどうしようもありません。作られた、あるいは想像されたことが真実として広まってしまうと、それが真実ではないと主張することは多くの敵を作ってしまうことになります。
私は土佐の居合の歴史については多くを語りません。その知識が論文として多くの資料を基に揺るぎのないものにならなければ、私はこんなことを知っているという知ったかぶりになるだけであり、それは間違いを信じて真面目に求めている人たちの気分を害するだけになるからです。
大石神影流に関しては真実を公にしてもどこにも敵を作ることはありません。これまで大石神影流は実戦には使えない長い竹刀を用いるだけの流派であると悪口を言われる事がありました。皆さんが知っておられるように大石神影流の長さの上限は乳の高さまでであり、意味もなく、使えもしないのにただ長くしたのは大石進先生に試合で負けた側の人たちでした。片手突きなど実戦には役に立たないという人も多くいますが、片手技が大石神影流においてよく稽古されるのはご存知の通りで決して使えない技ではありません。また大石進先生が江戸に出た3年後の記録に男谷精一郎が諸手突き、片手突きともに用いていたという記録があります。ほかにも多くの真実を明らかにしていかなければなりません。もっと多くのことを、研究を通じて明らかにする必要があります。
澁川一流柔術も明らかにすることで困る人はいません。むしろ明らかにしなければ間違った知識が広まってしまうことが心配です。日本古武道協会で師とともに演武し始めたころには渋川流のインチキ流派という認識を持つ方も多くいました。先に出版された本で誤解を受けていたのです。いまでこそ澁川一流は渋川流とは異なるものという認識を持っていただいていますが、当時は誤解を解くためにたいそう苦労しました。このような苦労を後世に残さないためにも正しいことは明らかにする必要があると思います。誰も敵は作らないのですから。
『太平記』の一場面で足利尊氏を中心に描かれています。
- 2014/12/06(土) 21:25:08|
- 居合・剣術・柔術 総論
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私はこれまで実技の稽古と、歴史研究を平行して行ってきました。それによって大いに得ることもありましたが、私は自分自身を研究と稽古・指導を並行して行える環境に自分自身を置いてきたため多くの事を犠牲にしてきました。所謂人並みの生活は送れませんでした。
皆さんに私のように「並行してこれを行うように」というのはかなり無理があります。私は現在年に2回発表しています。これは大学の研究者でない者にとっては自分を犠牲にせざるを得ないペースです。これが3年ないし5年に1回であれば皆さんにも十分できるペースではないかと思います。ただ単に実技を稽古しているだけであると歴史的背景もわからず、文化的背景もわからないために、自分勝手な理論をこしらえがちになってしまいます。
正しく稽古するためにも、自分自身で何年かかっても明らかにするべきテーマを作り自ら研究できるようになってください。
足利3代将軍義光を補佐するため細川頼之が上洛した場面です。
- 2014/12/07(日) 21:25:33|
- 武道史
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神拝の基本は立つことにあります。立つといっても突っ立つことではなく、足心に重心がおり、鼠蹊部や膝、足首のどこも力むことなく、体のすべてが足心に預けられた状態のことを言います。
初心者には最初から無理な要求をしていますが、無理だからと言って中途半端に指導してしまうと後々の上達に悪影響を及ぼします。できなくても理想の状態を教えることによって、自ら求めていく態度を養うことができます。「できないから教えなくてもよい。」ではなく「できないけれど、理想の状態を教える。」と考えてください。
- 2014/12/08(月) 21:25:10|
- 居合 業
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礼は約45度まで体を前傾させますが、初心者は必ず視線を落とすことから礼を始めます。したがって、首は前に落ち、背中が曲がる礼になりがちです。
視線は必ず床と平行に保させ、臍下中心に体をかがめていくから視線も下がるのだと教えなければこの状態を脱することができません。
また、礼をしたとき足腰に無駄な力みが入っていると、体を前傾した時に前傾した上半身を下半身で支えなければならなくなります。しかし昨日述べたように「足心に重心がおり、鼠蹊部や膝、足首のどこも力むことなく、体のすべてが足心に預けられた状態」であれば自然とお尻が後方にスライドし、上半身の重心は前方に移動することなくバランスがとれ、下半身に負担がかかることはありません。初心者には、そのような状態があるのだという事を教えてください。楽なことは必ず求めていくはずです。
- 2014/12/09(火) 21:25:04|
- 居合 業
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神拝を行うときには、刀は右脇の下をくぐらせ、柄は後方に、刃は下方を向くようにして礼を行います。このような状態に刀を置くと、刀を抜いて前方に斬りかかるのは困難なことです。
さて刀を握りしめていると、刀は頭が下がっていくと同時に小尻も下がっていき、刀が立ったような状態になります。しかし、これは無雙神傳英信流抜刀兵法の師である梅本光男貫正先生が否定されるところでした。神拝をするときには頭を下げている途中でも頭を起こしている途中でも床に対する刀の角度は変わらないのが正しいありようです。
そのためには刀が自由でバランスが取れた状態にならなければなりません。しっかり手の内を教えてあげてください。手のどの部分が柄に乗るのか、それぞれの指の状態はいかになければならないか等々小さなことを教えてかまいません。
初心者の方に「これほどまでにむつかしい。」と感じていただければ次の稽古につながります。
- 2014/12/10(水) 21:25:17|
- 居合 業
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帯刀する前には刀礼をしなければなりません。上達できない方は、必ずと言っていいほどこの刀礼を疎かにしてしまいます。稽古は刀を抜くことからが稽古だと考えているからです。刀礼は刀の魂と自分の魂を一体にするための大切な儀式ですので、刀礼を疎かにする人が上達することはできません。
刀礼は文字通り刀に礼をするのですが、自分がどのような状態で坐していなければならないかを工夫しながら稽古をしなければなりません。礼をするには威儀を正さなければなりません。そのためには正しく座れていることが絶対条件になります。
神拝から座すとき、自分の中心線に沿って体は下に降りて行っているかどうか。足、首膝、股関節、腰などに不要な力みが入っていると体はぐらつきます。しかし、それをさせまいと体を固めてしまったら動けない体を作るだけで武道ではなくなってしまいます。あくまでもすべての力みを去って引力に任せて体を下していきます。
その際、これから礼をしようとしている大切な刀をぐらぐらさせてはいけません。自分のモモの上に軽く接するように保持し、座した時に小尻が床に当たらないように心がけてください。
- 2014/12/11(木) 21:25:26|
- 居合・剣術・柔術 総論
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座した後は刀を自分の前に横たえなければ刀に対する礼はできません。この動きも安易に行ってしまうと礼を行う刀を疎かにしてしまい、いったい何のための刀礼なのか、わからなくなってしまいます。
無雙神傳英信流の座礼は両手で作った三角形が頭頂部にくるように行いますので、刀が自分に近すぎると困難です。座したのち小尻を少し斜め前方に位置させるように静かに床に触れさせます。その場合にも臍下を中心として体を少し前傾させるだけに努めてください。背中を丸めては。その状態から動くことはできません。また、あくまでも重心は臍下にあります。小尻を遠くにおこうとして重心を浮かすことがないよう心掛けてください。
その後、刀を横たえるのは腕で行うのではなく、刀が引力に引かれるに任せて肚から体を屈することによって静かに行います。この時に背中が曲がることはありません。また、刀が床に接するとき、音を立てるようではあまりに乱雑です。
丸い鍔をかけられている方は、刀を横たえたときに床で刀がごろごろする場合があります。これもバランスをはじめから考えておけば起こらないことです。
- 2014/12/12(金) 21:25:54|
- 居合・剣術・柔術 総論
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刀を横たえたら、刀に礼をしますが、この時刀礼は単なる作法だからと形だけの礼をしたら刀と自分が一体となることはありません。刀礼の字義通り単なる作法ではなく刀に霊格があるものとして礼を行います。心から礼を行うことが形に現れるのであって、礼という形を行うのではありません。
さて左、右と手をつきますが手をつくという意識があれば背中が曲がってしまいます。臍下を中心に体を前傾させ、体が前傾するがゆえに力みのない左手が前に進むようにし、左手のひら全体が床に接するのを覚えます。ついでブレーキをかけていた右手が前に出て両手がそろいますが体重をかけているわけではありませんので両肘は下方に沈みます。
両手がそろった所からさらに臍下を中心として体を前に倒し礼をしますが頭を下げて背中を丸くしてはいけません。
また視線は体の前掲とともに降りていくのが正しく先に床を見ることはありませんので心してください。
体を起こすのは反対の動作であくまで臍下を中心とします。また起こした時に正しい姿勢を作ろうとして体をそらせることはありません。あくまで物質として最も安定する角度に上半身は保たれていなければなりません。
- 2014/12/13(土) 21:25:23|
- 居合・剣術・柔術 総論
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刀礼を行い、刀魂と自分の魂を一体とする準備ができたら、帯刀します。帯刀によって自分と刀が一つになります。刀と自分を一つにする動きですので、あくまでも静かに、心も体も鎮めたまま行わなければなりません。
刀礼の後刀を自分の前に立てますが、自分が立てるのではなく、刀が立つのを補佐する、そっと手を添える心で行わなければ「我」がかったままになります。そのご細前から刀を腰にしますがこの時も自分の姿勢は崩さず無理やり刀を腰にしようとはしません。刀が腰におさまるのを待たなければなりません。自分で刀を腰に差そうとして肩や腕に力を入れ姿勢を崩して体をゆすって刀を差したとしても、「我」のかたまりであり、刀と自分とが人るになることはありません。
工夫を要するところです。
- 2014/12/14(日) 21:25:46|
- 居合・剣術・柔術 総論
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昨日まで神拝、刀礼について述べてきました。
武道は人との関係において成り立ちます。「和」がない武道は暴力にすぎません。相手との「和」を保たせる基本が礼です。
神を畏怖し敬う心がなければ「神拝」は形だけのものにすぎません。神を畏怖し敬う心があれば神前において無作法な振る舞いをすることはありません。たとえ、その場における作法を知らなくても不敬な動きにはならず、神との関係は保たれます。大石神影流剣術、無雙神傳英信流抜刀兵法の「神」の字は飾りではありません。
刀に刀魂の存在を認めれば、刀を大切に思う心が生まれ、ぞんざいに扱うことはありません。単なる物として扱うが故に自分と刀は一体になりません。
稽古も同じです。相手をたんに稽古の対象と考えていては見えるものも見えてきません。見えるものが見えていないのは「我」中心で、和は存在しないからです。見えるものが見えないというのは、相手も自分も、またその手数・形を工夫された流祖や、それを伝えてこられた代々の師範の心も見えていないということです。
また、師に対する畏怖の念や尊敬の念がなければ、見えるものも見えてきません。話されたことも聞こえず、示されたことも見えません。
横浜支部にはかわいい二人のお子さんが稽古に来られてますが、支部長を尊敬し、礼儀正しく、物事を素直に習い、自分の考え、「我」をさしはさむことがないため、驚くほどの速さで上達しておられます。小さなお子様なので、しっかりと家庭で教育をされておられることがその基にあるのは言うまでもないことです。
- 2014/12/15(月) 21:25:53|
- 居合・剣術・柔術 総論
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大石神影流の手数も無雙神傳英信流抜刀兵法も澁川一流も、動きには一つ一つその意義があり、どの動きであっても流してしまえるようなものはありません。
今の動きがおろそかであれば、必ず次の動きは疎かになり、その次の動きも、一度疎かになった動きより上になることはありません。
これまでに、貫汪館で初めて武道に触れて真に上達した二人は、それがわかっていた二人でした。動きが悪いときには、その前の動きは、またその前の動きはと原因を究明していくことができ、またその時の自分の心の状態も把握できる人たちでした。手足の指一本の動きも、疎かにはしませんでした。
上達しようとしたら、稽古の内容が大切です。
- 2014/12/16(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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ゆっくり静かに稽古をし、自分自身を見つめる稽古ができなければ上達は困難です。手数や形を一通り稽古し、数をこなしたとしても、なかなか上達はしません。
可能であれば人よりも早く道場に出て、工夫することが大切ですが、公共の場所を借りている場合など、そうはいかないこともあるかもしれません。稽古時間が取れず、道場に来て通り一遍の外形のみの稽古しかできない人が上達したいのであれば、道場外で自分自身を見つめる稽古をしなければなりません。自分自身のための稽古は相手がいなくてもできますし、自分に大切な稽古ができます。
- 2014/12/17(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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もう20年近く前になるでしょうか。今は稽古されていないある流派の方がお話しくださいました。「何度も演武会に出ていると、狎れてしまい、演武を大切にしようとする気がなくなってしまう。」
そのころはまだ居合の師匠はご存命で、演武は必ず見てくださっており、たまに先生が忙しくて私の演武の場におられなくても、あとで「森本君の演武はわかっている」とおっしゃっていました。私も後ろを見ていてもどのような稽古をしているか、どこがダメなのかはわかることがありますので、その能力も発達しておられたのだと思います。
柔術の師匠には演武会などに出た場合には必ず、ビデオをお持ちして観ていただいておりましたので、その場におられなくても師匠に観ていただいているのも同然でした。
今も私は、常に満足できず、狎れるという感覚を持ちませんが、人は往々にして狎れてしまうもののようです。同じような形や手数を演武で繰り返していると狎れてしまい、いい加減になっていても、いい加減になっている自分には気づかぬようです。「我」で動いていても、いつのまにか自分では正しく動けていると思い込んでしまっているのです。下手になりつつあるのですがそれに気づけません。「狎れ」はおそろしいものです。
- 2014/12/18(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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かつて、速やかに上達した女性が話したことです。「先生、自分の変化を楽しむことができる人でないと、ここでの稽古は向きません。少しずつでも変化していることを楽しめる人なら上達しますけれど。」
本当にその通りです。自分の変化というのは、本質的な変化のことを言っています。外形の変化ではなく、形が上手に見せる事でもありません。心と不可分の上達のことです。
ところが、たいていの人は一気に外見上の大きな変化を求めてしまいます。形だけを求め心の変化は求めません。無理やり作った形だけの変化ですから、本質は変わらないどころかますます「我」は強くなり、ここ(貫汪館)での上達からは遠ざかってしまいます。稽古に楽しみがあるかないかは、自分に自分の変化を見いだせるか否かに関係があります。
- 2014/12/19(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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「ゆっくり、はやく」とは私の居合の師匠が話された言葉です。自分はゆっくりと動いており、外から見ても一見ゆっくりなのだけど実際は早い動きであるという状態です。
貫汪館でダメな動きは「はやく、はやく」です。呼吸を忘れ、臍下が中心ではなくなり自分では早く動いているつもりなのに、まったく隙だらけで無駄な動きをしている状態です。
前者と後者では全く異なっているのに稽古している本人にそれが自覚できなければ、上達は困難です。ゆっくりというのは一つ一つの微細な動きを大切にしていくことを言います。微細な動きを大切にしてそのつながりが一つの動きになりますので「ゆっくり」です。しかし大切にした結果無理無駄がなくなるので「はやく」なります。工夫してください。
- 2014/12/20(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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もう20年近く前の事です。広島で国体があった時、私は銃剣道教日の運営責任者となり廿日市から倉橋町役場まで週に2回通勤しました。旅費は連盟負担ですが、連身にそんなお金はなく、私が自分でプログラム広告を集めて回り、大宇分はそれで補いました。剱二人見されても旅費はなかったのですからおかしな話でした。
当時はまだ練士6段でしたが国体の銃剣道競技の開始式で8段の先生と銃対銃の形の演武をすることになりました。銃剣道連盟本部の先生に、つきっきりで何回かご指導を受け、また8段の先生とは定例の稽古日以外に二人で何度も稽古をしていただきました。
間違いはなくても、指導を受けた事と少しでも異なる動きをしたら、指導をしてくださった先生に申し訳ありませんし、打方を務めていただく8段の先生の恥にもなり、ご迷惑をおかけします。また、広島県銃剣道連盟全体が低レベルだともみなされかねせん。自分だけの問題ではありませんでした。
銃剣道連盟本部のご指導をしていただいた先生からも、十分に稽古をしたと言っていただいていましたが、少しでも違えてしまえば先ほど述べた様に自分だけの問題ではなくなります。翌朝は早くに家を出なければならなかったのですが、開始式の前日、裏庭で、これでよいと思えるくらいまで一人稽古を重ねました。
翌朝、家の者が「裏に重いものを引きずった跡がある」と驚いた顔で私に言いに来ました。なにか重いものでも盗んでいかれたかと私も思ってしまいましたが、盗まれるようなものは乾燥機くらいしか屋外にはないので不思議に思って裏庭に出ると確かににまっすぐに重いものを引きずったような跡がありましたが、それは私が形の稽古のために摺足を繰り返した結果でした。
自分のための演武や昇段審査ではないので、どれだけ稽古を重ねても時間の経過にも気づかず、これでよいという事はありませんでした。。
写真は右手にも小手をしています、また肩の防具をつけていませんが、これは対竹刀の試合の時に小太刀や槍などを取り換えながら行った時のもので正式な銃剣道の防具の着用ではありません。
- 2014/12/21(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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昨日のお話には続きがあります。居合の師である梅本三男貫正先生は私が銃剣道の稽古をするのをあまり好まれませんでした。ある人が私の防具着用稽古を見て「目をつぶってでも飛び込んでいく」と評されたのですが、以前はまさしく猪突猛進の銃剣道でした。それが先生からみれば居合に悪影響を与えていると映ったのだと思います。
ところが国体の運営を終えて、梅本先生に報告に行き、「もう銃剣道は終わりにしようと思うのですが。」と告げた時、先生は「やめる必要はない。続けなさい。良い先生に指導を受けることができただろう。」と話されました。見ておられなくても私の状態を判断されたようでした。
本気で稽古したので、私の中の何かが変化し、それを梅本先生は見て取られたのだと思います。
- 2014/12/22(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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先日行われた第6回日本武道学会中四国支部会の私の発表を暫く載せていきます。
平成26年度日本武道学会中四国支部会発表抄録 <於:少林寺拳法本部 平成26年12月20日(土)>
土佐藩 片岡健吉の稽古記録について―安政5年の『文武修行日記』を中心に―
広島県立佐伯高等学校 森本邦生
Ⅰ はじめに
片岡健吉(1844~1903)は土佐藩士であり明治維新以降は自由民権運動の活動家、またキリスト教徒として活動した。
片岡健吉が記した安政5年(1858)の『文武修行日記』1)には馬術、剣術、居合・體術の稽古が記録されている。「文武」となっているが、学問の修行については記されていない。
同年の『稽古玉帳 萬控帳』2)には同じく片岡健吉の馬術、剣術、居合・體術の稽古が記録されているが、『文武修行日記』に比べて乱雑に記されており、稽古日に若干の異同がある。しかし『文武修行日記』を補完する記述もある。両資料とも片岡健吉が満14歳となる年に記されたものである。
本研究は片岡健吉が記した安政5年(1858)の『文武修行日記』と『稽古玉帳 萬控帳』から当時の土佐藩における武術稽古の実際について明らかにしようとするものである。
- 2014/12/23(火) 21:25:12|
- 武道史
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Ⅱ 片岡健吉について
片岡健吉の略歴を以下に記す3)。
片岡健吉は天保14年(1844)、土佐藩士片岡俊平(馬廻格・250石)の嫡男として高知城下中島町に生まれた。
慶応4年(1868)1月、迅衝隊左半大隊司令及び外輪物頭に任じられ、1月20日に京都に向けて出陣、2月、大目付に任じられ、御軍備御用を兼帯し、迅衝隊総督・板垣退助に従って戊辰戦争を戦い会津若松城攻略等数々の功を立てた。
明治元年(1868)11月、陸軍参謀中老職となり、役領250石を加増され、11月、大目付を兼帯。
明治2年(1869)3月、参政・軍事掛を兼帯し、家禄400石に累進した。
維新後は新政府に出仕し、明治4年(1871)からロンドンに2年間留学。帰国後に海軍中佐となったが、征韓論派の失脚に伴い、職を辞して高知に帰った。
明治7年(1874)、板垣退助らと共に立志社を創設し、初代社長となる。
明治10年(1877)、西南戦争の最中に国会開設の建白書を京都行在所に提出したが不受理となる。同年、立志社の獄で逮捕され、禁錮100日の刑を受ける。
明治12年(1879年)、高知県会の初代議長となるが、県会議員選挙の制限選挙制に反対し、辞職。
明治13年(1880)、第4回愛国社大会の議長を務め、その後河野広中と共に国会期成同盟代表として国会開設の請願書を元老院に提出。
明治14年(1881)、自由党の結成に協力。
明治20年(1887)、保安条例違反による退去命令に従わず、禁錮2年6ヶ月の刑に処される。
明治23年(1890)に第1回衆議院議員総選挙で当選。以後第8回まで連続で当選。
明治31年(1898)から死去まで衆議院議長も務める。
日本基督教団高知教会の長老であり、東京キリスト教青年会第4代理事長ともなった。晩年、同志社第5代社長に就任し、在任中の明治36年(1903)に死去した。
片岡健吉の武術修行を『片岡健吉日記』4)にみると次のように記されている
- 2014/12/24(水) 21:25:00|
- 武道史
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Ⅲ 片岡健吉関係の武術資料について(省略)
Ⅳ 安政5年に片岡健吉が稽古した流派について
1.馬術(流派名不詳)
片岡健吉は嘉永6年(1853)正月に沢田勘平に入門し馬術を修行し始めたが、沢田勘平の流派は不詳である。当時土佐では大坪流、朝鮮流要馬術、源家古伝馬術、調息流が行われていたという6)。
2.剣術(大石神影流)
土佐藩では大石神影流を学ぶ者が多かった。柳河藩の大石進種次、大石進種昌父子の総門人数は655名で、九州地方に233名(柳川藩の門人を除く)、中国地方に71名、四国地方に76名、近畿地方に10名、その他の地域に12名の門人がいたが、土佐藩士の門人は60名にのぼった7)片岡健吉は安政4年(1857)6月、寺田忠次に入門し大石神影流剣術を修行し始めた。
片岡健吉の師である寺田忠次は柳河藩で直接大石進に師事して免許を得たのち、土佐藩で師範となった。嘉永5年(18572)、大石進種昌(2代目大石進)を土佐藩に招聘するため柳河藩に赴き、大石進種昌は友清助太夫と清水和作を伴い8月から10月頃まで土佐藩で指導した8)。吉田東洋や後藤象二郎はこの2代目大石進の門人である9)。
- 2014/12/25(木) 21:25:00|
- 武道史
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3.居合(無雙神傳英信流)、体術(高木流)
片岡健吉は安政5年(1858)7月23日、下村茂市に入門し長谷川流居合と高木流体術学び始めた。
土佐の居合は一般に長谷川流と呼ばれるが、下村茂市の流派は正式には無雙神傳英信流と言う。下村茂市は山川久蔵の門人で、文久2年に藩校致道館の居合術導役となり、明治元年に居合術指南役となっている10)。また、下村茂市は弘化2年(1845)に高木流体術の師である清水小助より皆伝を授っている。居合と同じく文久2年に藩校致道館の体術導役となった11)。
- 2014/12/26(金) 21:25:00|
- 武道史
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Ⅴ 安政5年の月別稽古日数
1.馬術
馬術の稽古日数を表1に月別に記した。実際に乗馬しなくても馬場に出れば出席日数とカウントした。鞍数とは馬に乗った回数で、一日のうち異なる馬に2回乗れば鞍数は2となる。
表1から、片岡健吉は月平均で約10日馬術の稽古に赴き、同じく月平均で鞍数は12回の稽古をしていることがわかる。
2.剣術
剣術の稽古日数を表2に月別に記した。
表2から、片岡健吉は月平均で約21日剣術の稽古に赴いていることがわかる。
ただし資料1にみるように『稽古玉帳 萬控帳』では稽古回数と数えている場合でも「不遣」という記述が散見される。「不遣」と記した場合は手数(形)稽古か見学のみであったのではないだろうか。
「不遣」と記されていない場合には人名が記されていることから、誰と防具着用の稽古をしたかを記したものと指定される。1回の稽古で1名から3名程度の名前が記されている。ただし11月の朝稽古とある2日から30日までの間の2日から9日までは毎日5.6名の名が記されており稽古への出席者が多かったものと推定される。
3.居合
居合の稽古日数を表3に月別に記した。ただし、『文武修行日記』ではただ、「下村」とのみ記しており、居合・体術の区別はない。『稽古玉帳 萬控帳』では9月7日から居合と体術の稽古回数を区分して記している。
表3から居合の稽古は月平均で約20日であることがわかる。
4、体術
体術の稽古日数を表4に月別に記した。ただし、居合と同様『文武修行日記』ではただ、「下村」とのみ記しており、居合・体術の区別はない。『稽古玉帳 萬控帳』では9月7日から居合と体術の稽古日数を区分して記している。
表4から体術の稽古は月平均で約20日であることがわかる。これは居合と体術を同じ師匠に習っているので当然の事と言えるが、『稽古玉帳 萬控帳』で居合のみ稽古して体術の稽古はしていない日があることがわかる。
- 2014/12/27(土) 21:25:00|
- 武道史
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Ⅵ 奨励法と片岡健吉の稽古日数について
明治17年(1884)に編纂された『高知藩教育沿革取調』12)は高知藩の藩校・営中文武学校(江戸藩邸内)・代表的郷学・私塾寺小屋について、その概要がまとめられており、弘化2年(1845)第13代藩主・山内豊熈の時にだされた文武奨励のための奨励法について下記のように記載がある。
奨励法
一、壱ケ年中 文百會(會猶回ト謂フカコトシ以下倣之)以上 武百會以上ヲ勉励シ続テ五ケ年ニ至レハ褒詞ノ沙汰ニ及フ
一、以上引続キ五ケ年(十年目)ヲ経レハ賞金ヲ下賜ス
一、以上引続キ五ケ年(十五年目)ヲ経レハ更ニ賞金を下賜ス
一、以上引続キ五ケ年(二十年目)ヲ経レハ直賞ノ沙汰ニ及フ
一、壱ケ年中 文百會以上 武二百會以上 若クハ文二百會以上 武百會以上ヲ勉励シ続テ四ケ年ニ至レハ褒詞ノ沙汰ニ及フ
一、以上引続キ四ケ年(八年目)ヲ経レハ賞金ヲ下賜ス
一、以上引続キ四ケ年(十二年目)ヲ経レハ更ニ賞金ヲ下賜ス
一、以上引続キ四ケ年(十六年目ヲ経レハ直賞ノ沙汰ニ及フ
一、壱ケ年中 文百會以上 武三百會以上 若クハ文二百會以上 武二百會以上ヲ勉励シ続テ三ケ年ニ至レハ褒詞ノ沙汰ニ及フ
一、以上引続キ三ケ年(六年目)ヲ経レハ賞金を下賜ス
一、以上引続キ三ケ年(九年目)ヲ経レハ更ニ賞金ヲ下賜ス
一、以上引続キ三ケ年(十二年目)ヲ経レハ直賞ノ沙汰ニ及フ
一、壱ケ年中 文二百會以上 武三百會以上を勉励シ続テ二ケ年ニ至レハ褒詞ノ沙汰ニ及フ
一、以上引続キ二ケ年(四年目)ヲ経レハ賞金ヲ下賜ス
一、以上引続キ二ケ年(六年目)ヲ経レハ更ニ賞金を下賜ス
一、以上引続キ二ケ年(八年目)ヲ経レハ直賞ノ沙汰ニ及フ
一、壱ケ年中 文二百會以上 武三十以上九十九會以下 若クハ武三百會以上 文三十以上九十九會以下ヲ勉励シ続テ四ケ年ニ至レハ褒詞ノ沙汰ニ及フ
一、以上引続キ四ケ年(八年目)ヲ経レハ賞金ヲ下賜ス
一、以上引続キ四ケ年(十二年目)ヲ経レハ更ニ賞金ヲ下賜ス
一、以上引続キ四ケ年(十六年目)ヲ経レハ直賞ノ沙汰ニ及フ
一、壱ケ年中 文百五十會以上 武三十以上九十九會以下 若クハ武二百會以上 文三十以上九十九會以下ヲ勉励シ続テ六ケ年ニ至レハ褒詞ノ沙汰ニ及フ
一、以上引続キ六ケ年(十二年目)ヲ経レハ賞金ヲ下賜ス
一、以上引続キ六ケ年(十八年目)ヲ経レハ更ニ賞金ヲ下賜ス
一、以上引続キ六ケ年(廿四年目)ヲ経レハ直賞ノ沙汰ニ及フ
一、壱ケ年中 文百會以上 武三十以上九十九會以下 若クハ武百會以上 文三十以上九十九會以下ヲ勉励し続テ八ケ年ニ至レハ褒詞ノ沙汰ニ及フ
一、以上引続キ八ケ年(十六年目)ヲ経レハ賞金ヲ下賜ス
一、以上引続キ八ケ年(廿四年目)ヲ経レハ更ニ賞金ヲ下賜ス
一、以上引続キ八ケ年(卅二年目) ヲ経レハ直賞ノ沙汰ニ及フ
この奨励法がだされた当時の藩校は教授館で、文武の教授は「専ら本館に於てするに非すして文武師範数家を立て藩士をして皆其宅に就きて学はしむ。而して特に儒家の中に於て、複た数名を選て教授役と為し、毎日館に入り生徒を導かしむ。其余の儒家を平儒者と称し、其宅に在て生徒を導くを許す。習字師亦同じ。同武伎に至りては偏に各師家に就きて業を受けしむ。」という状況であったため、各師範が門人の出席回数を藩庁に提出したようである。土佐藩郷士の細川義郷の安政3年(1856)の日記13)の12月の記録に「廿日大寒 居合弟子勤怠帳下村茂一へ出す。」とあるのが、このことを示している。
試験(生徒の技量の検分)も行われており、「文」においては試業といい儒家の師弟及びその門人等で学業上達の者を指名し本館で経史の素読、講義をさせている。「武」では式日と称し、槍・劔・柔術・抜刀(居合)は土佐郡帯屋町南会所に於いて、射は同町引合場に於いて、砲は土佐郡潮江村小石木駄に於いて、馬術は土佐郡鷹匠町南馬場及び小高村桜馬場に於いてそれぞれ3ヵ月ごとに検分が行われている。
片岡健吉の安政5年(1858)の『文武修行日記』にみる馬術、剱術、居合、体術の総稽古回数は615回であり、奨励法が示す「壱ケ年中 文二百會以上 武三百會以上を勉励シ続テ二ケ年ニ至レハ褒詞ノ沙汰ニ及フ」という条件に武だけであれば十分にかなっている。
- 2014/12/28(日) 21:25:00|
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Ⅶ まとめ
本研究から以下のことがわかった。
1.奨励法との関係
土佐藩では奨励法で文武の稽古回数によって褒賞を与えているが、この制度が年少の片岡健吉の稽古意欲をかきたてていると考えられる。
2.稽古の欠席理由
『稽古玉帳 萬控帳』には稽古の欠席の理由も記されている。
1)馬術
馬術では休業日以外では「雨天により馬場が使えない」「風邪」という理由以外に見出すことはできなかった。
2)剣術
剣術では『稽古玉帳 萬控帳』にはけが以外で稽古を休んだ理由が下記のように記されている。
2/14「風邪に付寺田怠」
3/11「きんじひかえニて怠」
7/14「大風雨に付やすみ」
10/22「風邪に付寺田怠 同二十六日迄風邪ニ付諸稽古怠」
上記からけが以外では風邪、勤務、風雨による理由で稽古を休んだことがわかる。
けがの場合には「イタメル」または「イタミしよ」と記されている。打撲等のひどい場合には稽古を休むか、出席しても防具着用稽古をしなかったものと思われる。けがにより欠席した日および、出席しても「不遣」とある記述を拾うと下記のようになる。記述のあとに欠と記した場合は欠席、出と記したのは出席を表している。
5/1「足イタメル 怠」欠
5/3「怠 あしイタメル」欠
5/6「足イタメ不遣」出
6/6「怠 寺田イタミしよ」欠
7/8「イタミしよニて不遣」出
7/16「手いたみ不遣」出
8/4「足イタメル不遣」出
8/17「足イタメ不遣」出
9/18「イタミしよ不遣」出
8/4「足イタメル不遣」の記述がある日にも居合・体術の稽古はしており、8/17「足イタメ不遣」の記述がある日にも居合の稽古を、9/18「イタミしよ不遣」の記述がある日にも居合・体術の稽古を行っている。
また、7/8「イタミしよニて不遣」、8/4「足イタメル不遣」、8/4「足イタメル不遣」と記している日には馬術の稽古はおこなっている。
形稽古や乗馬には支障はない程度の負傷であっても、防具着用稽古は休んでいたことがわかる。
3.打毬
『文武修行日記』には打毬の記述が4回、下記のように記されている。競技として馬術を楽しんでいることがわかる。
1/22「同日晩打毬二競」
2/4「晩方打毬壱セシ 今日ハ大勝り也」
2/12「同日晩方打毬二競 今日大勝り白方ニ而余程勝越也」
2/29「打毬三セリ 大勝り」
4.剣術稽古
手数(形)の稽古について記述はなされず、興味関心が防具着用稽古にあったか、手数(形)稽古はあまり行われなかったのではないだろうか。
5.剣術導場の有無
雨天により馬術の稽古が行えなかった場合でも剣術の稽古が行われている事から、寺田忠次が屋根つきの導場で大石神影流の指導を行っていたことがわかる。
6.居合の稽古
『稽古玉帳 萬控帳』には一部居合の稽古内容が記されている。片岡健吉が7月23日に入門した後、8月11日には「木刀90本」という記述がある。これは「太刀打」の事と思われ、現在と異なり、早い段階から二人で組になって行う形の稽古をしていたことがわかる。
Ⅷ おわりに
片岡健吉の稽古記録は本研究に用いた安政5年のもののほか下記の冊子が残っている。引き続き分析を行いたい。
安政6年の『安政6年未歳武芸控』『玉帳』
安政7年の『安政7年申年正月吉日 文武玉帳』『文武修行日記』
万延7年の『文武修行日記』
註
1)高知市立自由民権記念館所蔵片岡家文書
2)同上
3)立志社創立百年記念出版委員会編,『立志社創立百年記念出版 片岡健吉日記』、高知市民図書館、1974年4月1日,pp.289-318
4)立志社創立百年記念出版委員会編,『立志社創立百年記念出版 片岡健吉日記』,高知市民図書館、1974年4月1日,pp.3-4
5)高知市立自由民権記念館所蔵片岡家文書
6)平尾道雄著、『平尾道雄選集第4巻 土佐武道と仇討ち』、高知新聞社発行、1980年3月10日、pp.204-213
7)森本邦生、『大石神影流『諸国門人姓名録』について』、日本武道学会第40回大会発表抄録、2007年8月30日
8)平尾道雄著、『平尾道雄選集第4巻 土佐武道と仇討ち』、高知新聞社発行、1980年3月10日、pp.246-251
9)7)に同じ
10)土佐山内家宝物資料館所蔵「御侍中先祖書系図牒」
11)土佐山内家宝物資料館所蔵「御侍中先祖書系図牒」
12)『復刻版 高知藩教育沿革取調』、土佐史談会発行、1986年12月20日
13)高知市立自由民権記念館所蔵細川家文書
- 2014/12/29(月) 21:25:00|
- 武道史
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演武は「必死」でなければなりません。「必死」とは辞書に「失敗すると取り返しがつかないという気持ちで全力を尽くすさま。死に物狂い。一生懸命。」とあります。
何度同じ形の演武をしようが、どんな場で演武をしようが「必死」です。「必死」の覚悟がなければ演武をすべきではありません。今、ここにある自分のすべてを表に表わすのが演武であり、60%でいい、70%でいいというのは論外としても、普段通りにできればよいとか、今までの稽古の中で最も良いものができれば良いというのも当てはまりません。
これまでの稽古よりも良いものができなければならないのが演武の本来の形です。真剣勝負に望むのにこれまで通りで良いとか、90%くらいできれば良いと誰が考えるでしょうか。これまでよりも良いものが出なければ、命はないかもしれないのです。
期日が決まったら、心も体も整えて臨むのが演武です。
私は無雙神傳英信流抜刀兵法の演武では、師の梅本三男先生がご存命中は先生がいつも見ておられたので、演武でこの程度でよいと思ったことは決してありませんでした。先生に教えを受けている以上、先生の恥になるような演武は絶対にできず、稽古以上のものを出さねばなりませんでした。
澁川一流柔術の演武では澁川一流柔術が表に出たころから私が流派代表者でしたが、常に師の畝重實先生の名代と思っていましたので、演武の前後も気を抜けず、厳島神社奉納の前日の懇親会でも気を抜いたことは一度たりともありませんでした。
大石神影流剣術の演武では大石先生が打太刀をされるときには当然のことながら、先生に恥をおかかせするようなことは許されませんし、先生にお仕えする態度にも隙があっては先生の恥になると思って行動してきました。弟子の恥は弟子の恥にとどまらず、師匠の恥になってしまうものです。第7代宗家に「緊張しますか?」と尋ねられたことがありますが、その時にも「先生の恥になってはならないので」とお答えしたことがあります。たしかに先生のご自宅にお伺いしているときから一時も気を抜いていないのですから第7代宗家には緊張していると映ったのかもしれません。
演武とは「必死」であるべきものなのです。
- 2014/12/30(火) 21:25:22|
- 居合・剣術・柔術 総論
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無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術における形・手数の稽古は、形・手数が見事にできることを目的として行うものではありません。
形・手数の稽古は自分のもつ心と体の可能性を開くために稽古し、心も体も自由になることが目的です。したがって、演武会で見栄えを求める必要はありませんし、見事に行おうと考えるものでもないのです。
「見る人が見ればよく稽古していると見える。見る人が見れば見事であると感じられる。」レベルにあればよく、見る事ができない人にも見事に感じてもらおうと考えてしまえば、そこから異なる道に入ってしまいます。可能性を閉じてしまう道に入ってしまいます。
芸能をされる方が一般の方の前で、その技を披露するのと、一般の方が見ておられる環境下で武道の形・手数の演武をするのには大きな違いが存在します。
極論すれば武道の形や手数は見えない人には「面白くない」「たいしたことない」と思われても良いのです。あまりに自然で、あまりに無理無駄のない動きは見えにくいのですから、何をしているかよくわからなくて当然の事なのです。
演武会や奉納演武をかさねていると、ある程度できるようになっている形や手数を、もっと見事に行いたいという心が生まれ、見る人が見れば鼻持ちならない演武になってしまうことがあります。また、見てほしいがために、強く、あるいは速く動きたいという欲が出てきてしまい、間があっていない動きをしていても気づかず、自己満足の演武になってしまいます。
自分が武道の稽古を通じて、どのようになりたいのかしっかりとしたビジョンを持ち、心を新たにして新年を迎えてください。
- 2014/12/31(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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