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無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

大石神影流剣術3 脇中段

 脇中段は中段から所謂八相の構えとなりますが体の中心線と平行に刀は立ちます。刃は相手の方を向きますので左手の親指は柄と平行にはなりませんが親指の腹は柄の右側面にかかります。また左手の小指人差し指の腹も柄の右側面にかかっています。
 脇中段から正面に切るには、一度上段の位置に近いところを通り切り下します。ただし胴を斬るときはそのまま斜めに切ります。

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  1. 2015/09/01(火) 21:25:00|
  2. 剣術 業

大石神影流剣術4 車

車の構えは所謂脇構えです。足幅は広く取り切っ先は体の後方に隠れます。
 中段から車にとるときには大きく右情報を経由して半円を描きながら下りていきます。円の中心は臍下であることは言うまでもありません。
 下りた時には左ひじは突っ張らず肘の重さを体が感じて左肩にはゆとりがあります。また右ひじも同様です。肘の重さを体が感じ右肩にゆとりがあり、臍下からの流れは左右に分かれて刀で一つになります。

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  1. 2015/09/02(水) 21:25:00|
  2. 剣術 業

大石神影流剣術5 下段

下段は中段から切先が下りただけですが、手首を伸ばして切っ先を下してしまえば刀は死にます。臍下中心に角度が変わるだけです。
 下段にとるのは手数の中で変化した場合が多いのですが、下段は下方から相手を攻める構えであり、ただ下におろしただけで、攻めがなければすでに切られています。

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  1. 2015/09/03(木) 21:25:00|
  2. 剣術 業

大石神影流剣術6 阳剱

 大石神影流の攻防の理論は阳剱、阴剱に二本の手数に表わされているといっても過言ではありません。
 阳剱は打太刀の動きに乗って勝つ手数です。打太刀が先に動きおおこしますが、仕太刀は常に上段から攻めていますので仕太刀が動きを起こさざるを得ないということができます。ここで大事なことは動きを見て仕太刀が動くのではなく打太刀の起こりを打つということです。動きを見て動いていれば遅れます。常に攻めていますので起こりに打ち込むことは容易です。
 初心者の方は相手の動きを読む稽古、さらには上段からのまっすぐな打込みを稽古してください。
 人によっては仇たちの木刀にとらわれまっすぐに打込むのではなく打太刀の木刀を排除するように動く方がおられますが、動きを正してください。

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  1. 2015/09/04(金) 21:25:00|
  2. 剣術 業

大石神影流剣術7 阴剱

 阴剱は打太刀に応じて勝つ手数です。ただしただ待っているわけではなく車の構えからはどのようにも切り込むことが可能です。相対したときには五分と五分の状態で打太刀と均衡が取れていなければなりません。
 また、打太刀に応じるといっても相手に合わせる気持ちを持ってはならず、打太刀がどのように動いても仕太刀は相手との調和が保てていなければなりません。

 来則迎 去則送 対則和 五五十 二八十 一九十 以是可和

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  1. 2015/09/05(土) 21:25:00|
  2. 剣術 業

大石神影流剣術8 無二剱

 無二剱は附けの構えを取ります。打太刀は上段にとり、いつでも切り下せる構えです。一方仕太刀は附けですのでいつでも突ける構えです。
 無二剱では附けの構えが確かなものでなければ打太刀に起こりを察せられ小手に斬り込むまでに打込まれています。附けの構えで打太刀が容易に動けないので小手に斬り込みます。
 打太刀がかろうじて小手を防ぐと、打太刀の勢いを自分に取り込んで木刀を廻し打太刀の面に斬り込みます。打太刀の防ぐ勢いを臍下に感じて剣を廻します。「拂われたから急いで自分の姿勢を立て直して自分が打込む」という動きではありません。

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  1. 2015/09/06(日) 21:25:00|
  2. 剣術 業

大石神影流剣術9 二生

 二生は附けの構えを取りますので上段にとった打太刀を攻めます。当然切っ先は生きて相手に指向していなければなりません。どうしようもない打太刀が斬り下すので間を切り下段にとり、打太刀が再度上段に振りかぶる刹那に気先を掛けます。
 下段から気先を掛けることは難しく、心は鎮み、体のどこにも無理無駄があってはならず、切先が生きて働ける状態あり下段から打太刀を浮かせ、気は相手に届いて圧していなければなりません。
 中には相手を脅かすのだと勘違いして体を揺らして相手に迫っていこうとする方がおられますが反対方向の稽古をされています。

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  1. 2015/09/07(月) 21:25:00|
  2. 剣術 業

大石神影流剣術10 稲妻

 稲妻は上段から打太刀を攻めるのみの手数です。簡単なようですができていない方が多いのは簡単だと思い形だけのことをされているためです。留意点を述べておきます。

 上段から切り込むとき動きの最中にも心身に好きなく、どのようにでも変化できること
 確実に内腿に斬り込むこと。脛や膝に斬り込むのではありません。
 内腿に斬りこむときには刃筋がくるわぬように確実に斜めに真っ直ぐに切り込むこと。横殴りになる人もあります。
 三つ続け打ちですが、臍下中心を崩さない事。


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  1. 2015/09/08(火) 21:25:00|
  2. 剣術 業

大石神影流剣術11 太陽剱

 太陽剱は簡単にいうと抜き面です。仕太刀は附けの構えを取りますので、打太刀はどうしようもないため上段より斬り下ろします
 この手数では双方の間合が遠く、打太刀の斬り込みが不十分なケースをよく見ます。仕太刀が後方に下がらなくても切先が触れることがない状態です。主に仕太刀が間に十分に入っていないためにおこります。
 仕太刀が振り上げた太刀は素振りの通りに切っ先は頭上で回転してからまっすぐに下りていきますが、素振りが不十分で動きが身についていない方は大石神影流の振りかぶりができていませんので、しっかり稽古してください。

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  1. 2015/09/09(水) 21:25:00|
  2. 剣術 業

大石神影流剣術12 正當剱

 正當剱では形の上では打太刀が胴を斬って後方にかわされると続けて胴を突きます。この動きがいい加減になる方が多いので気を付けなければなりません。
 あくまでも胴斬りをかわされたので続けて突きます。が、最初から突くつもりで胴を斬りに行く方は間合いも不十分で浅く、斬り下ろした時の態勢もわずかに崩れています。難しいところなので気づかれていないかもしれませんが、そこを工夫しなければ上達はありません。P7240563-1.jpg
  1. 2015/09/10(木) 21:25:00|
  2. 剣術 業

大石神影流剣術13 無意剱

 無意剱は動きの多い手数ですが、仕太刀の初めの無構えが全てです。どのような動きになっても何をしても無構えが全て。心も体も無のまま動きます。
 無になるのは不安であるかもしれませんが、その稽古です。手数を上手に見事にという意識とは対極にあります。

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  1. 2015/09/11(金) 21:25:00|
  2. 剣術 業

大石神影流剣術14 乗身

 乗身は二生と同じく気先を掛けますが仕太刀が附けの構えで、打太刀は脇中段から動きようがないために斬りかかろうとするところに気先を掛けます。途中から気先を掛けるのではなく初めに附けに構えたところからつながっているのですが、ここは稽古で会得してください。

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  1. 2015/09/12(土) 21:25:00|
  2. 剣術 業

大石神影流剣術15 千鳥

 千鳥も仕太刀は附けの構えにとります。打太刀は脇中段にとりますが、なすすべがないため脛に斬り込みます。それお巻き上げて肘通りを軽く斬ります。
 これまで見てきたように大石神影流では附けの構えを多く用います。附けの構えはそのまま突きに入る構えであり、手数では突かなくても突くことを前提とした構えです。臍下から柄を通って切先に至りさらに相手の顔に至るものを体感できなければ形は似ていても異なった構えをしていると思い、工夫を重ねなければなりません。

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  1. 2015/09/13(日) 21:25:00|
  2. 剣術 業

行動学

 武道を学んでいるものが、知ったのちに行動しなければ学んだ意味はありません。
 武道は行動のために学ぶ学問であり、古武道を稽古してもそれが単なる懐古趣味であっては稽古に費やす貴重な時間は無駄になってしまいます。無雙神傳英信流抜刀兵法は不測の事態に対応するための武術であり、澁川一流柔術は条件的に不利な状況を克服するための武術であり、大石神影流剣術はまさしく兵法であり手数の中に兵法のエッセンスが学べるように仕組まれているといっても過言ではありません。
 行動するために学ぶのが武術であって、何もせずにただ願っているのは武術を稽古するものがとるべき道ではありません。

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  1. 2015/09/14(月) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

柔術を稽古する者は

先日の武道学会の大会で、大保木先生からお聞きしたお話です。

柔術を稽古し表芸にする者は、居合・剣術を裏で十分すぎるほどにやりこまなければならない。
剣を知らない者が剣に対することはできないのだから。
居合・剣術を表看板にする者以上に遣えなければ、柔術を表看板にはできないものだ。

納得できるお話でした。 

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  1. 2015/09/15(火) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

剣術・居合を表看板にする者は

先日の武道学会の大会で、大保木先生からお聞きしたお話の続きです。

剣術・居合を表看板にする者は、柔術を稽古しなければならない。
剣がないときに剣に対することはできないのだから。

昨日の柔術のお話よりトーンがやや低いのは刀が腰にある者にとっては、まず刀を使うのが当然のことで、武士が刀なしで、素手で勝負しようと言い出すはずもない事を考えればわかると思います。
これも納得できるお話でした。 

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  1. 2015/09/16(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

木刀は真剣のかわり

 大石神影流剣術で木刀を用いても、無双神伝英信流で木刀をもちいても、さらには澁川一流柔術で木刀を用いても、その木刀はすべて真剣のかわりです。
  したがってどの流派を稽古するにも刀の用い様を知らねばなりません。江戸時代であれば武士は腰に刀があるのでたとえ、木刀で稽古しても真剣は身近なものです。居合においては言うまでもないことです。
 澁川一流柔術の流祖は浪人ですので、腰に刀がありました。
 農民たちは刀に無縁でしたが農作業するには鎌、大鎌、鉈、斧、鋸などの刃物は自由に扱えなければならず、それらの無理無駄ない有効な使い方や間合などは熟知しており、現代人とは全く異なっています。
 本質を求めるためには稽古の裏にあるものを知らねばなりません。

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  1. 2015/09/17(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

聞く1

 人によって言葉の持つ意味は異なります。同じ日本人だから通じるというものではありません。上達の条件が素直であること、というのは素直に聞けるという意味です。
 同じことを指導しても、ある人は上達が早く、ある人は遅々として進まないのは聞けているか、いないかに関わっています。
 聞けない方は我執が強すぎ、自分の思い込みが強く、指導されたことを自分の経験や考え方からしか理解しようとしないため、新たなことは入っていきません。したがって上達は遅遅としたものにしかなりません。所謂指導に従っていない状態ですから当然です。
 聞くことができる人は自分が知らないことを聞こうとするので、真意はどこにあるかを探り、自分の経験や思いから離れ新たなことを次々に吸収します。
 聞くことができる人だけが上達していきます。

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  1. 2015/09/18(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

聞く2

 自分自身を聞くことも大切です。
 無雙神傳英信流抜刀兵法の素抜抜刀術は自分自身の調和、天地との調和を会得しますが、自分自身を聞き、天地の声を聞くことができねば稽古にはならず、ただ自分が我執に基づいて、やりたいようにしているにすぎません。
 また、仮想の敵をイメージしても、それが生きて働くものではなく、仮想の敵の声を聞くことができなければ素抜抜刀術の稽古はマイナスにしかなりません。
 これは大石神影流剣術の素振りにも言えることですし、澁川一流柔術の棒廻しにもいえることです。

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  1. 2015/09/19(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

聞く3

 大石神影流の手数の稽古では仕太刀は自分のもつ能力の全てを用いて打太刀の全てを聞かなければなりません。主に聞くのは打太刀の心と体勢であり、ここでいうのは音として発せられる声ではありません。
 ごく初期の初心者は手順を行うのが精一杯で打太刀を聞くことはできないと思います。しかし、手順を体でおぼえてからは打太刀を聞くように努めなければなりません。
 この時点で間違った方向に行く方は見事な手数を行おうとし始めます。つまり外見を作り、いかにも上手だと見えるように動こうとし始めるのです。こうなり始めるとなかなか元に戻すのは難しく、よほど覚悟をさだめて心で聞く努力をしなければなりません。
 この時、打太刀は同じように仕太刀を聞き、仕太刀に応じた打太刀をつとめなければ仕太刀は上達できません。ただ切り込めばよいわけではないので打太刀には非常に大切な役割があります。

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  1. 2015/09/20(日) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

聞く4

 澁川一流柔術の師 畝重實先生は仰いました。
「柔術の演武では受が上手でなければ形にはならないからのう」と
 これも「聞く」ということなのです。パフォーマンスをしていかにも技をかけられたかのように倒れたり、力が加わってもいないのに勝手に倒れたりすることではありません。
 捕の動きや力の掛かり具合、方向に応じて受けをとることをいわれました。
 澁川一流の形はほとんどが、捕が自分の臍下に受を置きます。勝手に倒れられるとこの位置は狂ってきます。補おうとすると受を傷つけることにもなりかねません。
 また進んで裏の稽古をするときに、捕を聞くことなく作った受けをしていたら裏は全くできなくなります。
 また、捕が受を聞いていなければ当然技はかかりません。

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  1. 2015/09/21(月) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

『気にしない練習』1

 『気にしない練習』という本を教え子からプレゼントされました。 「はじめに」に面白い内容が書かれていたのでご紹介します。
 「私たちは人生の多くの場面で、カメラマンのように一部分だけを切り取って印象づけるクセがついています。…中略…ここで、写すべきでないものを被写体にしてシャッターを切り、心に焼き付けてしまう人がいます。」
 述べてあるのは自分が見た情景ではなく、自分中心の情景です。武道に置き換えてみると、事実は異なっているのに自分が上手にできたとか、満足できた情景を心に焼き付けているのです。
 上達できない人の一因はここにあると考えられます。自分勝手にこれがよいのだと焼き付けていればいくら指導をうけても、その指導は自分の都合がよいように解釈されます。この情景を書き換えることに成功すれば上達は速やかになるかもしれません。

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  1. 2015/09/22(火) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

『気にしない練習』2

 『気にしない練習』という本の一部分です。
  「ちなみに、どんなことにも対応できるのが自然体の人。どんなことにも対応しないのがマイペースの人ではないかと思うのですが、いかがでしょう。」
 上達のための細い道を歩まねばならない形稽古で行き着く二つの方向と一致しています。武道の稽古は自由になるために行います。つまり、「どんなことにも対応できる」境地をめざします。しかし、考え違いをして、見事にとか、上手に思われたいという思いを離れられなければ「どんなことにも対応しないのがマイペースの人」になってしまい、稽古をしたばかりに…という状態になってしまいます。
 教える者がどんなに正しい道を示しても、最終的に道を選んでいるのは自分自身です。

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  1. 2015/09/23(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

『気にしない練習』3

 『気にしない練習』という本の一部分です。
 「新しいことに気づく感性さえあれば、同じことのくり返しのような日常の中に、うわっ今日まで気づかなかったとキラキラ輝く物が見えてきます。」
 まさしく形稽古のことを言っているような言葉です。毎回同じ手順の繰り返しですが、そこに新たな気づきがあるかどうかで、上達の早さが決まってきます。
 「こういうことだったのか。」「こういうことを求められているのか。」という気づきが多ければ多いほど自分は変わっていきます。
 手数・形は流祖や代々の師範が作り上げてきた上達のための教習体系であり、そこには計り知れないほどの経験からの集積が編み込まれています。気づきは読み解いて自分のものとするために不可欠なものです。できるだけ多くのことなね気づいてください。

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  1. 2015/09/24(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

手の内

 刀や六尺棒、半棒、十手、鎖鎌、互棒、小棒、懐剣等々すべて自分の体ではないものを遣うには手の内ができていなければなりません。
 自分の体ではないものを自分と一体としなければならないのですから、その物と接する部分ができていなければ一体とはなれないのです。たとえていうならば肘関節が固まったりグラグラした状態では肘から先は使いものにならないようなものです。
 ところが、多くの方は手順にばかり心がいき、手の内が全くできていないにもかかわらず、斬る、打つ、突く、叩く、抑えるといった動きにばかり意識をもっていきます。結果として強く握り込み、力任せで扱って自己満足したり、扱えずに自分の動きが手にするものに伝わらずふにゃふにゃの動きにしかなりません。
 たいていが、稽古不足であり、工夫の不足なので時間をかけなければならないのですが、手順が大切と考え違いしてしまうと進めるものも進めなくなります。
 何が大切かという思いをかえるところからのみ上達は始まります。

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  1. 2015/09/25(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

本質を読む

 物事には表に現れる事とその裏にある表に現れない本質があります。
 大石神影流の手数や無雙神傳英信流・澁川一流の形は表に現れたものであり、それらはその裏にある本質を学ばせる為に存在しています。
 したがって本質を会得するために稽古するのではなく、手数・形を見事に、上手に行おうとすれば上達はできず、ただの侍パフォーマンスとなります。
 上達の近道は手数・形の奥にある本質を手数・形の稽古を通じて知ろう、身につけようとすることにあります。

 昨今、大きな問題となった法律も表面だけが話題となってしまいましたが、賛成している人も反対している人も、その裏で何が行われようとしているのかをみることができている方はごく僅かであるように思います。あの問題の本質はもっと異なるところにあります。

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  1. 2015/09/26(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

低レベルでの共通化

 無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術の本質は同じものであると述べていますが、理解の浅い方が同じものであると考えると低レベルでの共通化がおこり、すべての流派の習得のレベルが低いままになり、何も学ぶことができなくなります。
 たとえば六尺棒や半棒の手の内ができておらず力任せにしか遣えない方が本質は同じだからと安易に考えて刀を手にすれば、素人が薄っぺらい鉄棒を力任せに振っているようになり、木刀を扱えば、木の棒で叩いているだけの事になります。
 しかし、新たな事を習得しなければならないと真剣に取り組み工夫研究を怠らなければ、刀・木刀を扱う手の内が理解でき、やがては六尺棒・半棒の扱い方にも気付き、全てが向上していきます。
 すべては習う方の心掛け次第です。

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  1. 2015/09/27(日) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

経験

 昨日の話ともつながりますが、人は新たなことを始めるにも無意識のうちに過去の経験を手掛かりとします。その事自体は間違いではないのですが、過去の経験をもとに新たなことと判断して習得しようと努めるか、やったことがあると思って安易に応用しようとするかでは、その上達に大きな違いがあります。
 新たな事と思えず、自分の経験に頼ろうとするのは頑固な人にみられる傾向のようです。
 新たなことと思えずに新たなことを稽古すれば、当然、その道に入るのは困難で、入り口の段階で躓きます。
 新たな事であり初めから習得しなければならないと思える方は入り口では躓きませんので比較的早く上達していくことができます。
 私は無雙神傳英信流の師 梅本三男先生に入門したときには現代剣道を稽古していましたので、入り口の段階で躓きました。刀の振り方と竹刀の振り方が違うことが理解できなかったのです。気づくまで1ヶ月以上はかかったと思います。
 稽古を始めて何年も経ってから昔の経験・癖が出始めることもあります。柔道、空手、剣道、弓道、合気道それぞれの経験・癖が無意識のうちにでてしまうから不思議です。

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  1. 2015/09/28(月) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

幕末の剣術

 スイスのアンベールという人が書いた『絵で見る幕末日本』という題名の本があります。その中に文久三年頃の剣術について書かれた部分がありますので 興味深い部分をご紹介します。
 「私は、しばしば役人たちの剣道試合に出席した。試合を始める前、お互いに相手に向かって丁寧にお辞儀をする。お互いの刀が十字に組み合った場合、守勢の方は敵の打撃を受け止めるために、片膝で立つことが少なくなかった。跳びかかるごとに、芝居のような見得を切り、表情たっぷりなジェスチャーをした。攻撃に際しては、双方から声を掛け合った。審判者が中にはいり、誇張した口調で勝負を判定した。」

 「守勢の方は敵の打撃を受け止めるために、片膝で立つことが少なくなかった。」という部分からは折敷胴がここから展開するのだろうということを思わせます。
 「跳びかかるごとに、芝居のような見得を切り、表情たっぷりなジェスチャーをした」という部分は打突の後に後打ちされないように後方に下がる引き揚げの動作で当時は一般的に行われました。(現代剣道式に前に進んでいくようになったのは大正の頃からで、その頃から、剣道は技法的に大きく変化します)
 「表情たっぷりなジェスチャーをした」という部分は撃剣興行で広まったとされる部分ですが、すでに行われていたのだということがわかります。
 「審判者が中にはいり、誇張した口調で勝負を判定した。」という部分は、この当時、審判が存在したことを示していて、もっと具体的に場所や人名がわかれば武道史研究が進みます。
 講武所でしょうか?

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  1. 2015/09/29(火) 21:25:00|
  2. 武道史

幕末の薙刀道場

 『絵で見る幕末日本』の中に文久三年頃の女性の薙刀道場について書かれていますのでご紹介します。
 「日本の貴婦人に対してさえ、武道の教習所が存在している。彼女らの武器は、ポーランドの鎌にちょっと似たところのある湾曲した槍(薙刀)である。彼女らは、それを刃の方を下にして持ち、一定の法則に従って扱うのだが、ポーズを取った身振りと調子を合わせた動きは、立派なバレエの主題になりそうである。半開きになっていた門の隙間からこっそり覗いていたが、この均整のとれた見物を長く観賞することはできなかった。同行の役人たちがその門を閉め、婦人の武道稽古を第三者が見物することはこの国では許されないと、説明したからである。」

 女性だけに対して薙刀教育が行われたというのは考えられうる事です。これが、町道場であったのか、幕府関係であったのか? 久留米の加藤田も、最幕末には女性に対してのみ薙刀を教授していたように思います。
 「一定の法則に従って扱うのだが、ポーズを取った身振りと調子を合わせた動きは、立派なバレエの主題になりそうである」
 この部分は集団教授か行われていた事を意味するのでしょうか、それともたんに形稽古を言っているのでしょうか。集団教授法であれは歴史的に面白い事です。
 女性の稽古は見物禁止というのも面白いところです。

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  1. 2015/09/30(水) 21:25:00|
  2. 武道史

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貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)

Author:貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)
無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術 貫汪館の道標へようこそ!
ご質問のある方は記事へのコメントではアドレスが記されてないため返信ができないので貫汪館ホームページに記載してあるメールアドレスからご連絡ください。よろしくお願いします。

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