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無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

作らない

 無双神伝英信流抜刀兵法を稽古される方の中にも渋川一流柔術を稽古される方の中にも、求め方を間違われる人がおられます。指導者の話を聞いていないといえばそれまでなのですが、先入観が強く、聞く耳持たぬというのが真実に近いだろうと思います。
 初心者の方に起こりやすい間違いが形を(外形を)作るという事です。稽古が進んだ者の動きは無理無駄が無く動きそのものが合目的的であるために調和がとれ、美しくも見えます。それは戦闘機が破壊を目的としながらも目的に添って形作られた結果美しい形となったことにたとえる事も出来ると思います。双方とも、美しさを求めてそうなったのではなく、武術は目的に合うように動いた結果調和がとれ美しく見えるようになり、戦闘機は戦闘で勝利するという目的に限りなく近付くように設計された結果美しくなったのです。戦闘機に無理無駄が多く、戦えないようなものであれば美しさは感じられないものになるでしょう。
 ところが、外見を優先して考える方が中にはおられるのです。ひたすら外見を求めるために一見似てはいても、見えるものからすれば物真似に過ぎず、技も効果的ではない。このような状態を好まれ満足されているのです。思いが変わらなければ進歩は有りません。
 行く道は自ら正さねばなりません。

 8月2日(日)9:30~15:30、久留米市荘島体育館剣道場において無双神伝英信流抜刀兵法の稽古会を行います。興味のある方は久留米道場の《稽古日時・場所》に記してある連絡先からご連絡ください。

 無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場の8月の稽古は毎週水曜日 荘島体育館剣道場 19時~20時45分です。ただし、8月5日は、筑後川花火大会で体育館付近の交通規制があるため稽古はお休みです。興味のある方は 無雙神傳英信流抜刀兵法 久留米道場の《稽古日時・場所》に記してある連絡先からご連絡ください。
 無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場のホームページ(←クリックしてください)です。
  1. 2009/08/01(土) 21:35:10|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

太刀打の効果

 素抜き抜刀術しか稽古したことがない方に太刀打をお教えすると、居合をより深く理解されるようになる事がいくつかあります。
 一つは、タメを作っていては間に合わない事。今までためを作って斬り込み、自分自身で感じる筋肉の緊張を力強さと教えられてきた方には理解し易いのですが、敵は自分が斬り込むのを待ってはくれません。いちいちタメを作って斬り込もうとすれば間に合わず、斬られてしまうということが理解していただけます。
 二つ目は足腰を固めていては斬られてしまうという事、陰陽進退や流刀、虎一足等の動きを考えていただくと理解し易いのですが、これらの形では初動では相手は倒れていません。したがって次の動きは初動から途切れることなくすらすらと行われる必要があります。太刀打では一撃で相手を倒すという動きは少なくいちいち体を固めていては次の動きに間に合わないという事が実感していただけると思います。
 三つ目には構えては隙が出来るという事。抜付けの際、柄手を掛けて一度構えてから抜き始める方がおられます。しかし一本目、二本目などでまた、心妙剱などで、あいての構えているのを見ると、如何に隙ができるかということが夜よく理解できます。たとえ々位置に手があったとしても、構えてしまえば体に凝り固まりが出来、隙となる部分がはっきりと見て取られるのです。
 四つ目には正対を続ける事に意味は無い事。現代剣道を経験した方に起こりがちなのですが、どうしても相手に体を正対させなければならないと思い込んでいる方がおられます。。それが正しいと教え込まれるのですから無理はありませんが、竹刀基準ではなく刀基準の動きではむしろ正対する事が少ないのです。太刀打では現代剣道のように上から下に切り下ろす当方のみが存在するわけではありません。したがって、正対を続ける事が絶対正しいというわけではないという事が理解され、抜付けにおいて正対、斬撃において正対という無理な動きに気づく事が出来ます。
 太刀打にはその他、色々と人によって居合の動きを向上させるヒントがあるようですが、それぞれ、形を通じて自分なりに会得してください。

 無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場の8月の稽古は毎週水曜日 荘島体育館剣道場 19時~20時45分です。ただし、8月5日は、筑後川花火大会で体育館付近の交通規制があるため稽古はお休みです。興味のある方は 無雙神傳英信流抜刀兵法 久留米道場の《稽古日時・場所》に記してある連絡先からご連絡ください。
 無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場のホームページ(←クリックしてください)です。
  1. 2009/08/02(日) 21:31:55|
  2. 居合 業

久留米での稽古

 昨日、8月2日(日)、久留米で稽古を行いました。土曜日の午後の柔術の稽古の後、初めてETCをつけたZRX1200Sに乗っていきました。、久々の高速道路の長距離走行ですが、やはり車より疲れが少なくてすみました。高速道路は途中、三丘の宍戸司箭社の側を通り、来嶋又兵衛の道場跡の側を通り、笹尾道場から遠くないところを通って走るのですが、車では感じられない、それぞれの地の気を体で感じる事が出来ます。車よりも気疲れしないというところでしょうか。
 さて久留米での稽古ですが、いくつかの指導を行いました。師範代は抜付けから斬撃に至る間が僅かに早いためにかえって斬撃が遅くなっていました。抜きつけたあと斬撃に移るタイミングは体を開き終わった瞬間です。それよりも早くなると、振りかぶりが手わざになってしまう可能性があります。また、遅すぎると刀の重さがもろに右腕のかかってしまうので支える事は困難になります。昨日の稽古で、会得できたと思います。また抜打ちの動きが「ゆっくり速い」理についても体でよく会得しておられました。今までに無い速さが生まれていました。太刀打、詰合、大小詰などの稽古は私が行く時にしか稽古できませんが、今後は行った時には必ず稽古をしようと思っています。
 九州支部長は前回の稽古よりも動きがかなり良くなっていました。思いが変われば動きはかわります。焦りが生じているときには動きにも崩れが生じます。引き続き稽古を重ねてください。
 初心者の方も稽古を重ねておられましたが、やや手順にこだわっているような感じを受けました。外形は自然にできるものであって作るものではありません。抜付けも速くしようと思って速くしているものではありません。斬撃も振ろうとして降るわけではありませんし、振りかぶろうとして振りかぶるものでもありません。何かをしようとして動けば動くほど、その動きは駄目になります。再度以下の文をよく考えてください。
「勝負のわかるるきわぎわ。刀の扱ひおさめざまなどのことわざを初め習はす教へにして勝まけに 拘りたることはなきに。自らのことはこもるなれば常にこの習はしを重ねて手にならしそむる時は筋になれ骨になれ かたちに染み心に気入りて刀も業も我がものとなりて、我も知らず人も知らず心おさまりて静にして心気かたちに現 れ、ゆたかにして物よくととなふなれば、思ひよらざる変に応ずることの自ら備りて妙なる靈しきことをなし得るな り。」
 「勝まけに 拘りたることはなきに」、「我も知らず人も知らず」がポイントです。動きの調和が取れるようになった結果として全てが始まるのであって、速く速くと思って抜付け、速く速くと思って振りかぶり、振ろう振ろうとして血振いをし、納めよう納めようとして納刀するような動きは居合の稽古の対極にあり上達せざる方法だという事を自分自身によくよく言い聞かせねばなりません。
 その他、昨日ご指導した事は各人よく工夫し、次の稽古に備えてください。

 8月8日(土)18:30~20:30、久留米市武道館小道場において無双神伝英信流抜刀兵法の稽古会を行います。興味のある方は久留米道場の《稽古日時・場所》に記してある連絡先からご連絡ください。

 無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場の8月の稽古は毎週水曜日 荘島体育館剣道場 19時~20時45分です。ただし、8月5日は、筑後川花火大会で体育館付近の交通規制があるため稽古はお休みです。興味のある方は 無雙神傳英信流抜刀兵法 久留米道場の《稽古日時・場所》に記してある連絡先からご連絡ください。
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  1. 2009/08/03(月) 21:35:39|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

アーティスト

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 今日、出張の帰りにアーバンビューグランドタワー ギャラリーGに絵を見に行ってきました。日本武道館でお世話になっている先生の同僚の方の娘さんの石塚桜子さんと、もう一人の方の絵、そして時間が合えば曲が有るという事ですが、私は時間的なこともあって、絵だけを見に行ってきました。
 貫汪館で稽古されている方にはご案内をお渡ししたと思いますが、今月4日から6日(木)の16;00まで中区上八町掘のアーバンビューグランドタワー ギャラリーGで展示されています。個展のたいとるはNO MORE WARです。作品数は少ないのですが、絵にはさりげなく存在感があり、静かに訴えてくるものがあります。お時間がある方は是非、足を運んでください。
 ところで、アーティストという言葉ですが、本来、武術を行うものはアーティストと同じ感覚で無ければなりません。(art)は芸術という意味ですが、技術という意味もあります。英語では(art)には両方の意味があります。日本でも武術のことを芸術といったりし、武術家のことを武芸者といわずたんに芸者といったこともあります。
 武術、武道というと、とかく荒々しいイメージをもたれる場合もあります。命に関わる事を稽古するのですからそのようなイメージが生まれるのも仕方ない事かもしれません。しかし、武術にはいわゆる芸術家と同じような繊細な感覚に基づいた業が無ければなりません。それは筋力トレーニングや瞬発力といった現代的なスポーツの感覚とは異なるものです。また現代武道に良く見られるように、円陣になて指導者の指導に全員で大きな声を張り上げて「ハイッ」と答えるような姿勢態度とも異なっています。
 貫汪館で稽古される方は自分が稽古している術がどういうものであるのかを、よくよく頭において稽古してください。

 久留米道場の稽古記録が更新されています。お読みください。

 無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場の8月の稽古は毎週水曜日 荘島体育館剣道場 19時~20時45分です。ただし、8月5日は、筑後川花火大会で体育館付近の交通規制があるため稽古はお休みです。興味のある方は 無雙神傳英信流抜刀兵法 久留米道場の《稽古日時・場所》に記してある連絡先からご連絡ください。
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  1. 2009/08/04(火) 18:23:45|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

柔術にとって剣の修得は不可欠

 渋川一流柔術の形の体系から、澁川一流が最終的には素手で、刀に対応できる技術を身につけるように仕組まれているのは明らかです。「鯉口」はすれ違いざまにふいに抜付けてこようとする敵を制する形ですし、「居合」は抜いて斬りかかって来る敵を制する形でいずれも刀を相手にしています。
 「敵を知り己を知らば・・・」という言葉がありますがまさしく、刀を知ることなしに刀を遣う敵を制そうとすることは愚かな事です。形であるがゆえに敵は決まったように仕掛けてきますが、実際は形とは異なり、敵はどのようにでも自分に斬りかかって来ることが出来ます。
 したがって、剣を知らなければどのように斬りにいけるのかすら知る事はありません。形以外の状況に敵が変化する事すら全く予知できないのです。
 さらには自分より下位の物を導く時に、「捕」がどう動いたら刀を遣う者の動きに隙ができるのか、隙に入っていけるのか、それすら知ることが出来ません。また6尺棒の稽古をつける際に自分が刀を持ってみても、棒がどのようは状態であれば、棒の側に隙が出来、棒がどのように動けば刀に隙ができるのかを指導する事も出来ません。
 渋川一流柔術を稽古される方は、それぞれに剣の工夫は怠らないようにしてください。


 久留米道場の稽古記録が更新されています。お読みください。

 無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場の8月の稽古は毎週水曜日 荘島体育館剣道場 19時~20時45分です。ただし、8月5日は、筑後川花火大会で体育館付近の交通規制があるため稽古はお休みです。興味のある方は 無雙神傳英信流抜刀兵法 久留米道場の《稽古日時・場所》に記してある連絡先からご連絡ください。
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  1. 2009/08/05(水) 21:35:07|
  2. 柔術 総論

居合とは心をしつめ指刀抜れはやかて勝を取なり

 渋川一流柔術では流祖 首藤鞍之進が不立文字の人であったため全ては形の中に秘せられ、口伝とともに伝えられますが、無雙神傳英信流抜刀兵法にあっては『居合歌之巻』や『居合心持引歌』のように和歌によって心法、技法を伝えるものおあります。今日から少しこの道歌を取り上げてみます。

  居合とは心をしつめ指刀抜れはやかて勝を取なり

 『居合歌之巻』のはじめに出てくる歌です。
 座っている時こそ、いかにも心が静まっているような表情をし、体を微動だにさせていない人は多く居ます。・・・・・実はこの時点で失格です。それは作っているのであって、絶対に静まっている状態ではないのです。初心者のうちから、また随分稽古の進んだ人においても体も心も静まるという事は容易ではなく、それが嫌だからと言って静まったように見せるのは絶対にやめなければなりません。稽古の結果、自然と静まるのを待たなければなりません。
 さて稽古を積んで座っている時には何とか心も体も静まるようになった人でも、動き出すと、静まった状態はどこへやら、急に波立ち騒ぎ始める方も多くおられます。これは「抜きつけてやろう。」「相手を倒そう。」「こめかみに抜付けるために、しっかり狙おう。」などという邪念が起こすものです。
 かって、お話したことがあると思いますが、無双神伝英信流抜刀兵法の師 梅本三男貫正先生のもとに新興宗教の教祖様が稽古に来られている時に「森本さんはどのような気持ちで斬撃をしておられますか。」と訪ねられた時、「斬ろうとして斬っています。」と答えた事があります。教祖様は「それではなりません。先生には何の思いもありません。無念夢想ですよ。」と話されました。師にその話をして師のお考えを伺い、その後私もそのことについては随分工夫しました。
 これは渋川一流柔術の稽古においても同じ事で、渋川一流柔術の師 畝重實嗣昭先生も形の稽古において何の邪念も持っておられず、無念夢想でした。
 工夫しなければならぬことです。


 8月10日から15日まで稽古はお休みです。

 無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場の8月の稽古は毎週水曜日 荘島体育館剣道場 19時~20時45分です。ただし、8月5日は、筑後川花火大会で体育館付近の交通規制があるため稽古はお休みです。興味のある方は 無雙神傳英信流抜刀兵法 久留米道場の《稽古日時・場所》に記してある連絡先からご連絡ください。
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  1. 2009/08/06(木) 21:30:05|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

身の曲尺の位を深く習ふべし留めねど留る事そふしぎや

 身の曲尺の位を深く習ふべし留めねど留る事そふしぎや

 よくお話することですが、この歌についてもいまだ間違いをおかされる方がおられますので記しておきます。刀の運行の最終地点で刀がとまるのは腕力を使うわけではないと何度も述べてきました。つまり、手の内をしめて刀を止めるなどということは一切不要で、体の遣方さえ体得していれば刀は自然にとまります。
 以前の同門の方には稽古をすれば前腕がパンパンに膨れるのが当たり前で、そうならないのは稽古が足りないなどと豪語される方もおられましたが、そうなるのは腕力で振り、腕力でとめている尚古です。それは業でもなんでもありません。
 現代剣道を経験されている方に起こり易い事なのですが、素振り用の木刀で素振りが連続して何千回できるようになったとか、左片手で何回できるようになったとか、いわゆる握力の世界とは居合は全く無縁のものなのです。
 師の掌は柔らかなもので、女性のような掌でした。握り締める事が無いからです。
 渋川一流柔術の稽古もまたしかりです。時に、自分が用いた肩から先の力によって、逆に自分の姿勢を崩している人を見ますが、このようになったときには絶対に自分の動きを反省しなければなりません。相手が倒れようがどうしようが、実際であれば必ず、技は返されます。柔術には投げて一本という考えはありません。畝先生の掌は技を掛けていただく時にも柔らかでした。
 また体を知ることにより先に仕掛けてきた敵の動きを制する事も可能になります。体の遣いようは知らずにはすみません。
 工夫してください。

 8月10日から15日まで稽古はお休みです。

 無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場の8月の稽古は毎週水曜日 荘島体育館剣道場 19時~20時45分です。ただし、8月5日は、筑後川花火大会で体育館付近の交通規制があるため稽古はお休みです。興味のある方は 無雙神傳英信流抜刀兵法 久留米道場の《稽古日時・場所》に記してある連絡先からご連絡ください。
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  1. 2009/08/07(金) 21:21:42|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

寒き夜に霜を聞べき心こそ敵にあひての勝を取なり

 寒き夜に霜を聞べき心こそ敵にあひての勝を取なり

 この歌は「居合とは心をしつめ指刀抜れはやかて勝を取なり」と同じような心法を伝えていますが、同じような自分の心の状態を教えているものの、敵を知るという面からの心のありようと解釈してください。自分の心がしずまらなければ当然の事ながら敵も見えてくることはありません。自分の目が曇っているからです。敵が見えていなければ致命的です。敵は自分の動きを待ってくれることは無いのですから。
 そこで「霜を聞べき心」と心の繊細さを説いています。なかには気で相手を圧して敵を動けないようにして斬るといった間違った考えをもった同門もおられましたが、この歌はそのような無意味な事を教えては居ません。
 私が針仕事が修行に役立つと感じたのは同じような繊細さを要求されるからです。布地の状態にお構いなしに、ただ針を運べばそれだけのものにしか仕上がりません。下手ながらもなんとか作品にするためには繊細さが不可欠なのです。
 柔術の稽古をされる方の中にも「おりゃ」とばかりに技を掛ける方がおられます。この歌をよく自分のものとしてください。

 8月10日から15日まで稽古はお休みです。

 無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場の8月の稽古は毎週水曜日 荘島体育館剣道場 19時~20時45分です。ただし、8月5日は、筑後川花火大会で体育館付近の交通規制があるため稽古はお休みです。興味のある方は 無雙神傳英信流抜刀兵法 久留米道場の《稽古日時・場所》に記してある連絡先からご連絡ください。
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  1. 2009/08/08(土) 21:31:46|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

岩波(久留米での稽)

 昨日の夜、久留米で稽古を行いました。
 水曜、木曜、金曜と高知で、資料の記録を行い、水曜の夜と木曜の夜は仁淀川の河川敷で車中泊、二日間とも雨で、夜中の3時頃に移動を余儀なくされました。特に木曜の夜は、河川敷でサイレンが鳴り始め、役所の車両が、「上流のダムが放流するので、警戒してください。」と拡声器による放送で警告までしてくれました。実際は水位はそれほど上がらなかったのですが・・・。 高知に行く時はバイクでも車でもいつも決まって仁淀川の河川敷です。金曜日の夜帰ってきて仮眠し、土曜は朝5時過ぎにバイクで九州まで。午前中は師に教えを受け、午後は久留米市の図書館で、加藤田関係の資料を読みました。そこからの稽古でしたが、稽古中は疲れはでないどころか、刀があるおかげで、体はより楽に動きます。しかし流石に稽古後に広島に帰る時には睡眠不足でフラフラでした。
 さて久留米での稽古についてですが、始めは全員で斬撃の後、大森流を通し、次に英信流表で初心者の形にお教えしている横雲から山下風まで通した後、新に岩波を稽古しました。
 岩波は始めに体を前に掛けた後は体が緩み後半身が後方に広がるだけです。自分で刀を抜こうとはしません。その上体はあたかも床の上においた「スライム」が広がっていくようなもので、どこにも力みは入りません。力みが入った時点で、自分で抜こうとした時点で、動きは滞り凝り固まりが生じて抜けなくなってしまいます。・・・ここで抜けなくなるというのは居合の抜きではないということです。
 したがって緩んでいくだけであるがゆえに右足の腿は、前に体を掛けた状態の床と平行以上に立つ事はありません。立つという事は自分の我で抜き放しているということになります。ここを間違えていては進歩する事はありませんので、疎かには出来ません。
 後の突く動作は手に力が入ることが無いのはお教えしたとおりです。体の下部を使います。とはいっても体は絶対に固める事はありませんので、誤解されませんように。
 相手を押し倒す時にはからだの中心軸が向きを変えるだけで、体の中心と切先までが一体になっていれば相手は倒れます。経験していただいたとおりで、肩や腕は動かしません。肩や腕を動かすがゆえに弱くなってしまいます。絶対にやったという実感を求めてはいけません。「体の中心と切先までが一体」という稽古はしなければできません。ただし固めるわけでは合いません。
 次の斬撃までの動きは、刀を広報に返す動作が行われてさえ入れば体が自動的に動きますので、何もする必要はありません。刀が体を動かせます。「自分が」という意識が全てを狂わせますので心してください。
 「思いが変わらねば業はかわらぬ。」という言葉は無双神伝英信流抜刀兵法の師 梅本貫正先生がよく言われていたことですが、実際は「自分が・・・」という思いの方が多くおられました。「自分が・・・」という思いは「無念無想」とは対極にあります。稽古される方は「自分が・・・」という思いを捨て去らなければ上達はありません。

 8月8日の久留米道場の稽古記録が更新されています。お読みください。

 8月10日から15日まで広島での稽古はお休みです。久留米では稽古があります。

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  1. 2009/08/09(日) 21:27:21|
  2. 居合 業

流派がかわれば

 広島の道場がお休みの間に、すこし居合の歌から離れた事を記してみます。
 貫汪館で稽古される方は無雙神傳英信流抜刀兵法と渋川一流柔術の二つの流派を知る事が出来ますので、狭い考え方にとらわれる事は無いと思います。
 無雙神傳英信流抜刀兵法の師 梅本三男貫正先生の門下にはいろいろな方がおられましたが、自分の流派以外のやりかたは認めないという偏狭な考えをもった方も多くおられました。
 曰く、「あの振り方では脇が締まっていない」「「あの振り方では斬れない」「あれでは力がこもっていない」などなど。
 流派によって遣いようがことなるのは当たり前で、それ故にこそ、かっては数多くの流派が存在したのです。流派は違うけれども遣い様がみな一様であれば流派が存在する必要はないのです。かっては数多くの流派があり、その中から自分にあった流派を選び許しを得て入門し稽古しました。
 先日、ある流派の棒術と小太刀の御指導を受けました。棒術は澁川一流柔術にも有りますし、小太刀は武術の小太刀こそ習った事はありませんが、以前は旧軍人の方に短剣術をならい銃剣ともよく試合をしました。しかし棒術も、小太刀も今まで習ったものとはその遣い様は全く異なるのです。
 しかし、それでも、その遣い様で十分に理にかなっている。流派とはそのようなものです。
 他流派を拝見する時には、自分の価値観だけで判断するような事が無いよう気をつけなければなりません。 

 8月10日から15日まで広島での稽古はお休みです。久留米では稽古があります。

 無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場の8月の稽古は毎週水曜日 荘島体育館剣道場 19時~20時45分です。興味のある方は 無雙神傳英信流抜刀兵法 久留米道場の《稽古日時・場所》に記してある連絡先からご連絡ください。
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  1. 2009/08/10(月) 21:35:19|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

一芸に専念する

 武術の稽古において若年から一芸に専念するという事は良しとはされていませんでした。
 今の時代は子供の教育をするのに「あれやこれやとするものではない。」っと言う事が多いようですが、江戸時代にあっては「あれやこれやと文武を身につけねばならない」ものでした。
 細川義昌の父、嶋村義郷の慶応4年の日記にこのような記述があります。二月に居合取立役に任命され、それについて迷惑と上役の小頭に言った後の四月の記述です。
 「善馬居合取立役御免之切紙到来ニ得安心 今諸芸執行之真衆中成に只一術被閉籠内ニ迷惑之所是より心ニ任せ執行出来也」
 つまり細川義昌が居合取立役に任じられた事は、様々な修行をしなければならない時期にあって一芸に閉じ込められる事になり迷惑であったが、お役御免となり安心したということです。このときすでに細川義昌は無雙神傳英信流抜刀兵法の免許皆傳になっていましたが、他の武術は修行中でした。
 しかし、慶應四年正月には鳥羽伏見の戦いが始まっており、細川義昌は高松へと出兵を余儀なくされています。
 同じような記録が柳河藩の立花織衛家文書にも残っています。居合の稽古だけでなく他の武術の稽古にも出席するようにと促す史料です。
 武士は何でも使えなければ戦場では役に立ちませんし、また一通りの事を納めなければ一芸にも秀でる事は無かったでしょう。 

 8月10日から15日まで広島での稽古はお休みです。久留米では稽古があります。

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  1. 2009/08/11(火) 21:10:37|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

礼節

 辞書には礼とは敬うこと。尊敬することとあり、礼節とは社会生活の秩序を保つために必要とされる行動・作法。礼儀とあります。 武術を稽古する者、礼節をわきまえていなければ、ただ暴力を身につけているに過ぎなくなります。
 貫汪館ではそれほど、厳しい事を求めず、自分自身で考えていただくようににしていますが、稽古を始めたいと言って来られる方を見極めるのに、その方の態度は見させていただいています。社会人にになっても最低限の礼節を身につけておられない方は稽古されても上達は見込めず、その人にとっても時間の無駄になってしまうからです。
 たとえば、何の連絡も無くふらっと来て自己紹介も無く見学しようとする方。電話をされても自分の名前も名乗らず、用件を言う方。見学に来ても、いきなりあぐらをかきくつろいでいる方。甚だしきはあくびを何度もして柱にもたれかかって見ている方。この0ような方は稽古をされても上達は見込めません。
 逆に電話を掛けてこられても、丁寧に自己紹介をされて、こちらの都合を聞き、見学の許可を求められる方。また、正座は苦手であろうと思うのに、一生懸命正座をして見学をされ、姿勢を崩さない努力をされる方、このような方は稽古は始めていなくてもすでに修行に入っている状態の方です。
 先日、夜、10:20過ぎて、名前のみを名乗り、いきなり澁川一流の稽古状態や形の数などを聞き始めた人が居ました。どういう方かお訪ねしても、古武道を何十年もやっているものだと答えるだけで、その他の事は一切話しません、再度お尋ねしても、答える事もなく、こちらが電話でお答えできるような内容でもない流派のことに関してこまごまと聞こうとするので、時間も時間ですので、「そのようなお話は電話でできるものではありません。」とおj断わりすると、散々悪態をついていました。声からすると50歳を随分越えているような方でしたが、このような常識を外れた方も世間にはおられるようです。
 貫汪館で稽古される方は「武」とは簡単に「暴」になりうるものだと自覚して稽古を重ねなければなりません。 


 8月10日から15日まで稽古はお休みです。

 無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場の8月の稽古は毎週水曜日 荘島体育館剣道場 19時~20時45分です。興味のある方は 無雙神傳英信流抜刀兵法 久留米道場の《稽古日時・場所》に記してある連絡先からご連絡ください。
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  1. 2009/08/12(水) 21:28:18|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

上達した人

 無双神伝英信流と渋川一流をお教えしてきて上達してきた人にはいくつかの共通点があるように思います。
 一つは以前も述べましたように「すなおさ」です。教えられた事を何とか身につけようと私見を交えずこつこつと素直に稽古する事。まれに上達しない人の中には教えられたとおりにやっていると思っている方もいます。本当にそうですしょうか。自分の先入観、価値観でかってに解釈してはいないでしょうか。
 次に努力を重ねる事、上達した人は必ず目に見えないところで努力を重ねています。稽古日で無い日に自主的に稽古をし、日常生活でも努力を重ねています。いくら素直であっても、努力を重ねない人は修得もできません。自分のほうが先に稽古を始めたのにと思っている方もおられるかもしれませんが、本当に自分のほうが真面目に稽古した時間は長いのでしょうか。早く始めたから稽古した量画多いと思うのは間違いです。
 あきらめない事。どうせ出来ないのだからと思う人は絶対にできるようにはなりません。子供でもできるようになるという思いを持った子が上達しています。なにが何でもものにしようとする方には業のほうがよってきます。
 自ら学び取ろうとする事。私や兄弟子が業を行っているとき、自分の至らぬところをどのように動いているのだろうかと解明しようとする態度のある人は必ず上達しています。ただ教えられる事を待っている方はそれなりでしかありません。
 道場の皆さんのために何かを手伝おうという意志のあること。上達している人はみな、自分が道場のために、他の人のために何かできるだろうかと積極的に動いています。道場の稽古日の予約や、名簿作り、講習会や演武会などでの運営の手伝い等々、わからないときには兄弟子に聞いて動いているような方は上達されています。何もせず、常に受身である方はそれなりでしかありません。
 思い浮かぶままに上達している人の事を記してみました。参考にして下さい。
 

 8月10日から15日まで稽古はお休みです。

 無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場の8月の稽古は毎週水曜日 荘島体育館剣道場 19時~20時45分です。ただし、8月5日は、筑後川花火大会で体育館付近の交通規制があるため稽古はお休みです。興味のある方は 無雙神傳英信流抜刀兵法 久留米道場の《稽古日時・場所》に記してある連絡先からご連絡ください。
 無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場のホームページ(←クリックしてください)です。
  1. 2009/08/13(木) 21:35:13|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

思い込みを止めた時

 居合や柔術の稽古を始められる方はそれぞれに自分なりの思い込みをもって稽古を始められます。柔術であれば、相手をバシッと投げつけたり、ギューと抑えつけたり、 居合であれば最近のテレビの影響もあって力一杯、一刀両断したり、抜付けたりという思い込みです。
 ところが実際に稽古を始めてみると、柔術では無駄な力をとれといわれたり、力をいれずに投げるといわれたり、抑えるのに腕力を用いるなといわれたり、居合であれば、刀を握るなといわれたり、斬り下ろす時には肩から先に一切力をいれず、静かにといわれたり、正座をしたら正しい姿勢を作ろうとせずあるがままにしなさいと言われたりします。
 私自身もなかなかそのような思い込みから抜けられず、柔術の稽古でも腕力を用いたり、居合の稽古でも抜こうとして抜いたりしていました。しかし、柔術では師の畝重實嗣昭先生に「もっと力をぬいて」と指導を受けて、思いをかえ、また居合では師の梅本三男貫正先生にマンツーマンで抜付けは腰を浮かさず手も伸ばさない事を教えられた時、始めはそんな事ができるわけが無いという思い込みが残っていたものの、そのような考えを捨て、柔術では全てを臍の下に沈めた時、業が変化し始め、居合では先生の指導のように全ての思い込みを切り捨て腰を浮かさず、手を伸ばさないようにした結果、新たな変化が起こり始めました。
 何事も、今までに得たものを捨てる事は容易な事ではありません。しかし武術においては今までに形作ってしまった思い込みを止めた時、初めて進歩が始まります。

 8月10日から15日まで稽古はお休みです。

 無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場の8月の稽古は毎週水曜日 荘島体育館剣道場 19時~20時45分です。興味のある方は 無雙神傳英信流抜刀兵法 久留米道場の《稽古日時・場所》に記してある連絡先からご連絡ください。
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  1. 2009/08/14(金) 21:26:37|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

おそるべきもの

 武術をしていて最もおそるべきものは「欲」です。人には様々な欲がありますが、今まで私が見てきた中で武術の世界における「欲」は醜いくらいの名誉欲です。歳をとるにつれて、その欲が強くなる人も居ますので自分自身にも起こり得る事として自分自身を戒めなければなりません。
 人が他人に認められたいと思うのは当然の欲求であろうと思います。他人に無視され続けていては社会生活はおくる事が出来ないからです。しかし、武術の世界で見る限りない醜いほどの欲望は容認する事ができないものです。武術は心の修行といいますが、一歩間違えば心の修行どころか、何もしなかったほうが良かったのではないかと思える状況をしばしば目にします。
 その例の一つは「宗家病」。武術の世界では茶道や華道のような町人文化のような家元制度は本来存在しえませんでした。実力の世界であるからです。武術の世界でも流祖以来の家が絶えることなく流派を伝えているところもあります。しかし、そのような流派でも免許皆傳を受けた者は、その家から独立して教授し、免許を発行するという制度が一般的でした。それ故にこそ、多くの藩に一刀流の師範が存在し、また浅山一伝流の師範が存在し、大嶋流の師範が存在しえたのです。それらの師範は流祖の家とは無関係に存在していました。
 しかし、昭和の時代になると流祖の家系でもないのに、免許皆傳の流れの中から宗家を自称するものが出現します。「代々唯授一人であったのだ。」「流派の中では自分だけが唯一絶対の存在なのだ。」と・・・。そして他の免許皆傳の者の存在は認めようとはしません。
 江戸時代にはそのような事は成立しえませんでした。斬られれば終わりであるからです。したがって他の免許皆傳の人物の存在を認めないなどということはありません。
 甚だしきは免許皆傳でもなく、古文書から復元した流派の中から宗家が出現します。あるいは正式な伝授ではなく、形を伝えていただけのところから宗家が出現するのです。
 このようなところから、さらに起こってくるのが歴史の捏造です。宗家でもないのに、宗家と言ってみたら、さらに権威が欲しくなってきます。曰く藩外不出の「御留流」。
 ある流派が、その藩が始まって以来の御留流だということであったのですが、調べるわけでもなく、武道史の研究をしていてわかったところでは、どんなに歴史を遡っても、その流派はその藩に、幕末にしか存在しえず、伝えた人物もその藩の武士の中には名前が無く、同じ苗字すらない。しかし「御留流」という捏造は堂々とまかり通り流派の権威付け、自分の権威付けに用いられています。
 本当に「御留流」が存在しえたのなら、一代限りの採用が多かった足軽には教える事は無く、また他藩に養子に行くかもしれない次男三男には絶対に教える事が出来ません。ましてや他藩に嫁に行く可能性のある女性には教える事など出来ません。
 古武道の世界にだけ、そのような名誉欲に関する事があるのではなく現代武道の世界にも起こります。居合道、剣道、銃剣道・・・。8段が欲しい、範士号が欲しい、そのためには・・・。醜い出来事は嫌というほど見てきました。

 武術・武道の世界は江戸時代のほうがよっぽどまともであったでしょう。ほとんどの流派では20歳代で免許皆傳。それより上の段階はありません。免許を得ても門人を取るも取らぬも本人しだい。免許を得た者は数多く居ます。そこから先の修行は自分しだいで修行が進んでも8段とか範士とかを与えられるわけでもなく、自分自身の為の修行です。
 
 何のために稽古するのか、よくよく心しなければなりません。

 8月10日から15日まで稽古はお休みです。

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  1. 2009/08/15(土) 21:33:41|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

強みにて行当をハ下手と知まりに柳を上手とそ云

 強みにて行当をハ下手と知まりに柳を上手とそ云

 再び暫くの間、居合の歌について記してみます。
 心身一如ですので、今までの心のありようを説いた歌で十分だとは思いますが、体のやわらかさを解いた歌です。
 武術に於ける体のやわらかさとは、いわゆる柔軟性とは異なり、力みが無いという事です。柔術の稽古においても指導者が「固い。」と指摘する時には柔軟性をイメージするのではなく、自分のどこに力みがあるのか意識してください。
 素抜き抜刀術のみを他流派で経験された事がある方は太刀打の稽古をされて、よくご理解いただいていますが、いわゆる一刀両断しようとして足腰を固めて斬るという動きをしようとすれば敵はそこにいないか、すでに自分が斬られています。変化多く、太刀数多き場合には固さは死を意味します。
 また素抜き抜刀術においてさえ後手に廻ってしまった形の時、たとえば「虎一足」や「流刀」等の場合、また「浮雲」や「山下風」などの場合、自分の体を固めていては自由に動く敵には絶対に対応できません。「虎一足」や「流刀」において敵がそこにいるとは限りません。限りなき状況のなかの一つの状況に過ぎないのです。自分自身は如何様に動ける自由な状態に無ければなりません。
 柔術の稽古においては上達すれば二段裏、三段裏の稽古があります。「強み」は絶望を生むだけです。

 
 無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場の8月の稽古は毎週水曜日 荘島体育館剣道場 19時~20時45分です。ただし、興味のある方は 無雙神傳英信流抜刀兵法 久留米道場の《稽古日時・場所》に記してある連絡先からご連絡ください。
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  1. 2009/08/16(日) 21:35:58|
  2. 居合 総論

大事をは皆受取と思ふともみかかさるには得る道はなし

大事をは皆受取と思ふともみかかさるには得る道はなし
ものをよく習おさむと思共心掛すは皆すたるなり

 二首の歌は同じようなことを述べています。思いの浅い人に起こりがちなことですが、習って、すこし稽古したらそれを習得できたという気になって、次の稽古ではもう習ったことを稽古しようとしないどころか、完全に忘れ去り自分の思い通りに稽古しようとされる方もおられました。
 甚だしきは忘れているのだろうと思い再度お教えすると「もう習いました。」という方までいました。忘れているのではなく一度や二度の稽古で習得できたつもりになっているのです。
 このような方は当然のことながら我流に流れるしか道かありません。お教えしている内容は基礎的なことであっても、会得するには努めて行わなければ出来ぬことです。外見が似たらそれでよしと思われる方には無双神伝英信流抜刀兵法の稽古も渋川一流柔術の稽古も向かないのだろうと思います。


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  1. 2009/08/17(月) 21:26:53|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

道を立深く執心する人に大事のこさす大切にせよ

道を立深く執心する人に大事のこさす大切にせよ

 この歌は教えるものの心をといたものです。
以前はどんな方でも稽古したいと来られた方は引き受けていましたが、今はその人に本当に稽古する気があるかどうかをしっかりと確認して稽古を始めるようにしていただいています。
 居合や柔術をはじめる動機は様々ですが、「道を立てる」「深く執心する」ということなしには稽古を続け、会得することは出来ないものだと思います。たとえば、「軽い運動をしたいから」とか、「一歳取ったので武道の中でも簡単に始められそうな居合でもしてみようか」「簡単に身につきそうな護身術でもしてみようか」といった思いの方には貫汪館では稽古は続きませんし、「大事」をお教えしたところで習得する努力はされません。所詮覚悟がその程度だからです。真似をしてできていると錯覚し、道を誤るのが関の山、時間の無駄に過ぎません。
 はじめから「大事」をお教えするのですが、その「大事」が何も分からぬ人には「そのくらいのこと」と思えるようなことですから難しいのです。
 最近では稽古をしたいとこられた方には「私のような若造が師となり、師弟関係の中で稽古が行われますよ。」とお話しますが、いい加減な気持ちの人は、その段階で稽古する気をなくしてしまわれます。師とも思わない人に「大事」をお教えしてもそれを大切なこととは思われないので、それが間違いとは思えません。いい加減な気持ちの方が増えられれば、本当に「道を立深く執心する人」にお教えする時間も少なくなってしまうからです。今は貫汪館には「道を立深く執心する人」がそろっておられます。道場の勢いは人数の多さだけではありません。
 無双神伝英信流抜刀兵法の師 梅本三男貫正先生も渋川一流柔術の師 畝重実嗣昭先生も入門をお願いしたときには私に動機を尋ねられました。
入門後、畝重実嗣昭先生は「弟子となろうとするものの権利は師を選ぶこと。あとは師の教えに従わなければならない。」「師弟とは親子も同然、子の危機に際しては師は命をかけてでもこれを守る。」とお話くださいました。そのお話を梅本三男貫正先生に申し上げたときにも「全く、そのとおり。」と話されました。梅本三男貫正先生には門人が多くあったのですが、晩年には「道を立深く執心する人」にしか教えられなくなりました。
 

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  1. 2009/08/18(火) 21:29:23|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

弱みにて勝を取べき長刀みしかき刀利は薄きなり

弱みにて勝を取べき長刀みしかき刀利は薄きなり

 刀の長さについて述べています。もともと英信流の行われた土佐は「土佐の長刀」と言われるくらい他藩よりも長い刀が用いられていました。もっとも、その長刀ですが第二次長州征伐において長州の側にいた坂本龍馬は「個人と個人の戦いにおいては利のあるものだけれども、銃砲主体の戦争では長州の指揮官には刀を帯びていないものもある。刀を帯びても2尺1,2寸程度の刀が便利だろう。」と記していますから、戊辰戦争のときに土佐藩士がどの程度の刀を用いていたのかは分かりません。
 さて「土佐の長刀」ですが、現在の英信流系統の流派では短い刀が用いられています。短いといっても2尺4寸くらいですが、これでも江戸時代の人との身長差からすると随分短いのです。どのような経緯で短い刀が用いられるようになったのかは不明です。
 たまに長い刀を用いる方も居られますが大切なポイントは「弱みにて勝を取べき」にあります。長く重量のある刀を短い刀と同じように腕力で振ろうとすれば、そこには全く理はありません。どんなに稽古をしたからといって前腕の筋肉が張ってしまうようでは理にかなった動きではないのです。長い刀には短い刀以上に楽に遣える理があります。道場でお教えする内容を完全に体得できるよう工夫してください。
 

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  1. 2009/08/19(水) 21:31:06|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

敵と見す抜ハ目くらの杖打よすまい見付て早く抜くへし

敵と見す抜ハ目くらの杖打よすまい見付て早く抜くへし

 居合の稽古をされる方に起こりがちなのですが、自分の動きにばかり気がいって仮想の敵には全く意識がないということが起こります。それがひどくなって相手を据え物かなにかと勘違いし、一刀両断だのとあらぬ幻想を抱くようになってしまいます。
 相手は生きて動くもの、動かざるものを相手にするのは武術ではありません。このような素抜き抜刀術の稽古を重ねてきた人は稽古が進んで太刀打の稽古となった時にも手順のみ追い掛け、強く打つ事にばかり目が行き、生きた稽古はできません。初めから敵という存在を意識せずに稽古した結果です。
 これとは異なり、左刀、右刀を抜く時敵を見てから抜かねばならないと、始めに首を右にひねったり、左にひねったりした後に動き始める方が、かっての同門の中にもおられました。これは教えの曲解であって、たとえば後方から自転車が接近して、間近でチリンチリンとベルを鳴らしたら、普通の方であれば体が反応して、よけながら自転車を見ます。間近で、警告されているのにまず、見てからよけようとする人は居ません。敵が斬りかかって来ているのを感じ反応しながら、敵を確認しなければなりません。当刀であれば敵を見る事すら出来ません。
 柔術の稽古をされる方にもこのようなことが起こります。常にあいてはいるので、表面的に相手は見てはいても、相手の重心がどこにあるのか、相手の心はどのように変化しているのかを見て取っては居ません。結果として相手の状態にはお構いなしに自分が無理やり、技をかけようとしてしまいます。
 真の意味で敵を見る事がなければ稽古は進みません。


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  1. 2009/08/20(木) 21:34:13|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

下手こそは上手の上の限りなり返々もそしりばしすな

下手こそは上手の上の限りなり返々もそしりばしすな

 貫汪館で稽古される方には、他人を下手とそしるような人はおられません。なぜならば、皆さん自分をよくわかっておられるはずだからです。
 自分をわからず、業が身についてきたかのように錯覚してしまうから「そしる」などという事が生じてきます。
 自分が下手だと自覚できるからこそ、上達があります。下手であるからこそ上達できるといってもいいと思います。少しはできるようになったと錯覚すればそこで、上達はとまります。その段階で外見をつくろいはじめ、すこしでも上手に見られるようにしようとし始めるからです。外見を作り始めたが最後下達し始めます。
 誰が自分を林崎甚助や長野無楽斎と比べる事ができるでしょうか。また誰が自分を首藤蔵之進や難波一甫斎や浅山一傳、渋川伴五郎と比べることができるでしょうか。
 かっての同門の方に、「今の時代はビデオや写真があるので、江戸時代の人よりもよほど業が上である。」と断言した方があるという事ですが、そのようなものに頼らねばならぬほど、見てとる力も衰え、自分自身を感じる力も衰えている事に何故気付かぬのでしょうか。
 また、本当に上手な人ほど、何の苦労も無く、ごく自然に動きますので、素人が見て力強く感じられるようなところは有りません。「そしる」などという行為が、己を知るものから生まれる事はありません。
 

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  1. 2009/08/21(金) 21:24:42|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

師にとわすいかに大事を教へき心をすましねんころにとへ

師にとわすいかに大事を教へき心をすましねんころにとへ

 この歌は読んで、そのままわかるとおりです。わからぬ事があれば師に聞かねば自分勝手な解釈をして誤った方向に進んでしまいます。
 私は高校生の頃から居合の師には何でもお聞きしていました。そして師は何でもお教えしてくださいました。、なかには師でもわからない事もありましたが、そのような時ははっきりとおっしゃいました。私が興味本位でお訪ねしているのではないとわかってくださっていたからです。
 柔術の師もまたしかり。先生が知っておられる言葉でいえる事は全てお話してくださいました。
 そして最もありがたかったのはお二人とも、道を示していただいた事です。まだお二人が到っておられなくてもその先にある道を示してくださいました。今私が稽古を続けていられるのも、またいささかでも前に進んだと感じられるのも、先生方から道を示して頂いていたからです。そうでなければ、私も道に迷っていたかもしれません。
 弟子が本気で稽古に取り組み、迷って聞けば、師は必ずそれに答えます。時には言葉では説明できない、説明してはかえって迷うような事もあります。その時は体で示します。居合の師も柔術の師もよく見せてくださいました。言葉よりも明快な答えであったからです。
  
 久留米道場の8月12日と19日の記録が更新されています。お読みください。

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  1. 2009/08/22(土) 21:26:29|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

風立テ川水サワク心カナ沈テスメル月ハウゴカズ

風立テ川水サワク心カナ沈テスメル月ハウゴカズ

 これは居合の歌ではありませんが、ある剣術流派の歌です。敵が周りで騒いでいる時は打つべき機会ではなく、沈んでうごかない時が打つべき機会であると教えを受けました。
 なるほど、攻撃しようとする敵は一瞬でも沈んだ瞬間(心が)があってのち攻撃してきます。
この歌は剣術のみならず、実生活の中で工夫できる歌ではないかと思います。理解できるよう考えてみてください。

 ところで、細川義昌無雙神傳英信流抜刀兵法の師、下村茂一が修行した剣術の流派ですが、先日の調査で、はっきりとわかりました。土佐で有名な人物の剣術の師と同門でした。さて、何流でしょうか。答えは後日。
 ヒント:はじめは「和」が中心で、様々な武術の種目を含む流派でしたが、江戸時代の終わりになると、剣術を中心として稽古するようになりました。柳生と関係があります。
 
 久留米道場の稽古記録が更新されています。お読みください。

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  1. 2009/08/23(日) 21:30:46|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

世ハ弘し我より外に事なしと思ふは池の蛙なりけり

世ハ弘し我より外に事なしと思ふは池の蛙なりけり

 武術を少しくらい稽古した方が陥り易い過ちです。流派にはそれぞれ個性があります。流派の個性は教習体系の違いであって目指すところはみな同じなのですが、この違いを違いと認識できず、違うものは駄目だと思い込む人もいるのです。
 もちろん、形を中心にして稽古すれば同じ流派の中では同じ教習体系となるのが当然なのですが、何々連盟というものに所属して、流派の教えよりも連盟の基準のほうが優先するようになれば、流派の教えは異なったものになってきますので、このようなものを流派といえるかどうかは別問題です。
 少し話がそれましたが、自分が習っている流派で絶対とされる事は、必ずしも他の流派において絶対とされるわけではないという事は知らなければなりません。故にこそ、流派の存在が有るのですから。
 また、少し遣える様になれば、自分を過信してしまい、他を見下すような傾向が生じる方もおられます。実はそのようになった状態こそ隙が多いものです。もしそのような気持ちが生まれたとしたら、これは危ないと自分自身に気を許してはいけません。自分が知っていることが全てではないのです。
 よくよく心しなければなりません。
 
 久留米道場の稽古記録が更新されています。お読みください。

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  1. 2009/08/24(月) 15:28:41|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

目の前のます毛の秘事を知ぬれは只すみやかの一筋の道

目の前のます毛の秘事を知ぬれは只すみやかの一筋の道

 この歌もまさしく読んで字の如しです。極意は己の内にありとは神示ですが、全ては己の内にすでに備わっています。それを発現させるか発現させえないかが自分自身の稽古であり、外に求めるものではありません。
 このようなことは稽古のときに何度も何度もお話しているのですが、我の強い人は外にある何かを身に付けようとしてもがいています。結局のところ人は自分に備わった以上のものを得る事は出来ませんし、備わっているものこそが最高の極意に当るものです。
 人は生まれながらに天照大神の分御霊を授かっているといったり、人間悉く仏性ありと言っているのも同じような事です。己に向き合おうとせず、他所ばかり向き、外形を作ったり、腕力をつけたり、足腰を固めて自分の腕力を支えようとしたりして自らの調和を自らが壊してしまっています。
 己に向き合う事は己の至らなさ、醜さを知る事になりますが、己自身に向き合うことなくして秘事を知る事はありません。 

 ※ 「ます毛」は「まつ毛」の事です。現在は使われていない(高知県民に聞いてもわかりませんでした)土佐の方言です。

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  1. 2009/08/25(火) 21:23:24|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

樋口真吉 第一回廻国修行日記について ―大石神影流の土佐への伝播―

 8月24日、25日と大阪大学豊中キャンパスにおいて第42回日本武道学会が開催されました。私も出席し、24日に「樋口真吉 第一回廻国修行日記について ―大石神影流の土佐への伝播―」という演題で発表いたしました。発表抄録に載せたものを以下に記載いたします。発表資料については後日配布いたします。
 武道史研究を通じて武道・武術が如何にあるべきかを求めていますが、これだけははっきりといえます。個性を潰すようになって武道はスポーツ化し、武術の特性を失ってしまった。
 江戸時代の武術は流派武術であり、それぞれの流派がそれぞれの個性をもっています。しかし、明治維新以後、大日本武徳会ができ、流派を名乗る事がなく、ただ剣道というようになって、基準に当てはまらないものはだめだという事になってきます。
 柔術しかり講道館柔道というものができ、素手と素手で闘う事を目的とはしていなかった柔術が、そのように強いられるようになり、あたかも、柔術が素手と素手とで正々堂々と戦う目的のものであったかのような錯覚を与え、素手と素手とで争う術としては講道館柔道が優位にあるという印象を与え、やがて稽古体系の一部としてしか乱取を行っていなかった柔術を消滅に追いやっていきます。考えればわかる事ですが、江戸時代の武士が素手と素手で戦っていたのか。
 明治以降個性は潰され、特定の価値観に当てはまらないものは排除されてしまいます。そのような流派の個性を排除する武道に私自身は魅力を感じません。
 樋口真吉の生きる道があったのは一方で否とされる事が一方では是とされる江戸時代の武術の世界があったからです。


樋口真吉 第一回廻国修行日記について ―大石神影流の土佐への伝播―

Ⅰ はじめに
 樋口真吉(1815~1870)は土佐・中村の人で、はじめ父信四郎と同様、無外流剣術と木流槍術を土方家に学んだ。しかし、無外流の稽古方法について父とともに思うところあり、撓の改良、防具の工夫、構え、突き業の工夫をなし他流試合をも行ったが、これは師の土方半三郎の意に反し父子ともに破門となった。
 樋口信四郎は息子真吉の四国・九州への120日間の剣術修行を願い出、許可をえて真吉は廻国修行に出発する。
 本研究では樋口真吉の第一回目の廻国修行日記をもとに真吉が訪ねた諸藩の状況ならびに天保八年(1837)当時の大石家での稽古の状況について明らかにしたい。

Ⅱ 第一回廻国修行日記の内容
(1) 廻国した地域
 樋口真吉は天保八年(1837)9月23日に中村を出発し、宇和島、吉田を経て海を渡り鶴崎、大津、熊本、島原、長崎を経由し、10月25日に柳河へと至る。同月29日から11月27日まで大石進のもとで稽古し、28日に出発。以後、久留米、太宰府、小倉、長府、徳山、岩国、宮島、尾道を経て海路多度津に至り、徳島を経て1月5日に土佐・中村に帰着している。
(2)大石家での稽古
大石家での樋口真吉の稽古の実日数は24日であるがそのうち
剣術のみの稽古日数        11日
槍術のみの稽古日数         2日
剱術と槍術を稽古した日数     10日
手数(形)のみの稽古日数      1日
 上記のように稽古している、手数(形)の稽古は計7日行われている。樋口真吉が入門した当初は剣術のみの稽古が多いが、しばらくすると剣術と槍術の両方を稽古する日が多くなっている。
 
Ⅲ おわりに
 樋口真吉は大石進に入門して28日目に皆伝を受けている。これは真吉が短期間で全てを習得したのではなく、大石進が樋口真吉の廻国修行の事情をくんだと考えるのが妥当であろう。この後も樋口真吉は数回柳河へ赴き大石進のもとで修行をしている。

 
 無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場の8月、9月の稽古は毎週水曜日 荘島体育館剣道場 19時~20時45分です。興味のある方は 無雙神傳英信流抜刀兵法 久留米道場の《稽古日時・場所》に記してある連絡先からご連絡ください。
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  1. 2009/08/26(水) 21:31:48|
  2. 武道史

日本武道学会第42回大会について(1)

 昨日も記しましたように日本武道学会第42回大会が先日行われました。大会ではいつもお世話になっている福島大学の中村先生や南山大学の榎本先生、明治大学の長尾先生、工学院大学の数馬先生といった先生方に色々と教えを受ける事が出来ます。年に一回ですが非常に貴重な時間をすごさせていただく事が出来ました。
 大会の内容について記してみようと思います。
 24日の午後には本部企画として「中学校武道必修化に向けた課題と対策」という題でパネルディスカッションが行われました。そこでは時間の制約や、武道の種目によっては指導者数の問題などが話されていましたが、空手について、フロアーから沖縄の大学の先生が空手は流派武術であるという意見を述べられた時にパネリストの方が各流派で統一すべきとこは用語も含めて統一し・・・という話をされていました。
 私自身はそのような考えにどうしても違和感を抱かずに入られません。
 剣術も江戸時代は流派武術、柔術しかり、薙刀しかり全ての武術はみな個性のある流派武術です。流派武術でなくなり、剣道として無理やり統一しようとされたのは大正のころ、柔道は明治以降に成立した柔術をベースにした競技主体の体育種目。薙刀は終戦までは流派武術です。
 文部科学省のホームページにも「武道は、武技、武術などから発生した我が国固有の文化」とありますが、明治以降の挙国一致、富国強兵の動きの中で形作られたものを「我が国固有の文化」といえるのかどうか、大きな疑問を持たざるを得ません。もしそうだとすれば再び戦技として武道を位置付けるのか。しかしそうでもないようです。では戦後の競技スポーツとしての武道を言っているのか。しかし、それが文化として醸成されているのでしょうか。
 その意味では沖縄の大学の先生が言われた「空手は流派武術である」というのは正論であると思います。
 学校で茶道、華道を教えるようになれば、裏千家も表千家も無く、池坊も小原流も未生流も全て統一した茶道、華道を教えるようになるのでしょうか。


 
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  1. 2009/08/27(木) 21:22:45|
  2. 武道史

日本武道学会第42回大会について(2)―時代考証―

 ある大学院生の発表に軍記物語を用いてその時代の思想を考察するものがありました。
発表の後、大学の先生から質問ではなく、意見が出され、物語が源平の合戦を描いていても、そこにあがかれている思想は源平の合戦当時のものではない。なぜならば、物語自体が後世に書かれた物だから、後世の思想を繁栄している。というようなお話をされました。
 このような事は、私が比較文化を専攻したからか、大学時代には既に聞いており、注意しなければならないと教えられていました。
 貫汪館の皆さんも時代を考える時にはそのような点を考慮しなければなりません。
 また、合戦を描いた絵巻や屏風などですが、たとえ絵の主題が源平や南北朝や応仁のころを描いていても、それが描かれたのがずっと後の時代である場合、軍記物語を参考にして描かれていることも多いので注意しなければなりません。
 武術を行うものが武道史の研究をしたほうが良いのは、自分達がしていることが一体どういうことなのかより、明確になり目標が定まり易いというメリットがあり、また誤った道に進まずにすむということがあります。世の中には常識になりかけているけれども実はそれは大きな間違いということがたくさんあるのです。


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  1. 2009/08/28(金) 21:18:58|
  2. 武道史

日本武道学会第42回大会について(3) ―形―

 先日も述べましたように日本武道学会では中学校の武道の必修化についてパネルディスカッションが行われましたが、剣道であれば稽古道具の問題、柔道であれば畳の問題、薙刀であっても稽古道具の問題が述べられていました。
 唯一空手だけが、体操服でも出来、素手でできると利点を強調されていました。しかし、はたして、剣道、柔道、薙刀であってもそんあに制約があるものなのでしょうか。パネリストも、フロアーで聞いている人も頭の中には競技としての剣道、柔道、薙刀しかないようでした。
 不思議に思ったのは何故、各種目のエッセンスといえる形を指導しようとしないのかという事でした。
 剣道であれば木刀一本で足ります。それも高価な木刀は必要ありません。時間数が10時間と限られるのならなおさら形の稽古がちょうどよく、木刀の持ち方礼法、振り方を教えて7本の形を教えればちょうど良い時間となります。日本人は剣という言葉からイメージし易いのは竹刀ではなく木刀です。どこの観光地に行っても木刀は売っていますが、竹刀は打っていません。竹刀を用いて短時間で競技まで教えることよりも生徒はよほど伝統を感じるはずですし、刀を遣えるようになったと満足するはずです。場所も雨天でなければ運動場で出来ます。
 薙刀しかりです。形を教えるのであれば防具は必要なく、屋外でも出来ます。
 柔道も形を教えれば形の種類によってはたたみも不要です。今の時代、乱取よりも必要とされるのは護身であろうと思います。講道館柔道には立派な形があるのに何故そこに思い至らないのでしょうか。
 競技という観点からしか武道を見る事が出来ないのは、指導者が競技ばかりをしてきたためでしょうが、それでは他のスポーツとかわるところはないのではないかと思います。

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  1. 2009/08/29(土) 21:25:40|
  2. 武道史

日本武道学会第42回大会について(4) ―社会変化への対応?―

 日本武道学会ではある大学院の学生が熊本のある柔術流派について述べ、講道館柔道と比較して「では、柔道が柔術と異なり隆盛した理由は何なのだろうか。先行研究で述べられている継承要件も理由の一つと考えられる。しかし、社会変化への対応も要因として挙げられるのではないだろうか。変わりゆく時代の中で、昔の方法を維持しているだけでは時代に取り残されてしまう。伝統を継承させるためには、変えなければならない部分も存在する。」と述べ、さらに「柔道の社会変化への対応を挙げると、戦場における実戦を目的としていた柔術を競技という形式に変化させ、柔術の持つ優れた技術と精神を受け継ぎ、教育的価値を見出したことで、現代人の生活の中に適合するように工夫した事であろう。」と述べられました。
 残念ながら、おそらくこの学生はまともに柔術の流派と技術について調べた事はないのだろうと思います。
 「戦場における実戦を目的としていた柔術を競技という形式に変化させ」とありますが、ここにも認識の間違いがあり、講道館柔道のもととなった起倒流が甲冑組打の流派だというイメージしかないのだと思います。竹内流のように短刀を用いる流派あり(講道館柔道に短刀をもっての攻防はありません)、また多くの流派では素手で刃物に対する技術を持ちます。また平時の護身を想定した形も多くあります。もっとも大きな間違いは戦場における技術は現在の講道館柔道では全くと言って良いほど稽古されていない事に気付いていないことにあります。
 今の競技形式の体の用いようをすれば刃物には対抗する事は出来ません。かって護身術を講習して廻る広島県警の警察官が「柔道、剣道に自信のある警官ほど刺されてしまう。」といった事がそれをよく現しています。
 「柔術の持つ優れた技術と精神を受け継ぎ」とありますが、刃物に対する為の優れた技術は講道館柔道の形の中には残っているものの稽古される事はほとんど無く継承されているとはいえません。また、争いをおこす基となる他流試合の禁止をしていた柔術流派が多かった(下手をすれば相手を傷つけ、また遺恨を残し殺し合いになるからです)にもかかわらず、それを前面に押し出した講道館柔道に「優れた精神」が受け継がれたとも思いません。
 時代に適合したのは柔術の一部の技術を競技化した一点に尽きると考えます。それが良いか悪いかは別問題として、はっきり言えば競技をして勝敗を決めれば楽しいという人の心に適合したのです。 一生に一度あるかないかの非常事態に備えてただ黙々と稽古するより、勝った負けたを安全に競うほうが楽しいという人の心に。それはスポーツを楽しむ人たちの気持ちとかわることはありません。
 第二次世界大戦において軍部が実戦性の高い合気道を必要としたのは講道館柔道において、戦場で必要とされる技術が希薄となっていたからにほかなりません。もし各地に柔術流派が江戸時代末期のように存在したら軍部はそちらにも目を向けたと思います。
 学会の発表というのは難しいもので、一つの事を述べるためにはその他の数限りないことを知る必要があります。

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  1. 2009/08/30(日) 21:18:09|
  2. 武道史

稽古に臨む姿勢

 これまで多くの方が道場に稽古に来られましたが、、結局ものにならずに去っていく人は我侭な人でした。
 こういう動きはしてはならない、このような稽古はしてはならないとお教えしているのにもかかわらず、目を放した隙に自分で良いと思う事をしてしまう、せざるを得ない人は絶対にものになった例がありません。
 時代劇、殺陣、剣舞、映画のアクション、時代小説などさまざまな事に触発されて稽古を始められるとは思います。しかし、実際の稽古はそれらの派手に見えるものとは異なり地味であり、自分の心との戦いの連続です。自分自身に妥協したときに進歩は止まるどころか後退してしまいます。
 私も他の指導者も、動きを見ればそのかたがどのような心積もりで稽古しているのかが分りますので、絶対に良しとはしません。努力しているが出来ないのと、自分がしたいようにするために出来きるようにならないのとでは全く異なっています。
 流派を習うという事はその流派のやり方を身につけるということです。我侭な稽古の姿勢からは何も生まれません。

 貫汪館広島護国神社奉納演武は9月6日(日)午前9時半から行います。公開して行う演武会ですので、どなたでもお越しください。

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  1. 2009/08/31(月) 21:25:51|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

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