3.小城を訪れた人物が属する藩・地域
小城で試合が行われたという事が明確にわかる試合,また、推定できる試合を表4にまとめる。南品という場所は小城藩内にあるかと思われるがはっきりしないため,南品で試合を行ったとされる場合、( )内に人数を記した。人数が多い藩・地域を上から順に並べ,人数が同じものについては小城藩に近い順に記した。
おおむね近隣の藩に属する者が小城藩を訪れているが、萩藩からの訪問者が多いのは江副七太夫と大石進種次,種昌に大石神影流を学んだものが萩藩に43名もおり、11)萩藩に属する者は大石家と関係が深い小城藩を訪ね試合しやすかったためと思われる。
また,遠方の多度津藩からの訪問者が4名もいるが、そのうちの1名は大石進種次に学び免許皆伝をえて多度津藩の大石神影流師範となっており、なじみのある同流の江副七兵衛を訪ねやすかったためと思われる11)12)。
- 2018/10/01(月) 21:25:00|
- 武道史
-
-
4.江副七兵衛が廻国した藩・地域
江副七兵衛が廻国した藩・地域を表5にまとめる。近隣の佐賀藩,佐賀藩支藩や佐賀藩領も含まれているが,中津藩や日出藩,島原藩まで足を延ばしている。しかし廻国の範囲は九州の北半分であり,広範囲の廻国は行われていない。
- 2018/10/02(火) 21:25:00|
- 武道史
-
-
Ⅳ.まとめ
小城藩 大石神影流師範 江副七兵衛の『諸国釼家姓名録』と『釼家姓名録』を分析して以下のことがわかった。
1.江副七兵衛の試合相手の評価にはあまり偏りはみられず,主観的な判断でありながら比較的公平な判断をしていたと考えられる。
2.江副七兵衛は小城藩内での試合場所は寺院の境内を使用することが多かった。
3.小城藩を試合のために訪れたのは近隣の藩に属する者が多かったが、萩藩や多度津藩など遠方の藩に属する者もいた。遠方の藩に属する者が小城藩を訪れたのは大石神影流を稽古する江副七兵衛の影響と考えられる。
4.江副七兵衛の廻国は小規模の廻国であった。
本発表に当っては次の方々に御指導とご協力を賜りました。
広島県立文書館 西村晃様
佐賀県小城市 江副様
佐賀県小城市 「ひのでや」様
心より御礼申しあげます。
1)伊藤明弘編集:成立期の小城藩と藩主たち、佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2006、pp.25-35
2)佐賀県立図書館:佐賀県近世史料 第二編第一巻 通巻第十七冊、佐賀県立図書館、2009、p6
3)佐賀県立図書館:佐賀県近世史料 第二編第一巻 通巻第十七冊、佐賀県立図書館、2009、pp.385-386
4)黒木俊弘:肥前武道物語、佐賀新聞社、1976、pp.111-114
5)佐賀県立図書館:佐賀県近世史料 第二編第一巻 通巻第十七冊、佐賀県立図書館、2009、p.338
6)黒木俊弘:肥前武道物語、佐賀新聞社、1976、pp.148-163
7)黒木俊弘:肥前武道物語、佐賀新聞社、1976、pp.220-228
8)江藤冬雄:南白江藤新平実伝、佐賀新聞社、2000、p.180
9)堀正平:大日本剣道史、体育とスポーツ出版社、1985、 pp.740-743
10)小城町史編纂委員会:小城町史資料集 第五集、小城町史編纂委員会、1981、pp.9-25
11)熊本県荒尾市 大石家文書
12)多度津町誌編集委員会:多度津町誌-資料編-、多度津町、1991、p388
- 2018/10/03(水) 21:25:00|
- 武道史
-
-
昇段審査論文を掲載します。非常に良い内容ですので最後まで読み、稽古の糧としてください。
「無双神伝英信流抜刀兵法を通じて何を教えるべきか」 貫汪館では居合術流派である「無双神伝英信流抜刀兵法」、柔術流派である「渋川一流柔術」、剣術流派である「大石神影流剣術」の三流派を学ぶことになっている。本論文の主題である「無双神伝英信流抜刀兵法を通じて何を教えるべきか」について記す前に他の二つの流派(渋川一流柔術、大石神影流剣術)について説明したい。貫汪館では「柔術だけを学びたい」「私は剣術だけでいい」「居合術はやりたくない」といったことは認められておらず、三流派を併修することが義務つけられている。柔術流派である「渋川一流柔術」の独自性は剣術流派である「大石神影流剣術」、居合術流派である「無双神伝英信流抜刀兵法」と比較することにより明らかとなり、剣術流派である「大石神影流剣術」は柔術流派である「渋川一流柔術」、居合術流派である「無双神伝英信流抜刀兵法」と比べることによりその特質が明確となる。そして居合術流派である「無双神伝英信流抜刀兵法」の特質(本論の主題である無双神伝英信流抜刀兵法を通じて何を教えるべきか)は剣術流派である「大石神影流剣術」、柔術流派である「渋川一流柔術」と相違点を比較することにより明確となると考えるからである。
先ず初めに「渋川一流柔術」について記してみたい。
「渋川一流柔術」は江戸時代末期、所謂幕末に首藤蔵之進満時によって創始された流派である。首藤蔵之進は宇和島藩浪人と伝えられる彼の叔父宮崎儀右衛門満義を師として「渋川流」と「難波一甫流」を習得。さらに他所で「浅山一伝流」をも習得し「渋川一流柔術」を創始した。
蔵之進は広島城下にて5,6名の広島藩士と争いになった際に「渋川一流柔術」の業で難なくこれを退けた。これがたまたま居合わせた松山藩士の目に留まり、その推挙により松山藩に仕えることとなった。天保10年の頃と伝えられており、その後蔵之進は松山においても「渋川一流柔術」の指南を始めた。
明治維新以後、首藤蔵之進は親族のいる安芸郡坂村にたびたび帰り、広島の門弟にも「渋川一流柔術」を伝え残し、明治三十年 八十九歳で松山に於いて没した。
首藤蔵之進以降の伝系は以下のとおりである。
首藤蔵之進満時(初代) 宮田友吉国嗣(二代) 車地国松政嗣(三代) 畝重實嗣昭(四代) 森本邦生嗣時(五代)
「渋川一流柔術」の特質は以下の3点であると考える。
1.素手対素手を主眼においておらず、武器対武器、その先に素手対武器を想定していること。
2.全ての形に飾り気がなく、単純素朴な技法で相手を制すること。
3.無駄な力を用いず無理なく技をかけること。
1は現代武道である「柔道」、「ブラジリアン柔術」等が一般的に素手対素手の試合のイメージであることから古武道である「柔術」も素手の相手に対し素手で対応する技術体系であると思われがちである。しかし、実際の「渋川一流」は素手対素手の形は基本に過ぎず、武器対武器、素手対武器を含む豊富な内容となっている。
「渋川一流柔術」には以下のとおり400余りの形がある。
履形(35本) 吉掛(25本) 込入(37本)
打込(24本) 両懐剣(4本) 互棒(7本) 四留(14本) 拳匪(7本) 枠型(9本) 引違(5本) 袖捕(2本) 二重突(14本) 一重突(12本) 片胸側(11本) 壁沿(12本) 睾被(12本) 上抱(14本) 裏襟(7本) 御膳捕(10本)
御膳捕打込(11本) 鯉口(10本) 居合(16本) 肱入(22本) 三尺棒(25本) 三尺棒御膳捕(2本) 六尺棒(8本) 六尺棒裏棒(8本) 六尺棒引尻棒(2本) 刀と棒(14本)小棒(14本) 十手(3本) 分童(3本) 鎖鎌(11本) 居合(抜刀術)(18本)上記の内太字で下線を付した、打込、互棒、御膳捕打込、鯉口、居合、肱入、三尺棒、三尺棒御膳捕、六尺棒、六尺棒裏棒、六尺棒引尻棒、刀と棒、小棒、十手、分童、鎖鎌、居合(抜刀術)の形は相手が短刀や刀などの武器を用い、こちらが素手や棒、十手などを用いるものである。合計本数428本余りの形のうちこれら武器を使用した形は202本と約半数を占める。半数が武器を使ったものであり、ここには「柔術」は素手対素手というイメージは全くといっていいほどない。余談になるがこれら400を超える膨大な数の形を習得できるのか?と疑問に思う方もいると思うが「渋川一流柔術」では最初に習う「履形」という形が全ての基本となっており一部例外はあるものの他の形は「履形」の変化となっているため習得が可能となっている。なぜ「渋川一流柔術」には形が多いのか?私の師匠である森本邦生先生によると「渋川一流柔術」を創始した首藤蔵之進満時が学んだ三流派のひとつ「難波一甫流」に形が増える要素があったということである。私見ではあるが中国武術の門派である「蟷螂拳」も形の数が多い門派として有名であり、相手の攻撃パターンに対する方法をそれぞれ形にして残すという考え方を取っている。おそらく「難波一甫流」にもそのような要素があったのではないかと考える。
2は上記した400余の「渋川一流柔術」の形に見栄えのするような形がないことである。いずれもシンプルに相手を制するものであり、奇妙奇天烈な技はない。私が初めて師匠である森本邦生先生に「渋川一流柔術」の形を拝見させていただいた時もシンプルすぎて凄さが全く判らなかった。しかし、「履形」の指導の際、実際に技を掛けていただいて初めて「渋川一流柔術」の凄さを痛感したのだった。先生の身体には力感がほとんどないにも関わらず、まるでクレーンやショベルカー等の重機に振り回されるような感覚であった。
3は無駄な力を使わないということである。この言葉自体は他の武道でも使われているが一般の方が考えている力の抜き具合ではまだまだ無駄な力が入っていると言わざるを得ない。押されたらそのまま「ふわっ」と後ろに下がってしまうぐらいに力を抜く。まるで風に乗る凧のようになるのである。力を入れていないのになぜまるで重機に抑えられているような状態になるのか?それは力を入れずとも、いや入れないからこそ身体の重さが無駄なく相手に作用するからである。だからこそ、一見単純素朴な技であっても相手を制することができるのである。森本先生曰く「渋川一流柔術」の師である畝重實先生に手を取られると力感は全く感じず、まるでつきたての餅のようなあたたかさと柔らかさで抵抗する気持ちが失せてしまうとのことであった。
続いて「大石神影流剣術」について記したい。
「大石神影流剣術」は大石進種次により創始された流派である。大石進種次は寛政9年(1797年)三池郡宮部村に生まれ、幼少より祖父の大石種芳から「愛洲陰流剣術」と「大嶋流槍術」の指導を受けた。文化10年(1813年)頃から、これまでの「愛洲陰流剣術」の袋撓と防具の改良を開始、独自の突技と胴切の技を始めたと言われる。文政3年(1820年)に祖父大石種芳より大嶋流槍術の皆伝を受け、続いて文政5年(1822年)に愛洲陰流剣術の皆伝を受けた。文政8年(1825年)には父の後を受けて柳河藩剣槍術師範となり、天保3年(1832年)暮れには聞次役として江戸へ。その翌年にかけて江戸で試合を行っている。このときに試合をした相手は定かではないが男谷精一郎との試合は有名である。天保10年(1839年)には再び江戸に出て試合を行っているが、この時、水野忠邦の前で試合を行い忠邦から褒美の品を与えられている。
大石進種次以降の伝系は以下のとおりである。
大石七太夫藤原種次(初代) 大石進種昌(二代) 大石雪江(三代) 坂井真澄(四代) 大石一(五代) 大石英一(六代) 森本邦生(七代)
「大石神影流剣術」の特質は以下の三点であると考える。
1.突技、胴切を得意とすること。
2.形を行う際に相手との「繋がり」を重視すること。
3.無駄な力を用いない。腕(かいな)力でなく丹田の力を用いること。
1は大石進種次が祖父大石種芳から「愛洲陰流剣術」の指導を受けた当初、その防具は突技、胴切に耐えうるようなものではなかったため実際に試すことが難しかったと思われる。そこで大石進種次は防具の改良を行うことにより他流では会得することが難しかった突技と胴切を稽古しやすくすることにより得意技とすることが出来たのではと推測される。
「大石神影流剣術」に伝わる手数(大石神影流剣術では「形」を「手数」と呼ぶ)は以下のとおりである。
試合口(5本) 陽之表(10本) 陽之裏(10本) 三学円之太刀(9本)
鑓合(2本) 長刀合(2本) 棒合(3本) 鞘ノ内(5本) 二刀(5本)
天狗抄(10本) 小太刀(5本) 神傳載相(13本)
上記の内太字で下線を付した鑓合、長刀合、棒合、鞘ノ内の手数は相手が槍を用いたり、こちらが棒や長刀を用いたり、居合で対処する形であり、刀に対処することのみを考えていない。また、突技、胴切は手数の中に特に多く表現されているということはなく、手数の中では突技にいつでも入れる体勢を重んじており、「大石神影流剣術」に独特の「附け」という構えに表現されている。
2は形を行う際に手順を追うのではなく、相手との繋がりを重視するということである。もちろん、初めは形の手順を覚えるのが先であるが、覚えた後は形を行う際手順のことは忘れて相手と心を繋げることに徹するのである。これは身法でなく、心法を高めるための稽古である。こうした心法の稽古なしには「大石神影流剣術」の手数を真に理解することは難しいであろう。「大石神影流剣術」の手数にはそれぞれその手数のテーマというべきものがあるが、この心法を最も重視しているのが「陽之裏」ではないかと私は考える。「陽之裏」にはどういった意味があるのか理解するのが難しい形(4本目「張身」7本目「位」)があるが心法の稽古だということが分かれば非常に高度な形であることが理解できるのである。
3は刀を扱う際に腕(かいな)力を使わず「(下)丹田」の力を用いることである。これは「大石神影流剣術」の身法において最も重要な部分であり、その要訣は「半身」になることである。言葉にすれば簡単なことのように思えるが実際に行うのは中々難しい。特に剣道の経験があった私は正面を向いてしまう癖が無意識に出てしまっていた。なんとか「半身」を理解できたのは稽古を始めてもうすぐ一年が経過する頃であった。その理解の助けになったのが森本先生から伺った大石英一先生の「大石神影流の構えはがに股です」「大石神影流の動きは鍬を振る動きと似ている」という二つの言葉であった。
「半身」を取り、そけい部を緩めることが出来てはじめて「丹田」の力を使う準備が整うのである。
次に「無双神伝英信流抜刀兵法」について記したい。
「無双神伝英神流抜刀兵法」の流祖は戦国時代末期の林崎甚助重信である。林崎甚輔は居合の始祖であり、林崎甚助より多くの居合流派が生まれた。
第九代林六太夫守政により「大森流」が取り入れられ、片膝立ちの座法の英 信流の前に正座法の大森流の稽古をすることになり、「無双神伝英信流抜刀兵法」の稽古体系が確立された。また、林六太夫守政により「無双神伝英神流抜刀兵法」は土佐国に根付き、以降土佐居合とも言われるようになった。
林崎甚助重信以降の伝系は以下のとおりである。
林崎甚助重信(初代)、田宮平兵衛業正(二代)、長野無楽入道僅露斎(三代)、百々軍兵衛光重(四代)、蟻川正左衛門宗読(五代)、萬野団右衛門信貞(六代)、長谷川主悦之助英信(七代)、荒井兵作信定(荒井清哲)(八代)、林六太夫守政(九代)、林安太夫(十代)、大黒元右衛門清勝(十一代)、松吉八左衛門久盛(十二代)、山川久蔵幸雅(十三代)、下村茂一、坪内清助長順(十四代)、細川義昌(嶋村善馬)、嶋村右馬允(丞)義郷(十五代)、植田平太郎竹生(十六代)、尾形郷一貫心(十七代)、梅本三男貫正(十八代)、森本邦生貫汪(十九代)
「無双神伝英信流抜刀兵法」の特質は以下の3点であると考える。
(以下特質部分については三段受験の際の論文「居合いの歴史における無双神伝英信流抜刀兵法の歴史とその特質について」から引用)
1.無理無駄のない動きであること。
2.太刀打ち、詰合、大小詰、大小立詰が伝承されていること。
3.形(かたち)を作ることをせず、内面を重視すること。
1は無駄な力を使わないこと。特に手足等の末端の力を使わず丹田からの力を伝えることにより全ての動きを行うことで、加齢により筋力が衰えることがあっても武道としての動きは衰えない。江戸時代の武士は年を取ったからといって現在のスポーツ選手のように引退することはなく、戦う準備をし続ける必要があった。このため生の筋力に頼った動きに価値が見出されなかったのであろうと思われる。
2は所謂、素抜き抜刀術だけでなく、剣術技法である太刀打、居合と剣術の中間的技法である詰合、柔術的技法である大小詰、大小立詰を体系に含んでいること。大森流、英信流表、英信流奥は所謂、素抜き抜刀術であり、相手を想定し一人で修練を行うものである。一般の人が居合と聞いて思い浮かべるのがおそらくこの部分であろう。利点は相手を想定し、一人で行うために自身の動きを内省的に把握することが比較的容易なため、自身の動きを修正し、高めていくことができることである。問題点は相手を想定するといっても自身の都合の良い想定になってしまいがちであり、独りよがりな動きに陥る危険性があることである。太刀打、詰合を行うことにより、素抜き抜刀術の想定が正しいか、実在の相手からのプレッシャーを掛けられた状態でも正しく動くことが出来ているかを確かめることが出来る。また、柔術的技法である大小詰、大小立詰を行うことにより、居合(素抜き抜刀術)が正しい身法で行われているか確認することができる。大小詰、大小立詰の身法は居合(素抜き抜刀術)と同じであり、大小詰、大小立詰で力に頼らず技をかけることができていれば、居合(素抜き抜刀術)も力に頼らずに動くことができているといえるのである。
3は居合いを学ぶ場合、どのように学ぶかということである。例えば指導者の動きを倣う際に形を真似するのか、内面の動きを真似するのかということである。形を真似るのは容易であるため、得てして形のみをトレース方向に行ってしまいがちである。しかし、指導者と自分は異なる体格、個性を持っているため形を真似るのみでは自分に合った動きになることはないのである。ではどうすればよいのか?外面に表れた形でなく、その形に至った身体の内面の動き、もう一歩進めれば、心の動きを真似るのである。身体の内面、まして心の動きを感じることはとても難易度の高いことであるがこの先にこそ、真の上達への至る道があるのである。
以上、貫汪館で学ぶ古武道三流派の概略とその特質について説明を行った。
「無双神伝英信流抜刀兵法」「渋川一流柔術」「大石神影流剣術」の三流派は伝えられた時代、地域がそれぞれ異なり直接的な関係はない。私の師匠である森本邦生先生が三人の異なる師から受け継いだものである。しかし、偶然ではあるが三流派には本質的な部分での共通点があった。それは大きく分けて2点あると私は考える。
ひとつは「無駄な力を抜き、丹田を中心に無理なく動くこと」である。腕、脚それぞれで力を出すのではなく、丹田を中心に全身が柔らかく繋がった動きで力を出すのである。
もうひとつは「心法」を重視するということである。居合(素抜き抜刀術)のような一人稽古の際は自分の心の動きを感じ取り、形稽古では相手の心を感じ取り動く。自分の逸る心を制御する、相手と心を繋いで形を行うということである。
私が「無双神伝英信流抜刀兵法」を通じて、いや他の二流派を含む貫汪館の武術を通じて必ず教えていかなければならないと考えているのは「身体の無駄な力みをなくし、丹田を中心に全身を繋げて無理なく動く身法」そして「自分の心を感じ取り向き合う、相手の心を感じ取り繋がるといった技術としての心法」である。なぜなら西洋のスポーツ的考え方が入って来て以来(おそらく明治維新以降)日本の武術で失われてきたのが上記二つの点であると考えるからである。断っておきたいのは私はスポーツを否定しているのではないということである。スポーツの考え方(体力増進、娯楽としての楽しみ等)は素晴らしい。しかし、武道の考え方とは相容れないものである。競技スポーツの目的は相手に勝つことである。ルール内であれば勝つためには何をしてもよい(審判に判らなければルール違反をしてもよい?)のである。武道の目的は勝つことではない。綺麗ごとに聞こえるかも知れないが(試合)に勝つことを目的にしては「心法」を会得することはできないのである。
貫汪館武術に伝わるこの二つの要素を失うことなく伝えていくことが指導する立場の人間として最も大事なことだと思うのである。
【参考文献】
森本邦生:無双神伝英信流の形・・・大森流、英信流 奥
貫汪館ホームページ 無双神伝英信流の歴史、形 渋川一流柔術の歴史、形 大石神影流の歴史、形
森本邦生:中学校武道必修化にあたり、武道のなにを学ぶか―古武道の立場から
- 2018/10/04(木) 21:25:00|
- 昇段審査論文
-
-
以前、男が男でなくなるという事について述べましたが、あくまで男女の特性から述べています。力があるものは力を使うのが当然で、知恵があるものが知恵を使うのが当然。その特性を他者のために用いるのが自然であるという事です。何かあった時に対処できるものは対処する。能力を持っているのに能力を持たないものに依存することは自然ではないのです。
- 2018/10/05(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
以前、専門についてお話をしましたが、専門性というのはとても大切なことで、うかつに専門外の人間が語るととんでもないことになってしまいます。
世の中には古武道をするためには現代剣道や現代柔道の素養が必要だという間違った認識がありますが、これもいい加減な人物がいい加減なことを語ったのが始まりのようです。このようなことをいかにも古武道を専門にしているような、表看板を古武道と掲げた人物も言いますから要注意です。そのようなことをかたっている方は表看板は古武道であっても、じつはその専門は現代剣道で古武道は後から付けたものだという事実も見たことがあります。私たちの流派では現代武道の経験がかえって上達の妨げになる場合もあるという事は貫汪館で稽古された方なら経験されていることだと思います。私自身も現代剣道の竹刀の振り方を刀の振り方に変えるのにどれだけ苦労したかわかりません。
専門の現代剣道の動きを古武道らしく演じているので現代武道の素養が絶対に必要だと語るのです。はじめから古武道の流派で鍛えられた人であればそのようなことを言うはずもありません。江戸時代には現代剣道はなかったのですから。
話は飛びますが、学校教育においても性教育の講師は慎重に選んでいます。たとえ名がある人物であっても、とんでもないことをかたる可能性もあるからです。人生を左右するような内容の話を専門外の人物が得々として語ればどうなるか明らかなことです。
人の命にかかわるような事であればなおさらです。しかし、現代は人の人生や命にかかわるような大切な話を専門外の人間が語って得々としている事例が多いのです。専門の知識もなく発言に責任も持てないにもかかわらず、SNSや美辞麗句で自画自賛し取り巻きを作り、いかにもと思わせて集客する。
私たちは人物を判断するとき、専門外でない事を得々と語っているかどうかを判断材料とすることはできると思います。
- 2018/10/06(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
失われた流派を残された伝書から復元することは、学問的な意味からすると価値があることかもしれません。時代による技法の変遷が分かる可能性があるからです。
しかし、個人的に研究するだけで、公的な場で発表し、批判を受けることもなく、「これが〇○流だ」と公言し始め、あるいは「一緒に〇○流を稽古しませんか」と言い初め、やがてそれを古武道をしたことがない第三者の目に触れる場で演武し始めると、復元した流派であるにもかかわらず「〇〇流師範」などと呼び始め、復元した流派があたかも古くから宗家あるいは免許皆伝をもって続いているかの如く独り歩きをし始めてしまいます。独り歩きをし始めた後には知る人が知るように、はじめは「復元・復活を宜しくお願いします」と言っていたにもかかわらず、正規な古武道の団体に加盟した後は「400年の歴史と伝統」「家伝の武術」「代々の宗家」などと言ってはばからないようになり、あたかも生まれたときから自分が宗家であるといわんばかりに歌舞伎の演技のような態度を取り始めるようになります。そして嘘に嘘を重ねていきます。
かくして古武道は信用できないと一般社会からはますます無視されるようになっていくのです。
このような現実を知ってか知らずか、自分が正規に稽古してきた流派はほっておいて、学問的な立場からではなく、復元にいそしむという現状があります。
- 2018/10/07(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
今の世の中は、自分の価値を売り込み、こんな素晴らしいことをしていると厚かましいくらいに言わなければ認められないようになりました。そしてそのような人物が内実はどうあろうが、もてはやされる世の中になっています。SNSでいくらでも自分を飾ることができるようになっていますし、美辞麗句を弄すればそれにまどわされる人の数も一昔前よりもはるかに多くなっています。そして、そのような人物とつながることが良いことだと考えられます。今の世は極論すればそのほうが利潤が上がるのです。
武道の世界も同じで、自分の価値を YouTube などで過大に見せて売り込み、SNSで歴史を飾り、人を引き付けることも行われます。素人は派手なもの、激しい動きに惹き付けられますので、人を集めることは簡単です。そして、そのような内容を教えていきますので、本物を知らずに語る人も増えてきます。また、そのような者同士でつながっていきます。
本質をみることができる人が少なくなったのだとは思いますが、この方向に日本が進んでいくと、将来はどのようになっていくのでしょうか。本物は消え去り、表面を飾るだけの人が増えていくような気がします。
- 2018/10/08(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
以前びっくりしたことの一つに、私の門人に他流派の若い人が「〇〇さんと森本先生は友達でしょ。」と言ったという事がありました。その〇〇さんというのは年も私よりもはるかに若く武道歴も浅く、その流派の免許を授かっているかどうかも分からない人です。
その「友達でしょ」という根拠はSNSでつながっているからという事にあったようです。そしてSNSでつながっていれば対等の友人関係を築いていると信じていたようなのです。
何とも言えない時代になりました。
- 2018/10/09(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
昨日も述べましたが、昨今使われている「つながる」という言葉には不信感しか持てません。挨拶してSNSで関係を持つ程度のことをつながるというらしく、つながったあとは、なにかあったら自分のために力を貸してもらおうとする(利用しようとする)。そして自分のために動いてもらっても自分の想いに答えてくれたと言って、漠然とした宙にある、自分自身ではない実体のないもののために動いてくれたのだからと言って特に恩も義理も感じることもない。そういった関係を「つながる」というらしくお互いに利用し合う関係のようです。だから、自分の利になりそうな頼み事には応えても、自分の利にはならない頼み事には、たとえ、どんなにその人が困っていても応えない。
私が生きてきた世界とは全く異なります。常に近くにいる人には誠をもって接し、頼まれたら誠心誠意それに応えて動き、自分の損得は考えません。頼んだら、動いてくれた人に対する恩は絶対に忘れない。そういう世界に生きてきました。澁川一流柔術の師である畝重實先生は私を弟子にしてくださったときに、「子弟と言えば親子も同然。子が危機にあれば親は命を捨ててでも子を助ける。」と話してくださいましたが、そういう世界です。
今は古武道を稽古する方も習い事という感覚の方が多くおられますが、本来つながるというのは心がつながることを言います。心がつながるという事は損得ではないもののために行動できるということです。また本当につながっている者は数十年会っていなくても再会した時には、年月を感じずに、元のように動けるものです。
- 2018/10/10(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
ある剣道の最高位の先生がプライベートな場でこのように語られたことがあります。「勝ち抜きの総当たりの場合、強い選手が先に出てこちらが何人も負けるような場合はその選手をつぶしにかかり、試合が続行できないようにする。」と
この話は武道なのでありそうな気がすると、聞き流してしまいそうですが、じつは武道でないからできることなのです。私たちの流派で稽古をされる方はこれから話すことをよく理解してください。
真の武道にとって試合場での勝ち負けは、試合場での限定された条件の中での限定された技を使った勝ち負けにすぎません。したがって江戸時代には審判はおらずチャンピオンシップもありませんでした。そのような限定された条件の中で、小さな勝ち負けを競っても実用の武道という観点からすればあまり意味はないからです。あくまでも試合は試し合いでした。
太陽や風、地形を利用することはなく、刀の長さが違うわけでもない。助太刀がいるわけでもなく、矢玉が飛んでくることもない、本当にかぎられた条件の中での試合にすぎません。そんな試合に最大の価値観を置くから先述のような方法がとられるのです。競技、スポーツとしての試合であるからこそ先に話したようなことをしても遺恨をもたれて夜道で斬り捨てられるということもありません。江戸時代であれば遺恨をもたれて闇討ちに合うことも考えなければなりません。
ここが武道と、競技、スポーツとの大きな違いです。
嶋田虎之助という勝海舟の剣術の師をご存知だと思います。嶋田虎之助は普段は好人物だったようですが、こと試合となると勝は主張しても負けは認めない人物であったようです(審判はいません)。津藩を訪れた後に嶋田虎之助が急死したとき、出身地の中津では毒をもられて殺されたのではないかという話が出たそうです。
- 2018/10/11(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
「一隅を照らす。これ則ち国宝なり(照于一隅此則国宝)」
この言葉を信じて一生懸命自分がなすべきことを黙々となされている方がおられると思います。この言葉は、最澄が818年、天台宗門後継者の修行規定として書いた「山家学生式」にあります。
心の武道である古武道を行ずる私たちがこの一隅を護って稽古を続けることは、国を保ち世界を保つことにつながると信じます。心を忘れて人は成り立たないからです。
最近は以下のような説もあるようです。
「径寸十枚、これ国宝に非ず。照千、一隅、これ則ち国宝なり」
最澄「山家学生式」(弘仁9年・818)
「古人曰く」として引く言葉で、『史記』田敬仲完世家に見られる、斎の威王と魏王の問答が出典。魏王が、我が国には、直径一寸、車十二台分を照らすほどの国宝の珠がある」と自慢したところ、威王は、「我が国の宝は宝石類などではなく、四人の優秀な臣下である。彼らはよく国の一隅を守り、まさに国の宝として千里を照らすものだ」と答えたのによる。この「照千一隅」の部分は従前「照于一隅(一隅を照らす)」と読まれていたが誤り。
つまり、一隅にはあるけれど、千里を照らしているということで、自分がいる場所でなすべきことをなすことで世の中を広く照らしている、そういった人を国宝という。という意味になります。
であれば、我々古武道を行ずるものは、たんに小乗的に自分たちのみの修業にとどまらず、その素晴らしいところを世に広める務めを果たすべきだということになります。
これは貫汪館で稽古されている方がお話しされた、「子供の一時期であっても、レベルの高い古武道を稽古することによって、良い悪いの理解ができるようになり、心身一如の状態も理解できるのではないか。」ということにも通じます。
自分自身が稽古しながらその会得したところを、たとえその人にとって一時期であっても、これを経験していただくことによって何かを得ていただく。これは「照千一隅」に通じるのではないでしょうか。
- 2018/10/12(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
今日から小城藩2代藩主の鍋島直能について記していきます。ページ数は刊行されている鍋島直能御年譜のページです。
直能は父同様、柳生但馬守宗矩の教えを受け、柳生十兵衛とも親交があったと言います。
寛永十年 鍋島直能 12歳のときのことです。
「今年直宗(直能の前名)公、大坪流馬術御稽古被成候付、元茂公へ御誓紙被差上候
霜月廿三日 飛騨守直宗
進上
紀州様」p.496
父が我が子の正式な馬術の師となり稽古をつけ始めています。鍋島元茂の場合は自分自身が武術家ですので、いろいろな武術を正式に教えることができたと思います。
幕末でも子が幼い時には父や身内の者が稽古をつけることは一般的でした。
- 2018/10/13(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
寛永十二年 鍋島直能 14歳のときのことです。武道とは関係ない記事ですが、米沢でお墓にお参りしたこともあり、私の身近に感じる記事であったため私の記憶のために記します。
「六月三日、於市様御逝去、御年三拾歳
元茂公の御妹君にて直宗公の御叔母也、十九歳の御時上杉弾正大弼定勝卿へ御嫁娶有
御法名 傳高院殿と奉称候」p.496
19歳で暖かな九州から北国の米沢の上杉定勝に嫁いで30歳で亡くなられています。比較的あたたかな九州と積雪の多い米沢では環境は大きく異なりますし、御つきの者が佐嘉から付き添っていったとしても、姫として庶民に比べ不自由がない生活を送っていた人には生活習慣等の変化は精神的に大きなストレスであったでしょう。
現代では大切に育てられ過ぎて、叱られたこともなく、厳しく指導を受けたこともない人は、ストレスに耐えられないときには、逃げ出すか、自分に与えられた事を放り出して人任せにするので、この市姫にあったかもしれないようなストレスを感じるつことはないと思います。逆に責任感が強かったり、逃げ出すことができない人は何らかの解決策を見出さなければなりません。
- 2018/10/14(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
正保二年 鍋島直能 24歳のときのことです。
「四月、元茂公より鉄砲の御伝書御相伝御相承被成候、御奥書
此一巻受於正継而不曽為人開之書、雖然今汝傳者也、只能寶蔵之莫之敢漏逗云
正保二年乙酉初夏良辰 元茂在判
飛騨守殿」p.503
火薬を用いる砲術は時代が下ると身分の高い武士はあまり稽古はせず、足軽任せになるのですが、新規の最先端の武術ですので、この当時は稽古していたのでしょうか。
- 2018/10/15(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
同じく正保二年 鍋島直能 24歳のときのことです。
「直宗公御剣術之義、兼而柳生又左衛門(宗矩)殿江御入門御稽古被成候処、宗矩死去之後は専 元茂公の御指南にて御修行成、其頃十兵衛殿ゟの書状
親にて候者進上申候三巻之目録、委細拝見、於拙者相違無之者也、御失念之處、時々可有御尋、任御望裏印調、右之三巻唯今令返令進候畢
柳生十兵衛
菅原三厳判
正保二乙酉暦
鍋島飛騨守殿」p.503
これは正保三年に父の鍋島元茂が柳生但馬守宗矩から授かった三巻の目録『兵法家伝書』とは別物で、元茂の父である勝茂が授かったものを孫の直能が柳生十兵衛に確認してもらい、裏印まで押してもらっているようです。
おそらく授かった巻物へのさらなる権威付けなのでしょうが、この当時は信用を得るために、そこまでする必要があったという事だと思います。
- 2018/10/16(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
同じく正保二年 鍋島直能 24歳のときのことです。武道とは関係ない記事ですが、私の身近に感じる記事であったため私の記憶のために記します。
「今年九月十日、上杉弾正大弼卒去、勝茂公の於姫お市様御夫成り、直能公へ為御遺物 御脇差 国行 被進候
鍋島飛騨守と書付有」p.505
義理の叔父の遺品をおくられたということでしょうか。この脇差は今どこにあるのでしょうか。小城藩主の家からは多くの物が放出されていますので、この脇差もどこかに埋もれているのかもしれません。
- 2018/10/17(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
承応元年、鍋島直能 31歳のときのことです。
「直能公、馬術御稽古、原右馬之允 後大蔵大輔と云 御指南申上候
依助流乗方之口決幷木馬之所作、御誓紙 文略
正応元年十二月六日 加賀守
原右馬允殿
右右馬允ハ、荒馬乗之達人ニ付、 元茂公被召抱候、右之由緒、附録ニ記之」p.544
31歳で稽古を始めています。現代人でも稽古を始めようと思えば、思った時がはじめるときで、遅いということはないということかと思います。今は昔と異なり体も若いですし、考え方さえ柔軟であればかなりの年齢でも始められるのではないかと思います。
- 2018/10/18(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
承応三年、鍋島直能 33歳のときのことです。
「四月、直能公御馬術御上達ニ付、原大蔵ゟ馬書七冊御相伝差上候、奥書ニ
承応三午年四月四日 原大蔵太輔
正俊判
鍋島加賀守殿
馬血上ケ薬方
午目薬方 同人ゟ傳授申上候」p.548
どの段階の伝書かわかりませんが、2年4か月ほどの稽古で馬術の伝書を授かっています。やはり江戸時代初期は全体的に伝授が早いのだと感じます。江戸時代後期になると多くの流派で免許皆伝に至るまでに平均して10年くらいかと思います。但し、現在の10年とは質が全く異なり、剣術、居合、馬術、柔術等々を併修しながらの10年ですので現代人の感覚でとらえると大きな間違いをすることになります。
- 2018/10/19(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
寛文九年、鍋島直能 48歳のときのことです。
「同月、信濃守綱茂公、御平法御伝上之上、御誓紙被進候
殺人刀・活人剣両巻令傳受一入満足存候、日本之神聊他見他言申間敷候、為其如此候、已上
寛文九年 信濃守
七月朔日 綱茂 御判
鍋嶋加賀守殿」p.632
佐賀藩の支藩の二代藩主が、元禄8年に本藩である佐賀藩の三代藩主となる鍋島綱茂に新陰流の指導をしていたということになります。武術の指導には身分がかかわりのないことがあるようで、広島藩主の剣術指導を足軽が行った例もあります。
- 2018/10/20(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
寛文10年、鍋島直能 49歳のときのことです。
「十一月十一日、月堂様(元茂のこと)十七御忌、宗智寺ニ而御経営有、又兼而林大学頭殿御頼、牌之銘を、御撰ミ置候を、此節 日峯様御持越之朝鮮石ニ彫刻被仰付、鯖岡山の三聖庵に御建立被遊候也 牌銘別紙有
三聖庵にハ釈迦・孔子・老子の像を御安置有、外ニ月堂様(元茂のこと)・日善様(鍋島元茂室)・柳生様之御霊牌も御建、僧衆を請し諷経等被仰付故、報恩堂共被号候、後星厳寺御造立の節、鷺山に御引移され候報恩堂是也、三聖之像ハ後玉毫寺の末庵に御安置有し也
この文によれば初め三聖庵(報恩堂ともいう)が鯖岡山(今の桜丘)に設けられ、釈迦・孔子・孟子の像と一緒に鍋島元茂とその奥さんと、柳生但馬守宗矩の位牌がまつられ、その後、星厳寺が設けられた時に、星厳寺に移された。いまの報恩堂がこれである
という意味になります。『直能公御年譜』は直能の没(元禄2年:1689)後、だいぶたって享和3年(1803)に完成しています。1803年時点には柳生但馬守宗矩の位牌はあったということになります。
- 2018/10/21(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
元禄2年、鍋島直能 68歳のときのことです。八月二十六日に亡くなっていますが、よく二十七日の記録に
「同月廿七日夜、御沐浴御入棺被遊候、御顔色御平生の如く少く御笑〇(白の下にハ)被成御座候、祥光山北之隅に葬送シ奉る、御遺命に因て山つらの大石を御塔に奉建候、御銘書無之
御法名 弘徳院殿星厳元晃大居士」
これで直能の墓石だけが自然石である理由がわかりました。本人の希望です。ただ、なぜ自然石を希望したのかはわかりません。
この記録の直前に
「星岩(厳の間違い)寺報恩堂の御寿像 潮音時和尚賛有
直頼公(小城三代元武)寄付也」
とあるので、報恩堂には直能の像もあったはずです。
以上で鍋島直能については終了します。
- 2018/10/22(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
貫汪館では無雙神傳英信流抜刀兵法、澁川一流柔術、大石神影流剣術の3つの流派を稽古しています。しかし、3つの流派を稽古しているからと言って、その3つがばらばらに存在しているわわではなく、その根本は1つであり、それが理解できたうえで稽古すれば習得はすみやかです。反対にすべてが1つであるという事がわからず、一つ一つの流派を一生懸命稽古しているのだという意識があれば、習得はおぼつきません。
3つの流派を稽古していると言っても実際は下の図のようにあらわすことができます。真ん中の赤い部分が3つの流派に共通する根本的な部分で、ここを稽古すれば3つの流派の習得は難しいことはありません。桃色や緑色、黄色は周辺であり各流派の形(外形)が重なっている部分、白色は各流派それぞれの外形の部分であると言えます。この白色の部分は本当は少ない部分です。この意識が持てるようになるにはある程度の稽古の年数が必要になるかもしれませんが(2,3年)、いくら稽古してもこのような意識が持ててないという事は、すべての流派に共通する基本的な部分が身についていないし、理解できていないという事になります。
このような意識をはじめから持つことは難しいとしても、初心者の方には初めからそう教えているのですから、素直に話が聞ける人は少なくとも下の図のような意識を持って稽古は始めていると思います。この意識がなく稽古をすると、基本とは何かがわかっていないのですから、求めるものも異なり、なかなか上達しません。
一方、いくら年月をかけても習得できない人の稽古への意識は下の図で表すことができます。実際は白い部分(外形)はこの図のように広くはない(ごくわずかな割合な)のに、外形ばかり追い求めて、基本となる赤い部分を習得しようとしていないのですから、上達しないのも当然です。稽古年数が長い人で、自分は貫汪館で稽古する〇〇流は苦手であるとか、身につかないと思っている方はこの下の図の意識をもっていると考えられます。実際は自分ができると思っている〇〇流であっても、外形を覚えているだけであって、その基本は身についていませんから見る人が見れば、その人の技の底の浅さは見えてしまいます。
自分がどのような意識を持って稽古しているのか自分自身に問うてください。
- 2018/10/23(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
呼吸が浅いと貫汪館の古武道の動きは物真似にしかなりません。いくら稽古しても内面から出る動きではないので表面をトレースしているにすぎないのです。
また、なぜか若い方には呼吸が浅い方が多いように思います。最近の生活様式に問題があるのかもしれません。
そういえば、ある程度年齢を重ねた方の中にも、呼吸が浅い方がおられ、このような方は、物事をあまり深く考えることをしませんし、物事の裏も見ることはありません。少し考えることができる人には見抜けるような信用できない人物に騙されたり、、また利用されています。そしてマルチ商法のように、そのような人物を他人に勧める方が多いように思います。体で考えることができないので物事を感じとることができないようです。
詐欺師のような人間もよく見たら、呼吸が浅く、中身がない人間だという事を見て取ることができます。
呼吸の稽古は初心者にとって大切なことですから無意識のうちに深い呼吸ができるように稽古を重ねなければなりません。
- 2018/10/24(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
武術についての知識は豊富であるけれども、実技が伴っていない場合によく用いられる言葉です。このような状態が修業にとっては一番悪い状態です。
本人はわかっているつもりでいるので、なかなか実技が進みません。行動が伴わないのに理論ばかり知っていますから、他者を批判的に見て自分の方が優れていると思い込むこともあります。
軍事おたくがいくら武器の性能を熟知していても、実際の経験がなければ役に立ちませんし、セミナー等で立派なことを話している人に、現場での実績はない場合もあります。
武道で大切なことは自分自身が行うことができるか否かであり、行うことができないのにいくら立派な理論を口にしても意味がありません。いくら物事を知っているようであり、そう見せかけても、本人ができなければ無意味なのです。
- 2018/10/25(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
理を語ることができるようになるのは、実際に使えるようになってからのことです。それまでは(自分ではわかっているつもりでも)そうではないかと語っているにすぎません。
理は師に教えられるものですが、その理に基づいて体得して初めてその理がわかるようになります。それまでは理を語ることはなるべく慎んだ方が、業の習得はすみやかです。
- 2018/10/26(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
流派の伝書が、資料館などに残ります。深く心法を懇切丁寧に説いた書もあります。非常に貴重な知的財産ですが、いくら懇切丁寧に心法が記されていても、武術を深く修行していなければ理解できないところがあります。
知的財産を大切にし、理解し、これからも活かしていくためには、現代武道ではなく、古武道の稽古を並行して行う必要があります。古武道の稽古によって知的財産である心法を解いた伝書が理解され、将来にわたって次代を担う者たちの心の中で生きていきます。
- 2018/10/27(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
ヨガや瞑想の結果、自己高揚感を得て自分は人と異なるとか、自分は便りも勝れているという思いにとらわれるという事があることは以前述べたとおりです。このような事実は身近でもはっきり感じたことがありますので真実であると確信できますが、それよりも先に思いついたのが古武道の稽古をする方にも当てはまる方が少なからずいるということでした。
稽古をした結果謙虚になるのではなく、自分は他と違う、自分は勝れているのだという思いにとらわれる方が少なからずいるのです。表面上は穏やかな人を演じていても何かあったら、自分は他よりも勝れているのだという思いをあらわにする方が少なからずおられるのです。
古武道の稽古をしている方は己自信に気を許すことはできません。
- 2018/10/29(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
2か月半くらい前にまったく武道の経験がない30過ぎの女性と話していた時、その話の流れで演武の動画を見せてほしいと言われました。「私の流派は派手なところもないし、理解できないと思います。」といって居合と柔術の動画をお見せしました。
私自身が、正しく古武道を稽古した方でなければ良し悪しはわからないから理解できないと思っていました。しかし、その女性は居合の動画を見て「動きが流れていてごつごつせず変に止まるところがない。」「刀を物として扱っていなくて体の一部になっている。・・・だから止まるときには無理なくピタッと止まる。」「何も考えていないから自然な動きになっている。」「何も考えずに動くには、かなりの練習が必要で、体が覚えている。」と話しました。
柔術の門人の半棒の動画を見て「この人の棒の動きは定まっていなくて、ぶれている。」「棒を物として扱っている。」「先生に教えてもらった事を自分のものとできていないと自覚があり、まったく自信がない。」「受身は踏ん張ってしまい、自然な流れになっていない。」
最後に「先生は自分が行っていること、教えていることに確信・自信を持っているでしょう。」と言ってくれました。
何度も武道の経験があるのではないかと確認しましたが経験はないという事でした。むしろ武道の経験がないからこそ見えたのかもしれません。武道ではなくてもほかの何かの経験があるのかもしれませんが、興味をもって、見ようとしてみる方には見えるのだと感心しました。
一期一会の方なので、再びお会いすることはないだろうと思いますが、私たちの武道を知らない方でも理解できるのだと、可能性のようなものを感じて心が軽くなりました。理解できないという方は理解しようとしてみておらず初めから受け入れようとはしていないのかもしれません。
- 2018/10/30(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
福沢諭吉の批判に対する勝海舟の言葉です。
自分が行わなければならないと思った事は他人の批判に拘わらず、行わなければならないもので、他人の批判は自分の信じて行う事には関係ない。そういう覚悟で事を行わなければ、なることもならないでしょう。
ことを行わなければならない立場に立てばそのような覚悟が絶対に必要になるのだと思います。
- 2018/10/31(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-