先日、昇段審査を行った際に提出された「姿勢」についての論文を掲載します。優秀な論文ですので、皆さんも稽古の参考にされてください。
「姿勢について」
柔術または武術においての姿勢の重要性は、それがもっとも武術の基本にかかわる点にあります。もともと武術は、敵に対したときにどうやって勝つか、あるいは少なくとも命を落とさないですむかという方法として工夫されてきたものです。その工夫のなかで、姿勢が最も大切なものの一つとされるのは次の点にあります。
敵の攻撃は、あらゆる方向から、あらゆる方法でやってきます。それに対するには、心身がそれに対応できるものでなければなりません。心身が敵のあらゆる攻撃の対して対応出来る状態であるためには、心身が一カ所に止まっていないことが大事です。もし心身が一カ所に止まれば、心身は自由闊達に働かず敵のあらゆる攻撃に対処することが出来ません。悪くすれば命を落とすことになってしまいます。
鈴木 大拙 著「禅と日本文化」の中に次のようなエピソードがあります。
一人の熱心な弟子が剣術を習いたいとある剣匠のところにやってきます。山中に隠棲していた先師はやむをえずそれを承知します。ところが、弟子の毎日の仕事は、師を助けて、薪を集め、水を汲み、火を起こし、飯を炊き、室を掃く等、家事の世話をさせられます。べつに規則正しく剣術の法をおしえられることもない。日がたつにつれて若者は不満をおぼえてきた。自分は召使いとして働くためにやってきたのではなく、剣の技をおぼえるためにやってきたのだ。そこである日、師の前にでて、不平を言って教えを請うと、師匠は「うん、それなら」という。その結果、
若者は何一つの仕事も安心の念を持ってすることができなくなった。なぜかというと、早朝、飯を炊きだすと、師匠が現れて、背後から不意に棒で打ってかかるのだ。庭を掃いていると、何時何処からともなく、同じように棒が飛んでくる。若者は気が気でない。心の平和を全く失った。いつも四方に眼を配っていなければならなかった。かようにして数年立つと,始めて、棒が何処から飛んでこようとも、これを無事にさけることができるようになった。しかし、師匠は、それでもまだ、彼を許さなかった。ある日、老師が炉で自分の菜を調理していたのを見て、弟子は好機だと考え、大きな棒を取り上げて、師匠の頭上にうちおろした。師匠は、おりから、鍋に上に身をかがめて、なかのものをかきまわしているところだったが、弟子の棒は鍋の蓋でうけとめられた。この時弟子は、これまで到りえなかった、自分の知らない剣道の極意に対して、はじめて悟りを開いた。
ここに語られているのは、武術の極意は何時いかなる時にあっても心身を自由に働かせることにあるということです。どのような攻撃にも瞬時に対応できるためには、まず、身体が対応出来る状態でなければいけません。身体が対応出来る状態とは、身体がどのようにでも働くことが出来る可能性をもっていることです。それが武術における、身体の状態=姿勢の基本です。ここに武術のにおける姿勢の大切さがあります。しかし、身体が自由に働くためにはそれだけでは十分ではありません。心が自由に働く必要があります。心がとらわれていては、身体はその自由さを失ってしまいます。心と身体が何処にも居着かない、何もとらわれない状態になって、始めて可能となります。
心身が一カ所に止まることなく、あらゆる状況の変化に対応する心身を持つために、初心者がまず習得を目指すのは身体の柔らかさと身体の中心を保つことです。これによって始めてあらゆる方向と方法の動きの可能性がでてきます。固まった身体と崩れた中心では対応出来る変化はわずかです。静止した状態で、身体の中心を意識し、身体の力を抜くことから始め、次第に動作中も力を抜くように意識し、その動作が静止したときもその柔らかさと中心を保ち、静止状態でも動作中でもあらゆる状態で居着かない心身を目指すことが肝要です。
- 2007/07/21(土) 23:59:18|
- 昇段審査論文
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以前行った二段の昇段試験の課題論文をご紹介します。
中学3年生の女の子ですが、長年稽古してきただけにしっかりした考えをもっています。
『二つの姿勢』
「武術における姿勢には身体の姿勢と心の姿勢があります。この二つの姿勢が出来てこそ、自分の身を守ることが出来るのです。
身体の姿勢とは背筋を正し、重心を落とすことです。また、何をするにも、腰から動くことが大切です。私が呼んだ本には「力というのは本質的に《腰からの力》で無ければならない。足腰の出来ていない人は肩の力に頼るようになってしまう」と書かれていました。このように《腰からの力》を使えるようにするには、股関節を柔らかくし、身体の力を抜いて常に腰から動く、ということを心掛けなければならないと思います。常に心して動けば、力を抜いていても《腰からの力》で動くことが出来ます。身体の姿勢は意識の持ちようで、出来るようになるのです。
もう一つの心の姿勢はそう簡単にはいきません。武術や武道、なんでも僧ですが自分の心が落ち着いていないと本来の地価あは発揮されません。常に冷静でないといけません。稽古では「これは稽古だ」と思い安心してしまい冷静さを欠く事はありません。ですが、稽古でも武器を使うことがあればまた違います。物を使うことによって冷静さを失うことはありませんが、怖いと思ってしまうことがあります。稽古でさえも恐怖を感じてしまうのに、もし実際に何かあれば自分は冷静でいられるのかと、時々思うことがあります。ですがそれは気持ちの問題ですから、自分に自信をもつことが大切だと思います。私は常に冷静でいなければならないと思っていましたが、武道の上級者は自分の小手打ちについて、こう述懐したそうです。「どの瞬間を、どのように打ったかは覚えていません。その時頭で考えず、身体に仕事をさせるのです。」また、別の人は「裕美を習うということは自己を習うのである。自己を習うことは自己を忘れることである。」と述懐したそうです。この二人は冷静になるよりも、無心になっているようです。
冷静と無心。どちらがいいのか、人によって違うと思いますが、これからも私は常に冷静でいられるように稽古します。」
心身を二つに分けることは出来ません。心が出来れば業も進み、業が進めば心も上達します。それはどちらが先とも言えないものですが、まず、初心の方はひたすら稽古と心得てください。
貫汪館H.Pの貫汪館会報のページに月刊『武道』8月号の記事を載せました。 9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。他流派、他道場の方や一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
- 2007/09/23(日) 14:02:39|
- 昇段審査論文
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渋川一流柔術の初段の課題論文をのせます。小学校6年生から稽古をした中学校3年生の女の子の論文です。時間に制約があり週に1時間しか稽古できませんが、動きの質が向上してきました。
『間合』
「私は「間合」について調べてみました。
間合とは、自分を相手との距離、空間を言う。この空間をどのように処理するかが勝敗の分かれ道になり、相互の技量、体格気力、構え、癖など、様々な要素が集まり一つの空間が出来るというものだった。
間合にとって重要なことは相手も変化し自分も変化する。そのような状況の中で常に有利な間合を取るということ。だから、そのためにも、まず、私は自分の間合を取ることが必要だと思う。この間合なら相手に攻撃が出来る。この間合なら相手の攻撃をかわすことが出来る。など、日頃の稽古においてしっかり掴んでいくことも必要になってくる。と思う。そして自分の間合がわかって初めて相手に対して有利な間合が取れるようになってくるのだと思う。
私は、よく稽古中に間合が遠いと言われる。たしかに間合が遠いと突いていくとき相手まで手が届かないし、逆に自分に隙が出来てしまい。攻撃されると思う。相手との間合は近すぎても遠すぎても駄目なので常に自分にあった間合を考えることがこれからの稽古に必要なことだと思う。
他にも体格の違いによる間合もあり、背の高い者・低い者・背が高いが俊敏さにかける者など色々あり、それにあった間合を考えて動くことも大事だし、これからの課題になってくるんだと思う。
でも、間合は柔術にだけではなく、話す時の間合など、何をするときにも必要になってくる。
たとえば、話す時の間合では会議や話し合いなどで必要になってくる。みんなの意見がばらばらで話し合っても纏まらず、ただただ時間が過ぎていくそんな時に、間合をとる。イコール休憩を取ることが必要になる。
間合には相手の目を見ることが重要だと思う。例に出した話す時の間合でも話す時相手の目を見て動かなければいけないのと同じように、柔術も相手の目を見て動かなければいけない。それは間合とつながり自分が目をそらせば隙が出来、逆に相手に自分との有利な間合をとられてしまうからである。
だから、これからの稽古は、そのことを踏まえて取り組んでいきたいと思います。」
間合は柔術にとって非常に重要で、相手にかかっていた技も3cmも間合を間違えると技は掛からなくなってしまいます。
よくよく工夫してください。
貫汪館H.Pの貫汪館会報のページに月刊『武道』8月号の記事を載せました。 9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。他流派、他道場の方や一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
- 2007/09/26(水) 00:04:10|
- 昇段審査論文
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中学校1年生の男の子の初段の論文を紹介します。数年前に稽古を始めたときには、上達できるのだろうかと思うほど体を使うことができませんでしたが、自発的に根気よくこつこつと稽古を続けてきた結果、昨年から急に上達を始めました。努力、工夫を今後も続けてくれるよう指導したいと思っています。
「姿勢」
柔術で大切なのは姿勢です。姿勢がいいと気も引き締まるような気持ちがするのです。
ぼくは普段いつも猫背になっています。例えば勉強をしているときや、テレビを見ているときに背中が丸くなって姿勢が悪くなります。そんな時にはお父さんやお母さんから「姿勢が悪いよ。」と言われます。
自分の姿勢を良くしている時もあります。姿勢を良くしているときは集中している時ややる気がある時です。「やる気が無いな。たいぎい。」と思っているときはたいてい、姿勢が悪いときです。毎日意識して、体に自然な良い姿勢を心がけたいと思います。
柔術の稽古をしていて姿勢が大切だと思う理由は技がスムーズになるからです。技を極めにくいときは姿勢が崩れているときです。
例えば意地稽古をしている時、僕の姿勢が崩れていたらすぐにバランスを崩されてしまい、技をかけられています。妹の稽古を見ていてもそうでした。妹の姿勢が崩れていたら、ちょっと押されただけで、すぐ転びます。また、姿勢が悪いときには妹がどんなに技をかけようとしても先生方は転びませんが、妹の姿勢が良くなると、先生達が転ぶということがわかりました。
これからも自然な良い姿勢が取れるように稽古をがんばりたいと思います。
11月25日(日)午前9:20から厳島神社において日本古武道協会主催の演武会が行われます。渋川一流柔術は1番目と最後に演武致します。最後の演武は14:16からです。演武される方以外の方もお時間があればお手伝いにお越しください。 12月9日(日)、午前9:30~午後16:00の間、貫汪館 無双神伝英信流抜刀兵法 居合道講習会を実施します。
今回の講習内容は無双神伝英信流の基礎的事項です。道場外の方にも公開して行う講習会ですから、どなたでもお越しください。詳しくは貫汪館ホームページの無双神伝英信流抜刀兵法 稽古のページ(←クリックしてください)をご覧下さい。
- 2007/11/23(金) 01:31:19|
- 昇段審査論文
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渋川一流柔術の初段受審者の論文を載せます。元来、渋川一流柔術には「初傳」「中極意」「免許皆傳・上極意」の段階がありますが、修行に倦むことを避けるため、「初傳」までに初段・二段を「中極意」までに四段を、「免許皆傳・上極意」までに六段をそれぞれ設けています。
本受審者は 何年ももかけて努力した甲斐があって、やっと柔術とは何かということがわかり始めたようです。あとは我意をもたず、体得の努力を惜しまず、向上していただきたいと思います。
姿勢について
武道における姿勢は、外見で形を整えようとするものではなく、内面や心といったものと強く結びついていると考える。
姿勢のあり方として、体の力をぬいたり、体軸といった体の中心や丹田を意識した呼吸といったことがあるが、これら姿勢のあり方に集中してしまい自分自身の体を固めてしまうことがある。また、敵の想定を意識するあまり、前方へ意識が集中し体の中心がずれてしまうことがある。
こうした、何かをしようとする思い、心の動きが本来の姿勢を妨げているのである。
武道の姿勢は、相対する敵の動きを制することが前提である。目の前の敵、または四方の敵が迫ってくる。そうした敵の動きに対応できる姿勢でなければならない。しかし、何かをしようとする心の動きによって、本来の姿勢を失ってしまっては、とても敵の動きを制することはできない。
姿勢のあり方、敵の想定といったことに心が囚われず、本来の姿勢を失わない、平静な心が重要なのである。
体を地にあずけ、心を落ち着かせていれば、いかなる姿勢をとろうとも、己の中心を見失うことはないであろうし、また敵のどのような動きにも心は反応し、体も自ずと動くのである。
こうした心のあり方は、宮本武蔵の記した「五輪書」において「兵法の道において、心の持ちやうは、常の心に替わる事なかれ。」とあり、いわゆる平常心の重要性を記している。また、他の武道書にも、こうした心のあり方を記してあり、心の稽古に苦心している。
しかし、こうした心を平静に保つことは容易なことではない。まして、相対するものが向かってくる時に平静でいるということは尚更である。例え、心の平静を保っていても、何かをしようとする思いによって無意識に心が囚われ、それが姿勢に表れてしまうものである。
この無意識の思いをなくすには、日常生活においても自分の感覚のあり方に注意しなければならない。
「兵法家伝書」において、「初重の心持を修行して修行積りぬれば、着をさらんとおもはずして、ひとり着がはなる也」と記されおり、常日頃において心の稽古の重要性を謳っている。
日々の生活において、どこか体に無駄な力が入っていたり、無理な姿勢をとっていたりする時がある。そういう時は、得てして何かに意識が向いていたりと、自分の感覚を無視している。この日常において、より感覚を働かせ体の違和感を感じとり、心のあり方を変えていくことが、無意識の思いをなくすことができ、より自然な本来の姿勢になるはずである。
自分自身、未だに未熟であり、稽古や日常においてもどれだけ己を理解しているか考える。これからもより己の感覚をみがき、理想とする武道の姿勢に近づけるよう稽古を続けていきたい。
明日の稽古は居合・柔術とも1時より2時まで廿日市スポーツセンター武道場で行います。その後、廿日市天満宮に移動し奉納演武を実施いたします。
- 2007/12/21(金) 21:19:52|
- 昇段審査論文
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渋川一流柔術の初段の論文を紹介します。実技の試験は随分前に終わっていたのですが論文が苦手で書き上げるのに時間を要しました。小学校6年生から稽古し、中学三年生まで努力して、初段になりました。
間合について
間合とは自分と相手の距離、空間のことを言う。間合は礼を考えるうえでの重要な観点でもある。
間合をどう処理するかは勝敗の別れとなる。物理的には相手と自分との距離は同じ1メートルであったとしても、「相手にとっては遠く、自分には近い」という状況を作り作り出すことができる。
間合とは相互の様々な要素が絡み合って一つの間が生まれる。自分の間合を保ちたいと思っても相手も常に変化する。常に自分に有利な間合を取ることは難しいことだが、自分に有利な間合を取れるようにすることが大事である。自分に優位な間合を取るためにはまず、自分の間合を知ること。稽古をつみ体に染み付かせておくことが大切。自分の間合を理解することにより、相手に対して有利な間合が取れるようになる。
間合には近間で絶対的間合というものがる。絶対的間合とは、お互いが詰め寄り、何か変化、動きがあれば、一瞬のうちに飛び込んでいくぎりぎりの間合のことである。これは張り詰め糸が切れる一瞬のような緊張感のある間合の事。絶対的間合において勝負している時には動きが無くとも周囲を緊張感が包み込む。
間合とは一つではなく多くのとりかたがある。
私は間合の大切さを学んだ。自分に有利な間合を知り、稽古を重ねて体にしっかり染み付かせることが大事と言うことが分かった。これからも稽古を重ね、自分に有利な間合を見つけ、どんな相手に対しても自分に有利な間合を取れるようにしていきたい。
無双神伝英信流抜刀兵法の稽古始は1月9日(水)午後6時半から、廿日市市立七尾中学校武道場です。以後稽古は平常通り行いますのでお間違いになられないで下さい。
- 2008/01/05(土) 10:52:53|
- 昇段審査論文
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渋川一流柔術の初段の論文を紹介いたします。
「姿勢」について
幼少期より、体の大部分を固める直立不動の姿勢、いわゆる「気をつけ!」の姿勢が良いものと学校等で習いました。集団行動での便宜や見映えのための必要から作られたのかもしれませんが、長時間この筋肉の緊張状態を保つことは困難ですし、押せば容易く倒れてしまう不安定な姿勢です。
これとは異なり、武術における姿勢は、決められた状況ではなく、いついかなる時、場所においても、またどこからでも身の危険が生じれば、自由に即応できる状態が求められます。
そのためには、まず普段からの心の持ち様が大切になります。隙を作らず、心の中の焦りや、奢り、固定観念を失くして、心を静かに強くしておかねばなりません。ただ、この状態はピンと張り詰めたきつい状態をいうのではなく、気を弛めず、心を居着かせない状態をいいます。
いざ、事が起こった時に考えてから動いたのでは遅く、不要な感情は体の臨機応変な反応をかえって妨げてしまいます。更に、それらの感情が表情に出れば、そこを相手につけこまれ、自らを窮地に落としかねません。
五輪書水の巻で兵法における体の姿勢について記された一節にも、「眼を少し細めにして、柔和で明るく見える顔で、」など、平生と変わらぬ顔の表情についての記述が、体よりも先にあり、その重要性がうかがわれます。
武術、特に柔術は自ら戦いを求めるものではなく、避けようの無い侵害から、やむを得ず自分や大切な人を守るための手段ですので、憤怒の形相で相手を威嚇し、戦いを招きこむ所作や、殊更に自分を大きく見せるために棒立ちになり、のけぞるほどに胸を張る体の姿勢とは無縁です。
思うに、自由に即応できる姿勢とは、決して大袈裟なものではなく、
心がけひとつ楽になった、あるがままの自然な佇まいであると考えます。
あえて、その特徴を言うならば、身体、特に腹筋を固めないように力ませず、鼠径部を柔らかくし、腹の奥まで深い呼吸をして、重力にまかせて重心を落とし、全身を同じように感じながら、体の中心核を常に意識して、そこから動ける状態のことです。ここで、楽になり力ませないというのは、単に脱力して骨抜き、猫背になることではありません。
危難を避けられるか、動けるか否かは、まずは上述してきたような落ち着いた心と体の調和がとれた自然な姿勢がとれているかに懸かってきます。
しかし、気がつくと深層心理に染み付いた「気をつけ!」の状態に安易に逆行し、しがみつこうとしてしまいます。
非常の時に即応できるようにしておくためにも、我執を捨て去り、教えをただ素直に学ぶ姿勢を第一に心がけて、道場だけでなく日々の暮らしの中でも、よくよく稽古しなければと思います。
無双神伝英信流抜刀兵法の次回の講習会は5月31日(日)英信流の予定です。詳細が決まりましたらホームページでご連絡いたします。多くの方のご参加、お待ちいたしております。
貫汪館ホームページの無双神伝英信流の行事のページに大森流講習会の写真をのせました。御覧下さい。
福岡県久留米市での無双神伝英信流抜刀兵法の稽古は3月からは第1水曜と第3水曜が荘島体育館剣道場での稽古となります。第2、第4水曜日はそのつど久留米道場の稽古記録に記載します。興味のある方は 無雙神傳英信流抜刀兵法 久留米道場の《稽古日時・場所》に記してある連絡先からご連絡ください。時間は午後七時くらいからになります。
無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場のホームページ(←クリックしてください)です。
- 2009/03/16(月) 21:26:25|
- 昇段審査論文
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先日行いました渋川一流柔術の四段の論文を掲載いたします。素晴らしい内容ですので、皆さん稽古の参考にされてください。
「初心者指導上の留意点」
初心者の方だけでなく私達にとっても力を抜ききって動くということは至難の技です。自分では力を抜いているつもりになっていても動きの中で身体のどこかに力みが生じて力を抜ききれていということが度々あり、力みのない身体を実現することは難しいものです。しかしながら、何時如何なるときにも対応できるような身体を実現するためには、この力みが動きの大きな障害となります。特に初心者はこれまでに日常の生活で身についた動きが前提であるために、人によって様々ではありますが何らかの硬さや力みがあります。そのため初心者にとって身体のどこにも力みなく姿勢を保ち、筋力をもちいないで身体を運ぶということをイメージすることは非常に難しいことであるように感じます。また動きのなかで自身の身体の力みや姿勢の崩れを感じられていないでいることが多くあるように思います。そこで私が初心者を指導する上で気を付けていることは、できるだけ心と身体をリラックスしていただき、自身の身体の状態を感じ取れる状態を保ちながら稽古をしていただくことです。それは自身で身体の状態を感じる感覚を身に付けることなしに上達することはできないと考えるからです。しかしながら一度に多くを求めたのでは消化不良を起こし、心に力みが生じるようになる恐れがあるため、段階的に初心者の方の状態を見ながら導いていくことが大切だと考えます。
まず形稽古を始めて間もないときに、形を覚えようと形の手順や手足の運びに意識が集中するあまり目付けが定まらなくなることがあります。このとき身体にゆがみが生じ姿勢が崩れ、その崩れた身体を支えるために無意識に力みが生じ硬くぎこちない動きになります。この動きのまま稽古を繰り返してしまうとこの硬くぎこちない動きが身につき、後の稽古に大きな障害となってしまいます。この段階ではまず形の手順に囚われないように力を抜いて呼吸とともにゆったりと身体を運んでいくことを意識した稽古に導いていくことが大切だと考えます。
そしてある程度、形稽古を積んで形の手順を覚えてくると無意識のうちに『投げる』、『極める』ことに意識が集中するために、ゆとりの無い焦った動きになることが多くあります。このように一点に集中した動きでは筋力が働くために力みが生じて呼吸が止まり、二段階の動きとなるために隙だらけとなります。このような動きは途中で相手が変化した場合に修正することができません。その様な動きが身についてしまうと、相手が投げられることを前提とした形稽古には有効であっても、相手がどのように攻撃するか分からない実際の動きには対応することができない身体を作ってしまいます。このようなことが起こらないようにするためにも、常に自分の身体の変化と相手の身体の変化を感じられる速度で稽古し、調和の取れた動きを心がけ『投げた』、『極まった』は自然にそうなる事と理解していただくことが重要だと考えます。
次に、指導に当たる者が受けをとる場合に初心者が捕りやすいようにと仕掛けをゆるくいい加減なものにし、捕りの身体まで突きが届かないような場合に、捕である初心者が身体を静態させたまま相手の突き(手)を捕りにいき、それから技に入るということがあります。私たちが学ぶ柔術は触れれば切れる刃物を持った相手を相手にするわけですから、このような動きが身についてしまったのでは容易に刺されて命を落としてしまうということになりかねません。その様なことにならないためにも受けを勤める者はしっかりと相手を制する仕掛けを行うことが重要だと考えます。そのことによって仕掛けの心の起こりをとらえる感覚が養われ、適正な間合、呼吸、かわす動作が養われると考えます。
終わりに、『いつ何時』にも対応できる身体を実現するためには、武道の稽古は道場で行うものという発想で叶うものではないと思います。日常と道場で、身体のあり方が違っていても自由な身体を得ることは難しいものです。ましてや『いつ何時』は日常にこそ起きるものですので日常での身体のあり方こそ重要であると思います。初心者の方を指導していく上で日常での工夫こそが上達の手がかりであることを理解していただくよう導くことが大切であると考えます。
昨日に続き石橋文化センターの庭園の花の写真です。
5月1日(金)午後1時半より鹿島神宮奥参道において森先生の倭式騎馬会による流鏑馬が行われます。お時間がある方はお出かけください。倭式騎馬会は日本原産の馬による流鏑馬をされますので日頃見慣れた流鏑馬とは異なった趣の純和式の流鏑馬が見られると思います。
日本古武道振興会による京都での奉納演武会は以下の日程場所で行われます。
5月4日(月) 午後1時から下鴨神社舞殿・橋殿
5月5日(日) 午前11時から 白峯神宮神楽殿
4日は無双神伝英信流抜刀兵法が5日は無双神伝英信流抜刀兵法と渋川一流柔術が演武致します。お時間のある方はお越しください。なお開始時間は繰り上がる事もあります。
無双神伝英信流抜刀兵法の次回の講習会は5月31日(日)英信流の予定です。多くの方のご参加、お待ちいたしております。
福岡県久留米市での無双神伝英信流抜刀兵法の稽古は
5月は6日(水)、20日(水)が荘島体育館剣道場での稽古、13日(水)、27日(水)が城南中学校武道場となります。興味のある方は 無雙神傳英信流抜刀兵法 久留米道場の《稽古日時・場所》に記してある連絡先からご連絡ください。時間は午後七時くらいからになります。
また23日(土)夜と24日(日)終日稽古会を行います。
無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場のホームページ(←クリックしてください)です。
- 2009/04/30(木) 21:21:58|
- 昇段審査論文
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渋川一流柔術 七尾道場長の論文です。何も解説を加える必要がありません。初心者の方はよく読んで理解してください。上達の方法についてしっかりと書かれています。
「柔らかいということ」
柔術を稽古することにおいて、「柔らかい」とは?高木流體術拳法の片岡健吉は『體術道標』の最初の一文のところで、「夫體術者四體和ラカ二シテ自カラ力ノ行届クヲ専要トス」と「柔らかい」事の重要性を説いています。体・四肢を柔らかにして、自らの力が体の隅々まで行き渡ることが、柔術を稽古する者にとって重要であるということです。ここで、重要なことは「四體和(柔)二シテ」の部分だと思います。「柔らか」になることで、身体の内に調和がうまれ、自らの力(筋力ではなく臍下丹田からの力)が初めて体の隅々まで行き渡り、業が自然に極まります。それでは、「柔らか」になるには、どのようなことに気を付ければよいのでしょうか。
まず、初めのうちは身体のあちらこちらにある筋肉の固まり、力みを一つ一つ感じ取ることから始まると思います。その後、それらの固まり、力みを取り除いたのちに、その状態を保ったまま稽古をすることが大切だと考えます。稽古は形稽古が中心となりますが、形を覚える事に気をとられ、動きが止まったり、筋肉が固くなることは、絶対に避けなければならないことです。また、業を極めようとして、無理に力を入れることも避けなければなりません。そうすることで、次第に身体の力み、固さが無くなり、自分の中心(線)が感じ取れてくるようになり、心身の調和が生まれてきます。
身体の固さが無くなり柔らかくなると、身体の重さを感じられるようになります。また、呼吸も自然と深くなり、次第に臍下丹田に納まるようになるでしょう。中心が臍下丹田に納まり、身体の重さを感じると、そのまま床に身体をあずけきります。身体は柔らかく、どこにも力みの無い状態を保ったままです。注意することは動くことを焦らない事です。焦ることで身体のどこかに力みが生まれ、柔らかさは失われてしまうからです。柔らかさが無くなれば、再び、力み、固さを無くす稽古を始めます。ある意味、稽古はこの繰り返しではないでしょうか。動けないからといって焦らず、床に身体をあずけさらに柔らかくなることで、自然に無理なく動けるようになるでしょう。また、臍下丹田から身体の隅々まで力が行き届き、相手とのつながり調和が生まれ、自然と業も極まるようになっているでしょう。
最後に、今まで述べてきたように「形を覚えようとする」・「業を極めようとする」・「動こうとする焦り」などから起こる固さは、心がそれらに凝り固まるために起こることだと思います。あるいは「今までに身についた動きや癖」もそうかもしれません。初めのうちは、「形」・「業」にこだわることなく、とにかく身体を柔らかくして、大きくスムーズに動くべきだと考えます。心は絶対に素直であるべきでしょう。次第に、呼吸を深く大事にしながら、心を静かにして稽古を重ねるべきだと考えます。「~をしたい」という欲を無くし、心を柔らかく何ものにもとらわれることがなく、自然で無理無駄の無いことが柔術(武道)ではないかと考えます。つまり、柔術において「柔らかい」とは、身体の柔らかさはもちろんですが、心の柔らかさにその主な意味があると考えます。
参考文献
『広島県立廿日市西高等学校 研究紀要第11号 平成14年度』
「無雙神傳英信流の研究(1)――土佐の武術教育と歴代師範及び大森流の成立に関する一考察――」
著者 森本邦生 先生
本年、第一回目の居合道講習会は施設の関係で3月7日に変更いたします。場所は七尾中学校武道場です。講習会では「抜付け」をテーマとして大森流・英信流表の稽古を致します。 無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場の稽古は毎週水曜日 城南中学校剣道場 19時~20時45分です。興味のある方は 無雙神傳英信流抜刀兵法 久留米道場の《稽古日時・場所》に記してある連絡先からご連絡ください。
無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場のホームページ(←クリックしてください)です。
- 2010/02/10(水) 21:25:46|
- 昇段審査論文
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高校生の初傳の論文を掲載します。小学生で稽古をはじめ、中学校のクラブで忙しい中、休むことなく稽古に通い、高校生になったときには体育系のクラブに入ったら稽古に通えなくなるからと文科系のクラブに入り稽古に通っています。指導者として小学生の指導をしてくれています。
初傳は流派の基礎を身につけている段階です。これからますます上達していただきたいと思っています。
「残心について」
残心とは心を静めて油断することなく、相手を冷静に見ること。そして例え一度倒した相手が何をしてきても、周りで何かあっても対応することのできる心と身体の状態のことをいいます。
始まりがなければ終わりもない。武術をする者にとっては常に心がけていなければならないことです。この残心という言葉は、日本古来より伝承されてきた武術や芸道に深くかかわる言葉です。それぞれで残心の意味が少しずつ変わってくるようですが、基本は字の通りに人や物に執着し、心が残るという意味で使用されます。ここでは武術に限る残心を述べていきたいと思います。
残心があるかないかを大きく見て取れるのは技をかけることができた後のことです。人間、心に隙ができるのは何かをやり遂げることができたと自覚した瞬間です。武術をする者にとってもそれは例外ではないようで、隙がまさに目にまで見えるのは技をかけたあとのことです。しかし、その瞬間はあってはならないものです。隙が見えるのは油断をしてしまい残心がないと言える状態になってしまうからです。どんなに難しい技をかけようとも、残心のないものは遊びと同じように感じられます。
実際に稽古としてではなく、人に技をかけることを想定してみてください。自分が技をかけることができて、相手が地に伏せているとしても油断することはできません。相手はわざと地に伏せているだけかもしれません。まだ周りからは危険が迫っているかもしれません。相手に技をかけたということだけで状況は何も変わっていません。自分が優位に立ったと思った瞬間に負けてしまうのです。しかし残心の心を忘れないものならば技をかけた瞬間に買った、終わったなどと思うことはないはずです。そう思うことで自分に油断する心が生れ、まざまざと自分の弱点を相手に見せつけるようなことになるとわかっているからです。相手の次の行動をじっと見つめ、どんな状況にも対応できるようでなければなりません。これからの稽古でもそのような心掛けをし、残心を大切にしていくことが上達への道になると考えます。
本年、第一回目の居合道講習会は施設の関係で3月7日に変更いたします。場所は七尾中学校武道場です。講習会では「抜付け」をテーマとして大森流・英信流表の稽古を致します。 無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場の稽古は毎週水曜日 城南中学校剣道場 19時~20時45分です。興味のある方は 無雙神傳英信流抜刀兵法 久留米道場の《稽古日時・場所》に記してある連絡先からご連絡ください。
無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場のホームページ(←クリックしてください)です。
- 2010/02/11(木) 21:25:10|
- 昇段審査論文
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渋川一流柔術の昇段審査の作文です。よく纏まって書けていると思いますので、稽古の参考にされてください。
~「姿勢」について~ 澁川一流柔術初段論文
姿勢とは、心身状態が表れる姿・形であり、特に武道では“自然体であること”が求められる。
元来、武道・武術が目指すのは、自分に危害を加えようとする敵を無力化して、自らの身を護ることである。そのためには、いつどこから来るかわからない、敵からの攻撃に対し、即応できなくてはならない。体力をすぐに消耗するような姿勢であれば、すぐに隙が生まれ、敵から追撃を受けることになり、また、前方にしか対処できない構えであれば、後方から不意を衝かれることにもなる。前後左右上下、あらゆる方向に対して、長時間、気を感じ続けることができる姿勢が望ましく、それを成せるのが自然体である。
さらに、相手が攻撃を仕掛ける前だけではなく、自分が技を仕掛けている最中や、技を極めた後にも、自然体である必要がある。なぜならば、相手の攻撃が、技の途中で変化することもあるし、一人を取り押えても周囲に他の敵が潜んでいる可能性もあり、それらに対処するには、やはり、即応できる姿勢が求められるからである。
本来、自然体とは、意識的に作り出すものではなく、無理な力や、無駄な動きを排除した結果、得られるものである。首や肩だけでなく、腰や鼠頸部、目や耳や喉など、体の各部をゆるめることで、周囲の状況を五感で感じられるようになり、そのままのゆるんだ状態で重力に任せ、天地の間で肚を感じることができれば、敵の攻撃に対しても、落ち着いて反応することができ、また、動きの中でも、常に肚を中心に天地を感じ続けることができれば、無理な力や無駄な動きはなく技は極まり、結果として自然体に近づいている。
逆に、技の中で流れが止まってしまったり、どこかで力むような動作が入ることは、自然体になっておらず、技として完成していない証であり、日々の稽古や日常生活において、改善すべき箇所と言える。特に、動きに角がついてしまうのは、体のどこかの部位が固まっているからである。大抵の場合、体が固まるのは、それ以前の動作で、肚を中心に動いておらず、不自然に力んだ姿勢になっているからである。さらに元を辿っていくと、相手に対する、必要以上の恐怖心や、“ああしよう、こうしよう”といった我執が、心だけでなく、体も歪ませる原因となっている。
「五輪書 水の巻」の冒頭<兵法心持ちのこと>に、“心を広く、直にして、きつくひつぱらず、少しもたるまず、心の片寄らぬやうに、心を真中に置きて…”とあり、続く、<兵法身なりのこと>では、姿勢に関する詳細の記述の中にも、“肩より総身はひとしく覚え”とある。稽古においても、心が浮付いていない時は、受の突きを澱みなくかわし、技を掛けることができ、受の状態を自分の体を通して感じ取り、文字通り、肚に治めて極めることができる。心と体は関係しており、心の平静を保つことと、全身を同じように感じることを、巻の最初で説いていることからも、精神と身体における自然体の重要性がうかがえる。
従って、姿勢は、技を掛けるための大事な出発点であると同時に、自分の現在の状態を知り、技を磨く手掛りにもなる。このことを常に念頭に置き、日々研鑽することが、武術を修める者として、稽古に臨む上での大事な姿勢であると思われる。
無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場の稽古は毎週水曜日
荘島体育館 軽運動室 19時~21時です。興味のある方は
無双神伝英信流抜刀兵法 久留米道場のホームページ(←クリックしてください)の《稽古日時・場所》に記してある連絡先からご連絡ください。
- 2011/09/12(月) 21:25:59|
- 昇段審査論文
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渋川一流柔術初段の論文を載せます。
武術では、突然の事態に瞬時に反応できる心身が求められており、それを実現するためには姿勢が重要になります。
一般的に胸を張り背筋をピンとして腰を反らせるのが良い姿勢と思われていますが、この姿勢は明治以降に西洋から導入された姿勢であり、この姿勢を作ることにより重心は胸まで上がってしまいます。
このように身体の緊張により姿勢を作ってしまえば、その部分が居着き、隙になってしまうので、突然の事態に対応することが出来なくなってしまいます。だから、江戸時代の武士の写真や伝書の絵などを見ても、このような姿勢をしている人は見当たりません。
江戸時代から伝わる武術を修行する我々は、現代の常識に惑わされぬよう常に江戸時代に書かれた伝書や資料などから、当時の修行の様子を学ぶ必要があります。
また、武術では、より楽に、より自由に動くことができるように無駄な力を抜き、繊細な感覚を養うことで徐々に自然な姿勢を身につけて行きます。自然な姿勢であれば自ずと中心が有るべき所に定まり、武術に不可欠な中心の感覚が出て来ます。
その他にも姿勢と心は深くつながっています。
心に力みがあれば姿勢にも力みが、心に歪み、ひずみがあれば姿勢の歪みになって現れて来ます。
具体的には型の手順を追ってしまう。相手を斬ろう、投げようとする。つまり、何かをしようとする心が姿勢を崩してしまいます。
また、武術に於いて呼吸も重視されておりますが、正しい姿勢が出来れば自然に心も落ち着き、呼吸も深くなります。
このように姿勢は大切なものであり、身につけるためには稽古の時だけでなく日常生活でも無駄な力を抜き、繊細な感覚を養いながら正しい姿勢を求め続ける必要があると思います。 8月11日(土)栃木県佐野市城東中学校校庭において倭式騎馬会による秀郷流流鏑馬が午後4時より行われます(雨天決行)。和駒による流鏑馬は倭式騎馬会でしか見ることができませんので、お時間のある方は是非お出かけください。チラシの画像をクリックすると拡大されます。
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荘島体育館 軽運動室 19時~21時です。興味のある方は
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- 2012/08/01(水) 12:25:23|
- 昇段審査論文
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貫汪館では昇段審査には実技のみではなく論文の課題も課ししています。来年、審査資格を得ることができる方のために各段位の課題を載せておきますので参考にしてください。なお論文ですので論文としてのの体裁を保っていなければなりません。当面、この課題で行いますが、状況を見て課題を変える可能性もあります。
また各段位の文字数は以下の通りです。
初段 3000字以上
二段 3000字以上
三段 6000字以上
四段 6000字以上
五段 6000字以上
六段 6000字以上
七段 8000字以上
無雙神傳英信流抜刀兵法初段
武道における礼と無雙神傳英信流抜刀兵法における礼法について述べなさい。
二段
これまで修行上留意してきたこと、今後留意しなければならないことを述べなさい。
三段
居合の歴史における無雙神傳英信流抜刀兵法の歴史とその特質について述べなさい。
四段
無雙神傳英信流抜刀兵法指導上の留意点を述べなさい。
五段
無雙神傳英信流抜刀兵法を通じて何を教えるべきかを論じなさい。
六段
無雙神傳英信流抜刀兵法普及の方策について論じなさい。
七段
居合とは何かについて論じなさい。
大石神影流剣術初段
武道における礼と大石神影流剣術における礼法について述べなさい。
二段
これまで修行上留意してきたこと、今後留意しなければならないことを述べなさい。
三段
剣術の歴史における大石神影流剣術の歴史とその特質について述べなさい。
四段
大石神影流剣術指導上の留意点について述べなさい。
五段
大石神影流剣術を通じて何を教えるべきかを論じなさい。
六段
大石神影流剣術普及の方策について論じなさい。
七段
剣術とは何かについて論じなさい。
澁川一流柔術初段
武道における礼と澁川一流柔術における礼法について述べなさい。
二段
これまで修行上留意してきたこと、今後留意しなければならないことを述べなさい。
三段
柔術の歴史における澁川一流柔術の歴史とその特質について述べなさい。
四段
澁川一流柔術指導上の留意点について述べなさい。
五段
澁川一流柔術を通じて何を教えるべきかを論じなさい。
六段
澁川一流柔術普及の方策について論じなさい。
七段
柔術とは何かについて論じなさい。
- 2013/09/25(水) 21:25:31|
- 昇段審査論文
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昇段審査の優秀論文を載せていきます。初めは初段の論文です。
「武道における礼と渋川一流柔術における礼法について述べなさい」
この度、初段の昇段試験に臨むにあたり「武道における礼」を学ぶ為読んだ書物にあった『礼』について書かれていた箇所を抜粋してみる。
「礼が優れた護身の心得である。礼による護身は、腕力による護身よりもはるかに効率的でスマートだ。『礼』がどう身を護り、不作法がどう敵をつくって危険を招くかということを教えれば、それはきわめてレベルの高い、すぐれた武道教育になる」
「礼とは人の良識であり、ものの道理である」
「人の暮らしには「和楽」と「けじめ」の二つが必要で、礼が受け持つのは人と人との境目を明らかにすること」
「形をまねるのでなく、「心」を知ることである。「きまり」と考えてしまったのでは、その「きまりごと」の一つひとつをすべて覚えなければならないが、「心」を承知していれば応用変化が可能である」
「相手に不快を与えない(困らせない、怒らせない、淋しがらせない、心配させない、手数をかけさせない、いやがらせない、恥をかかせない、当惑させない)こと」
「自分本位、自己中心の考え方を克服する努力が必要」
「武道人の立居振舞いには「他人への敬意」と「隙のなさ」と「威」がそなわっていなければならない」
「武士としての気位と恥を教えなければならない立場の者が、自分に教えを請う者たちを「人」として扱わず、そのプライドを踏みにじるとしたら、それは大きな自己矛盾である。相手が子供であっても、敬意を払っている。少年たちに対する「礼」があったのである」
「敵を倒すための「間積もり」が、使い方次第で人に不快を与えない、人をいたわるための作法に転化するのである」
「『間合いをとることでいやな相手とも付き合える』互いに一定の間合いを保っていれば、勝負はつかないが共存はできる。隣人との付き合い方の知恵ではないか」
まだまだ細かく見落としている事が多々ありますが、「武道における礼」とは相手に不快を与えないという事を常に考えながら行動する事で、その行動が無駄に敵を作ることなく、自身を護る事になっているのだと解釈しました。
力を使わずとも、身を護れる術を日々の暮らしの中で自分のものにしておく事が根本にあり、心も体もいつ何時も柔軟に対処できる体制を整えておく。その為の心と体の間積りを習得する事が武道における礼を実践できるのではないかと思いました。
袴を着、刀を差している姿がカッコいいのでなく、その姿に恥じない生き方をしている姿がカッコいいと思わせているのだと分かりました。
「渋川一流における礼法について」は、道場に通うようになり真っ先に感動したことがあります。それは先に述べた「武道における礼」で「少年に対しても敬意を払う」との記述がありましたが、まさにその行動を先生方がとって下さっている事です。私は子供に何か習い事をと、探している中で渋川一流に出会ったのですが、まだまだ落ち着きのない息子に、ともすれば頭ごなしに言う事をきかせようとしてしまいがちですが、先生方は子供に対しても、諭すように子供の目線に下がりお話下さり、子供と思っていてもその真剣さは伝わる訳で子供の態度が変わるのを見て、こちらにお世話になることは子供にも私自身にも良い事だと確信しました。
子供に武道を学ばせたいと思った背景には、昨今の物騒な時代背景もあり、自分の身は自分で護る「力」を養って欲しい。でも自分から相手に向かって行くのではなく、やむなく向かってくる相手に対して対処出来る様になってもらいたい。という思いがあり、柔道や
空手は自分から相手に向かっていく勝手なイメージがあり、また近所の道場を見学した際、先生が竹刀を手にしているのを見て、あの竹刀でどうするつもりなんだろうと、不信感が沸いてしまい、通うに至りませんでした。書物にも 「自分に教えを請う者たちを「人」として扱わず、そのプライドを踏みにじるとしたら、それは大きな自己矛盾である」とありました。竹刀を持って指導をする先生のようになりたいと思う子はいないのではないかと思いました。また、そう思わせてはいけないのだと思いました。
渋川一流では形をまだ出来ない息子に、一見子供の悪ふざけに付きあっているかのように見える稽古風景で、子守をして頂いている様な、申し訳ない気持ちで私は自身の稽古をしているのですが、両腕を捕まれた時の逃げ方、抱きつかれたときの逃げ方などちゃんと子供の身についているんです。手加減とはまた違う、受取る側の許容に対して、それに相応しいやり方で習得出来るよう、対処して下さっているのだと感じています。書物にあった「形をまねるのでなく、「心」を知ることである。「きまり」と考えてしまったのでは、その「きまりごと」の一つひとつをすべて覚えなければならないが、「心」を承知していれば応用変化が可能である」の様に、こうきたら、こうする。と教えるのでなく、普段何気ない時に技が出来るよう教えて下さっているのだと思いました。実際子供が騒がしくしている時、両腕をつかんで話そうとすると、捕まれた手を振り払う動作をしてきますし、寝室に入る際「ここ道場ね」と言いながら一礼をして入る練習をしてみたり、普段の生活の中にちゃんと教えて頂いた事が活かされています。私のほうが形に囚われすぎて力が入り、心と体のバランスが崩れてしまっているのだと気づかされます。
この度、昇段試験で私自身「武道の礼」を学ぶ為、書物を読んで「文武両道」を勘違いしていたことに気づきました。私は「文」は学問の事だと思っていました。勉強とスポーツどちらも優れている人のことを言うのだと思っていましたが、「文」は礼節であり、武道人の行動律としての「礼儀作法」である。とありました。「文」は思いやり、謙虚さ、
といった内面の事だと学びました。
渋川一流は「武」の部分の技だけでなく、「文」の礼法も教われる環境なのだと思いました。それが、「こうだ。」と押し付けるのでなく、先生方の接する態度そのものが「文」の部分の指導になっているのだと思います。
稽古に通うようになってしばらくして稽古始め先生方を前に礼をする時、初心者の私は何年も稽古している小学生達より下座に座るべきだと思っていましたが、先生に大人の中での下座に着くよう言われ、良いのかと少しためらいを感じながら座っていましたが、書物を読んだ今は「年配者」と言うだけで敬うに値し、年少者は年配者に対して敬意をはらい、また年配者は「年配者」と言えども、長く稽古している「年少者」に対して敬意ある態度で接し、敬われるに値する大人にならなければいけない。手本となれる人にならなければいけないと言う事を教わったのだと感じています。
「心」も「形」もまだまだな私が、子供たちより上座に座るに値するのかと、いまだに恐縮する気持ちで列に並んでいますが、このまま精進し、まさに「文武両道」心と体を鍛えて行きたいと思います。
高校の時、週に一時間「礼法」と言う授業があった。商業高校だった為、ジビネスマナー取得の為の授業なので、食事のマナーはこう。席順はこう。と教わり実際社会人になり、役に立っていると思いますが、今思うのは、そこに「心」の部分の指導がなかったなと言う事です。実践できるスキルを教えるのが授業なのかもしれません。実際「礼法」の授業があり恥をかかず済んだ経験はあります。ですが「武道における礼」を学んで、心の大切さを理解しました。
今まで技の取得を目指していましたが、これからは心と技の取得に精進してまいります。
先日訪れた桂浜の風景です。久々に良く晴れた海を見ました。
- 2013/09/26(木) 21:25:09|
- 昇段審査論文
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同じく初段の論文です。
武道における礼と大石神影流剣術における礼法について述べなさい。
礼における起源を遡るなら、古代中国の孔子の時代まで遡る。礼とは社会における行動規範の基本であり、人間関係を潤滑に行うために必要であった。儒教における五常、仁・義・礼・智・信とあるように、儒教の思想の中でも礼は非常に重要な概念であり、のちに礼記として編纂をされるほどであった。儒家である荀子は性悪説を唱えたとして有名であるが、荀子は性悪説を礼によって拘束をすることを考えた。これが「礼治主義」と呼ばれる。
中国大陸の思想は、当然日本へ大きな影響を与えたことは言うまでもない。平安後期から鎌倉時代かけ、儒学は思想として拡大する武家勢力とともに武家の間でも広まり始める。しかしながら、体系化された礼や礼法はさら時代が進むこと室町時代にいたる。現在でも小笠原流礼法として名を残す小笠原長秀らにより『三議一統」が編纂された。
小笠原氏は、清和天皇の流れを組む系統である。小笠原氏の始祖と言われる長清は源頼朝に仕え、小笠原姓を名乗った。長清は弓馬に優れ、二十六歳で頼朝の弓馬師範となり、弓馬等の儀式を執行したと言われている。
その後、小笠原流中興の祖と言われている貞宗により、礼法が加わった。貞宗は、後醍醐天皇より「小笠原は日本武士の定式たるべし」と御手判を賜った。
貞宗四世後の長秀の時代になると、足利三代将軍義満の命によりって、今川氏、伊勢氏とともに、『三議一統」の編纂が行われた。
序文には「世上の身体起居動静の躾の極まる所を鹿苑院義満、昇殿の御家人御一族の中に其旨を総記して進上のやからに鑑賞有るべきのよし、仰せ下さると雖も厚学の輩なし」とあり、そのため、今川氏、伊勢氏、小笠原氏の三氏により『三議一統』が編纂された。
『三議一統』は正式には『当家弓法躾之抄三議一統』で、供奉の仕方、食事の作法、食事の作法、賞状の書き方、首のあらため方、蹴鞠に関する心得なども書かれていた。
その後『三議一統』以来加えられた今川家、伊勢家に伝わる故実を組み入れて小笠原流礼法の整序に努めてまとめられた『小笠原礼書七冊』は、長時と貞慶の時代に研究され、貞慶から秀政に伝えらてたという(1
室町幕府また三代将軍義満は、当時体系化されていなかった礼法を体系化し、武家の教養として躾けることで、人間関係はもちろんであるが武士たちの統制をとることを目的にしていたと考えられる。さらに室町時代から江戸時代と時代が下るにつれ、戦乱は集結し、封建制度の下、儒教の教えと武士の生き方より「武士道」が生まれることになる。
武道における礼は武士道に色濃く反映されている。その手がかりとして新渡戸稲造の『武士道』にある。
『武士道』は江戸時代が終わり、明治の世に武家社会が終わった後に書かれた書物である。『武士道』の中では、西洋との比較が多く見られる。西洋に騎士道があり、武士道と通ずる部分がある反面、まったく異なる価値観も存在するなど考察されている。
礼法は西洋における騎士道にも見られるが、西洋人から見た武士の礼法は「堅苦しく、形式的」に見えると書かれている。
しかし、礼はその最高の姿として、ほとんど愛に近づく。私達は敬虔な気持ちを持って、礼は「長い苦難に耐え、親切で人をむやみに羨まず、自慢せず、思い上がらない。自己自身の利を求めず、容易に人に動かされず、おおよそ悪事というものをたくらまない」とアメリカの動物学者で親日家でもあり甲冑等の研究をしていたディーン博士の言葉を紹介し、「礼法における奥ゆかしさはもっとも無駄のない立ち居振る舞いである。」つまり長い年月をかけて培われてきた経験上の賜物であるとも書かれている。
しかし著者は「私が強調したいことは、礼の厳しい順守に伴う道徳的な訓練である。」と述べ、小笠原流の小笠原清務の「あらゆる礼法の目的は精神を統治することである。心静かに座っているときは凶悪な暴漢とても手出しすることを控える、というが、そこまで心を練磨することである。」という言葉を紹介し、続けて「それはいいかえれば、正しい作法にもとづいた日々の絶えざる鍛錬によって、身体のあらゆる部分と機能に申し分のない秩序を授け、かつ身体を環境に調和させて精神の統御が身体中にいきわたるようにすることを意味する。」と締め括っている。
これらの言葉が物語るに、単に形式的な礼法というわけでなく、武士にとっては自らの心身の調和をとるための修行であるとも言える。
これらは武芸のみならず、能や禅、茶道の世界にも共通して見られる。細部に渡り、決められた作法所作は慣れないうちは、ぎこちなく堅苦しいものと感じられるかもしれない。しかしそれらは、形だけ追い求めている限りはいつまでもぎこちなく感じるのかもしれない。真に心より礼をすることが自然と形を作り、心を律し心身の調和を図るのである。
現小笠和流礼法宗家である小笠原敬承斎氏はその著書の中で次のように語っている。『「こころ」と「かたち」、どちらかが先かといえば、もちろん「こころ」である。
「かたち」が身につくと「こころ」も身につく、などともいわれるが、私はそうは思わない。「かたち」を追い求める人は、どこまでいっても「かたち」ばかり囚われがちである。しかしながら、「こころ」を大切にする人が「かたち」を身につけると、自然で美しい立ち居振る舞いができるようになる。』まさにこの言葉こそ、大石神影流剣術の稽古と通ずる。構え、素振り、試合口とそれぞれの手数を意識しがちである。その結果、構えてしまい、身体が緩まず固くなってしまう。
さらに小笠原氏は続けて『「こうでなければならない」などと、かたちばかり拘る礼法など存在しない。時・場所・状況に応じて変化する「かたち」でなければ、相手を大切にすることなどできないからである。』と書かれている(1 手数にこだわり、こうでなければと細部に意識すればするほど遠ざかっていくことは稽古の中でも何度も考えることがあった。
もちろん神礼は神への畏敬の念であり、試合における礼は相手に対する敬意と感謝を表すものであることも言うまでもない。当然、その気持ちやこころを何よりも大切にすること必要である。
しかし、それを表すために礼法におけるかたちを作ってしまってはまったくの意味のないことである。そのためにも、初心のうちに礼法を大切にしていくことがのちのち構えや素振り、試合口にあらわれてくると考えられる。
大石神影流剣術では神礼に際し、右足を引き、右膝を床につけて両手に拳を軽く作り、拳を床につけ礼をします。この際、身体ひいては下肢に力みが生じやすく注意が必要です。相手に一礼し、刀を抜く際もしっかりと身体の力を抜き緩ませ、臍下へ重心を持っていき丹田を中心として動くことに注意しなければなりません。このように礼法からの多くのことを学ぶことが出来ると考える。
現代において、かつてのように武士が命を懸けて戦うことはない。物質的に豊かさを享受することは出来ても、その結果、こころはどこか置き去りになったかのようである。現代に生きる私達はかつての武士のように武芸を中心とした生活とは程遠く、その力量も遠く及ばない。
しかし、縁があり大石神影流剣術を学ぶこととなり、森本先生という師に学ばせていただき、先輩方に出会うことが出来たことは、何より感謝と喜びであります。この初心を忘るることなく、こころより礼を尽くして大石神影流剣術に励んでまいります。
【参考文献】
1)小笠原敬承斎『誰も教えてくれない男の礼儀作法』光文社新書 四版 2010年
2)新渡戸稲造『武士道』三笠書房 三十五版 2004年
大牟田での大石先生のもとでの稽古の帰りに写した門司港の写真です。
- 2013/09/27(金) 16:25:23|
- 昇段審査論文
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昇段審査課題論文 (無雙神傳英信流抜刀兵法 三段受審)
『居合の歴史における無雙神傳英信流抜刀兵法の歴史とその特質について』
居合は、居相、座合、抜刀、抜剣、鞘離れ、鞘の内などとも呼ばれ、立合に対して用いられた言葉とされる。「和漢三才繪図」の武芸十八般の一つ、「武芸小伝」の武芸九般のひとつに数えられている武術の一つである。10)
しかし元々は、抜刀術は剣術の一部である。刀を抜いた状態で敵に対する技術を剣術とすれば、未だ鞘から刀を抜いていない状態で敵に対する技術を居合術とするが、広く剣術として考えるほうが普通である。私が昔少しだけ稽古をした北辰一刀流にも抜刀術が含まれていた。江戸時代後期に誕生した剣術にも抜刀術の体系が含まれているということは、抜刀術は剣術の一部と考えられていた証左であると考える。
では何故、あるいはいつ、抜刀術が独立した武術として考えられたのか。それは「中興抜刀之始祖」とされている林崎甚助重信に負うところが大きい。剣術の一部であった抜刀術を体系立て、専門的に教導したのが、林崎甚助であった。この林崎の流れから多くの抜刀術の流派が生まれている。田宮流、一宮流、伯耆流、無雙直傳英信流、無雙神傳英信流などが挙げられる。また抜刀術の専門流派ではないが、関口流や水鷗流も林崎の流れをくむ抜刀術をその中核に据えている。2)
天文十一年(1542年)生まれの林崎甚助が抜刀術の工夫を続け、奥義を悟ったとされるのが永禄二年(1559年)である。1)
私は抜刀術の歴史はここから始まったと考える。わずか十七歳で奥義を悟ったことになるが、十三歳より父の仇を討つために百箇日の参籠修行を経たと言われており、現代の十七歳とは比較もできない経験を積んだことを考えると抜刀術の骨格はこの時に生まれたとしても大袈裟ではないと思う。
林崎の工夫した抜刀術はどのようなものであったのだろうか。現在も残る神夢想林崎流などで見ることができる形は、少なくとも仇討を果たしたのちの、人を教導するためのものであったと思う。もう少し素朴な技で刀法と体の運用方法を磨いたのではないか。
「八方萬字剣」という刀法が神夢想林崎流に残されている4)。上、下、左、右、袈裟、逆袈裟、袈裟切上げ、逆袈裟切上げの八つの刀法を納刀の状態から稽古する。敵のあらゆる攻撃に臨機応変に対応するためには、居合術者もあらゆる抜刀方法を習得しておく必要があるはずで、これこそが林崎甚助が独自に稽古した抜刀術の原点ではないか。長大な刀でゆっくりと八つの刀法を稽古することで、体の動かし方を学び、動きの質を変えることができたのではないかと考える。無理無駄を排した動きへの開眼があったのではないか。
議論が居合術の歴史から逸れてしまった観があるが、居合術の本質を考えるうえでその起源を考えることは重要なことである。
私には仇を討つために、なぜ林崎甚助が抜刀術を極めたのか不思議であった。いわゆる剣術を修行し、勝負をしようと考えるのが普通ではないか。今もその疑問は解けないが、林崎甚助が抜刀術を確立したお蔭で、後世の人間はそれをさらに深く極めていくことができた。剣術と違い、きわめて不利な状態を想定し、その中で最大限に体を有効に活用し抜刀し我が身を護るという技術は、心法の深化も促したはずである。いかなる時にも油断をせず、すぐに技が出せるように身体の姿勢や動作に気を配ることはもちろんであるが、刀を鞘から発する前に、礼儀や様々な駆け引きによって敵を作らず我が身を護ることを目指すようになったであろう。太平の世では、この心法のほうが重要であったのではないか。その中で、居合歌之巻にあるような境地「居合とは人に切られず人きらずただ受けとめてたいらかに勝つ」に至るようになったのだ。
また、座り込んだ状態からの抜刀は、体の有効な使い方を習得するにも絶大な効果を発揮したはずだ。師の森本先生は以下のように解説している。7)
「人は立つことによって様々な事を可能にするが、引力に拘束されるが故に、よりしっかり立とうとし、それが人の動きを制限してしまう。つまり崩れたくないために足首、膝、股関節、腰に不自由になってしまうほどの力みを入れ、それによって安心を得ようとする。しかし、武術における立姿は一見不動に見えながらも、そよ風が吹けばそのままふわっと動かされてしまうような自由自在な姿勢でなければならない。」
坐すことも含めた技術自体と稽古方法、想定などをひっくるめた居合術の体系全体で、身心の開発に寄与したのだ。どうして座るということに着想できたのかは分からないが、恐るべき慧眼というべきだと思う。
武術は本来、ルールのない戦いに生き残るための技術であり、そういう意味では不利な条件を想定して我が身を護る抜刀技法とそのための体術、心法を修行する居合術は武術の中の武術といえるかもしれない。武芸十八般の中に含まれて当然の武術であった。林崎以後、居合術は武術の一つとして確実に武士たちへ浸透していったのである。
これまで「中興抜刀之祖」と呼ばれた林崎の居合を中心に述べてきたが、もちろん林崎の居合とは直接関わりを持たない抜刀術も存在する。剣術の一部として存在することが多いと思われるが、香取神道流や立身流、無外流(自鏡流)、浅山一伝流などが現在も残っているようだ。中には優れた体系を持ちながら、失伝してしまった居合術もあるだろう。
しかし、現代にも残る居合術の多くは、林崎の居合と何等かの形で関わりをもつ流儀が大半となっており、居合の歴史は林崎居合の歴史と断じざるをえない。
現代に隆盛を誇る居合術は、無雙直傳英信流と夢想神伝流である。統計的には分からないが、おそらくこの二流派で居合術修行者の半数以上を占めるであろう。このうち、夢想神伝流は、明治期に無雙神傳英信流を学んだ中山博道が興した流儀であるので、便宜上、無雙神傳英信流の中に入れて考える。
無雙直傳英信流および無雙神傳英信流の流れは以下のようになっている。6)
林崎甚助重信(初代)以後、田宮兵衛業正(二代)、長野無楽斉槿露(三代)、百々軍兵衛光重(四代)、蟻川正左衛門宗続(五代)、万野団右衛門尉信定(六代)、長谷川主税助英信(七代)、荒井勢哲清信(八代)と代を重ねた。
九代の林六太夫守政により、土佐へ伝えられた。流名は当初、無雙流と呼ばれていたようであるが、その後には長谷川英信流、長谷川流と呼称される。さらに後の幕末の頃には師範であった谷村亀之丞と下村茂市の遣い方の違いから谷村の「無雙直傳英信流」と下村の「無雙神傳英信流」へと呼称が変化したようである。違いは一体どこで生まれたのか。
長谷川英信流が土佐へ伝えられたところから詳しく見てみる。
無雙流を土佐へ伝えた林六太夫守政は多芸異能の人であったようである。知行八十石の御料理人頭から最後には知行百六十石の馬廻にまで昇格している。柔術や剣術、書にも達している。林六太夫にとって居合術は余技であり、その技は代々林家に伝えられていくことになる。無雙直傳英信流の流れは、以下のように記されている。
林六太夫守政(九代)
林安太夫政詡(十代)
大黒元右衛門清勝(十一代)
林益之丞政誠(十二代)
依田万蔵敬勝(十三代)
林弥太夫政敬(十四代)
谷村亀之丞自雄(十五代)
五藤孫兵衛正亮(十六代)
大江正路子敬(十七代)
林家に伝えられた居合術がその時の優秀な弟子たちを間に挟みながら続いていることが読み取れる。
一方の無雙神傳英信流の流系は十一代以後、下のようになる。
松吉貞助久盛(十二代)
山川久蔵幸雅(十三代)
下川茂市定政(十四代)
細川義昌義馬(十五代)
この十二代松吉貞助久盛が「神傳」の鍵となる人であることがわかる。山川久蔵は当初「直傳英信流」の十二代林益之丞に師事していたのに、突如子弟の縁を切り、松吉貞助から伝書を受けている。わが師の森本邦夫先生が指摘8)されているように、松吉が林家の無雙流に独自の工夫を加え、それに山川が共感したというところが、「直傳」と「神傳」の違いになったのであろう。
しかし、もっと大きな変化が明治維新を境に両流派に訪れたと考えている。
明治維新は、直傳英信流では五藤孫兵衛と大江正路、神傳英信流では細川義昌の時代であった。特筆すべきは大江正路である。この人はそれまでの居合を整理統合し、無雙直傳英信流として世に出したとその弟子たちから認識3)されている。問題はその「世に出す」方法にあったのだと思う。
大江自身は、旧制中学の剣道教師であり、初期の門人はそのときの生徒たちだった3)。当時の日本は、欧州列強に伍していくため、子弟の教育に力を入れており、多くの生徒を一時に教えていかなくてはならなかった。そして西南戦争以後は学校教育の一環として剣道の授業が広がっていった9)。その指導方法は個々の技を分解して誰にでも理解しやすい方法がとられたのだと思う。それは、大江が明治中期以後に全国に普及させようとした居合術にも役に立つ方法であったはずだ。私自身、直傳英信流を初めて習い始めたころは、ひとつひとつの動作を指示してもらって技を覚えた経験がある。居合に初めて触れる人にはそのようにしか指導できないということでもあろう。大江もそのように教えざるを得なかったのではないか。それでも、継続的な指導を通して、ひとつひとつの動作を連携させ、さらには同時に動かせるようにし、最終的には無理・無駄のない動きを習得させることができれば、現在のように「直傳」と「神傳」の差は生じなかったはずである。大江の指導範囲は新潟や岡山、大阪を中心とする阪神地区、そして地元高知にまで至る。それぞれの場所で門弟を抱えたことであろうが、それらの門弟を継続的に指導するのは困難だったに違いない。かくして、個々の動きの連携がとれず、ましてや無駄な動きを排するところまで考えも至らぬ弟子が増えたことであろう。以上はあくまで推測であるが、その証拠として現在の直傳英信流の技や指導方法を挙げることができる。大江は普及を急ぎすぎた、もしくは広げ過ぎたのであろう。
この普及形と本来の形との相違に苦心しているのは、何も英信流居合術だけではない。神道夢想流杖術も普及形と古流本来の形の乖離が深刻な問題になっている。5)
ただ、神道夢想流杖術の場合は、同じ流名を冠し、また古流の形を守る人たちの存在も十分に知られているため、普及形から本来の形を志向することは容易である。
「直傳」「神傳」英信流の場合はそれほど簡単ではない。特に直傳には宗家と名乗る人たちが複数存在し、かつ日本剣道連盟と日本居合道連盟をはじめ、複数の団体に「直傳」の修行者が存在している。元を辿れば同じ流派とは言え、これでは双方の差を認め、本来の居合術を探求し、現代人の身心の開発に寄与することはほとんど不可能である。
無雙神傳英信流の歴史は、無雙直傳英信流の歴史の裏返しである。直傳英信流が広く普及していったのに対し、神傳英信流は細川義昌以来、植田平太郎、尾形郷一、梅本三男とまるでコップの水をそのまま次のコップへと移すように継承され、わが師森本邦生先生に至る。(ここでは中山博道の夢想神伝流は除いて考えている。)もちろん複数の門弟が指導されてきたことであろうが、その裾野は決して広くはない。しかし、確実にコップの水は移されてきた。
無雙神傳英信流の特質は、林崎甚助以来の刀法を代々の師家が発展させながら連綿と伝えてきたその歴史と歴史を裏付ける無理無駄のない刀法そのものに存在する。無理無駄のない動きは、大勢の人間が一斉に稽古するようなスタイルの教授法では教授しきれないことは「直傳」での実験で明らかだ。また、直傳ではほとんど伝えられていない大小詰や大小立詰などの柔術技法も残されていることも特筆に値するだろう。技はかからなければ意味がないが、柔術稽古では相手を立てて稽古するので実地に「相手にかかる技」とはいかなるものかを常に問われていることになる。その観点から抜刀術を見直すことが可能であるため、ともすれば華美に流れがちな居合から一線を画すことができたはずだ。
一言でいえば、直傳英信流は「形」を伝えるところで終わってしまい、神傳英信流は「動き」を伝えることに成功したと言えるだろう。
無理無駄のない刀法とは何かを稽古を通じて常に自覚し、また自覚を促すために個別指導を取らざるを得ず、またその指導法が無理無駄のない刀法を保存するという入れ子構造のようになっていることが、無雙神傳英信流の特質の一つであると思う。
また、稽古の体系にも無雙神傳英信流の特質が表れている。稽古の段階として、大森流、英信流表、太刀打、詰合、大小詰、大小立詰、英信流奥がある。
初期の段階の大森流と英信流表の一人稽古でいかに無理無駄なく動くことが難しいかを体感させることで自分の体と心を見つめる修行が始まる。
この一人稽古で十分に体を使う動きを体得させると、次に太刀打、詰合による対人稽古が始まる。ここでは、一人稽古で培った動きを対人においても発揮できるかが試される。一人稽古では、ともすれば自分勝手に想定した相手に対し技を振るうことも可能であるが、対人稽古では間合い、機、拍子などがいつも異なり、相手の動きに応じながら自分の動きを流儀の動きにしていかねばならない。
この段階を過ぎると今度は大小詰、大小立詰に入る。これも対人稽古であるが、抜刀しない。抜刀術の流儀であるのに、抜刀しない形が存在することを初めて知ったとき、私はとても驚いた。これは、先述したように、技がかかるとはどういうことか、柔術を稽古すればよくわかるので、稽古体系の一部に入れられたのではないかとも思う。もちろん、抜刀だけにこだわらず、いかなる事態、抜刀ができない事態にも対処できる、自由な心を養うために存在するのでもあるのだろう。鞘の内での自由な対応を目指す居合術にあっては、なくてはならない技術であるのだ。驚いたということは、己の不明を証言したということで、汗顔の至りである。
そして最終段階の英信流奥に至る。ここでは坐技、立技が存在し、想定の相手も複数になる。人ごみの中や、両脇、上がふさがれた状態という想定もある。ここで求められているのは、自由な心と体であるのだと思う。どのような状況、どのような相手であっても、流儀の心と体を維持すれば対処できるはずであるという声が聞こえてきそうである。この段階に至れば、おそらく型を離れてどのような状況でも刀を抜けるレベルになり、状況に応じた技を創作できる、いや、創作してしまうようになるのではないだろうか。そしてそれこそ流祖林崎甚助以来、代々の師家が求め指導してきた武術としての居合術であるのだと思う。
無雙神傳英信流の特質とは何か。それは居合という武術を習得するために極めて合理的に体系づけられた稽古体系にあると言える。
ここまで、林崎居合を原点とする居合術である無雙直傳英信流と無雙神傳英信流の歴史と無雙神傳英信流の特質を考えてきた。四百五十年に亘る技術の集大成を稽古できることの幸運に思い至る。この伝統を次代に伝えることができる実力を養うことに全力で取り組むことを誓って擱筆する。
【参考文献】
1) 朝倉一善:居合道の祖 林崎甚助の実像 居合道虎の巻 スキージャーナル株式会社 2008年
2) 朝倉一善:林崎甚助重信の門人たち 同上
3) 岩田憲一:古流居合の本道 スキージャーナル 初版2002年
4) 剣道日本編集部:神夢想林崎流居合 剣道日本2009年3月号 第439巻2009年
5) 松井健二:古流へのいざないとしての杖道打太刀入門 体育とスポーツ出版社 初版2011年
6) 三谷義里:詳解居合・無双直伝英信流 スキージャーナル 初版1986年
7) 森本邦生:無雙神傳英信流の形…大森流、英信流奥 広島県立廿日市西高等学校研究紀要第13号 2004年
8) 森本邦生:無雙神傳英信流の研究(1)
―土佐の武術教育と歴代師範及び大森流の成立に関する一考察―
9) 大塚忠義:日本剣道の歴史 窓社 初版1995年
10) 谷口覓:居合道日本史 叢文社 初版1997年
昨日と同じときに撮った関門海峡の写真です。
- 2013/09/28(土) 21:25:03|
- 昇段審査論文
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論文としての体裁がよく調ていますので参考にしてください。
大石神影流参段受審課題
「剣術の歴史における大石神影流剣術の歴史とその特質について」
1.はじめに
大石神影流剣術とは、幕末の筑後柳河藩において、大石進種次により創始された。大石進種次は、天保3年(1832)江戸に出て男谷精一郎と試合をした話は特に有名であり、その他にも幾多の試合をしている。多くの試合に勝利を得たことから大石神影流剣術は一躍有名になり、幕末の剣術界に旋風を巻き起こした。また、フィクションを含め多数の作家の作品にも取り上げられていることから、その影響力の大きさがうかがえる。本論文では、大石神影流の歴史を知るため、大石家の系譜を中心に調べてみた。
2.大石家の系譜
大石家の家系の由来であるが、現在の福岡県大牟田市宮部に大石家が住みついたのは大石下総で筑前岩屋の城主高橋鎮種に仕えていた。下総以前の大石家の古い記録は残っておらず、いつのころから宮部に住み着いたのか定かでないが、高橋鎮種は大友氏の武将であったことから天正年間頃と推察される。下総は天正14年(1586)の大友氏と島津氏の戦に出陣し戦死を遂げたが、その際、長男七兵衛も主君鎮種とともに割腹した。その後、三代大石種重が加藤清正に仕えた後、立花宗茂に仕え、荒地開墾して地行三十石を受けたことにより宮部に定住するようになった。
(ⅰ)大石神影流流祖大石進種次までの系譜
初代 大石下総
大石家始祖として高橋鎮種に仕えたが、かねてから九州統一をはかる島津義久に攻められ、岩屋城の戦において、ついに天正14年(1586)弟の大石七右衛門、大石七左衛門とともに討ち死にした。
二代 大石七兵衛
大石下総の嫡男。父とともに岩屋城の戦に参加したが、父が戦死した後、岩屋城において主君高橋鎮種と共に命運を絶つ。
三代 大石太郎兵衛種重
大石太郎兵衛種重は最初高橋家に奉公していたが、その後、肥後の加藤清正家臣となり、さらに後、立花宗茂に仕えた。宗茂は、元和6年(1620)柳河藩主となる。太郎兵衛種重は横須村(現大牟田市)の荒地を開墾し地行三十石を領する。横須村の後、宮部村(現大牟田市)に移り住む。なお、大石家録高はその後十四代種次が加増されるまで続く。
四代 大石蔵之烝種義
五代 大石八左衛門尉種道
六代 大石八助種久
七代 大石源六種忠
八代 大石七兵衛種明
九代 大石七大夫種正
十代 大石七左衛門種吉
十一代 大石八左衛門種政
十二代 大石遊剣入道種芳
大石遊剣入道種芳は、塩見春伯方より養子として大石家に入った。若くして柳河藩剣術指南役村上一刀尉源長寛に師事し、愛洲陰流及び大嶋流槍術の免許を受けている。その後、明和2年(1765)、24歳のときに柳河藩剣術及び槍術の指南役を仰せ付けられる。
十三代 大石八左衛門種行
大石遊剣入道種芳には男児がなかったため、実娘に同藩の田尻藤太を養子として迎え、大石種行を名乗らせた。種行も養父遊剣入道種芳の後を受け、柳河藩において愛洲陰流剣術及び大嶋流槍術の師範を勤めている。
(ⅱ)大石進種次以降の大石家(大石神影流の伝系)
十四代 大石神影流流祖 大石進種次
大石進種次(後七大夫、武楽)は、寛政9年(1797) 八左衛門種行の嫡男として宮部村に生まれる。文政3年(1820)に祖父遊剣入道種芳より大嶋流槍術の免許を受け、その2年後には遊剣入道種芳から愛洲陰流の免許を受けた。進種次29歳の時、父八左衛門種行が亡くなり、父亡き後は進種次がその後を継いで柳河藩の槍術・剣術指南役となった。その後、独自で工夫改変を重ねて大石神影流を創始する。その成立過程は正確にわかってはいないが、森本先生の調査によれば、「大石進種次によって大石神影流の体系が整えられたのは天保8年(1837)から天保13年(1842)の間の頃と考えられます 」とされる。
大石神影流第二代師範 大石進種昌
大石進種昌は、大石進種次の次男として文政7年(1824)に生まれる。進種昌も柳河藩槍術・剣術指南役となる。また、大石神影流第二代として大石導場も継承した。進種昌は、天保8年(1824)小城藩主に手数を披露している。また、天保11年(1827)には対馬領田代、天保12(1828)年には平戸で剣術を指南し、翌13年(1829)には久留米、福岡、秋月各藩を修行し、弘化2年(1845)には長州萩、翌3年(1846)には肥前小城より剣術引立てのための招聘を受ける。嘉永2年(1849)には江戸に赴き、諸藩から多数の入門者があった。嘉永5年(1852)には、友清祐太夫、清水和作を従え土佐で指南している。さらに安政元年(1854)には再度土佐藩から要請があり、門下三名を指南のため派遣している。このように、進種昌は柳河へ留まることなく各地に赴き修行または指南しており、大石神影流の発展への寄与は顕著である。
大石神影流第三代師範 大石雪江
大石雪江は、大石進種次の六男として天保10年(1839)に生まれる。雪江も幼いころより進種次、進種昌に指導を受け、慶応元年(1865)27歳のとき兄進種昌より大石神影流免許皆伝を受け、大石本家より分家し大石分家の始祖となる。明治11年(1878)兄進種昌の死去にともない大石神影流第三代目の師範となった。
大石神影流第四代師範 板井真澄
板井真澄は安政元年(1854)柳河藩士板井一作の次男として生まれ、幼時より大石雪江の門弟となった。ここで、大石家子孫でない板井真澄が大石神影流を継承したことにふれると、大石神影流第二代師範大石進種昌には男児がおらず、長女(一女)登に婿養子として八女郡の森家より五十規を迎えた。二人の間には明治9年(1876)長男進(三代目)をもうけ、その後の明治11年(1878)大石進種昌が死去したことにともない五十規が大石家家督を相続した。五十規の子進6歳のときに母登、父五十規を相次いで亡くし、大石導場を継承する者がいなくなったため、親戚である板井真澄夫妻が後見人として宮部大石家に移り、その後の進を養育することとなった。進は幼少のころから将来の大石神影流後継者として、師範である大石雪江、板井真澄から厳しい稽古を受けた。しかしながら、進は大石神影流を継承することがなかったため、雪江及び大石進種昌の弟子で雪江と相師範となった今村広門亡き後、板井真澄が大石神影流を継承するにいたった。
大石神影流第五代師範 大石 一
大石一は、大石雪江の長男として明治5年(1872)に生まれた。幼時より父雪江に大石神影流を学び、明治35年(1902)大石神影流陰の巻免許皆伝を受け、その後実家近くに導場を建て、多くの門人を指導した。また、大石一は、大石神影流師範と言うだけでなく、尋常小学校校長、高校教諭として武道の普及及び教育界に尽力している。
大石神影流第六代師範 大石英一
大石神影流第七代師範 森本邦生
3.大石神影流の成立
大石神影流は、大石進種次が祖父遊剣入道種芳から大島流槍術及び愛洲陰流剣術の免許を受けた後、面や籠手等の防具を改良し、さらに、突き、胴切を工夫して大石神影流と称した。しかしながら、上述のとおりどのような過程で大石神影流が成立されたのかは定かでない。大石神影流成立のうえでその基礎となった愛洲陰流、大島流槍術及び祖父遊剣入道種芳が免許を受けた村上一刀尉源長寛について以下に記載する。
(ⅰ)愛洲陰流
愛洲陰流は、愛洲移香斎久忠によって創始された剣術である。愛洲移香斎は通称太郎左衛門忠久といい享徳元年(1452)伊勢志摩で生まれている。若いころ、関東、九州及び明国付近まで渡航したことがあると伝えられる。幼少より剣術、槍術を好み稽古に励んだ。36歳のとき、日向鵜戸の岩屋に参籠して満願の未明に神が猿の形で奥義を示して一巻の書をさずけた。これにより一流を創始し陰の流と称する。その後、愛洲移香斎は諸国を修行し、晩年は日向に居して日向守を名乗り、天文17年(1538)に没している。愛洲移香斎についての詳細は不明な点が多いが、陰流はその後多くの流派に分かれ、それぞれ隆盛した。
愛洲陰流から大石神影流への系譜について、森本邦生先生,「大石神影流と信抜流」<「道標」2008年2月26日>によれば、以下のとおり述べられている。
足利日向守愛洲惟孝――奥山左衛門大夫宗次――上泉武蔵守藤原信綱――長尾美作守鎮宗――益永白圓入道盛次――吉田益右衛門尉光乗――石原傳次左衛門尉正盛――村上一刀尉源長寛――大石遊剱入道種芳――大石太郎兵衛尉種行――大石七太夫藤原種次
さらに、「大石神影流の系譜は奥山左衛門大夫宗次と上泉武蔵守藤原信綱の順番は書き伝えられるうちに逆になったものだと思います 」と指摘されている。
(ⅱ)大嶋流槍術
大嶋流槍術の流祖は美濃の人大嶋雲平(のちに伴六と改称)吉綱。天正16年(1588)横江弥五右衛門の二男として生まれ、大嶋雲八光義の養子となった。幼少より四方に遍歴して槍術を学び、その後独創して大嶋流を始めた。大嶋雲平について、増補大改訂 武芸流派大事典によればこうである。
大坂役には前田利長にしたがって大いに軍功があった。元和年間の加賀藩侍帖に二百五十石とある。後、浪人して流泊し、越前宰相に招かれたが行かず、寛永十一年、柳生宗矩のすいせんで紀州徳川家につかえ、はじめ三百石から後に七百五十石にのぼる。正保三年、隠居して伴六と称し、安心と号した。明暦三年十一月六日病死、七十歳 。
大嶋流槍術は、その後雲平吉綱からその子雲平常久へと伝わった。
(ⅲ)村上一刀尉源長寛
村上一刀尉源長寛についての詳しいことはわからないが、豊後の浪人で諸国を放浪し、日田において槍術、剣術を指南した。その後柳河藩に仕え愛洲陰流と大嶋流槍術を指南し、大石遊剣入道種芳に免許皆伝を与えた。
4.大石神影流の特質
(ⅰ)防具
大石進種次は、愛洲陰流で従来使用していた防具を大石神影流用に改良新作している。それは、手数に突きと胴切を取り入れたことで、まず、面については激しい突技にも十分対応できるよう唐竹面を廃し、13本穂の鉄面とし喉当てを取付けた。胴には胴切に対応できるよう竹による巻胴を作り、籠手はそれまでの長籠手を廃し、籠手を短くして腕を覆う範囲を小さくした。そして、もっとも特徴的なのは長竹刀である。それまで一般的に使用されていた竹刀の長さ3尺3寸を5尺3寸とし2尺も伸ばしたことである。現在の手数稽古に用いる竹刀長さは総長3尺8寸であるが、当時これほどまでに長い竹刀を使っていた大石進種次とは、一体どのような体格をしていたのであろうか。「大石神影流を語る」によれば、以下のとおりである。
進の身長について確かな伝承はないものかと探していた折しも、高瀬町の板井氏より耳寄りな話を聞いた。板井家は古くより大石家と姻戚関係にあり、家屋もおよそ二百年を経て現在に及んでいる。当主の祖父も長身であったから、進が板井家を訪問した折鴨居で丈くらべをした。このときの調べで祖父六尺、進は六尺五寸あったという。このような長身であったから五尺余の竹刀も使えたが、常人がこれを使用したのでは、この割合からみれば相当長いものになってしまう 。
と述べられており、この恵まれた体格があったからこそできた業であることは疑いようもない。しかし、大石進種次以降師範及び門弟がみなその当時の平均的な体格より大きいことはあり得ず、竹刀長さが決められているわけではなかったが、使用される竹刀長さは自分の身長に応じ、概ね立った時の乳首の高さとされており、大石進の長身からすれば5尺3寸の竹刀も妥当な長さであろう。さらに同書によれば、
二代目進種昌になると、体格はそれ程でなかったので、竹刀の作りも進むより縮小したらしく、弦に琴の紘一筋を使っている。板井真澄、大石進(三代目)について学んだ真鍋氏の実見談によれば、大石家の床の間に四尺八寸の竹刀があったのをみたという。これが種昌の竹刀であろうと思われる。竹は孟宗竹の根元を使っているから、節の間が狭く、相当の重量があって、手に取るとまるで鉄棒を握っているように感じたそうである。…(中略)…五尺三寸の竹刀は進だけで、その門弟は五尺以上の竹刀は使っていないようである。大石流では胸の高さをもって竹刀の全長としたので、五尺四五寸の人は概ね四尺二寸が適当な長さになる。大石雪江や柿原宗敬も四尺二寸を遣っているし、以後大体この位の長さを遣ったものが多い 。
との記載されており、現代のように一定長の既製品があるわけではないので、皆が同一の竹刀を用いて稽古することはされておらず、それぞれの身長に合う長さの竹刀を使用していたことがわかる。しかし、竹刀を長くしたのはただ試合に有利になるよう用いたわけではない。竹刀長さが長くなれば、単に長くなったための扱いが難しくなるだけでなく、当然その重量も変わってくる。そのため、それらを自由に使いこなす動きと技を備えるための稽古をされていたことが想像できる。
(ⅱ)構え
構えには、「真剣」「上段」「附け」「下段」「脇中段」「脇上段」「車」「裏附け」がある。「附け」の構えは、左手掌で柄頭を抑え隙があればいつでも突くことができる構えである。しかし、大石神影流は突きに特徴があるとされているが、すべての構えから即座に突けるわけではない。
(ⅲ)掛け声
掛け声は「ホー」と「エー」の独特な大きな気合をかける。大石神影流に限ったことではないが、気合は肚から発し、準備として胸に息をため込むことをしてはならない。また、構え、動きともに呼吸にのせることが重要である。
(ⅳ)動き
大石神影流の稽古において、その動きについては鍬で土をかぶせる動きと同様であることを森本先生からご指導いただいている。藤吉 斉によれば、「進はこのような境遇に安閑としていられず、馬を飼うと田畑を耕作して家運の挽回に務めた 」と述べられ、また、板井 真一郎も「大石道場四代目師範となった私の祖父の真澄も常に畑仕事に打ち込んでいた。それは衣食の為或いは体力増進の為もあったであろうが、常々門弟に対し、鍬を握る手が即ち竹刀を握る手で、これが大石神影流の一の訓えであると語っていた 」と、同様の教えの記述があり、どちらも剣術のための特別な動きをする必要ないこと、また、日常生活において意識することの重要性があらためてわかった。
5.大石神影流の影響
大石進種次は、天保3年(1832)及び天保10年(1839)に江戸に出て試合をしている。誰と試合をしてその結果がどうであったか興味があるが、大石家に伝わった文書が散逸されてしまったため誰と立ち会ったかは不明である。しかしながら、明治15年(1882)11月に門弟によって建てられた「大石先生碑」に男谷精一郎との立会が刻まれていることからも、江戸にて男谷との試合は間違いない。当時の江戸にてもっとも著名な男谷精一郎との試合は、大石進種次が多いに活躍したことは明らかである。
江戸における活躍もさることながら、柳河の大石導場には各地から各藩士が多数入門している。大石進種次、進種昌への門人数については、森本先生論文に654名について次のとおり調査されている。
柳川藩以外の門人の多くは柳川藩近隣の九州諸藩に属する門人であり、一例を挙げれば三池藩門人79名、肥前小城藩門人13名、筑前秋月藩門人11名、肥前熊本藩門人11名、蓮池藩門人9名、武雄門人17名、対州藩田代門人11名の姓名が記載されている。
一方、柳川藩からは遠方の土佐藩には60名の門人の姓名が、長州萩藩には43名の門人の姓名が、備後福山藩に8名の門人の姓名が記されているなど遠隔地にも大石神影流の門人がいたことがわかる 。
江戸で大活躍した大石進種次のもとに全国から各藩士が教えを乞うため柳河藩に集まり
九州はもとより、中国、四国から北陸、信越地方にまでおよび、その活躍、影響力はかなり大きかったことがわかる。
6.おわりに
幕末に創始された大石神影流が現在まで、途切れることなく連綿と継承されている名門大石神影流に感謝したい。また、従来の防具や竹刀を改良し、新流派を興すとともに江戸で活躍するとともに多数の門弟を指導育成した大石進種次の偉大さを改めて実感した。今後、これだけの著名な流派であるからこそ、一部のマニアや所謂武道オタクに侵されることのないよう、正しく伝えてゆくことが重要であると考える。
後注
森本邦生先生,2013,「大石神影流に関する考察」,貫汪館ホームページ(2013年8月23日取得, http://kanoukan.web.fc2.com/oishi/hstry/kousatu.html).
森本邦生先生,「大石神影流と信抜流」<「道標」2008年2月26日> ,貫汪館ホ
ームページ(2013年8月18日取得,
http://kanoukan.blog78.fc2.com/blog-entry-282.html).
同上
綿谷 雪、山田忠史 編:増補大改訂 武芸流派大事典 、東京コピイ出版部、1978年 127頁
藤吉 斉:大石神影流を語る、第一プリント社、初版、1963年 48-49頁
同上 49-50頁
同上 7頁
板井 真一郎:大石神影流の周辺、フタバ印刷社、初版、1988年 13-14頁
森本邦生先生 「大石神影流『諸国門人姓名録』について」日本武道学会第40回大
会発表抄録〈平成19年8月30日〉
参考文献
1. 藤吉 斉:『大石神影流を語る』、藤吉 斉、第一版、1963年。
2. 今井善雄:『日本武道体系第十巻 武道の歴史』、同朋舎出版、第一版、1982年。
3. 板井真一郎:『大石神影流の周辺: 附 大友流詫磨系の末裔』、板井真一郎、第一版、1988年。
4. 森本邦生先生:2013,「師範と伝系」,貫汪館ホームページ(2013年8月23日取得,
).
5. 森本邦生先生:2013, 「大石神影流関係史跡」,貫汪館ホームページ(2013年8月23日取得, ).
6. 森本邦生先生:2013,「大石神影流に関する考察」,貫汪館ホームページ(2013年8月23日取得, ).
7. 森本邦生先生 「大石神影流『諸国門人姓名録』について」日本武道学会第40回大会発表抄録〈2007年8月30日〉。
8. 森本邦生先生,「大石神影流と信抜流」<「道標」2008年2月26日> ,貫汪館
ホームページ(2013年8月18日取得,
).
9. 島田貞一:『日本武道体系第七巻 槍術・薙刀術・棒術・鎖鎌術・手裏剣術』、 同朋舎出版、第一版、1982年
10. 綿谷 雪、山田忠史 編:『増補大改訂 武芸流派大事典』 、東京コピイ出版部、第一版、1978年
11. 横山健堂:『日本武道史』、島津書房、第一版、1991年
昨日と同じ関門橋の写真です。海流が右へ流れていましたので左右の船の速さが異なっていました。
- 2013/09/29(日) 21:25:42|
- 昇段審査論文
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柔術の歴史における澁川一流柔術の歴史とその特性
柔術とは、徒手あるいは短い武器による攻防の技法を中心とした日本の武術である。
相手を殺傷せずに捕らえたり、身を護ること(護身)を重視する流儀の多いことは、他国の武術と比較して大きな特徴である。
このような技法は広く研究され、流派が多数存在した。
江戸時代以前
戦国時代から合戦のための武芸である組討や、人を捕らえるための捕手などと呼ばれた武技がすでに行われており、確認できる最古の源流は、天文元年(1532年)に竹内久盛が開眼し、その子竹内久勝が広めた「竹内流」である。
また、柔術は江戸時代になってからの呼び名であり、戦場における組討の技術(弓・鉄砲、槍、刀剣の間合いに続く格闘における技術。敵将の首を取ることも行われた。)
武士の小太刀、小刀(小脇差)、脇差などでの護身術。(小具足など。)
相撲。(武士は相撲も組討のための鍛錬方法とした。)
治安維持のための捕手術、捕縄術などが柔術の源流である。
「竹内流」は日本武術の流派で、歴史を遡る事が出来る最古の日本柔術の流派と言われている。
羽手、小具足、棒術、剣術、居合、十手などの総合的な技術を今に伝える流派である。
流祖は中世から戦国時代に垪和を拠点とした垪和氏の竹内久盛であり、天文元年(1532年)に創始したと伝わっている。
「竹内流」は日本の多くの武術流派に影響を与えて来た流派であり、この流派からは多くの分派、支流が派生している。
「竹内流」は、流祖から現在まで、現在の岡山市北区建部町角石谷にある竹内家で伝承されている。
現在は、宗家である藤一郎家、相伝家である藤十郎家の伝承が残っている。
正式には竹内流小具足腰之廻と言い、小具足、捕手術、棒術などが特に著名な流派である。現存している柔術流派の中では最も古い文献や記録が残っているため、日本柔術最古の流派と言われる事が多い。
宗家、相伝家では一般で言う柔術の事を羽手(はで)と称する。
・江戸時代初期
戦国時代が終わってこれらの技術が発展し、禅の思想や中国の思想や医学などの影響も受け、江戸時代以降に自らの技術は単なる力技ではないという意味などを込めて、柔術、柔道、和、やわらと称する流派が現れ始める(関口新心流、楊心流、起倒流(良移心当流)など)。
また、中国文化の影響を受け拳法、白打、手搏などと称する流派も現れた。
ただし、これらの流派でも読みは「やわら」であることも多い。
また、この時期に伝承に柳生新陰流の影響を受けて、小栗流や良移心當流等のいくつかの流派が創出されている。
・江戸時代、幕末頃
武者修行の流行とともに全国的に各流派の交流、他流試合が盛んになり、素手の乱捕用の技が作られ始めた。
現在ではどのようなルールで行われていたか不明であるが、真剣勝負の場合以外当身技は除かれたようである。
また、乱捕は組討に相当するもの、組討の鍛錬になるものとも見做された。
これらの乱捕の技術が現在の柔道の乱取と試合の源流である。
「澁川一流柔術」は、幕末に首藤蔵之進満時によって「澁川流」「難波一甫流」「浅山一伝流」をもとに創始された柔術である。
澁川一流の澁の文字は「澁川流」に、一の文字は「難波一甫流」と「浅山一伝流」の一に基づくものと伝えられており、澁川一甫一伝流の意から「澁川一流」と命名された。
「澁川流」は、澁川伴五郎義方が開いた柔術の流派である。
系統によって異なるが、柔術以外居合、剣術、その他の武器術も含む系統もある。
母体である関口流(関口新心流)とともに、江戸時代に最も広まった柔術流派のひとつである。
澁川伴五郎義方自身は「澁川流」を称せず「関口流」を名乗っていたこともあって、母体である「関口流」と混同されることもある。(「関口正統澁川流」等とも名乗った。また初期の江戸の澁川家の「澁川流」は、「関口新心流」と内容の多くが共通する。)
関口流同様、この流派から分かれた流派は多い。
主なものに井澤長秀が開いた関口流抜刀術(肥後流居合)、岩本儀兵衛が開いた転心流、平山行蔵が開いた忠孝心貫流などがある。
「難波一甫流」流祖・難波一甫斉久永は、天正年間(1573年~1590年)の人で、備前岡山の浮多家の家臣(家元文献)といい、他の説では長州の人で元和年代(1615年~1623年)の人といい、この差が50~60年あるが、そのどちらとも定めにくい。
難波一甫斉久永は、竹内流三代・竹内加賀介久吉の門弟といわれ、この流派は長州、広島に多く伝わり、一甫斉流、一甫流、一歩流、難波一方流、難波一甫真得流などと呼ばれている。
広島藩で最も勢力が大きかった柔術が「難波一甫流」であり、「難波一甫流」は江戸時代初期、長州より広島に伝わり、城下では代々矢野家を中心として伝えられた。
「難波一甫流」は農村地帯にまで広がり広範囲に修行者を持った。
武術の内容は和(やわらー狭義の柔術)・剣術・槍術・その他の武術に及ぶ。
「難波一甫流」の伝系
流祖 難波一甫斉久永
前原七太夫久永
福原九郎兵衛元綱
佐久間半右衛門元方
矢野次郎右衛門清方
矢野長右衛門清政
矢野新右衛門清忠
矢野徳十郎清次
矢野春蔵清良
(後見)藤井源二左衛門主好
矢野徳三郎
宇高宗助直常
「難波一甫流」の術技の根幹は意治術にあります。
意治術というのは、いわゆる臍下丹田術で、呼吸により丹田を充実させ体を統一し、筋力以上の力を出す方法で、全身の無理無駄な力、力みを排除した上で呼吸法によって丹田から全身へ筋力に頼らぬ力を伝えていきます。
「難波一甫流」を治めた方には、「力」に関する話が多く残っています。
「浅山一伝流(淺山一傳流)」は「一伝流」と略して呼ばれることも多く、剣術、居合、棒術、柔術、陣鎌(鎌術)などが含まれていた。
「浅山一伝流」の流祖は浅山一伝斎とされているが、この人物については、名前も「浅山一伝斎重晨」のほか、一伝流居合の流れを汲む不伝流の伝承では、「浅山一伝一存」、薩摩藩に伝承した系統(朝山流とも呼ばれる)では、「朝山一伝斎三五郎」とするなど、伝承によって異同がある。
以上の浅山一伝斎重晨、浅山一伝一存、浅山(朝山)一伝斎三五郎は生年、没年が大きく異なり同時代人とは思われないため、同一人物ではないとする説もがあり、実像を確定しがたい。
浅山一伝斎の師についても、「浅山一伝流」を伝えた森戸家(後述)の伝承では、師はおらず丹後の山中で自得したと伝えられている。
丹波市にある岩瀧寺はその修業の地とされ、護摩堂には門下生が残した額がある。
この他に、塚原卜伝を浅山一伝斎の師とする伝承があり、『本朝武芸小伝』では国家弥右衛門なる人物を浅山一伝斎の師とするなど、複数の異なる伝承がある。
江戸時代に第8代の館林藩士・森戸朝恒(初代 森戸三太夫)が江戸に道場を開き、浅山一伝流の名が広まった。
森戸朝恒より流儀を継承した森戸偶太は、当時の江戸で今枝良台(理方一流開祖)、中西子武(中西派一刀流第2代)、比留川彦九郎(雲弘流第3代)と並び称されるほどの達人であったという。
森戸家は代々、浅山一伝流を伝承し、森戸家の道場には、諸藩の江戸詰や参勤交代で江戸に出てきた藩士が多く入門したという。
これにより「浅山一伝流」は全国に広まった。
歴代で最も著名なのは森戸金制(森戸三太夫)である。
森戸金制が目黒不動に掲げた奉納額には1600人以上の門弟の名が記されており、その繁栄がうかがえる。
「浅山一伝流」は比較的古い流派であるが、現在に残る系統が殆どないためにその歴史は不明な点が多い。
また、「浅山一伝流」から派生、分派やその技法の一部を導入した流派も非常に多いといわれている。
浅山一伝一存の弟子とされる伊藤長太夫(伊藤不伝)が開いた不伝流居相(居合)は、江戸中期に松江藩に伝えられ、松江藩の御流儀となった。
また、水戸藩には浅山一伝流の柔術が伝えられ、浅山一伝古流、浅山大成流、浅山一伝新流など複数の系統に分かれて伝えられた。
水戸藩の系統の浅山一伝流柔術は逆手技を中心とした内容で、現存する大倉直行系の浅山一伝流体術との関係をうかがわせる。
この他にも、久留米藩士・津田教明(津田伝)は森戸金制に浅山一伝流を学び、教明の子の津田正之によって津田一伝流が開かれた。
「澁川一流柔術」の流祖である首藤蔵之進満時は幕末の人で、彼の叔父で宇和島藩浪人と伝えられている宮崎儀右衛門満義に連れられて、広島藩安芸郡坂村に来住しました。
首藤蔵之進満時は宮崎儀右衛門満義を師として「澁川流」と「難波一甫流」を習得し、さらに他所で「浅山一伝流」をも習得して、「澁川一流柔術」を創始しました。
伝系は以下の通り、
流祖 首藤蔵之進満時
宮田友吉國嗣
車地國松正嗣
畝重實嗣昭
森本邦生嗣時
ある日、広島城下にでていた首藤蔵之進満時は五・六名の広島藩士と争いになりましたが、「澁川一流柔術」の技でこれを難なく退けたところ、たまたま居合わせた松山藩士がこの見事な働きを見ており、その松山藩士の推挙により松山藩に仕えることになりました。
これは天保十年頃(1839年)のことと、伝えられていますが、その後、首藤蔵之進満時は四国松山においても「澁川一流柔術」の指南を始めました。
明治維新以降、首藤蔵之進満時は親族のいる広島県安芸郡坂村にたびたび帰り、広島の門弟にも「澁川一流柔術」を伝え残し、明治三十年(1897年)に八十九歳で四国松山にて没しました。
「澁川一流柔術」の流祖、首藤蔵之進満時の墓は、愛媛県松山市道後湯月町の宝厳寺と広島県安芸郡坂町の二ヶ所にあります。
宝厳寺とは時宗の寺院で、時宗開祖一遍の生誕地であり、山号は豊国山。
時宗の宗祖は証誠大師 一遍上人で、浄土宗の一流、西山派の開祖 証空上人の孫弟子に当ります。
時宗で信仰する仏は阿弥陀如来で、とくに「南無阿弥陀仏」の名号を本尊とします。
この名号をつねに口にとなえて仏と一 体になり、阿弥陀如来のはかり知れない智恵と、生命を身にいただき、安らかで喜びにみちた毎日を送り、やがてはきよらかな仏の国(極楽浄土)へ生れることを願う教えが時宗の教えです。
証誠大師 一遍上人はすべてを捨て去るために、片時も留まることなく諸国を歩き続け16年間で日本国中をほとんど歩きました。
証誠大師 一遍上人は下記のように説いています。
「念仏の行者は知恵をも愚痴をもすて、善悪の境界をもすて、貴賤高下の道理もすて、地獄をおそるヽ心をもすて、極楽を願う心をもすて、又諸宗の悟をもすて、一切の事をすてヽ申念仏こそ、弥陀超世の本願に尤かなひ候へ、」
この言葉、澁川一流柔術流祖 首藤蔵之進満時は、彼の「澁川一流柔術」との関わりの中でどのようにとらえたのでしょうか。
「澁川一流柔術」は江戸時代、武士の時代に成立した武術の柔術であり、現代の柔道、現代の格闘技のジュージュツと状況、発想、目的などが異なっています。
それは、素手と素手、一対一でルールの中で技を競う現代の柔道、格闘技のジュージュツと違い、江戸時代の柔術は腰に刀を差していた時代の武術であるため、当然武士は事ある時には刀を用いますので、素手と素手で勝負して優劣を競うものと言う発想が全くなく、技術的な目標が最終的に、刀を手にした人間を素手で制するレベルにまで到達することにあります。
したがって、刀の動きを知らなければ刀に対処する業を身につけることは至難のことになってしまいます。
さらに、たまたま刀が側に無い場合に斬りかかられた、あるいは抜きあわす間が無いくらい急に斬りかかられた、懐剣で急に斬り付けられた際に、何とか素手で対処できるレベルに動きを高めるのが「澁川一流柔術」の業の上での目標になります。
それゆえ相手が刃物を所持していることを前提として多くの形が作られているため、相手との間合を重視しており、素手と素手による稽古はあくまで稽古の一部であり、そのほかにも相手が短刀や刀などの刃物を持っている形の状況があり、こちらが棒や十手など何らかの武器を用いてこれに対処する形もあります。
また、形の稽古のほかにも、鍛錬法として棒抜けや枕引きなども伝えられており、柔道の乱取りに相当する意治(地)稽古も伝えられていますが、意治稽古においても、投げたら一本という決まりはなく、関節を極めたり、絞め技が有効になるまで行われますが、あくまで稽古の一方法として行い、優劣を決めることはありません。
「澁川一流柔術」の稽古は、相手を抑えても、投げても、極めても、決して力んではならないということを稽古の絶対条件にしています。
上記のように「澁川一流柔術」の形は素手と素手、素手と剣術など徒手空拳で自己の身を守る術技と棒術(短棒・三尺棒・六尺棒)、十手、分童、鎖鎌、居合などの武器を用いて身を守る術技から成り立っており、形は相手の仕掛けの方法によって
・履形―中段・下段を突いてくるのを制す形。
・吉掛―肩を突き押してくるのを制す形。
・込入―両手で胸襟を掴み押すのを制す形。
・打込―懐剣で上段より打ち込むのを制す形。
・両懐剣―両手の懐剣で打ち込むのを制す形。
・互棒―懐剣で打ち込むのを短棒で制す形。※短棒は一尺六寸位
・四留―両手で両手首を握り押すのを制す形。
・拳匪―両手で合掌する手首を掴むのを制す形。
・枠型―両手で右手を掴み引くのを制す形。
・引違―四つに組み押してくるのを制す形。
・袖捕-両手で両袖を掴むのを制す形。
・二重突―両手で前帯を掴み押すのを制す形。
・一重突―右手で前帯を掴み押すのを制す形。
・片胸側-右手で胸襟を掴み押すのを制す形。
・壁沿―胸襟を掴み壁に押すのを制す形。
・睾被―馬乗りになるのを制す形。
・上抱-後方より抱きつくのを制す形。
・裏襟―後方より裏襟を引くのを制す形。
・御膳捕―並座して右手で左膝を押さえるのを制す形。
―対座して懐剣で打ち込むのを制す形。
・鯉口―行き違いの際、抜きつけようとするのを制す形。
・居合―上段より刀で斬り込むのを制す形。
・胘入-罪人に縄をかける。
・三尺棒―三尺棒で打ってくるのを制す形。
―懐剣で打ってくるのを三尺棒で制す形。
・三尺棒御膳捕―対座して懐剣で打ち込むのを三尺棒で制す形。
・六尺棒―六尺棒対六尺棒の基本の形。
・六尺棒裏棒―六尺棒対六尺棒の応用の形。
・刀と棒―刀で斬りかかるのを六尺棒で制す形。
・小棒―懐剣・刀で斬りかかるのを小棒で制す形。※小棒は指先から腕曲までの長さ
・十手―刀で斬りかかるのを十手で制す形。
・分童―刀で斬りくるのを分童鎖で制す形。
・鎖鎌―刀で斬りかかるのを鎖鎌で制す形。
・居合(抜刀術)
にグループ分けされています。
『履』には「ふみ行う、実行する」という意味があり、初めに習う履形の三十五本の形が全ての形の基本となっています。
また、「澁川一流柔術」には、それぞれの形のグループに「礼式」があり、受を制することなく押し返す動きがあり、これは「澁川一流柔術」の理念が人と争わないことをあらわしています。
「澁川一流柔術」の形は飾り気がなく、素朴で単純な動きで相手を制するように組み立てられています。
参考文献
広島藩の武術~貫心流・難波一甫流・澁川一流を中心として(森本先生にいただいた資料)
貫汪館H.P
Wikipedia
貫汪館が応援する劇団夢現舎の俳優益田喜晴さんが「ONE DAY MAYBE」に出演します。
- 2013/09/30(月) 21:25:18|
- 昇段審査論文
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武道の礼法と無双神伝英信流の礼法について
武道とは、日本の長い歴史の中で、武士たちが幾度も戦い、君主を守り自らも守り、平和を求める中で生まれた「業(わざ)」と「心」です。そして、武道(または武術)と共に発展してきたものが「礼法」です。
一、礼法と心について
武道の「礼法」と「心」は、とても大切な関係にあります。日本の武道にはそれぞれ礼式・礼法があり、「無双神伝英信流の礼法」においても神に対する礼(神前の礼)、刀に対する礼(刀礼)などがあります。
日本の武道は「礼に始まり礼に終わる」と言われています。例えば剣道や柔道の試合において、初めと終わりにお互いの礼をします。これは、相手への尊敬や感謝などの気持ちを表現しています。武道に限らず日常生活においても感謝、挨拶、懇願などの意志や気持ちを頭を下げお辞儀をすること、さらに尊敬語や謙譲語を用いることで「礼」を表現します。社会や生活の様々な状況で、相手を敬いそして自分の立場を守ります。つまり、「礼」とは、社会の秩序を保つための生活規範であり、「礼法」とは、社会の中で身を守る「業」でもあります。
そして「礼」を行う上で忘れたり、怠ってはならないものが「心」であり、すべてにおける基本となります。相手や物に対し、「心」があってこそ「礼法」は、伝わるものなのです。「心」無しでは、形式的で表面的なものになってしまい、相手に気持ちが伝わりません。逆に失礼になってしまいます。稽古の時に先生や兄弟子の方々に対する礼、親兄弟そして隣人などに対する礼など、ただ頭を下げるだけでなく、感謝、尊敬と言った相手に対する「心」があってはじめて伝わります。そして、自分に対する「心」も大切です。礼法のみならずなにかを上達しようとすることや成し遂げようとする強い「心」があってこそ物事がより質の高いものになります。
これらの「心」と、自分の動作とがつながった状態を「生気体」とよびます。「武道の礼法」という本に、「すべての動作において、その動作をしっかりと肝に銘じて、心に覚えて行うことが大切です。これが『生気体』であり、実体と成り品位、品格をも生み出します。」という一節があります。「生気体」と成ることによって、相手に「心」をより伝えやすくなります。「生気体」となるには、日頃の稽古の積み重ねで身につけることができます。 さらに、「心」と体は常に「楽」でなければなりません。「心」に焦りなどがあると、冷静さや落ち着きが失われ、体も固まり、「心」が「楽」でなくなります。そうなると、相手の「心」も「楽」でいることができなくなり、失礼となってしまいます。「心」と体の「楽」を求めることも、礼法における重要な点なのです。
「礼法」と「心」の関係は、心と体が一つと成りうることによって、生きた礼法となってゆくのです。
二、礼法と呼吸について
礼法や武道の動き、そしてすべての動作に「呼吸」が大切です。人間は日常生活の中で常に呼吸を行っています。「呼吸」を意識して行うことによって、武道や礼法などの動作に活用することができます。
「呼吸」の中心で、すべての動作において重要なものが「肚(はら)」です。「肚」に肉体的かつ精神的な重心をおき、「肚」で動き、「肚」で呼吸します。立つ、座る、歩くなどのあらゆる動作に合わせて行われる意識的な「呼吸」は、吸う息と、吐く息で行われ、止まることはありません。呼吸が止まると、意識が無くなり息がつまり、「死気体」となってしまいます。そうなると相手に「心」が伝わりにくくなります。それだけではなく、武術においても呼吸が止まることは、致命的となってしまいます。
「武道の礼法」の本の中に、「呼吸」が最も自覚できるのはお辞儀で、その例に「三息の礼」があげられています。「三息の礼」とは、吸う、吐く、吸うの呼吸動作を行い、吸う息で体を曲げて、吐く息で体を止め、また吸う息で体を起こします。つまり動作に呼吸を合わせるのではなく、「呼吸」に動作を合わせるということが基本となります。
呼吸に動作を合わせることで、自然に体のリズムが整い、無理無駄なくお辞儀をすることができ、相手に気持ちを伝えることができるのです。
三、無双神伝英信流の礼法について
無双神伝英信流の礼法は、居合の形を行う前と、形を終えた後に行います。始めの礼法は、上座に向かって神前の礼をして、次に正座になり、刀に対する刀礼をします。神前の礼では刀を右手で持ち、上座に刃を向けないようにして神前に礼をします。礼をする時には肚を中心に、下半身を緩め呼吸と合わせて体を曲げ、呼吸に合わせて体を起こします。刀礼の時は正座になり、刀の刃を自分の方に向け、左を柄にして一文字に自分の前に置き、刀礼をします。そして刀を帯の一番外側に差し、下緒を通して、刀の鯉口が臍の前に来るように整えます。それから一度立ち上がり上座(神前)、または人に対して抜きつけないように体の向きを少し変えて形を行います。形が終わった後も同じ礼法を繰り返します。刀を自分のわきに置くときも、刀の刃を自分の方に向け、鍔を膝にそろえ、自分の右側に静かに置きます。これらの一連の礼法を行うときは肚から動き、正座の時や立ち上がる時も肚を中心にして地球の重力とつながり、どこにも力みを作らず無理無駄のなく体を動かします。そうすることで自由に動けるようになります。形ではもちろんですが、礼法や様々な動作を行う上で、常に自然でいつでも対応できる動きでないとなりません。
礼法を稽古することは、形を稽古し身につける上でも重要なものになってきます。無双神伝英信流を稽古し始める時、まず最初に礼法を習い稽古します。立つ、座る、礼をする動きを「肚」を中心に力みなく動けるように稽古します。その礼法が居合を稽古する基本基礎になり,形につながってきます。その基本を身につけることでより質が高く、楽な動きが可能になります。動きを「型」に当てはめ、「型」にとらわれてはならないということです。居合の形はもちろん礼法にも形があり、それを覚え自然にできるように稽古します。その時も「肚」で動かなければまりません。
お侍さんがいた時代は、普段の生活の中でさえも、突然盗賊に襲われたり、顔見知りの相手に切りつけられる事があるなど、彼らは常に気を抜くことはできませんでした。切られて命を落とさないために、体も心も緩ませ、自由でなければなりません。体と心が固まってしまうと自由でなくなります。現代の日本人は明治時代からの西洋化で江戸時代以前の日本人とは動きが異なり、西洋式の動きになっています。そのため重心の位置が高く、手や足などを使って動きがちです。手足で動くということは体を固めて動くことにを意味します。自由に見えて自由ではないのです。
自分で動こうとしたり、体のどこかを突っ張ったり力んだりすると、バランスが崩れ、力で体のバランスを保つことにになり、自然な動きができなくなります。。常に自然体で力みを作ってはなりません。居合も礼法も、座る、歩く、礼をするなど、すべての動作において地球の重力とつながり、いつでも自然に動くことが大切です。「肚」に体の重心を置き、力みを作らず楽でなければならず、またそれを目指して稽古を積むことが最も重要です。
参考文献 「武道の礼法」:小笠原 清忠 ㈱ベースボール・マガジン社 平成二十五年
貫汪館が応援する劇団夢現舎の俳優益田喜晴さんが出演するパフォーマンス「ONE DAY MAYBE」の高知公演は11月2日から9日まで、金沢公演は11月28日から12月8日までです。
- 2013/10/01(火) 21:25:35|
- 昇段審査論文
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これまで修行上留意してきたこと、今後留意しなければならないこと
古武道を修行するにあたって、師より教えていただいたことを何も変えず。何も加えずに身に付け、機会があればそのままに次へ伝えられるように心がけております。近年では、人の体格が持つ特徴により何種類かに分類して、その体格の持つ特徴に従って稽古を進めなければ無駄なことをしてしまう、デッドコピーになってしまうという説もあるようですが、出来うる限りそのままに身に付けられるように、そして頭でなく身体で理解出来るようにしています。古武道を本格的に学ぼうとするときに、現代武道やスポーツの概念で理解しようとすると大きな間違いを起こします。その目的とするところが違うからです。その目的を正しく理解していないと、古武道とは似て非なるところに辿り着いてしまいます。 今まで経験していないことを稽古していくのはとても不安でもあります。師や兄弟子より指導していただいたことを手掛かりに一人で稽古していますと、自分の勝手な思い込みや旧来の癖が出てしまい、稽古があらぬ方向へ向かってしまうことも多々あります。その中でどのように稽古を進めていったらよいかを考えてまいりました。やはり今まで経験したことのない動きや技を身につけるためには、反復することが欠かせません。質量転化の法則という言葉がありますが、これは量をこなすことによって質的な変化、つまり上達をもたらすということです。しかしだからといって、ただ闇雲に量をこなし、漠然と質的転化を期待しても無駄なことです。やはり自分が反復稽古している動きの意味や形の想定を正しく理解しておこなうべきです。身体を漠然と動かすだけの反復運動ではなく、全身の感覚で感じながら、常に頭で考えながらおこなうということです。この感じながら考えるということは、言い換えますと具体的に想像するということで、武道の稽古の過程ではこの想像力がどれだけ活用できるかが効率的な上達を実現するうえで重要なポイントとなります。例えば相手に切りかかられたり、また反撃してこちらから切り付けたりすることがどういうことか、何を意味するのか想像力を活用して深く掘り下げていくことができなければ、正しい武道の稽古は困難だと言わざるをえません。つまり起こりえたはずの、しかし実際には起こっていない事象への反応を磨くということが上達に繋がります。それには実際に起こったことに対する反応と同じことが起こるくらいの想像力が必要です。それと困難なことかもしれませんが、現実と想像が的確な距離感を保つためには経験によって自分の武道の実力を客観視できなければなりません。ゆっくりでも想定に従って実際に切りかかってもらったりすることも経験を積むのに役立ちます。そこで身に着いた感覚を持って又一人稽古に立ち返ることが重要です。ここで振り返りますと、今までは身体に関すること、身体の使いかたばかりに注目してきたように思えます。確かに身体を無理無駄なく使えるように訓練するのが武道の稽古ですが、その武道が必要とされ使われる状況を想像しますと、平常心でいられるのは非常に困難なことだといえます。普段の稽古においても少しでも心理的動揺がありますと、いつも通りの動きが出来ないことを何度も経験しております。しかしながら短絡的に心を強くしようとすることは、武道の稽古には必ずしも有効とは限りません。なぜならその方法の多くが、鈍感になることを意味しているからです。 自分自身と会話し、洗練させ、深めていくことが重要です。ここでは、武道が使われる状況を想像しにくい経験のないようなこととせず、より身近な大勢の前で演武する場合はどうなのか、として考えてみます。まず平常心でなくなる、つまりアガリが起こるのは、自分にとって難しいと感じていること、あるいは正直手に負えないと感じることを大勢の人前の舞台でおこなおうとする時です。これは本能的で、かつ正直な、起こるべくして起こるアガリと言えるでしょう。不可能なことまたはそう感じていることをおこなおうとすると、身体は必ず緊張します。次に能力以上のことをおこなおうとして緊張し失敗した経験がアガリの原因にあります。人前で緊張し失敗するという体験は非常にショッキングであり、自己否定や自己不信の原因となってしまいます。多くの場合これらの二つの原因が混在しているといえます。この自己不信に陥りますと、本当は何なく出来ることも、頭のどこかで出来ないと思ってしまい、どんどん身体が動けない状態になっていき、実際に失敗してしまいます。ひどい場合は、手は震え、口が渇き、身体のコントロールは効かなくなります。過小評価や自己否定は非現実を現実と思い違えて信じ込んでいます。つまり頭の中で駆け巡っていることと現実がマッチしない。その時にアガリが発生します。まずは現実を知ることです。本番の舞台でのドキドキ感や恐ろしいほどの緊迫感は、それ自体は正常かつ望ましものです。多くの場合このことを問題視しますが、実際の問題は思考と現実がずれているときに、演武を失敗してしまうようなアガリが発生します。アガリからの脱出を目指す時に、押さえておかなければならないことは、ネガティブな要素としてとらえがちな心臓がバクバクとなり、口がカラカラに渇き、妙にソワソワしていろんなことに気持ちが散漫する傾向は実はすべてポジティブで有益な現象であることと言うことです。大舞台での演武をおこなうのに必要なエネルギーなのです。心臓が普段よりたくさん働いてくれるおかげで、全身に新鮮な血液が送り届けられます。それによって身体は反応し動けます。また新鮮な血液は、脳に酸素を送り意識が高まります。相手の微妙な変化にも対応できるようにしてくれます。この活発な意識の高まりというのは、脳の情報収集活動であります。脳がたくさんの情報を集めて初めて、気持ちは落ち着くことができます。どれだけ心臓が高鳴っても、どれだけ身体が震えても、どれだけ口が渇いても、それはよりよい演武をするために全部必要なことである。そういうふうにプラス思考で考えていきたいものです。現在古武道と呼ばれる様々な流派は、戦国時代において形成されたものは少なく、多くがむしろ戦乱の収まった江戸時代に発展したものであり、幕藩体制のもとで、各藩は指南役を設けたり、特定の流儀を御流儀として指定するなどしました。長らく続いた平和により経済が発達し、町人文化が興り、武道は都市部や農村地帯に広まりました。このような日本固有の社会や風土が武道を生み育てたものであるならば、江戸時代に限らず、昔の日本の社会等を学んだり、同じような環境で生まれた芸術・芸事または風習等にも興味をもち、機会があれば参加することなども武道を深く理解するために必要といえます。例えば昔の日本では、民衆の移動は制限されていました。国の周囲は、早い海流をもつ海に囲まれ閉鎖的な環境で、そして国土の7割近くが高い山に囲まれ、山間部には流れの早い河川が流れています。このような自然に造られた閉鎖的な地形は、大陸文化とは異質のものを造り上げます。このような社会・風土の中で生まれ、生活に定着して共通認識となっている考え方があります。日本固有の考え方です。それらの中で、武道修練の際に必要となる考え方があります。それを西欧の文化を基にして、いくら理解しようとしても不可能です。それの経緯・背景を理解して、日本人の社会にある考え方・価値観を理解しなければなりません。近年、外国人等が武道を学ぶことが多くなってきていますが、我々日本人もきちんと原点を学び、考えていかなければなりません。
参考文献
1)大森曹玄:剣と禅、春秋社、新版第1冊、2008年
2)桑田忠親:五輪書入門、日本文芸社、版数不明、1980年
3)時津賢児:武道の力、大和書房、第1刷、2005年
4)三浦つとむ:弁証法はどういう科学か、講談社、第39刷、1990年
- 2013/10/02(水) 21:25:06|
- 昇段審査論文
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無雙神傳英信流抜刀兵法指導上の留意点
無雙神傳英信流抜刀兵法の指導はそれぞれの人に応じた指導をしなければ、伸びるものではありません。
そのため、一人一人の動きを見た上で、その人にとって最適な指導方法をしていくことが大切であり、下記のことを理解させながら指導しなければなりません。
・先入観、イメージを捨てる。
無雙神傳英信流抜刀兵法を学ぶにあたって、今までの自分が思い描いている居合・古武道のイメージ・先入観を捨ててもらうことが必要です。
現代は情報過多の時代であり、様々な流派の居合・古武術の書籍やインターネットなどで様々な情報を簡単に得ることが出来ます。そのため、そこで得た様々な情報を自分の頭の中で取捨選択し、居合・古武術というもののイメージが思い描いてしまっている方々が多くあります。また、テレビや雑誌などで行われる派手な試し斬りや刃音をさせながら迫力を出し、素人目にはいかにも「斬りました」と、力を込めたパフォーマンス的なことを行う武術とはかけ離れた動きが「居合である」と、イメージづけられてしまっている現状もあります。
これらのイメージのまま無雙神傳英信流抜刀兵法を始めてしまうと、全く違う方向へ向かってしまいます。
「白紙でなければ新たにものを書くことはできません」ので、まずこのイメージを捨てて白紙になることが必要です。
・経験に頼らない。
無雙神傳英信流抜刀兵法は江戸時代、武士が刀を差していた時代に土佐に伝わった居合であり、現代の常識、考え方、姿勢、動きなどが大きく異なります。ですから、無雙神傳英信流抜刀兵法で指導されることは全て現代人が今までの人生で経験したことのないことばかりであり、今までの経験に頼ってしまうととんでもない方向に進んでしまいます。
今までの経験とは、まず他流派の居合や古武術の経験。居合・古武術は現在も多くの流派が伝わっており、その中には無雙神傳英信流抜刀兵法と見た目は同じような形・動作もあります。しかし、見た目は似ていてもそれぞれの流派にはそれぞれの理念・基準などがあり、無雙神傳英信流抜刀兵法とは異なることを理解しなければなりません。
次に、競技武道・格闘技・スポーツの経験。
競技武道・格闘技・スポーツなどは西洋の影響を受けて成立したもので、成立過程、目的、考え方など全てが異なっています。しかし、現代人には競技武道・格闘技・スポーツと武術の区別がつかない現状があり、これらのことを知ることも必要です。
スポーツ武道・格闘技・スポーツではルール、場所が事前に決まっておりルールに従って優劣を競います。ですから、ルールで定められた以外の部位の攻撃をされることはないため、ルールで定められた中で勝つために特化した動きのみの練習を行います。つまりウエートトレーニング等で筋力・瞬発力・スタミナをつけ、ルール内で勝つために特化した動きを身につけることが必要になります。
さらに根深いのは、学校教育などで長年教えこまれてきた正しい姿勢、正しい動き、常識などであり、それを基準にして経験してきたことです。
日本の学校教育は明治維新以降、欧米に追いつこうとする富国強兵政策の教育の中で国民皆兵のために導入された軍隊用の訓練方法が取り入れられており、大勢を号令により一斉に訓練して個性をなくすことで統一させた行動をとりやすくさせる方法です。その訓練方法は大勢をまとめて訓練して一定のレベルに引き上げる効果があり、その基礎として体育の授業の中に取り入れられたものです。そこで長年指導されてきた正しい姿勢とは、体を緊張させ・力むことにより両肩甲骨を引き寄せ胸を張って背筋を伸ばすことで体を統一させようとする姿勢です。
また、正しい動きとは、動きにメリハリをつけ、動作をはっきり一つ一つ区切る見た目が良く見える動きであり、いずれも体を緊張させ緊張という実感を伴うことがよいことだと、頭と体に刷り込まれています。ですから、無雙神傳英信流抜刀兵法を学ぶにあたって、今まで述べてきたような常識・正しいと思っていること、経験、先入観、イメージなどを捨て、師の言うとおりに私心を交えず稽古をしなければ習ったことが素直に身につくことはないことを理解しなければなりません。
・無雙神傳英信流抜刀兵法の形。
無雙神傳英信流抜刀兵法の形は「無理無駄なく、力みなく、体を固めることなく動くこと」が形の稽古の上での絶対条件であることを理解しなければなりません。
・無雙神傳英信流抜刀兵法は未知なものである。
無雙神傳英信流抜刀兵法の稽古は、現代人とは身体の使い方、考え方、動きなど、全く異なるものを身につけようとしています。ですから、今までの生活で体験したり、経験したりしたことがない全く未知なものであり、生まれたばかりの赤ん坊が急に歩いたり走ったりできないように、始めは自分の動きがおぼつかなく頼りないのが当たり前です。
そして、このおぼつかなさ、頼りなさが無ければスタートラインに立つことが出来ません。しかし、いまさら赤ん坊のように立てばすぐに転び、歩けばすぐにつまずくような思いはしたくはないと思いますが、その経験に抜きにしては新たな業を習得することは不可能であることを理解しなければなりません。
・武術である。
無雙神傳英信流抜刀兵法は武術であり、競技武道・スポーツ・格闘技などと異なり決まった日時・場所においてルールにのっとって戦い、勝敗を決めて行くというものではなく、いつ何時起こるかわからない突発的な事故・危機状況において、自分の命を守ることが出来ねば無意味なものであります。当然、相手は一対一、武器を持たない、正面から正々堂々となど、ルールにのっとって襲って来るわけではありません。
また、動きやすく平坦な足場の良い場所で動きやすい服装とは限りません。そのような状況に対応するための武術の動きというのは、全身のどの部分にも隙はなく、どのような状況にも自由自在に動けるある普遍的な心身の動きが求められます。このように特定のルールがあり、特定の動きに特化したほうが勝利につながる競技武道・格闘技・スポーツと異なるところです。
だから、指導法として学校教育を始め、世間一般的な考え方として「褒めて伸ばす。」という考え方があり、至らぬところや欠点を指摘するよりも褒めることが大切だと考えられていますが、武術の稽古ではそのような「褒めて伸ばす。」という指導方法をとることができません。なぜなら、競技であれば今回の試合の敗北の原因を糧に次回の試合につなげるという発想も持てますが、ルールの無い武術では敗北することは命を落としてしまうことであり、次はないからです。したがって、武術においては自分自身が苦手なところ、不得意なところを直すのが先決となります。
そのほかにも、武術である以上は習ったものはその場で出来るだけ身につける努力が不可欠です。なぜなら、習ったその帰り道に襲われる可能性もあり、「習って間がないから使えません。」とか、「まだ初心者ですから・・・」と言っても相手は身につけるまで待ってはくれません。だから、「また教えてもらえるだろう。」とか「そのうち身につくだろう」という考えは通用しないことを理解しなければなりません。
・武術の動き
武術の動きというものは簡単に素人や初心者が見てわかるものではありません。なぜなら素人や初心者に判断できるような動きであれば、素人や初心者にも簡単に避けられたり、斬られたりしてしまうからです。だから、初心者は見た目で判断することなく、師の言われた通りに稽古しなければなりません。
・無雙神傳英信流抜刀兵法の想定
無雙神傳英信流抜刀兵法の稽古のとき、そこに本物の敵がいるかのような想定がなければ、それは踊り以下のものになってしまいます。
無雙神傳英信流抜刀兵法の想定は、既に刀を抜いた状態にある敵が自由に自分に斬りかかって来るのを、まだ刀が鞘に納まった非常に不利な状況で対応しなければならない想定です。それを据物斬りではないのに敵が待ってくれると思ったり、自分勝手に動かない敵を想定したりしては全く使えないものになります。
そこには「斬りかかってくる敵を気で制してから抜付ける。」という非現実的な空論などは成立しません。
また、「敵の殺気を感じて、こちらから先に抜付ける。」という想定とは異なっています。そのような想定の敵に対応するためには極限まで心と体の無理無駄を廃し、何物にもとらわれない融通無碍の自由な状態になければなりません。そのため一人稽古により、まず自分自身に向き合い、自分自身の動きの質そのものを高めなければなりません。
・生きた想定
無雙神傳英信流抜刀兵法は生きた想定です。
自分の動きがいつもより遅れた場合、早かった場合。想定する相手の身長や状態など、そのたびごとに少しずつ異なります。したがって、当然、斬り込む位置、刀が止まる位置も少しずつ異なってきます。
ですから、何度形を行っても毎回、自分の動きや仮想の敵が全く同じというようなことはなく、毎回新たな状況下にあるということを認識して稽古しなければなりません。
・形稽古。
無雙神傳英信流抜刀兵法の形稽古では形の手順は決まっていますが、形を間違えずに上手に行うことには何の意味もありません。
形の手順は決まっていますが、相手に応じていつでもどのようにでも変化出来る動き、姿勢を養っていかなければ形稽古をすることで、自由な動きを養うどころか、決まった動きしか出来ない体を作ってしまいます。
・無雙神傳英信流抜刀兵法の姿勢。
無雙神傳英信流抜刀兵法は武術であり、どこにも緊張がなく固まりのない姿勢でなければ、体の各部に居着きが生じ、そこが隙になって動けなくなり斬られてしまいます。ですから、胸を張ることなく、両肩甲骨をつけることもなく、背筋をピンと伸ばすこともなく、体を力みによって統一させることのない、あくまでそこにあるだけの姿勢がもとめられます。
そのような自然の姿勢から無雙神傳英信流抜刀兵法の業は出てきます。
・美しさ、速さ、力強さは結果である。
無雙神傳英信流抜刀兵法の形は全てが対敵動作であり、形を見事に美しく演じるとか、力強く速くとか、威圧感を出すという考えは全くありません。たとえ、その形の動きが美しく力強く速く見えたとしても、それはあくまで「より自由に、より楽に」を求めた結果、動きが洗練されて無理無駄がなくなったのであり、決して美しさ、力強さ、速さを求めているわけではありません。
・調和を乱すもの。
無理無駄が無くなれば、体の調和が取れてくるので意識しなくとも自然に動きが整うことで速く、強くなってきます。しかし、「より速く、より強く」と求める心や、「刀で斬った、刀を振った」という実感を求めてしまうとそれが筋肉の緊張・力みになり、体の調和が乱れ、かえって遅く、弱くなってしまいます。
・欠点に気付く
自分の至らぬところ、欠点に気付くには自分の体の状態が認識できる速さで動くという事が大切です。自分の体の状態が認識できる速さはそれぞれ人により異なりますので、他人に合わせて動いては意味がありません。
・自分自身に備わっている。
無雙神傳英信流抜刀兵法の稽古は自分の体に備わっていないもの新たに作り上げるのではなく、心も体も無理無駄をなくすことにより、本来自分自身に備わっている能力を現すことによって業と成します。
・無雙神傳英信流抜刀兵法の呼吸。
形の中で行っていなければならないのは臍下丹田の呼吸です。全身の何処にも無駄な力みや緊張があっては臍下丹田で呼吸を行うことは出来ません。
・中心で動く
無雙神傳英信流抜刀兵法では、体の末端、切先までの動きは全て中心を使った結果であって、形が同じように見えても中心で動いた結果そうなる動きと、結果を求めて末端を使って同じような形を作ろうとしてできた形とでは本質的に異なっていることを知らねばなり。
・伝達経路。
無雙神傳英信流抜刀兵法の形は体の末端にある刀が斬る、突くという働きをするので、手首、前腕、上腕を用いて刀を動かそうとしてしまいます。そうなると動きが体の中心を用いていないために力の伝達は末端近くから行われ、自分自身の実感は強くても、実際は刀に十分な力は伝達されていません。
また、体の外側に生まれた力が中心を崩してしまうため、その崩れを止めようとして体を固めてしまい、結局のところ自分自身の動きにひずみ、ゆがみ、力みができてしまいます。
無雙神傳英信流抜刀兵法においては手首、前腕、上腕、肩はあくまでも中心からの力の伝達経路であり、刀と一体となったものでなければなりません。ですから、この伝達経路に力みという障害物があると刀に力が伝わらず、力の方向がずれてしまい刀が本来動くべきところに動かなくなってしまいます。
・座る
無雙神傳英信流抜刀兵法においては座法こそ極意であり、座ることが出来れば、あとの業はその状態のまま動いているに過ぎず、座っている状態と変わるものではありません。しかし、たかが座法、形とは別と考えてしまえば、いくら形を稽古してもそれ以上のものを形から会得することはできません。また、あるがままに座ることが出来れば中心は感じようとしなくとも存在しています。
・根本を修正する。
無雙神傳英信流抜刀兵法は中心で動いた結果、悪いところがあれば各部位にひずみ、ゆがみ、力みなどが現れてきます。だから、悪い部分「肩が上がっているから肩を下げる。」では、何の解決にもなりません。根本である中心の動きを見直し、原因を突き止め修正しなければなりません。
・心の働き
緊張した心からは自由な働きは生まれません。無雙神傳英信流抜刀兵法における心の持ちようは何の緊張状態もない、凝り固まりのない心であり、心の緊張状態は心の居着きであり、動けない体を作る原因となってしまいます。
・そこにあるだけの姿勢
体の中心と地球の引力の線が一致しており、体のどこにも無理無駄がなく意図的な緊張を生み出さない姿勢を求め稽古していきます。姿勢を作ることがないからこそ、自由に動くことができます。
・量より質。
間違った動作を何度行っても間違ったものが身につくだけであり、正しいものが身につくことはありません。
ただ回数を行えば体が慣れて業が身につくという考えは捨てなければなりません。
・再現できない。
毎日、体調も感覚も変化していきます。
また、記憶は曖昧であり、上手くできた過去の感覚を追い求めて稽古をしてしまうと、とんでもない方向へ行ってしまいます。だから稽古は毎回、新たなものであり、自分の動きを日々新たな視点から新たな感覚で全てを見直しながら、進めなければなりません。
・教えすぎない。
何でもかんでも教えていると自分で考え、工夫することがなくなります。成長の度合いに合わせヒントを与えながら指導しなければなりません。
・言葉にとらわれない。
言葉で説明すれば、その言葉から自分がイメージした動きをしてしまいます。また、言葉で説明しすぎると頭で考える癖がつき、言葉に縛られ自ら動きを阻害してしまいます。言葉で伝えるのは一部分であり、言葉での説明は最低限にしなければなりません。
参考文献 貫汪館H.P
- 2013/10/03(木) 21:25:47|
- 昇段審査論文
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『澁川一流柔術普及の方策について』
澁川一流柔術を普及させるための方策について論ずるにあたり、まず第一に必要なことは世間に澁川一流柔術が認知されることだと思います。私自身、澁川一流柔術と出会うまで柔道、剣道、空手というものが武道であって、古の刀を帯刀し歩いていた時代の流派武術というものが今日までその伝系と共に残っているということを知りませんでした。子供の頃、剣道教室に通っていたときには剣道のほかに居合や杖道を目にする機会はありましたが、流派武術の名を耳にする機会はなかったように思います。私が不勉強であったこともありますが、そのような環境において刀を前提とした体術の存在を想像することもできませんでした。これもまた大人になるまで続けていればまた違ったのかもしれませんが、その場合には古武道の世界に進むことはなかったように思います。初めにふれた環境はその後の進路に大きな影響を与えると思います。
澁川一流柔術を普及させるうえで、「古武道」そのものが世間一般にあまり認知されていないというところに一つの壁があるように思います。そういったまだ「古武道」というものをご存じない一般の方に「古武道」の存在を知ってもらう手段としてホームページの開設、Facebookをはじめとするソーシャルネットワークサービス(SNS)での告知は現代社会において有効な手段であることは疑いようもありません。しかしながら今武道を始めたいと思う人のなかにも、知らないがゆえに情報検索の段階で「古武道」という文字にたどり着くことなく、出会いの機会を失っている方も少なからずいると考えられます。また特に柔術というと、世間一般ではいわゆる格闘技の「ジュウジュツ」を連想されるほうが多いのではないかと思います。せっかくの出会いも格闘技を連想されてこられた方には貫汪館の目指す姿をご理解いただけない可能性も少なからず出てくるように思います。
そこで演武会や講演会などで実際に行う演武では、古武道を目的に見学に来られた方はもちろんのこと、初めて目にされる方にも柔術が如何なるものかを理解いただく絶好の機会となると考えます。以前、貫汪館を訪ねてこられた方で、子供の頃にハワイで澁川一流柔術の演武をご覧になられて、その演武をきっかけに貫汪館を訪ねて来られた方がおられました。ご本人のお話では「演武がとても印象深かった」と話されていました。そうした同じ空間で私たちの演武から様々な印象を感じ取っていただくことは大変有意義なことであると思います。またご覧いただいた方と直接ご縁が持てなかったとしても、人づてに伝わりまた新たな人に知られるということも十分に可能性としてあると考えられます。
次に様々な手段を講じて世間に知られる存在となったとしても、貫汪館で稽古を望まれる方が現れた場合に近くに道場が存在しなければ、また出会いの機会を逃してしまうこととなりかねません。せっかく稽古を始められた方でも進学や転勤といった理由で道場に通うことが難しくなり、やがて稽古から遠ざかってしまうことも考えられます。そこで各支部道場の存在が重要となってくると思います。進学先や次の勤務先でも無理なく稽古に通うことができる環境があれば近い将来の進学があるから、転勤で稽古を継続させることが難しいからと貫汪館での稽古を始めるのに躊躇されている方にも入門の機会を広げることにつながると考えられます。それを可能とするためには支部道場ごとの技術水準の差をなくしていくことが重要だと考えます。ある道場で習ったことがほかの道場では全く通用しないということでは、それまでの稽古に費やした時間が無駄となってしまうだけではなく、上達への遠回りをかすこととなり上達の機会を奪ってしまうことにもなりかねません。そうなれば稽古への意欲もやがて失われ道場から足が遠のくことになると思います。これではまた道場から人材を失うということになります。
澁川一流柔術を普及させるにあたり組織を構成することは、情報が氾濫し何が真実で、何が間違ったことなのかが不透明となった現代社会において重要な意味を持っていると思います。世の中で知られた存在となりそこに価値が生まれるということは、裏を返せばそれを利用され、あるいは悪用される可能性が生まれるということになります。もしそのようなことに巻き込まれた場合、それが道場外で起こった事だとしても、我々には無関係であると言えないケースも少なからず出てくることが考えられます。そういった場合に一個人で判断し行動することは極めて危険なことだと思います。組織内にそういったトラブルの解決や回避に詳しい人材がいれば少なからずそういった危険に備えることができます。たとえそのような人材が組織内にいなかったとしても様々な意見を出し合い解決へと導くことが可能となると思います。またトラブル解決だけに留まらず、今後あらゆる事情をクリアしていくためにも道場の組織化は必要条件になると思います。
組織を構成する最小の単位は人です。その人を育てる役目を担うのが各道場ということになります。そこで各道場で人をどう指導するかが組織の存続に大きく影響すると思います。そこで各道場での方策が大きなカギとなります。
道場運営において、まず組織の最小単位の人を集めることが必要です。今、武道を始めようとしている人にとって一番の関心は見栄えであるとか、ステータスであるといったものになるのが正直なところかと思います。そういったものを求めて貫汪館に関心を持っていただくその前提として重要なことは、貫汪館で稽古されている柔術が本物であるということだと思います。なにをもって本物とするかは難しいところですが、道場を導く者のレベルがあまりに低い水準にあっては、興味すら持ってはもらえません。道場を管理運営していくものが常に自分の問題点を把握し変化し続ける存在でなければ、そこに価値を見出していただくことはできないと思います。これが企業でいうところの商品にあたると思います。この商品にいかに関心を向けさせるかということが道場運営の戦略ということになるかと思います。
経営学の父と呼ばれるドラッカーはマネジメントにおいて「企業の目的の定義は、顧客を創造することである」と述べています。いくら優れた商品(製品、サービス)があっても消費者が買ってくれなければビジネスは成立しません。すでにあるニーズを満足させるための商品、あるいはニーズそのものを生み出すような商品を生み出すことで顧客に満足を与え続けることが「顧客の創造」であると述べています。これを道場運営に置き換えて言えば、常に質を向上させて変化し続ける存在という価値を生み出すことだと思います。それを可能とするためには、互いに高めあうことのできる稽古相手(人材)、いつも決まった時に稽古をできる環境(場所・時間)、運営していくための資金が必要となります。そのためにも門人を集めることは絶対不可欠です。
また入門した門人をどう導いていくかは道場運営に大きく影響するものだと思います。ドラッカーは「働く者が満足しても、仕事が生産的に行わなければ失敗である。逆に仕事が生産的に行われても、人が生き生きと働けなければ失敗である。」と述べています。道場において言えば、門人が切磋琢磨しより質の高い稽古をすることができていたとしても、運営していくための資金が集まらず、一部の者だけで補てんしていたのではやがて無理が生じ道場の存続自体が危うくなります。またそれとは逆に人が集まり資金には苦労しなくとも門人にやる気がなくいつまでも上達しないような状態ではでは柔術そのものを残すことが不可能となってしまいます。この運営していく上での資金と人のやる気の両立があって初めて道場の運営が成り立ちます。
人のやる気を導くために、ドラッカーは「マネジメントのほとんどが、あらゆる資源のうち人がもっとも活用されず、その潜在能力も開発されていないことを知っている。」と述べ、人のやりがいを引き出す労働環境の要素に次の3つを挙げています。
① 仕事が生産的でやりがいがあること。
真に必要な仕事が与えられ、自分の能力にあっている。成果を上げるための仕事のやり方も評価の基準も明確で、用いるツールや参照すべき情報も与えられている。
② 自分の成果についてフィードバックがあること。
自分の仕事の成果について、評価がフェアである。良かった点、悪かった点についての過大評価・過小評価がない。そうした環境下では自己管理が可能となり、人は仕事に対して意欲的、能動的になる。
③ 継続的に成長できる環境であること。
自分の能力をより専門化・より高める環境がそろっている。他の専門分野との仕事を通して新たな経験を積み、問題意識を抱き、ニーズを感じることができる。
こうした環境下であれば、働く人自身に自己管理の意識と自己啓発の意欲が生まれる。適度に相手に任せ、結果に適切な評価を下すことが働く人を成長させ、生産性を向上させる。働く人が仕事に責任を持つようになると、上司への要求が高くなる。だから、働く人が成果を上げるためには、上司は彼らから一目置かれる存在でなければならない。こうして全員がボトムアップすれば会社の成長にもなる。会社の最大の資産は人間である。組織の違いが人の働きを変えると述べています。
入門時点では人それぞれ様々な思いで前向きに稽古を始められます。ですがやがて月日がたち、初心を忘れて自分の現時点での上達の進み具合や未来の自分の目指す姿を想像することが難しくなることがあります。そうしたときに道に迷い、やがて稽古から遠ざかっていきます。その原因は自分自身を客観的に見ることができなくなってしまっていることにあると思います。そこで昇段審査会を開き、昇段の条件や審査をける資格の基準が明らかにされることは今の自分の稽古の進み具合やなぜ昇段に至らないのかという理由が明確になり、自分の現状を把握するのに一つの目安となるとともに目標となると思います。また道場の運営についても、会報制作、会の名簿管理、入会募集などをはじめとする役割を分担して責任を担うことは、教えられるという受動的な立場を、自分たちで運営していくという能動的な立場へと変えてくれるものだと思います。
道場を導く者に必要な資質について、「人を管理する能力を・・・学ぶことはできる。・・・だが(マネジャーが人材を開発するには)それだけでは十分ではない。根本的な資質が必要である。真摯さである。」とドラッカーは述べています。マネジャーに求められる任務は、第1に生産性が高まるように自部署を導くこと。強みを生かし弱みをなくすことである。第2に現在と未来、短期と長期の面からリスクの種類と大きさを判断し、リスクを最小限にとどめること。たとえば現在の顧客や成果を重視するあまり、将来の変化を見逃して波に乗り遅れてしまうといったことにならないようにすると述べられています。そこでマネジャーに必要な資質をただ一つ「真摯さ」であるといっています。「真摯さ(integrity)」とは「正しいと信じることに対して、正直であり、誠実である」こと。たとえいつも仏頂面で気むずかしい人物でも、信念があって志が高く公平な判断ができるなら、その人物はマネジャーの資質を持っている。いかに愛想がよく、有能で聡明であろうと、真摯さに欠く人はマネジャーとして失格だとしています。道場においても有能な門人を育てることが道場の目的とするならば、その指導において妥協を許さず真摯に指導に当たらなければならないとともに、その評価についても私見を交えず公平に判断することができなければならないということになります。そしてその結果に責任をもつものが道場長ということになります。
道場運営において目標を設定することは必要不可欠なことです。目標のないまま運営していくことは、目的地を決めずに大海に出ていくのと同じくらい無謀なことだと思います。目的地がないのですから、行く先に必要な燃料も食料の全てがどんぶり勘定となります。それでは当然のことながらいつかは破滅ということになってしまいます。全体としての組織としての目標、そして各道場としての目標というものを明確にさせたとき、自分はどう行動するべきかという個人の力を引き出すことができるようになると思います。ドラッカーは「目標管理の最大の利点は、自らの仕事ぶりをマネジメントできるようになることにある。自己管理は強い動機づけをもたらす。・・・最善を尽くす願望を起こさせる。」と述べています。
マネジャー、つまり管理職の仕事は、働く人たちを1つの方向に向かわせること。しかし、しばしば誤ったやり方が取られることがある。
① 組織を機能で細かく分けること。こうすると、専門分野でのスキル向上自体が一人の目標になってしまう。
② 上下関係を厳しくしすぎて「上の言うことを聞く」ことが過度に意識されてしまうこと。
③ 現場と管理職の思惑のズレによって、両者の価値観や関心事が大きく異なること。
④ 報酬の多寡によって間違った行動を評価し、助長してしまうこと。
こうしたやり方をとると一見、組織はまとまっているように見えても、成果の出ない単なる人の集まりとなってしまうと述べられています。道場において、たとえば門人の関心が単に自分だけの技術の向上に目が向かってしまっては、有能な柔術家を輩出することができたとしても個人として売名に関心が善き、目標とする流派の普及と後に澁川一流柔術を確実に残すという目標に沿わなくなる恐れがあります。そのためにも道場長は適切な方向付けを示す必要があります。
マネジメント体系で最も重視する「目標による経営」は、上位部署の目標に基づいて自分の部署の目標を明確に設定し、それに貢献できるように部下の仕事を導くのだ。目標には売り上げの伸び、コスト率の削減、新しい仕事の立ち上げ、後継者の育成、社会貢献など様々なタイプがある。どんなものでも部署の目標が明確になると、「自分はそのために何ができるのか」を考えられるようになる。目標による経営の最大のメリットは、経営管理者も自分の目標も自分で考えて立てられるという点だ。自己の働きをいかに貢献につなげるかという意識で主体的に仕事を見直すことができるのだと述べられています。道場運営においても道場長が目標を明確にすることで、門人一人一人がその目標に向かって自分の強みを発揮させる機会をつくることができると思います。人材育成においてもより質の高いものを目指すとき、一人では難しいことも門人の間でこれまでしてきたことを伝えあうことで、全体としてのボトムアップにつながることが期待できると思います。そして道場としてより完成度が高まったとき、また新たな目標の設定が可能となってくると考えます。 ドラッカーは「凡人が力を合わせて非凡な成果を上げるのが組織の強み」であるといっています。それとは逆に組織全体への貢献の意識が衰えると、足の引っ張り合いや個人主義がはびこり、ノウハウの共有力が落ち、失敗を極端に恐れるようになる。だが失敗しない人に新しい価値を生み出すことを期待できない。「成果を上げる人」とは「価値を生み出す人」のことである。当然、試行錯誤の段階で短期的には失敗もするであろう。しかし失敗しない人をほめ、失敗した人を責めるのは大きな間違えである。意欲的な人、優秀な人ほど失敗はつきものである。それを失敗ととらえる組織では、人の意欲と士気は大きく下がると述べられています。道場長の役割として人材の可能性をいかに伸ばしていくかがに力を注ぐかということを常に考えて行動しなければならないと思います。そのとき私見で人を評価してしまえば、人は不公平さを感じやがて足の引っ張り合いや個人主義のはびこり、ノウハウの共有力の低下を招くことになりかねません。ですからそれを束ねるもの資質には「真摯さ」が不可欠になると思います。
道場としてあるべき姿ができたとき門人に対し、「組織は澁川一流を普及させるために、あなたにどんな貢献を望んでいるか」を示し、理解を共有することでまた新たな普及のための方策を立てることができると考えます。
これまで述べましたように組織を構成するのは人であり、澁川一流柔術を修業するのも人、それを次の世代へつなげていくのも人です。その人によって栄えもすれば滅びもするのが無形の文化の伝承なのだと思います。
私事になりますが私の職場で、先輩方から一通りの機械加工を教わったころ「この技術は人を傷つける可能性も持っている。人に技術を教えるのは恐ろしいこと。人を傷つけるものをつくるなよ。」と教わったことがあります。力のあるものは人を豊かにしてくれます。ですがそれと同時に人を不幸にもすると感じるようになりました。伝える人には技術だけではなく、その心を伝えていく責任があるように感じます。広く世の中に広めていく中でその中身まで薄く広がっていくことは避けなければならないことだと感じています。
そのためにも人を見る目を持つことは道場長に必要な資質であることを述べ終わらせていただきます。
参考文献
・P.F.ドラッカー 『マネジメント【エッセンシャル版】-基本と原則 ダイヤモンド社 2013年5月28日 第51刷発行
- 2013/10/04(金) 21:25:44|
- 昇段審査論文
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受審課題 :無雙神傳英信流抜刀兵法を通じて何を教えるべきかを論じなさい。
前書き
課題である「無雙神傳英信流抜刀兵法を通じて何を教えるべきか」を論じる前に、まず私にとって「無雙神傳英信流抜刀兵法とは何か」を論じてみたい。
またそのために、私自身の半生を振り返ってみたい。その人の生い立ちと武道歴は、その人の武道観とは切っても切り離せない関係であると考えるからである。あるいは、そのものと言えるかもしれない。
生い立ち
私は昭和45年(1970)東京都品川区南大井に生まれた。東京と言っても下町で、お世辞にも上品な場所とは言えなかった。東京湾のすぐ近くで、週末には最寄り駅から大井競馬場へ行きかう人の波がすごかったことを覚えている。当時の競馬をやる人たちには今のようにおしゃれな人達はおらず、あまり小奇麗とは言えない服装の人たちが、無言でぞろぞろと歩く姿には、一種異様な雰囲気があった。
これは最近になって知ったことだが、最寄り駅である京浜急行線の立会川駅周辺には、旧・土佐藩山内家の下屋敷があったそうである。江戸に剣術の修業に来ていた坂本龍馬は、その下屋敷に滞在していたと。駅から200mほど先の勝島運河周辺には浜川砲台が設置され、龍馬はその警備にあたっていたとのことである。立会川駅のすぐ近くには子供の頃よく遊んだ公園があるが、最近では坂本龍馬の記念像が立っているらしい。
坂本龍馬と言えば土佐の人物で、土佐と言えば無双神伝英信流抜刀兵法の発祥の地でもある。これには不思議な縁を感じる。
また、山内容堂公の墓も所在している。山内容堂公と言えば、無双直伝英信流山内派の代名詞でもある。
当時は公害が社会問題の一つになっていて、工場は元より、道を行きかう自動車の排気ガスがすごかったことを覚えている。そのせいもあってか生まれてすぐぜんそくになった。かなり重症だったため、学校は休みがちで、遠足や修学旅行も不参加が多かった。
少し走っただけで発作が出るので、運動のたぐいはほとんどできず、当然、運動は苦手であった。体力もなく、乗り物も苦手で、すぐに乗り物酔いになるので旅行も苦手だった。なにしろ移動が苦手なのだから、移動が大半を占めると言っても過言ではない旅行が、楽しい思い出になるはずもない。
昭和55年(1980)横浜に転居した。ちょうど10歳、小学校5年生になる春のことである。当時はよく理解できていなかったが、親の会社の都合であったことを後になって知った。
小学校、中学校とぜんそくは相変わらずで、運動はまったくの苦手なままであった。
高校になって硬式テニス部に入部したが、上述のように運動が苦手なことと、目が悪くてボールがよく見えないこともあって半年で退部した。ただその後、体力がついたのか、二年生のときには皆勤で、三年生のときもほとんど休むことはなくなった。それでも運動らしい運動は、ほとんどしたことがなかった。
大学時代
平成元年(1989)神奈川大学に入学。神奈川大学には給費生という制度があり、それに合格すると四年間の学費が免除される。他の大学の入試に先立って、毎年12月24日に試験が行われる。あまり深く考えることもなく、受かればラッキーくらいのつもりで受験した。残念ながら給費生としては合格できなかった(なにしろ合格率100倍と言われていた)が、一般合格は認められた。学費を払うなら入学してもよいということである。大学側としても、学費を免除するほどは優秀ではないが、ある一定程度の基準を満たした学生を早期に確保したいという思惑があったのであろうことは大人になってから理解できた。その後、他の大学も受験したが、どこも合格できず、結果として神奈川大学に入学した。給費生は試験が三科目で、国語、英語、政治経済で受験した。国語と英語はずば抜けて成績がよかったが、社会科一般は苦手でひどい成績だった。それもあって、他の大学は合格できなかったのであろう。神奈川大学に入学したことが、後に大きな意味を持つことになった。
学部は法学部で、これもあまり深い考えがあってのことではなかった。なにしろ、受験用紙を記入する段階まで、外国語学部の中国語学科にするつもりだったのだから。一緒に受験用紙を記入していた友人が、やめた方がいいのではないかとこれもまた深い考えなしにアドバイスをくれて、なんとなくかっこいいからという理由で法学部にしたのである。しかしこれも、後に大きな意味を持つことになる。
大学に合格した私は、もちろん社交的な性格などではなかったので、サークルなどには入らず運動系の部活に入部しようと考えた。少し体を鍛えたかったのである。かと言って純粋な運動にはついていける自信がなく、これまたなんとなく武道系にしようと考えた。
神奈川大学には当時、柔道、空手、剣道、少林寺拳法、琉球拳法、テコンドー、弓道、合気道などの武道系の部活があった。柔道、剣道は中学高校からの経験者が入るもので、大学から始めるのは無理だと聞いた。空手は少し乱暴そうで性に合わない。少林寺拳法の見学に行ったが、稽古を見ることができなかった。たまたま合気道の勧誘をしていたので、そこに自分から声を掛けて、練習を見学することにした。合気道のことをまったく知らなかった私は、正直、変な武道だと思った。しかし、マラソンはしないし、稽古も楽だと聞いたので、とりあえず入部してみることにした。
いざ入部してみると、マラソンはするし、筋トレはするし、技はよくわからないしで、入部して間もなく、やめようと思った。しかしある日、木刀を持って裸足で学校の外周をマラソンした後、校舎の屋上に駆け上がり、木刀の素振りが始まった。
当時の神奈川大学の合気道部は、普段は西尾昭二先生の体術を稽古していたが、水曜と土曜の剣と杖の稽古では岩間の斉藤先生の技を稽古していた。一の素振り、二の素振り、三の素振りと、上段や脇構えから振り下ろすだけの今思うとなんということはない素振りに、当時は感動を覚えたのである。それで、退部することをやめたのである。
剣がなかったら、きっと合気道部は続けていなかったであろう。そして、同じ合気道でも剣の稽古をするのは決して一般的ではないということを後になって知った。神奈川大学の合気道部でなかったら、きっと続かなかったに違いない。
また法学部ではなく外国語学部に入部していたら、授業が忙しくてとても部活は続けられなかっただろう。当時、授業は適当で、教室よりも道場と部室にいる時間の方が長かった。大学の何学部かと聞かれると、法学部ではなく合気道部と答えたくらいである。それでも単位はきちんと取っていたので無事に卒業はできた。法学部はそういった融通が利いたのである。大学の授業では、法律よりも物理や哲学、スポーツ理論などの方が楽しかったことを覚えている。
斉藤先生の剣と杖の他に、西尾昭二先生からは居合を教わることができた。当初は稽古の前に大森流を教えてくれたが、後にご自身で工夫考案された合気道用の居合を教えてくれるようになった。これは英信流が元になっているが、他にも荒木流や水鴎流、香取神道流などの動作も入っている。もともと空手柔道の出身である西尾先生は、よりよいものはなんでも取り入れるというリベラルな考え方の持ち主であった。横浜の松尾剣風道場で、当時一流の武道家との交流があったことも大きな要因だったのではないかと想像している。
私自身も、西尾昭二先生の合気道と剣杖居合と並行して、岩間の斉藤先生の体術剣杖を習うことができたのはとても幸運なことだったと思っている。
そして、武道は一つに凝り固まるべきではないという考え方の基礎も、ここに根があるのではないかと自分自身では感じている。
また稽古のために、メガネをやめてコンタクトレンズを使用するようになった。極度の近視のためメガネでは視力の矯正がほとんど利かなかったが、コンタクトレンズでは視力の矯正が利くため、文字通り世界が広がった。知らない場所でも案内板が見えるし、人の顔が見えるから話しかけることもできる。
体力がついて、車はまだ苦手だったが電車なら酔わなくなったこともあり、行動範囲は飛躍的に広がった。まったくどこにも行くことのなかった人間が、一人でどこにでも行くようになったのである。ただし、武道のためならば、という条件付きではあったが。
毎日の部活練習の他に、夜は町道場の稽古に通った。若い学生が稽古に来ると、道場の人はよろこんで参加費も無料にしてくれるし、稽古後の飲食もご馳走してくれたりもした。また、やる気があっていいね、などとおだててくれるので、ますます調子に乗って稽古に通った。横浜だけではなく、逗子や東京、埼玉などにも通った。
就職後
平成5年(1993)横浜市役所の職員となる。
就職についてもとくに考えていなかった私だが、漠然と、民間の営業には向いていないだろうなとは感じていた。合気道部の後輩が公務員試験の勉強を始めると聞いて、自分も始めることにした。通常より1年遅れで勉強を始めたわけである。半年ほど勉強をして、国家公務員Ⅱ種、神奈川県高等、横浜市、大和市、東京都特別区を受験して、幸いなことに一次試験はすべて合格した。そして、勤務は家の近くがよいというだけの理由で、横浜市に就職することにした。幸い、二次試験も合格することができた。
大学で合気道を稽古していても、就職すると稽古をやめてしまうことがほとんどである。理由はもちろん、仕事が忙しいからである。公務員となった私は、幸いなことに最初の配属はそれほど忙しい部署ではなく、稽古を続けることができた。その後も、忙しい部署に配属になったりもしたが、稽古は休まずに続けることができた。
OBとして学生の稽古に顔を出したので、毎年5人前後の新入生を相手に、約20年間で述べ100人程度の相手をしたことになる。自分の稽古はもとより、人を見ることや、いろいろなタイプの相手に合わせること、アドバイスの仕方・タイミングなど、指導の勉強にもなったものと思う。
当時の神奈川大学では、三年生で初段、四年生の春に二段まで取得していた。卒業後も稽古を続けていた私は、25歳で三段となり、28歳で四段となることができた。かなり早い昇段であったため、当時は周囲(大学OB)のやっかみがすごく、若いくせに、ろくに稽古もしていないくせになどと言われたことをよく覚えている。ただし昇段は自分の意思ではなく、師範である西尾昭二先生の強い勧めと推薦によるものであった。
この頃から、合気道以外の武術武道にも目を向けるようになり、稽古するようになった。これはもちろん、西尾昭二先生の考え方によるものが大きい。
「合気道の道場の中で、仲間内に技がかかっても何の意味もない。武道の価値は、他武道との比較の中においてなされる。」とよくおっしゃっておられた。
実際、合気道の高段者のほとんどは、突きもまともに突けず、剣もろくに振れず、投げもまともに打てないのに、口だけは達者な人ばかりであった。
そして、他武道の稽古をしていると聞くと、あいつは合気道に対してまじめではない、などと評する人が意外にいたりするのであった。
中国武術は8年間練習した。最初は、金沢八景へ八極拳を習いに通った。当時の職場で、毎朝、新聞記事をチェックする担当になっていて、たまたま広告に目が行ったのである。家は横浜市の最北端、練習場所は横浜市の最南端である。練習時間よりも往復時間の方が長かったが、合気道の稽古で埼玉にも通っていた私は、とくに負担には感じなかった。
練習を開始して間もなく、指導者がその場所を突然やめてしまった。のちに新宿で練習していると聞いて、今度は新宿に通った。そして、長拳、剣術、槍術なども練習した。
長拳はいわゆるカンフーと呼ばれるもので、とても速く激しく動き、跳躍や旋回も行う。また中国武術では、武器は手の延長と考えられており、短い武器として剣か刀、長い武器として槍か棍をセットにして練習するのである。ここでも、何か一つだけではなく幅広く練習するのが当然のことであった。
後に太極拳も練習し、いくつもある太極拳の種目のうち参加者が少ない種目であったとはいえ、たった3ヶ月の練習で神奈川県の代表として全国大会に出場したのもいまではよい思い出である。
激しいトレーニングのせいで膝の半月板を痛め、腰を痛めたが、合気道で得意になっていた私がまったく通用せずに鼻っ柱を折られたのは中国武術である。実際に殴り合ったりはしない表演の世界ではあったが、指導者は中国のチャンピオンで、練習仲間にはアジア大会でメダルを獲得するような人もいて、大人になってから練習を始めた自分は、まったく中の下にも届かないようなレベルであった。
とにかく基礎が足りず、筋トレと柔軟を毎日みっちりと行った。柔軟がどれほどきついものかを知ったのはこのときである。また、もともとほとんど運動経験がなく貧相だった体を合気道の稽古でそれなりに鍛えたつもりであったが実はまったく大したことはないということを知って、今でも大した体ではないがそれでも十人並みの体になれたのは、中国武術の厳しいトレーニングのおかげである。
並行して、全日本剣道連盟居合の道場にも通った。全剣連居合は五段まで取得し、夢想神伝流も奥居合まで稽古した。
太刀打と詰合は、師匠は、師匠の師匠から習ったとのことである。ただ、一通りの手順を覚えた後はまったく稽古しなかったので、今ではほとんど覚えていないと。また打太刀しか稽古しなかったので、仕太刀の動きはまったくわからないとのことであった。全剣連の競技選手として優秀だったので、試合や昇段審査に関係のない稽古には興味が持てず、時間と労力を割く気にはならなかったのであろうことは想像に難くない。
幸いなことに、当時のビデオと文章が残っていたので、相手を決めて稽古をしてみた。しかし居合の他に剣道の経験もあるその人は、間と間合いの感覚に乏しく、手順の覚えも悪く、まったく稽古が進まず閉口した。なんとか十本を覚えて打太刀仕太刀を交代すると、またまったく動けなくなってしまうのである。全剣連居合の長年の稽古によって、決められた手順を演じることしかできない頭と心と体になってしまったのであろう。太刀打十本、詰合十本が伝わっていたのに、大変残念に思う。
稽古は次第に全剣連の昇段審査のための稽古ばかりとなり、大森流すらろくに稽古をしなくなった。全剣連で三段四段になっても、大森流の順番すら覚えていない稽古生がだんだん増えて来た。高段者であっても、居合とは全日本剣道連盟居合十二本のこと、という認識しかなく、しかもその自覚すらない人たちばかりであった。武術・武道・兵法としての居合ではなく、あれではまったく、全剣連居合道競技選手の集まりである。
神奈川県立武道館で開催される初心者教室には、剣道、空手、弓道などにも参加した。
スポーツチャンバラ、なぎなた、アーチェリー、フェンシング、杖道など、体験可能なチャンスがあれば、なんにでもどこにでも行った。
明治神宮や日本武道館の古武道の演武会も見に行った。
合気道では長野、新潟、滋賀、大阪、北海道まで、中国武術では中国へも合宿に行った。
きちんと稽古したのは合気道、居合、中国武術の3つである。
中国武術は遅くとも10歳までには練習を始めて、20代後半では体が持たず引退するような世界であった。スポーツと変わることがない。
合気道は西尾昭二先生亡きあと稽古したいと思える道場を見つけることができなかった。
居合は稽古していたが、完全に現代居合道であり、全剣連居合が中心で、夢想神伝流はとても古伝とは思えない内容であることをだんだんと知るようになった。また一人で行う素抜き抜刀術のみの稽古であり、西尾先生と斉藤先生の合気道出身である私には、とても武道とは思うことはできなかった。次第に、これではない、という感が強くなっていった。
合気道が中核にあり、中国武術で体を作り、なんとなく居合を続けていたというところであろうか。
貫汪館
大森流は十一本(流派によっては十二本)の業で構成されている。昔から、業の名称に疑問があった。一つは抜打、もう一つは陰陽進退である。大森流は基本的に“○刀”あるいは“○○刀”という名称で統一されている。なのに、なぜこの二つは例外なのか。
何に興味を持つかは人それぞれである。それこそ生い立ちに原因があるのであろうが、それを分析するのは難しいことであるし、少なくともここではあまり意味がないだろう。同じ武道を稽古する者でも、ある者は業を稽古することにしか興味がなく、ある者は業の理合に深い造詣を持ち、ある者は武道史に強い関心を持ち、ある者は業の名称に興味を持つ、などということなのであろうか。
私の場合は、業の名称に深い意味があると考え、その業にその名前をつけた先達の深い考えに想いを馳せ、また名前の意味から裏に隠された理合を見つけることができるのではないかと考えている。科学的アプローチであると同時に、ロマンをも感じているのである。
陰陽進退はなぜ陰陽進退なのか。なぜ“陰陽進退刀”ではないのか。そしてそもそも“進退”であれば、“陰陽”ではなく“陽陰”ではないのか。また、二文字または三文字の業名の中で、なぜこの業名だけ四文字なのか。どうでもいいと言えばどうでもいいことだが、私にはとても気になって気になって仕方がなかったのである。
世の中は日進月歩で、インターネットというとても便利なツールが一般的となった。もう忘れられつつあるが、ほんの十数年前までは、資料はほとんど紙で、人づてか自分の足で歩いて探すしかなかったのである。それが現在では、インターネットの検索エンジンに単語を入力するだけで、たいていのことがわかってしまう。便利なものだ。
そしてあれこれと調べているうちに、中国の陰陽思想に“陽進陰退”という単語があることがわかった。しかし、居合関連で“陽進陰退”がヒットしたのは当時1か所だけで、しかもとくになんの説明もなかった。
ときおり思い出したように、“陰陽進退”あるいは“陽進陰退”などという単語を検索する日々が続いた。他にもいろいろな単語で、検索を繰り返していた。
あるとき貫汪館のホームページがヒットした。大森流居合術名覚についてのページである。気になって、メールをしてみた。昔の私からは考えられない行動力であるが、大学で合気道を稽古して、コンタクトレンズになり、あちこちに一人で出向くようになってからの私としては普通の行動である。果たして、すぐにていねいな返信をもらうことができた。悪用しない事を条件に繊細な画像を送ってもらうことができた。研究紀要も実費で送ってもらうことができた。
当時の貫汪館のホームページは今でもそうだが背景が黒で画像や動画もほとんどなく、詳細な業の説明もなく、しかし形名はすべて記載されていた。大森流、英信流表、英信流奥、太刀打、詰合、大小詰、大小立詰。歴史についてきちんと記載がなされていた。
ストイックで厳格なイメージがあり、敷居が高く感じられた。定期的に講習会が開催されていることはわかったが、軽い気持ちで参加できるような雰囲気には感じられなかった。ただこれも、後で述べるが、結果的には良い方向へと働いたように思う。
全剣連居合でも得意になっていた私は、四段の一回目の審査には合格ができなかった。神奈川県の審査は、三段までは合格率100%だが、四段から突然厳しくなる。そのため、四段が一つの壁と言われていた。
昇段審査では、傍目には、なぜあれが合格でなぜあれが不合格なのだろうかという現象がたびたび起きる。それも人の世の常であろう。ただ今思えば、たしかに少なくとも当時の自分はたいした技量ではなかったことがよくわかる。
いつものことであるが、そのとき得意になっているのは自分だけで、あとになって振りかえってみるとたしかにひどいものだったとわかり、恥ずかしさのあまり顔から火が出るような気持ちになる。ただ、そう思えるのは今の自分が以前よりは多少はましになったからだろうと、自分で自分をなぐさめるようにしている。
次の審査では、なんとか四段に合格することができた。とりあえずの壁を突破してひと段落した私は、以前から気になっていた貫汪館の講習会に参加してみることにした。
平成19年(2007)初めて参加した貫汪館の講習会は、大森流と太刀打であった。大森流十一本、太刀打十本の約二十本を午前と午後の講習会で行ったが、礼法にかなりの時間を費やし、最初の1時間では初発刀までしか稽古をしなかった。午前はけっきょく順刀まで。午後は大森流の続きと懐剣の稽古をして、太刀打十本を一気に稽古した。当時、太刀打はまだ稽古をしたことがなかったので、見よう見まねで必死に稽古したことを覚えている。
中国武術をそれなりに経験していた私は、速く激しく動くためには、ゆっくり静かに動く練習が必要不可欠であるという認識を持っていた。全剣連居合や夢想神伝流でもゆっくりと動く稽古を、周囲から奇異の目で見られながらも、独自に行っていた。
貫汪館では、ゆっくりていねいに動くことが基本になっていた。礼法は、礼法そのものがすでに業として認識されており、業としてのレベルを要求されていた。
当初は、大森流は多少の形が違うであろう、太刀打は手順を体験できればよい、くらいの認識であったのが正直なところである。ところが、礼法からとても高いレベルを要求され、激しい衝撃を受けた。無双神伝英信流と夢想神伝流の違いは多少でしかない、という認識でいたが、まったく別の流派であることをあらためて認識した。それと同時に、それはとりもなおさず、貫汪館のレベルが高いことを意味していた。もしもレベルが高くなかったのであれば、単なる形違いという程度の認識しか持たなかったであろう。
またもしも講習会への参加があと半年早かったら、貫汪館のレベルを理解することもできなかったであろう。自分のレベルが足りないからである。またもしもホームページに動画が掲載されていたら、講習会へは参加しなかったかもしれない。未熟で見る目のない私は、動画を見て間違った判断を下していたかもしれないからである。そうであれば今でも、貫汪館とはまったく無縁のままだったかもしれない。
無雙神傳英信流抜刀兵法とは
無双神伝英信流抜刀兵法は、林崎甚助重信を流祖とし、長谷川主税之助英信を中興の祖とする。林六太夫はその剣術の師であった大森六郎左衛門が創始した大森流の居合を取り入れ、あわせて土佐に伝えた。
細川義昌は大正年間、香川の植田平太郎に無双神伝英信流を伝え残し、以後、尾形郷一貫心-梅本三男貫正-森本邦生貫汪-と、現代まで伝えられている。
一般に無双神伝英信流抜刀兵法とは何かと問われれば、伝系の別はあるにしても、上述のような説明になるであろう。
しかし、私にとって無双神伝英信流抜刀兵法とは<貫汪館>の無双神伝英信流抜刀兵法のことに他ならない。
他にも無双神伝英信流は伝えられているが、これは私にとっては同名の別流派である。伝系が違うというだけの意味ではない。それは、夢想神伝流や無双直伝英信流は、無双神伝英信流と名前は似ているが別流派なのと同じくらい別流派なのである。形の手順は同じでも似て非なるものなのである。
貫汪館の無双神伝英信流抜刀兵法には、大森流、英信流表、英信流奥、太刀打、詰合、大小詰、大小立詰の形が伝えられている。これらすべてで無双神伝英信流という一つの流派なのであるが、便宜上やむをえず分類するとすれば、抜刀術・剣術・柔術の三つの要素を持っていることになる。このうちのいずれか一つが欠けたとしても、武術としては成立しない。
無双神伝英信流の形はいずれも素晴らしい物で、いずれも自分の稽古次第では、自己を高いレベルに引き上げてくれる。
それは例えば現代武道の剣道と空手と柔道と居合とを並習したとしても、とても到達はできない境地である。現代武道は競技化が進み、それぞれにまったく互換性がなく、本来の武道とは異なるものとなっている。人の体は一つであり、いくつものことはできない。一つの流派として、共通の理合が必要なのである。寄せ集めは所詮、寄せ集めでしかない。
貫汪館における無双神伝英信流抜刀兵法の要点はいくつかあるが、代表的なものは、
無理無駄がないこと
肚で動くこと、臍下丹田で動くこと
無念無想であること、邪念妄執を捨てること、我意我欲を離れること
などである。
他にも具体的な技術として、そけい部をゆるめることは大変重要である。また、刀を道具として扱わず、体と一体として扱うことも大変重要なことである。
上述のことを身に付けるために、初心の段階から徹底的に、礼法、歩法、斬撃の稽古を行う。安易には業の稽古には入らない。
逆に、上述のことが身に付きさえすれば、次々と先の形の稽古を行う。そこでは、稽古年数や肩書きなどは何の意味も持たない。
貫汪館の無双神伝英信流抜刀兵法では、一般の居合の流派と比較して、長くて重い刀を遣う。これは上で述べた“無理無駄がないこと”“肚で動くこと”“刀を体の一部として扱うこと”などの要点を守って遣う必要がある。それを、筋力トレーニングをして腕力で振り回そうとしたりしてはいけない。また、身に余るからと短くて軽い刀を遣うようでもいけない。現代に伝わる居合の流派で三尺三寸を抜く流派もあるし、もっと長い刀を抜く流派もある。要は体の遣い方一つであろう。
無雙神傳英信流抜刀兵法を通じて何を教えるべきか
私にとって無双神伝英信流とは、貫汪館の無双神伝英信流のことであると上で述べた。そして、貫汪館の無双神伝英信流の無双神伝英信流たる所以は“無理無駄がないこと”“肚で動くこと”“無念無想であること”であるとも上で述べた。
まずは、これを教えるべきである。これらは初心者には難しく、まずは外形を教える方が、教える方も教わる方も楽ではある。しかし、外形や形の手順は、数を稽古していれば覚えるものである。しかし、いったん身に付いてしまった悪癖は、容易には取り除くことはできない。重要な点は、稽古の初心の段階から徹底的に教えるべきである。そしてそれがとても重要であるということを、繰り返し伝えるべきである。それができるかどうか、どのレベルでできるかは別のことである。
稽古する者のレベルが上がると稽古する形のレベルも上がるというようなものではない。技術に成長がない者ほど、新しい形を求める。技術に成長がある者は、単純な形であっても飽きず繰り返し何度でも稽古をすることができる。そこには、初心の形、上級の形などは存在しない。同じ基本の形を演じたとしても、そこには歴然とレベルの差があらわれる。高いレベルとは、いかに基本のレベルを高くしたかということに他ならないのである。
貫汪館の無双神伝英信流抜刀兵法には、大森流、英信流表、英信流奥、太刀打、詰合、大小詰、大小立詰が伝えられている。これはつまり、抜刀術だけでなく、剣術だけでなく、柔術の形までがきちんと伝えられている、ということである。そこに深い意味がある。
現代武道は、剣道なら剣道、空手なら空手、柔道なら柔道と、それぞれ専門化・細分化がされている。ルールにより勝敗が決まるため、そのルールの中で最も有利に立ち回ることが、最も合理的な行動となる。剣道家は、剣道の試合に勝つことを至上とする。そこには、空手の技術や柔道の技術はまったく必要とされない。そんなことを身に付けるための時間と労力があれば、剣道の試合に勝つために特化された技術を稽古した方がよい。当然の思考である。空手、柔道などの他武道も同様である。
しかし、本来の武道には、ルールは存在しない。こちらが剣を抜く前に斬り掛かられ、あるいは組み付かれるかもしれない。こちらが素手のときに斬り掛かられるかもしれない。これはできるがあれはできない、という言い訳の通用しない世界である。抜刀術、剣術、柔術などの区別なく、すべてのことができなければならない。
礼法の稽古から始め、大森流を稽古し、大小立詰の稽古ができるようになるまでには、何年もかかるかもしれない。しかし最初からその存在を示すことで、無双神伝英信流抜刀兵法は単なる素抜き抜刀術ではない、ということを無意識に理解させられるはずである。
そして、修業が進めば、無双神伝英信流抜刀兵法のみに留まらず、剣術や柔術の稽古もすべきである。無双神伝英信流抜刀兵法の体系はそれらを網羅しているとは言え、やはり専門の剣術や柔術の稽古はしておいた方がよい。幸いにも貫汪館には、大石神影流剣術と澁川一流柔術が伝えられているのだから。これを学ばない手はないであろう。
結言
技術としては、“無理無駄がないこと”“肚で動くこと”“無念無想であること”。
心得としては、抜刀術、剣術、柔術にこだわらないこと。一つのことにしばられない。
自由になる。臨機応変融通無碍、千変万化自由自在
- 2013/10/05(土) 21:25:44|
- 昇段審査論文
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10月の稽古場所等の変更をお知らせします。
・10月12日(土) 原小学校体育館 9時(大人10時)~12時
・10月19日(土) サンチェリーサブアリーナ 9時(大人10時)~12時
・10月26日(土) 出雲大社奉納演武会前日のためお休み 「無雙神傳英信流抜刀兵法を通じて何を教えるべきか」
「無雙神傳英信流抜刀兵法」は、林崎甚助重信を流祖とする戦国時代から続く流派で「無双神伝流」ともいい、土佐藩に伝承された居合の流派です。古くは「無雙流」ともいい、土佐藩では「長谷川流」または「長谷川英信流」とも呼ばれていました。
戦国時代は年齢に関係なく戦場へ赴き、戦わなければいけない時代です。その様な時代だからこそ、「力」に頼らない「業」と「心」で戦う方法が生まれたのではないかと考えられます。そうして、江戸時代においても変わる事無く、当時の武士たちによって修練された武術は力に頼らないものでした。現代の武道には現役の選手から引退するということは当たり前の事ですが、武士達にとっては武士である以上は刀と共にあり、刀と共にある以上は引退するなどと言うことは考えられる事はありませんでした。「力」に頼らず「業」と「心」を修練することが、日本の武術の特徴といえると思います。
しかしながら、現代に生きる我々は学校教育において西洋的な動きと姿勢を身につけさせられ、それをよいものとされてきました。それは、日本の武術においては絶対に否定されねばならぬことであり、それを否定することから稽古は始まります。また、武術の世界は相手をねじ伏せることは許されません。その様なことを続けていれば、やがては年齢とともに衰えてゆきます。武術の「業」は衰える物であってはなりません。そのため筋力を用いる者は、それを否定する事から稽古は始まります。
以上の事から、まず「無雙新傳英信流抜刀兵法」を通じて最初に教えなければならないことは、日本の武術の「力に頼らない」・「無理無駄の無い動き」と言う特徴と、日本人の伝統的な姿勢・立ち居振る舞いであると考えます。
まずはそれを「礼法」をもって稽古をしてゆきます。刀を手に持ち「神前の礼」・「刀礼」を繊細にじっくりと稽古します。
「神前の礼」は刀を右手に持ち、立ったまま礼を行います。しかし、この立ち姿勢は所謂「気をつけ」の姿勢ではなく地球の引力の線にそって、何処にも無駄な力は無く自然な姿でなくてはなりません。礼をする時は、「肚」を中心としてこれも無駄な力を用いずに行います。また、刀も力で持つのではなく極々柔らかな手で、なおかつ「肚」とのつながりを保ちながら持たなければなりません。そうして、「心」は神前である事から、いわゆる「無心」である事が望まれます。そのまま引力の線に沿ったまま、座姿勢へと移行します。あくまでも作った座姿勢ではなく、地球の引力に沿った無理無駄の無い自然な姿勢で無ければなりません。刀を自分の前面に横たえる動きも自分の前に立てる動きも、座姿勢による礼も「肚」から行わなければなりません。出す手も姿勢が前傾することによって行われるものであり、出るのであって出すことは無く、これも自然な動きであるべきです。
「礼法」の次は「歩く」ということを稽古します。姿勢は座姿勢と同じく地球の引力に沿って立ちます。歩く事で注意するべき事は、座姿勢の礼と同じく「足は出すのでは無く出る」と言うことだと思います。こちらも「肚」を中心とし、足を出すために力を使うことはありません。まずは、刀を腰に差したまま歩く稽古を続けます。それをあるところまで行うと、次に刀を構えて歩きます。ここで初めて刀を鞘より抜き構えます。刀を構える事により、いままで「地球の引力に沿った線」、「肚」で力を使わずに立っていたものが刀を構える事で崩れてゆきます。刀を持つ事に囚われ、尚且つ「半身」をとることに意識が行き「力に頼らない」と言う前提が無くなってしまいます。
このように「礼法」・「歩法」を通して武士が行っていた身体の使い方、日本の武術の「力に頼らない」身体の使い方の基本的なことを伝えて行きます。明治時代にもたらされた西洋的な身体の使い方ではなく、日本の伝統的な身体の使い方を教えて行くべきだと考えます。
「無雙神傳英信流抜刀兵法」もそうですが、日本の古武道にはその流派特有の「形」が残されています。この「形」があるからこそ武士が行った修練を現代でも行うことができ、それが一つの流れとなって伝統が生まれています。そうして、この形一つ一つ稽古を重ねることによって、「自由な動き」・「無理無駄の無い動き」が生まれてきます。その様に、教習体系は組まれています。
「無雙神傳英信流抜刀兵法」において、初めに教えられる形は「大森流」です。
「大森流」は正座の姿勢が基本となっています。人は立つことによって地球の引力の影響を受けしっかりと立とうとします。そのことによって人の動きは制限され、足首、膝、股関節、腰などの下半身に力を入れ固めてしまいます。これは、武術にとって致命的なことで、その場に居着くことにつながり、動きは不自由となり、斬られてしまいます。武術における立ち姿勢は一見すると不動に見えますが、その内側はどのようにでも動ける自由なものでなければなりません。それゆえに「無雙神傳英信流抜刀兵法」では「大森流」において「正座」をすることで引力に抗していない状態を作り、足首、膝、股関節、腰の固まりの無い状態を認識させ、後の下半身の状態を稽古させています。そこには力に頼り瞬発力で動くと言う考えはありません。この様に「正座」を基本とし正しく無理無駄なく自然に座ることが出来ることによって、下半身が自然であるが故に上半身の腹、背中、胸、肩、首にも全く無理無駄な力が入らず、この姿勢のまま稽古をすることが業の上達に繋がってゆきます。そうして、ここで身につけた「力に頼らない動き」・「無理無駄に無い自然な動き」が後の形である、「英信流表」・「太刀打」・「詰合」・「大小詰」・「大小立詰」に生かされ、「英信流奥」へと繋がってゆきます。
「大森流」の次に学ぶ「英信流表」においても同じことが言えると思います。
「英信流表」では「大森流」とは違う座り方を行います。それは、「立膝」です。「大森流」で用いられる「正座」は江戸時代になってから一般化しますが、それ以前は「英信流表」で用いられる「立膝」が行われていました。この座り方は現代に生きる我々にはなじみの薄い座り方だと思われますが、そうであるからと言ってこの「立膝」を構えてしまうと大きな間違いを犯してしまいます。つまり、「大森流」と同じように、刀を抜くために心も身体も構えない姿勢であるべきものが、構えてしまうことによって、心も身体の固まり動けなくなってしまいます。「正座」であろうが、この「立膝」であろうが姿勢を作ることは無く、身体は地球の引力の線にそって真っ直ぐであり、自然の一部、地球の一部とならなければなりません。心も身体も構えない、その様な自然な姿、状態から業は生まれなければなりません。
ここでは「大森流の正座」・「英信流の立膝」について述べましたが、「無雙神傳英信流抜刀兵法」には多くの方が残されています。どの形もこの「正座」・「立膝」が身についていないと上達はありえないと考えます。これらの座姿勢の限らず「無雙神傳英信流抜刀兵法」に残る「形」を正しく伝え教えることで、正しい伝統的な身体の使い方を学んでいただき、それを通じて「力に頼らない動き」・「無理無駄の無い自然な動き」を教えるべきであると考えます。
次に、「無雙神傳英信流抜刀兵法」には、一人で稽古をする「形」と二人で行う「形」があります。一人で行う形は当然のことですが、そこには実際に斬るべき敵は存在しません。そこで稽古の時には、仮想の敵を想定し、その敵(想定)に対し抜き付けを行います。
まず、ここで伝えなければならないことは、想定の動き、位置だと思います。それは、正しい想定があってこそ正しい動きが出来、「形」の意味することが見えてくると考えるからです。しかし、それをお教えしてもいざ稽古を始めると自分の都合の良い想定になってしまいがちです。敵は常に動き一時も止まる事無く自分へと向かって斬りかかって来ます。想定もその様であるべきで、決して自分の都合の良いように動くものではなく、ましてや斬られるために止まるものではありません。その様に自由自在に動く想定、自分に斬りかかって来る想定をおくことで、それに対処するにはどのように動けば良いか、その様な時の「心」の在り様はどの様であるべきかを学ぶ事が出来ると考えます。
「大森流」の想定は自分に斬りかかって来る敵と言う、自分から離れたところから向かってきています。「英信流」は「大森流」よりも近いところ、自分の前後にあるいは、左右に座す者に対応するように作られています。想定の位地に違いはありますが、どの様な状況にあろうと焦ることはなく、心は平常で静かでなければなりません。ここを通してどの様な状況下においても、心は焦ることは無く、平常心であるべきであることを教えてゆかなければならないと考えます。
ここにおいて自分にとって一見不利な状況下でどの様な動きがもっとも適しているか、どの様な心であるべきかを、そうして、心のありようはどのようであるべきかを学ぶ事ができると思います。これは、武術の世界だけではなく、我々が接する日常のあらゆる場面で生きてくることだと考えます。いつ自分の身に危険が降りかかるか分かりません。その様な、状況において「無雙神傳英信流抜刀兵法」を正しく稽古をすることで、焦る事無く平常心で、その様な危険に対処をすることができると考えます。また、危険な状況に限らず、「無雙神傳英信流抜刀兵法」を稽古することによって、日常生活における人に対する心のあり方、状況の変化に対する心のあり方を身につける事ができると考えます。「無雙神傳英信流抜刀兵法」の「想定」を正しくお教えすることを通じて、自分の身の回りに起りうる状況の変化に対処できる心をお教えすることができると考えます。
それでは、二人で稽古をする「太刀打」・「詰合」・「大小詰」・「大小立詰」においては何を教える事ができるでしょうか。
まずは、「太刀打」・「詰合」について考えてみたいと思います。
「無雙神傳英信流抜刀兵法」は居合の流派ですが、この「太刀打」・「詰合」は純粋に居合というよりもほとんどの形が剣術の業であります。居合は剣術に対抗できるほどの力を身につけなければ無意味なものになります。そのため剣術の業の稽古は居合を専門とする者にとっては必要不可欠なものであるといえます。剣術の動きを知らない者が、剣術に対抗できない道理は当然のことです。しかし、剣術の稽古であるといっても、あくまでも今まで稽古してきた身体の使い方には変わりなく、無理無駄の無い動き方をしなければなりません。
「太刀打」・「詰合」においては打太刀が遣方を導くように稽古をします。ですから業の進んだ者が打太刀をつとめます。
これらの形は遣方が打太刀に木刀を使用しますが、実際に斬り込んで行きます。また、打太刀が反対に遣方に斬り込み、それを遣方が受けたりします。この目の前に敵がいるだけで、いままで「大森流」や「英信流表」で、稽古していたことができなくなる方がほとんどです。身体は固くなり、焦りが出てきて心は平常心から程遠いものになります。ここを厳しく指摘し、「大森流」・「英信流表」の形となんら変わらず、「力に頼らない」・「無理無駄の無い自然な動き」をしなければならない事を、再度認識できるように教えなければなりません。
また、「太刀打」・「詰合」では、実際に相手がいる為に学びやすいことがあると思われます。それは、斬り込むあるいは受ける拍子、適切な間合いであるかどうか、残心はできているかなどです。これらのことがきちんと適切にできていない場合は、打太刀は遣方に斬り込んで、隙のあることを教え導きます。これは「形」の稽古といっても、実戦の心持ちで稽古をしなければならないと言うことを教えるためです。その様な心で稽古をすることで、正しい動きや心が身につくものと考えるからです。
次に「大小詰」・「大小立詰」ですが、これは相手に刀を押さえられ、抜くことができない状況にある時の稽古をします。「大小詰」は「立膝」に座って行い、「大小立詰」は立った状態で行います。どちらも相手に刀を押さえられているので、抜きつける事はできません。そこで、これらの「形」では相手を投げてこの危機的状況をきりぬけます。「大小詰」・「大小立詰」はいわゆる柔術技法といえます。柔術技法だからといって、先に学んだこと変わることは無く、「力に頼らない」・「無理無駄の無い自然な動き」で「心は焦ること無く平常心」で対処します。また、相手とは接している状況ですので、無理に力で投げる事はできませんし、投げようとしてもなりません。相手の力には逆らわず、自分を中心として相手と繋がり、相手との調和を持ったまま静かに動き、その動いた結果が業となり、相手を投げる事ができることを教えなければなりません。
最後の「英信流奥」では、今まで稽古してきたことを基礎として、自由自在に業が使えなければなりません。抜付け・斬撃には「極め」を作ることは無く、水が流れるように動き何処にも終わりは無いその様な動きを身につける事ができるように教えなければならないと考えます。
以上「無雙神傳英信流抜刀兵法」の「形」を通して何教えるかを考えてきました。次に「無雙神傳英信流抜刀兵法」の「歴史」を通して何を教える事ができるかを考えてみたいと思います。
武道を稽古する方の多くは自分の流派の「歴史」や「歴史的背景」を詳しく知らない方がほとんどです。自分が稽古をする流派の歴史を知ること、学ぶ事は先人達がどの様にこの流派を創始し、どの様に工夫し、どの様に稽古を重ねて上達をしてきたかを知ることができると考えます。
例えば、「無雙神傳英信流抜刀兵法」の中で最も古い形は「英信流表」であると考えられますが、稽古を始める上では「英信流表」の形ではなく、「大森流」から始めます。「大森流」は大森六郎左衛門から新陰流を習った林六太夫が「無雙流」の居合に取り入れて、始めに稽古をするように定めたとされています。この様に、それぞれの流派には独特の成り立ちがあり、それを知ることはその流派を稽古するものにとって大変重要な事であると考えます。また、現代の我々の生活様式と、先人達の生活様式は全くと言っていいほど違います。稽古とは昔(古)を考える(稽)事です。先人達がどの様に稽古をしてきたかを知ることができ、そこから多くの事を学ぶ事ができると考えるからです。また、流派の歴史だけではなく、日本の歴史を知ることも自分の身に成ることと考えます。ですから、「無雙神傳英信流抜刀兵法」を通して「先人の知識・知恵」を教えることもできると考えます。
以上見て来ましたとおり、私は「無雙神傳英信流抜刀兵法」と通して、正しい伝統的な「形」を教え、「力に頼らない」・「無理無駄の無い自然な動き」・「焦ることの無い平常の心」を身につけて頂き、また「歴史」を教え「先人の知識・知恵」に触れて頂き、それらが、日常生活の中で生かすことができる、その方法を教えることができると考えます。
<参考文献>
1) 森本邦生 「広島県立廿日市西高等学校研究紀要 第11号抜刷 平成14年度」
貫汪館 2003年3月23日
2) 森本邦生 「広島県立廿日市西高等学校研究紀要 第12号抜刷 平成15年度」
貫汪館 2004年3月31日
3) 森本邦生 「広島県立廿日市西高等学校研究紀要 第13号抜刷 平成16年度」
貫汪館 2005年3月31日
- 2013/10/06(日) 21:25:03|
- 昇段審査論文
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「柔術とは何か」
「柔術とは何か」を考えるにあたって、その成立過程・歴史と稽古方法などから考えてみたいと思います。あわせて、我々の稽古する「澁川一流柔術」についても考えてみたいと思います。まずは、柔術の一般的な成立過程・歴史を知らなければならないと考えます。享保十四年(一七二九)に起倒流の寺田市右衛門正浄が偏述した「登假集」が有ります。その中の「武藝の終始組討に極る事」の中で次のように述べています。
「夫兵器品々有る事、戦場の間数によりて、弓鉄砲或は鑓長刀太刀かたなを以って戦ふ也。何れも理の極る所は、間近く取入りて組討と成るもの也。その上、身の分限により、常に弓鉄砲鑓長刀等を持事なし。喩へ長道具熟し、棒鑓得たりとも、仮初の優會に用意も成るべからず。又は君前、私家、風呂、茶湯等、無拠無刀の場多し。また大将たりといふとも、戦場にて追詰らる々節有り。又大名・高家の御身の上にも、場所悪しく家来も付ざる席にして、不意の口論抔数多有る事なり。体術組討の道疎き故、残念至極の儀ども、其数をしらず。又戦場にて甲冑を着したる者は、組討なくて利を得る事有べからず。」
と述べています。つまりこの中にもあるように、自分の身近に得物の無い時に自分の身を守るためにあった体術組討が柔術へと発展していったものと考えます。また、戦場では敵の首をとり戦功を立てる為には必要なものであったと考えます。
また、その他にも次のような文献があります。日向飫肥藩伊東氏の家臣小野祐清が宝永五年(一七〇八)に著した「定善流俰極意秘自問自答」によると次のようにあります。
「夫俰ハ空手ニシテ白刃ヲ拉ギ、敵ノ働ニ勝習ニテ候。是ヲ取手トモ可申ヤ。此取手ハ匹夫下賤ノ藝ニシテ、好士上輩ノ業ニテハナキ様ニ思ヘル人モ可有候得ドモ、一向左ニテハ無之ト存知候。縦バ剱術之達人ナリトモ、太刀打ニ雌雄ヲ不決セ、手詰ニ仕掛候ハバ、組合ノ勝負ニ成リ可申候。就中戦場ニテ互ニ甲冑ヲ帯シ候ハバ、太刀打ニテ埒ノ明ヌ事可多候。然時ハ何時モ、可為組打候。鑓長刀ニテモ少ノ所ヲ悞テ仕損ジ、敵不意ニ手本ニ参リ候ハバ、是モ取合ニ成リ可申候。弓鉄炮モ二三間ノ場ニテ、自然空ト射外シ、二ノ矢ヲツガフ間モナク、間ニ不容髪ト飛懸候ハバ、刀ヲ抜ヒマモナク、自シト和ヲ用ル場ニ成ル事モ可申候。勿論、酒酔或ハ狂人、或ハ狼藉者杯ハ、即時ニ切リ殺シテハ悪敷事ノミ可有候。ヶ様ノ時、就中和の術ニアラズンバ、功有間敷物カト存候。右之道理ニテイヘバ、諸之武藝ニハ、皆和ノ習ヲ交テ教度事カト存候。又コ々ニ、存寄タル事ノ候序ニ御物語可申候。」
ともあり、ここでも同じく自分の間合い近くに敵がある状況での業の重要性が述べられており、狼藉者等を殺す事無く捕らえる事が出来る業、自分の身を守る業としてこのような術が必要で有る事が述べられています。そうして、このような考え方、必要性が柔術の成立の根底にあり、柔術の重要な理論であると思われます。
また、この頃の武士は組討をどのように修行していたのでしょうか。「登假集」の中の「古より相撲を以て柔術修行の事」のには次のように述べられている箇所が有ります。
「古より武藝の始終組討なる事、雖能知、柔組討といふ名目なく、唯武士の若き者集まり、相撲を以て身をこなし、理気味を去り、躰を和らになして、一心正しくする事のみ執行せし事なり」
とあり、柔組討と言う名目は有りませんでしたが、その修行方法は、「理気味(力み)」を去り、身体を柔らかく使い、ただただ心正しく修行をしていたようです。この頃から、基本的には柔術の稽古をしていたように考えます。そうして、この柔術と言う名称が生まれる前の流派として、天文頃から文禄に至る戦国期の人、竹内中務大夫久盛を開祖とする「竹内流」が有ります。竹内久盛は、或る日、夢の中に異人が現れて、木刀を二つに切って小刀として小具足術を教え、また七尺五寸の縄で敵を捕縛する早縄術をも伝授されたそうです。そうして、この竹内流を「竹内流小具足」あるいは「竹内流腰の廻り」と称していたようです。
次に、「体術」あるいは「組討」と言う名称からどのようにして柔術と呼ばれるように成ったのかを観てゆきたいと思います。同じく、「登假集」の中の「福野七郎右衛門和を発明の事」にはこのように有ります。
「中比、福野子といふ浪人有り。相撲の上手にて、夫より和といふ事を工夫仕出し、故に諸流の元祖也。唐土には古来より専ら柔術あり、軟家といふ。武備志に是を拳法と云、手縛ともいふ。今日本に用る所の柔術也。近世、陳元贇といふ者大明より渡り、武州江戸麻布の国正寺に寓す。其頃、福野氏も彼寺に寓居して衆寮に有りしが、或時元贇語りて曰、大明には柔弱にして剛強の人を捕の術あり、我能其技をみること多年なりと。福野子、其術を聞、其技を見て、我が工夫する所の柔術と兼学して、其業を仕出し、其事に熟せり。凡そ和の起り、右の士より世に広く弘まる。元贇其術を知りて教たるには非ず。全く福野子が工夫発明より出て、今諸方に遍分して数流有る事也。比術の工夫は、柔能剛を制するの理にして、敵と不争、屢勝ん事を不求、虚静を要とす。物をとがめず、物に触れ動かず、事あれば沈で不浮、沈を感ずるといふ。凡調息を要とす。是拳法の秘なりといふ。江州大津にも住居し、其後洛東粟田口にも住すと云。」
ここには、相撲を得意とする浪人の福野七朗右衛門がその特徴である「和(柔らかい)」と言うところを工夫したことが書かれています。彼が、工夫した点は「柔能剛を制するの理にして、敵と不争、屢勝ん事を不求、虚静を要とす。物をとがめず、物に触れ動かず、事あれば沈で不浮、沈を感ずるといふ。凡調息を要とす。」と言う点であり、その過程は、彼が当時の中国の明より渡って来た陳元贇と出合い、陳元贇の知る明の武術を学び工夫する事で「柔術」が出来上がった事が示されています。また、陳元贇の知る中国武術も「柔弱にして剛強の人を捕の術」であったと書かれています。おそらく多くの学びや気づきがあった事でしょう。彼の工夫した技が柔術となり、彼のもとで多くの者が学び、今日へと続く諸流派が出来あがったと考えられます。
また、嘉永六年(一八五三)常州土浦藩の野崎原道が遍術した「新心流柔術書」(抄)には次のように書かれています。
「(前略) 夫ヨリ以来、百有余年ヲ降テ、同ク明ノ萬暦ノ頃トヤ云ヘリ、漢人陳元贇トイヘルモノ、我邦﨑陽ヘ来テ、儒ヲ業トシテ住メリ。傍ニ兵法ヲ論ズルニ謂テ曰、摶打ハ陽ヲ本トシ、剛ヲ尊ビ、発動ヲ主トシテ専ラ勝ツ事ヲ宗トスレバ、敵ノ強ニ当レバ、ヨキハ必善シト雖ドモ、敵若シ柔ヲ以テ之ニ應ジ、其余力ヲ引堕シテ、柔順各其節度ニ当ラバ、剛ハ却テ反復シテ、不測ノ卑敗ヲ取ン事、堅木ノ風ニ覆ルガ如ク、柔ハ却テ柳枝ノ暴風ニ自若タルガ如ケント。直ニ摶打師ヲ招テ、彼此精実ノ枝葉ヲ比ベタリ。其時、摶打師エラツテ打突スト雖ドモ、元贇其應ズル事、風中ノ浮雲、翺翔ノ燕雀ノ如クニシテ、一ツモ微敗スル事ナシト云ヘリ。故ニ元贇其術ノ敵ノ剛ニ対セン処ヨリシテ、其業ヲ以テ柔ト名号シテ、敵剛ヲ以テ来レバ柔ヲ以テ應ジ、敵又柔惰ナレバ、乍チ剛ヲ以テ打ヒツグ。故ニ柔トハ、敵ノ剛ニ対シタル應名也。故ニ柔心翁、元贇ニ柔ヲ学ブノトキハ、元贇剛ヲ以テ客位ニ坐シ、柔心柔ヲ以テ主位ニ坐サシメラレ、彼此剛柔應変ノ扱ヲ教ヘラレシ也。」
ここに出てくる柔心と関口弥六右衛門氏心のことで、彼は柔心と号していました。そうして、江戸時代の始め頃に関口流を創始しました。ここでも、明国の陳元贇が関口柔心に業を教えた事が記されています。
以上のように、柔術の成立過程は、戦場あるいは日常生活において、自分の身の周りに得物が無い場合、敵に間合いに入られた場合に用いられた組討または相撲の柔らかく対応する技を工夫していた、福野七朗右衛門あるいは関口柔心が明の陳元贇から技や思想・理論を研究する事で出来上がったと考えることが出来ます。
それでは、次に柔術はどのように稽古をし、その目的は何であったのかを考えてみたいともいます。
まずは、先程の「登假集」の「福野七郎右衛門和を発明の事」には次のように有ります。もう一度その箇所を観てみたいと思います。
「比術の工夫は、柔能剛を制するの理にして、敵と不争、屢勝ん事を不求、虚静を要とす。物をとがめず、物に触れ動かず、事あれば沈で不浮、沈を感ずるといふ。凡調息を要とす。是拳法の秘なりといふ。」
と有りました。ここにあるように、「敵と争そわないこと」・「勝事を求めないこと」・「静かであること」などが目的であることが分かります。日常生活では、何が原因で争いとなるか分かりません。その様な時にあえて相手と争そうことはせず、その場を納めるか。あるいは、戦場ではいかにして生き延び、戦功を上げることが出来るかを学ぶ事が目的と考えることができると思います。又、自分の身の回りにいつも得物があるとは限りません。その様な時にどのように対処するかを身につける事ができると思われます。そうして、やむをえず争いとなった時、敵の力に逆らわずに敵を制し、傷つけずに取り押さえる事も目的であると、初めに紹介した「定善流俰極意秘自問自答」にも述べられていました。そのため「柔能剛を制する」事を工夫しなければならないし、「物をとがめず、物に触れ動かず、事あれば沈で不浮、沈を感ずるといふ。凡調息を要とす。」ことを稽古し身につける事が大切であると述べられています。
それでは次にどのように柔術を、稽古をすればよいのかを見てゆきたいと思います。稽古をする上で大切なことを観て柔術とは何かを考えてみたいと思います。先ほど引用した「新心流柔術書」(抄)には、関口柔心が陳元贇より次のように学んだことが述べられていました。
「故ニ柔心翁、元贇ニ柔ヲ学ブノトキハ、元贇剛ヲ以テ客位ニ坐シ、柔心柔ヲ以テ主位ニ坐サシメラレ、彼此剛柔應変ノ扱ヲ教ヘラレシ也。」
と有るように、常に柔(柔らか)に対応し、稽古したことが分かります。それは、「風中ノ浮雲、翺翔ノ燕雀ノ如クニシテ」と表現されています。また、その他の文献としては、万延元年(一八六〇)に土佐藩の片岡健吉の著した「體術道標」には柔術を稽古する上での注意点が色々と述べられていますが、その始めには次のように述べられています。
「夫體術者四體和ラカニシテ自カラ力ノ行届クヲ専要トス 第一未熟ノウチハ業コズマヌ様ニ只大業ニ捕習ベシ 相手ニキケヌヲ辱テ己カ作意ヲ加レハ必藝不進モノナリ
修行タラズシテ先師ノ仕置タル業ヲ難シ吾作意加ベカラズ 吾作意ノ業ハ相力ヨリ目下ノ人ナラズハ勝事アタハズ 先師ノ仕置タル業ヲ熟習スルトキハ萬敵ニ向ヒテ勝利疑ナシ 故ニ當流ノ極意平常ノクセトスル様ニ心得ベシ」
ここには、柔術は体全体を柔らかくして、体の内からの力が体のすみずみまで行き渡ることが重要であると述べられています。そのためには、稽古を始めた当初から体を縮こませ業を小さくせずに伸び伸びと大きく業を稽古する事が大切で有る事述べられています。その際、無理無駄を省き、呼吸に合わせ、無理をせず自分の速さで、正しく動くことが重要です。また、その際教えが難しいからといって、自分の考え、想いで稽古することは厳禁であり、「平常のように」が極意に繋がる事が分かります。
また、「體術道標」の中には他にも稽古の上での注意点が述べられていますので、それを観てみたいと思います。
・ 「常ノ稽古ニ業半途ニシテ止サル様にスヘシ」
・ 「業ニ上中下前後左右アレトモ時トシテ出合ノ違事アレハ業ノタクミナシニ出向フヘシ譬ヘ上ノ業ヲ中ニ出合 中ヲ下前後左右モ亦同ク出合ノ違事アルヘシ 此時心クラマズ格體クヅレヌヤウニシテ敵ニウタシテ入込心持有ハ平負ニハナラヌモノナリ 未熟ノウチハ敵ヨリ仕掛ル業ヲ上ヨ下ヨト疑ヒ 打レテハナラヌト思 是非ニ請ンスル故 心迷テ氣ノ移リヲソキガ上ニ格體乱ルル者ナリ 又タマタマ敵ノ仕掛ニ応ズレハ必勝ヲイソキテ業ノ整ザルモノ也 常ヅネ修行ニ心持アルヘシ」
・ 「人ノ器用強力ヲウラヤミ我器用柔弱ノ身ト吾ヲウラムハ修行ノ志シウスキ故ナリ」
・ 「氣ニ力ヲ入テ業ノ相シタカウヲ専用トス」
・ 「體術は格體トテ半體ニシテ體ノカワリヲ肝要トス」
・ 「常ノ稽古ニ相手ノ非ヲ見テ吾業ヲカヘリミ吾非ヲ改ル様ニスベシ 又相手ノ拍子ニ付ヘカラズ 只氣ニ應ズルヲ肝要トスベシ」
・ 「敵ニ勝ヲ急ガズ我負ジト身守リ心ヲ残シテ 敵ニモツルコト肝要ナリ」
と以上の事が重要であることがわかります。そうして、日夜稽古したからといって上達するものではなく、理をしっかりと理解し、業と理をひとつにして稽古をすることが重要だと締めくくられています。また、この「體術道標」の中にも「柔術とは」について述べられている箇所があります。
「體術ハ組詰ノミニアラス 體ヲ守ノ術也 治世ニハ我身ヲ全シテ忠孝信ノ心不怠時ハ天下ニ敵トナル人モナカルベケレト 此體術腰廻ノ秘業朝夕策励シテ緩怠ノ心ナキ時ハ 霊スハリ如何ナル所ヘ出合トモ驚動事アラズ 其上乱心盗賊取籠者等世ニタユマヌ者ナレバ彼等ガ為ニモ心苦ナカルベシ 又業熟シテ應変ノ氣不怠ハ馬上或ハ屋根ナトノ様ル高キ処ヨリ落ルモ怪我有ヘカラズ 且河岸ナトヨリ大勢ニセリコカサルル時 其ノガレ有事也」
とあり、ここでも柔術とは自分の身を守る術であり、平和な世の中では柔術の理念を基に忠孝信を心がけ敵を作らないようにすることであると述べられています。また、柔術を稽古することで、心が落ち着きどのような事が起ろうとも平常心で望むことが出来るとも述べられています。平常心で望めば怪我をすることも無く、争いごとから逃れるようになれるとも書かれています。これは、前に紹介した「登假集」・「定善流俰極意秘自問自答」・「新心流柔術書」(抄)にも述べられていることであり、多くの柔術流派に共通する理念ではないかと考えることが出来るのではないでしょうか。
以上見てきたように柔術は、まず戦場で弓鉄砲などの遠い間から鑓長刀太刀の間になり、最後は自分の間近くになった時に後れを取らないようにあった組討、または平時の時にはあらゆる事故や危険から身を守る体術が先人の工夫により発見された柔らかい業として生まれました。そうして、彼等先人が当時の中国・明の陳元贇の業や、敵と争わない事、あえて勝を求めない事、冷静であり決して焦らず慌てない事、調息・深い呼吸を大切にそる事などの理論を習い吸収することから柔術は生まれたものと考えます。その柔術を身につける方法も常に相手の力とは争わず、柔らかく稽古を心がける事が大切です。つまり、柔術とは何かとは、「自分の身を守る護身の術であり、戦時や危険と言ういざと言うときには敵を制する業として、日常生活・平和な時には其理念を基に忠孝信を心がけ敵を作らないようにする武術であり、または敵とあるいは人と争わない、自分と相手(自分を中心とする世界)との間に調和を求める術である」と言うことが出来ると思います。
それでは、我々が稽古をする「澁川一流柔術」はどうでしょうか。澁川一流柔術は幕末に首藤蔵之進満時によって創始されました。彼は、叔父で宇和島藩浪人の宮崎儀右衛門満義を師として、渋川流・難波一甫流を習得し、さらに他所で浅山一伝流をも習得をして、この三流派を統合して「澁川一流柔術」を創始しました。
また、或る日、広島城下に出ていた首藤蔵之進は、五・六名の広島藩士と争いになりましたが、「澁川一流」の業でこれを難なく退けたところ、たまたま居合わせた松山藩士の目に止まり、その推挙により松山藩に仕えることとなりました。これは、天保十年頃のことと伝えられています。この逸話からも分かるように「澁川一流柔術」は護身の術で有る事が分かります。
それでは次に澁川一流柔術の稽古を考えてみたいと思います。稽古の始めには体のあらゆる所にある力みを無くす事から始めます。「柔らかく」成ることを第一の目的とします。始めの形「履形」を通して今まで身についた無理無駄な動きや体の固さを取り除き、力(筋力を使った力)を使うことを否定して動けないところから始めます。そうする事で、「柔らかさ」を身につけます。また、稽古中は形の動きは最初から最後までは止まることはありません。「柔らかい」とは流れ続けることです。止まる事は「固さ」につながりますので否定しなければなりません。柔術の成立過程・歴史でも見てきたように、柔術は自分の身近くに得物が無い時に自分の身を守らなければなりません。稽古中においてもそのことを意識し、動きが止まると言うことは「死」を意味することとしなければならないと思います。そうして、無理無駄が無くなり、固さや力みが無くなり、「柔らかさ」が身に付いて来ると、自分の中心線が見えてきます。それは、地球の引力と同じである事が分かると思います。
次に、柔らかくなり中心線が感じられると、次第に自分の身の重さを感じられるようになります。また、自分の身の重さを感じる事で身体は沈みます。身体は沈む為には呼吸が重要に成ります。深い呼吸を意識するようになり、臍下丹田が意識出来るようになり、臍下丹田から動けるようになります。足は地面(床)を蹴る事無く動くようになり、腕は身体から離れることが無くなり、全ては臍下丹田を中心として統一されます。そうして、さらに柔らかく動けることが出来ます。また、深い呼吸をする事で、心が落ち着き、焦りが無くなり平常の心になります。身体が整い、心が焦らなくなると自分の中に調和が生まれてきます。
それから、注意しなければならに事は、しばらく稽古をして行くと「形」を行ううえで「上手く投げよう」・「形を見事に行おう」・「技を極めよう」等と思いが出てくることがあります。それらの思いは自我であり、心の固さにつながり心の固さが身体の固さへとつながるからです。稽古は「形」・「業」にこだわる事無く、身体も心も柔らかにして、流れるように止まる事なく行うことが重要です。心を絶対的に素直に純粋に保つべきです。次第に呼吸を深くし、心静かに稽古を重ねることも重要です。「~をしたい」と言う欲(自我)を無くし、心を柔らかく何ものにもとらわれる事無く、自然で無理無駄の無い稽古を心がける事が重要であると思います。その様な稽古を心がける事で、「自分の中の調和」が「相手(敵)との調和」へと広がります。そうして、いずれは自分を中心とする空間(世界)と調和してゆきます。調和が生まれる事で争いはなくなります。
澁川一流柔術は、流祖・首藤蔵之進が争い事からその身を守ったように「護身術」ですが、しかしその稽古の目的は柔らかくなり調和を求めていくものと考えます。つまり、「争わないこと」が、澁川一流柔術の理念であると考えます。その理念を表わしたものが、形の始めに行う「礼式」で敵を押し返す動きにあります。この「礼式」をただの「始まりの形」と捉えて行うか、「争わない」と言う理念を心に留め行うかとでは、稽古の成果としては大きな違いが生まれます。
以上見てきたように、歴史的な成立過程においても、また我々が稽古をする「澁川一流柔術」においても、「柔術とは」歴史的には戦場においては間合いが近くになり、自分に得物が無い不利な状況でいかにして戦功を上げ生き残るための業、そうして平和な時代には自分に降りかかる危険や争いから身を守るための護身術、日常生活ではその理念を基に争いごとを作らず避ける為の処世術と言う表の一面がありますが、別の一面として、稽古を通じて自分自身の調和、自分以外の人(自分に危害を加える者も含め)との調和、自分を取り巻く空間(世界)との調和、つまり「何事とも争う事無く調和を求める武術」と言うのが「柔術とは」の答えであると考えます。
<参考文献>
1) 石岡 久夫・岡田 一男・加藤 寛 「日本の古武術」 新人物往来社
第一刷発行 1980年10月1日
2) 森本 邦生 「広島県立廿日市西高等学校研究紀要 第11号抜刷 平成14年度」
貫汪館 2003年3月23日
3) 渡辺 一郎 「武道の名著」 株式会社東京コピイ出版部 1979年6月19日
- 2013/10/07(月) 21:25:03|
- 昇段審査論文
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貫汪館H.Pの会報のページに会報第76号を載せました。お読みください。 貫汪館の昇段審査に論文の作成を課していますが、論文作成にあたって日頃から留意しておかなければならない事を記しておきます。
1.多くの書籍を読む事
言うまでもないことですが、知識を得るためには書籍によらねばならず、読んだ数が少なければ情報量が少ないために間違った情報が自分の中で占める比率が大きくなります。
2.有益な情報を含む本かそうでないかが判断できるようになる事
世の中に出版された書籍には明らかに間違いであることを堂々と述べている物もあります。しかも間違いであるのを気付かない評論家が新聞に書評を書いて評価していることもあります。自分自身の知識を正確にしていかなければ判断できない事ですが、正しい知識を身につけていけば判断できるようになります。
3.なるべく原書にあたること
書籍に引用してあったり、現代誤訳してあることが正しいとは限りません。自分の都合の良いように引用したり解釈してある場合もあります。明らかに知識不足で間違って解釈してあるものもあります。書籍に記してあるから正しいとは限りません。
- 2013/10/08(火) 21:25:07|
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春の昇段審査、大石神影流剣術の2段の論文です。「これまで修行上留意してきた事、今後留意しなければならない事」
大石神影流剣術は剣と一体になるだけではなく、相手とも一体となって行える剣術であると私は思っている。それは自分だけで行なってもうまくいかず、また自分体全体だけを意識してもうまくいかないということである。他の剣術でも同じかもしれないのだが、
大石神影流ではそれが特に感じられるように思う。
私はこれまで自分の身体のみを意識し、相手のことを考えずどうやれば自分の身体が楽に動けるのかを意識して練習してきた。もちろんそれだけではうまくいかず、ある程度今動けているのはお相手の先生がうまく誘導してくれているからだ。実際に、先生以外の方と練習するときには更に動きがおかしくなっていると感じる時が頻繁にある。その度に直していければ良いのだろうが、私は一人の時は自分の動きのみを考え練習し、相手のことをうまくイメージできていない。まあ、動きがおかしいのは私の稽古不足もある。このことも大きな原因になっている。それでも、一人のときはできる限り注意されたことを直そうとし、どうすれば楽な動きになるのかを意識して行っている。例えば、どうすれば腰をもっと楽にして落とせるのかなどそういうことを意識している。他にも、素振りの時は楽でいてなるべく自分の中心を意識しつつ振るようにしている。
では、どう稽古すれば良いのかというと私はこれを未だに閃いてはいない。ただただ、相手のことをできる限りイメージして相手がどうきたらどうするのかという型ばかりを考えている。今までからして駄目だったのだからこれだけでは駄目なのだろうということは薄々分かるのだが、先生がおっしゃるような「天地一体で相手とも一体の動き」というのが想像しにくい。だが、このままでは自分本位な動きしかできないことは分かっているつもりだ。実際に、最近の話では自分ばかりを意識して相手との間合いがおかしかったり、剣に当たってしまったりしている。これでは、楽な動きばかりを意識しても本末転倒もいいところだろうと私自身も思う。
他にも問題点はたくさんある。ここで述べるのは五つだが、実際にはもっと自分では気づけていない問題点もあるものだと思っている。ここでは自分で気づけている問題点の内の五つを述べようと思う。
第一に、気合いだ。あれは自然な流れでリラックスしているからこそ出せるものだ。さらに、出せたとしてもただ出すだけでは意味がない。相手を威圧できなければ気合いの意味がないからだ。だが、私はこのことが頭では分かっていても実際にはできていない。出せたとしても腹から出るものとは違うと思っている。これまでは腹から出すことを意識してやってきた。例えば、腰を落として腹を楽にして呼吸をする中で一気に息を出そうとするなど。しかし、実際に相手との稽古の中で行なってみるとその意識が出来なくなっている。それは、先生がおっしゃるには「出そうとしても出るものではない」からだそうだ。どうやら、深い呼吸をしていないとできないものらしい。なので、一人の稽古のときはリラックスしていることを感じながら息を一気に吐くということをしているのだが、このとき私は相手を意識できていない。相手に向かってやるものなのだから相手を意識できていないのならば、できていないことも当然だ。
第二に、先ほども述べたが間合いだ。これに関しては本当に分からない。自分本位で行なっているからなのだろうが、出来る限り自分の剣の長さを意識して稽古している。
大石神影流剣術の剣は他の剣術より長い。これを私は意識して行っているがここでも問題になってくることは相手のことだ。一人のときは特にだが、剣の長さを意識するのは良いのだが相手のことを意識できていない。これにより、実践での間合いがさらに分からなくなっている。このせいで相手の剣に当たってしまうということがおきている。先生のおっしゃることには、型を頭で考えながらやっている限りは無理だということなのだが、要は私の稽古不足が原因だということである。これにはできる限り頭で考えないようにしながら自然に型のイメージトレーニングをすることで稽古している。
第三に、足の動きや半身だ。私はどうやら自分の動きを止めようとするときに癖があるらしく、大概右足が横に向いてしまっている。このことは、相手に右足を向けるというように意識して稽古しているが相手をうまくイメージできていないこともあり、できていないことが多い。もう一つの半身だが、大石神影流剣術では左足をいつもより広く開く。これは半身によってなのだが、私は左足を意識してしまい半身がおかしくなっていることがある。これには大きく呼吸をし、腰を息にあわせて落とすことで対処している。だが、相手のことを意識しようとするとできていないときがある。
第四に、楽な動きだ。先ほど意識していると述べたがそれは自分本位での動きをやっている限りおかしな方向に進むのではないかと思っている。楽な動きとは、隙が無いという上で自分が楽な動きをするということであって自分が楽な動きをして相手に隙をつくってしまうようではこれも本末転倒だ。楽な動きをするだけではなく、相手を意識することが重要になってくる。これの原因は私の稽古がおかしいからなのだろう。なぜなら、ちゃんと稽古がこなせていれば徐々に体は楽な姿勢になってくる。もちろん、相手を意識できていないことも原因だが、このことも原因だと考えている。
第五に、先ほどからあがっている稽古不足と稽古がおかしいことだ。私はどうも自分で思っていることがちゃんとできていないようだ。言われたことを意識して稽古してはいるのだが、素振りをやっていなかったなど変なところで抜けていることがある。型はイメージトレーニングで補っているが私はイメージというものが苦手なのかもしれないとおもうことが多々ある。
これまでは自分の動きをできる限り型を全部で一つだというようにイメージしようとしていたがそこに相手のことが含まれていなかったり、往復でイメージができなかったりなどイメージが駄目なことがある。これはおそらく私の稽古が不足しているためイメージできないのではないかと思っている。実践でうまくいっていないのはそういうこともあるのだろう。要するには私のイメージ不足だ。出来る限り抜けることがないよう意識して稽古をしている。
ここまで、私自身の問題点を述べてきたがそのどれもから分かるように私は相手のことを意識して稽古ができていないことと、稽古量が不足していることだ。もし、できていたならば起きなかった問題もあると思っている。第一に、これからは相手を意識していかなければならない。でなければ、それは実践ではなくなってしまう。それにともなって、私の稽古不足も大きな問題だ。相手のことを意識してやれてないこともあるが、楽な動きなどは数をこなせば身体に染みついてくるものだ。それにより、相手との間合いというものも対処ができていくものだと思われる。自分の稽古が抜けていないかどうかということも今まで以上に意識していかなければならない。
私はこれらのことから大石神影流剣術では特に相手とのことを考えていかなければならないと思っている。これからは自分本位の動きではなく、相手との一体の動きを意識しつつ稽古をしていかなければならないと考える。そして、相手との一体の動きを意識しつつする稽古を増やし、稽古不足をなくさなければならない。
高知に行った時には細川義昌先生のお墓参りをしますが、ここがお墓のある山への入り口です。
- 2014/05/27(火) 21:25:39|
- 昇段審査論文
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春の昇段審査、大石神影流剣術の2段の論文です。「これまで修行上留意してきた事、今後留意しなければならない事」
自分がこれまで大石神影流剣術の修行の中で留意してきた事、留意していかなければならない事は大きく分けて三つであります。
まず一つ目は「呼吸」です。
あらゆる活動の源こそが「呼吸」で、大石神影流剣術の修行においてもすべての動きを「呼吸」に乗せて行い、呼吸で始まり呼吸で終われることを目指します。
臍下丹田を中心とした「肚」で、足から吸い足から吐き、「空よりも高く地面よりも低い」というイメージをもってより深く「呼吸」を行います。どんな動きしていても「吸うと吐く作用」を無限のリズムに乗せて途切れることなく行います。地球の重力とつながり常にできるだけ体を緩め、己を消しつつも指の先まで意識が回り「呼吸」で動くことを目指し、肚から呼吸で起こる気迫を体全体、刀、そして相手に伝えます。そして動く時も剣を使うときも体全体が調和します。更に、心の中に起こる「邪念」、つまり強く切ったり突いたりしたいといった意志や「型」にこだわってしまう心、わき起こってしまう悪い心などを「呼吸」で吐き出せるように練習します。
これからの留意していかなければならない事は、前に述べた「呼吸」をさらに深めていくことです。稽古の中で切ろう、突こうとして手を使ったり動こうとして足で床を蹴ったりして「呼吸」を忘れてしまい、呼吸が止まったり浅い呼吸になってしまったりします。さらに、足や背中に疲れがでたりすることもよくあります。こうした状況をへらしていくには、手や足などを使ってしまう外部的な動きをできるだけ小さくし、はらと深い呼吸を中心の内部的に動くことを無限に深めることに努めていかなくてはなりません。
二つ目は「相手と想定」です。
大石神影流剣術の形の稽古を行う上で「形の想定」と「相手の存在」は極めて重要です。
・形の想定
大石神影流の形の稽古にはどれにも決められた手順があって,仕太刀と打太刀に分かれて相手と相互に行いながら大石神影流剣術の基本を身につけていきます。そしてその形を練習するうえで手順だけの「型」にしないで「形の想定」を考えることがとても重要です。
例えば、形は手順が決まっているからから、それ以上に切り込まれたりすることはありませんが、形の想定は真剣を用いた戦いであり、そのための体を稽古する物です。相手の攻撃をかわした後や相手を切った後でも反撃されることがあること、または自分自身が攻撃後のさらなる攻撃、とった構えからのあらゆる攻撃、対応なども形になくても想定していなければなりません。
剣術の時代がどういう時代だった考えることも大切です。もちろんその時代は現代のように夜には外の街灯もなく、,警察もいないし、危険から自分の身は自分で守らないといけません。また、戦いにおいても刀だけでなく槍や長刀、鉄砲、手裏剣、武器がなくても石を投げたり、かみついたり、武器を奪ったり、攻撃は様々ですそのようなことも知識を得ながら想定を深めていく必要があります。
・相手の存在
大石神影流剣術の形は相手と行いますがその「相手の存在」も重要です。
相手との微妙な間合いについては、遠過ぎず近すぎず相手へ攻撃も撤退もできる距離であり「相手との駆け引き」でもあります。また形の中の間合いはそれがどういう意味をなしているのか、自分の動きが相手にどのように作用しているのかを考えなければならない場合もあります。
相手への攻める気迫も大切で肚から剣の先まで気迫が伝わりそして相手にじりじりと伝わり、それをお互いに掛け合います。
切り込む位置など、自分の切り込んだ刀の刃が相手に刃がどのように切り込まれているか相手の攻撃をどのように受け、かわしているかなどを考えるとともに、自分勝手になったり、相手に遠慮したりすることなく、「相手との呼吸」、「相手との調和」を目指し、さらに 相手の気迫や見えない動きを読み取って切り込むだり対応したりするための目を養うよう努めます。
これから留意していかなければならない事は想定と相手との関係をより技見結びつけて実行することです。解雇の中で自分の中に手順が決まっていることの安心や相手への遠慮、形にこだわってしまう気持ちが存在しています。しかしその存在が稽古の意味を消し、成長を妨げ、そして最も危険で危ないものです。この危険な存在を忘れず、その存在に打ち勝って、自分の質を高めてゆきたいです。
三つ目は人の言っていることの意味を良く聞き考えていることを読み取り、そして自分の技にいかせるように工夫していくことです。
以前稽古中、先生に「教わった事はその場で吸収するように努めなけれまらない。なぜならお侍さんの時代は、一歩道場から出れば、切りあいになることもありうるし、すぐ身につけられなければ対応できずにきられてしんでしまうだけです。」という言葉を頂きました。剣術の成立の時代からして教わった技を形の中で一刻も早く身につけることはと手も重要です。現代においてそんな状況に出食わすことめったにありませんがその時代の人のように早く身につけることも剣術の修行の中で身につけなければならない能力の一つです。そしてただ見ためだけなど外部的な物や先生や兄弟子の方々の言葉や動きの見えるっところや聞こえるところだけではなく言葉の聞こえない部分が意味していること、体の内部の見えない動きを見取って読み取るように努めて、理論や自分の経験などに当てはめたり、一部的に考えたりせず全体として考え柔らかく考えなければなりません。
そしておそわったこと、考えたことを実行し、先生や兄弟子の方々の言葉をかみくだきながらみずから追求、工夫して自分の物にしていきます。そして自分が工夫を重ねていく中で、実際にその時代を生きてきた人などが残した文献などを読み解いていくことも必要です。
内の状態を読み取る力を稽古の中で身につけることも大切ですが、普段の日常生活でもこの力を身につけ、働かせることが最も重要です。普段読み取る情報、先生の言ったこと、丘の言ったこと、人の言ったことの内の意味を理解することに努め、生活に生かしていくことがこれから深めるべきことです。
まとめ
最後に、大石神影流剣術を修行してきて、これからも修行していくについて形の中で技を練習し高めていきますが、それを現代の生活に生かしていくことがもっと大切だと思います。大石神影流を問うして学び身につけたことを万が一の時に利用するのも一つですが体の使い方、モノの見方・考え方、心の持ち方、人に対する振る舞い、新しいことや見たことのないもの触れたことのない状況にでも順応することなど、生活と人間社会の中で自分を守り、人を守り、社会で生きていくことに出来るだけ利用していくことが何より大切であり修行の目的だと思います。
また、人間には悪い心が起ります。修行の途中にも慢心など様々な悪い心が発生してきますが、それにはまってしまうと成長は止まり、危険な方向へはしってしまいます。だれにでもその悪い心があることを忘れてはいけません。そういった人間の黒い部分の存在も心にとどめて、人のためになるように、より高いところを目指し、それをより実現するために先生や兄弟子の方々の指導を受けながら自分を高める修行にしていきたい思います。
ここが細川家の墓地です。
- 2014/05/28(水) 19:23:54|
- 昇段審査論文
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今日から先日行った昇段審査の論文を載せていきます。皆さんそれぞれの立場からよく書かれていると思います。今日は澁川一流柔術の初段の論文です。
「武道における礼と澁川一流柔術における礼法について述べなさい。」
この度、昇段審査論文の作成に取り組むにあたりましてまずはじめに武道における礼について記述させていただきたいと思います。
以下に武道憲章の一部を抜粋させていただいております。
第二条 稽古に当たっては、終始礼法を守り、基本を重視し、技術のみに偏せず、心技体を一体として修練する。
第三条 試合や形の演武に臨んでは、平素錬磨の武道精神を発揮し、最善を尽くすとともに、勝っておごらず負けて悔やまず、常に節度ある態度を堅持する。
第四条 道場は、心身の鍛錬の場であり、規律と礼儀作法を守り、静粛・清潔・安全を旨とし、厳粛な環境の維持に努める。
第五条 指導に当たっては、常に人格の陶冶に努め、術理の研究・心身の鍛錬に励み、勝敗や技術の巧拙にとらわれることなく、師表にふさわしい態度を堅持する。
第二条および第四条は「礼に始まり礼に終わる」という武道における理念を表し、第三条は試合における対戦相手や演武における神様や観客への礼を表し、第五条は指導における師としての礼を表しているのだなと解釈しました。武道憲章は全部で第六条までありますが、その半分以上が礼について触れているため武道の基本的な指針は礼を重んじていると感じました。
また、現代における武道の教育を発達臨床心理学および教育臨床心理学の観点から着目しますと、稽古によって豊かな人間関係力、すなわち他者の気持ちを推し量ったり、場の空気を読む力などを獲得できることから人間形成に直接に結びつけられて考えられるようになってきておりますが、礼がその大きな要因になったと思います。
以上より、武道における礼には精神性や道徳性のような、人間形成を実現する上での大事な要素が包含されており、時代を越えても自分たちが教えられ、そしてそれを実践しなければならない普遍的な概念が多くあるといえます。
しかし、現代の武道における礼は形骸化の傾向にあるという側面も持ち合わせております。オリンピックなどの柔道の試合で見られるガッツポーズなどがそれにあたります。その原因として「武道における勝利至上主義、結果主義」や、「礼の意義についての伝統の忘却」などが挙げられております。
前者は、試合の勝敗に捉われ過ぎてしまうことで礼が動作形式になってしまい、中身が伴わなくなるために、武道において尊重されるべき礼が無視されていることを指します。個人的な経験から記述させていただきますと、自分は高校一年生から大学二年生までの間、弓道をしてきたのですが、高校の弓道では礼と的を射る技術の両面を重視しているように見えたのに対し、大学の弓道では的を射る技術のみに重点が移っているような印象を強く持ちました。
後者は、武道全体における礼の役割や内容やその方法が、「礼<お辞儀>をするという動作」という形式的な部分のみが重視されてきたものの、現在ではその形式的な振る舞いすら曖昧になりつつあることを指します。人間形成の重要な役割を担う「武道の礼」が曖昧なまま、人間形成と武道がつながっているのです。
以上より、これまでの武道における礼の教育的価値やその意味は明確のように見えて実は不明確なものであり、礼の本質を探り続けていく必要があります。
次に、渋川一流柔術における礼法について記述させていただきます。これまで「競技である武道」として弓道をやってきましたが、「競技ではない武術」である渋川一流柔術に入門した時は違和感でいっぱいでしたが、礼法に関することと同時に体や呼吸のはたらきも先生から教えていただき、うわべだけのことしか教わっていなかった弓道に対し、なぜそうなるのか?なぜそのような動作が必要なのか?といった物事の本質から渋川一流柔術において学ぶことができることを実感しました。
先ほど記述しました、礼の形骸化の原因として「武道における勝利至上主義、結果主義」を挙げましたが、渋川一流柔術においては試合という形式がないので勝利という概念が存在せず、また、先生から「うまくなったと」言っていただけることが何度かあったのですが、自分としてはうまくなった実感が持てないゆえに結果主義になろうにもなれないといった点で礼の形骸化を抑えるような環境が自然と形成されているのではないのかなと思いました。
新渡戸稲造が執筆した「武士道」にて、以下のことが掲載されております。
我が国のきめ細やかな礼儀作法の躾を、ヨーロッパの人たちが軽蔑して、「そんな型にはまった躾を受けているから、日本人は柔軟な考え方ができないのだ」と、言っているのを聞いたことがある。しかし、形式的な礼儀作法にも取り柄はある。それは、ある目的にたどり着くための最も良い方法を、長い年月をかけて、最も優美なやり方で試した結果、やっとできた形だということだ。スペンサーは、「優美とは、最も無駄のない動きのことである」と定義している。
渋川一流柔術の形は、いずれも「無理無駄のない動き」でありますからスペンサーの言葉を借りると優美なやり方と捉えることができますので、形式的な礼儀作法と同様に長い年月をかけて試行錯誤を重ねた末に生まれたものであると思い、それゆえに礼法も形もルーツは同じなんだなと思いました。
同じく「武士道」より、このようなことも掲載されております。
礼儀を教える流派のうちで最もよく知られている小笠原流の家元は、「礼道の中で一番大切なことは、心を磨くことである。礼を会得して座るなら、たとえ凶暴な人間が攻撃してきても害を加えることはできない」とまで言っている。礼法では、正しい作法を絶えず訓練することによって自分自身の肉体と環境を調和させ、精神を支配することさえできるというのだ。
これを読んで礼法を身に着けることで護身は成立するものであると思いました。日々稽古でやっている形は、「相手が危害を加えてきた時の対処の方法」という狭義の護身術になりますが、礼法などは「様々な状況を配慮し、最も対処できる可能性の高い方法」という広義な護身術になります。形ばかりが護身ではないことを知りました。
武道における礼と渋川一流柔術における礼法のまとめといたしましては、「礼」は武道における重要な役割を果たし、武道の教育の場における人間関係力獲得の要因となり、我々が教わり、実践し、次の世代へ教えていかねばならない概念を多く有しているのに対し、現代において「礼」本来の意義が薄れていっているといった側面があり、理由として「結果にこだわる考え」や、「伝統が少しずつ忘れられている」といった点が挙げられているため、「礼」というものの本質を再度改めて探し求めることが必要になってくるかと思われます。渋川一流柔術における礼法につきましては物事を本質から見つめ直す機会を与えてくださり、武道にありがちな「勝ち負けや結果にこだわる考え」がないことから余計な考えを捨て去りきることができる環境であると、入門して一年経った今、実感することができております。また、今回のこの昇段審査論文の作成を通して漠然としていた礼法に対する考えが少し具体的なものになったように思います。
最後に、このたび、礼に関して参考にした別の文献にて以下のような句が掲載されており、これにとても感銘を受けました。
実るほど 頭を垂るる 稲穂かな
さがるほど その名は揚る 藤の花
この稲穂や藤の花のように、謙虚で礼法を忘れることのない生き方を目指しつつ日々精進していきたいと思います。
<参考文献>
陶次 美樹:「武道における礼の教育的価値」、駒沢大学総合教育研究部紀要 第3号 2008年、pp.305-325
新渡戸 稲造:「武士道」、株式会社 幻冬舎ルネッサンス 初版 2012年
入江 康平:「武道文化の探求」、不昧堂出版 初版 2003年
日本武道館:「日本の武道」、財団法人日本武道館 初版、2007年
- 2014/10/17(金) 21:25:22|
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無雙神傳英信流抜刀兵法2段の論文です
「これまで修業上留意してきたこと、今後留意しなければならないこと」
私が貫汪館に澁川一流柔術の門人として入門をお許しいただいたのが11年前、昨年5月に無雙神傳英信流抜刀兵法を学び始めてからは、1年半が過ぎようとしています。私が貫汪館に入門し、今日まで一貫してご指導いただいてきたことは肚を中心とし、呼吸により統一される自然な動きを求めていくことでした。これは貫汪館で私たちが学んでいる無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術のいずれにも共通するものです。
入門当初、私の動きの基準となっていたものは全てスポーツ的な感覚でした。スポーツ選手としての力量は別として、動きのベースとなっていたものは競技スポーツから得てきたものであり、その価値観は瞬発力と力強さであったように思います。
余談となりますが、学生時代にサークルでアイスホッケー部に所属していた私の憧れはアメリカのアイスホッケーリーグNHLのパワーにあふれるプレーヤーたちでした。丁度その頃、リーグ優勝(スタンレーカップ)の常連チームであったLAキングスというチームにウエイン・グレツキーという名選手がいました。NHLといえばパワーとテクニック、スピードに勝る大男たちが激突する氷上の格闘技と呼ばれるアイスホッケーの最高峰のリーグですが、その当時すでに高齢であったグレツキーが筋骨隆々の大男たちの体当たりをひらり、ひらりとかわし、重心移動だけでトップスピードに乗り、他を圧倒していつの間にかゴール前に現れる姿に何がどうなっているのか理解できず衝撃を受けたことを思い出します。力強さこそ価値のある世界にあって、そのような戦略を選択した彼の感覚を私にはとても理解できませんでした。
そのような価値観で運動というものをとらえ、それまでの人生を過ごしてきましたので貫汪館に入門してからは大変苦労しました。まず、力を抜くということが理解できませんでした。そして、未だに尾を引いてしまっていることが呼吸と共に動くということです。これまで経験してきたスポーツでフェイントをかけたり、瞬発的なアクションをかけたりする時に息を止め、ためを作るということが癖となってしまっているようです。もちろんこれは一流選手には当てはまらないことと思います。これまで経験したどの競技スポーツにも指導をして下さる方に恵まれましたが、どの指導者にも同じように指摘を受けましたのが「柔らかく」でした。とても見ていられないほど動きが硬くぎこちなかったのだろうと思います。今もなお「楽に、柔らかく」といい続けられている自分を振り返り、つくづく成長のない人間だと思います。
前置きがなくなりましたが、これまで就業上留意してきたこと、これから留意しなければならないことについて述べます。
1. これまで修業上留意してきたこと
私がこれまで無雙神傳英信流抜刀兵法を修業する上で留意してきたことは、形を忘れること、呼吸により肚を感じ、中心を感じることです。呼吸は無雙神傳英信流抜刀兵法を学び始めて初めに躓いたところであり、今現在も試行錯誤しているところでもあります。柔術の修業である程度は出来ていたつもりになっていたのかもしれません。ですが無雙神傳英信流抜刀兵法においては、このできたつもりでは歩くことすら許されません。「無雙神傳英信流の形・・・大森流、英信流奥」で森本先生は、「人は立つことによってさまざまなことを可能にするが、引力に拘束されるがゆえに、よりしっかり立とうとし、それが人の動きを制限してしまう。崩れたくないために体に不自由になってしまうほどの力みを入れ安心を得ようとする」と述べられています。私の今現在の状態がまさにその状態です。刀を上げる動き、下げる動き、立ち上がろうとする動き、歩こうとする動きとばらばらに各体のパーツがそれぞれの動きを行い統一がありません。先生はまた武術における立ち姿を、「そよ風が吹けばふわっと動かされてしまうような自由自在な姿勢でなければならない」と述べられています。ふわりと動かされた体幹がそのまま足へと伝い、手へとつながり刀を走らせていくとい感覚を養うことなしに居合とはならないのだと感じています。それを可能にしてくれるのが呼吸です。その呼吸もただ吸って、吐くという単純な作業ではなく、大気中の空気が体に入り、体中を巡りまた大気中へと帰っていく循環です。この循環に動きをのせることをひたすら磨いていきます。このひたすらという思いもまた身体の自由を妨げてしまいます。より自然にごく当たり前のこととなるように、なるべくしてなる様に、あるべくしてある様にとを求めていきます。それができたとき人も宇宙の一部であるという感覚にまでたどり着くのではないかと思います。
形において想定を理解することは大切なことですが、相手がこう仕掛けてくるので足はここに位置し、この高さに切りつけるとしたのではそう仕掛けてくれないと成立しない動きを養ってしまうことになります。さらに言えば殺されるための修業をしているような矛盾さえ生じてしまいます。相手の仕掛けに応じた結果、生まれた動きとなるよう留意しなければなりません。まさにそよ風吹けばふわりとあおられ動かされる動きを前提とした形稽古を心掛けなければ意味のないものとなってしまいます。そのためにも一度覚えた形を手がかかりがこう、身体こうしてなどと考えるような稽古は避けなければなりません。呼吸にのり動いた結果としていびつな動きとなればその原因を探り、正していく稽古を重ねることが望ましいと思います。原因は結果として現れると観念しなければ上達の道はないと思います。
2. これから留意しなければならないこと
これまでに先生から沢山のお話をいただきました。
「自分を疑わなければ見えてこないものがある」というお言葉をいただいたことがあります。人は誰でも自分自身を客観視することは難しいのだと思います。写真や映像で自分自身の姿を見たときほとんどの人が自分の姿に「どうしてこんな」などと落胆したりします。常に自分自身を疑い、監視していかなければ思わぬ落とし穴にはまってしまいます。稽古してきた月日が長くなってきてからも自分はこれだけ修業してきたから、この方が技として効果的だといった慢心も生まれてくるのではないかと思います。そのような心で修業を行ったとしても自分のやっていることは正しいという思いから上達を望むことは難しくなるでしょう。そのままさらに進めば、指摘されたことも聞こえず、映像のなかの自分を見ても何の違和感すら感じなるのかもしれません。
修業の年数の少ない後輩からも気づかされるということはあると思います。その様な時にそのことに気づける状態になければ自分を正すことができるせっかくの機会を逃してしまうことになりかねません。そうならないためにも常に自分自身を疑いの目で見続ける必要があると思います。
「正しく動くことができて、たとえ斬り殺されたとしても本望だと思え」。これは先生が指導を受けられていたころのお話をお聞かせただいた時のものですが、形稽古でいくら相手がどのように来ても対処できるように稽古を行わなければならないといても、自分の都合の良いように理合いを変えても良いということではありません。人は弱さを持った生き物です、どうしてもできないことを間に合わせで取り繕い、自分の都合の良い様に解釈しようとします。本当の業を身につけるためにはよほどの覚悟がなければ体得できるものではないと思います。
想定を正しく理解することは流派武術を伝えていく上で大切なことであると思います。
今、私たちが学んでいる形が江戸時代のものと寸分違わず同じかといえばそうではなく、恐らくは何らかの変化があるのではないかと思います。ですが、それはあくまで、その時代、時代の試行錯誤の結果であったり、日本人の体格の変化と言ったごく自然な変化に留まることが望ましいのではないかと思います。また剣術や柔術といった複数で行う稽古方法をとる武道と比べ、独りで行う素抜き稽古は想定や解釈が異なれば大きく異なったものになります。たとえば無双直伝英信流と無雙神傳英信流の形には同じ形名でありながら、その動きは異なったものとなっています。想定の差異、解釈の違いにより動きが異なっている事がうかがえます。流派の教えを正しく体得しなければ無雙神傳英信流とはなり得ません。 私達が演武する機会に、誰が演武を見たとしても無雙神傳英信流抜刀兵法のも演武だと理解されるためには、想定を正しく理解し体に浸透させることは必要不可欠なことであると思います。そのためにも体の隅々まで無雙神傳英信流抜刀兵法の理合いを浸透させなければそれは似て非なるものとなってします。決して真似事であってはなりません。
最後に私が貫汪館本部道場で稽古できる環境にあるということは、大変恵まれたことであると思います。それは本部道場から離れ各支部で稽古されている同門の方達がそれぞれの道場で日々、悪戦苦闘し稽古方法を試行錯誤され、ご自身でご自身を正されるご苦労されていることを考えると、私には常に私を正していただいている先生の存在、そして兄弟子の存在があります。このことは掛替えのないものです。だからと言って、そのことに甘えることは許されません。一日も早く無雙神傳英信流抜刀兵法を伝えていくお手伝いができるよう努めなければならないと思います。
参考文献
1)石堂倭文:「道理を愉しむ居合道講座 全日本剣道連盟居合道編」、初版第1版、2014年
2)岩田憲一:「古流居合の本道」、スキージャーナル株式会社、第2版、2012年
3)檀崎友彰:「居合道―その理合いと神髄」、株式会社体育とスポーツ出版社」、第2版、1990年
4)森本邦生:「無雙神傳英信流の研究(1)―土佐の武術教育と歴代師範及び大森流の成立に関する一考察―」、2003年
5)森本邦生:「無雙神傳英信流・・・大森流、英信流奥」、2005年
- 2014/10/18(土) 21:25:49|
- 昇段審査論文
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大石神影流剣術3段の論文です
「剣術の歴史における大石神影流剣術の歴史とその特質について」
1.はじめに
大石神影流剣術は、筑後柳河藩が生んだ大石進種次が創始した流派である。種次は剣術修行に出て他流試合をし、大石神影流剣術の名声を高めていった。歴史上の人物でも有名な剣術士男谷精一郎がいる。この男谷精一郎をはじめ江戸の高名な道場を片っ端から破った折の江戸の騒ぎは明治維新の騒動以上であったという。進の出現がいかにセンセーショナルな事件であったようである。1)大石神影流剣術の歴代の人物像、伝系、剣術修行での大石進種次の活躍から、大石神影流剣術の歴史をみてみようと思う。
2. 大石神影流剣術の歴代師範
大石進種次(大石神影流流祖)
大石進種次(後七太夫、隠居名武楽)は、寛政九年(1797)、父種行の嫡男として、宮部村に生まれた。大石家宗家の下總より数えて、第十四代となる。
文政三年(1820)、祖父種芳より,槍術の免許をうけ、二年後の文政五年(1822)、同じく祖父種芳から愛州陰流の免許を受けた。この年の四月には祖父種芳が死亡し、更に三年後の文政八年(1825)、種次二十九才の時、父種行が死亡するに至った。2)
種次は幼時より、祖父種芳について愛州陰流剣術と大島流槍術を学んだ。進は生まれつき左手利きであったので、修練の結果、従来に愛州陰流になかった「突き」の手を加えた、大石神影流を創始し、勇名を轟かすに至る。
大石神影流のもととなった祖父種芳が相伝を受けた愛州陰流剣術の伝系を記す。
愛州陰流 足利日向守愛洲惟孝
奥山左衛門大夫宗次
上泉武蔵守藤原信綱
長尾美作守鎮宗
益永白圓入道盛次
吉田益右衛門尉光乗
石原傳次左衛門尉正盛
村上一刀尉源長寛
大石遊剱入道種芳
大石太郎兵衛尉種行
大石神影流 流祖 大石七太夫藤原種次
大石進種昌
大石雪江
板井真澄
大石一
大石英一
大石 馨 森本邦生
柳河藩は藩祖宗茂以来尚武的な土地柄で、先づ武を重んずる政策がとられてきた。旧藩時代の年中行事として、正月九日には年賀の挨拶に藩士は総登城する。その日御前試合が遂行されて士気が鼓舞されるが、こういうところにも尚武政策の一端があらわれている。
ある年の御前試合に進も出場した。立台の結果は予想を裏切っていとも簡単に敗北してしまった。
進は武道師範の家に生れ、幼少より槍剣の達人である祖父の薫陶をうけ、六才のときには槍剣の手数を上覧に供して藩候より賞嘆されている。これをみても進は自己の武技に対して過分の自負心を抱いていたことは、疑いない。進が試合に敗れたとき、これまでの自負心は一挙の崩壊し落胆の度合は非常に大きかったと想察される。巷間に少年時代の進はなにをさせても駄目であったという鈍愚説がある。
少年進は確かに天才肌の剣士ではなかった。しかし剣にかけては相当腕も立つ少年であった筈である。もし進がはじめから剣術下手であれは自己の武技に対して少しの自負心もなかろうし、御前試合に敗北してもそれ程発憤興起もしなかったであろう。この敗北を契機に進は剣術に心魂打込むようになる。
当時愛州陰流剣術においては唐竹面と長籠手をつけ、袋撓をとって稽古している。ある日進はこの教習法に疑問を抱いた。
この剣法では、防具に面と籠手のみ使用するから、当然面と籠手打ちの技以外はできないわけである。ところが実戦に使用する刀剣は、斬るばかりではなくその先端は尖っていて突くようにできている。然るに刀法には突技がない。また人間の胴体は五臓を内包した極めて重要は個所であるのに、生死を争う大事に際してこれを斬る技がない。これはどうみても実戦的ではないという結論に達したのである。
ここにおいて進は胴斬りと諸手突の技を考案し、それに生まれつき左手利きであったのでこれを活用して左片手突という奇抜は技を案出した。
胴斬りの技は進より以前に他流によってわずかに行われていたが、愛州陰流においては初めてのことである。しかし諸手突、片手突はともに進の独創であって、これまでの撃剣にはみられなかった。
剣技にともない竹刀や防具も新作したことはいうまでもない。このようにして独自の撃剣を始めたのが十八才のときだった。3)
大石進種昌(大石家十五代・大石神影流二代目師範)
武楽(大石進種次)の二男として、文政七年(1824)七月二十五日、宮部村に生る。
幼名 駒太郎、通称 進士、後、父武楽の名を継いで進となる。種昌も柳河藩槍術師なり、大石神影流二代目として大石道場を承継した。容貌が父武楽に酷似しており、小進と称されたという。身長も武楽程ではなかったが六尺有余と言われている。
種昌の妻は、山門郡上長田(現瀬高町)に在った同藩の武家 板井家の出で、板井角弥(親雄、徳治の名あり)の二女ヤス(俗に八十と言う)で、その兄は後に大石神影流を継ぎ四代目師範となる板井真澄の父板井一作である。一作は種昌より一才年長で柳河藩槍剣術師範(家川念流、宝蔵院流)であった。一作の父角弥と、武楽とは親交があり、その関係からヤスが種昌の嫁として迎えられたのであろう。4)
大石雪江(大石神影流三代目師範・白銀大石家の祖)
大石雪江は武楽の六男として、天保十年(1839)、八月十三日、宮部に出生した。又六郎と称したが後年名を雪江と改めた。
色が黒かったので村人は「黒又」さんと称したそうで、後に色白と思わせる名にしようと「雪江」と改名したとも伝えられる。又、寡黙な人と伝えられているが、何か面白味のある人柄だったようである。雪江も幼時から父武楽や兄種昌に剣道の指導を受け、兄の祐太夫等と共に諸藩を廻遊して修行に努めたが慶応元年(1865)二十七才の時、大石神影流の免許皆伝を受け、大石家より分家して宮部村に近い池田村白銀に居を構え、大石分家の始祖となる。
明治十一年(1878)、十二月、雪江が四十才の時、兄の種昌が死亡したので、同門の推挙により兄弟子の今村広門と共に、大石神影流三代目師範となった。
雪江は大石道場で多くの門弟を育成した外、晩年には戸長を勤め、明治二十一年(1888)から数三池集治監の剣道師範となり、又、明治三十一年((1898)八月には大日本武徳会福岡地方委員となる等、地方自治、剣道界に亘り、多大な功績を残した。5)
板井真澄(大石神影流四代目師範)
板井真澄は、安政元年(1854)十一月十八日、柳河藩士板井一作の次男として出生した。
幼名乙三郎と称したが、後真澄と改名し号を小道と称した。6)真澄は幼時より、父一作について家川念流を学んだが、後大石雪江門弟となり、大石家の後見人となり、大石神影流の免許を受けた後、大石道場の第四代師範となる。真澄は後見人として大石家のある宮部に移住したが、その後も政治活動を続け、大牟田町長、三池郡郡会議員、福岡県県会議員等の要職を続けていた。7)
大石 一(大石神影流五代目師範)
大石一は、明治五年(1872)十一月十五日、大石雪江の長男として出生した。五才の頃より父につき大石流を学び、宮部の道場においては、今村広門の薫陶を受け、十四才の時、截目録を伝授された。それより十七年遂に陰之巻皆伝となった。一は、小学校教師として勤務し
ながら大石流剣道師範として、白銀の自宅に道場を開設して子弟の指導にあたった。
昭和初年(1926)八百餘名の門人有志によって白銀川畔に寿碑が建立されたことをみても、清廉な人格と徳望の高さを推知することができる。後年銀水村の村長を務めた。8)
3.剣術修行
文政五年(1822)
進は独創の剣法を他流に試較するため、最初の武者修行に赴いた。
先づ肥前島原に渡りこの地で試合をした。目新しい剣法であったからこれが大評判になり、噂は直に島原候の耳に達した。槍剣の型を披露し、酒、料理を賜わり、目録を賞与された。ここを振出しに、長崎、大村、佐賀の各所を廻遊したが、試合をしたのは、島原のみで、他は、他流試合禁制のため剣を交えることなく帰国している。進は愛州陰流の極伝を受けた文政五年(1822)この年有名な剣客と立合った。9)当時豊前国中津藩に長沼無双右衛門といって、界隈に無敵を誇る達人がいた。立花家御一統の勧めによって、進は長沼と立合うことになった。
長沼は幸いにも在国していたので、進が中津の長沼道場を訪ねると直に立合うことに決まった。ところが、七日間は門人が入替わり立替り相手になるばかりで、主人の長沼は一向に立合う様子がみえない。痺れをきらした進が試合を申し入れたところ、八日目にやっと立合うことになった。
さて、長沼は七日間を漫然と過ごしたのではなかった。進の剣法を秘かに研究していたのである。長沼は門人の立合をみて、進に立ち向かっては不利だという結論に達したので、立合う前に生竹で竹刀を拵え、これを進に渡している。進は渡された竹刀で長沼と五、六本試みたが、噂の程はないと感じた10)。隙をみた進は気合をかけると同時に踏込み、特技の左片手突を放つと、長沼がつけていた鉄面が破れて、眼球が面の外までとびだしてしまった。
その後、長沼は傷を養生して門人十八名を引連れ進の門に学んだのは、文政八年(1825)のことである。
長沼と立合って自信を得た進は、その後豊後路より久留米辺にかけて武者修行に出かけた。久留米では四十人の出席者と一面も残さず試合をしたが、進の表に立ち得るものは遂になかった。この頃より進の剣名は俄に近国に高まっていった。11)
天保三年(1832)
大石進種次聞次役として江戸へ出立する。
江戸では、剣術道場と言えば、直心影流の長沼道場、一刀流の中西道場、北辰一刀流の千葉道場、神道無念流の斎藤道場、鏡新明智流の桃井道場等高名の道場が軒を連ねていたが、これらの道場より優位にあって別扱いをうけたものに男谷精一郎がいる。12)剣術は日本一の名人という評判で剣名は有名であった。
進は聞次役を命ぜられて出府したが、それは表向きのことで実は男谷精一郎と試合をして打勝ち、柳河藩の武名を天下に誇示するよう内命が下されていたのである。男谷精一郎と試合をすることになるが、最初は勝負がつかず、その試合での反省点を考え次の試合に活かし、その理論を明快に立証することができたのである。進の活躍が柳河藩候の耳に達したので、帰国を命ぜられた。
この出来事があり内命を果たした進は、柳河城において賞賛の云葉を賜り、褒美として三十石を加増され、本知合わせて六十石となった13)。男谷精一郎との試合は終わったわけではなく、その後も男谷の方から、柳河藩の屋敷まで出掛け、数回に亘って剣を交えているが、遂に進の技に及ばなかったのである。14)
天保十年(1839)
この年は藩命によって出府し、老中水野忠邦邸に招かれて試合している。この時は多数の剣士と立ち合い、島田虎之助とも試合をしたらしいがその結果は詳らかでない。翌十一年に帰藩すると十石加増された。
進はさらにもう一度江戸へでているらしいが、その年月日は判然としていない。
進の剣名をしたって入門するものは柳河藩だけではなく、近隣諸藩の士も多かった。15)
柳河藩槍剣門人百二十二名、他藩の門人では三池藩の七十九名を筆頭に、土佐藩六十 名、長州萩藩四十三名、肥前小城十三名、筑前秋月藩十一名とつづき、総門人数六百五十六名にのぼる。これは文政年間より明治三年(1870)までの入門者で、進父子の取立てた門人である。16)
各地の大石神影流
土佐藩士に寺田小忠次兄弟並びに樋口真吉甚内兄弟は早期の入門者で大石流に熟達して土佐藩に大石流を普及させた。17)
三池藩には種芳からの深い関わりがあった。種芳は柳河藩の槍剣師範ばかりでなく、後年は三池藩の師範も兼ねていた。三池藩は、雄藩肥後境界を接しており、軍事上重要な地理を占めている。そこで一旦緩急あれば武力に依存しなければならなかったので、一万石の小藩三池は数を恃む大藩に匹敵するだけの個人の武を鞏固にする他はなく、日頃より武を練る必要があった。当時、三池藩には有能な師範家がいなかったため、三池藩領から近隣に移住する種芳へ師範を命ぜられた。これによって、三池藩と大石家との交渉はこのときに始まっている。種昌は、三池藩の師範にはなってはいないが、三池藩藩士多数が随身して大石神影流を学んでおり、まさに三池藩の師範家たる観はあった。18)
このことにより、土佐藩、三池藩には門人が多かったようである。
3. 大石神影流の特質
(1)防具
従来の唐竹面では、突が止まり、また破れる危険があるので、鍛冶屋に依頼して十三本穂の鉄面を拵えた。次に新しい技として胴斬りの技を考案したのでこれら新に防具が必要になり、竹腹巻(胴)を作り、長籠手を半籠手に改めて腕の活動を敏速にした。なほ突技のために工夫した防具で喉当がある。これは布と革より成り、喉に当て面垂の不備をカバーするもので、他流にみられない大石流独特の防具である。19)
(2) 竹刀
進は従来の八つ割袋撓が突に耐え得ないので、これをコミ竹刀に改めている。
当時の竹刀の長さは三尺二三寸位を常寸としたのを、進は五尺三寸に伸し、弦に琴の絃を二筋捻台せて堅牢なものにした。20)二代目進種昌になると、体格はそれ程ではなかったので、竹刀の作りも縮小したらしく、弦に琴の絃一筋を使っている。板井真澄、大石進(三代目)について学んだ真鍋氏の実見談によれば、大石家の床間に四尺八寸の竹刀があったのを見たという。これが種昌の竹刀であろうと思われる。竹は孟宗竹の根本を使っているから、筋の間が狭く、相当の重量があって、手に取るとまるで鉄棒を握っているように感じたそうである。切先は一筋分の長さだけ四角は棒状の木片が入れてあり、打を入れても竹がなかへ凹んだり、突いた場合四枚の竹が動かないように固定してある。柄頭には四枚の竹の内側に切込みがあって、正方形の鉄板をはめ込み、竹が動かぬように工夫されている。それから牛革であるが、現在のなめし革をかぶせてある。五尺三寸の竹刀は進だけで、その門弟は五尺以上の竹刀は使っていないようである。大石流では、胸の高さをもって竹刀の全長としたので、五尺四五寸の人は慨ね四尺二寸が適当な長さになる。大石雪江や柿原宗敬も四尺二寸を遣っているし、以後大体この位の長さを遣ったものが多い。21)
(3) 構え
「真剣」「上段」「附け」「下段」「脇中段」「脇上段」「車」「裏附け」がある。
突技や胴切は手数の中に多く表されているということはなく、手数の中では突技にいつでも入れる体勢を重んじています。22)
4 おわりに
大石進種次によって、剣術修行からもわかるように、諸国に柳河藩大石神影流剣術の名を響かせた。その戦績を残したことによって、柳河藩には多くの門人が増え、多くの地域に伝わっていった。この現代まで、大石神影流が正しく相伝されてきたことは貴重なことである。先日、大牟田市の道の駅に立ち寄る機会があり、元大牟田市でアナウンサーをしていた方とお話した時、私達が大石神影流の門人だとお話しても、大石神影流のことは初めて耳にするようでした。館に設置してある大牟田市を紹介してある看板にも大石神影流のことはまったく書かれてありませんでした。大石神影流の門人として、残念な思いがしました。昔、諸国を驚かせたような大石神影流をまた現代で甦らせることができることを願っている。
後注
1)藤吉、25頁
2)板井、12・13頁
3)藤吉、7~9頁
4)板井、24頁
5)同上、30~31頁
6)同上、42頁
7)同上、43~44頁
8)藤吉、85頁
9)同上、11頁
10)同上、12頁
11) 同上、13頁
12) 同上、21頁
13) 同上、22頁
14) 同上、24頁
15) 間島、74頁
16) 藤吉、55頁
17) 同上、63頁
18) 同上、68頁
19) 同上、47頁
20)同上、48頁
21) 同上、49~50頁
22) 森本先生、HP
参考文献
1)藤吉 斉 大石神影流を語る 第一プリント社 昭和38年10月20日発行
2)板井 真一郎 大石神影流の周辺 フタバ印刷社 昭和63年5月3日発行
3)間島 勲 全国諸藩 剣豪人名事典 ㈱新人物往来社 1996年3月20日第一刷発行
4)森本邦生 貫汪館ホームページ 大石神影流剣術 流派の歴史
http://kanoukan.web.fc2.com/oishi/hstry/index.html2014・8・15日取得
- 2014/10/19(日) 21:25:46|
- 昇段審査論文
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澁川一流柔術4段の論文です
「澁川一流柔術指導上の留意点」
澁川一流柔術の指導だけではなく、誰かに何かを指導するということにおいての一番の留意点とは、指導者の指導が人それぞれの個性に合わせた指導であるかどうかということです。
『教育の過程はどのように進行していくのか、人間はどのようにして学習していくのか、教える者と教えられる者との人間関係が教育にどのように影響していくのか、などの理解がなくて、がむしゃらに専門的知識を生徒に詰め込もうとしても、その知識は生徒のみに定着しないし、生徒の成長にも役立たない。』
以上の抜粋は学問としての教育をテーマとしたものですが、全ての教える立場の者が頭に入れておかなければならないことです。指導とは、自分の知識を指導対象者にわからない言葉や動作で伝え、さらには理解してもらおうと指導者が努力をしないような自己満足なものではなく、自分の知識を相手個人が理解できるような言い方や工夫などを凝らし伝え、相手に理解してもらう教えのことを言うのです。また、それぞれの個性に合わせた指導とは相手の年齢、経験、考え方を指導者が知る必要があります。指導を受ける者の努力も必要とされますが、それ以前に指導者の教えるための知識、指導対象者を知ろうとする努力が必要となってくるのです。
このことを踏まえ、澁川一流柔術の指導についてです。勉学などの頭を使わなくてはならないものの指導は口で説明し、時には紙に書くなどして視覚的に指導するものですが、澁川一流柔術などの古武術、剣道や柔道などの武道においての指導は思考する力だけでなく自分自身の体の動きを相手に理解してもらわなくてはなりません。体の動きを口頭だけで説明するというのは非常に困難なことであるので、澁川一流柔術の道場では座学ではなく、実際に相手に体の動きを体感してもらう稽古が行われています。稽古で指導者の動きをそのまま”形”だけ真似するのは簡単なことですが、指導者は体の中心から動くことや間合い、相手の中心を感じることや呼吸の仕方など、列挙してもキリがないほどの多くの”中身”を持った動きを示しているのです。故に形だけを追う者に指導者は、形は中身があってこそなるべき形となることを教えなければなりません。その際に、指導者は教える相手をよく見て指導をしなければなりません。
指導する相手について、流派によるところもあるかもしれませんが、指導者は指導対象である相手が大人であれ子供であれ指導することができなければなりません。しかし実際には大人への指導と子供への指導は勝手が違うので、澁川一流柔術の指導者は双方の指導法について考えなくてはなりません。
まず、大人への指導について考えます。澁川一流柔術の指導にあたってまず大事なことは力を入れての行動をやめさせることです。ただ立っている動作ですら足腰に力を入れて立っていることに気づかせ、また柔術とは力任せに相手を制すものではなく、力を使うことなく相手を制することができるということを理解してもらわなければなりません。端的に言ってしまえば頭では理解できるかも知れませんが、ほとんどの人が立つ動作に対しても、実際に相手を制する際にしてもそれを示すことはできないはずです。これは足を棒のように突っ立てているので足を踏ん張らなくては自身の体を動かすことができず、動かしにくいものは手の力を使って動かす、というものが無意識に今日までに自分の体に染み付いてしまっているからです。体に染み付いてしまったものはなかなかぬぐい去ることはできないので、指導者は根気強く指導していかなければなりません。また、”中身”を教えるということに関してもいくつか注意しなくてはなりません。体の動きを口頭だけで説明するのは非常に困難であると述べましたが、実際に指導者は自身の体の動きを指導対象者に感じ取ってもらい、その補足として口頭で説明するという順序で指導するほうを理想としなければなりません。細かなところの全てを口頭で言ってしまうと、相手は言われた言葉を頭の中で繰り返し、結果動きとして出てくるのはどこかぎこちない動きとなってしまう恐れがあるからです。相手の性格にもよるところであるとは思いますが、指導対象者が指導内容を頭で考え始める動作を見せた際は時にはそれを中止させることも大事かもしれません。始めは指導者が何度もやってみせ、感じ取ってもらうことが一番いいのです。無意識についての指導は述べましたが、逆に意識的に柔術とはこうであるはずという強い思い込みがある場合や、指導対象者が今までになんらかの武の道に関わっていたりする場合も指導者は注意しなくてはなりません。こうであるべきという強い思い込みは相手に余計な力や理想を作らせてしまい、返って上達の妨げになってしまいかねません。他、相手がなんらかの武の道に関わっていた場合、例えばこれまでに柔道、剣道、弓道や空手などを経験している者にとって柔術とは今まで培ってきた武の延長線上のものであると考えている可能性があるので、それが柔術のあるべきものとかけ離れているものであればひとつずつ間違いを訂正していかなければなりません。それは時としてまったくの未経験者に指導することよりも困難なことであるかもしれませんが、上達するにつれて体を自由に使うことを覚え、他の武の上達へと繋がることもあるのです。指導対象者が大人である場合、指導者は体の動きかた、性格や意識や考え方を考慮した指導をしなければなりません。
次に子供への柔術の指導について考えます。まだ成長過程である子供は経験も考え方も精神的にも幼い部分があり、大人への指導とはまた少し違ったところで指導者を悩ませることもあるかと思います。子供の指導は「礼に始まり礼に終わる」というように、学校だけでなく稽古の場でも礼儀や態度などが教えられます。むしろ学校で教えられる礼儀や態度よりも相手を尊重する、思いやるという意味でのそれらが稽古の場で多く学べるといった方が正しいのかもしれません。子供は幼ければ幼いほど目録上でみる稽古の進行速度は早くはないかもしれませんが、中身を作るという意味での上達は大人よりも早いです。それは子供は形に捕らわれず、教えられた動きを抵抗なく受け入れ、素直に実行に移すことができるからです。初めは細かいことは理解できず、ただがむしゃらに力を使って体当たりをしてくるような動作が見られたとしても、繰り返し指導することで動作を覚え、大人相手に力を使って向かっていったとしても無駄だと理解するようになり、ならば指導され感じた通りに無理無駄のない動きを真似ようとする姿勢が見受けられます。小難しい理論を説明されるよりも、指導者から感じることのできた”中身”を体で覚えて、それを自然と自分の動きとして取り入れることができるようです。また、これは道場の子供たちを見ていての気付きとなるのですが、子供の技の上達は精神的な成長も関係してくるようです。周りの環境からか、気持ちの変化なのか、学年が上がってくるにつれて前よりも落ち着いた振る舞いができるようになった子が著しく上達している様子が伺えます。小学生以下の子供が澁川一流柔術を始めようとする時、それはかなりの割合で親が子供に護身術を覚えさせたいといった要因が多いようです。子供本人の柔術を始めたいという気持ちよりも、親が子供に柔術を始めさせたいという気持ちのほうが勝っているのです。そのことから、稽古を長く続けている子供は柔術を始めた当初の気持ちが追いつかず、稽古に対して上達しようという気持ちが薄れてしまいます。しかし心身ともに成長した子供が柔術に対し、自分で上達したいなどといった気持ちを持っていれば、これは大きな上達のチャンスとなるように思います。しかしその気持ちを持つか持たないかは個人差によるところもありますが、指導者がいかにうまく相手に意欲を沸き立たせるかも関係してくるので、指導者も相手の気持ちを理解し、その子の気持ちを大事にするような指導をしなければなりません。ある程度学年が上がっている指導対象者は、自分を抑えるといったことができるので心配はいらないとは思いますが、基本的に子供は自分のしたいことをし、したくないことはしない、というわがままなものです。育った環境に依存するとは思いますが、幼ければその気持ちはより表に現れてくることでしょう。ここで指導者は稽古をしたい、という気持ちを相手に作ってやらねばなりません。指導者にとって、興味ややる気のない相手を指導するのは至難の技です。相手に柔術の稽古をどう興味付けさせるかが問題となってきますので、それについて少し考えてみます。現在の子供の興味や楽しいものといえばゲームやインターネットなどの仮想現実による世界であるとよく聞きますが稽古ではそのような仮想的なものではありません。『子どもたちは、どこまでが自分の実力でどこからがフィクションなのかの境界が曖昧のまま、自己不確実感にとらわれて生きているともいえよう。しかし、武道では自分の体を媒介として自分と出会う。さらに、自分がどこまで上達したか、どの程度の実力なのかにも、否応なしに直面するだろう。自分と出会い、自分を正しく理解し、自分を受け容れなければ前に進めないのである。』という文章からも伺えるように武術は仮想現実の世界で使うことのない、自身の体というものを使う。何かスポーツや武術などの自身の体を使うことに打ち込んだことのある人には理解してもらうことができると思いますが、仮想現実世界で仮想の自分を操作することよりも、自分の体を実際に使用して何かを成す、ということのほうが難しいのです。そこに楽しさを見出すことで子供の興味を引き出すことができるかもしれないと考えます。子供への指導は大人への指導と違って精神的なものから指導しなければなりません。しかし動きを見て、その動きを本当の意味での”中身”を感じることができるので口先だけの指導ではなく、指導者は大人へ指導する時以上に、中身を教えることのできるレベルでなけれればなりません。
これまで指導者からみた指導対象者への指導法について述べてきましたが、ここからは指導者と私自身のことについて大きく二つのことに触れていきたいと思います。
まず一つ目は、始めのほうで述べさせていただきましたが指導者は指導対象者を理解しなくてはなりません。指導者だって初めから指導者だったわけではないので、かつての指導される立場を思えば指導対象者の気持ちもわかってくると思います。しかし、その際にも指導対象者が大人か子供であるかを考慮して考えなくてはなりません。私は小学校低学年の時に澁川一流柔術を始めました。礼法の意味もよくわからず、言われるからやっていたような時期ではありましたが、あの時期から今日まで指導されていた礼法が私が普段の生活で役立てている”武器”になるものであったと今は思うことができます。私が澁川一流柔術において多くのことを身につけたのは子供の時期であったので今現在子供に指導する際、相手は何に行き詰まっているのか、今まで指導された内容をどのように受け取っているのかなど、なんとなくではありますが理解することができます。かつて私が指導された際に一番理解できた表現や方法で指導することで、指し示したかったことを相手に理解してもらうこともあるので、指導者のかつて指導してもらった表現などを自分の中で噛み砕くことができれば、それは指導者にとって上手な指導の仕方となっていくのではないでしょうか。しかし私が指導する立場になり、初めて相手の気持ちがよくわからないと思ったのは大人の方に前回り受身を指導する場面でした。その方は私が前回り受身を直接見せ、簡単な手順を教え、いざ実践いてもらおうとした際に前回り受身を怖いと言われたのです。前回り受身を教えてもらい今日までやってきて、私は前回り受け身を怖いと思ったことがなかったので、どう指導すればいいのかわからなくなってしまいました。子供たちが前回り受身を抵抗なくやろうとしてくれるのは、普段の遊びで体を一回転させる動作など多くやっているからであり、反対に大人の方が体を一回転させる動作など滅多にないことであるので、普段しない動作に恐怖を抱いたのだと考えるようになりました。その時指導する立場の難しさを感じ、より相手のことを考えた指導法を考えなくてはならないと感じました。相手の上達に指導者の行動や発言は大きく関わってくるので、指導者は自身の行動と発言に責任を感じなければなりません。
そして二つ目は、指導者は自身の技術がこれでよいと慢心することがあってはなりません。私は武の道に完成はないと考えるので指導者が自身に満足してしまっては、指導者自身の上達を妨げるだけではなく、自身が指導している指導対象者の上達も妨げてしまうことになると考えます。指導者といっても未だ上達を目指して日々の稽古を重ねなくてはならないのです。また、指導者にとっての上達の瞬間は指導されているときのみではありません。確かにこれまでは指導される瞬間ばかりが上達の機会であったのかもしれませんが、指導者となる者は自身が指導対象者に指導をしている瞬間も自身の上達の機会であることを理解していなければなりません。相手に自分を重ね、相手の動きを見て学ぶことも稽古なのです。相手の上達の度合いによって時には自分もまだ掴みきれていないことまで教えなければならないこともあるかもしれません。そのときは同じように学べばいいのではないでしょうか。自分もわからないから教えない、という考えは指導者としては失格です。指導者はたとえわからないことであっても間違いは間違いとわからなくてはなりません。間違いがわかっているなら、指導者なりの理想もあるはずです。それを相手にも教えなければ、自分も上達しなければと向き合おうとしなければ上達はありえません。私は今、指導する機会と指導される機会が与えられているので、指導の際には相手の上達を見極め、相手に合った指導をし、自身の上達にも務めるために普段の稽古でも指導をする際も人のための稽古であると思わず、自身の稽古として励めるよう努力しています。
澁川一流柔術指導上の留意点についてのまとめとして、指導者は自身の上達も望まねばならないが指導する相手の上達も考え、稽古しなければなりません。また指導とは相手を知り、その相手に適した指導法を探し出し、教えての繰り返しです。指導対象者が間違った方向にいかないよう、自身の行動と発言にも責任を持たなければならないのです。相手の上達の一端を担うということは責任も生じることではあるが、自身の上達と同様に、あるいは自身の上達以上に指導対象者の上達は喜ばしいことであることも私は理解しています。指導され、その指導を一生懸命こなしていくよりもはるかに高度なことが求められているのが指導者でありますが、自身のより大きな上達のためにも通らなければならない道であるということです。
参考文献
1)岩田純一、梅本夫:教育心理学を学ぶ人のために 世界思想者 初版 1995年
2)日本武道館:日本の武道 財団法人日本武道館 初版 2007
- 2014/10/20(月) 21:25:20|
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大石神影流剣術4段の論文です。
大石神影流剣術指導上の留意点について
1.はじめに
大石神影流剣術指導上の留意点を述べる前に、まず、大石神影流剣術の成立及びその特徴について再度振り返りたい。そのうえで、大石神影流剣術の技法における指導上の留意点について他流派の伝書も参考にしながら論じることとする。
2.大石神影流剣術の成立
大石神影流剣術は、大石進種次によって創始された流派である。種次は幼いころから祖父である大石遊剣入道種芳について剣術・槍術を稽古し、やがて愛洲陰流及び大嶋流槍術の免許を受けている(1)。種芳の師は、柳河藩に仕え愛洲陰流と大嶋流槍術槍術を指南していた村上一刀尉源長寛から免許を受け、やがて自身も柳河藩師範役となった人物である。種次によって創始された大石神影流剣術はどのような過程を経て成立されたのかは定かでないが、愛洲陰流及び大嶋流槍術は大石神影流成立のうえでその基礎となった。
3.大石神影流剣術の特徴
大石進種次は、面や籠手等の防具を改良し、さらに、突き、胴切を工夫して大石神影流と称した。大石神影流剣術においてもっとも象徴的なのは、手数稽古に使用される竹刀の長さである。現在は、稽古に三尺八寸のものを使用しているが、創流当時は、それまで広く用いられていた三尺三寸の竹刀を各自の身長に応じ乳通の長さまで伸ばした。また、手数に突きと胴切を取り入れたことにより、激しい打突に耐えうるよう唐竹製の面を廃止し、新たに鉄の穂の面とするなど防具を改良した。さらに、胴には胴切に対応できるよう竹による巻胴を作り、籠手はそれまでの長籠手を廃し、籠手を短くして腕を覆う範囲を小さくした。
4.大石神影流剣術の技法における留意点
大石神影流剣術の特徴は上述のとおりであるが、これらの手数を無理・無駄なく的確に行うための留意点を以下に述べる。
(1) 構え
大石新影流の構えには、「真剣」「上段」「附け」「下段」「脇中段」「脇上段」「車」「裏附け」がある。構えるには、ただ構える動作をするのではなく、臍下での呼吸に動きを乗せることが肝要である。そのためには、深い呼吸で心を鎮めることを意識しなければならない。さらに、動きを呼吸に乗せて自由に動かせるためには、鼠蹊部、膝を十分に緩め、上半身から下半身を貫く中心線(中心軸)を正しく保持しておく必要がある。構を考える前に、江戸時代とは異なり、椅子式の生活になじんで坐することが少なくなった現代では、まずは立位での姿勢から見直さなければならない。武道が競技化された現代でよく立位に見られる「気をつけの姿勢」ではなく、臍下丹田に充実させた気を納め、中心軸を保持して力まずに十分に緩んでおかなければならない。立位ができていなければ、動くことは当然ながら構えることさえもできない。構えについては、各流派とも重要な項目の一つとして考えられており、詳細な教えを残している。以下に柳生新陰流での教えとして、「構えないことが構え」を次のように解説している。
新陰流が生まれる前の剣術では、まず自分の身を守るという考え方を重視して、構えを大切にしました。しかし、流祖・伊勢守は一つの形に固執しないという「転」の考え方から、自然体で太刀をニュートラルに引っさげた状態、「無形」を基本とします。構えがないのが、構えだというわけです(2)。」
ここに出てくる「ニュートラル」という言葉だが、これはまさしく稽古において常々森本先生からご指導いただいているとおり、鼠蹊部の他身体の各所に力みがない状態になければならない。また、この状態は構えだけではなく、その後の動きにおいても続けてニュートラルの状態を保持することが必要である。構えについてはさらに、柳生新陰流においては、柳生兵庫助利厳の兵法を記した『始終不捨書』十禁習之事においても同様に「一、面ヲ引ク事(3)」として、顔を引くことを禁止している。これは顔を引くと同時に体が引け、やがて姿勢を崩してしまい、その結果、身体は不自由となるということである。そのようなことにならないよう、顔の位置が重要であることを示している。さらに、宮本武蔵の著した『五輪書』において、剣術の技法を論じている 水之巻にも次のように同内容の教えがみえる。
一、有構無構のおしへの事
有構無構といふは、太刀をかまゆるといふ事あるべきことにあらず。され共、五方に置く事あれば、かまへともなるべし。太刀は、敵の縁により、処により、けいきにしたがい、何れの方に置きたりとも、其敵きりよきやうに持つ心也。上段も時に随ひ、少しさがる心なれば中段となり、中段を利により少しあぐれば上段となる。下段もおりにふれ、少しあぐれば中段となる。両脇の構も、くらいにより少し中へ出せば、中段・下段共なる心也。然るによって、構はありて構はなきといふ利也。先づ太刀をとっては、いづれにしてなりとも、敵をきるといふ心也。若し敵のきる太刀を受くる、はる、あたる、はねる、さわるなどいふ事あれども、みな敵をきる縁なりと心得べし。うくると思ひ、はると思ひ、あたるとおもひ、ねばるとおもひ、さわるとおもふによって、きる事不足なるべし。何事もきる縁と思ふ事肝要也。能々吟味すべし。兵法大きにして、人数だてといふも構也。みな合戦に勝つ縁なり。いつくといふ事悪しし。能々工夫すべし(4)。
ここでは、敵の出方およびその時の状態により、相応の構えとすること、つまり、構えようとする心こそが居付きの原因だとする心の持ちようを教えている。実際の技法として、同書では次のように述べている。
一、兵法の身なりの事
身のかかり、顔はうつむかず、あをのかず、かたむかず、ひづまず、目をみださず、ひたいにしわをよせず、やゆあいにしわをよせて、目の玉うごかざるやうにして、またゝきをせぬようにおもひて、目をすこしすくめるやうにして、うらやかに見ゆるかを、鼻すじ直にして、少しおとがいを出す心也。くびはうしろのすじを直に、うなじに力をいれて、肩より惣身はひとしく覚え、両のかたをさげ、脊すじをるくに、尻を出さず、ひざより足先まで力を入れて、腰のかゞまざるやうに腹をはり、くさびをしむるといひて、脇差のさやに腹をもたせて、帯のくつろがざるやうに、くさびをしむるといふおしへあり。惣而兵法の身をつねの身とする事肝要也。能々吟味すべし(5)。
特にこの中で重要なのは、鼻筋を通して首をのばし顎はすこし出す事としている。さらに、両肩を下げて背筋を真直ぐにすることを説いているのは、首より上部の状態が変われば姿勢を崩すことにつながり、それゆえに楽な構えができないことになる。これを防止するためにも、顔は若干上向き加減ぐらいがよいとの教示である。これは、稽古時に相手の手、足などの体の部位を注視することにより、視線が下がる結果、頭が下がってしまう動きを見かけることがある。若干上向きにするのは簡単なようだが、かなり意識しなければできない。
構えのことは多数の流派の書物にその技法等の記載がみられることから、重要項目の一つであることがわかる。ただ単に形作る構えとならないよう十分に気をつけなければならない。
(2) 動き
古流剣術と現代剣道は別物で、当然ながら動きについてはまったく異なる。同様に打ち方も打つ箇所も当然変わってくるのである。動きについては、文章として表現しにくいこともあり、指導を受けた内容を忠実に稽古し自ら体得しなければならない。
さて、大石進がどのような動きをしていたかについて、藤吉 斉『大石神影流を語る』によれば、「進はこのような境遇に安閑としていられず、馬を飼うと田畑を耕作して家運の挽回に務めた(6)」)と記されており、また、板井 真一郎の『大石神影流の周辺』でも同様に「大石道場四代目師範となった私の祖父の真澄も常に畑仕事に打ち込んでいた。それは衣食の為或いは体力増進の為もあったであろうが、常々門弟に対し、鍬を握る手が即ち竹刀を握る手で、これが大石神影流の一の訓えであると語っていた(7)」との記述があり、剣術で動きのために特別な稽古をしていたわけではなく、日常生活の延長をそのまま動きとしていたことがうかがえる。つまり、特別な動きをつくらないことである。構えにおける鼠蹊部の緩みと中心線を保持しニュートラル状態にある事が重要であることは先に述べたが、自由に動くためには、その他に両肩を落とし、胸を張らず、腰を屈めずして、身体が動き始めても同様な状態を保たなければならない。ここで、木刀を早く振り下ろそうとか力強く打込もうという考えを排除し、自己満足的な動きは決してしないことである。さらに、正しい動きをするうえで注意しなければならないポイントの一つとして、目付が重要になる。これは、剣術のみならず柔術においてもいえることであるが、ほとんどの初心者では、相手との接点、または自分が次に進む方向に視線を先に送り、必ずしも正しい目付にないことがよく見受けられる。その結果、視線と共に頭の位置が上下左右に振れてしまい、正しく中心線を保持することができなくなる。目付に関しては、様々な流派の文献にその教えを見る事ができるので参考にしたい。特に有名なのは『五輪書』水之巻にいわれる「一 兵法の目付といふ事(8)」で、この中で目付は観見二つの事とある。同様に、柳生宗厳の記した『新陰流截相口伝書事』には、敵の動きを正確にとらえるため、どこを見るべきかを「三見大事 一、太刀さきの事 一、敵之拳の事 一、敵之顔の事(9)」にて、この修業が進んだ後、さらに「目付二星之事(10)」を示すことにより観見二つの目付を教えている。ここでいう観とは心で見ることで、見とは眼で見る事である。すなわち、部分的に見るのではなく、目を動かさず全体を観察して、相手動きを察知する。と教えています。しかしながら、この目付について武蔵は「いそがしき時、俄かにはわきまへがたし。此書付を覚へ、常住此目付になりて、何事にも目付の変わらざるところ、能々吟味あるべきもの也。(11)」と書かれているとおり、重要かつ習得は困難であるといっている。
(3) すべての動作を呼吸に合わせること
すべての動きの元となる呼吸は、臍下で行わなければならない。臍下で深い呼吸ができれば心は鎮まるはずであるが、心鎮まらなければさらに深い呼吸を意識しなければならない。特に素振りにおける呼吸は、呼吸を深くすることだけを意識的におこない、呼吸に動きをのせる必要がある。普段どおりの呼吸では動きとつながることはない。呼吸に合わせて動くと、身体を緊張させる事なく自然な動きが可能となるが、力任せに刀を振ると、全身を緊張させることとなり呼吸は逆に不自然になる。
(4) 張ること
大石神影流剣術の手数には、相手の刀を鎬で受けて「張る」という動きがある。臍下丹田を中心とした動きが使えない場合、得てして手首の力もしくは両腕の腕力で張る動作をしてしまいがちになる。張る動きの起点は、中心である臍下丹田からであり、その動きが胴、腕、手から刀へ伝搬されなければならない。そのためにも、伝搬経路上に堅い障害となる身体の緊張による力み、もしくはその逆に、腑抜ければ伝搬経路が絶たれ正確に動けなくなる。いずれにせよ、正しい構え、正しい呼吸からの延長であり、張る動作のために特別な硬い動きを作ってはならない。
(5) 気先のこと
気先というのは、動き始めた相手の動きに対して反応するのではなく、動こうとする意識の起こりを突くことである。では、そのためにはどうすればよいかについて『兵法家伝初』には次のような教えをしている。
一、 是極一刀のこと
是極とは、これ至極也と云ふ儀也。一刀とは、刀にあらず。敵の機を見るを、一刀と秘する也。大事の一刀とは、敵のはたらきを見るが、無上極意の一刀也。敵の機を見るを一刀と心得、はたらきに随ひて打つ太刀をば、第二刀と心得べし。是を根本にして、様々につかふなり。手裏剣、水月、神妙剣、病気、此四、手足の動き、以上五也。是を五観一見と習ふ也。手裏剣を見る、是を一見と云ふ。残りの四つをば、心に持つ程に、観と云ふ也。目に見るをば見と云ふぃ、心に見るを観と云ふ。心に観念する義也。四観一見といはずして五観と云ふは、おしこめて五観と云ひ、其内より手利剣を一見と云ふ也。手利剣、水月、神妙剣、病気、身手足、此五也。此内四をば心に観じて、眼に手利剣を見るを一見と云ふ也(12)。
ここでは、敵の機をみる事こそが一刀であり、実際に刀をつかうことは第二刀であるといっている。また、「手利剣」とは、「敵の手裏剣―太刀を執る手の内を見る事が肝要である(13)」と教えており、このことは大変困難なれど、相手の全体像をよく観察することにより、相手の動き、または、考え方などのすべてを読み取らなければならないといっている。
5.精神的作用
技法に対する留意点については上述のとおりであるが、指導を受ける側が素直に動けるか否かは精神的な作用によるところが大きいものと思われる。これは、これまでの指導経験により感じられることであるが、稽古において個人に対する指導する内容は、毎回ほぼ同じことの繰り返しだからである。このことがいわゆる「居着き」で、武道を稽古するうえでの禁忌といえる。
柳生宗矩著『兵法家伝書』(「殺人刀 上」)に「病気の事」という一項がある(14)。ここでいう「病気」とは、何かをしようとする心のすべてであり、病をなくそうと一心に思うのも病である。さらに、何事も一心に思い込み、それにこだわってしまうのが「病」というものなのであるといっている。仏法を兵法的に「剣禅一如」を説いた沢庵宗彭は、『不動智神妙録』の無明住地煩悩で、「心がとらわれると切られる(15)」といい、「とらわれる心が迷い(16)」といっている。これらがいわゆる「居付き」であり、やがて個人の過剰意識となり相手との関係を失うことになる。その結果、心と体に隙をつくることにつながるのである。同書では、心を居着かせないためには『心を止めないことが肝要(17)』だといっている。これは、稽古における留意点として、構える、動く、呼吸をするなどのひとつひとつを一所懸命にならないこと、また、何かにつけて考えすぎないことを相手に気づかせることが重要だと考える。
6.指導者としての心得
指導者として指導するにあたり、よく認識しておかなければならない事項の一つとして、指導される側の習得の速さの違いがある。よって、複数の門弟を同時に進行する稽古をさせるべきではない。幕府講武所頭取であった窪田清音の著した『剣法略記』には次の一文がある。
学び得るに遅速あるの論ひ
人々は生まれによりては、相ともに怠りなく一事を学びぬるに、かれはまさりて早くことを得わざを得るに、およぶべきともおもへず、腹だゝしくおもひて、なほも怠りなく学ぶに似るべくもあらざれば、はてばてには、そを恥とおもひて、おこたりなどするものあれど、其の実は恥をしらざるなり。早きと遅きは人々の生まれによるわざにてあれば、恥ずべきことにはあらず。たゞ一時の遅速のみにて、ことを得たるうえにいてりては、其のわかちのへだゝりはあらぬことなれば、ひたすらに心を尽して明暮おこたりなく学びを重ぬべきことなり。怠りだにせざれば、終には同じほどに至るべきに、はぢとし怠るはいさましき心なきひが覚えなり。怠るときはいつを時として及ぶべきにや。よく心得てまなばざれば、このひが覚えにひかれて、なし得ることはならざるものなり(17)。
これは、上達の遅速に個人差があるのは仕方ないが、習う者は現時点で教えられたことをマスターするよう努力するのは当然のことだが、どうしても習得することができない者には、次の段階へ進むことをすべきではないという教えである。大石神影流剣術は、剣道や柔道などの現代武道と異なり、競技や試合がない。そのため、習得するにはスポーツにはみられないほどの長い時間が必要である。しかし、ただ時間をかけて稽古をすれば上達するというものでもない。指導者側は闇雲に次々と手数を教え込むのでなく、指導される側の上達度を細かく見極めなければならない。さらには、指導方法をいろいろ試してみるなどの工夫することも必要だろう。
7.まとめ
近年、時間の進み方が早く、流行の移り変わりが激しい中、技術的奥深さと複雑さを併せ持つ古武術は敬遠されがちで、どうしても現代武道に走りがちだ。剣術はスポーツではなく、技術の習得が難しいからこそ指導する側もされる側も、稽古には常に真剣であり集中しなければならない。本論文に記載したことを今一度自分自身でもふり返って再確認する必要があると感じた。歴史ある大石神影流剣術を正しく受け継ぎ、ただしく指導するためにも、今後とも更なる精進を重ねて参りたい。
後注
(1) 藤吉 斉:『大石神影流を語る』藤吉 斉、第一版、1963年 38-43頁
(2) 柳生耕一平厳信:『負けない奥義 柳生新陰流宗家が教える最強の心身術』ソフトバンククリエイティブ 初版、2011年5月25日 96頁
(3) 柳生延春:『柳生新陰流道眼』島津書房 初版、1996年6月1日 168-169頁
(4) 宮本武蔵著 渡辺一郎校注:『五輪書』岩波書店 初版、1991年1月24日 6-57頁
(5) 同上 45-46頁
(6) 藤吉 2頁
(7) 板井真一郎:『大石神影流の周辺』フタバ印刷社、初版、1988年 13-14頁
(8) 宮本武蔵・渡辺 46-47頁
(9) 柳生延春 32頁
(10) 同上 34頁
(11) 宮本武蔵・渡辺 47頁
(12) 柳生宗矩 渡辺一郎校注:『兵法家伝初 付新陰流兵法目録事』岩波書店、初版、1985年8月16日 75-76頁
(13) 柳生延春 62頁
(14) 柳生宗矩・渡辺一郎 51頁
(15) 沢庵宗彭 池田諭訳書:『不動智神妙録』徳間書店 初版、1970年10月15日 25頁
(16) 同上 27頁
(17) 窪田清音:『剣法略記』新人物往来社 初版、1995年7月10日 468頁
参考文献
藤吉 斉:『大石神影流を語る』藤吉 斉、第一版、1963年
宮本武蔵著 渡辺一郎校注:『五輪書』岩波書店 初版、1991年1月24日
窪田清音:『剣法略記』新人物往来社 初版、1995年7月10日
板井 真一郎:『大石神影流の周辺』フタバ印刷社、初版、1988年
沢庵宗彭 池田諭訳書:『不動智神妙録』徳間書店 初版、1970年10月15日
柳生耕一平厳信:『負けない奥義 柳生新陰流宗家が教える最強の心身術』ソフトバンククリエイティブ 初版、2011年5月25日
柳生宗矩 渡辺一郎校注:『兵法家伝初 付新陰流兵法目録事』岩波書店、初版、1985年8月16日
柳生延春:『柳生新陰流道眼』島津書房 初版、1996年6月1日
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大石神影流剣術4段の論文です。
指導上の留意点について述べなさい。
Ⅰ.指導上の留意点について(総論)
武道における稽古は、一対一が基本となる。ときに集団教授を行うこともあるが、より高い技術を身に付けるためには一対一の稽古となるのは当然のことと言える。状況により多数を同時に指導する場合であっても、その時その場においては一対一の稽古と言うことができよう。
指導を受ける側の年齢、性別、性格、体格の違いにより、同じように指導をしても効果が上がらないことがある。そのため、指導においては、指導を受ける側の個々人の資質に合った指導をすることが重要な点となる。
それまでの運動経験、他武道の経験も重要な点となる。現代武道とくに竹刀剣道の経験者の場合はとくに注意が必要である。打つと斬るの違いに留意すること。
また、教えすぎないことも重要である。ただ言われるままに動くのではなく、よく見て、よく考え、自分で稽古、工夫、研究するようにするべきでる。
とくに言葉による指導は弊害が多い。指導者が実際にやって見せることがなにより重要である。常に最高の業を見せられるよう、自己の稽古も怠ることがあってはならない。
Ⅱ.指導上の留意点について(各論)
大石神影流剣術の技法上の留意点について、個々に見てみよう。
指導の際には、以下の点について留意することが重要である。
1.呼吸、肚、気合
呼吸と肚は、稽古における最重要課題の一つと言える。
動作はすべて、肚を中心として動くこと。小手先で剣を振り回すことがないように。
動作はすべて、呼吸に合わせて動くこと。肚を中心とした深い呼吸であること。
そけい部は常に弛んでいること。全身の力を協調一致させて遣うためである。
気合は、肚から出すこと。呼気に合わせる。
手数をいくら覚えたとしても、これらの基本ができていなければ何の意味もない。
2.礼法、構え、素振り
礼法、構え、素振りは、相手のいる稽古ではない。しかし、だからこそ重要な稽古と言える。相手のいない動作で、肚を中心として、呼吸に合わせた動作ができなければ、相手がいる動作でそれらができようはずもない。
基本の動作だからこそ、よくよく稽古する必要がある。
(1)礼法
大石神影流の礼法は極めてシンプルである。次のとおり。
刀礼はなし。稽古は、すでに帯刀した状態から始まる。
正面への礼は、帯刀した状態で、片膝を着いて軽く握った両拳を地に着け、上体を折る。立ち礼なのは、もともとは土間で稽古をしていたことによる。
お互いの礼は、帯刀した状態で、会釈を行う。
いずれも、肚を中心として、深い呼吸に合わせて動くことが大事である。
また、礼である以上、心のこもったものでなければならないことは言うまでもない。
(2)構え
通常、稽古する構えは、次の8種類である。
真剣、上段、附け、下段、脇中段、脇上段、車、裏附け
手数でよく遣われる構えとそうでない構えがあるが、同じように稽古をする必要がある。また稽古はしないが、拳隠し、右片手で切っ先を後ろ向きに左腰に置く構えなどもある。
構えに共通の留意点は、次の通り。
肚を中心として動くこと。小手先を使わない。
深い呼吸に合わせて動くこと。吸いながら動き始め、深く吐いて動作を完成する。
そけい部が常に弛んでいること。全身がリラックスしていること。
個々の構えの留意点は次の通り。
真剣
中段の構えであり、すべての基本となる。柄を握りしめることなく、柔らかに包むこと。
手首、肘、肩、そけい部、膝、足首を柔らかく。肚を中心とした、深い呼吸を保つこと。
上段
左半円を描くように切っ先を頭上右へ運ぶ。このとき、重心が上がらないように。
切っ先が右上方、柄頭が左下方を向き、両手の中間が額前になる。
両肘は落ちて、そのまま斬り込める体勢となっていること。
附け
上段になる動きに似ているが、剣は胸の前まで下りる。
左手のひらは柄を包み、いつでも突ける体勢であること。
切っ先が相手から外れることのないよう。
下段
手先で剣先を下げるのではなく、体全体が沈むこと。
待ち受ける体勢ではなく、下から攻める体勢であること。
脇中段
右足を引きあるいは左足を踏み出して、剣を右肩上方に立てる。重心が上下しないこと。
右手は柄をしっかりと包み、右肘をやや張る。
待ち受ける体勢ではなく、そのままいつでも斬り込める体勢であること。
脇上段
脇中段から剣を右上方に大きく伸ばす。
腕先で剣を動かすのではなく、肚を中心として深い呼吸に合わせて動くこと。
車
いわゆる脇構えである。脇中段になる動作を通過して、そのまま剣を後方に置く。
重心が上下しないこと。肚を中心として、深い呼吸に合わせて動くこと。
足は大きく開いて腰は深く落ちるが、居着かず自由に動ける体勢であること。
待ち受ける体勢ではなく、そのままいつでも斬り込める体勢であること。
裏附け
附けの左右逆である。右足を引きあるいは左足を踏み出して、附けと逆の構えになる。
切っ先が相手から外れることのないよう。
(3)素振り
大石神影流の斬撃は特殊であるため、そうと意識せずとも自然に動けるようになるまで、よく稽古する必要がある。
真剣から上段になってまた真剣に戻る動作に似ているが、上段の構えは左半円を描かずすぐ額前に剣を運ぶ。
基本の素振りでは、その場で足を動かさず、剣をゆっくりと上下させる。
切っ先は、まっすぐ頭上後方に振りかぶるのではなく、右上方へ振りかぶる。
深い呼吸に合わせて動き、吸いながら振りかぶり、吐きながら下ろす。
肚を中心として動くこと。小手先で剣を動かさない。
そけい部は常に弛んでいること。
3.手数
大石神影流剣術では、手数を重視している。大石進種次は、試合の前には必ず手数を行ったと言われている。よくよく稽古する必要がある。
大石神影流の手数のグループは12種類あり、次のとおり。
試合口、陽之表、陽之裏、三學圓之太刀、鎗合、長刀合、棒合、鞘ノ内、二刀、天狗抄、小太刀、神傳截相
これらは、大きく次の三種類に分類することができる。
ア.試合口、陽之表、陽之裏、三學圓之太刀、天狗抄、神傳截相
イ.鎗合、長刀合、棒合
ウ.鞘ノ内、二刀、小太刀
ア、イ、ウのグループはそれぞれ、
アは一般的な剣術の形のグループ
イは剣以外の武器で剣に対する、または剣で剣以外の武器に対する形のグループ
ウは特殊な剣術の形のグループ
と言うことができる。
剣術の流派ではあるが、鞘ノ内、二刀、小太刀、鎗合、長刀合、棒合が含まれており、逆に、鎖鎌や隠し武器などの特殊な武器は含まれていないということがわかる。
またイとウについては、イは概ね中級程度、ウは概ね中級から上級程度で稽古を行う、ということがわかる。
つまり、
試合口、陽之表、陽之裏、三學圓之太刀で大石神影流の剣術の基本を学び、
鎗合、長刀合、棒合で他の武器について学び、
鞘ノ内、二刀、小太刀で剣の応用を学び、
天狗抄、神傳截相で奥義を学ぶ、
ということができるかと思う。
大石神影流剣術の流派の体系として順に学ぶことはもちろんだが、多種多様な手数を遣えるよう、ある程度の基礎ができた段階から、先の手数も稽古する必要があるであろう。
個々の手数の留意点は、次の通り。
(1) 試合口
名が示す通り、試合用の技法であると同時に、入門最初に習う手数である。
五本いずれも重要なエッセンスが含まれており、よくよく稽古する必要がある。
一心
通常、最初に習う手数である。一本目であり、重要なエッセンスが含まれている。
位を見て、打太刀の斬り込みを請け、張り、突く、という動作で構成されている。
位を見る動きは、あくまで柔らかく。手先でなく、肚で行うこと。
請けは、表鎬で請ける。手先で剣を動かさず、肚を中心に動くこと。
張りは、肚で行うこと。手先で行ってはいけない。短い呼気を伴う。
突きは、肚で行うこと。手先を使わず、全身の移動で行う。気合は肚から出すこと。
残心にも留意すること。動作が終わったからと、気を抜くようではいけない。
無明一刀
二本目の手数であり、一本目と左右が逆なだけであるが、そこに留意する必要がある。
請けは、体の右側において裏鎬で請けるやや窮屈な体勢のため、力みが生じやすい。手の内はもとより、全身をリラックスして動く必要がある。
張りも左右逆の動きとなるが、肚を中心に動けていれば問題はないはずである。
突きは一本目となんら変わるところはない。
残心も同様である。
水月
位を見て、振りかぶった相手の小手を留める。その名前が直截的に留意点を示している。
水に映る月、あるいは月を映す水。無心であること。思わず同時であること。
気合は短く。
斬ったのは小手のみであるから、残心はさらに重要なものとなる。
須剱
一二本目に似るが、打太刀は諸手で突いてくる。それをいなし、張り、片手で突く。
剣と剣が低い位置で合うため、張る動きは小さなものとなる。しかし、一二本目と同じだけの威を備えていなければならない。肚で張ることができているかがわかる。
相手の突きを軽く下がりながらいなすため、間合いは一二本目よりも遠いものになる。そのため、突きは体を一重身近くに開いた片手突きとなる。左手は左腰に添え、体の開きを助ける。体を開く動きで突くのであり、腕の力でないことは一二本目と同様である。
一味
上段からの斬り込みを躱しながら請け流し、面を斬る。
打太刀の斬り込みと、仕太刀の体の躱し、請け流しは同時であること。
重心が上下しないこと。体を躱すため、安定性は重要である。肚で動くこと。
請け流しは剣と剣がぶつからないよう。力を流す。
手数の「一心」「無明一刀」「水月」「須剣」「一味」とはどのような意味であろうか。
名は体を表すという言葉もある。あわせて指導すべき内容であろう。
(2) 陽之表
試合口が入門者用の手数だとすると、陽之表は流派の表看板ということになるであろう。
試合口のような試合用の手数ではなく、流派の動きを身に付けるための手数である。
よく稽古する必要がある。
よう剱
よう剣の「よう」は「こざとへん」に「日」、つまり「陽」の異体字である。
陽之表の正しく一本目であり、流派の表の一本目ということができるであろう。
まっすぐ正面で斬組をなし、肚で押さえる。
大石神影流の手数のほとんどがそうであるように、とてもシンプルな動作となっている。
斬組は、まっすぐに斬り込むこと。剣と剣を合わせようとしてはいけない。斬り組むのは、あくまでお互いにまっすぐに斬り合った結果である。
肚で押さえること。手先で押さえてはいけない。気合は長く、肚の底から出すこと。
残心は油断なく。剣と剣が離れないよう。
相手を斬らず、押さえて終わる。残心とともに、気位も重要なものとなる。
「陽」の名があらわすとおり、まっすぐで激しい手数である。
げっ剱
げっ剣の「げつ」は「こざとへん」に「月」、つまり「陰」の異体字である。
よう剣が表の一本目であるとしたら、げっ剣はその対になる二本目である。
車で間合いに入り、打太刀の斬り込みを下がって躱して正面に斬り込む。打太刀はそれを下がって躱してまた正面に斬り込んでくるので、試合口「一味」のように体を躱しながら請け流し、面を斬る。
「陰」の名があらわすとおり、前後左右の変化に富んだ柔らかな手数である。
試合口五本をよく稽古する必要があるように、陽之表十本もよく稽古する必要がある。その中でも「よう剣」と「げっ剣」は、よくよく稽古する必要があるであろう。
無二剱
打太刀の上段への小手から面への二連続業である。怒涛の攻めも、大石神影流の特徴の一つと言えるかと思う。これは、初代大石進の性格を反映したものなのかもしれない。
最初から面を打つことを考えて、小手がいい加減なものになってはいけない。また逆に、小手で動きが止まってしまうようでもいけない。状況に応じて自然に変化する必要がある。無心でなければならないのは、試合口「水月」のみに限ったことではない。
二生
打太刀の斬り込みを下がって躱し、振りかぶるところを下段で追い込む。さらに、面に斬り込んでくるところを請け、「よう剣」のように肚で押さえる。
形をなぞるだけなら簡単であるが、下段による攻めは気位が重要なものとなる。留意が必要である。
稲妻
面、内腿、面の三段打ちである。正しく稲妻のような素早い攻めが必要である。ただし、急ぐあまり形が崩れるようではいけない。とくに大石神影流の稽古が浅い者はまっすぐの振りかぶりになってしまいがちである。注意が必要である。
太陽剱
いわゆる抜き面である。打太刀の剣が邪魔に感じることもあるようであるが、打太刀が仕太刀に気を遣って剣を大きく下げる必要はない。仕太刀は大石神影流の動きがきちんとできていれば、打太刀の剣が邪魔になることはない。
下がって躱して、出て斬る、という二挙動になってはいけない。ゆっくりでも止まらず、一挙動で動くことが重要である。
また稲妻と同様、振りかぶりに注意が必要である。
正當剱
袈裟からの突きを片手で払って、肘通りを斬る。
払う動作は手先でなく、肚で行うこと。同時に入り身を行うこと。
無意剱
面を請けて張り、斬り上げを右太腿上に剣を立てて請け張り、突きをいなし、肘通りを斬り、喉に付けて詰める。
面を請けて張ったら、すぐに附けの構えに戻ること。切っ先を相手から外さないこと。
斬り上げを請けるときは、剣を右太腿上に立てること。
肘通りを斬って喉に付ける動作は、区切らずに一連で行うこと。
油断なく詰めること。
乗身
打太刀が脇中段から斬ろうと振りかぶる瞬間に、附けの構えで気先を制する。そのまま追い込み、上段の小手を小さく斬る。
気先を制すること。気位で圧すること。隙なく小手を斬ること。油断なく下がること。
手順は単純であるが、だからこそ逆に、稽古が必要である。
千鳥
巻き上げて袈裟を躱し、斬り上げようとする打太刀の肘通りを斬る。
形としては右足を上げて躱すが、上げて下ろす二挙動になってはいけない。体の開閉により、一挙動で行うこと。膝を着きながら、同時に斬ること。
打太刀の素早い斬り返しに間に合う、無理無駄のない動作が必要である。
(3) 陽之裏
陽之裏は高度な技法と、気や位といったものが要求される。試合口、陽之表と合わせて、よくよく稽古すべきである。
勢龍
手数名「勢龍」が「青龍」だとすれば、十本目「白虎」との対と考えられる。「白虎」が左右に激しく変化する手数なのに対して、「勢龍」は激しく前方に攻める手数である。
陽之表十本目「千鳥」と同様に巻き上げて打太刀の袈裟を躱し、斬り上げを「正當剣」と同じように片手で払い、追い込んで面を斬る。
豪快かつ素早さが求められる手数であり、正しく裏の一本目にふさわしいと言える。
せわしなくならないよう、重心が沈み、肚から動くことがより一層、要求される。
左沈
「勢龍」の変化となる手数である。巻き上げて躱すのではなく、左後方に下がりながら身を沈めて躱す。このとき剣は左腰に構え、切っ先は後方を向く。続いて「勢龍」と同様に斬り上げを片手で払うが、「勢龍」が上方から払うのに対して、「左沈」は剣が下方にあるためその点が異なる。十分な威を発揮できるよう、稽古が必要である。
十文字
附けの構えから面を請けて張り、打太刀の喉を諸手で突く。
試合口「一心」に似るが、附けの構えで行うことと、顔面ではなく喉を突く点が異なる。
また、外形上は似ているとしても、試合口と陽之表を稽古したうえでの陽之裏である。
請けて、張って、突くの三挙動ではなく、一挙動で行えるよう稽古すべきである。
張身
動作としては、左肩から正面の斬組であり、例によって単純な手数である。
斬組は大石神影流の手数においては重要な技法であり、通常とは左右が逆なこの手数も、だからこそよく稽古する必要がある。
夜闇
ここにおいて裏附けの構えと、そこからの斬り込みが登場する。通常の斬り込みとは左右が逆なだけであるが、稽古が必要である。小手を押さえるときは、間が開かないこと。打太刀の斬り込みと入れ替わるように体を躱し、片手で面を斬る。
片手斬りも大石神影流においては重要な技法である。大石神影流用の長い木刀は、手先では振ることはできない。肚を中心に動くこと、体の開きを遣うことが重要である。
亂曲
名が示す通り、動作が多くせわしい手数である。しかし、小手先の動作とならないよう留意が必要である。
位
上段の構えのまま、気合を掛けて打太刀を追い込む。名が示す通り、位詰である。
形をなぞるだけならば簡単であるが、実際に遣えるようになるにはよほどの稽古が必要となるであろう。
極満
「位」と同様に位詰から始まるが、打太刀は位負けをするような相手ではなかったため、攻防が始まる。斬組、内腿を斬り、左腰に構え、体を躱しながら片手斬り。
いずれも今までの手数で稽古した技法ばかりである。スムーズに動けるようになるまで、よく稽古すべきである。
大落
形としては陽之表「無二剣」や「稲妻」に似るが、面の二連続打ちとなっている。
続けて斬ることばかりを考えて軽い打ちになってもいけないし、強く打とうとして動きが止まってしまうようでもいけない。打太刀を圧倒する連続の斬り込みが必要である。
白虎
陽之裏十本目最後の手数である。一本目「勢龍」との対と言える。「勢龍」は激しく前方に攻めるのに対して、左右に激しく変化する手数である。その様はあたかも虎が左右に激しく跳ぶかの如く。低く、安定した動作が求められる。
左右の小手斬りの連続動作であるが、手で斬ろうとせず、体で斬ることである。
(4) 三學圓之太刀 一刀両断、斬段、截鉄、半開、半向、右旋、左轉、長短、一味
試合口から始まり、陽之表、陽之裏と稽古が進むにつれて高度な技法となったが、ここで再びシンプルな技法が目立つようになる。大石神影流はもともとシンプルな技法が多いが、三學圓之太刀はまた違った素朴さがある。ただ外形をなぞるだけではいけない。
一本目と二本目の手数は一本として遣うため、全体で九本の手数となっている。左右の変化、前後と左右、上下の変化など、全体の関連性についても考える必要があるだろう。
(5) 鎗合 入掛、打込
入掛は右に、打込は左に入り身しながら突きを請けて張り、斬り込む。
技法は単純であるが、実際に遣うには鎗に対して入り身を行う胆力が重要となる。また、歩み足で足を止めないことも重要な点である。
入り身することだけを考えて、張りがいい加減なものになると鎗の反撃を受ける。威のある張りをしなければならない。
(6) 長刀合 虎乱、飛龍
虎乱はもともと二本の手数を一本にしたため、手順が多く長い構成となっている。その分、長刀のエッセンスが詰め込まれており、よくよく稽古する必要がある。
飛龍は例によってシンプルな技法であるが、長刀の重要な技法の一つである。よく稽古する必要がある。
長く重い長刀を手足のように遣えるようにならなければならない。
乱れる虎のように、飛ぶ龍のようになるまで、稽古を積むべきである。
(7) 棒合 打合、打入、遠山
本数は三本と少ないが、いかにも大石神影流らしい動きの手数ばかりである。
長くて重い棒独特の遣い方を身に付ける必要がある。
剣のように斬るのでもなく、長刀のようの薙ぐのでもなく、先端で打つ、払う。
(8) 鞘ノ内 抜打、拳落、右肩、左肩、甲割
シンプルな手数が五本のみ。二本は抜刀せず、三本は抜き打ちである。
手先ではなく、肚で抜くこと。
(9) 二刀 清風、綾ノ調子、紅葉重、霞、有明
右手に大刀、左手に小太刀を持つ。
小太刀で請ける場合など、とくにその間合いに注意する必要がある。
また、ただでさえ長くて重い大刀を片手で扱うため、肚で遣うことが重要となる。
(10) 天狗抄 必勝、逆風、亂截、高浪、扣卜、右切断、左切断、燕帰、丸橋、折破甲
防具を着けて打ち合う他流試合用の手数である。
内容は例によっていたってシンプルで、試合口の上位版といったところであろうか。
実際に遣えるよう、防具を着けてよく稽古する必要があるであろう。
(11) 小太刀 猛虎、圓月、荒波、重子、強弱
大刀に対して小太刀で応じる。大刀との間合いの違いに留意する必要がある。
構えがそのまま技法に直結するため、構えが重要となる。
(12) 神傳截相
よほどの技量がなければ、ただ形をなぞるだけになる。よくよく稽古を積む必要がある。
4.防具稽古
大石神影流は試合の強さで名を上げた剣術流派である。手数を多く覚えた、いろいろな手数ができる、手数を上手にできる、といったことで満足してはいけない。防具を着けた稽古を積み、自由攻防の中で大石神影流の動きができるようにならなければならない。
5.伝系・歴史
大石神影流は初代大石進を流祖とし、大石家に代々伝わる剣術流派である。
武道における宗家と師家、完全相伝と不完全相伝、免許皆伝の意味など、修業が進むにつれて正しく伝えるべきである。
参考文献;
1)著者名:藤吉 斉、書名:大石神影流を語る、発行所:第一プリント社、版数:初版、西暦年:1963年
- 2014/10/23(木) 21:25:50|
- 昇段審査論文
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大石神影流剣術4段の論文です。
「大石神影流剣術指導上の留意点」
世の中には様々な書物や、インターネットなどによる情報があふれています。それらの情報が正しいものばかりであればよいのですが、故意ではなくても誤った情報、さらには自己の都合がよいように操作された情報さえも存在します。古武道を学ぶ上で、私たちが学ぶ古武道が成立した時代と現代を比べるとこの情報の多さという面で様々なメリット、デメリットが出てくるのではないかと思います。たとえ古文書の原文に沿った解説書から情報を得る場合においてもその解釈によっては古文書を書いた人物の意図から外れてしまっていることも考えられると思います。そのため貫汪館では森本先生から常々、できる限り原文を読むことを進められています。情報の何が正しく、何が間違っているのかを判断するためには多くの書物にふれその知識を養っていく必要があります。その知識なしに古武道を学びそして伝える者が技術的な技能だけを向上させたとしても、後の人たちに正しく伝えることはできません。
新たに入門を希望し入会される方は、何の知識もなく私たちの演武などを見て純粋に始めたいと希望される方は別として、剣術の知識を入会に至るまで様々な形で情報を得ている事と思います。その情報源が時代劇の殺陣であったり、現代剣道であったり、武道史から興味を持たれたりと志望するに至った経緯は人により様々ではないかと思います。それらの情報から得た剣術に対するイメージによってはその後の指導の妨げとなることも存在します。そこでどういった経緯でその様な状態になっているのか、またそのイメージのもととなっているものはどの様なものなのかを知ることも、指導する者にとって必要なこととなるのではないでしょうか。
たとえば武道経験者を指導する場合、それが現代剣道経験者であれば、竹刀による打突の際の手の締め付けに留意することを指導されてきた方が大半ではないかと思います。またそのように注意させるよう書かれた指導書を目にすることがあります。これは貫汪館での指導とは大きく異なるものです。竹刀という獲物をより効率よく、またルールにより限られた時間内で有効となる打突を繰り出さなければならないという条件下に特化されたものと、触れれば切れてしまうという刃物を用い、禁じ手というものがなく相手が何をするか分からないという条件下では、違いというものが出てくるのは当然のことであると思います。また制限時間内に多く打突を繰り出すためには筋力と持久力を鍛えるという発想となり、際限なく時が続くものとなれば無理無駄なく自然に応じる動きとならなければならないという違いが出ることも理解に苦しくはありません。そういた違いを修業する者に理解させることで上達に大きく影響が出てくるのではないかと思います。
流派としての特徴、流派によって構えには様々な特徴があります。それは各流派が攻防に対して試行錯誤してきた結果もたらされた結果であり、流派の体の運用理論でもあります。こ流派の求める体の運用理論を正しく身につけるためには体の隅々まで流派の教えを浸透させていく必要があります。大石神影流剣術では上段や附けといった構えに特徴を持っています。それらを単に構えとしてしまえば大石神影流の求める体の運用理論とはかけ離れたものとなってしまいます。大石神影流釼術を正しく理解していくためには礼法からも体の運用理論を疎かにすることはできません。これから大石神影流釼術を指導する上で特に留意しなければならないことを述べてまいります。
1. 礼法について
大石神影流釼術では神前への礼は折敷の礼です。これは大石神影流が屋外で稽古されていたことに関係するためだそうです。また大石神影流釼術では無雙神傳英信流抜刀兵法や澁川一流柔術のように正座からの稽古法はとられていません。大石神影流は武家において伝承されてきた流派であり武家においては正座が正しくできていることは当然のことであったためであると森本先生から伺ったことがあります。
まずこの正しく座れているとはどういうことなのかですが、以前、大石神影流釼術七代目宗家継承式で宗家をお伺いした折に、六代目宗家大石英一先生からお話をいただく機会がありました。「今の人は座り方が下手だ。今は足を悪くし座れないが昔は何時間でも座っていられたものだ」というお話でした。長く座れば足がしびれて座っていられなくなるのは当然のことと思い込んでいる現代人の私には到底想像ができない領域のお話でした。この正しく座ることのできていない現代人が先人たちと同等の感覚を養うことは、並大抵なことではありません。礼法の一つ一つの所作にすでに高いレベルの動きが求められています。
貫汪館ホームページ『道標』で森本先生は礼法について次のように述べられています。「右膝をつき左膝はまっすぐ前方を向くため右足はやや斜め後方に下げる。この時左右鼠蹊部は十分に緩んでおく必要があり、お尻の力みも無くさねばならない」、また「この礼が正しくできるようになれば、立ち姿勢での下半身の緩みはできるようになるはずである」と述べられています。ここですでに大石神影流釼術を修業するために必要な身体の在り方を求められていることを意味します。鼠蹊部の緩みができていなければ流派の動きを身につけることは困難となります。鼠蹊部の緩みと呼吸を徹底して指導する相手を導かなければなりません。
2. 構えについて
まず刀を手にしたときに留意することは手の内です。この手の内が正しくできていなければ刀を生かすことが出来ないだけではなく、自身の体の自由さえ奪ってしまいます。手の内の在り方については『五輪書』に次のように述べられています。「太刀のとりやうは、大指ひとさしを浮る心にもち、たけ高指しめずゆるまず、くすしゆび小指をしむる心にして持也。手の内にはくつろぎのある事悪し。敵をきるものなりとおもひて、太刀をとるべし。敵をきる時も、手のうちにかわりなく、手のすくまざるやうに持つべし。もし敵の太刀はる事、うくる事、あたる事、おさゆる事ありとも、大ゆびひとさしゆびばかりを、少替る心にして、とにも角にも、きるとおもひて、太刀をとるべし。ためしものなどきる時の手の内も、兵法にしてきる時の手のうちも、人をきると云手の内に替る事なし。惣而、太刀にても、手にても、いつくとゆふ事をきらふ。いつくは、しぬる手也。いつかざるは、いきる手也。能々心得べきものなり」。貫汪館においても手の内は握らず、緩すぎず、赤子の手のように柔らかく密着するようにと指導されます。また中段に構えるときや、振り上げ振り下ろしのときも、手の内が変化しないよう留意しなければなりません。
『道標』において森本先生は「自分の自由にしようと思って対象を束縛してしまったらその対象そのものは働きを失ってしまうために、かえって自分の重荷になり自由にはならなくなるものです。この理が理解できないために刀の柄を握ろうとしたり、棒を握ろうとします。自分自身の執着をなくし対象を自由にすることで、自分と一体化するのだと観念しなければなりません。手の内は相手とのよい関係を保つためのものでなければなりません」と述べられています。この相手と良い関係を保つ手の内の工夫なく上達の道は開かれることはありません。
大石神影流釼術は中段(真剣)、上段、附け、下段、脇中断、脇上段、裏附け、車と様々な構えを有しています。構えにおいて留意しなければならないのが呼吸です。特に「上段」と「附け」の構えは直接その位置に刀を持っていくことなく、遠回りをさせ半円を描いてそこに位置させます。この動きにより肚を中心とし、呼吸に乗った動きを体得させるよう仕組まれています。ここで言う呼吸とは単に生命活動を支えている、吸って、吐くという単調な繰り返しを言うのではありません。対人関係における呼吸の調和を意味します。
構えについて『五輪書』では次のように述べられてす。「有構無構といふは、元来太刀をかまゆるといふ事あるべき事にあらず。され共、五方に置く事あればかまへともなるべし。太刀は敵の縁により、所により、けいきにしたがひ、何れの方に置きたりとも、其敵きりよきやうに持つ心也。上段も時に随ひ、少しさがる心なれば中段となり、中段を利により少しあぐれば上段となる。下段もをりにふれ、少しあぐれば中段となる。両脇の構もくらゐにより少し中へ出せば中段下段共なる心也。然るによつて構はありて構はなきといふ利也。先づ太刀をとつては、いづれにしてなりとも敵をきるといふ心也。若し敵のきる太刀を受くる、はる、あたる、ねばる、さはるなどいふ事あれども、みな敵をきる縁なりと心得べし。うくると思ひ、はると思ひ、あたるとおもひ、ねばるとおもひ、さはるとおもふによつて、きる事不足なるべし。何事もきる縁と思ふ事肝要也。能々吟味すべし。兵法大きにして、人数だてといふも構也。みな合戦に勝つ縁なり。ゐつくといふ事悪しし。能々工夫すべし 」。本来、刀は居つくことを嫌うので、構えは本来はない方がいいと述べられています。また刀は敵との縁により場所により、情況に従い、どんな持ち方をしても、その敵を斬りよいように持てば良いとあります。貫汪館ではこのことを貫心流の「糸引きの傳」をかりて指導されますが、構えにおいて目と目、体と体、剣と剣、心と心が張り過ぎず、緩まずの糸につながれた関係を保たれていなければなりません。
大石神影流の構えで足の開きと体の開きについても注意しなければなりません。この足の開きについて道標では「中段(真剣)に構えたとき正面に対する左足の開きと体の開きは用いる木刀や刀の長さ、柄の長さ、柄に対する両手の位置、自分の体の各部の寸法によって異なってきます。大石神影流では左足の開きの角度は90度までの開きを目安として各自異なります。手数で同じ長さの木刀を用いていれば身長が2mくらいある人と、160cmくらいの人では足の開き、体の開きは当然異なってきます。各自の適切な角度は各自で求めなければなりません。」とあります。この足と体の開きにおいても足はこの位置、体はこの角度でというものはなく、条件に応じたあり方を求めていかなければなりません。
3. 素振りについて
大石神影流釼術で上段は柄が額の前に横たえるように位置します。斬り下ろしは刃筋が真すぐに下りてゆきます。この動きはよほど注意しなければ刃筋は斜めに下りてしまいます。普段からゆっくり正しく刃筋をとおす稽古を積まなければ身につくものではありません。この動きが正しくできていなければ手数の稽古に入ってから大きな妨げとなってしまします。素振りの刀の上げ下げは臍下丹田を中心とし意識して深い呼吸と共に行わなければなりません。呼吸を疎かにし浅い呼吸となれば重心が高くなり足を働かせることができなくなってしまいます。
素振りが正しくできるようになり、ゆっくりと動く場合には臍下丹田中心の動きができているのに手数の連続打ちとなると重心が上がり中心が崩れてしまうことがあります。これは心が原因となります。素振りで徹底して心を収める稽古も行わなければなりません。
素振りでの呼吸と臍下丹田中心の動きが体に染みつけば大石神影流の流派としての動きを体得したといっても過言ではありません。大石神影流の修業のなかで素振りは終始行っていかなければならない基本の稽古です。心して行わなければなりません。
4. 手数の稽古について
構え、素振りの稽古で積んだ臍下丹田中心の動き、呼吸法、鼠蹊部の緩みは手数の稽古でも何一つ変わるものではありません。手数を行うときそれらができなくなったとすれば、それは自分自身の心の問題であり、構え、素振りの稽古を疎かにしていたということになります。手数の稽古は基本に基づき行わなければなりません。
大石神影流の歩行は摺足を用いず、「歩み足」です。足を上げては降ろすの繰り返しの動きで歩んでいきます。これは鼠蹊部の緩みができていてはじめて可能となる動きで、疎かにすることはできません。この歩み足について以前、貫汪館顧問の岡田先生から現代剣道の大会が野外で行われた時のお話を伺ったことがあります。「野外での試合でみな地面を蹴って前に出る動きをしていたので足が滑って体が崩れて試合にならなかった。歩み足は理にかなった動きだ」というお話でした。何時如何なる場所においても使える体使いの条件は重心が上がらないということでしょうか。重心の上がらない動きを体得するためにも歩行においても十分に心して稽古を積まなければなりません。
大石神影流では「有声の気合」をかけます。これを単純に大きな声を出すこととしてしまえば重心は高くなり、上半身を固めてしまう結果となります。素振りで稽古した肚中心の呼吸にのった気合を心掛けなければなりません。
大石神影流釼術の手数の稽古は仕太刀は打太刀につれて動くことに留意しなければなりません。これは打太刀の動きを見て動くというのではなく、打太刀心の動きに応じて変化することを言います。貫汪館では貫心流の「糸引きの傳」を借り指導されますが打太刀、仕太刀が糸でつながるがごとく調和のとれた状態になければ、手数は手順だけを追ったお遊戯レベルの形だけのものとなってしまいます。相手の心を読み変化していくことを心がけねばなりません。打太刀は常にこのことに注意し、仕太刀を導かなくてはなりません。
相手の心を読む稽古が進んでも、適切な間合をとることができなければ手数として成立しません。仕太刀がいつもこのくらいの間合で刀が届くからと決めて動いたのでは相手が変われば切先が届くということもあります。相手の出方に応じ、自分の動きも変化させなければなりません。「糸引きの傳」を正しく理解することが重要です。打太刀は仕太刀の技量に応じて指導していかなければなりません。仕太刀の技量を超えて指導を行えば仕太刀の動きは間に合わせの小手先の動きとなってしまいます。このことをよくよく注意しなければ指導によって学ぶ者の道をそれさせてしまう結果となります。
例え手順のなかでの対人の関係ができるようになり手数が行えるようになったとしても、手数のなかには疎かにできない条件が存在します。たとえば「附け」に構えるとき、附けは突くための構えですが、これを手順として行えば本来は仕太刀が「附け」の構えで打太刀が身動きできないところから無理に攻めてくるという前提が崩れてしまいます。条件を満たすためには仕太刀の「附け」の構えは手順のなかで突くことはなくともいつでもつける状態になければなりません。また「斬組」においてもきり下ろしてお互いに切先が触れない間合が取れていなければ次に続くことができません。このように学ぶものに手数の理合いを正しく理解させなければ大石神影流とはなりません。
最も避けなくてはならないことは、剣術を剣による攻防ということだけに意識が行き、相手の刀をより強く張ったり、払ったり、隙があるところに切り込もうと考えて稽古をさせてしまうことです。武道を稽古する上で最も学ばせなくてはならないことは相手との調和です。対峙した相手との調和を求めた結果、そうなるべくして動きが生まれ、隙ができるから自然と斬り込んでいたという状態になければなりません。それは貫汪館の求める武道の在り方ではないかと思います。
最後に、森本先生が「道標」で「武の修業とは強い弱いを突き抜けたところを求めるものです。稽古を始めた動機はどうであれ、強い弱いというところに心がとどまっていては稽古を重ねた結果が名誉欲・自己顕示欲・支配欲を強くすることにつながりかねませんし、実際にそのようになった人たちも多くいます。強い弱いということに固執するならば、素手や刀の武道ではなく現代用いられる武器の使用法を主に研究すればよいのです。むしろ、その方が自分の至らぬところに気づく可能性が高いように思います。修行という観点から武道を稽古するのであれば、強い弱いから離れ敵として対峙する稽古相手と調和を保つことが不可欠です。そうでなければ武は戦いの術から抜け出すことはできません。」と述べられています。指導する立場にある者が最も指導しなければならないことは、修業する者に常に自分自身を疑いの目で見つめ、日々新たに自分自身を改めていくということではないかと思います。
「参考文献」
1.津本 陽: 武蔵と五輪書、株式会社講談社、第1刷 2002年
2.本庄 葆: 剣道の使術解説と教育指導の要点、株式会社近代文藝社、第1刷、1994年
3.森本邦生先生:貫汪館ホームページ「道標」
- 2014/10/24(金) 21:25:27|
- 昇段審査論文
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無雙神傳英信流抜刀兵法4段の論文fです。
無双神伝英信流抜刀兵法の指導上の留意点
無双神伝英信流抜刀兵法を指導するにあたり、指導上の留意点について、以下のとおりの手順で論述する。
一、指導内容に関する留意点
二、指導方法に関する留意点
三、指導相手に関する留意点
四、指導者の心得に関する留意点
五、終わりに
一、指導内容に関する留意点
(何を指導しているのか)
まず何を指導しているのかを明らかにしたい。指導するのは、無双神伝英信流抜刀兵法という名の武術である。武術はスポーツでも体操でもない。そこでまず、武術とは何かということを明らかにしたい。
・武術であること
「武」の字源には二通りの説がある。「戈を止める」、「戈を持って歩く兵士」である。「止」は、人の足跡の象形である。足跡が残っている地面から「止まる」という意味が出てきたのであろうし、足跡から「歩く」という意味にも取られたのだと思う。足跡から止まると歩くという正反対の意味が生まれるのは、漢字が宿す豊かな世界を象徴しているように感じる。いずれにせよ、武とは戈という武器を止めること、あるいは使うことを示しているのであり、自分あるいは相手との命のやり取りを行う戦いの場で生き抜く技術をいうものであろう。
このことをよくよく踏まえて指導に当たるべきと考える。戦いの場で役に立つ技術。それは一定のルールの上で競うスポーツとは異なり、あらゆる状況を想定しなければならない。その中で生き抜くために、可能な限り有効に身心を活用しなければならない。そのための教えのうち、身体面のものは、臍下丹田からの動きであったり、無理無駄のない姿勢や動きであったりする。心の活用方法としては、とらわれない心であったり、残心であったりする。
・抜刀兵法であること
数ある武術の中で、近年こそメジャーなものになったようであるが、かなり特殊な部類に入るのが抜刀術であることを理解してもらわねばならない。抜刀術では厳密な意味での試合はあり得ない。居合道大会などで競技化されているが、あれは見た目の美しさを競う武術とは別個のものである。本来の武術としての居合は、真剣もしくは居合刀を用いた勝負の中でしか優劣を決めることはできないだろう。
先に、武術とは戦いの場で役にたつ技術と論じた。そういう意味では抜刀術こそ武術の中の武術であると言えるだろう。他ではその技術がまったく活かせないのであるから。
そのような武術を修行する者は、いわゆるモチベーションの維持が難しいだろう。試合もなく、実生活で直接活かせるものではない。このような状況でいかにモチベーションを維持させるか。これは個々の学習者が考えるべき留意事項ではあるが、予め承知させておくべき課題であると考える。
・無雙神伝英信流抜刀兵法であること
次には、当たり前の話であるが、そのような抜刀術の中でも特に無雙神伝英信流抜刀兵法を教えていることを明らかにしたい。
無双神伝英信流抜刀兵法の歴史についても折に触れ指導していくべきことであるが、その特徴をまず最初に指導すべきである。
無双神伝英信流は稀有な武術である。指導方法にもかかわることであるが、その教導体系が優れている。最初に学ぶ形、大森流と英信流表という独習型の稽古方法で学習者の身心の働きを自得させる。相手を立てず、ひたすら自己の身心を見つめ、形に従いそれを開発する。次に二人組の形である太刀打、詰合で、実際の間合い、拍子、打つべき機会を学ぶ。さらには、抜刀術が使えない想定での戦い方である大小詰、大小立詰が指導される。これで、柔術技法を学びながら、無理無駄のない動きができているのかを試され、また武術を学んでいるということを実感させる。なにゆえに抜刀術を標榜する武術で、抜刀術を使えない想定をするのかに思いを致さねばならない。刀にとらわれず、それまで習得した技術にとらわれず、状況に応じて身心を有効に使うこと。これが武術である。この点をよく指導すべきである。最後に英信流奥にいたり、一対多という戦いの場を想定した、究極の身心活用方法を学ぶのである。
つまり、無双神伝英信流はその優れた稽古体系で、武術とは何であるかを教えているのであり、結果として、自由な身心の開発を促しているのである。この点を特に指導しなければならない。
またこの自由な身心の開発にまで学習者の理解が至れば、先ほど課題としたモチベーションの維持は解消されると考える。
二、指導方法に関する留意点
(どのように指導するのか)
先に述べたように、無双神伝英信流は優れた教導体系を持っている。その教導体系に従って指導すればよく、特に一指導者が留意すべきことはないように見える。しかし形は身心の動きのみ表したものに過ぎず、外見上は踊りと何ら変わらない。形を武術のレベルにまで引き上げるためには、様々な留意事項がある。以下、重要な留意点を列挙していこう。
・ゆっくり動くこと
ゆっくり動くことで、無理無駄な力や動きを知ることができる。無理無駄を省く工夫ができる。つまり、体の遣い方の質を高めることができることを、よくよく理解させなければならない。
また理合いを確認することもできる。特に二人組になって行う太刀打や詰合においては、微妙な技であるがゆえに、理合いの理解がきわめて重要である。ゆっくりな動作で理合いを十分理解することが可能になる。
・体を弛めること
無双神伝英信流では長大な刀を利用する。これにはいろいろな理由があるのだと考えるが、修行者の立場で言えば通常の刀を扱うより極端にむずかしくなるということが言える。このむずかしさを要求しているのだろう。むずかしいという意味は一番コントロールしやすい手足だけの働きでは、到底扱えないということである。つまり全身を使わなければならない。体を弛めねば抜き差しすらできない。このことはあえて指導をしなくても、長大な刀を準備させれば自ずと工夫を始めてしまうものではあるが、なぜ長い刀を使うのか、求めているものは何なのかを理解させねばならない。
・自分の体の動きに注意すること
以上のような留意点で求めているのは、自分の体の動きに注意深くなることである。ゆっくり動くから、微妙な動きに注意が向くのであり、弛めるためにも体のどこに力が入っているのかを、注意深く観察する必要がある。つまり、自分の体の動きに注意すること。敏感、繊細であることが求められている。学習者がよく分からない場合には、力の入っている場所などを軽く触れるなどして、教えてあげなければならない。
・深めていく稽古をすること
無双神伝英信流には多くの形がある。剣術の形に比べ、むずかしいものが多い。一般に剣術では、刃の部分を使うことが多く、したがって両手も柄に添えられているのが普通だ。しかし、英信流では柄頭で相手の顔面を打ったり、峰に手を添えて相手を引き倒したり、相手の手を取ったりする技がある。この点をもって、剣術の形よりむずかしいと考えている。体と刀の遣い方のバリエーションが豊富なのだ。
このような形であるから、もちろん簡単には習熟できない。習得するには何度も反復稽古をし、自分の理解、体の動き、心の働きを深めていく稽古が必要なのは当たり前である。しかし、何も見た目に複雑な手順をする技だけが深めていく対象ではない。最初に学ぶ初発刀から深めていく稽古が必要なのだ。手順としては単純な形ではあるが、それこそ奥が深い。さまざまな動きを同時に成り立たせているわけであるから素朴な技であるだけ、理解の深さが露骨に表れる。この点をよくよく理解しておかねばならない。
・言葉を用いすぎないこと
以上のように、留意すべき点は多い。つい言葉を多用して説明してしまう。ではあるが、言葉は不便なものである。一度に多くの異なる動きをする身体の説明を、時系列でしか説明できない言葉を用いざるを得ないのが宿命である。しかし、伝わらないものは伝わらない。言葉を継ぐほど混乱を招く場合も多いだろう。学習者は指導者とは異なる身体感覚を持っているのであるから当たり前である。
そんなときにはむしろ、言葉を用いず、先ほども述べたように無駄な力が入っているところを触れていくような指導が望ましいことを留意すべきである。
・最高の業を見せること
言葉で説明が出来ないので、指導者に出来る最高の指導は、自身の最高の技を学習者に見せることである。師匠にも言われていることであるが、これが最もよい指導方法である。その場合、自分はどういう動きをしようとしたのか、どういう感覚で動きを実現しているのかを説明してあげれば、学習者の参考になるだろう。蛇足的な口頭での説明ではあるが、まだ私自信が修行中の身であるために、やむを得ない方法だと考えている。
三、指導相手に関する留意点
(誰に指導するのか)
まず、指導すべき相手を選ぶべきかという問題がある。広く門戸を開放し、誰でも受け入れるべきであるという考え方が、特に学問の分野では一般的である。
しかし、武術に関する限りは慎重を期したい。おそらく百年以上も前であれば、門下を峻別したことであろう。孫子に「兵は不祥の器なり」とあるように、戦いの業は人を殺める技術である。性凶悪な人間にこの技を伝えれば、世の中に害毒をまき散らすことになる。今の世で刀を差して実際に抜刀兵法を遣うことは想像しにくいとはいうものの、悪用の方法が皆無とは言い難い。相手を選ぶことは必要であろう。
一方で、私は楽観視もしている。流儀の稽古体系と指導方法を信じているからだ。
すべての指導者に人の性向を見抜く力量を求めるのは現実的ではないし、人は変わっていくもので、門下も修行過程でその資質を変化させることもあるだろう。指導者は初対面の時の印象から教えを乞う人間に邪念がないと判断できれば、門を開いてよい。あとは、流儀の稽古体系が門下を峻別していくと考えている。
先述のとおり、稽古の中で修行者は、自己の身心を見つめ、ゆっくりと動作し、すこしずつ自己の身心を開発していく。この修行の道程において、より深奥へ進む人間と、奥へは至れず中途で開発が止まる人間が出てくる。邪念をもつ者は、自己の身心を見つめることができず、指導者の助言も素直に聞けず、結果として深奥に至るのは難しいだろう。つまり、修行の過程で、流儀の教えが人を選別していくのだ。この考え方でいくと、指導者は学習者の進度をよく見ながら、適切に修行段階を踏ませるように注意を向ければよい。
つまり、広く門戸を開き、ひやかしや盗用しようとする意図が見えない場合は修行を許可する。修行の過程でよく学習者の態度や進度を見極め、段階を踏ませて稽古をさせる。こうすることで、真に稽古に耐えうる者だけが残っていくことになる。
学習者たるべき資格は以上のとおりであるが、そのほかにも、学習者の年齢、性格、取り組み姿勢などに応じて、その時その時に求めるレベルを変えていくことも必要かもしれない。レベルを落とすのではない。また最高のものを見せないというのでもない。そうではなくて、気づきを生むために、あえて多くを求めず、その時その時の修行者が一番必要とするものを指導することが大切だと考えている。
しかし、これも指導者の力量に負うところが大きい。指導者自身が私のように修行中の場合は、やはり自分にできる最高の技を示すことが一番の指導方法であると考える。
四、指導者の心得に関する留意点
(指導者の心得)
以上述べてきた留意点は、いずれも指導者が心得ていなければならない留意点である。
しかし、ここで特に章を立てて心得を記述すのは、何をおいても核となることを言いたいがためである。
それは何か。流儀を大切にすること。これに尽きる。これまで詳述してきたことは、この一語から発している。師から伝えられた業を正しく次代に伝えること。そのための教授法や教導体系を疎かにせず、じっくり学習者の状態を確かめながら、伝えていく覚悟。
これが指導する上での最大の留意点であろう。
幸か不幸か無双神伝英信流に近い流儀が存在する。無双直伝英信流であり、夢想神伝流である。これらの流派について敢えて多くは述べない。しかし、これらの流儀と無双神伝英信流との違いは正しく認識しておく必要があるだろう。
長い刀を使う理由、優れた教導体系がそれである。本来、教導体系は同じであるはずであるが、無双直伝英信流の演武で太刀打は見たことはあるが、詰合の演武は見たことがない。ホームページで大小詰や大剣取などといった形を紹介している団体もあったが、確認をしてみると復元をしたものであったり、単に過去に行われていた形の名を列記しているだけで、実際には稽古されていないというところもあった。
貫汪館の無双神伝英信流はこれらとは一線を画す。柔術的な技法まで含めた一連の教導体系を連綿と伝えてきている。これらを欠けることのないように後世に伝えていくことが必要だ。また、ただ伝えるだけでは意味がない。実際に刀を執っての活用は現代ではありえないが、武術習得で培った身心を実生活に役立てねばならない。
習得した武術の骨法を現実社会に生かした達人の一人として、私は勝海舟に畏敬の念を持つ。勝海舟は幕末動乱期に当たって、徳川家を看取り、明治時代を切り開いた。日本の持つ偉人の一人であろう。自らも剣を学びながら、また多くの修羅場を切り抜けながら、一度も斬り合いをせず、その胆力と機知で大仕事をなした。彼に対する評価は賛否両論あるだろうが、武を生かし切ったことにおいては誰にも異存はないであろう。
勝海舟は大物過ぎるかもしれないが、手に入れた自由な身心で世を渡った人は多くいるに違いない。
実生活で武術を活かすこと。これも指導者が留意すべきものであろうと思われる。
先に修行途中で身心の開発が止まる者も出るだろうと記した。この場合でも、指導者が武術を実生活で活かす工夫を示していれば、何らかの得るものはあるだろう。またそういう工夫をする者が、開発が中途で止まることもない。
結論として、二つのことを述べた。一、師伝の流儀を大切に後世に伝えること。二、指導者が師伝の武を実生活で活用すべく工夫をすること。
この二つは、指導者自身がどのような修行過程にあっても疎かにしてはいけない留意点である。
五、終わりに
以上のように、指導内容、指導方法、指導相手という観点から、指導上の留意点を述べた。また最後には、特に重要だと考える指導者の心構えを検討してみた。
私自身が修行中の身であり、まだまだ見えていない部分が多い。また技も未熟である。今後も様々な指導を受け、自らも工夫をしていく所存である。したがって、この指導上の留意点は私の現段階での留意事項ということとしたい。それほど大きく変わることはないだろうとは思っているが、今後も様々な学習者との出会いがあるだろう。その出会いで、指導する方法、心構えも変わるかもしれない。指導することがまさに学習であり、指導することで教えられることが非常に多いのだ。この場合に大切なのは、謙虚であること。自己を謙虚に保つことで、はじめて教えを受け取ることができることを忘れてはならない。
与えることが与えられることであるのだ。
- 2014/10/25(土) 21:25:19|
- 昇段審査論文
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大石神影流剣術4段の論文です。
「大石神影流剣術指導上の留意点について」
Ⅰ.はじめに
大石神影流剣術は初代大石進が江戸時代末期に創始した剣術流派である。現代の武道と比較して、いわゆる古武道と呼ばれるものである。これらの古武道はそれを創始した流祖の考えが強く反映されていると考えられ、それぞれの流派の教授体系を有している。大石神影流剣術においてもそれは例外ではなく、大石進の考えが形の中に反映され、それを抜きにして大石神影流剣術を指導してゆくことはできないと考えられる。それでは、次にどのような事に留意して指導を行えばよいかを「構え」・「素振り」・「試合口」を通して考えて行きたいと思います。
Ⅱ.構えについて
まず、初めに指導をしなければならない事は構えであると考えます。古武道各流派には、それぞれ独特の構えを有しているものがあり、それは大石神影流剣術にもあります。また、いわゆる中段・上段・下段と呼ばれている構えにも守らなければならないことがあります。それらの構えの一つ一つを基礎とし、正確に行わなければ大石神影流剣術であるといい難いと考えます。初めに学ぶ事の説明として「兵法家伝書」において柳生但馬守宗矩は次のように説明をしています。
「大学は初学の門也。と云事、凡家に至るには、まづ門より入者也。然者、門は家に至るしるべ也。此門をとおりて家に入り、主人にあう也。学は道に至る門也。此門をとおりて道にいたる也。しかれば、学は門也。家にあらず門を見て、家なりとおもう事なかれ。家は門をとおり過ておくにある物也。」
「大学」とは儒教の聖典であり、四書の一つです。「兵法家伝書」では、この「大学」が学問を志す者・学問を始める者にとっての「門」であると例え、「門」をとおりて「道」に到達すると述べています。つまりどのような事においても基礎、初めに習うことが大切なことであるということだと考えます。そこを疎かにして武道においても上達は無いと考えます。大石神影流剣術においても構えが「門」に当たると考え、構えを正しく指導することが始まりであると考えます。それでは、構えを具体的にどのように指導すべきなのでしょうか?
一般的に思い当たる構えとして、「中段」・「上段」・「下段」などがあげられると思われます。大石神影流剣術においてもそれらの構えは存在しています。まずはこれらの構えを中心に指導し、大石神影流剣術で守らなければならない事を指導してゆくのが良いと考えます。また、大石神影流剣術は甲冑を用いていたころの剣術の色合いを濃く残しているのが特徴であり、足の構えは撞木となり、現代剣道のように立つことはありません。そこのところも構えを通して指導してゆくのが良いと考えます。その後、「中段」・「上段」・「下段」などと構えを変化させ、それぞれの構えの求める身体のあり方を身に付けるように指導をしてゆきます。また、その他に「附け」・「脇中段」・「脇上段」・「裏附け」・「車」と大石神影流剣術の構えを指導しなければなりません。構えについては宮本武蔵が「五輪書」のなかで述べています。
「五方のかまへは、上段、中段、下段、右わきにかまゆる事、左のわきにかまゆる事、是五方也。構五ツのわかつといへども、皆人をきらん為也。構五ツより外はなし。
いづれのかまへなりとも、かまゆるとおもはず。きる事なりとおもうべし。
構の大小はことにより利にしたがふべし。上中下は体の構也。両わきはゆうの構也。右ひだりの構、うえのつまりて、わき一方つまりたる所などにての構也。右ひだりは所によりて分別あり。
此道の大事にいはく、構のきわまりは中段と心得べし。中段、構の本意也。兵法大きにして見よ。中段は大将の座也。大将につきあと四段の構也。能々吟味すべし。」
ここでは、「いずれのかまへなりとも、かまゆるとおもはず。」と言うことに留意しなければならないと考えます。そこで、「構のきわまりは中段と心得べし。」とあるように、中段を基本としそこからあらゆる構えへと変化をすることを指導します。構えを指導しますが、構え無いということを厳しく指導しなければなりません。
それから、もう一つ重要な事を指導しなければなりません。ここを疎かにすると今後形を稽古する時に「華法剣術」となり上達をすることは望めません。それは、「呼吸」と「肚」で構えを行うことです。「肚」を中心として「呼吸」にのせて構えを行うことを指導しなければなりません。「肚」と「呼吸」を意識して稽古をすることで、「五輪書」に述べられている「かまゆるとおもはず。」と言う事が理解しやすいと思います。
構えが一通りできるようになれば、次に「素振り」を指導しなければなりません。素振りも呼吸に乗せて行わなければなりません。次に指導する形に繋がってゆくからです。素振りは速く行う必要はなく、あくまでも肚を中心として、自分の深い呼吸に合わせて行う必要があります。そして、この素振りの出来によって「形」が生きたものになるのか、死んだものになるのかが決まってくるのではないでしょうか。それほど、素振りを疎かには出来ないと言う事を指導するものは心に留めておかなければなりません。
そして、もう一つ指導する者にとって心しておかなければならない事があります。それは、まず自らが構え・素振りを示すことです。ここで間違えてはいけないことは、動きを示すと言うものではなく、自分自身の最高の動きを示す事が大事と言う事です。言葉での指導ではなく動きをもって指導することを一番とすることを心しておかなければなりません。指導者の動きが指導を受ける者の指針となるからです。
Ⅲ.はじめに指導する「試合口」における「位を読む」・「張る」・「突き」について
次に「形」を指導して行きます。「形」については、窪田清音が「劔法幼學傳授」の中で次のように述べています。
「一. 形の事
劔法を學ぶの本は形を正しくするに在り。其の本正しからざれば、末皆整ひがたし。故に形を整ふるを以て先きとす。其の形如何んと云へば、各人常に歩履する所の姿勢卽ち天賦の形なるを以て、其の形の如くにして之れを失はざれば、手足の動作も正しきに、各人気よりして形に病を求め、天賦の正直なる形を失ひ、或は偏り、或は歪む。是に於て腹の力脱け、腰の座宜しきを失ひ、手足の動作も意の如くならず、四肢の均衡を得ずして、癖を各處に見はし、其の形整ふことを得ず遂に不正の形に流る丶ものなれば、常に心を用い、身體を横にせざるを要とす。凡そ事は善きに遷ること難く、不善に趨くことは易きを以て、常に身を省み天賦の正しき形を失ふことなかるべし。」
大石神影流剣術において最初に学ぶ形は「試合口」です。この「試合口」において大石神影流剣術で大切な「位を読む」・「張る」などを学びます。
「試合口」では、最初に打太刀(指導者)と仕太刀がお互いに三歩歩み寄り、刀の切先を触れ合わせ、お互いの中心を捕るように左右に刀を動かします。指導者はここで切先を触れ合わせる距離を守るように指導しなければなりません。この距離は一歩前に出れば、相手を斬ること、突く事ができる距離であり、これを剣術の間合として身に付くように指導します。この間合で「位を読む」事が大切であると考えます。この間合については、窪田清音が「劍法初學記」の「相互の距離」で次のように述べています。
「一.敵手と相對する相互の距離を場合と曰ひ、互に相構へて掛合せ太刀先大抵三寸五分合せたる所を謂ふ。打つにも突くにも互いに一歩を出でざれば達せざる所を場合の定めと爲し、此の間に於て構ひ掛合を爲し聊か浮沈を爲してあるべきなり。前に記す所の上太刀になり聊か抑ゆると云へるは一の別格なり。」
大石神影流剣術では三歩歩みより切先の触れる距離で「位を読み」・打ち・突きまたは形の終わりに切先を合わせ終わります。この間合が疎かになると剣術ではなくなり、大石神影流剣術ではなくなります。故に、指導者はこの間合を正確に指導して行くことを忘れてはなりません。
この間合が取れる事から「試合口」においては「位を読む」ことが始まります。この「位を読む」事をただ単に切先を触れ合わせ左右に動かせばよいと考えるのは間違えです。「位」と言う事ですが、これは相手の力量・状態・隙などを測る事であることを厳しく指導することが求められます。
それでは、「位を読む」にはどの様な事をまずは指導するべきなのでしょうか。ここでは、最初に指導をした「構え」が重要になります。お互いが中段の構えで「位」を読みますが、構えてしまうと身体が硬さを持ち相手との繋がりは消えてしまいます。そこで、呼吸を深く行うように指導をし、身体を柔らかくすること、リラックスをするように導きます。そうする事で「肚」から「刀の切先」までが繋がり、その先にある「相手」とつながる事が可能になります。
指導者は「肚」を中心として「呼吸」に乗せて動き、刀の切先を通じて「相手と触れ合う」と言う事に留意する必要があると考えます。
次に、大石神影流剣術の中で重要となる「張る」と言う動きについて考えてみたいと思います。この「張る」と言う動きは、「打太刀が斬って来る刀を鎬で受けて落とす。」と言葉で説明をするとこの様になるかと思われます。「位を読む」もそうでしたが、この単純な動きの中に深い物が含まれている事を教える事も指導をするうえで忘れてはならない事です。
まず、打太刀が斬って来るのを受ける時の注意点ですが、柔らかく受けることを疎かにしてはいけません。また、腕で受けるわけではありません。受けるためには身体を柔らかくし、刀を通して「肚」で受けることを工夫しなければなりません。「受ける」という言葉のイメージで、受け止めるのではなく、打太刀の刀を受け入れるようにすることに留意しておかなければなりません。
次に、受け止めた刀を「張り」ます。受け止めた刀を落とすのですが、これも腕で落とすと勘違いをしてはいけません。刀を「肚」で受け止めたのち、「肚」、つまり「臍下丹田」からのつながりと、呼吸に乗せた動きで打太刀の刀を「張り」ます。
これらの動きを行う際に、仕太刀は動きに囚われ、腕のみの力で行いがちになります。そこのところを、指導者は「肚」と「呼吸」に留意して、自然な体の使い方を求めるように指導をしなければなりません。この自然な体と言う事について、柳生新陰流兵法第二十二世宗家 柳生耕一厳信先生の著書「負けない奥義 柳生新陰流宗家が教える最強の心術」の中で、自然な動きとして、柳生新陰流の「性自然」を次のように説明されておられます。
「太刀という道具と自らを一体化する「刀身一如」、心と身体を一つにする「心身一如」こそが性自然の目指すところ。動きを作ろうと意識した段階ですでに自然な動きから外れています。人として自然に備わったあるがままの働きと尊ぶという意味で、それを「性自然」と称するのです。」
また、この著書の中で日本人が食事で箸を使う時、その存在を意識せずに箸を使っていることを例えとして述べています。存在を意識せずに箸が使えるように、刀を自身の一部として使えるようになる事が大切であると考えます。そしてこの様な、「自然に備わったあるがままの動き」で「張る」動きが出来ることが望ましいと考えます。
最後に「試合口」には多く「突き」で形が終わっています。この「突き」について述べておきたいと思います。
大石神影流剣術にとって「突き」技は大切な技です。初代大石進は、「刀剣は、斬るばかりでなくその先端は尖っていて突くようにできている。然るに刀法に突技がない。」と考え、両手突きの技と片手突きの技を考案されたと伝わっています。また、刀術目録で突き技の動機を述べた条に、「刀の先尖は突筈のものなり」とあって、初代大石進は刀の構造を分析して「突く」と言う見識に達していることは明らかで、そこには槍術説を裏付ける言葉は一言半句も述べられてはいない。この様な事を、藤吉 斉は大石神影流剣術の歴史を研究され、彼の著書「大石神影流を語る」で発表されております。
さて、それでは、具体的に「突き技」をどのように指導して行けば良いのでしょうか。身体的には今まで述べてきたことと何ら変わることはありません。身体は柔らかく、肚を中心として、肚から腕の内側を通った意識が刀の先に繋がります。その線を保ったまま突いて行きます。突き技で指導上留意しなければならないことは、やはり「肚」と「呼吸」です。「呼吸」に乗せて「肚」で突きます。決して腕で突かないように注意をします。意識の上では打太刀の顔面を突き切ることです。それから、突いた後ですが、固まらないように指導しなければなりません。以上な様な事に留意しながら、「突き」については指導をして行かなければならないと考えます。
Ⅳ.気合いについて
最後に、大石神影流剣術においての気合いについて述べておきたいと思います。大石神影流剣術においての気合いの掛け声には、①.こちらから斬り込むときは「ホーッ」・②.応じて斬り込む時は「エーッ」・③.受ける時は、小さく「ハッ」とこの三種類があります。これらの気合いの掛け声は、大石神影流剣術の特徴であり守らなければならない事です。しかし、守ろうとするあまりに気合いにおいての大切な事である「深い呼吸」が出来ていないと言う事です。ここのところを指導者は、見分け、的確に指導しなければならないと考えます。このことについて、「常靜子劍談」のなかで、松浦靜山は次のように著しています。
「一.劍術を學とき聲をかくること、聲に虛聲實聲あり、虛聲は悪く實聲は善きことは勿論なり、其聲いかがにしても能しと心得るは不宜なり故につとめて實聲を旨として、虛聲を發すること有るべからず、此虛聲の聲、耳にも心にも不分者は劍術の意志は未悟としるべし。」
虛聲とはただ単に声を出す事または小さい声とがんが得ます。そして、實聲とは深い呼吸がなされ、その呼吸にのって出されるものであると考えます。この聲の違いが分からないものは剣術の上達は難しいと言う事だと考えます。また、指導を受ける物の上達も阻害にかねません。指導者はこの聲を聞き分け的確に指導して行くことに留意しなければなりません。
Ⅴ.まとめ
この様に、大石神影流剣術を指導するうえでまず留意しなければならない事は、大石神影流剣術は現代武道とは異なる古武道であり、江戸時代に初代大石進によって創始された剣術流派であると言う事です。これらの流派には流祖の考えが「形」の中に反映されており、それが教授体系となっています。故に「構え」・「気合い」も含め「形」と言うものを正確に教えなければならないと言う事です。
次に、これらの「構え」や「形」を行う上で大切である「肚・臍下丹田」と「呼吸」の指導を怠らないと言う事です。「形」のみを指導し、その者がいくら見事に形を行ったとしても、それは「実践」には何の役にも立たない、所謂「華法剣術」になってしまいます。江戸時代に創始された古武道とはいえ、我々は現代に大石神影流剣術を稽古しています。形のみ出来ても中身の伴わないものは意味の無いものです。「肚」を中心に動き「深い呼吸」を行って稽古をすることは、「形」に「魂」を入れるものであり、ここの所を指導者は留意して指導をしていかなければならないと言う事です。
今回は、大石神影流剣術の「門」のところである、「構え」・「素振り」・「試合口」を通して指導上の留意点を観てきましたが、これらの事はこの後の「形」にも生きてくることであり、上達へと導くために指導者は留意しなければならない点であると考えます。
<参考文献>
1)藤吉 斉 「大石神影流を語る」 第一プリント社 初版 1963年10月20日
2)加藤 純一 「兵法家伝書に学ぶ」 財団法人 日本武道館 再版第1刷 2004年3月1日
3)宮本 武蔵 著 神子 侃 訳者 「五輪書」 徳間書店 七四刷 2001年2月5日
4)柳生 耕一平厳信 「負けない奥義 柳生新陰流宗家が教える最強の心身術」
ソフトバンク クリエイティブ株式会社 初版第1刷 2011年5月25日
5)山田 次朗吉 「剣道集義 正続」 合資会社 高山書店 第7刷 1975年9月1日
6)吉田 豊 編者 「武道秘伝書」 徳間書店 20刷 2000年7月10日
- 2014/10/26(日) 21:25:13|
- 昇段審査論文
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大石神影流剣術4段の論文です。
大石神影流剣術の指導上の留意点
はじめに
大石神影流剣術を指導するに当って、留意すべき事項をこれから論述するが、私自身がまだ修行中である。よって、私が指導する場合の留意点という観点から論述することを許して頂きたい。
1. 指導前の留意点
2. 指導の中での留意点
3. 指導者の修行上の留意点
4. 終わりに
1. 指導前の留意点
(大石神影流は特殊な流派であることを指導者は肝に銘じること)
大石神影流は幕末に一世を風靡した著名な剣術流派である。九州の片田舎で指導された流派ではあるが、初代、二代の門弟の数は六百名を超える。
しかしながら、明治大正昭和と時代が進むとその修行者は減少の一途をたどり、現在ではわずかに森本先生率いる貫汪館でのみ修行が続けられている。
つまり、学習者には経験者はいないということをよく理解する必要がある。武術流派の数は近年増えてきているようであるが、古武術、特に古来の剣術を指導できる道場は限られている。つまりほとんどの入門希望者は、古流剣術を知らず、ましてや大石神影流を知らないということを頭に入れておく必要がある。もちろん中には、剣道経験者や他流剣術の経験者もいるであろうが、それであっても事態は変わらない。いやむしろ初心者よりも注意をして指導をするきである。なぜならば大石神影流は特殊な流派であるからである。
では、どこが大石神影流を特殊にしているのか。それは使用する得物に端的に表れている。長竹刀での突きで著名だった初代大石進により構築された大石神影流は、通常の木刀より長い木刀を用いて修行をする。力量抜群であった初代はもちろん文字通りに腕力もあったことと思われるが、残されている手数と呼ばれる形や素振りなどの稽古法からは腕力に頼った剣術ではないことが分かる。
世間一般で目にする剣道とはまったく様子が異なる。また、他流ともよくよく見ると流派の違いという以上の相違点があることも分かるが、それは上記の理由による。臍下丹田を中心とし、体を弛めて遣うのである。他流にももちろん臍下丹田を大事にする流派はあるであろうが、そのレベルや意味合いは異なるものと思う。ここは大事なところであるので、大石神影流の特殊な体遣いを説明するとともに、初めの稽古である素振りをさせる中で十分に体得させる必要がある。
特殊な流派というのは、技術的なことばかりではない。
著名で西日本中心にあちらこちらの地域で修行された流派である性格上、大石神影流を騙る人間が表れてくる条件が整っていることも見逃してはならない。近年特に一旦は途絶えた武術流派が、復元という形で修行が開始される事例がある。これ自体は決して悪いことではないが、嘆かわしいことにいつの間にやら伝来の武術であると標榜する場合があるようである。心無い人間に大石神影流を伝えることで、このような事例を作ってはならない。実際は指導する中で、学習者の人柄を見極め、慎重に指導をしていく必要がある。
2. 指導中の留意点
1) 理合いを理解することさせること
指導者は、学習者の進度に従って多くの手数を指導していく。得物も太刀から小太刀、鑓、長刀、棒と増えていく。これら多くの手数を正しく習得させるためには理合いの理解が不可欠である。理合いというのは、所作の理由である。なぜそのような動きをするのかをよく理解しておかねば、修行するうちに少しずつ技が変化していく可能性がある。やりやすい動きを人は求めるものであるから。また、人によって骨格や筋肉の付き方、内部感覚の相違がある。同じように体を遣っているようでも、人それぞれ現われてくる形が異なる。それが理合いにあったものであるかどうかが判断基準になるだろう。もちろん腕力や脚力を使って技を成立させているのは論外である。
2) 学習者の個性や進度を見極めること
先に述べたように学習者も千差万別で、骨格筋肉の違いはもちろん、体の柔らかさといった身体の差だけでなく、理解力や心の柔軟性といったメンタル面での違いもあることを留意すべきである。同じ指導をしているのに、すぐに自分のものに出来る人間とまったく動きもできない人がいる。これらの人を同じ場所、同じ時間で指導するのも問題であるかもしれないが、どのようにレベル分けをしても、学習者に差が生じることは避けられない。指導する側が学習者の個性を見極め、進度を確認しながら指導をしていく必要がある。
また、学習者にもそれぞれの個性を知らしめる必要がある。
習得に時間がかかる人間がいる。真面目に稽古をしてきたのに、後から入門してきた者に追い抜かれてしまう場合も発生するだろう。それは仕方のないことであるが、面白くないと思う人がいても不思議ではない。無理に楽しんでもらう必要はないが、何が足りないのか、どのように取り組めばいいのかを淡々と説明し、それぞれの当面の目標を明示することが必要だろう。
それに進度というものは同じペースで進むものではない。ある課題をクリアした途端、一気呵成に上り詰めるというケースも往々にして存在する。倦まず弛まず稽古を続けることが、その可能性を残す唯一の道であることを理解させねばならない。
3) 流儀の体遣いを体得させること
基本となる流儀の体遣いを体得させる稽古を積ませなければならない。これこそが大石神影流と呼べる体の遣い方がある。先に述べたように、他流よりも長い刀を扱うにも関わらず、力に頼らないことである。そのために、呼吸に合わせた動きの習得が必須である。いかなるときも体を固めず、柔らかく遣う。これが第一番目に重要な体の遣い方である。
多くの手数が存在するが、基本はすべて同じ。基本をいかなる状況下でも使えるようにするために、多くの手数があるとも言える。
そのために、一つ一つの手数を確実にできるようになることも必要であるが、ある程度のレベルに至ったら、次の手数を指導することも可能であると考えている。様々な場面で流儀の体遣いを工夫すること。そうすることで、それ以前に学んだ手数の奥行が増すということを期待してのことである。
もちろん、指導前の留意点で明らかにしたように、誰にでも簡単に教えてよいものでないことは言うまでもない。
4) 流儀の歴史を理解させること
先にも述べたが、大石神影流は希少な流派である。現在では貫汪館でしか学ぶことができない。どのように流派の命脈が保たれ、どのような思いで先人たちが残してくれたのかを学習者は学ぶ必要がある。
それが大石神影流を大切にすることにつながり、ひいては自分自身が伝統の中の一人、伝統を伝える役に立っているということを自覚させなければならない。
5) 言葉を使いすぎないこと
身体の動きを言葉で表現するのには限界がある。一度に複数の動きをする身体を時間に沿った説明しかできない言葉が追い付くはずもない。また指導者の感覚が学習者の感覚に近いとも限らない。むしろ、身体感覚は異なると理解したほうがよい。動きの結果だけを見て、助言を与えるとこの問題を生じやすいだろう。自分に分かる動きしか分からないのであるから、誤解されても仕方がない。
指導者は言葉を使いすぎないように注意をすべきである。
ではどうするか。師匠にも常々言われていることであるが、自分にできる最高の技を見せることに努力をすべきである。これが第一の指導である。この補足として自分はこのように動かしていると、あくまで自分がどうしているかを言葉で説明をし、学習者が自ら何かをつかんでもらうのを待つしかない。
指導には忍耐が必要であることを知るべきである。
3. 指導者の修行中の留意点
1) 謙虚であること
次に指導者の修行中の留意事項を考えたい。私も指導者の一人ではあるが、指導者としての経験が浅いのはもちろん、私自身の大石神影流の修行自体が始まったばかりである。まだまだ全貌は見えず、課題も多い。このような人間が指導をしているので、誤りや間違いもあるだろう。その点は、見つかり次第即座に訂正していく必要がある。誤りを見つけ、早急に訂正をする。分からないことについては分からないとはっきりと言うこと。あたり前のことではあるが、指導者としての体面を気にする場合も出てこないとも限らない。さらに、指導する中で発見することが多い。指導がすなわち学習である。指導しながら自ら学ぶためには常に謙虚であることが大切だ。大事な留意点である。
2) 学習者以上の稽古を自己に課すこと
自分の習得した以上のことは指導できない。もちろん学習者が指導者を乗り越えていかなければ、発展はありえない話であるので、指導できる内容やレベルは学習者にとって限界ではない。しかし、指導者は学習者が容易に乗り越えていけないように限界を遠いものにする努力を怠ってはならない。それは、自己の発展のためだけでなく、大石神影流の発展にもつながることである。
3) 防具を用いた稽古をすること
大石神影流は他流との試合で名を挙げた。手数で培った体遣いを防具を用いた打突稽古で発揮したのである。また、他流試合の中から得たものも多かったであろうと推察する。伝説の領域かもしれないが、初代大石進が幕末の当時から剣豪と称えられた男谷精一郎との立会いで、互いに称えあい、親交を深めえたのは、他流との交流があったからである。技術だけでなく、剣を通して人を知ることができたのだ。
そういう意味で手数稽古は基礎に過ぎず、手数稽古で練った心と技を打突稽古で自在に発揮できるように、さらに練り上げることが肝要である。
大石神影流を学ぶものは、防具着用剣術を避けてはならない。
私自身は今はまだ、手数を学ぶ時期にある。まだ流派の体遣いを実践に耐えうるほどには習得していないからだ。しかし、可能な限り早急に防具稽古も併用できるようにしなければならない。「剣と禅」の著者大森曹玄氏は直心影流の免許持ちである。氏の時代の稽古法は、形の稽古をまず行い、体が出来てくると面小手胴をつけて打込みの稽古(約束稽古)をし、十分流儀の技が使えるようになって初めて互角稽古(互いに自由に打ち合う稽古)に入ったものらしい。
大石神影流もおそらく江戸時代や明治初期には同じような稽古をさせていたのではないか。聞くところによると、現代剣道の元になったと言われる北辰一刀流でも初心のものには、やはり基本となる形を教えてから、竹刀稽古に入ったという。
あまり年を取ってから防具着用の稽古をするには無理があるように思える。むろん不可能ではないが、防具という不自由な装備をつけての進退は体が柔らかいうちに慣れておくのが望ましいだろう。
ここでも留意点がある。
防具を着装して自由に打ち合うようになれば、やはり勝ちたいという心理から、流儀の体遣いを忘れ、手足の力を用いて進退し打突する人間が出てくるであろう。そうした人間に打ち込まれる局面も十分に考えられる。
たとえば、私が大石神影流の体遣いで全日本優勝者と竹刀稽古をすれば、簡単に打ち込まれてしまうことだろう。全日本優勝者を出すまでもない。ふつうの高校生にも打ち込まれるに違いない。竹刀を扱う技術がまったく違うので、それが当たり前である。しかし、大石神影流を学ぶ者が高校生剣道のようなことをしてはならない。ではあるが、打突できたか否かで判断する場合は大石神影流が著しく分が悪い。であるからこそ幕末には数多存在した古流剣術が、「剣道」に収れんされていったのだ。大石神影流を守るためには、歴史を繰り返してはならない。
残念ながら、この問題に対する私の解答はまだ見つかっていない。しかし、おそらく心を押さえることが鍵になってくるのではないかという予感はしている。
手数稽古では打突の機会をも学んでいる。つまり相手のとの心のやり取りを学んでいるのだ。つい実際の手足の動き、刀の動きに注意が向きがちではあるが、それでもたとえば陽之裏に「位」という形がある。これは、打太刀の打突の未然の気を奪い、動きを封じるものである。実際に刀を打ち合わせることもない。傍目には何をしているのかさっぱり分からない。心がこもらなければまったくの踊りになってしまう形である。この形で学んでいるのは、端的に「心」である。
そういう目で学んできた手数を振り返ると、たとえば試合口の中心の取り合い、陽之表の無二剣など、心を用いる技が簡単に目に付くものがある。注意すればすべての手数に含まれている。あたり前の話で、まず心が動くから体が動くからだ。
合気道では、ほとんど相手の体に触れずに相手を投げ飛ばすような達人がいたという。そういう人の談話を見てみると、要するに相手の気が発する前に、こちらが仕掛けをしているようだ。心を押さえているのである。
心を押さえても、実際に体を動かせなければ意味がない。心法に堕す危険は打突をしている限り生じない。そういう意味でも手数での心の稽古を実際の打突稽古で活かす工夫をしなければならない。
この工夫を凝らせば、先ほどの古流剣術と剣道との戦いにおいて見る人が見ればそれぞれのよい点が見えてくるのではないか。
今はそう考えている。
4. 終わりに
以上、大石神影流剣術の指導上の留意点について、検討をしてきた。より技術的な詳細なポイントは敢えて述べなかった。述べられなかった。
はじめにで書いたように、私自身が修行中の身であり、それぞれの手数のポイントを的確に抽出する力量に欠けていると思うためである。つまり、修行中の身である人間がどの点に気を付けて稽古に励んでいるか、あるいは励むべきであると考えているかについて検討を重ねたに過ぎない。
そこでは、かつての私が修行した剣道に対する考察が長くなってしまったのはやむを得ないことと思っている。
剣道界でも、さまざまな異端が存在する。二刀を主に行う者、歩み足を多用する稽古を行う者など近年に至って多様化が進んでいる。しかし、日本剣術には流派らしきものが誕生してから四百年以上の歴史がある。そこには実にさまざまな流派が興り、相互に影響を与えながら発展してきた。これは文化的な財産であると私は思う。これがたった一つの「剣道」に収れんしてしまうのは、あまりに勿体ないことだと常々考えていた。
たまたま貫汪館に入門する機会を与えられ、たまたま師匠が大石神影流の指導を始められたのが、私の大石神影流修行の始まりである。幸運なことであった。この幸運を活かし、常々考えていた「剣道」一極の世界に揺さぶりを掛けたいと思う。大石神影流を世に問い、より多様な剣道のかたちが出てくれば、文化の発展にも寄与できるだろう。
いや、実際にはそんな大それたことを考えているわけではない。好きになった大石神影流をもっともっと修行し、剣道と交流できるレベルまで昇華し、大石神影流の素晴らしさを、今一度世の中に喧伝したいと思っているだけである。
ひょっとすると我が身におけるこの昇華こそが、指導する上での覚悟であり、留意点ではないかとも考えている。精進あるのみ。
指導上の留意点。いつかこの論文を見直し、加筆できるように修行を重ねていく所存である。
- 2014/10/27(月) 21:25:51|
- 昇段審査論文
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澁川一流柔術7段の論文です。
「柔術とは何か」
はじめに
「柔術とはなにかと簡単にお答えください。」と尋ねられた時、的確に答えられる人はどのくらいいるでしょうか。
「秘伝日本柔術」には、「柔術は狭義に解釈すれば打つ、突く、当る、蹴る、投げる、締める、固める、ねじる、抑さえる、などの攻撃法と、受ける、はずす、かわす、などの防禦方法を協調させて「素手を以て、素手の敵を制圧する」技法をいい、広義に解釈すれば「素手を以て、武器を持った敵を制圧する」「小武器(十手、短刀、隠し武器など)を利して、素手あるいは武器を持った敵を制圧する」となり、さらに延長線上に剣術、棒術、槍術などの各種武器術がある。1」と、柔術の定義について書かれてあります。ここでまず、原点にもどって、柔術の歴史、柔術はどのように発達したのか、今では柔道が世に一般的ですが、柔道の元である柔術はどうして柔道に変わっていったのか、武道とはなにか、この3点から考察していきます。
1. 柔術はどのように発達したのか
人類が生息するところ必ず論争が起こり、人それぞれ護身の法を研究、工夫をして、武術へと発達したものである。それぞれの人たちの研究、工夫の特色が流派となって確立していった。
日本における柔術の発達には、次のような理由が考えられる。
1、 戦国時代においては、甲冑を着用した相手に対して、急所をねらうことはできず、当て身を用いて倒すことは困難であり、とにかく敵を組み伏せて、首を刈りとるのが目的であった。
2、 たとえ甲冑を着用していなくても、当て身による一撃で敵を倒すことはむずかしく、失敗が多い。
もしも当て身の一撃で敵を倒すことに失敗すると、敵に所持している刀などで切り倒されてしまうことになる。したがって、まず、敵に刀を抜かせないことが大切である。その反対に、刀を抜く側も反撃に転じるための方法が必要であった。以上のように、町民はもちろんのこと、武士にとっても心得るべきものであった。
一般に武士は剣術、捕方や町民は柔術などと区別されることがあるが、たとえ武士であっても城内で刀を抜くことは禁止されていたし、また上級武士はたとえ戦においても、足軽相手に刀を抜くことは恥辱とされ、刀を抜かずに制圧する技術が必要であった。たとえば、関口流柔術などは、紀州徳川家の御流儀となり、家君自ら学ばれているし、大東流合気柔術は、会津藩においては高禄武士以上の者が学ぶことができる、秘密武術であったと言われている。2)
本書では、中央に出て広く知られている一部の流派や、あるいは現代武道のかげにかくれて、その存在を知られているが実態の知られていない、すぐれた四流派を紹介することにした。
竹内流
日本柔術の源流といわれ、考証上において歴史上最古の流派とされている。
他の流派にも伝説上の開祖は、竹内流より古いというものもあるが、現当主から十三代もさかのぼるまで存在や経歴が明らかなものは、竹内流のみである。
柳生心眼流
甲冑武術の遺風を今に伝える希少な流派である。
この流派には日本武術には珍しい、拳法、柔術、武器術に共通する一人稽古用の型が伝えられている。また、日本の柔術の中では、珍しく当て身の研究・工夫が深くされている。
諸賞流
一つの技法を表、裏、ほぐれ、変手、手詰などに変化させて使い分ける。
とくに裏と称する肘あてと足当て(蹴り)の当て身を重要とし、その威力は鎧胴を貫くといわれている。
大東流
この流派の代名詞にもなっている合気柔術は、素肌柔術の極致ともいわれ、合気を利して行なう玄妙の技法は“神秘の柔術”とも称される。この流派の一部の技法は「合気道」の名で広く知られている。
これまでに多くの武術書が出版され、すぐれた貴重なものの多い中で、独断と偏見によるものや、自己の周囲のみを誇大に宣伝することを目的で出版されたものも、かなりの数にのぼっている。
また、自己の名声や財を求めるために、師を欺き、世を欺いて、自らを「創始者」「宗家」と名のったり、あるいは関連系図を附会して、自己の学んだ流派や師をないがしろにし、古い流派に見せかけて純真で無知な青少年をだましている武術家も少なくはない。これらの流派は自らのいう説の中で、決まって大きな誤りを犯している。
このような「偏執狂」や「妄想狂」のような輩がいることが、今一つ武術が世間から迎えられず、しかも他の文化にくらべて低く見られることになっている大きな原因であろう。先人たちの命がけの体験と研究・工夫によって考案された武術の技法も、現在では反復練習を惰性で行っている人や、あるいは娯楽・体育の目的で行なっている人も多く、ぬるま湯にひたっている武術家も少なくはない。
したがって暴力から身をまもることに関しては、スポーツ格闘競技(空手・ボクシング・レスリング・現代武道など)より勝るべきはずの武術であるが、その真剣さにおいては名誉と生活をかけて試合を行なうスポーツ選手にもおとり、古武道の大家が空手の無段者に敗れることすらある。3)でも、今では戦もなく、平和な世の中であるが、違う面で物騒な世の中である。いまこそ、柔術を心得て物騒な世の中を生きていかなくてはいけないのではなかろうか。けれども、現代では柔術は影が薄くなり、柔道に変わってしまっている。
2. 柔術はどうして柔道に変わっていったのか
柔術の歴史から柔術が柔道へと変わっていったところに焦点をあててみることにしました。ここでは、「武道文化の研究」から「柔術から柔道への名辞の変遷について」という論文を参考に考察していきます。
柔術は、小具足腰の廻り、和、俰、組打ち、柔術等の名称で呼ばれていた。
その中で最も早く現れたものに、竹内流腰の廻りがあり、剣や組打ちで相手を制し、縄でもって縛るという捕手をさしていた。まだ、この頃には技名が列記されているだけで、精神面についての詳しい説明はなかった。
十七世紀前半には、和や俰の名称で呼ばれる柔術が現れ、良移心当和が有名である。
柳生十兵衛三厳が祖父石舟斎と父宗矩の言い残したことを一冊にまとめた「神陰流月之抄」には「和の事、是は七郎右衛門工夫により目録とす。此一流良移心当和と云う。意趣は、わが体に剛弱骨折あるを知らず、剛なる者は編に剛と知り、弱なる者は力足ず。先師の曰、力不力、遅速自にして、何を以秘術といはん、幾千万の工夫をめぐらして剛を父とし弱を母としてみれば、敵に引かれても動かず、押されても動かず、強きことを良く覚え、敵押さば押すに従って勝、引かば引くに従って勝事を覚える事也」と記れ、敵に引かれても押されても動かない剛の面と、敵の押す引くにしたがって和らかく動き勝利する『和』の二面を兼ね備えよ、と説かれている。
「和」と同じくやわらと呼ぶ流派に「俰」があり、日向飫肥で行われた「定善流俰」があった。「定善流俰極秘自問自答」によれば「俰は和と同じヤハラと訓じ、敵と争う時、力身無理なる所を此習で去って和らかにする」と記され、力身を去り、体を和らかにすることが大切だと説かれている。又一方、中庸の「中和」の道理により「強でもなく弱でもなく基中和を用いて勝ち、又敵の位によって偏よらず中和にして基宜しき節に従て勝つ」と記され、中庸の未発の思想を採入れ、強弱相備えて勝て、と説かれているなお、技術に関しては「夫俰は無手にて白刃をひしぎ、敵の働きに勝習いで、是を取手という。たとえ剣術者でも、最後は組打ちの勝負となる。依て諸々の武芸は皆和の習いを教えよ」とされ、和は無手でもって相手と戦う組打ちの術であったことが伺える。和といい俰といい、いずれも心の命ずるままに体を和らかく動けるようにする術の意味で使われたものであった。
ところで、柔術という名辞が盛んに使われるようになったのは、慶安以降(一六四八~)のことといえる。井沢蟠竜著「武士訓」には「慶安以来、柔術の妙技は曽て唐土にもなく紀州関口柔心、独り柔能制剛の理を悟り初めて基術を工夫し柔術と名付けた」とある事からして、関口柔心の創始した関口流をその初期のものとみなしてよいだろう。寛永八年(一六三一)柔心の書ける「柔新心流自叙」には、冒頭に老子の「天下之至柔、天下之至剛を制せんとす。
幕末につくられた代表的な流派には、天神真楊流柔術があった。この流派は楊心流と真之神道流を合して作ったものである。平服組打技として生まれてきている。当流柔術の大意については、「夫大意と申すは、武具をしたがえず、今出生したる所のあかはだかの理を極め、極意の大事を極む。基上にて武具を従へば、内外則合体、心は身に随ひ、身は武具を随がわしむるの儀なり。武具に身を随がわしむるうれいなし。格成故、戦場組打の為に今日身体自由の業をなす。」と記され、戦場にて心の命ずるままに、身体が自由自在に動けることだ、と説かれてる。この流派の技は、居捕と立合から成り、当身技、逆技、締め技といった危険な技が多かった。
このようにみてくると、柔術というのは戦場にて弱力の者が剛力の者を倒す術、いわゆる「柔能制剛」術であり、そのために心の命ずるままに、身体が自在に動けることが大切とされた。その稽古法としては、刀剣での攻防や当身、逆技といった危険な技が多かったため、「形」でしか実施できない流派がほとんどであった。一方、精神面では実際の戦場において、自ら身を守り、相手を殺傷するという勝負に勝つことが第一の目的であり、そのため戦いに臨んでの不動心や無心が重んじられた。又、術は武士的人格形成の手段とも考えられていた。
柔術の意義は、身体を心に柔順にして、自由自在に動けるようにすることである。自分の力は捨て、相手の力を利用して倒す。そして、殺傷し勝負に勝つという実践的なものであった。こうした点で、危険な術とされてきたのである。
明治に入り、文明開化の名のもと、武術が廃れる中で、日本の柔術に興味を抱きその肉体的、精神的に価値あると認めた嘉納治五郎は、明治十五年、古流柔術を集大成して講道館柔道を創始した。とりわけ新しい時代に即応するように、名称もこれまでの柔術を避け、一、二の流儀でしか使われていなかった柔道の名称に変えている。
これまでの柔術は、咽喉を締めたり関節を挫いたりして、相手を殺傷する武技であったが、今度自分が作ったものはそういう危険なものではないことを示すために柔道に変えたというのだ。嘉納は、当身や逆技といった危険な技は省き、老若男女が自由に攻防できる乱取を創案した。更に「往々世間には柔術を一種の見せ物にして、木戸銭を取って相撲や軽業を成す場所で人に見せたりするものが出てきた所から、世の人は益々柔術を賎しいもののように成って参りました。そういうものと同一視されるのがいやさに柔術という名を避けました」とも記され、そういう賎しいものではないということを示すためにも、名称を柔道にしたというのである。
この他にも柔術と柔道の目的の違いについて記してある。
柔術は、投げ殺す、捕縛する、当て殺したり、取り押さえたりすることを目的とする。
講道館柔道では、体育と勝負と修心との三つのことを目的とする。勝負を争うだけではなく、体を鍛え、精神を修養するという三つが同時に学べるように工夫し、イメージを一新したのである。
ここでいう柔術には悪いイメージがついてしまっているが、身体精神の鍛錬修養といった教育的意義の面からみても、現代で、柔術は通用するのではないかと考える。
3. 武道とは何か
最近、武道が見直されてきている。中学校では、必修科目として武道が取り入れられてきた。これも、身体精神の鍛錬修養といったことに教育者が注目してきたのではないか。
注目されてきた理由としてはなにが考えられるのか。
1) 挨拶、返事、礼儀など自己の修養
2) すぐれた人を育て、伝統を保持する
3) 技術の上達や、しっかりとした芯の強い精神の具体化
などが、あげられる。これらのことを習得しながら、成長していくことで、武道の目指すところである「自己の完成」につながるのではないか。
その上ではじめて執らわれの世界から「真」の世界へと心を転じる修練を積むことが出来るはずである。我々は心の内にいろいろな執着を抱いて生きているものである。物欲や名誉に対する欲、そして嫌いな人などといった心の闇の部分があるとする。この執らわれは怖いもので、どんどん流されてしまい、妬みや、嫉妬などの感情を生じさせ、そのまま生きてしまえば、とても下手な生き方となってしまう。逆に心の真理の世界があるとしたならば、その先にある世界に向かって歩んでいくことが上手な生き方であり、人として美しい生き方ではないか。その為の道標となるものが、偉大なる先人たちが残してくれた教訓や、師匠や親たちの後ろ姿である。4)
武道は、そう簡単には習得できるものではない。その道のりには自己に対する嫌悪感などいろいろな思いをめぐらせて鍛錬していくしかない。
先人たちの残してくれた教訓の中で、柳生宗矩は「兵法家伝書」においてこう記してあります。
かたんと一筋におもふも病也。兵法つかはむと一筋におもふも病也。習のたけを出さんと一筋におもふも病、かゝらんと一筋におもふも病也。またんとばかりおもふも病也。病をさらんと、一筋におもいかたまりたるも病也。何事も、心の一すぢにとゞまりたるを、病とする也。
勝つことばかりを思うこと、兵法を上手に使うことばかりを思うこと、習ったことの成果をひたすら出そうと思うこと、敵に掛かっていこうとばかり思うこと、逆に、待つことばかり思うこと、病を治そうとばかり思うこと、このように、何事においても、心が、ある一つのことに執着し、それによって他のことが疎かになってしまうような状態、心と気の関係で言えば、心が何かに囚われてそこから発せられる気が滞ってしまうような状態、それが病(病気)である。
では、この病をどのようにして取り除くのか、宗矩は「病をさるに初重、後重の心持ちある事」として、病を克服する初心の段階の「初重」と、応用段階の「後重」の二つの方法を次のように提示している。
病をさらんとおもふは念也。心にある病をさらんとおもふは渉 念也。又病と云も、一筋におもひつめたる念也。病をさらんとおもふも、念也。しからば念を以て、念をさる也。念をされば、無念也。
病を克服しようと思うのは念である。心にある病を払拭しようと思うのは、念じ続けることである。病というものは、一筋に思いつめている念である。病を克服しようと思うこも念である。そうであれば、念を以て念を克服することができる。念が去れば、無念である、という。
病氣をさらんとおもふは、病氣に着した物なれども、以其着病をされば、着不残程に
とあるように、病気を克服しようと心に思うこと自体が既に病気ではあるが、その思いを心に強く抱き、唯一病が去ることを思い続けることが、結果的には病気を克服する道である、というのである。
この初重の境地は、自分自身を客体化するところに特徴がある。例えば、何かに執着している場合、執着している自分と、それに気付き、克服しようと思う自分とは分けて考えられる。この場合、克服しようと思っている自分が主となれば、何かに執着している自分は客体化される。主たる自分は、先ず現状を認識し、そこに更なる執着を加えていく。その行為の加重の中から、客体化された自分自身の回復を図っていこうとするものである。
これでも病の克服が出来ない時は、応用段階である後重の境地として、病にまかせて、病と同居することが説かれている。
一向に、病をさらんとおもふ心のなきが、病をさる也。さらんとおもふが病氣也。病氣にまかせて、病氣のうちに交て居が、病氣をさつたる也。
病を払拭しようなどと思う心がなくなれば、病は自ずと去るのである。病を払拭しようと思うこと自体が、既に病気なのである。病気に任せて、病気と一体になっていれば、病気が去ったことになる、というのである。
人間は誰しも、相手と向かい合うと心が緊張してくる。普通は、その緊張感を和らげようと努力するのが一般的な処置法である。しかし、この後重の段階では、緊張をなくそうとする心までも否定するのである。病の中にあっても、それを克服しようとは思わず、いわば「一病息災」のように、病と同居することで「病である」という意識を無くし、それによって病を克服せよ、というのである。
また、宗矩は禅とも深い関わりがあった。仏の道からの視点に変えてみたらどうだろう。
着をはなれたる僧は、俗塵にまじりてもそまず、何事をなすも、自由にして、とゞまる所がなひ者也。
仏の道では、着することを非常に嫌うという。この着することを克服した僧は、俗塵の世界にあってもそれに染まることなく、何をするにも自由であり、極まるところ思い通りに、望み通りになる。という。紅塵遠きところにたつのではなく、まさに俗事に交わってもそれに染まることのない心を養うことの大事さを、宗矩は説いたのである。
みがゝざる玖(アラタマ)は、塵ほこりがつく也。みがきぬきたる玉は泥中に入ても、けがれぬ也。修行をもって、心の玉をみがきて、けがれにそまらぬようにして、病にまかせて、心をすてきって、行度様に、やるべき也。
磨いていない掘り出されたばかりの璞(あらたま)には塵やほこりが付いているものである。磨き抜いた玉は、たとえ泥の中に入っても、汚れることはない。修行を通して、心の玉を磨いて、俗事に染まらぬようにして、例え病に罹っても病にまかせて迷う心を捨てきって、心のいきたいようにさせたらよい、という。
心の玉を磨く修行、それは、つまるところ、心の病を「無心」で克服していくことに他ならない。念や着を捨てきって、心の行きたいようにすればよい。一旦、そのような境地になれば、病に罹っても、それに囚われることは決してない。心を解き放ち、自由な状態に置くこと、つまり「無心」が宗矩の描く、理想的は兵法者の心の境地といえる。
また、宗矩は禅とも深い関わりがありました。
不動と申し候らいても、石か木かのように、無性なる義理にてはなく候。向こうへも、左へも、右へも、十方八方へ、心は動き度きように動きながら、卒度もとまらぬ心を、不動智と申し候。(不動智神妙録)
無心だからこそ、相手の剣の動きに自由自在に対処できるわけです。禅では坐禅中に睡気と惰気を振り払う為に自分の股に錐を刺したという話があります。ある意味で禅は自分との戦いです。戦いに勝てば、厳しい忍耐力と強い意志力が養われるのです。その積み重ねがいわゆる「禅定力」となって、いつも「無」の状態にもどる力となります。
常に「無」の状態に自分を取り戻すことに関しては、武道も禅も共通しているようである。
武道は、心身の健康を育む教育としても研究が進められている。
ほとんどの武術は呼吸を重要視しており、その源流はヨーガや禅にみられるようである。
共通する点は、吸気が短く呼気が長いことであろう。「3の2の15」と言われる呼吸法では、3秒で息を吸い、2秒でそれを「臍下丹田」に満たし、15秒かけてゆっくり吐き出す。吸気には横隔膜を下げる必要があり、その拮抗筋である腹筋群や背筋群などの体幹筋は緩んでしまう。逆に呼気時にはこれらの筋が収縮し、体幹の安定性が高まる。5)
おわりに
現代では、昔のように刀をもっている人はいないので、刀に対して素手で対処する柔術は必要がない。けれども、現代では無差別に人を殺してしまう人がいる。自分が万が一そのような目に合わなくもない。その時に自分の身は自分で守りたい。でも、余程の達人でもないかぎり、悪人には対処できないが、防ぐことはできる。今まで述べてきたように、自分を鍛練し、平常心を養わなければならない。先人達が説いた柔術の身の鍛練法を見習い、現代を生き抜いていかなければならない。
後注
1) 松田、1頁
2) 同上、2~3頁
3) 同上、3~4頁
4) 塩沼、19頁
5) 石井、17頁
1)細川景一 月刊 武道 武道の可能性を探る 日本武道館 2014/1月号
2)石井直方 月刊 武道 武道の可能性を探る 日本武道館 2014/ 3月号
3)加藤純一 兵法家傳書に学ぶ 日本武道館 2003年
4)松田隆智編 秘伝日本柔術 新人物往来社 1979年
5)塩沼亮潤 月刊 武道 武道の可能性を探る 日本武道館2013/6月号
6)藤堂良明 武道文化の研究 渡邉一郎先生古希記念論集刊行会編 代表 入江康平 第一書房 1995年
- 2014/10/28(火) 21:25:53|
- 昇段審査論文
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1.はじめに
大石神影流剣術の指導における留意点について述べる。
本論文は大石神影流剣術を稽古するものが正しい道筋で上達していくため、指導者がどのような点に着目し、どのように振る舞うべきかを論じるものである。
2.個人に応じた指導
大石神影流剣術の指導において、門人全員に画一的な指導を行ってはならない。
人間の心身は個々人によって異なる。身長、体重、性別、年齢、身体能力、性格、武道経験の有無、武道以外の運動経験の有無、など。あらゆる条件が異なっているのが当然である。
個々人の特質による違いの例として、以下のような状況が考えられる。
・腕力が弱い者は力で剣を振る事は無いが、腕力が強い者は力で振ってしまう。
・剣道の経験がある者は竹刀の振り方で剣を使おうとする。
・素直な性格の者はこちらの指導をそのまま理解しようとするが、頑固な性格の者は自分の価値観に当て嵌めて理解しようとする。
同じ人間は一人としていないのに全員に同じ指導を行っていては、流派の教えを正しく理解させることは不可能である。個人の特質を良く見極め、当人が大石神影流剣術の稽古における正しい道筋を進んで行けるように導き、間違った道筋に入ろうとしているときには正しい道筋に戻すような指導をしなければならない。
よって、集団教授法による稽古は不可能であり、指導者と門人のマンツーマンでの指導が必須だと考えられる。
3.基本を身に付けさせる
初心の段階で基本をしっかりと見に付けさせることは大石神影流剣術の指導において最も重要なプロセスである。基本が身に付いていなければ、その上に成り立つ技術を理解できるはずはなく、正しい道筋で稽古をしていくことは不可能になってしまうからである。
大石神影流剣術における基本とは主に以下の事柄を指す。
・無理無駄が無く、調和が取れている
・肚、臍下丹田を中心に全身が統一されている
・すべての動き・発声は呼吸に乗せて行う
初心の段階において、これらを理解し、稽古の正しい道筋に入るためには礼法、歩法、構え、素振りなどの基本稽古を繰り返し行い、しっかりとした基礎を身に付けさせるべきである。以下にこれらを指導する際の留意点を述べる。
(I)礼法
大石神影流剣術で礼法といえるのは神前の礼くらいで、これは極めてシンプルなものだが、正しく稽古すれば基本の習得に適した動きである。
留意すべき点としては、天から降り脳天から左右の脚の真中までを貫き地面の下に至る流れ、すなわち重力に支えられて立っているか、体を落としていくときは脚を曲げるのではなく、体が緩むことによって自然と体が落ちていくのか、に気を配る必要がある。
重力の働きと大地に身を委ねて立つことはあらゆる動きの基点であり、他の動きの稽古に与える影響も大きく、これを理解することは極めて重要である。
(II)歩法
剣を持たずに、あるいは剣を構えて前後に歩くことはあらゆる攻防の動きに繋がるものであり、極めて重要な基本稽古である。
礼法と同じく重力の流れを感じ、大地に体を預け、どこにも力みなく立てているか、歩く際は地面を蹴って進むのではなく、重心の移動によって進退できているのかに留意する必要がある。
(III)構え
構えが正しく取れていなければ、その構えから始まる攻防の動作も当然正しいものにはならない。基礎がしっかりと身に付くまで繰り返し稽古させるべきである。
構えにおいて留意すべきは完成形ではなく、構えるまでのプロセスである。小手先の操作で剣を移動させるのではなく、肚を中心とした動きで構えることができているかどうか、呼吸に乗せて動けているかどうかが重要である。
(IV)素振り
素振りも構えと同じく、腹を中心として動き、呼吸に動きを乗せることが重要である。吸う息に乗せて上段に振りかぶり、吐く息に乗せて中段まで振り下ろす、このように動けているかどうかに留意すべきである。
4.駄目な動きを理解させる
下手な動きと駄目な動きとでは明確な違いがある。下手な動きはレベルが低いが方向性は正しく、いずれ上達可能な動きであり、駄目な動きは方向性が異なり、いくら繰り返しても大石神影流剣術としての上達に結び付かない動きである。また駄目な動きのほとんどは、大石神影流剣術の稽古を始めるまでの人生で当たり前に身に付けてきた極めて常識的なものであることが多い。大石神影流剣術やその他の古武術の動きは江戸時代以前の日本の生活習慣が前提となっており、衣食住のあらゆる条件が江戸時代以前と異なる環境で育ってきた現代人の場合、身に付けている駄目な動きの割合も江戸時代以前と比較して大きいと考えられる。
大石神影流剣術の稽古は全く新しい技術を身に付けていくのではなく、既に身に付けてしまった駄目な動きの一つ一つに気付き、理解し、取り去っていくプロセスに費やす時間がその大半となる。駄目な動きは本人にとって当たり前のものであり、無意識に行っていることが多いため、気付くことが難しい。何が駄目な動きなのかを理解できるまで指導する必要がある。
5.悪癖を身に付けさせない
前項の「駄目な動き」を理解・修正できないまま稽古を進め、その動きで流派の技を行うようになってしまうと後から正すことは難しい。そのように悪癖として身に付いてしまった動きを正しい動きに修正するのはそれを身に付けるときの何倍もの労力を必要とする。一旦身に付いてしまった動きは当人にとって当たり前のものであり、それを悪いものだと認識し直し、捨て去るのは非常に困難な作業だからである。
駄目な動きを行ってしまいがちな原因の一つはそれが「実感を伴う動き」だからである。力を込めて剣を振った、力強く地面を踏みしめた、といった自分が動いたという事をしっかり認識できるような動きをしたいと思ってしまうものだが、肚を中心として無理無駄なく動いた場合、体に実感は残らないものである。ある程度稽古が進んだ段階の者でも実感を求めて駄目な動きをするようになり、それが悪癖として身に付いてしまう危険は常に存在するので、注意しなければならない。指導者は門人が駄目な動きをしていないかに気を配り、悪癖を身に付けず、正しい道筋で上達していけるよう留意する必要がある。
他に悪癖として身に付きやすいこととして「手順を追ってしまう」ことがある。初心の段階では仕方ないことだが、ある程度身に付いたら手順に囚われていてはならない。実際の状況は手順通りに進むものではなく、敵対の意思を持つ相手は自由に考え、自由に攻撃を仕掛けてくるものである。それに対処するにはこちらも自由でなければならない。どのように状況が変化しても自在に対処できる体の働きを養わなければ、大石神影流剣術において上達したとは言えない。手順に沿って稽古しながら、どのようにでも変化できる動きを目指すべきである。門人が手順を追う傾向を見せ始めたら、指導者はそれを直ちに戒めなければならない。
以上のように悪癖とは流派が目指している動きとは逆の方向性を持った動きを指すものだと言える。門人がそれを身に付けることが無いように気を配らなければならない。
6.言葉による指導は最小限とする
言葉による指導は簡単にイメージを伝えることができ、状況によっては有効に働くものであるが、最小限に控えるべきである。
言葉の解釈は個々人が身に付けてきた知識・価値観によって異なるものであり、必ずしも指導者の意図した通りに門人が捉えるとは限らない。また人間が完全に理解できるのは当人が到達しているレベルのことまでであり、自分ができないことは言葉で聞かされても正しく理解できない場合が多い。
誤ったイメージを植え付けてしまえば、間違った方向へ導くことになり、上達の妨げとなってしまう。このようなことから、言葉による指導は補助的に用いるに留めるべきである。
7.想定を正しく理解させる
動きの意味合いを正しく理解していなければ、正しい道筋で稽古することは不可能である。構えや手数の想定を理解して稽古しなければ、それらに込められた教えを汲み取ることはできない。指導者は門人が想定を正しく理解して稽古を進められるよう導かなければならない。
(I)構え
構えの稽古において留意すべきは何故その姿勢を取るのか、それに込められた意味は何かを理解させることである。以下に挙げるものは大石神影流剣術の特徴といえる構えであり、これらを正しく身に付けることは流派の教えをより深く理解することに繋がるため、非常に重要である。
(I-I)上段
兜の前立てを避けるため、頭上に掲げず、額の上辺りに振りかぶる。また小手を切られにくくする構えでもある。
(I-II)附け
突き技で有名な大石神影流剣術を象徴する構えであり、これを正しく身に付けなければ大石神影流剣術を修めたとは言えないほど大事な構えである。
切先は相手の左目を指向し、左手は柄頭をくるむように保持する。最も大事なことはいつでも相手を突けるように切先が生きて働いていることである。
(I-III)下段
下から相手を攻める構えであり、ただ手の位置と切先の高さを下げるだけでは大石神影流剣術の下段とは言えない。
中段に構えているときよりも更に下肢が緩むことにより自然と切先が下がるのでなければ、求められている働きをなす構えにならない。
(I-IV)脇中段
剣道や他流派で八相と呼ばれる構えに近似した構えであるが、弓を引くかのように右腕が地面と水平になるように構えるのが特徴である。剣道・他流派の剣術の経験がある、またそうでなくても八相という構えを知っている門人には八相との違いをよく理解させる必要がある。
(II)手数
手数の稽古においてはただ手順を追うだけの稽古をさせないのはもちろんだが、想定に込められた流派の教えを理解できるよう導くことが大変重要である。
以下、全ての手数に共通する留意点について述べる。
(II-I)最初の構え
ほとんどの手数は中段の構えを基点として、そのまま中段で、あるいは他の構えに変化してから間を詰める構成になっているが、ただそういう手順だからと思って漫然と構えてはならない。最初に構える時も対敵の関係性の中で相手の働きに応じて構えるものであり、攻防は手数の手順に入る以前から始まっているのだと理解させなければならない。
(II-II)自分勝手に動かない
手数は対敵の技術を学ぶためのものであり、当然だが相手がいるのが前提である。そのため決して自分勝手に動いてはならない。相手の攻めに応じるにしろ、こちらから仕掛けて相手の反応を引き出すにしろ、相手の状態を無視して技を仕掛けては手数は成立せず、それに込められた教えを学ぶことはできなくなる。
手順を覚えた者は早くその手順を完成させたくなり、相手を無視して動きがちなものだが、そのような傾向は厳しく戒めなければならない。
(II-III)残心
手順が一段落したからと気を抜いてしまっては手数の稽古は意味の無いものになってしまう。実際には相手が再度仕掛けてくるかもしれず、他の敵がいる可能性もある。手数の稽古を通して学ぶべきものは何が起きるかわからない状況で自由自在に対処できる心身の働きであり、そのためにはしっかりと残心が取れているのかに留意すべきである。
(II-IV)途切れるところは無い
これまでの項目で述べたように手数の稽古はその手順の前後にも気を配らなければならないものである。常に状況がどのように変化しても対処できるような心の状態でなければならない。
複数の手数を連続して行う場合は、一つの手数の手順が終了したところで気を抜いてしまいがちなものだが、当然そのようなことがないように指導する必要がある。
8.知識を身に付けさせる
大石神影流剣術は江戸時代から続く伝統文化であり、流派自体の歴史、土地柄・同時代の出来事などの流派が生まれた背景、用いる稽古道具の特徴、などの知識を学ぶことも重要である。
また他者を傷付けるために用いることも出来る技術であるため、その本質を知り、決して悪用しないよう、しっかりした精神的背景、倫理観・道徳観を身に付けるためにも流派にまつわる知識だけでなく、様々な知識を学ぶことが大切である。
実技には興味があっても知識に興味を持たない者は少なくなく、ある程度専門的な基礎知識が無いと理解が難しい部分もあり、一朝一夕に見に付くものではない。指導者は実技の教授以外にも折に触れて知識の学習を促していかなければならない。
流派の歴史には興味が持てなくても、歴史上の偉人には興味があり、その繋がりから興味を引き出せる場合もある。様々な方向から門人の興味を引き出せるよう、一人々々と会話することや、色々な質問に答えられるよう指導者自身の知識を増やしていく努力も必要である。
9.常に最高の技を見せ、向かうべき方向性を示す
門人にとっては普段目にする指導者の技がそのまま稽古の指針となるため、指導者は常に己の最高の技を見せることを心掛けなければならない。
指導者が駄目な動きを示してしまえば、門人が素直であればあるほど、駄目なまま取り込んでしまう。先述したように一度身に付いた駄目な動き、悪癖を取り除くことは難しく、正しい方向へ修正するために大変な労力を要する事になってしまう。
指導者は可能な限り正しい方向性を示す必要があり、そのため指導者自身が常に正しい方向へ向かって上達し続けるよう不断の努力が必要である。
当然のことだが、門人や見学者などに良いところを見せよう、などという考えや、自分の方が上だろう、というような慢心は厳に慎むべきものである。
また門人には現在の指導のレベルではなく、その目指すところを目標にすべきであることを理解させることも重要である。先の述べたように指導者といえども、常に上達し、変化し続けているべきものであり、一時の状態を参考にし続けては、いずれそのレベルに停滞してしまうことになるからである。
10.打太刀をするとき
門人の相手に立って打太刀をするときはゆったりとした呼吸に乗せて動くことが重要である。対処できないような早さで動いてしまえば、門人は無理に合わせようとするため、正しい動きを学ぶことが出来なくなってしまうからである。門人の動きを引き出し、手数の理合を学び取れるよう導く働きをしなければならない。
また門人が手順を間違えても慌てずに対処しなければならない。指導者自身がどのような状況でも対処できるような心身の働きを身を以って示すことが大切である。そのためにも前項で述べたように指導者自身が常に上達し続ける努力が必要である。
11.おわりに
以上、大石神影流剣術の指導における留意点について述べた。
様々な観点において留意すべきことを述べたが、最も大切なのは流派の教えを正しく伝え、正しい上達の方向へ門人を導いていくことである。
誤った指導を行えば、間違った方向に門人を導き、長きにわたる伝統を歪めてしまいかねない。一度誤った形が伝われば、それを正すことは極めて難しいものである。
伝統を正しく伝え、大石神影流剣術を後世に伝え残すためには指導者自身が正しい方向を向いているのか常に自問し続ける必要がある。
参考文献
1)森本邦生:貫汪館 本部ホームページ
2)森本邦生:「道標」
- 2014/10/29(水) 21:25:50|
- 昇段審査論文
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本年度の昇段審査の論文を載せていきます。
大石神影流剣術初段の論文です。
武道における礼と大石神影流の礼法について
1 はじめに
「礼に始まり礼に終わる」と言われるように、武道には、古くから礼という言葉が存在する。今日一般に使用される「礼」には、作法・制度など社会の秩序を保つための生活の規範、敬意を持った振る舞い、またお辞儀などの意味が含まれている〔新村出 広辞苑(礼)〕とされる。
それでは「武道における礼」とは、挨拶や礼儀作法といった私たちが日常で意識する礼と本質的に違う武道独特の意味を持つものなのか。戦う技術である武道と礼とはどのような関係なのか。また、大石神影流の礼法に礼がどのように織り込まれているのか。
本稿では、これらについて歴史的経過を紐解きながら、武道とりわけ大石神影流にどのように向き合っていくのかという観点から標題について考えるところを述べたい。
なお、武道という言葉を用いるにあたり、剣道や柔道と江戸期以前から伝わる剣術や柔術とを対比させた「武道・武術」という言葉の使い方はここでは考慮しない。
2 礼の持つ意味
「礼」の字源を尋ねると、旧字の「禮」について、「醴酒(甘酒)を用いて神に饗するときの儀礼をいう」〔白川静 字統(礼)〕、「神に事えて福を致す所以なり」〔説文解字〕と字義解釈なされるように、本来宗教的な観念をあらわすものとされる。そして、この祭祀の礼は、やがて社会生活全般に対応するための形式化が図られ、社会の制度や秩序原理としての礼となったと言われている。理想国家としての周王朝の再現を目指して徳治主義を唱えていた孔子にとって、礼とは、仁(思いやり・慈しみ)を基本とした道徳基準であり、社会に秩序をあらわすための規範であるとともに、為政者の素養とされる(末次美樹 「武道における礼の教育的価値」駒澤大学総合教育研究部紀要第3号 2008年 p309-310)。孔子を始めとする儒家にとって、礼は単なる形式的な制度や秩序ではなく、理想的な国家を運営するために、理想的な人間として備えておくべき徳目であった。
また、「武」の元々の意味は、武器である戈を手に力強く地面を踏みしめて進むこと〔白川静 字統(武)〕であったが、これが、春秋戦国時代以降に儒家によって徳治主義が唱導されて以降、戈を止めることと解釈され、武は「威嚇」から「威徳」へ思想的転換を遂げ、単なる暴力的な武という意味から普遍化された。(杉江正敏「日本の武道」日本の武道-日本武道協議会設立30周年記念-日本武道館編 平成19年 p37)
こうした礼・武の概念は、やがて日本に伝来し、その後も大陸から様々な思想的な影響を受けつつ、独自の展開を遂げていく。
時代が下り、武術の実用期だった戦国期を経て、平和で安定した江戸期になると、武士は為政者にふさわしい人間的素養を儒教などの学問とともに武術によって習得しようとした。江戸時代には「武道」という言葉は、戦う者の生き様・流儀をあらわす「武士道」と同じ意味で用いられ、今日の剣道・柔道という「武道」は、当時は「武芸」「兵法」などと呼ばれていた。つまり、武士の生き方をあらわす時には「武士道」「武道」という言葉が使われ、武士が身につけるべき戦いの技術を示すときは「武芸」という言葉が使われていたという。(菅野覚明「武士道から武道へ」日本の武道-日本武道協議会設立30周年記念-日本武道館編 平成19年 p41)
武芸の観点から見れば、徳川幕府の文武兼備政策の下、戦う技術としての威力を内に秘めた武の技法を練磨し備えることが、無用の争いを避けるための抑止力になるとされた(杉江正敏「日本の武道」同上p37)という部分もあったろうが、ここに武士が修めるべき道として、武と礼の密接不可分な「武士道」という概念が完成したといえるだろう。
3 武道における礼と礼法
日本人の精神構造を広く欧米に紹介した新渡戸稲造は、その著「武士道」の中で、「礼とは、社会秩序を保つために人が守るべき生活規範の総称であり、儀式、作法、制度等を含むものである。また礼は、儒教において最も重要な道徳理念として説かれ、相手に対して敬虔な気持ちで接するという謙譲の要素がある。他人の安楽を気遣う考え深い感情の体現化であり、形だけの礼を虚礼とし、真の礼と区別しなければならない。」(新渡戸稲造「武士道」三笠書房1997年p55-64)と述べている。
真の礼は心と言動が調和した状態でなければならない。儀式や作法だけ繕っていても相手に伝わることはない。また、たとえ「礼の精神」を内面に持ち合わせていても、それを適切に体現できなければ相手に伝わることはない。「礼の精神」と「礼を表現する作法たる礼法」の両方が備わって初めて礼を体現できるということである。
大石神影流剣術を指南されている貫汪館では、この礼と礼法についてどのように説かれているのか、貫汪館HPから礼法に関して表明されている箇所をいくつか挙げてみたい。
武道は人との関係において成り立ちます。「和」がない武道は暴力に過ぎません。相手との「和」を保たせる基本が礼です。
神を畏怖し敬う心がなければ「神拝」は形だけのものにすぎません。神を畏怖し敬う心があれば神前において無作法な振る舞いをすることはありません。たとえ、その場における作法を知らなくても不敬な動きにはならず。神との関係は保たれます。
稽古も同じです。相手をたんに稽古の対象と考えていては見えるものも見えてきません。見えるものが見えてないのは「我」中心で、和は存在しないからです。見えるものが見えないというのは、相手も自分も、またその手数・形を工夫された流祖や、それを伝えてこられた代々の師範の心も見えていないということです。
また、師に対する畏怖の念や尊敬の念がなければ、見えるものも見えてきません。話されたことも聞こえず、示されたことも見えません。
(道標「礼」2014/12/15)
礼法では「心のある礼法が正しい手順で行える。」ことを審査の目安としています。
「心のある」とは形式的ではなく、神前であればそこに神がおられるという意識があるのか、刀礼は刀魂に頭を下げているのか、また稽古相手を敬う心はあるのかということを意味しています。稽古で形式的に礼を行っているだけでは身につかないと思います。
「正しい手順で行える。」とは間違えずに行えると言うことなのですが、~礼に心がこもれば同じ手順を行ったとしても一つ一つの動きが本質的に異なったものとなります。
(道標「昇段審査会に向けて(礼法)」2014/08/18)
武道とは戦う技術であることを根本とするだけに、礼がないと互いに傷つけ合うためだけの技術に堕してしまう。武道が真に崇高で価値あるものであるためには、挨拶や礼儀作法という日常の礼を超えて、神への畏敬、流祖や師への敬意、稽古相手の尊重と自らの謙譲、感謝の心など広く深い礼の認識が求められる。そして、これらの認識は、礼法として凝縮され、同時に稽古におけるすべての所作に反映されている。心なき礼では武道に求められる道が開かれることはない。
次に具体的な礼法の所作に着目した記述を掲出する。
大石神影流剣術では礼法は簡素なものであるため、それほど時間を掛けて稽古することはありませんが、神前に折り敷いて礼をする動きは簡単なようですがよほど稽古せねば出来るようにはなりません。この礼がただしくできるようになれば、立姿勢での下半身の緩みはできるようになるはずです。
(道標「礼法」2014/06/08)
大石神影流の礼法は、「右足を引いて膝を着き、両手を床に着ける」というものである。静かに重心が下りながら右足はするすると引かれ、膝はいつの間にか床に着く、上体を折り曲げるのではなく、沈むように両手が床に着く由、稽古日記に表現されているように、文字に即した動きを体得することは初心者には非常に難しく、「立姿勢での下半身の緩み」といった大石神影流で求められる身体操作の要諦があらかじめ要請されている。
初心の内に、これを単なる儀式と考え、手順をしっかり確実にという事に主眼を置いて稽古してしまえば、後々の自分自身の稽古はそのレベルを基準にしてしか進みませんので、上達は困難を極めます。自分で初心に戻って礼法から稽古しなおさなければならないのですが、人の心はそう素直ではなく、手順を覚え、体に染みついたものを再度壊してやり直すことほど難しいものはありません。神に礼をする、刀に礼をする、師に礼をする、互いに礼をするのは礼の心が大切であり心なくして礼の形を作ってしまえばそれは礼ではありません。目的のない動きなのですから、それ以後いくら形を稽古したところで形のみを求めてしまう癖からは逃れることはありません。~
戦う技術ではない、たかが礼法ですが、それ以後のすべてをきめてしまいます。
(道標「礼法」2012/09/04)
さらに、貫汪館では、礼法の手順を外形的になぞるような「心なき礼」は論外として、丁寧に確実に手順を行う姿勢すら「礼の形を作る」ことは「目的のない動き」として排斥される。手順に心を置いた瞬間に、礼から心が離れているというのである。手数(形)の稽古においても同様、「形のみを求めてしまう癖」により、本物の武道に似て非なる手数という形枠を上手に演技するだけの技に陥ってしまう。礼法や手数の稽古における心を置く位置は、かくも繊細で玄妙な境地が求められている。
4 おわりに
これまで述べてきたように、私たちが今日、武道とりわけ大石神影流を稽古するに当たっては、「心のある礼」を志向した高度な内省と自律が求められる。その礼を体現する形が礼法であり、礼法の稽古により「礼の心」を磨く必要がある。しかし、礼法という形に囚われては「礼の心」はするりと逃げてしまう。無形の形とでもいうような境地を模索し続けなければ本質に近づくことには繋がらない。
私は、こうした限りない営為に魅かれ憧れているのだと思う。初心を胸に師に範を仰ぎ、稽古の道を歩んでいきたい。
≪参考文献≫
1)末次美樹「武道における礼の教育的価値」駒澤大学総合教育研究部紀要第3号 2008年
2)菅野覚明「武士道から武道へ」日本の武道 日本武道館編2005年所収
3)杉江正敏「日本の武道」日本の武道 日本武道館編 2005年所収
4)新渡戸稲造「武士道」三笠書房1997年
5)前田勉「山鹿素行における士道論の展開」愛知教育大学日本文化研究室「日本文化論叢」2010年
- 2015/11/22(日) 21:25:00|
- 昇段審査論文
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私が若い頃に取り組んだ経験がある武道・競技を振り返ると、勝敗にこだわり相手を圧倒する事を奨励されていた為、少々の反則を使ってでも、いかにして勝ち星を挙げるかに腐心し、礼などは形式的な決まり事程度の認識しか無かった様な気がします。
勝てばガッツポーズ、負ければ地面に物を投げつける。内容が悪い試合をすると勝ったとしても頭を叩かれる。これは相手への敬意と品位に欠ける行動であったと思い出されます。
ホームラン王の王貞治氏はホームランを打っても喜びを表現せず、抑制が効いた表情で坦々とベースを踏んでいったといいます。失意の相手投手を慮っての態度でこれこそ礼節と言えるかも知れません。相撲でも外国人横綱が、勝った喜びを表現して品格を問われるという事がありました。観客受けを狙って闘志剥き出しのパフォーマンスをしたり、相手を小馬鹿にして挑発したりするとテレビの視聴者には興味を持たれるでしょう。格闘技では興行を盛り上げるファンサービスの一環ですが、青少年が見るとどう思うでしょうか。将来有望とされる若い選手が、大人のコマーシャリズムに迎合してインタビューで、大言壮語するのを見るにつけ、客は呼べても尊敬される事はないのではないかと、残念に思う次第です。武道を知らない外国人選手であっても、立派な試合をする選手は風格と威厳を備えています。相手が挑発しても、汚い反則をしても動揺する事なく毅然に対処します。少し脱線しましたが「礼」という言葉を知らない外国の方であっても、質が高い方は相手を尊重し切磋琢磨しあう気持ちをお持ちです。「礼」の中には「謙虚」というものがあります。遠慮深い、引っ込み思案ということではありません。これ見よがしに自分の実力、もしくは誇張した実力をさらけ出すのではなく、心身に実力を持ちながら、いたずらに表に示さないことこそ「謙虚」であり礼法の基礎と考えるべきだとされています。「武」という文字は「矛を止める」といわれています。単に矛を持っていても使用しないという解釈もありますが、常に技量を磨きながら、それを表に出さない、謙虚とは実力に裏付けられる事によって「礼道の要は心を練るにあり、礼を以って端座すれば兇人剣を取りて向かうとも害を加ふること能はず」と言われるように、座して存在するだけで攻撃をさせない威厳を得る事が可能であると新渡戸稲造が「武士道」の中で小笠原清務の言葉を引用しています。
武道は礼に始まり、礼によって終わると言われていますが、ただ初めと終わりにお辞儀をする事だと考える人は意外に多いのではないかと思います。かくいう私もそうでした。先生に対して稽古を求める時は、稽古中に常に先生に対する礼を保ち、稽古の終わりには心から感謝を表す、そのような稽古でなければなりません。刀礼の際は太古から現在まで続く刀を護り、発展させた数多の先祖と宿った魂に、自分が使わせて頂く事に感謝を表します。日本には八百万の神が存在します。神は至る所に遍在します。意識を持って感謝せねば感じることはできません。礼法は敬いの心を形で表すものであり、その動きには無駄がなく合理的で折り目正しく、且つ優雅であり安定感が備わったものでありたいものです。
小笠原流の「修身論」では「本朝武家の六芸は、礼軍射御書作なり。これすなわち糾法の立つところなり。そのことに替わるといえども一理は不断にして暫くも止まず。しかも向上のところは常に至るになおまた一に帰す。故に常の一字を大事にして始終の修行あるべし。かくの如きといえども、礼は六芸の甲にして、こと自然不断なり。もっとも軍射御等の入門もまたこの内にこもれり」とあります。礼こそ六芸の最優先事項であり、始終不断の修行が求められるとあります。礼の心を求める事は、続く芸の修行を含むとも述べられています。礼の思い入れ薄ければ、形をなぞるだけで続く稽古にも向上はありません。礼の修行が「一字万事、万事一事」あらゆる修行に通じるとも考える事ができます。「例えば一つのことをよく自在にする時は、万事に通ずるなり。万事もまた一事に通ずるなり。何とすれば、心不変にして気の切れることなく、詰まることなく、進むことなくして、一事に達せば、一にあっても少なきことなく、万にあっても多いなることなきものなり。しかれば一字万事、万事一事なるべし」始まりの礼がおろそかであって、続く稽古が向上する道理は無いということでしょうか。わたしも反省すべき部分随分が思い当たります。もっと言えば、道場への入り方、稽古に向かう道すがら、あるいは日常生活から「一字万事、万事一事」を意識しなければなりません。
礼の気持ちを持ち合わせていたとしても、それを他人に伝える方法(作法)を知らなければ相手に伝わりません。心と表現する作法の両方が備わって礼となるのではないかとも述べられています。人の心はそのまま見せることが出来ないので、心を人に見えるように様式化したのが「形」であり「形」に託して心を伝えれば、見るほうも又「形」を通じて心を受け取るものではないかと思います。小笠原清忠の『武道の礼法』では礼法は実用的であり効果的でなければならないとあります。無駄な動きを省き、必要最低限の機能を使用する事が大切で、この二つが自然にできるようになると、見る人には美しく調和が取れていると感じられる様になるとあります。まさに大石神影流剱術に通ずるものではないでしょうか。礼法と剱術が分離したものと考えてはいけません。大石神影流剱術の素振り、試合口の手順のみを意識していては、真の理解を得ることは出来ないのではないかと考える事ができます。無理無駄ない動きは礼法から始まり、心身の硬直を離れ、形の中にあって自由の獲得を目指すことが稽古の本質なのかも知れません。
小笠原流礼法に4つの教えがあります。
「正しい姿勢の自覚」「筋肉の働きに反しない」「物の機能を大切にする」「相手に対する自分の位置を常に考える」
まったく大石神影流剱術の要と置き換えて問題があるとは思えません。この事からも礼法と剱術が通じていると理解してよいと考えられます。礼法は「形」といわれますが「かたち」には「形」と「型」があるといいます。「型」は心なき鋳型で手段に過ぎないと述べられています。「形」は多くの先祖の精進と時には命を賭した経験の蓄積によって導き出された真理です。一個人の浅はかな感覚ではなく、脈々と受け継がれた先達の英知が昇華されたものです。「形」に対して、この様な所作に意味があるのか。この動きは非効率ではないか。などと、一個人が考えるのは愚かな事です。先達の教えに静かに耳をすますが如く、「形」に体を寄り添わせ、素直に動く事で尊き声を聞く事ができるのではないでしょうか。初心は手順を追う事のみに必死ですが「型」の鋳型から離れ、「形」によって囚われのない自由の獲得を目指さなくてはなりません。礼法も大石神影流剱術も「型」の鋳型ばかりを稽古しても心と体が修まらなければ、思慮浅く軽々しい所作となり、穏やかで慎み深い所作とは言いがたいのものとなるでしょう。しかし修身とは一朝一夕で身につくものではなく、繰り返しの稽古で「形」の声を聞き、品格と共に徐々に身に着けていくものであり、そうありたいと考えています。
【参考文献】
小笠原清忠『武道の礼法』日本武道館 初版第7刷 2014年
- 2015/11/23(月) 21:25:00|
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武道における礼と大石神影流釼術における礼法について
1 はじめに
武道は、「礼に始まり礼に終わる」といわれます。
たとえば剣道では、まず立礼し、互いに抜刀、剣を構え、正しく蹲踞します。最後に勝敗にかかわらず蹲踞、納刀、立礼します。
このように武道では、最初から最後まで一貫して礼に則していることが求められますが、何より礼は互いの誠心がそれぞれ心に響くものであることが肝要なのではないかと思います。
2 武道の礼と大石神影流釼術における礼法
○武道の礼
武道は「礼に始まり、礼に終わる」と言われていますが、たとえば剣道は、特に礼儀作法を重視しています。
近年、行われた世界剣道選手権において、ある出場国は、袴を独自にアレンジしたり、試合にあっては、ジャンプしての面打ち、負けると蹲踞、礼を拒否など本道から外れ、武道の本質を見失った見苦しい態度が見受けられました。
全国高校剣道大会では、一本取った瞬間に「ガッツポーズ」をして取り消された例もあります。
武道においては、「礼に始まり礼に終わる」という教えは、単に始まりと終わりにお辞儀をするだけという意味ではなく、まずどのような武道であっても、道場に入るとき必ず礼をします。そして、いざ相手と対する時、たとえば剣道では、まず立礼し、互いに抜刀、剣を構え、正しく蹲踞します。最後に勝敗にかかわらず蹲踞、納刀、立礼します。
さらに先生に対し稽古を求めるのであれば、これから教えを請いますという礼に始まり、稽古の中に、その先生に対する礼というものが常にあって、全身全霊でぶつかっていき、そして稽古の最後には、心から「ありがとうございました」という挨拶ができる、そのような稽古ではなくてはならない。そこに「礼に始まり礼に終わる」という本当の意味があります。
「礼」は礼儀作法、礼儀、作法、礼法など様々に使用されますが、広辞苑によると、礼儀とは、敬意をあらわす礼法・礼の作法。作法とは、事を行う方法・起居・動作の正しい方式。 礼法とは、礼の作法・礼儀。となっています。礼儀と礼法は、礼の作法を意味しており、作法は、礼には関係なく 起居・動作の正しい方式となります。
武道の礼法の歴史は、仏教伝来から始まり、奈良時代・平安時代は、様々な仏教が発展し、国家や貴族のための儀式として主流をなしていました。
しかし、鎌倉時代になると武士が貴族から権力を奪い力を持ちました。
この時代に中国より禅宗(臨済宗、曹洞宗)が伝えられ武士に好まれていたようですが、 南北朝・室町時代になると、武家と仏教界の接近は貴族文化や武士文化に大きな影響を与えるようになり、室町幕府第三将軍足利義満時代には、「武士の礼、武士の作法」が重要視され確立されたようです。
また、この時代に禅宗の茶の湯の影響を受け、千利休などによる茶道の完成によって礼儀作法も武家社会に影響を及ぼしました。
このようにして、室町時代に「武家礼法」として完成された礼法は、軍礼に限らず常礼においても、武士として守るべき礼儀作法があり、また武道の修練の中にも礼儀作法は厳しく位置付けされ確立されてきたのです。
武家社会の日常生活そのものが「武即礼」であり、従って、武術の修練を行えば自然に礼儀作法が身に付き、武士の守るべき秩序や道徳が身に付くように整理されていたと思われます。
このようにしてできた礼儀作法の伝統を守り続けてきた結果、現代においても武道を修練すれば礼儀作法が身に付くと言われているわけです。
ここで剣道の礼儀作法について、礼儀作法は、相手に敬意をあらわすものですが、武道の礼儀作法には護身を踏まえた作法が多く見られ、例えば、「正座をするときには左足から座り、立つときには右足から立つ(左座右起)」や「正座の礼法で座礼を行う時、左手を先につき、利き腕の右手を後につき頭を下げる。
頭を上げる時には、右手を先に戻しその後に左手を戻す」他にも、「剣道衣の着用法では左手から通し、袴を着ける時は左脚から通す」、「剣道具の小手をつける時においても、左手からつける」、利き腕である右手(右脚)は、油断を怠ることなく着用する。
脱ぐときには、「利き腕である右手(右脚)を先に脱ぎ、その後に左手(左脚)脱ぐ」などがあり、武士の社会においては、礼をおこなう相手に対しても油断を怠らない護身の動作によって組み立てられています。
剣道において、試合の開始時や終了時に行われている「正面への礼」は、審判長が答礼を行ったり、役員席の後ろに掲げられている「国旗」や「正面の壁」に対して 礼を行ったりして様々ですが、そもそも、修業を行う場所は道場であり、稽古前・後に清掃を行い場内を清め、道場の中央には神棚を設けて神を祀り神聖な場とされています。
神棚には、天照大神を中心に武道の神様と言われている鹿島神宮(建御雷之男神)・香取神社(経津主神)や八幡宮・氏神などを祀ってあります。
修業の場・湧き水・神木・地鎮祭などに、しめ縄を張りその場を清め祈るのは、日本の伝統的な慣習であり、日本人の心を育ててきましたが、道場において稽古前に最初に神前への礼を行うのは、稽古時や試合時に怪我や事故がないように祈ったり、我々日本人の先祖(神)に少しでも近づこうと努力することを誓ったりするためや、神の前で試合を行うのだから「正々堂々と戦う事を誓う」や「日々の修業の成果を披露する」など様々な素朴で素直な気持ちを表す礼です。
このような気持ちで修業することが結果的に、相手を「思う」、「敬う」、「感謝」、「物を大切にする」などの「心」が生じるのです。
ただ体を曲げた、形だけの礼には意味がありません。相手に対する気持ちが心になければなりません。
礼をするのに、体を屈するという形が先であるのではなく、なぜ礼をするのか、その意味である「気持ち」が先に立つことが大切であり、礼をすることによって、互いの気持ちが響き、この「ひびき」の交流が、礼の意味を生かし、礼の形を生かしてくれるのではないでしょうか。
「武道は礼に始まり、礼に終わる」とは、相手を「思う」、「敬う」、「感謝」、「物を大切にする」などの心とこれらを実行できることが大切であり、さらには着用する袴にも「五常五輪」という精神が宿されています。
袴の表の五つのひだは、
五常(儒教で人が常に守るべき五つの徳目)
・仁 己に克ち、他に対するいたわりのある心のこと
・義 人として守るべき正しい道
・礼 礼儀、礼節を重んじること
・智 物の道理・本質を知り正しい判断をすること
・信 偽りのない忠実な誠の心
五倫(儒教での基本的人間関係を規律する五つの徳目)
・親子の親 親子の思いやる心
・君臣の義 君主として又家臣として守るべき正しい道
・夫婦の別 夫婦それぞれの役割
・長幼の序 年長者は年下の者を労わり導き・年下はの者は年上の人を尊敬する心
・朋友の信 友人を裏切らないこと
であり、裏の二つのひだは、
・忠 忠誠心
・孝 周りの人を大切に思う心
であるといわれます。(また「天と地」、「陰と陽」ともいわれます)
○大石神影流釼術における礼法
大石進種次は、祖父から愛洲陰流剣術と大嶋流槍術の指導を受け、大石神影流釼術を開いたとされます。
種次は江戸に出て、5尺3寸の長竹刀を遣い、突きと胴切りで、江戸の名だたる剣術師家を倒し、種次の子である種昌も、大石神影流を継承した後、江戸に出て、長竹刀で江戸の名だたる剣術師家を倒したとされ、二人ともに江戸で目覚ましい戦績を残したこと、要請により他藩にも指導に出向き大石神影流は対馬藩、土佐藩など多くの地域に伝わったようです。
大石神影流釼術では形を手数といい、長竹刀と突技で有名ですが、剣尖を相手の喉に向け、水平に構えるという、まるで槍術の構えを思わせる「附」という構えから突きを繰り出す、最小限の受けと動きで相手の刀を捌く「張り」など独特の流儀を持っています。
剣道の稽古前後には、全員が並んで正座をし、竹刀を置き、「正座(姿勢を正して)」「黙想」と声をかけるのが一般的ですが、これは床があってこそです。
大石神影流釼術においては、上座(神座)への折敷の礼から、使太刀、打太刀は抜刀、切っ先を合わせていきます。道場稽古ではなく神前であることが想定されているのです。
以前、館長に「現代は腰に刀がある時代ではなく、江戸時代の武術は剣がもとになっており、江戸時代の子ども達は腰に刀がある状態で育ち元服のころから剣術稽古を始める。稽古を始める前にすでに刀の取り扱いになれ、刀の扱い抜き差し、振り方など刀の基本的な用法は教育を受けている。刀を扱う感覚は非常に繊細なものとなる」ご教示いただき、木刀とはいえ真剣同様の扱いであり、使太刀、打太刀は剣を通じて共鳴していくのだと思います。
そして何より大切なのは、力まず正しい姿勢を生むことにあるようです。
人は地の上に立っているのであり、自然に重力が働いているなかで重心を保って立っており、ほんの少しの挙動で地に逆らうことなく、自然な姿勢をとることができ、さらには自然な姿勢から、すこし重心を動かすだけで様々な挙動を自然に取ることができます。しかし刀が加わればどうなるのか、構えは、体の開きはなどと考えるまでもなく、刀に身を委ねれば自然と姿勢がとれ、その中心は常に臍下丹田となるのです。
そして刀を振るうときには、神座を意識し神座に刀を向けない、刀に霊性を認めることが大切で、自然、刀が答えてくれるのではないでしょうか。
3 おわりに
人は、真実相手に感謝し、心から尊敬の念を感じた時には、自然に頭が下がるものです。『他者に対しては、礼を持って接する』そんなことは当たり前のことだし、するもしないも本人の品性の問題で、それ以上のことではないと言えるでしょう。
人は誰の奴隷でもない。そんなことのために生まれるものではない。他者に虐げられても屈することない心、災厄に襲われても挫けることのない心、不正があれば正すことを恐れず、獣に媚びず、己という領土を治める唯一無二の君主に。そのためにまず、他者の前で毅然と頭を上げること、そして毅然と構えることができ、そのうえで、相手への尊敬、誠意と共鳴、調和が内在することが礼法ではないでしょうか。
現代剣道は、戦後GHQの監視の下で、建前上は「武道スポーツ」で復興を果たし、
学校教育現場での指導が主流となっているため、そこに宗教色を持ち込むのはタブー視されているようです。
本来ならば「神前に礼」とするところであり、「神様へ修行の成果を見ていただく」気持ちが大切に思います。
大石神影流釼術においては、刀剣は魂を宿し、神座の前で、刀を振るうという崇高な気持ちを忘れてはならないと、また使太刀、打太刀が刀を交えることで共鳴する精神も忘れてはならないと思います。
そのために神前と相手に礼節と感謝、自らの心と体を静かに清らかに、時に気迫をもって正して導くことが剣術における礼法となるのではないでしょうか。
1) 小野不由美 「風の万里 黎明の空」 講談社 初版第1版 2000年10月12日
2) 小笠原清忠 「武道の礼法」 財団法人日本武道館 初版第1版 2010年2月10日
3) 小森富士登 「剣道における礼法の一考察」國士舘大學 武德紀要 第27号
4) 貫汪館ホームページから
- 2015/11/24(火) 21:25:00|
- 昇段審査論文
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武道における礼と澁川一流柔術における礼法について
1 はじめに
武道は、「礼に始まり礼に終わる」といわれます。
あらゆる武道は、道場への入りから、稽古、組手、試合、そして道場を出るまで常に礼を行います。
このように武道では、最初から最後まで一貫して礼に則していることが求められますが、何より礼は互いの誠心がそれぞれ心に響くものであることが肝要なのではないかと思います。
2 武道の礼と澁川一流柔術の礼法
○武道の礼
武道においては、「礼に始まり礼に終わる」という教えがありますが、単に始まりと終わりにお辞儀をすれば良いというわけではありません。
最近行われた柔道の世界選手権で、団体戦で審判の判定に不服があったのか、試合後の一列に並んでも礼をしない、またはちょっと頭を下げただけと、非礼な振る舞いがあったようです。
柔道は武道です。それが武道ではなくスポーツとしての「JUDO」で勝つか負けるかしか頭にないと思われても仕方がない無礼な態度であったようです。
単に始まりと終わりにお辞儀をするだけという意味ではなく、まずどのような武道であっても、道場に入るとき必ず礼をします。そして、いざ相手と対する時、たとえば剣道では、まず立礼し、互いに抜刀、剣を構え、正しく蹲踞します。最後に勝敗にかかわらず蹲踞、納刀、立礼します。
さらに先生に対し稽古を求めるのであれば、これから教えを請いますという礼に始まり、稽古の中に、その先生に対する礼というものが常にあって、全身全霊でぶつかっていき、そして稽古の最後には、心から「ありがとうございました」という挨拶ができる、そのような稽古ではなくてはならない。そこに「礼に始まり礼に終わる」という本当の意味があります。
明治の終わる頃までは、日本語の中で「こころ」が最も多く用いられていたそうです。
日本語には、「心尽くし」、「心立て」、「心置き」、「心配り」、「心入る」、「心有り」、「心砕き」、「心利き」、「心嬉しい」、「心意気」、「心合わせ」、「心がけ」、「心延え」、「心回る」、「心馳せ」、「心根」、「心残り」、「心様」を始め、心が付いたおびただしい数の言葉があります。
『デイリーコンサイス英和辞典』で、「heart」と引くと、「ハートアタック(心臓麻痺)」、「ハートバーン(胸焼け)」を始め、両手で数えられるほどしか心(heart)の付く言葉がありません。
およそ日本文化のかたちは、江戸時代に作られたと言って良く、幕末体制のもとで平和が続く中で、ことさら精神が重んじられるようになり、「武士道」という言葉が生まれました。
戦う武術が武道となった、精神面が協調されるようになりました。
小笠原歌訓に「弓はただ 射てみせたても 無益なり 何とも無くて 気高きぞ良き」という歌がありますが、すべての基本の稽古は礼法であるといっても過言でないでしょうか。
ただ体を曲げた、形だけの礼には意味がありません。相手に対する気持ちが心になければなりません。礼をするのに、体を屈するという形が先であるのではなく、なぜ礼をするのか、その意味である「気持ち」が先に立つことが大切であり、礼をすることによって、互いの気持ちが響き、この「ひびき」の交流が、礼の意味を生かし、礼の形を生かしてくれるのではないでしょうか。
さらに武道における礼法は、正しい姿勢から生まれます。
重ねる稽古の中で、人は地の上に立っているのであり、自然に重力が働いているなかで重心を保って立っている。ほんの少しの挙動で地に逆らうことなく、自然な正座の姿勢をとることができ、さらには自然な正座や立位から、すこし重心動かすだけで様々な挙動を自然に取ることができる。中心は臍下丹田であり、例えば立った姿勢では、
・力学的に安定している
・筋肉に掛かる負担がすくない
が大事ですが、やはり中心には臍下丹田があることが重要です。
この立った姿勢の悪さでは、警察官等に見られる姿勢が代表的でしょう。
明治時代、士農工商という階級がなくなり、誰でも軍人になれる制度ができた時に、なかには教養の浅い子弟もいたため、彼らに集団教育を施す必要から「型に当てはめる教育」がなされました。
そのため、子供のころから自然の中で習熟した歩く、立つという当たり前のことを矯正して、集団の型に当てはめていったようです。
これは非常に効果的な教育方法であり、現在でも世界の軍隊に見られる姿ですが、ほとんどのスポーツで足を平行に踏むことを基本としているように、踵をつける立ち姿勢は、実に無理な姿勢といえます。
踵をつけ足先を開くと、踵に重心が落ちて、上体のバランスを取るために無理な姿勢をとることになります。
「無駄を省き、体を全体的、総合的に使うこと」が大切なら、重心の取り方を間違えた、すぐに疲れる姿勢、何より次の動作に直ちに移動できない姿勢となるのです。
ちなみに(姿勢の悪さが際立つ)警察礼式(国家公安委員会規則)では、「警察礼式は、警察官及び皇宮護衛官の礼節を明らかにして規律を正し、信義を厚くして親和協同の実をあげることを目的とする」と定め、具体的には、
・礼節~礼儀のきまり、礼儀と節度
・規律~人の行為の基準となるもの、秩序・きまり
・信義~約束を守り務めを果たすこと。信を守り義を行うこと。
・親和共同~親和とは親しんで相互に仲よくむつみあう、親しみ結びつくこと。
協同とは心を合わせ、助け合って共に仕事をすること。
とされています。
組織は、上意下達であり、迅速で的確な命令系統が求められます。
集団、部隊として統一した動勢が求められる以上、画一的で不自然な姿勢と成らざるを得ないのでしょうが、ただ、組織の指示、命令等においても、その本質には、礼の心、互いの意識の共有は非常に大切な点でもあると言えるでしょう。
総じて礼法とは、身を修めることを目的とし、身を修めるとは、内面的には心を正しくし、外面的には姿勢を真っ直ぐにすることであり、心と体は、影と光、礼は自分の心と行いを正すもので、それは自ら行動する体に現れる、「礼」とはあくまで抽象的な概念でなく、行動に生きる心そのものではないでしょうか。
○澁川一流柔術の礼法
さて、澁川一流柔術の形は、徒手で徒手や懐剣の仕掛けに応じ、棒で刀に応じ、また棒術などの得物を用いる術から成り、何百という伝承されている形があり、その特徴はすべての形に飾り気がなく、素朴で単純な動きで相手を制するところにあります。
そして、形には、受を制することなく、押し返すのみの動作を特徴とした、「礼式」が設定されており、これは、澁川一流柔術の理念が人と争わないことにあることを示していると言われています。
実際に稽古を重ねる中で、未だ最初に稽古する履形を修練しているところですが、一連の礼式の動作のなかには、座立の姿勢、自然体の構え、間合、目付、呼吸、残心などの基本の要素が集約・集束され、これから履形の形への導入のためのリラクセィションのようにも思うのです。
特に、広げた両腕の指先まで疎かにせず気を張ることの難しさを感じます。
澁川一流柔術の礼式は、自分の心と体を正していく、さらに相手との調和を図っていく儀式のようにも思います。
3 おわりに
人は、真実相手に感謝し、心から尊敬の念を感じた時には、自然に頭が下がるものです。『他者に対しては、礼を持って接する』そんなことは当たり前のことだし、するもしないも本人の品性の問題で、それ以上のことではないと言えるでしょう。
人は誰の奴隷でもない。そんなことのために生まれるものではない。他者に虐げられても屈することない心、災厄に襲われても挫けることのない心、不正があれば正すことを恐れず、獣に媚びず、己という領土を治める唯一無二の君主に。そのためにまず、他者の前で毅然と頭を上げること、そして毅然と構えることができ、そのうえで、相手への尊敬、誠意と共鳴、調和が内在することが礼法ではないでしょうか。
また、礼法、礼儀作法は、相手に敬意をあらわすものでありますが、武道の礼儀作法には護身(敵対動作)を踏まえた作法が多く見られることも事実です。
「正座をするときには左足から座り、立つときには右足から立つ(左座右起)」や「正座の礼法で座礼を行う時、左手を先につき、利き腕の右手を後につき頭を下げる。頭を上げる時には、右手を先に戻しその後に左手を戻す」。他にも、「衣の着用法では左手から通し、袴を着ける時は左脚から通す」、「小手をつける時においても、左手からつける」、利き腕である右手(右脚)は、油断を怠ることなく着用し、 脱ぐときには、「利き腕である右手(右脚)を先に脱ぎ、その後に左手(左脚)脱ぐ」など、 このように、武士の社会においては、礼をおこなう相手に対しても油断を怠らない敵対動作によって組み立てられていたようです。
澁川一流柔術は、まぎれもない武術であり、しかも伝統ある古武道です。
相手を倒し制圧する術であるとともに、相手を制するためには、相手との呼吸、間合、目付、構えなどが整っていること、相手に対立し反発を受ける構図ではなく、相手を受け入れてこちらが動けば自然に相手も動いてくれる、つまり相手と調和できることが必要だと思います。
そのためには、心のある礼法が大切なのではないでしょうか。
1) 小野不由美 「風の万里 黎明の空」 講談社 初版第1版 2000年10月12日
2) 小笠原清忠 「武道の礼法」 財団法人日本武道館 初版第1版 2010年2月10日
3) 加瀬英明 「徳の国富論」 自由社 初版第1版 2009年11月20日
4) 小森富士登 「剣道における礼法の一考察」 國士舘大學 武德紀要 第27号
5) 貫汪館ホームページ
- 2015/11/25(水) 21:25:00|
- 昇段審査論文
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「これまで修行上留意してきたこと、今後留意しなければならないことを述べなさい」
1、これまでの修行上留意してきたこと
(1)形
私事ですが、幼少より高校卒業まで日本舞踊を習った経験から、辞めて20年以上経つというのに、その時の癖が棒回しや、柔術に出てきてしまい意識していないだけに、とても妨げになり、稽古を始めた当初はまず、そこを改善すべく意識する事から始まりました。長らくしていなかった事が、幼少時に経験していると自然に出来てしまう能力はすばらしいですが、癖として妨げになった時は改善するのにとても苦労するのだなと実感しました。
現在稽古をするに当たり形の上で注意していることは、呼吸を止めない。股関節を緩める。力まない。丹田を中心に動く。技をかけ終えるまでを一つの動作とする。などきりが無いくらい稽古中は頭の中はいっぱいになっています。
ですが、いざ形を始めると左手で辺に取り、右手はここ、それから回る、と全く一つの動作ではなく、受けをしてくださる先生に「動きが止まった」と指摘され、次に気を付けて受けの体制を崩すことが出来、押さえ込む事が出来ても呼吸が止まっていて、「地面はあっても気持ちはまだまだ回り続け、沈んでいくつもりで」と指摘を受け、呼吸がとまっている事に気づき、そこで息を吐く。といった事を何度も繰り返してしまいます。
半棒や六尺棒では、武器も体の一部と捉えて扱わなくては、相手の体制を崩すことは出来ません。腕の力だけで崩そうとせず、丹田から腕、腕から棒へと思いを伝える事を意識しながら稽古をしていますが、こちらも思いと体の動きが一つとならないことが多いです。
突きの動作や、半棒を相手の頭に振り下ろす際も、状態が前のめりになってしまったり、前のめりにならないよう意識をやると、相手との間合いの悪さから全く打ち込めない距離に居たりと、中々得物を体の一部にすることが出来ずにいます。
また、柔術の稽古を始めてからずっと感じていることの一つに、形が決まった時に手応えがないということです。力で相手を制するのではなく、相手の力を利用して制するという所に魅力を感じ、稽古することを決めた筈なのに、具体的にこうしたから形が決まったという手応えのなさに、次も同じことが出来る自信が無いと思うようになります。そこを稽古量で補っていかなければいけないのだと考えます。
(2)心
心のあり方で注意していることは、「敵を倒すための「間積もり」が、使い方次第で人に不快を与えない、人をいたわるための作法に転化するのである」
「相手に不快を与えない(困らせない、怒らせない、淋しがらせない、心配させない、手数をかけさせない、いやがらせない、恥をかかせない、当惑させない)こと」など、普段の生活の中でも実践出来そうな部分は気を付けているつもりではありますが、後悔する事もしばしばで、できているかどうかは自信の無いところです。
2、今後留意しなければならないこと
武道を学んでいるものが、知ったのちに行動しなければ学んだ意味はありません。
武道は行動のために学ぶ学問であり、古武道を稽古してもそれが単なる懐古趣味であっては稽古に費やす貴重な時間は無駄になってしまいます。
無雙神傳英信流抜刀兵法は不測の事態に対応するための武術であり、澁川一流柔術は条件的に不利な状況を克服するための武術であり、大石神影流剣術はまさしく兵法であり手数の中に兵法のエッセンスが学べるように仕組まれているといっても過言ではありません。 行動するために学ぶのが武術であって、何もせずにただ願っているのは武術を稽古するものがとるべき道ではありません。
武術では技を生かすのも殺すのも間づもりひとつである。
形をまねるのでなく、「心」を知ることである。「きまり」と考えてしまったのでは、その「きまりごと」の一つひとつをすべて覚えなければならないが、「心」を承知していれば応用変化が可能である。
武道人の立居振舞いには「他人への敬意」と「隙のなさ」と「威」がそなわっていなければならない。
価値観、考え方、感覚、行動などのすべてが自分と違う相手とも付き合うことを可能にする方法の一つが、相手と密着しない「間合」の心得である。
武道の「精神的自立」と「自分主義」精神的自立とは人格の独立でもあるが、情緒面においても他人の「いたわり」や「やさしさ」を期待しないでいられる強さである。「理解」や「評価」あるいは「同情」を求めないでいられる強さといってもよい。極論すれば「支援」や「応援」を求めないでいられる能力、という事にもなる。
むろん「同情」はともかくとして「理解」や「評価」「支援」が得られなくては成り立たない仕事もある。だがその場合も他人に協力を求めることが可能になるのは、評価や支援に値するものを本人が持っている事が前提になるのであって、ただ単に他人の善意だけをあてにするという事ではない。支援に値するものを持つことは自前の仕事で、それを支えるのは自分の足、つまり自立した精神である。
以上、今回の論文に当たり引用した文献の内容から、今後留意しなければならないことは「武道」とは「技」のみではなく「心」も合わせて学んでいかなくては身に付かないのだという事だと考えます。
やはり技が効いて受けが倒れてくれると手応えこそないものの、うれしくなり、もっと技を磨きたいと思うようになりますが、そこに「心」の部分が置き去りになってはいけないのだと思います。
昇段試験を受けるよう先生におっしゃって頂いた時も、技の試験は週に一回ではありますが、稽古をしているので、ある程度抵抗無く受け入れることが出来るのですが、合わせて論文を書かなければならない事で、論文を書ける程「心」の部分を理解できていない。と躊躇してしまうのですが、改めてこうして論文を書く為に学んでいくと、やはり心の部分の理解が、技と同じくらい大事なのだなという事に気付かされます。
澁川一流柔術は条件的に不利な状況を克服するための武術との事ですが、相手を投げ飛ばしてやる。とか押さえつけてやる。といった心持ではなく、向かって来た相手を、相手の力を利用し、その相手の力を奪うだけ。見ていると投げているようだが、その場にしゃがむ事で相手が投げ飛ばされてしまった。という結果論の様に思います。普段の稽古時にいつも「心」の部分を意識していけるよう今後、気をつけたいと思います。とは言え、意識すると「居着き」になってしまいそうで、意識しながら意識しないと言う境地になれればと思います。
森本館長の「道標」に多くの文献を読みなさい。とありました。まだ多くの古武術の文献を読んだ訳ではありませんが、驕ることなく謙虚に、思いやりのある行動を心がける。という内容がよく用いられている様に感じました。この事が武道を志す上でずっと心に留めておかなければならない事なのではないかと感じました。
今後留意しなければならないこと、自分で気付いていない留意すべきところをご指導頂きながら、少しでも達成できるよう、日々精進して参りたいと思います。
参考文献
1)野中日文: 武道ー日本人の行動学ー 2001年1月5日第2刷
2)野中日文: 武道の礼儀作法(改訂版) 2002年12月10日第3刷
3)森本邦生先生:貫汪館ホームページ「道標」
- 2015/11/26(木) 21:25:00|
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大石神影流を通じて何を教えるべきか
1.はじめに
まず、古武道を稽古するということはどういうことであろうかを考えてみる。そもそも、武道は先人が培った伝統的な技や精神を稽古することを通じて伝承するとともに磨き上げ、習得することである。特に、古武道においては、個人の思いつきで勝手に手を加えたりすることのないよう、伝統的な技を正しく伝えるということが非常に重要なことである。このことが所謂「練習」ではなく「稽古」であり、字義から「稽古」を「古(いにしえ)を考える」と解釈されるところである。明治時代以降に創始された現代武道では、統一されたルールの下での試合形式が盛んに行われ、競技化することでスポーツ的性格が色濃くなってきたことにより発展してきたが、伝統的な技や精神の伝承が十分になされていないように感じる。その弊害として、近年では、オリンピック金メダリストの卑猥事件や体罰などの暴力事件まで発生してしまった。いくらオリンピックで金メダルを取ろうともそれはその競技での結果であって、個人の人間を評価したわけではない。講道館では、柔道を学ぶことを「柔道の目指すところは、立派な人間をつくること。柔道を学ぶことで、礼の精神を身につけ、心身ともに強く立派な、進んで社会に貢献できる人間をめざそう(1)」としており、武道憲章では、第1条にその目的として「武道は、武技による心身の鍛錬を通じて人格を磨き、識見を高め、 有為の人物を育成することを目的とする」(昭和62年4月23日制定 日本武道協議会)とされている。暴力事件等を含む近年の不祥事では、おおよそ目標とはかけ離れた方向に向かってしまった。また、競技化した結果、勝利することを第一とすることの弊害として、伝統的な技に個人で改良を加えたオリジナリティに富む技をもって勝利を重ねる選手も多数見られるが、現役を引退するとその技も消滅する。つまり、現代武道はスポーツ化したことによって純粋に伝統を伝承しているといい難いと感じる。礼節を重んじる武道での不祥事は、一般人からすれば古武道であれ現代武道であろうと、武道という言葉からすれば同じものと受け止められる。幼い子供を持つ親からすれば、礼儀正しさを身につけさせるために武道をさせることも珍しいことではないが、昨今の競技化されたスポーツ武道では古来からの武道のイメージが大きく変わりつつある。他方、古武道においては型稽古を主体としていることで大幅に改良されることもなく、また、競技でもないので型稽古を繰り返すことが主となり、自分勝手に手を加えることは許されない。つまりこれから先の未来に是まで正当に伝統を伝承されてきたものを変わることのないよう後世に引き継がなければならない。そのためにはどのような方法で何を教えるべきかを常に考えなければならないのである。
2.指導のあり方
(1)指導を受けるもの
古武道の指導を受けるものの心構えを述べればきりがないが、武道とは稽古を通じて自分自身を磨くことだと強く自分に言い聞かせなければならない。そのため、もっとも大切なことは、常に正しい心で自己研鑽を積むことであり、また、指導者に対しては謙虚な心で接するという精神を身につけるよう心がけることが重要である。
(2)指導するもの
現代まで正しく伝えられてきた伝統文化である古武道を次世代に正しく伝承させるためには、歴史や文化を学ぶことも重要である。また、指導される側が常に謙虚であるためには、指導者に対する礼の意義を理解させなければならない。また、指導者は過度に威圧感を与えてはならない。自己の力量を見せつけたり、優越感に浸るようなことをするべきではない。さらに、自分の力量以下のものをいつもでも育成するのではなく、やがて自分以上の優秀な師になるよう弟子を育成しなければならないのである。そのためには、自己が長年苦労して習得した技術や心構えを教示することも必要であるが、簡単に教示すべきではない。それはそれ相当の力量がなければ、教示されたところで指導されていることの意味が理解できないからである。それぞれの力量に見合った段階でそれ相当の指導をすべきであろう。
3.指導することについて
稽古を指導することを考えるにあたり、そもそも江戸時代にはどのような指導「教え」をしていたのかを伝書により考えてみたい。
(1)「不動智神妙録」の教え
不動智神妙録を武道伝書とは言い難いが、沢庵が将軍家剣術指南役の柳生但馬守宗矩に対し、剣禅一如について説いたもので、柳生新陰流のみならず多数の流派に大きな影響を与えた書として有名である。ただし、不動智神妙録では技術的なことより専ら禅の思想と剣術は一体とみなされている。教える者として、また、教えられる者としての心構えから人間としての生き方が説かれている。その中から以下を引用して参考にしたい。
一向の愚痴の凡夫は初めから智恵なき程に萬に出ぬなり。又づつとたけ至りたる智恵は早智恵がいでざるによりて一切出ぬなり。なま物知りなるによって智恵が顔へ出で申し候て、をかしく候。今時分の出家の作法ども嘸をかしく思し召す可く候。
理の修行、ことの修行と申す事の候。理とは右に申し上げ候如く、至りては何の取り合わず唯一心の捨てやうにて候。段々右に書き付け候如くにて候。然れども事の修行を仕らず候へば道理ばかり胸に有りて身も手も働かず候。事の修行と申し候は、貴殿の兵法にてなれば身構への五箇に一字のさまざまの習ひ事にて候。理を知りても事の自由に働かねばならず候。身に持つ太刀の取りまはし能く候ても、理の極まり候所の闇く候ては相成る間敷く候。事理の二つは車の如くなるべく候(2)。
何事もわからない人間は、もともと智の働きがないから表面に表れることはない。はるか深いところまで達した智恵は、表面に出ることはない。中途半端に知っているものは知識をひけらかそうとする。つまり、教えることも教えられることも中途半端ではならない教えである。体をいかようにも使うことのできる事(わざ)の修行は当然ながら、何事にもとらわれない無心になることが理(こころ)の修行で、両方をバランスよく修行することが必要で、両方そろってないと結局は役に立たない。事の背後には常に理が存在しており、密接不可分であると説明している。指導する者とは、技だけでなく心もかなりの修行を積んだ者でなければ指導できないということである。
(2)古武道伝書による教え
古流には元来その流派独特の教授法がある。多くの場合、各流派で洗練された「型」であり「形」の稽古である。その稽古についてであるが、多くの流派の伝書では、専ら教えられる側の心構えが記され、その後、心の持ちようから体の使い方が教えられている。以下にいくつかの伝書の内容を考えてみたい。
(イ)「五輪書」の教え
宮本武蔵の五輪書地之巻では、そもそも「兵法」とは、について、次のように記している。
夫兵法といふ事、武家の法なり。将たるものは、とりわき此法をおこなひ、卒たるものも、此道を知るべき事也。今世の中に、兵法の道慥にわきまへたるという武士なし。(中略)大形武士の思ふ心をはるかに、武士は只死ぬるといふ道を嗜む事と覚ゆるほどの儀也。死する道におゐては、武士斗にかぎらず、出家にても、女にても、百姓巳下に至る迄、義理をしり、恥をおもひ、死するところを思ひきる事は、其差別なきもの也。武士の兵法をおこなふ道は、何事におゐても人にすぐるる所を本とし、或は一身の切合にかち、或は数人の戦に勝ち、主君の為、我身の為、名をあげ身をたてんと思ふ。是、兵法の徳をもつてなり。又世の中に、兵法の道をならひても、実の時の役にはたつまじきとおもふ心あるべし。その儀におゐては、何時にても役にたつやうに稽古し、万事に至り、役にたつやうにおしゆる事、是兵法の実の道也(3)。
将も兵も兵法を知るべきであると説いているにもかかわらず、その当時でさえ、兵法をたしかにわきまえた武士はいないといっていることは非常に興味深い。また、武士が考えていることといえば死ぬことであるが、性別や職業に関係なく誰でもいつかは死ぬのであるから、何事も人より勝り、主君または自分の名声を博そうとするものも武道の効果である。また、兵法の道として、もっとも大切なことは何時いかなるときにでも兵法が役立つよう稽古し、そして教えることが真意であると書かれている。さらに、地之巻の最後には、
右一流の兵法の道、朝な朝な有な有な勤めおこなふによつて、おのづから広き心になつて、多分一分の兵法として、世に伝ふる所、初而書顕はす事、地水火風空、是五巻也。我兵法を学ばんと思ふ人は、道をおこなふ法あり(4)。
として、次の九条を示している。
第一に、よこしまになき事をおもふ所
第二に、道の鍛錬する所
第三に、諸芸にさはる所
第四に、諸職の道をしる事
第五に、物毎の損徳をわきまゆる事
第六に、諸事目利を仕覚ゆる事
第七に、目に見えぬところをさとつてしる事
第八に、わづかななる事にも気を付くる事
第九に、役にたたぬ事をせざる事 (5)
これら学ぶ者に対しその心構えとして、「師は針、弟子は糸となって、たへず稽古有るべき事なり。(6)」と説いている。
(ロ)「兵法家伝書」の教え
兵法家伝書とは、江戸時代初期に柳生宗矩によって著された柳生新陰流の思想を記した武道書である。この中の「無刀之巻」には次のように記されている。
一 とられじとするを、是非とらんとするにはあらず。とられじとするをば、とらぬも無刀也。とられじとられじとする人は、きらふ事をばわすれて、とられまひとばかりする程に、人をきることはなるまじき也。われはきられぬを勝とする也。人の刀を取るを芸とする道理にてはなし。われ刀なき時に、人にきられまじき用の習也。
一 無刀といふは、人の刀をとる芸にはあらず、諸道具を自由につかはむが為也。刀なくして、人の刀をとりてさへ、わが刀とするならば、何がわが手に持ちて用にたたざらん。扇を持ちて也共、人の刀に勝つべし。無刀は此心懸なり。刀もたずして、竹杖つひて行く時、人寸の長き刀をひんぬいてかかる時、竹杖にてあひしらひても人の刀を取り、もし又必ずとらず共、おさへてきられぬが勝也。此心持を本意とおもふべし(7)。
必死に取られまいとしている相手の刀を何が何でも取ってしまえというのではない。取られまいと必死に防御しようとしている刀を取らないのも無刀術である。取られまいとする相手は、そのことだけに心が居ついてしまい人を切ることから心離れてしまうことにより、結局人を切ることができなくなってしまうのである。無刀とは、相手の刀を取るものではなく、さまざまな道具を使いこなすためのためである。自分が何も持っていない時を想定し、何を手にしても相手を制圧しなければならない。つまり、切られなければよいわけである。そのためには心居付かせることなく、また、どのような事態でも冷静に判断し、的確に反応することこそ無刀の本来の意味であろう。
(ハ)大石神影流の教え
大石神影流の形稽古である手数の中に大石進種継により創始された思想が含まれていると言うことができる。稽古において我々がただ単に「型」として受け止めたのであれば、大石進種継以来先人たちが築いた技術や思想は崩れ落ち、本質部分が失われてしまうということである。これを古武道の指導方法である上意下達方式で指導し、理解させなければならないのである。
大石進種次の教えを「大石神影流を語る」から考えてみたい。
また進は試合前に予め型の研究をして、剣の技法身のさばきを鞏固にして場に赴くのを常としている。ある門弟がその理由を尋ねると、試合の前に型を研究するのは力士が下稽古をして場に赴くのと同じことだといつて型を重視し、門弟にもこれを勧めている。
進は抽象的観念な説論を避け、出来る限り具体的な指導を行つた。これが当時剣術修行者にうけて、諸国から陸続と入門者がつめかけた大きな理由と考えられる。
進が創作した剣道教歌にも、その特徴がよく表われている。教歌を数首拾つてみよう。
稽古をは誠の敵とおもいつつ 仕なをしらぬことを忘るな
いろいろにたくみをおもになすならは 敵の変化に陥るものなり
突太刀の曲尺は手前にあるぞかし 後手のかねに櫂ありとしれ
太刀先のあがるは心の動としれ 気の掛るには下るものなり
突場をは脈のしらするものぞかし 眼にみては間に合わぬなり
我稽古持前よりも引下げて 下手とおもわは成就程なし
天保以降進の名声があがり各藩の士が多数入門して盛行をみるにつれ、有名無名の剣客が武者修行のため足を止めるようになった(8)。
ここで、「試合前に予め型の研究をして・・・」とあるが、大石進は竹刀の長さを長くし、防具の改良をするなど、研究家であり工夫家であったことが伺える。また、教歌にも稽古の大切さが謳われ弟子にも勧めていたことから、やはり形稽古が重要であるということであろう。さらに、教歌では心の持ちようが謳われており、数々の試合をこなした大石進ならではの具体的な指導内容である。
剣術は当然ながら相手に勝つことが必要で、そのための方法はいかにするべきかを教えている。剣術の試合においてたまたま勝ったなどということはありえないことで、刀を手足の延長として操ることができなければならない。稽古をおろそかにせず、理を知りよく考えながら稽古することが重要であると教えている。さらには、型稽古の重要性も説明されているが、その目的はその場その場に応じ、臨機応変に応じられる形が遣えなければ真に稽古したとはいえない。そもそも十分に基本技が身についていれば、変化にも咄嗟に対応できるはずである。
以上、代表的な伝書からその教えを考えてみた。詳細な技術的内容は、流派の違いにより若干異なることもあるが、共通して言えることは、心の持ちようが深く説かれている。各流各派により、型そのものの違いはあるものの、教えることは共通することが多い。特に心法を伝え、敵と戦う場合の心構えや気持ちの応じ方等が記されている。その他にも、技術的な内容として、無理な動きはしないことや無駄な力を排除しなければ相手に対する柔軟な対応はできないと教えている。これは多くの流派でも説かれていることから、もっとも元になる部分である事がよくわかる。つまり、この部分ができていなければスタートラインにつけていない状態であるといえる。
4.結論
今回、各伝書を参考に、江戸時代には師として弟子に対しどのようなことを教示していたかを検討し、どのようなことを教えなければならないかを考えてみた。自分が大石神陰流を通じて教えなければならないこととして、まずは、入門するに当たっての心構の重要性である。師の教えを疑いなく素直に聞き入れる謙虚さが最重要であり、これができないようであれば技術を教える術がないことを十分理解させる。その他に主位的立場である仕太刀と従位的立場である打太刀の関係をよく理解し、打たれるのではなく打たせ、突かれるのではなく突かせることの重要性を理解させる。このようなことを常日頃意識することこそが、ひいては日常的な行動に役立つことになり、逆に日常的行動が稽古の役に立つことへの理解につながるものと考える。
稽古には少年から人生経験の豊富な方までさまざまな方が来られる。また、それらが誰にも十分に理解できるよう工夫し、指導することが指導者の重大な課題であると思われる。
後注
(1) 公益財団法人 講道館: (http://kodokanjudoinstitute.org/learn/ (2015.8.20アクセス)。
(2) 沢庵 宗彭著:「不動智神妙録」徳間書店 19刷 1970年10月15日
池田 論 訳 41~42ページ
(3) 宮本 武蔵著:「五輪書」 岩波書店 第6刷 1997年9月16日
渡辺 一郎校注 11~13ページ
(4) 同上 36~37ページ
(5) 同上
(6) 同上 17ページ
(7) 渡辺 一郎:「兵法家伝書 付新陰流兵法目録事」岩波書店 第14刷
1999年11月16日 98~99ページ
(8) 藤吉 斉 : 1963年10月20日 52~53ページ
参考文献
1.藤吉 斉 :「大石神影流」
2.中村 民也 :「今、なぜ武道か -文化と伝統を問う-」 日本武道館 初版
2007年8月23日
3.佐藤 成明 :「高め合う剣道」 日本武道館 初版 2012年10月10日
4.曽根 喜美夫:「武道教育論」 日本出版放送企画 第一版 1997年4月7日
5.宮本 武蔵著:「五輪書」 岩波書店 第6刷 1997年9月16日
渡辺 一郎校注
6.沢庵 宗彭著:「不動智神妙録」徳間書店 19刷 1970年10月15日
池田 論 訳
7.渡辺 一郎 :「兵法家伝書」 岩波書店 第14刷 1999年11月16日
8.湯浅 晃 :「武道伝書を読む」 日本武道館 初版 2001年7月10日
- 2015/11/27(金) 21:25:00|
- 昇段審査論文
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受審課題 :大石神影流剱術を通じて何を教えるべきかを論じなさい。
前言
課題である「大石神影流剱術を通じて何を教えるべきか」を論じる前に、まず大石神影流剱術について再確認してみたい。
さらに初段から四段までの論文課題について簡単に確認したうえで、さらに「貫汪館における大石神影流剱術の位置付け(剣術、居合、柔術)」について確認し、最後に五段の論文課題である「大石神影流剱術を通じて何を教えるべきか」を論じてみようと思う。
Ⅰ.大石神影流剱術とは
大石神影流は、柳川藩に伝えられた、陰流の流れを汲む剣術流派である。
流祖は大石進種次であり、柳川藩に伝わる愛洲陰流剣術と大嶋流槍術の皆伝者であった。愛洲陰流は陰流の別称であり、流祖 愛洲移香斎の名を冠してそう呼ばれる。
愛洲陰流は当時、袋撓と唐竹面、長籠手を用いて稽古をしていた。大石進種次は、この防具を改良し、独自の突技と胴切の技を工夫して、大石神影流剣術を創始したと言われている。突技には、大嶋流槍術の影響があったことは想像に難くない。
唐竹面は十三穂の鉄面とし、胴切のために竹腹巻を考案し、長籠手を半籠手にして腕の活動を敏速にした。また突技のために喉当も考案した。従来の八つ割袋撓は、コミ竹刀に改めた。これらは、現代剣道の竹刀・防具の元となっている。
初代と二代は江戸に出て試合を行い有名となった。初代と二代は同じ進を名乗ったため混同されることがあるが、有名なところでは男谷精一郎と試合をしたのは初代、鏡心明智流の桃井春蔵らと試合を行ったのは二代である。勝海舟はこれを「ご維新以来の騒動」と評したと言われている。
初代が江戸に出る前に剣術修行として行った試合で有名なものに、長沼無双衛門との試合がある。初代が得意の左片手突きを繰り出すと、長沼の鉄面が破れて眼球が面の外まで飛び出してしまったと伝えられている。これは大石進の突きの威力の凄まじさを伝える逸話とされているが、実際には竹刀・防具の不完全さを表しているとも言える。長沼無双衛門は傷が癒えた後、門人18人を引き連れて、大石進に弟子入りした。
柳川藩に伝わった愛洲陰流は、新陰流、神影流、愛州神影流とも呼ばれていた。初代大石進はこれより神影の字を選び、それに大石を冠して大石神影流と定めた。俗称として、大石流、神影流とも言うが、正式には大石神影流と呼ぶ。
修得の過程は、愛州陰流の階程を踏襲して、截目録、陽之巻、陰之巻皆伝とした。
大石神影流は長らく柳川藩に伝えられていたが、現代では継ぐ者がなく福岡県大牟田市 大石英一を最後に絶伝の危機にあった。近年、広島の貫汪館館長である 森本邦生が皆伝となりこれを受け継いだ。貫汪館では、無雙神傳英信流抜刀兵法と澁川一流柔術とともに大石神影流剣術を伝えている。
Ⅱ.初段から四段までの論文課題
1.初段 武道における礼と大石神影流剱術における礼法について
武道における礼は省略し、大石神影流剱術の礼法について簡単に再確認する。
まず、一般の剣術・居合とは異なり、刀に対する礼が存在しない。稽古と演武とに関わらず、すべて帯刀した状態から始まる。
もちろんこれは形式上の問題であって、刀に対する敬意が存在しないということではない。刀を取り扱う際には注意が必要であって、ぞんざいに扱ってはならないのは当然のことである。放り投げたり、壁に立てかけたり、足で跨いだりということをしてはならない。また、他者からもそうされることがないよう、きちんと管理する必要がある。
演武などの際には帯刀した状態で入場して、定位置まで進む。
神前、上座、正面への礼は、立った状態から右足を軽く引いて右膝を着いた状態となり、上体を腰から折り、軽く握った両拳を床に着けて、頭を下げる。
相互の礼は、元に戻り、お互いに向き直り、軽く会釈をする。
そのまま抜刀し、演武に入る。
終わりの礼は、逆の手順となる。
正座の礼がないのは、柳川藩で上覧を行う際に、屋内にいる貴賓に対し、庭で演武を行ったためであると伝え聞いている。また、稽古も一般に神社の境内などで行われていたためであろう。剣術というと、板の間の道場での稽古を思い浮かべるかもしれないが、実際には時代や地域によって様々である。
一般的に、正座が最も礼儀正しく敬意を表していると考えてしまいがちであるが、実際には蹲踞が正式な最敬礼であることもある。片膝立ちであるから略式であるなどと考え違いをしてはならない。神前、上座、正面への礼は、最もな敬意を持って行うべきである。
お互いの礼も同様である。くれぐれも軽い気持ちで行ってはならない。敬意を表しながら、また油断のないように行わなければならない。
2.二段 これまで修行上留意してきたこと、今後留意しなければならないこと
大石神影流剱術の特質に着目したうえで、その稽古上の注意点として考えてみる。
(1)長竹刀
大石神影流は一般に長竹刀で有名である。
しかし、刀の総長(切先から柄頭まで)は概ね立ったときの自分の乳の高さとしており、竹刀もそれに応じている。身長が七尺といわれた初代の大石進は、五尺三寸の竹刀を用いていた。初代よりも小柄だったといわれる二代目の大石進は、四尺二寸の竹刀を用いていた。その弟子である大石雪江も四尺二寸の竹刀を用いていた。これらはいずれも流派の掟に従っており、とくに長すぎる竹刀を用いていたというわけではない。ただ、当時の撓の長さは三尺二三寸を常寸としていたので、それに比べれば長かったのはたしかである。
竹刀の長さが各人の身長に比していることに対して、手数の稽古に用いる木刀の長さは総長三尺八寸(刃長二尺八寸二分)と定められている。これは、あまりに身長が違う者同士では稽古も演武もしにくいものであるが、たとえ身長が同じであっても刀の長さが違うと術理の上で問題が生じやすく、それを避けるためであろうと思われる。
総長三尺八寸(刃長二尺八寸二分)の木刀は、たしかに現代の一般的な感覚からすると長い物であると言える。しかし、身長六尺程度の人間でも、稽古次第でとくに違和感なく扱うことができるようになるものである。
目下(背が小さい者)は、総長三尺四寸(刃長二尺四寸五分)の木刀と定められている。こちらは、現代の一般的な感覚からも受け入れやすい長さであるかもしれない。総長三尺八寸の木刀が手に余るようであれば、こちらの長さの木刀で稽古するのも良いであろう。ただし、上述のように、お互いの刀の長さが違うと、稽古も演武もしにくいものである。注意が必要である。
可能な限り、流派の掟である総長三尺八寸(刃長二尺八寸二分)の木刀を遣えるように稽古を重ねる必要があるであろう。木刀に限らず、刃引きや真剣も同様である。
(2)突技と胴切
大石神影流は大石進種次が愛洲陰流と大嶋流槍術を元に、独自の突技と胴切の技を工夫して始めたと言われている。
しかし、手数の中では突技や胴切は特に多く表されているということはない。
ただし、手数で多用される構えの一つに「附け」がある。これは、刀を胸の前に構え、柄頭を左手のひらで包むようにして、いつでも突技に入れる構えとなっている。
胴切については、修業初期に習う試合口、陽之表、陽之裏には直接は表れていないが、似たような動作として、右肘通りを切る動作がいくつかある。修業後期に習う手数である天狗抄においては10本中3本に胴切の動作が表されている。
大石進種次は、突きと胴切について次のように書き残している。
幼ナキ時愛洲新陰流ノ唐[金面]袋品柄ノ試合ヲ學タリトモ十八歳ノ時ニ至リヨク〃考ルニ刀ノ先尖ハ突筈ノモノナリ胴ハ切ヘキノ処ナルニ突ス胴切ナクテハ突筈ノ刀ニテ突ス切ベキノ胴ヲ切ス大切ノ間合ワカリカ子ルナリコノ故ニ鉄[金面]腹巻合セ手内ヲ拵エ諸手片手突胴切ノ業ヲ初タリ其後東都ニ登リ右ノ業ヲ試ミルニ相合人々皆キフクシテ今ハ大日本國中ニ廣マリタリ夫ヨリ突胴切ノ手數ヲコシラエ大石神影流ト改ルナリ然ル上ハ諸手片手胴切ノ業ヲ學モノハイヨイヨ吾コソ元祖タルヲ知ベシ
突技や胴切は、いついかなる状況からでも繰り出すことができるよう稽古が必要である。実際には突くことのできない附けの構えには意味がなく、そこからは手数の発展のしようもない。胴切についても同様である。
(3)上段
上述のとおり、大石神影流は長竹刀と突き技で有名であるが、実際に稽古してみると、上段の構えが特徴的であることがわかる。
もちろん、構えに関しては、附けの構えを多用する点が最も特徴的と言える。しかし、いわゆる中段、上段、下段、八相、脇構えに相当する構えがある中で、どれも流派として特徴的ではあるが、その中でもとくに上段が特徴的であると言える。
上段の構えは右足前のみで、体の左を通って半面を描くように剣を上段に持ち上げる。切っ先は右斜め上を向き、左拳は額の前、右拳は額の上となる。両肘は張らず、だらんと落ち、あたかも宙に浮いた剣にぶら下がるかの如しとなる。背は落ち、剣と両腕の重さが流れる。いわゆる一般的な上段のイメージから脱却することができないと、いつまで経っても正しい上段の構えができないということになるであろう。
そこから振り下ろす際には、剣は正中線をまっすぐに通る。
通常の振り上げ振り下ろしの際には、振りかぶる際に剣が体の左を通らず直線的に振り上げる点を除けは、他は同じ動きとなり、振りかぶった際には上段の構えと同様となる。剣をまっすぐに振り上げてまっすぐに振り下ろすのではなく、上段の構えを経由した振り上げ振り下ろしとなるのである。慣れない手数でただ手順を追ったり、あわてて急いで動こうとするとついまっすぐに振りかぶってしまいがちであるが、それでは大石神影流を稽古しているとは言えない。いつでも自然とこの動きができるよう、よくよく稽古を重ねる必要がある。
この特徴的な動きは、長い刀の振り上げ振り下ろしとしてはとても合理的な動きである。正しく稽古を重ねていれば、自然と理解、体得できるものであろう。
(4)張る、乗る、気先を掛ける
他に術理の上では、張る動き、乗る動き、気先を掛ける動きが重要となる。これらについても、よくよく稽古する必要がある。肚から動くことが重要なことはもちろんであるが、ただ手順を追っていてもできるようにはならない。内面の稽古が重要である。
3.三段 剣術の歴史における大石神影流剱術の歴史とその特質について
歴史については“Ⅰ.大石神影流剱術とは”で、特質については前段で述べたとおりであるので、ここでは省略する。
4.四段 大石神影流剱術指導上の留意点について
詳しくは、貫汪館昇段審査論文課題「指導上の留意点について」(自著)で述べたとおりだが、おおよその項目は次のとおりである。
・個別指導が原則であり、相手の資質に合った指導をすること
・打つと斬るの違いに留意すること
・教え過ぎないこと
・呼吸、肚、気合
・礼法、構え、素振り
・手数
・防具稽古
・伝系・歴史
Ⅲ.貫汪館における大石神影流剣術の位置付け(剣術、居合、柔術)
貫汪館では現在、剣術、居合、柔術の三流派の古武道を稽古、伝承している。
剣術は大石神影流剱術、居合は無雙神傳英信流抜刀兵法、柔術は澁川一流柔術である。
古武道である剣術、居合、柔術は、現代武道である剣道、居合道、柔道と名称はとてもよく似ているが、その内容は大いに異なるものである。
現代武道はいずれも古武道が近代化されたもので、明治以降に成立し、体系化、競技化、スポーツ化されたものであると言えよう。
剣道であれば、防具を着用し、竹刀でもって安全な部位の打突を競い合う。
柔道であれば、危険な関節技を廃し、武器は使用せず、素手の投げ押さえを競い合う。
居合道であれば、型の演武の正確性、美しさを競い合う。
いずれも、武道のある一面に着目して、専門化、特化したものと言える。
それに対して古武道は、流派によっても大きく異なるが、一般的にある意味では全面的な物であると言える。
大石神影流は剣術の流派であるが、小太刀、二刀、鞘之内にとどまらず、棒、長刀、鑓をも扱う。また防具を着用して竹刀での自由稽古も行うが、主な稽古は木刀による形稽古であり、打突部位は現代剣道とは異なる部分が多い。
無雙神傳英信流抜刀兵法は居合の流派であるが、全体で約八十本ある形のうち、現代居合道のように一人で行う形は約四十本と半分程度である。そして他の形は、相手をつけて行い、その内容はいわゆる居合の技法にとどまらず、剣術や柔術的な技法となっている。
澁川一流柔術は柔術の流派であるが、いわゆる素手による闘争を想定したものではない。たしかに稽古の最初は素手対素手の型から始まるが、究極的には相手の刀に対してこちらは素手で対するという型になる。そして刀に対するためには自らも刀が遣える必要があるのは当然のことであり、半棒や六尺棒、分童や鎖鎌の他に、抜刀術も併伝されている。
貫汪館で稽古、伝承されている剣術、居合、柔術の古武道三流派は、それぞれが広範な分野をカバーしているとは言え得意分野が異なり、それぞれが相互補完的な存在となっていると言える。
現代武道のように、剣だけ、居合だけ、投げ押さえだけができれば良いという価値観で稽古をしているわけではない。
剣があれば剣で、剣がなければ素手で、剣を抜くことができなければ抜かずに、相手を制することができなければならない。そのためには、単に剣術のみ、居合のみ、柔術のみの稽古では完全とは言い難いであろう。剣術の裏は柔術であり、柔術の裏は剣術であり、居合は剣術と柔術をつなぐものである。いずれを自己の表にするにしろ、他の稽古も必要不可欠である。
現代武道と古武道は対立するものではなく、お互いの優劣を競うようなものではないが、まったく別個のものであるのはたしかなことである。現代武道の価値観の延長で古武道を理解、修業しようとすれば、根本的な弊害を生じることであろう。よくよく注意が必要である。
Ⅳ.五段 大石神影流剱術を通じて何を教えるべきか
これまで見てきたとおり、大石神影流剱術は古武道であり、流派剣術である。現代武道のように近代化、競技化、スポーツ化されておらず、伝統文化的な側面も有している。
大石神影流剱術は、
・歴史ある古武道であり、現代剣道にも連なる剣術流派であること
・上述のとおりの特徴のある剣術流派であること
・貫汪館が伝える古武道三流派のうちの剣術流派であること
・ただ剣のみではない剣術流派であること
といった点が重要であると考える。
重要なのは、ただ手数の手順を伝えるだけではなく、その文化・背景を含めて伝えるということである。
大石神影流剱術を通じて、こういった大事を伝えるべきであろう。
参考文献;
1)「大石神影流を語る」藤吉 斉、第一プリント社、1963年、初版
2)貫汪館ホームページにおける大石神影流剣術の歴史のページ及び形のページ
4)貫汪館昇段審査論文課題「指導上の留意点について」自著
5) 〃 「剣術の歴史における大石神影流剣術の歴史とその特質について」自著
- 2015/11/28(土) 21:25:00|
- 昇段審査論文
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~大石神影流剣術を通じて何を教えるべきか~
1.序文 ~現代における「古武術」指導の意義~
本論文は大石神影流剣術の指導を通じて指導者が門人に何を教えるべきかを論じるものである。
現代において大石神影流剣術は「古武術」である。まずは現代における古武術指導の意義から考えてみたい。
「武術」という言葉の一般的な解釈は戦いのための技術ということになるだろう。だが、「古」という字が表すように古武術は過去の時代の形態を色濃く残しているのが特色である。大石神影流剣術であれば、江戸時代末期に初代大石進によって興された頃の形態を今に伝えている。よって単なる戦闘技術としてこれを教えることにはあまり意義を見出すことは出来ない。当然だが想定しているのが現代の戦闘ではないからである。単に戦うための技術を身に付けることを望む者にとっては、有事の際に戦闘に携わる軍事・警察関係の組織に所属するなどし、現代において想定される状況を前提とした現代式の戦闘教練を受ける方が余程理に適っている。また、そうした軍事・警察関係の人間以外が戦闘に用いることを主眼とした技術の積極的な習得および伝播を行うことは外部の人々から危険因子と見なされかねない行為でもある。先に現代の戦闘を想定した技術ではないと述べたが、それでも物理的に他者を害することにも用い得る技術ではあり、それを身に付けるということは武器を身に帯びることにも等しい。ほとんどの場合、古武術を習うのは民間人であり、単に戦闘技術を伝える場としての在り方は望ましいとは言えず、それ以上の価値を持つ場でなければならない。
大石神影流剣術に限ったことではないが、古武術には神、師、刀などの武具、また周囲に対し礼を払うことを学ぶ礼法としての側面がある。また大石神影流剣術の手数稽古・試合稽古で学ぶ技術は単に相手を効率的に殺傷することのみを追求するものではなく、如何に争いを治めるかという思想に基づいて作られたことが読み取れる。流派の歴史を学ぶことでそれが作られた時代背景や、伝えてきた人々の価値観を知ることが出来る。そのような技術・知識・思想を学び、それにより新たな視点や価値観を身に付け、自己の人生に活かしていく行動学としての在り方にこそ現代において古武術を教えることの意義があると考えられる。
2.武術の目的 ~調和をもたらす技術~
古武術を単に戦闘のための技術として捉え、習得することには意義がないこと、また大石神影流剣術がそのような技術ではないことは先に述べた。
そもそも「武術」とは何を目的とすべきであろうか。積極的に対立状況を作り、それによって発生する戦闘に参加し、敵対するものの殲滅を図るのか、可能な限り争いを避け、自己と周囲の人々の生存のために用いるのかでは全く方向性が異なる。ただ敵対する相手を殺傷するための技術だと捉えるならば、もたらすのは破壊でしかない。そのような技術には学ぶ価値は存在しない。少なくとも民間人の立場ではそのような技術を学ぶべきではないだろう。争いを治め、調和をもたらす術としての在り方にこそ存在意義がある。争いが起きぬように周囲の状況に気を配り、起きそうなときは手を尽くしてこれを防ぎ、起きてしまった場合は自己と周囲の人々の生命を守りつつ状況を素早く見極め、敵対することになってしまった相手も含め最小の被害でこれを終息させる努力をする。敵対する相手をただ力で制圧するようなやり方では押さえつけられた側には憎悪が残り、後々に新たな争いの火種となる。可能な限り禍根を残さずに争いを治める。これが武術の目的とすべきところである。
現実的には一個人、特に一民間人では出来ることは限られているが、社会秩序とはそれを構成する個々人の意識の積み重ねによって成り立っているものであり、先に述べたような思想を持った人間が多くなれば、大きな影響力と成り得る。指導者が力を尽くしてその目的たるところを教えれば、古武術の指導はそのような社会的意義を持つものだと考えられる。
調和をもたらす術、という観点から大石神影流剣術の稽古を通じて教えるべきことを以下に述べる。
(i)他に心を配る
大石神影流剣術に伝わる礼法には神前への礼と相手への礼がある。これらの動き方を教えることも流派を伝える上では大切なことだが、ただ「そういう手順の動き」として教えるだけではいけない。重要なのは気持ちのこもった礼、礼の対象にしっかりと意識が向いた礼が出来るよう指導することである。神前への礼では神の存在をイメージして、相手への礼では目に見えない相手の心に意識を配り、相手の心の働きを感じながら礼法を行うことを教えるべきである。これは手数の稽古にも通じるものであり、様々な形で相手の心を読むことを学べるように仕組まれている。例としては、陽之表の一本目「阳剣」では相手の起こりを捉えること、二本目「阴剣」では相手の働きに応じること、四本目「二生」では相手の変化するところを捉えて機先を掛けることを学ぶ。これらは自分勝手に手順通りの動きをすることに終始していては絶対に身に付くものではなく、相手の心を感じることを学ばなければ習得できない。
大石神影流剣術の技術はすべて他との関係性の中で成り立っているものであり、自分本位に構成されているものは無く、相手と調和することを求めるものばかりである。稽古を通して教えるべきはこのような心の働きであり、これの習得は日常の社会生活においても他者との調和に寄与するものである。他者の心の状態を感じ取れるようになれば、相手の次の行動を予測して最適な対応をすることが出来るようになる。既に対立状況になってしまった相手に対応するだけではなく、家族・友人・同僚・上司といった人々との関係においても、相手の心に気を配ることで相手の望みを理解して尊重し、適切な言葉・行動で自分の思いを正しく伝えることで円満な関係を構築することが出来る。自らの周囲に調和をもたらすことは争いを未然に防ぐことにも繋がる。
(ii)多角的な視点
物事を多角的に捉えられる視点を持つことも調和をもたらすために必要なことである。
江戸時代以前、武術は単一の種目のみに偏らず、複数の種目を併修することが良いとされた。そのため、複数の流派に入門することも珍しい行為ではなかった。これはいざという時は戦場に出る必要のある武士はあらゆる状況に対応できるようにしておく必要があり、様々な技術を満遍なく学ぶことが求められたためである。剣ばかりを修行して戦場の主要武器たる火縄銃や弓矢などの飛び道具、または鎗などの長柄武器の技術は身に付けていないので、戦場に出ることは出来ない、といった状態では武士身分に求められた技能として不適格だと考えられる。町民・農民身分の者が自衛のために武術を学ぶことも珍しくなかったが、その場合も当時の盗賊の類は刀を持っているのが当然で、長巻や鎗などの長柄武器で武装している場合もあり、身を守るためには自らもそれらの業を知っていることが望ましかった。相手の出方を見てから対応していては身を守ることは難しい。相手の動きを予測することが求められるが、そのためには自分自身が相手の使う業と同種の技術を知っている必要がある。剣に対抗するためには剣を知らなければならず、鎗に対抗するためには鎗を知らなければならない。
大石神影流剣術は剣を中心とする流派であるが、大小差しの内の大刀を用いる技術だけではなく、鎗・長刀・六尺棒を扱う業、剣術も鞘に納めた状態から用いる抜刀術、大小の刀を両手で用いる二刀、小刀で大刀を持った相手に対する小太刀、といった多種多様な技術を含んでおり、決して単一の技術に終始するものではない。また貫汪館では伝えている他の二つの流派、無雙神傳英信流抜刀兵法と澁川一流柔術も併修することを推奨しているが、無雙神傳英信流抜刀兵法も複数の種目で構成される流派であり、一人で行う素抜き抜刀術の他に剣術・柔術を含む、澁川一流柔術も同じく複数の技術を含み、素手対素手、素手で懐剣・刀などの武器に対する業、棒・十手・分銅・鎖鎌で剣に対する業がある。これらを併修する場合、さらに多種多様な技術を学ぶことになる。
実技を学ぶ上では流派の歴史についても学ばなければならない。何故そのように技術体系が構築されているのかを理解するためにはそれが作られた時代背景についても知る必要があるからである。先に述べた江戸時代以前に複数の武術を学ぶことが当然であったこともそういった背景の一つであり、実技の本質を理解するためには歴史の学習は欠かすことの出来ない要素である。
これまで述べた多種多様な技術の稽古、そして知識の学習を通じて教えるべきは物事を様々な面から見ることの出来る多角的な視点を持つことの重要性である。自分が今知り得ていることが全てだと思ってしまえば、その範疇の外にある事象を理解することは出来ない。自分の価値観の外にあるものを受け入れる余地を無くしてしまうからである。このような状態では不測の事態が起きた時、それに対処することが出来ない。そういった単一の価値観に囚われた状態に陥らないためには自分に見えているのは事象の極一部に過ぎないのだと観念し、別の視点から事象を理解しようとする姿勢を持たなければならない。多種多様な技術の稽古からは一つの方法論に偏らないことを、歴史の学習においては現代とは全く異なる文化背景について知ることを通じて今までの人生で身に付けてきたものとは異なる視野で物事を見ることを教えることが出来るはずである。
多角的な視点を持つことは他者と調和することに繋がる。これは先に述べた他に心を配る、ということとも密接に関係している。他者と調和するためには相手を知ることが必要である。他者を理解するためには相手の立場に立って考えることが出来なければならない。自分とは異なる価値観を持つ相手を知るためにはその価値観を理解する必要がある。多角的な視点を持ち、様々な観点から物事を考える姿勢を持っていれば他者の立場、他者の価値観を理解でき、それは他者との調和へ繋がる。常に相手の立場・価値観を理解するように心掛けていれば、相手の意思・行動を不必要に阻害せず、無用な対立を招かずに済み、対立状況に陥ってしまっても相手の考え方・取り得る手段を予測して対立状況の解消のために有効な対策を考えることが出来るからである。
3.師は絶対のもの ~学ぶ者の取るべき姿勢と師の責任~
指導者(師)と教えを受ける者(弟子)の関係も重要である。弟子にとって師は上位に立つ存在であり、その教えは絶対のものである。弟子が師の教えに疑問を呈したり、自分勝手に解釈したりすることは許されない。師は進むべき方向を示しているのに、それと異なった方向を向いていては教えを理解し、身に付けることは絶対に叶わないからである。上位にある師の理解と弟子の理解ではその程度に隔たりがある。師の示す動き、話す言葉は弟子の理解の程度より上位にあるものであり、弟子が現在理解できていることを基準に解釈していては師の教えの本質を捉えることは出来ない。師の動き・言葉の表面にあるものだけではなく、その奥、その裏側に込められたものを学び取るためには一切の私見を差し挟むことなく、素直に師の教えに従い、わからなければわかるまで努力を重ね、どうしても理解できないときは真摯に問う、という姿勢が必要である。こういった姿勢は武術に限らず、何かを学ぶときには必要なことであり、教えを受ける者が指導を受け始める以前から具えていなければならないことであるが、必ずしも充分に具えられているとは限らず、必要に応じて教えていくべきことだと考えられる。
(i)物事の本質を理解する
このような姿勢を持つことは物事の本質を理解する能力を養うことにも繋がる。先に触れたように師の教えを受ける際はその表面だけでなく裏側にあるものも学び取ることが求められる。師が一時に示す動きや言葉はあくまで表面的なものだが、そこには師がそれらを修得する過程で得た経験、身に付けてきた知識が込められているからである。特に武術流派のように「形」で伝えられる技術体系はそれを組み上げた人物の膨大な経験が集積されたものであり、いま目の前にいる師だけではなく、流派を伝えてきた先人達の教えも込められている。先に述べた多角的な視点で見ることとも通じるが、あらゆる物事はその表面に見えているものだけで出来ているのではなく、それが成立するための背景がある。物事の本質を理解するためにはその背景についても知らなければならない。私見を差し挟むことなく、師の教えを素直に受け取り、その裏側にあるものを学び取る努力によって様々な物事の本質を捉える感性が養われるのである。
(ii)師の責任
序文で述べたように武術は直接的に他者を害することに用い得る技術である。また武術に限らず多くの「技術」や「知識」は程度の大小はあるが、個人やあるいは社会に何らかの影響を及ぼす「力」であり、それの悪用は社会秩序の破壊に繋がるものである。例としては、医学・化学の知識は毒物の生成に、土木技術は大規模な破壊に、経済学・社会学・心理学・法学などは他者の生活に影響を与え社会的地位の喪失を招くことにも用い得る。このような観点で見た場合、武術の影響力は個人レベルのものであるが、それでも極めて直接的な「力」でもあり、その悪用は決して許してはならないものである。先に述べたような学ぶ姿勢を弟子に取らせなければならない理由がここにある。弟子は当然のことながら学んでいる技術についての理解は未熟な状態にあり、師の教えを唯一の道標として上達の過程を進んでいくものである。弟子が自分勝手な解釈で間違った方向に進むことがあってはならず、師は常に正しい方向へ導いていかなければならない。そのためには師自身が常に自己を顧み、正しい方向を向けているのか自問し続けなければならない。弟子をより良い方向へ導いていけるよう師自身が常に上達のため不断の努力を重ねる必要がある。そのような努力なしでは、指導は浅薄なものとなり、動きも言葉も弟子を導くのには不十分なものとなってしまうだろう。
武術は師から弟子へ、盃から盃へ一滴も溢すことなく水を移すように伝えられていくものである。いま教えている弟子にはいずれ師となって次の世代の弟子に流派を伝えていってもらわなければならない。師の行動・態度のすべてが弟子にとっての教えであり、またそうであるように努めていく責任がある。
4.まとめ ~「行動学」 生きた文化として伝えるために~
これまで述べたように大石神影流剣術を通じて教えるべきことは、他者に心を配り、多角的な視点を持ち他者と調和を図ること、師との関係から物事を学ぶときに取るべき態度を身に付け、本質を理解する力を養うことである。稽古を通じてこれらを学び、自己の生活に活かしていく行動学として在り方にこそ現代における大石神影流剣術を含めた古武術の存在意義を見出すことが出来る。他の技術でもそうだが武術には危険な側面もあり、身に付けた人間が間違った方向にそれを用いることは断じてあってはならない。これからの時代に生きた文化として大石神影流剣術が伝えられていくためにも、学んだ人間が自己の人生をより良い、豊かなものとしていくための学びの場として存在していくべきである。
参考文献
1)森本邦生:貫汪館 本部ホームページ
2)森本邦生:「道標」
- 2015/11/29(日) 21:25:00|
- 昇段審査論文
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受審課題 :無雙神傳英信流抜刀兵法普及の方策について論じなさい。
前言
無雙神傳英信流抜刀兵法普及の方策について、まず貫汪館の現状の方策について分析し、続いて現在は行っていない方策について検討してみようと思う。
Ⅰ.現状の方策について
現在、貫汪館の本部道場、地方道場、各支部において行われている普及の方策は、次のとおりである。
それぞれ、内容の説明、特徴、その効果の順でおおむね記述することとする。
1.チラシ、ポスター、会報の作成
(1)チラシ
昔ながらの紙媒体である。道場名、流派名、稽古場所、稽古時間、キャッチコピーなどを記載して、地区センターやスポーツセンター、店頭などに置いたり、掲示板に掲示する。
作成が容易で費用も掛からず、設置や掲示も比較的簡単なため、本部道場、地方道場、各支部で行っている。
しかし、実際の効果はあまりないようである。チラシを見て入門という話は今のところ聞いていない。
(2)ポスター
貫汪館主催の奉納演武や講習会の際に作成し、会場周辺などに掲示している。またその画像をフェイスブックへの投稿にも利用している。
開催場所、日時、参加費、内容などを記載して、派手な画像を配置し、デザインを工夫する必要がある。ただ、専用のソフトがないと作成も難しく、手間の掛かる作業と言える。また、カラーインク、大型のポスター専用用紙などは費用もかなり高額なものとなる。
普及というよりは、奉納演武や講習会の単発の宣伝、集客効果が見込まれる。
(3)会報
年に数回、会報を作成しており、行事報告が主な内容である。
主に、柔術の子供の門人の家族への配布が目的であるが、PDFファイルとして本部ホームページへもアップしている。
外部に向けての普及というよりは、内部広報が目的と言える。
2.都道府県、市区町村への団体登録
これも昔ながらの方法で、道場が所在する各都道府県、市区町村など役所へ団体登録を行う。チラシ同様、道場名、流派名、稽古場所、稽古時間、キャッチコピーなどを記載して、団体登録を行う。
役所が相手のため平日に調整を行う必要がある場合がほとんどであるが、登録は比較的簡単な場合が多く、通常は費用も掛からない。
やはり本部道場、地方道場、各支部で行っているが、実際の効果はほとんどないようである。登録情報を見ての入門という話は今のところ聞いていない。おそらく、武道の道場を探す手段として、役所に問い合わせるという発想はあまり一般的ではないのであろう。
3.インターネットの利用
(1)武道の検索サイトへの登録
武道団体専用の検索サイトがいくつか存在する。武道から格闘技まで一緒のサイトから、居合だけのジャンル分けができているサイトまで様々である。
登録はインターネットで行えるので、場所と時間の制約がない点は負担が少ない。入力項目は基本的なものだけのサイトから、所属連盟まで登録できるサイトまで様々である。またすぐに反映するサイトもあれば、反映までの日数が掛かるサイトもある。
検索サイトの効果は、何件か確認されている。検索サイトで検索して、見学体験に来て入門した、という話を聞いている。
ただ、登録すればすぐに問い合わせがある、というほどの爆発的な効果は期待できない。他にも多数の団体が登録されており、目立つための工夫が必要ということかもしれない。また、これから武道を始めようという人間は、そもそもこういった検索サイトがあること自体を知らない場合も多いようである。
(2)ホームページ
本部道場のホームページは平成16年開設であり、すでに10年以上が経過している。当初、流派紹介や稽古場所、稽古日時の紹介から始まり、会報の掲載、行事のギャラリー、ブログのアップなど、常に更新を行っている。また地方道場、各支部の設立に伴い、それぞれの道場、支部のホームページも開設した。
以前は、ホームページを開設するためには専用ソフトが必要で、HTMLなどの専門的で高度な知識も必要とされたが、現在はフリーのページも提供されており、HTMLなどの知識がほとんどなくても簡単に開設できるような環境となっている。
ホームページには効果が認められている。ホームページを見て講習会に参加した、見学体験に来た、入門したという話を多数聞いている。地元で武道を始めたいという人間は、現代ではまずインターネットで検索するということが多いであろう。その際、ホームページは重要な役割を果たす。
その場合、SEOは重要である。地元住民の注目を集めるためには、地元の地名は必須である。また、「貫汪館」や「無雙神傳英信流抜刀兵法」といった単語を含めるのは当然のことであるが、それよりも「古武道」「居合」といった一般的な単語を含めた方が効果が高い。これから武道を始めようという人間は、専門用語を知らないのだから、これは当然と言える。
(4)ブログ
本部ホームページにおいて、ブログ「道標」を館長が毎日更新している。貫汪館の方針、館長の考え、活動報告、無雙神傳英信流抜刀兵法について、大石神影流剱術について、澁川一流柔術について、などがアップされている。
また、各支部の稽古日誌もブログの一種であると言える。
比較的古い媒体ではあるが、情報発信としては有効な手段の一つであると思われる。
(5)フェイスブック
貫汪館では現在、フェイスブックを活用している。これは宣伝、という意味ではとても効果が高く、情報発信の場となっている。毎日の館長のブログの更新、支部の稽古日誌の更新、講習会の告知、奉納演武の告知、などなど。
年代が上の世代やパソコンが苦手な人間には抵抗があるようであるが、慣れれば簡単なものである。パソコンがなくても、スマートフォンから簡単に更新、閲覧ができるのも強みの一つである。
(6)ツイッター
ツイッターの公式アカウントも作成されているが、現在は活用されていない。
情報拡散という点では圧倒的な力を有しており、活用が望まれる。
4.友人、知人、職場の同僚への勧誘、口コミ
友人、知人、職場の同僚への勧誘である。武道に興味がある人間がいれば、すでに見学体験、入門しているかもしれない。
本部道場において、ヨガや瑞穂舞の講習会の際には行われており、単発の付き合いでの参加はあるが、入門にまでは至っていないのが実情である。
一方、口コミによる入門も確認されている。友人、知人、職場の同僚への勧誘と異なり、積極的なものではなく、結果として効果があったということであろう。普段から良好な道場運営を行っていることにより、結果として人の輪が広がるものであり、ただやみくもに宣伝をすれば良いというものではないであろう。
5.講習会の開催
(1)本部講習会
本部では、毎年数回の講習会が開催されている。
会場の確保、事前の準備、当日の運営、片付け、定例稽古日以外(主に週末)の利用、といった手間はあるが、一般からの参加があったり、以前から興味があった人間の参加があったり、地方から参加してそのまま入門というケースもある。
一定の効果はあり、今後も定期的な継続が望ましいと思われる。
(2)支部講習会
横浜支部において年二回開催されている。
本部講習会と同様の手間が掛かり、本部から館長を招聘するために交通費が掛かるなどのコストは必要だが、やはり一定の効果は見込まれる。
入門にまでは至っていないが、知名度を上げるといった点では効果があると思われる。
(3)外国人向け講習会
武道に興味のある外国人は多い。しかし、言葉の壁があって、参加をしないことが多い。
外国人向けに、外国語のポスター作製、ホームページへの掲載などが必要となる。
今までにも参加実績があり、外国人の入門者もいる。
いずれ、外国支部が設立されることもあるであろう。
6.演武大会、奉納演武、各種イベントへの参加
(1)演武大会
貫汪館では以前より、日本古武道協会主催の日本古武道演武大会などに参加している。
広島からの参加は交通費などのコストが掛かる点が問題と言えるか。
ただ当然、これにより知名度は上がり、演武を見れば他との違いもわかり正しい認識につながることが期待できる。また、その演武を見て興味を持ち、見学体験、入門というケースもある。効果は高いものと言える。
(2)奉納演武
同様に、日本古武道振興会が主催の明治神宮、下鴨神社、白峯神宮での奉納演武などに参加している。また近年、貫汪館において出雲大社での奉納演武も主催している。今年は、貫汪館設立20周年記念として、貴船神社、松尾大社、石清水八幡宮での奉納演武も主催した。
主催する際には、事前の準備、調整、当日の運営といった手間は大変なものがあるが、知名度を上げる、実績を作る、といった点では効果的であろう。演武大会と同様の効果が見込まれる。
(3)各種イベント
古武道関係の行事があれば、積極的に参加している。演武大会、奉納演武と同様である。また、古武道と直接関係がなくても、関連があるイベントであれば、可能な限り参加している。講演の際に演武するなど。
観光客や外国人相手の場合、集客効果も高く、その場では大変喜ばれるが、けっきょくはその場限りのものであることが一般的である。ただ、波及効果は見込まれる。
お祭りの際の出し物としての演武は行っていない。軽いパフォーマンスとみられる危険性があるためである。ただし、地元への周知という意味では効果が高いものと思われる。
筑波大学での古武道体験プログラムにおいては、留学生に大変な好評を得た。
嵐山伝統武道奉賛会が主催の嵐山伝統武道大会は、嵐山駅はんなり・ほっこりスクエア2周年感謝際の一環として嵐山駅前特設会場で開催された。貫汪館では、無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剱術、澁川一流柔術の演武を行ったが、真夏の暑い陽射しが容赦なく照りつける中、たくさんの観光客が熱心に観覧していた。
7.古武道振興会、古武道協会への加盟
貫汪館は、古武道振興会と古武道協会へ加盟をしている。
上述のとおり、古武道振興会、古武道協会が主催の演武大会などに参加している。
入会費、年会費などが掛かることと、行事参加のための交通費が掛かることがネックか。
8.組織力の強化(NPO法人化、支部の設立、昇段審査)
(1)NPO法人化
貫汪館は今年、創立二十周年の節目の年を迎え、組織をNPO法人化した。
所管の都道府県に書類を提出しなければならず、約款の作成や役員の選出、法人登記簿の作成など、準備には大変な手間が掛かる。また、NPO法人化後も、収支報告や事業報告などが必要となる。
しかし、NPO法人化することで、社会的な信用度は一気に上がる。地方の一町道場と、都道府県の認可を受けた法人では、その信用度は比べるまでもない。
各種助成金の申請の際にもその信用度は重要なものである。門人増加に直接関与するものではないが、重要なことである。
(2)支部の設立
地方に入門希望者がいても、地方から広島へ通うのは困難が伴う。各地方に支部があれば、入門は容易なものとなる。また、転勤などがあった場合でも、各地方に支部があれば稽古を続けやすくなる。
実際、日本古武道振興会が主催の明治神宮での奉納演武の際や、日本古武道協会が主催の厳島神社での奉納演武の際には、見学客から地方に支部はないのかと問い合わせをされたことが何度かあると聞いている。当時は支部が存在せず、案内ができなかったと。
現在は、横浜、名古屋、大阪、久留米などに支部があり、地方での入門が可能である。
ただし、支部を任せられる支部長を育成する必要があり、人材と年数が必要となる。
(3)昇段審査
せっかく入門しても、その稽古が続かなければ意味がない。古武道の伝統的な免許段階を守る必要もあるが、修業者のモチベーション維持のためにも、昇段審査は有効な手段と言える。
流派ごと段位別の審査課目や論文課題、審査基準の策定、合否の判断などが必要となる。
ただし、昇段を機により一層の稽古に励む者ばかりとは限らず、昇段によってかえってモチベーションが下がる者もいる。また、段位を笠に着る者もいるかもしれない。良い点ばかりではなく、その弊害にはよくよく注意すべきであろう。
9.日本武道学界での論文発表
館長は日本武道学界の会員であり、以前から論文を発表している。
古武道は日本の伝統文化であり、武道史の研究は必須である。
研究のための費用は膨大なものとなるが、貫汪館は単に技を伝えるだけではないという証となるであろう。
Ⅱ.現在行っていない方策
現在、貫汪館で行っていない普及の方策には、以下のものがある。
1.居合道連盟等への加盟
現代居合道、あるいは古武道としての居合道場が所属している連盟は複数ある。
しかし、貫汪館は現在、これらいずれの連盟にも加盟はしていない。それは、たしかに加盟することによって道場の人数は増えるだろうが、それによる弊害もあるからである。
それぞれの連盟にある制定居合を稽古しなければならなくなる。自流のみの稽古では、行事への参加が制限され、加盟の存続はなにかと難しいものとなるであろう。
昇段審査や競技大会の存在があり、自流の業のみを稽古していれば良いということにはならない。昇段審査や競技大会があれば、それに参加したくなるのは人情であり、参加する以上は優秀な成績を収めたいと思うものである。そうなれば当然、自流の稽古がおろそかになる危険性がある。また、昇段審査や競技大会とは関係のない太刀打や詰合、大小詰などの稽古はなおさらであろう。
他者に判断を求める昇段審査や競技大会においては、どうしても見栄え重視となりがちである。それでは、貫汪館で伝える無雙神傳英信流抜刀兵法普及の本質から離れてしまうことになる。それは避けなければならない。普及のために本質を犠牲にしてしまっては、本末転倒というものである。
連盟は複数の流派が所属するものだが、上述のとおり昇段審査や競技大会があるため、どうしても統一された価値観になりやすい。そういった価値観は、貫汪館の求めるものではないのである。
2.娯楽メディア
小説、マンガ、ゲーム、映画などに剣術、居合の流派が登場することにより、一時的なブームになることがある。
こちら側から積極的に仕掛けるようなものではないが、結果的に普及につながることがあるかもしれない。
3.動画サイトへの動画アップ
動画サイトへの動画アップである。各地での奉納演武を撮影した第三者がアップしている動画を散見するが、貫汪館としては積極的に行ってはいない。
無雙神傳英信流抜刀兵法は古武道であり、秘伝と公開のバランスが難しいというのが一つの理由である。しかし、奉納演武などで興味を持って入門する者がいるが如く、動画を見て興味を持つ層が必ずいるであろう。技術的な問題はあるが、導入すべきと考える。
4.学校教育、スポーツジム、カルチャーセンター
(1)学校教育
剣道や柔道は、学校の体育やクラブ、部活動で行われており、広く普及されている。
しかし、無雙神傳英信流抜刀兵法は古武道であり、学校教員が一律に指導できるようなものではない。安全性の確保、道具の確保などの面からも、困難と思われる。
(2)スポーツジム、カルチャーセンター
各種の現代武道、古武道、外国の武術がスポーツジムやカルチャーセンターのレッスンとして行われている。安定した場所の確保、生徒の確保ができる。一般になじみのない武道場や体育館よりも、ハードルが低いであろう。
レッスンでは初心者向けの内容を指導し、本格的な稽古を希望する者には道場へ入門というのが有効な手法であろう。
結言
普及とは、高い知名度、正しい認識、門人の多さの三つに集約されるだろう。
いずれにしろ、潜在的な需要はあるはずである。
今後も積極的な情報発信に努めたい。
- 2015/11/30(月) 21:25:00|
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武道における礼と大石神影流剣術における礼法について1.武道における礼
私は高校で弓道を、社会人になってからは柔術を習いました。この中で、それぞれの礼法を学びましたが、その違いや理由については深く考察してきませんでした。
弓道では、道場に神棚があり、この神棚に向かい神前礼拝を行っておりました。神棚への礼でしたので、神社での礼拝と同じ二拝二拍手一拝でした。最初に習った時に、稽古で怪我がないよう神様に祈るのだと伺い、特に疑問を持ったりせず、よって礼法の意味を考えることはありませんでした。宗教上の理由から、礼を行わない人もいましたが、それはそれで良いと思っていました。今改めて調べ直すと、深い理由があるようで、その理由に気づかせるために神前礼拝を行っている道場もあるようです。
柔術では、稽古場として体育館を利用していましたので、神棚はありませんでしたが、神前と決めた方向に向かい、先生と一緒に礼を行っておりました。その礼法は、正座して体を屈してゆき、畳に左手をつき、さらに屈して行き右手をついて礼をするものでした。手をつく位置は、無雙神傳英信流の刀礼とは異なり、もっと体に近い位置で、体を屈していったときに、ちょうど鼻の位置になる所でした。
この時に習ったことは、以下の3点でした。
①いつ攻めこまれても対処できるように、利き手である右手は最後に出し、また礼の後も右手から収める。これにより隙のある時間を最小限に抑えること。
②礼の最中に頭を押されても鼻が潰れないように、手のひらを少し曲げ、鼻を守ること。
③親指を切られると刀を持てなくなるから、礼の前後では親指を切られないように、常に隠すこと。
神前への礼ですら、気を抜かないのですから、稽古相手への礼も、同じく気を張り詰めた礼でした。
柔術は、立ち技と、正座でつま先立ちになった状態の跪坐の2つの姿勢があります。立ち技での礼は、両手の親指を隠したままで軽く会釈するもので、相手から目を離さないように注意されました。跪坐での礼は、神前への礼と同じ礼法でした。頭を下げるため相手の動きは見えませんが、気を張り相手の動きを察することを学びました。
弓道と柔術を習うことで、礼法にも流派ごとに作法が違うこと、礼の意味も全く異なることに気づきました。また、柔術の礼法を学ぶことで、弓道の礼拝のように、その場の礼で礼法が終わるのでなく、礼が終わった後の稽古でも、気を張り注意することを心がけるようになりました。ただ日常生活ではすっかり忘れ、稽古に来て、礼法の時に気を張るスイッチが入るといった事の繰り返しでした。稽古と日常生活が解離していたように思えます。
今振り返ると、礼法は毎回行うものですから、どの技より多く稽古するもので、ただ漫然とおこなっていたのでは、その裏にある重要な何かを悟ることなく、進歩もしないものではないかと思っています。当時の先生から伺った言葉で、一番印象に残っている言葉は「万年稽古」です。正しい稽古を積み重ねないと、何年経っても微々たる進歩しかしません。これを回避するために、正しい稽古を指導してくれる師を選ぶことの大切さや、師を探すには3年かけてでも探す努力の必要性を教わりました。柔術は転勤のため、やめてしましましたが、その後の数年間は、通勤の際に歩き方や、立ち方を工夫してみました。いずれ武術を再び習うつもりでしたし、その日のために、少しでも動ける状態を作っておきたいと考えていたからです。この時に気をつけたことは、柔術の稽古の際によく指摘された、力を抜くことと、いつでもどこから敵に襲われても動ける状態を作ることでした。残念ながら、この数年の間に進歩は全くと言ってよいほどありませんでした。それは、一人で稽古をしていたのでは、正しいのか、間違っているのか評価されないからだと思います。いつ敵に襲われるか分からない時代なら、襲ってきた敵により評価できますが、現在ではそれが無いため、評価できません。師のいない稽古は、評価が無いため、万年稽古に陥ることを、身を以て知りました。
貫汪館に入門することで、万年稽古から脱することができました。柔術をやめてから、課題にしていた正しい立ち方や歩き方は、未だに納得できる所まで至っておりませんが、先生に今の動作が良かったのか、悪かったのか評価を頂ける度に、進歩したことが分かります。特に立ち方は、自分では気付かなかった前かがみの癖をご指摘頂き、自分でも大きな進歩があったと自負しています。また、先生の礼法や技を拝見する度に、進むべき方向が見える気がします。
武道における礼は、各流派により異なるもので、その作法や意味はそれぞれです。武道を稽古することで、礼が身に付いたり、相手への感謝の心が現れたりするなど、人により千差万別のとらえ方があります。どれもその通りだと思いますが、それだけではないと思います。礼は稽古の前後に毎回行うものですので、ともすると、この道場の規則だと捉えがちで、その瞬間から万年稽古になってしまいます。私の場合も、弓道と柔術ではそうでした。演武会などで他の流派の礼法を拝見するに、どの流派も先生が前に出られて、礼をされ、弟子はその後で礼をしています。毎回の稽古で先生の礼を見るわけですから、そこから何が学べるのか、自分の動きは合っているのか、思考することで武道の上達に寄与するものと思います。
2.大石神影流剣術における礼法
大石神影流剣術での礼法は、帯刀したままで、片膝と両拳を床につけます。このときの手の付き方は、爪甲礼です。爪甲礼は、拳を握って床につく礼で、武家流茶道での基本の礼とされています。掌を床につけず、拳をつけるのは、畳は歩く場所であるため、不浄な場所を掌で触ってからの点前を嫌ってのためです。大石神影流は、神社境内での稽古であったり、庭先での演武が行われたりしていたため、このような礼法になっています。
最初に礼法を拝見した時、刀礼が無いのは、略式からだと思いましたが、正式な礼法であることを先生から伺いました。刀礼が無いのですから、礼法の最中でも刀が抜ける状態にあります。
また立った状態から、片膝を床につけるまでは、力を抜きストンと落ちるのではなく、隙を作らないために、ゆっくり同じ速度で動くようご指導いただきました。柔術では、まさに、力を抜きストンと落ちることで、相手にかける技がありましたので、先生のご指導がなければ、いつまでもそのように動いていたと思います。柔術の経験は、見るべきところを見えなくしてしまっていたようです。この経験が稽古の妨げにならないよう、できるようになったと思った動きでも、何度も見直す必要があると思います。
さらに、礼法の前後の立ち方も、膝を伸ばして骨格で立つのではなく、いつでも左右前後に動けるように、膝を軽く曲げることも学びました。骨格で立っていると力がいらないので、楽ですが、瞬時に動くことができません。弓道では骨格を使って弓をひきますので、立ち方も、骨格を使うと良いと勝手に考えておりました。これも先の経験が妨げになった例でした。
私は、まだまだ礼法の意味を理解するまでには至っていないと思いますが、刀礼が無いことや、同じ速度で動くことや、膝を曲げて立つことで、いついかなる時も気を抜かず、相手への対応ができる状態になれることを、大石神影流剣術の礼法から学びました。
これからも、礼法に内在する意味を読み取るように注意しながら、再び万年稽古のような停滞状態に陥らないよう、注意したいと思います。そのためには、礼法の稽古をおざなりにせず、真剣に行うことが重要だと思います。
- 2016/01/22(金) 21:25:00|
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