明けましておめでとうございます。 新しい年を迎えることができました。
時は流れ、だれにでも新しい年がやってきます。この1年を中身のある1年にするか、ただ流されていくかは自分次第です。人はその一生で何かを残せるのか、あるいはただ生まれただ死んでいくのか、生き方はそれぞれです。また、価値観もそれぞれです。自分はどういう生き方をするのかを考える良い機会にしたいと思います。
- 2021/01/01(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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流派の継承
無雙神傳英信流、澁川一流柔術、大石神影流を私に伝えられたレベルで後世に伝えること。これは梅本三男先生、畝重實先生、大石英一先生から託されたことです。三人の先生方全員が私に託されたことをやめることはできません。梅本先生は「自分の技を森本が伝えるように」とおっしゃり、畝先生は「森本先生にお願いすることはただ一つ、本物の澁川一流を次の世代に伝えてほしい。」とおっしゃり、大石先生は「私が80歳ちかくまで教えてきたので森本さんが来てくれた。森本さんも80歳まであきらめなければ本物の人が現れる。」とおっしゃいました。
すべては縁のなせる業ですが、伝えることをやめてしまえば縁もできませんし邪な者に付け入るスキを与えてしまいます。また、本物の人でなければすべてを伝えることはできません。求めるものが異なれば、流れは大きく変わってしまい、場合によっては全く別物になってしまうからです。難しいことですが、三人の先生方が行われたことです。
- 2021/01/02(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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大石神影流についてまとめること
大石神影流に関しては、私が中学生の頃に武道史の本を読みその頃の印象は、「ただ長い竹刀を用い狡いことをして勝った」というものでした。「真剣では使えない長さの竹刀を用い、悪弊を残した」というのもそうです。その頃読んだものには大石進種次の身長と竹刀の長さについて論じたものもありませんでしたし、防具着用の試合に積極的に突き技と胴切りを導入して袋撓を現在用いられているような竹刀にかえ、胴に丸みを持たせて、突きに耐えれる面をこしらえたというような記述は目にすることがありませんでした。
武道史研究のために大石進種次の玄孫である大石英一先生にお会いしてから、どうも今まで得ていた知識が違うのではないかと思い始め、先生に教えていただけるようになって、「歴史は歴史的事実ではなく、作られるもの」ということの意味を知りました。
さて、真実は何かと探り始めたとき、大石本家が東京で武具・文書類のほとんどすべてを失っているという大きな壁に突き当たりました。
古文書類がなく、見えてくることは全体の一部に過ぎないのですが、これまで武道学会で発表してきたように他の地域の文書や柳川古文書館に残った藩の記録などから少しづつ史実がわかりはじめ、やっと天保3年に大石進種次が江戸に出ていたという古文書を見つけることができました。そしてその目的が男谷精一郎にあったことも。まだまだ資料を見つけなければなりませんが、やっと骨組みはできそうになってきました。
- 2021/01/03(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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無雙神傳英信流についてまとめること
土佐の居合に関する古文書類は少なく、なかなか見えてきませんが、土佐藩への林六大夫による導入や幕末の状況については日本武道学会で発表することができました。発表の内容だけでもこれまでの俗説とは異なった史実が明らかになっています。もう少し史料収集が必要です。土佐の藩校致道館についてはその部分の土佐藩の史料が戦災で焼けてしまったこともありなかなか見えてきませんが、致道館の居合の指南役は山川久蔵、没後は下村茂市が維新まで勤めており、その下で働いた導役の多くは山川久蔵に関係する弟子たち、下村派、谷村派などという作られた歴史とは全く異なっていることも見えています。谷村亀之亟は致道館では教えず、その子が導役のうちの一人でした。なぜ宗家という伝系が江戸時代からあるという歴史が強引に作られているのかはわかりません。下村茂市の弟子は細川義昌以外にもおり、取立役であった細川義昌が維新後にも指導していたということで下村派の宗家というものではありません。
海外では植田平太郎先生が中山博道の弟子でもあったなどという嘘が信じられています。間違いは剣道連盟の有名な他流派の先生が書かれた書籍に載っているので広まったものだと思いますが、こういった意図的な間違い(嘘)が土佐の居合の歴史としてたくさん信じられています。
世の中には土佐に起源をもつ居合が広く行われていますが、多くの人たちは作られた歴史を信じています。何とか史料を見つけ出して歴史を正さなければなりません。
- 2021/01/04(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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広島藩の武術についての書籍を完成させること
原爆で多くの古文書が失われてしまいましたが、明治、大正、昭和に発行された書籍や雑誌で全体像はとらえることができ、まとめています。難波一甫流、貫心流、澁川流、新影流についてはできうる限りの範囲でまとめることができました。体裁は整います。原爆で史料が失われていますので、これ以上は史料が出るのを期待することはできないのではないかと思っています。売れない本を出版してくれるところがあればよいのですが。
支藩の三原藩やお隣の福山藩は寿命が長ければ着手しなければならないと思っています。
- 2021/01/05(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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初心者のうちは見て取ることは大変難しいことだと思います。自分が理解できるところしか見えないからです。また、先入観を持っていたり、他の流派や他の武道の経験があると、どうしてもその価値観で見てしまうので見ているつもりでもみえていないのです。
本質が少しでも見えてきたらやっと、その流派に自分が入れ、上達を始めたということでしょう。
- 2021/01/06(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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夏は日方冬は日隠を通候心得にて万端相慎み候事 難波一甫流の支流の難波一捕流の掟の一つです。良いことが記されているのでいくつかランダムに取り上げていきます。
上記の掟は心がけを暑い、寒いにかけて述べたものです。「夏に日向を歩けば人とぶつかることはない。冬に日陰を歩めばまた人とぶつかることを避けることができる。人と争わなければならなくなる状況を避けなさい。」という教えです。
現今は中途半端に武道をする人が好んで人の間違い探しをし、どうだとばかりに、それを責め自分の手柄を誇りたいという傾向もあるようです。正しいことを自分の考えとして表に出すことは構いませんが、他人の間違いを正してやるとばかりに他者を引き合いに出すのはあえて、争いを求めて自分を認めさせたいという思いからでしかありません。
「万端相慎み候事」の意味を考えなければなりません。武或る者は必ず慎むことを要します。
- 2021/01/07(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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他流之人柄出会之節自流賛談他流嘲口論堅無用之事 これも昨日述べたことと同じく「相慎み候事」と同じことを述べています。他流派の者と出会ったときに自分の流派を誇り、他人の流派をそしってはならない。」至極当然のことを述べていますが、少しできるようになった人に起こりがちなことです。果し合い、斬り合いが起こらない現在は、このようなことをする方もでかねません。指導される方はよくよく言って聞かせてください。
- 2021/01/08(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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喧嘩口論致間敷候、他人之喧嘩いたし候処へも必用捨肝要之事 喧嘩や口論はしてはならない。これも当然のことです。武あるものは慎む必要があります。SNSでは傍からみれば口論でしかないのに御自身では議論だと思っているようなものも目にします。そもそも、会ったこともなく、何かの話題に勝手に食いついてものを言うことが議論なのかどうか、それを受け入れないからといって自分の正当性を主張することが議論であるのかどうか。静かに考えればわかることですが、自分が絶対的に正しいと思い、自分の方が優れていると思っている方にはわからないようです。 また他人が口論している場に行き加勢して騒ぎを大きくする人もいます。心を静めよく考えればどう行動すべきかわかることです。
貫汪館で稽古される方は心してください。
- 2021/01/09(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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朋友中礼儀正敷真実会合肝要之事 ここでは会合を会議や集まりと解釈するのではなく、付き合いと解釈したほうが良いでしょう。江戸時代でも偽りの友人のまじわりがあったのでしょう。それは友人とは言えないと思いますが。
友と付き合う時には心の誠をもって付き合いなさいということでしょうか。うわべだけの付き合いをするので、だましたり、だまされたり、あるいは集まって人を陥れたり・・・。誠の交友関係を持ちなさいということでしょう。
難波一捕流の掟の抜き書きはここまでにします。
- 2021/01/10(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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昨年末の日本武道学会中四国支部会での私の発表を数回に分けて載せていきます。
Ⅰ.はじめに
飫肥藩津田一伝流師範 矢野宗吾(1836~1878)は矢野儀建(?~1858)の二男として1)天保7年に生まれた2)。青年時代江戸にのぼり桃井春蔵のもとで3年間修業し,のちに久留米藩の津田一伝流師範津田一左衛門に師事して印可を得て帰郷。藩主伊東祐相の命により津田一伝流の道場を開いた。明治11年6月8日に44歳で亡くなっている2)。
矢野宗吾の名 は安政4年8月6日以前に記され始めたと思われる『英名録』(仮称)(史料1),安政6年に発行された『津田一伝流武者組目録』(史料3)と『一伝流武者組免之巻』(史料4),文久元年に発行された『津田一伝流印可極意』(史料5)には惣吾と記されており,文久元年に記され文久2年から門人の名前がある『門人帳』(仮称)(史料2)には宗吾とあることから『津田一伝流印可極意』を得た後に惣吾から宗吾に改めたのではないかと考えられる。
本研究では矢野宗吾の『英名録』から石井寿吉が廻国した地域の各藩の剣術の動向を明らかにしたい。
- 2021/01/11(月) 21:25:00|
- 武道史
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Ⅱ.飫肥藩の武術
1. 飫肥藩の武術流派
『日本教育史資料 参』によると飫肥藩の藩校振徳堂で稽古された武術について次のように記されている3)。「校内ニテ教ユル武術ハ弓術ニハ日置流槍術ニテ無邊流旅川流大島流剣術ニテ堀内流二刀流真影流ナリコレハ定日ヲ立テ十五歳以上三十五歳以下ノ者必スニ藝ヲ習フヲ規則トス炮術ハ別ニ各自之ヲ習フソノ他弓術小笠原流馬術大坪流剣術ニ示現流炮術佐々木流高嶋流川合流柔術水練等アリテ校ニ各師家アリテ皆定日ヲ立テヽ之ヲ習フ右武術ハ各流共月ニ一流ニテ定日各十四五日ツヽ但シ弓馬ハ月々ニ六次ツヽナリ」
これによれば藩校で行われた槍術には無邊流,旅川流,大島流などがあり,剣術には堀内流,二刀流,真影流,示現流などがあることがわかる。
2.英名録等にみる飫肥藩の槍術・剣術流派
槍術と剣術に関しては幕末には廻国修行が行われ,その記録等も残っていることから試合を行っていた流派については英名録等で確認できる。
槍術に関しては万延元年(1860)に江戸の清水正熾が全国の有名槍術家を国別に編集し出版した『藝王姓氏録』4)の飫肥藩の項には宝蔵院流の川崎覺之助と平部貞一の名があり,飫肥藩に宝蔵院流の存在が確認できる。柳河藩の大嶋流槍術師範加藤善右衛門の『旅弟子姓名録』には飫肥藩の門人が10名確認でき5),大島流の存在も確認できる。また、高槻藩の藤井又一が所持していた『安政二(1855)乙夘歳四月 鎗術廻國修行便覧』6)には飫肥藩の項に「旅川流 川崎縫之助 無邊流 阿萬与次右衛門」と記されており,旅川流と無邊流の存在も確認でき,飫肥藩では槍術には無邊流,旅川流,大島流,宝蔵院流があったことがわかる。
剣術に関しては高鍋藩石井寿吉の『英名録』では嘉永6年(1853)11月19日に飫肥藩の飛び地である清武で堀内流と、嘉永7年(1854) 4月12日に飫肥藩清武で堀内流と 4月15日,16日に飫肥で堀内流・大石神影流と,安政2年(1855)10月16日に飫肥藩清武で堀内流と10月19日に飫肥で堀内流・大石神影流と試合している。安政2年の試合では大石神影流の門人に心形刀流を兼ねている者が1名いる。さらに安政5年(1858)3月9日に飫肥藩振徳堂で堀内流・大石神影流と試合している7)。土佐藩武市半平太の英名録では万延元年(1860)12月17日に振徳堂で堀内流・大石神影流と試合している8)。飫肥藩で幕末に試合を行っていた流派には堀内流と大石神影流があったことが確認できる。
『日本教育史資料 参』には剣術には堀内流,二刀流,真影流,示現流があったと記されているが,二刀流,真影流,示現流は試合をしていなかったと考えられる。『飫肥藩先人伝』9)には大石進種次の門人の荒木定蔵について「大石真影流」または「真影流」と記しており,『日本教育史資料 参』の真影流とは大石神影流をさしているのかもしれない。
3.新しい流派の導入
飫肥藩も他藩と同じように防具着用の試合技術に長じた流派の導入がみられる。槍術では先述したように柳河藩の大嶋流槍術師範加藤善右衛門のもとに飫肥藩から10名の遊学生があった。同様に剣術も柳河藩大石神影流師範大石進のもとに飫肥藩から14名の遊学生があった10)。
『飫肥藩先人伝』には柳河藩の大石進種次に入門し,飫肥藩で大石神影流の師範となった荒木定蔵が先に大石神影流の師範となった大田原俊蔵とともに指導し、のちに「田爪、黒木、和田、平川、矢野、森等他国に出でて面目を改む。」と記していることから他国の優れた流派を稽古する飫肥藩士がいたことがわかる11)。上記のうち田爪は田爪武のことであれば飫肥藩で堀内流を習い,出府した際に桃井春蔵に学び,のちに飫肥藩の堀内流師範となっている12)。また和田が和田勇のことであれば田爪と同じように江戸で桃井春蔵に習っている13)。矢野は本論で述べる矢野宗吾のことであろう。
- 2021/01/12(火) 21:25:00|
- 武道史
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Ⅲ 矢野家文書について
石井家には以下の剣術関係の文書が残されている
1.『英名録』(仮称)(資料1)…題名はないが,『津田一伝流印可極意』に「撃剣英名録」「英名録」という表題を記した紙片が間違って張り付けられている。かつてはこの紙片が貼られていたのではないかと考えられる。また,2枚あることから英名録は久留米の津田一左衛門に入門する前のものがもう1冊あったのかもしれない。冒頭に久留米藩津田一伝流津田一左衛門(在判)門人 飫肥は矢野惣吾と記されている。次に矢野宗吾が津田のもとで稽古していた時の津田一左衛門の久留米藩の門人名が記され,他藩からの遊学生の名前が記されている。ついで矢野の廻国修行の記録と津田道場での矢野と廻国修行者との試合について記されており,試合は安政4年(1857)8月6日の高鍋藩大石神影流から始まり,文久元年(1861)6月の津田導場での柳剛流の廻国修行者との試合で終わっている。
2.『門人帳』(仮称)(資料2)…。矢野宗吾の門人が入門年月日とともに署名をしている。起請文を書いたのが文久元年(1861)で文久2年六月から門人が署名をしており,慶応4年(1868)8月まで39名の名前がある。起請文の前半部分は欠損していると思われる。
3.『一伝流武者組目録』(資料3)…安政6年(1859)9月19日に津田一左衛門から矢野惣吾にあてた伝書。
4.『一伝流武者組免之巻』(資料4)…安政6年(1859)9月19日に津田一左衛門から矢野惣吾にあてた伝書。
5.『津田一伝流印可極意』(資料5)…文久元年(1861)6月27日に津田一左衛門から矢野惣吾にあてた伝書。「執心之仁於レ有レ之者堅掟以御相伝可レ有レ之者也仍テ印可如件」とあることから,この伝書をもって指南免状としたものと考えられる。矢野宗吾は『門人帳』にみるように文久元年に門人帳の起請文を記している
6.『津田一伝流形名附』(資料6)…この史料は現在矢野家に存在せず,宮崎県が宮崎県史編さんの過程で収集した資料の矢野賢次家文書の複製本(宮崎県文書センター)でのみ見ることができる。原本は散逸したものと思われる。表紙に津田一伝流の形名を文久元年6月に写したと記されていることから矢野宗吾が『津田一伝流印可極意』授かった時に久留米の津田家で筆写したものと考えられる。
7.『津田一伝流試合口相伝手続書』(資料7)…この史料も現在矢野家に存在せず,宮崎県が宮崎県史編さんの過程で収集した資料の矢野賢次家文書の複製本(宮崎県文書センター)でのみ見ることができる。原本は散逸したものと思われる。津田一伝流の門弟に対する伝授に関する文章のひな型と形の手順について記されているが,ページが抜けていたり,かけている可能性がある。また『英名録』に関しては一部の写真しかとられていないため『津田一伝流試合口相伝手続書』も一部のみ写真が撮られている可能性もある。内容からしてこの『津田一伝流試合口相伝手続書』も『津田一伝流形名附』と同じく矢野宗吾が『津田一伝流印可極意』授かった時に久留米の津田家で筆写したものと考えられる。
- 2021/01/13(水) 21:25:00|
- 武道史
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Ⅳ. 『英名録』にみる廻国修行の経路と試合した流派・人数
1.『英名録』について
『英名録』には先述したように当時の津田一左衛門の久留米藩の門人名が記され,他藩からの遊学生の名前が記されている。ついで廻国修行の記録と津田道場での廻国修行者との試合について記されており,試合は安政4年(1857)8月6日の高鍋藩大石神影流から始まり,文久元年(1861)5月の津田導場での柳剛流の廻国修行者との試合で終わっている。最初に遊学先の同門の名前を記すのは長州藩の陪臣であった渡辺直八の所持していた英名録である『諸国剣道芳名禄』14)や高鍋藩の石井寿吉の『英名録』にもみられる15)。
2.『英名録』の行程
年ごとの廻国修行の経路は以下の通りである。日付は試合の日付であり,到着した日付ではない。矢野宗吾の遊学先の久留米藩での試合の記録には下線を引いた。
安政4年(1857)
8/6高鍋藩➡8/9延岡藩➡11/25久留米藩津田導場か
安政5年(1858)
3/12久留米藩津田導場,3/29久留米藩津田導場,4/27久留米藩津田導場➡7/4秋月藩➡8/9久留米藩津田導場➡8/日不明対馬藩田代領
安政6年(1859)
2/16久留米藩津田導場,2/17久留米藩城内演武場,3/6久留米藩津田導場か,3/12久留米藩津田導場➡3/29築州面会➡3/晦日,4/1福岡藩➡4/4~4/20長府藩➡4/23~4/26中津藩➡5/11久留米藩津田導場,9/10久留米藩加藤田導場,9/19『一伝流武者組目録』と『津田一伝流印可極意』を授かる
安政7年・万延元年(1860)
1/20久留米藩津田導場か➡1/28蓮池藩➡2/21小城藩➡2/22佐賀藩武雄領➡3/2平戸藩➡3/6~3/6大村藩➡3/18,19島原藩➡閏3/1久留米藩,閏3/8久留米津田導場か➡月日不明福岡藩➡(閏欠か)3/27長府藩➡閏3/晦日~4/4長州藩➡4/7徳山藩➡4/11~4/13広島藩➡4/16三原藩➡4/18福山藩➡4/22(岡山)鴨方藩➡4/25赤穂藩➡4/27姫路藩➡5/25浪花➡8/9久留米藩
万延2年・文久元年(1861)
1/26久留米藩津田導場,3/13久留米藩講武榭,3/18久留米藩,4/9久留米藩津田導場,4/19久留米藩津田導場,5/7久留米藩津田導場,6/27『津田一伝流印可極意』を授かる。
矢野宗吾が津田一左衛門に入門した日付は不明であるが,安政6年(1859)9月19日に『一伝流武者組目録』と『津田一伝流印可極意』を授かっていることから考えれば入門の日は英名録の初めの試合の日付の記述である安政4年四月よりそれほどさかのぼることはないと考えられる。
3.試合した流派と人数
※(1)日付が前後する場合は入れ替えた。
(2)少人数との試合で場所が明記していなくても久留米での試合と推定できる場合には備考に廻国修行者と記した。
(3)廻国修行者と推定できる場合には流派名の上に藩名を付した。
- 2021/01/14(木) 21:25:00|
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居合の稽古をしているときに誰かが「あれでは斬れない」といったとき二通りの可能性を考えてください。
一つは言った人が斬るということを「据物斬り」としてとらえている場合があります。太い巻き藁を腰を据えて一刀両断する動きでなければ斬るとは言えないと考えている場合です。こういう考え方をされる方は多くおられます。額に10cm斬り込んだのでは斬るといわず。額から臍下まで両断することを斬るというとする考え方です。このような考え方に基づいて斬れないという方がおられます。
もう一つは、「あれでは生きて動く者は斬れない」とする考え方です。前者とは反対に腰を据えて体を固めて斬ることを言うのではなく、想定が固定されていて、仮想の敵も据物となっているような動きをするので、生きて動く者は斬れないというのです。
私たちが気にしなければならないのは後者のほうです。
- 2021/01/15(金) 21:25:00|
- 居合 総論
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Ⅴ.まとめ
1.他国の流派の導入
飫肥藩はⅡ.飫肥藩の武術で述べたように柳河藩の大嶋流槍術師範加藤善右衛門のもとに飫肥藩から10名の遊学生があり,柳河藩の大石神影流師範大石進のもとに飫肥藩から14名の遊学生があった。飫肥藩が高鍋藩と同様に18)防具着用で稽古を行う先進的な流派の導入を企図していたことがわかる。この流れの中で矢野宗吾も九州では先進的な流派であった津田一伝流を学んだのではないかと推定できる
2. 廻国修行
矢野宗吾が『一伝流武者組目録』と『津田一伝流印可極意』を授かったのは安政6年(1859)9月19日である。『英名録』の試合の記録は安政4年(1857)8月6日から始まっている。安政4年には高鍋藩と延岡藩へ試合に出向き,安政5年には秋月藩と対馬藩田代領へ試合に出向き,安政6年には福岡藩,長府藩,中津藩に試合に出向いた後に伝書を授かっている。安政7年には蓮池藩,小城藩,佐賀藩武雄領,平戸藩,大村藩,島原藩,福岡藩,長府藩,長州藩,徳山藩,広島藩,三原藩,福山藩,鴨方藩,赤穂藩,姫路藩,大坂へと広範囲に遠方まで廻国修行を行っている。『津田一伝流印可極意』を授かった文久元年(1861)は印可極意を授かるまでは久留米の津田導場で稽古したようである。
矢野宗吾が記録した『英名録』から津田一左衛門が積極的に廻国修行を勧めていたのではないかということが推定できる。これは大石七太夫(進種次)に入門した高鍋藩の石井寿吉と同じような修行の形態である19)。
3. 流派名・師範名の記載がない藩
これまでに地方の藩のなかには安政3年(1856)に設けられた幕府講武所よりも早い時期に各流派うち混じって槍剣術の試合練習をした藩があることがわかっている。たとえば,石井寿吉の『英名録』には嘉永5年(1852)10月に津藩演武荘,伊勢講武荘,名張藩での試合が記されている。これらの試合では藩名・地名が記されているが流派名や師範名は記されていない。名張藩では槍術との試合も記録されているが同様に流派名や師範名は記されていない20)。これは土佐藩武市半平太の万延元年(1860)の『剱家英名録』の岡山天城藩、福山藩(誠之館)や同じく文久元年(1861)の『剱家英名録』の伊州藩(伊賀精武館)、津藩(津藩演武荘)と同じである21)。これらの藩では試合や、稽古に関して流派を問わず防具着用の稽古がされていたと考えられる。
土佐藩の樋口真吉が津藩で試合を行った嘉永5年(1852)9月18日の日記の記録には「目付役出て挨拶アリ、試合両側ニ立ル人数三拾餘人、分相を貪る事甚劣ナリ、拙堂之意如何、黄昏終る」とあり、19日の記録にも「暫有て人数廿餘人出来り、三輪ニ組て試合、午前ニ終ル」とあり、流派ごとの試合はなされていないことが分かる。また、同じ日記の記録に津藩の武場の壁書が記されておりその最後に「諸流之花法ハ各同しからすといへとも試合ニなり候而は刺撃之二ツに帰し候間、相互ニ打解け彼長を取り己か短を補ひ、他流之批判妄ニ致間敷候事」と記されている22)。
矢野宗吾の英名録は幕府講武所が設けられた安政3年よりも遅い時期であるが,安政7年の三原藩での試合の記録でははじめに三原藩の流派名と師範名が書かれており、そのあとに試合した者の名前があり、誰が誰の弟子かはわからない。これは諸流うち混じって稽古していたことの証左であろう。また、福山藩では武市半平太の万延元年(1860)の『剱家英名録』の記録にみるように流派名も師範名も書かれていない。
このような各流派うちまじっての試合稽古の動きが近代剣道の成立へとつながっていったと考えられる。
4.遊学生を受け入れる流派
矢野宗吾の『英名録』にも他藩からの遊学生を有する流派の記述がある。久留米藩では津田一伝流をはじめ新神陰流に他藩からの遊学生がいる。大村藩には神道無念流に遊学生がおり,鴨方藩には直心影流に遊学生がいる。防具着用の剣術の稽古を先進的に行っていた藩や流派に遊学生が多くおり,他藩の者を受け入れて指導している。このような動きも藩や流派をこえた試合技術の共通化をもたらし剣術の近代化につながっていったと考えられる。
Ⅵ.おわりに
これまでにいくつかの英名録や廻国修行日記を分析してきた。剣術は廻国修行や他藩への遊学とその受け入れにより,流派を超えた技術の共通化が行われその近代化がはかられたといえる。
今後,どのような試合技術がどのような価値観のもとに取捨選択され,共通化し近代化がはかられたのかを明らかにしていきたい。
- 2021/01/15(金) 21:26:00|
- 武道史
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いくら立派なことを言い自分はできるかのように思わせていても、正座をしている姿ですべては見抜かれてしまいます。正しく座れていないのですから正しく立てることもなく、正しく動けることもないのです。写真で自分の姿を確認してください。座り方はお教えしているとおりです。
- 2021/01/16(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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手順を覚えることが習得だと間違ってはなりません。形・手数は正しい稽古を通じて自由に働けるようにならなければ習得とは言えませんし、流派が伝わるということはありません。手順だけであればビデオで十分なのですが、それすら理解できず数回の稽古で手順だけ覚えて習得していると思い込む人も世の中にはいます。また、形の手順を覚えたら先生に習わなくても鍛錬して深化していると思い込む単純な方もいます。
正しく稽古して正しく伝えることを心がけなければなりません。
- 2021/01/17(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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できないからといって手順だけを同じにして、中身を変えてしまうことは論外です。現在はその論外のことを研究工夫といいながら行うこともあるようですし、もっとひどい場合にはこれが本物だと師に習ってもいないことをし、話す方もいます。そういった方は、自分自身で正しいことをしていると信じていますので正義は己にあります。師はこういったが自分はこう思う、こう考えるという方は要注意です。また、そういわなくても、あきらかに異なることをしている人もいます。
できないと感じれることが上達への第一歩です。自分をごまかさなければ上達できます。貫汪館で稽古される方は狭い道ですが、踏み外さないように心がけてください。踏み外さなければ速やかな道です。
- 2021/01/18(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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かつて無雙神傳英信流や澁川一流の師のもとにはいろいろな武道の経験者が稽古に来ていました。ある人は空手の癖が抜けず、よくありがちな新流派を作ったりしていましたし、柔道の癖が抜けない人は歩くときもがに股でいかにも昔の漫画に出てくる柔道の人のような感じでした。ある人は他流派をしていて、異なる澁川一流という流派を稽古しているにもかかわらず形の最後の動きで澁川一流では行わない、そこだけみたら現存する○○だろうとわかる動きをしていました。また、空手のような動きを加えて派手に見えるように改変する人もいました。
私自身は無雙神傳英信流の師に習い始めたころは現代剣道の癖が抜けず、何が間違っているのかすら全くわかりませんでした。
他武道の経験は素直に新たなことを習おうとすればプラスになりますが、他武道の経験があるから・・・と考えてしまうと道をたがえてしまいます。
- 2021/01/19(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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江戸時代には藩ごとに異なるものの、稽古している武術の見分はよく行われ、上覧も行われていました。それにむけて稽古に集中したのは当然のことであったと思います。
現代では見分も上覧もありませんので、昇段審査や奉納演武がこれに当たると思います。昇段審査を受けることもなく、奉納演武に参加することもなければただ、漠然と稽古し、だらだらと稽古してしまいがちになるのは自然の流れだと思います。江戸時代であっても見分や上覧があったのですから。
- 2021/01/20(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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ある子供の姉妹の稽古でお姉さんが妹に指導しているのを聞いていました。
そういう時についつい口を出しそうになってしまいますが、そこでは教えている方も、教えられている方も学んでいますので、よほど大きな危険な間違いでなければ口出しすべきではありません。後で小さな間違いは修正できます。また、大人に間違いと感じられてもそれは子供たちの間では正しい表現でもあるようです。
面白い表現だなあと印象に残ったのは半棒の稽古で打太刀の木刀を左にかわすときの動きを「忍者のようにシュッと左へ・・・」とお姉さんが妹に教えているのです。そんな動きはしておらず、すらっと動いているだけだけどなあと思いましたが、子供には左への移動が木刀で打ち込もうとする動きの後に消えてなくなるように見え、それが忍者のようにという説明になるのだと思いました。面白い説明でした。
- 2021/01/21(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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武道をする方はどうしても「武道一筋」となりがちなのですが、武道以外の趣味を持つことも武道の質の向上につながります。
写真を趣味の一つとすれば、どのタイミングで、どの角度から、どのような範囲でという感覚が自然に身についてきます。このような感覚は武道における機会をとらえることにも通じますし、人の、また自分の動きを観察することにもつながります。人や自分が見えるようになれば上達につながります。
- 2021/01/22(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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昨日の続きです。針仕事を趣味に持てば嫌でも繊細さが身につきます。少しでもいい加減に針にを動かしてしまうとできあがりが粗末なものになってしまうのです。根気よく集中して丁寧に作品を作っていくことが、武道においても繊細さと無理無駄のなさ集中力につながっていきます。
- 2021/01/23(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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趣味のお話の続きです。家庭菜園で鋤や鍬を手にし、農作業をすることが大石神影流の技につながるということはお話ししているとおりです。それだけでなく、虫はついていないか病気になっていないかと作物を観察することも見る目を養うことにつながっていきます。また作業の段取りを整え、適切な道具を準備していくことはある意味で無雙神傳英信流の礼法にもつながっていきます。
何事でも共通する部分があります。
- 2021/01/24(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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こればかりはなかなか趣味にはできませんが、私は随分前に熊本県で、職人の方に指導を受けながら日数をかけて菜切り包丁を10本くらい刺身包丁を2本、狩猟ナイフをダマスカス鋼で1本、作ったことがあります。ほかにもペーパーナイフや、小さなスコップなども作らせていただきました。砥ぎまで指導していただけました。
火を扱う作業なので、油断して間違ったことをすれば大火傷してしまいます。油断しないということを学べます。私は慣れたころに真っ赤に焼けた鉄を素手でつかもうと思ったことがありハッとしました。人は慣れてくると何をするかわからないということも学びました。
- 2021/01/25(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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私は様々なところへ武道に関係なく旅したことがあるので、様々なものづくりの体験をさせていただきました。伝統工芸の職人の方々から聞いたのは共通して「すぐに仕事を始められず、下働きをするのは良いものを見る目を養う期間」だということでした。ただ無駄な時間を過ごしているのでもなく、雑用係をしているのでもなく、その期間に本物を見る目を養うということなのです。
本来は武道もそうあるべきなのかもしれません。お教えしていても「自分の考え」というものから離れられない方が多くおられます。何が良く何が良くないのかがわからずに自分が良いと思ったことを優先してしまうのです。
今は、武道も修行という長い目で見るのではなく軽い趣味として始める方も多いのですから仕方ないことかもしれませんが、よい方法はないものかとも思います。
- 2021/01/26(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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趣味の話をいろいろとしてきましたが、趣味を持たれている方で稽古に来られた方にもいろいろな方があります。
一番早く吸収して上達された方は、プロの方は別として演劇の経験が大学時代や社会人になってからある方たちでした。この方たちは自分を無にして習うことができた人たちです。
また、体を動かすといっても武道とは全く関係がない、絵を描くことや、力が必要のない小さな物を作ることが趣味の人たちも吸収が早かったように思います。
異なる種類の武道経験のある方は、似ているだけに癖から離れ習得されようとするのですが、それだけに苦労が大きいようです。
- 2021/01/27(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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柳河藩の藩の日記を読んでいるとしばしば藩主による武術の上覧の記述が出てきます。槍術や剣術だけでなく、足軽の行う捕手までも上覧しています。それだけ武術を大切にしていたともいえますし、上覧がなければだらだらと稽古をするだけになってしまいがちであったともいえます。
私自身も、演武会があるときにはそれに向けて技をととのえるように稽古してきましたし、それを契機として上達しまた、反省もし次の稽古に行かせてきたように思います。現在日本武道館での古武道演武大会の天覧はありませんが、そのような覚悟で稽古を積むことが大切だと思います。
- 2021/01/28(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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世の中のことはすべて「類は友を呼ぶ」傾向があるようです。
なぜあの人があんな集団にと思うこともあるのですが、その人にとって心地よいからそこに居続けるので、心配することもないようです。全く何も知らない方が宣伝に惑わされてその集団に入ってしまうということもあると思いますが、その集団の宣伝に魅かれるというのは、その傾向があるのでしょう。
武道も同じだと思います。ただ、私は中学生の頃に現代剣道を始めましたが、古い歴史があると思っていたのに、動きが全く異なるように感じたのはすでにお話しした通りです。剣術の流派の宣伝が小学生、中学生の私の耳に入ることはなく、その当時存命だった古武道の先生方についても耳に入ることはありませんでした。適切な広報活動は必要であると考えます。
- 2021/01/29(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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たとへ貫汪館に稽古に来たとしても、柔術だけが興味の対象であるとか、本当は剣術だけを稽古したいとか考える方は本当の意味での縁はありません。また、刀を振っても刀の代わりである木刀を振っても、棒か何かでぶち殴るようにしなければ効果がないと思い続けている方も本当の意味で縁があるとは言えません。せっかく門の内に入ってきているのに残念なことです。
- 2021/01/30(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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座った姿はごまかせないものです。見る力を持った人であれば、偽物か本物かは簡単にわかってしまいます。本物は無理がなく床畳と一体になっていますが、偽物(人によく見られたい、威厳があるように見られたい、自然体を会得しているように見られたい人)は正座をしていても、両膝を大きく開いたり、妙に背筋を伸ばして後傾したり、胸を張ったり、自然に見せようとしてへたってみたり、手の置きどころが不自然であったりします。ただし見る力がついていれば見抜けるものの、その力がなければむしろ偽物に騙されてしまいます。
むつかしいものです。
- 2021/01/31(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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