昨日の続きですが、左手が床に着いた後右手が前に出ていきます。体の前傾に伴って自然に左手が前に出るのですから、右手も左手と同時に前に出るものです。出ないのは右大腿部の上で右手が軽くブレーキをかけているからです。
この軽くブレーキをかけて遅れてすっと出る動きは鞘手と同じく前腕と上腕の角度が異なるのですが柄手の動きと、本質は同じです。軽くブレーキをかけているのですっと出て滞ることはありません。この動きを身につけているのに柄手が柄にかかるときに滞るのは握ろうとしているためですので気を付けてください。
- 2016/05/01(日) 21:25:00|
- 居合 業
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刀礼のため刀を前に置く動きは抜き付け、斬撃の手の内に通じます。親指と内筋が働けば刀を前に置こうとするときに右肘は下がります。反対に親指以外の四指と外筋が働けば右肘が上に上がり肩も遊離して動きは不自然になります。
抜き付けも親指と内筋が働けば肩は遊離せず刀は臍下丹田と連動した動きになりますが、親指以外の四指と外筋が働けば、肩が遊離し刀は腕力を用いて振るようになってしまいます。
- 2016/05/02(月) 21:25:00|
- 居合 業
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ここからは抜き付けの動きのお話ではありません。
礼法ののち帯刀の前段階として刀を自分の前に立てる動きは体を正すのに役立つ動きです。体に無理無駄がなく肩肘も引力に引かれて下方に降りており、刀の鞘と鍔にかかる右手にも無駄な力がなく刀が立つのを支えているだけの状態の時、刀が引力に引かれ下方に安定する状態を見つけることができるはずです。
その状態を見つけたら、その状態をお手本にしてさらに自分の体のあるべき状態を求めていくことができます。
- 2016/05/03(火) 21:22:00|
- 居合 業
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帯刀の際にお腹をへこませて帯刀をする方が初心者には多く居られますが、これは行ってはならない動きです。時間はかかってもよいので帯刀するときに腹をへこませずに帯刀してください。
腹をへこませる癖がつくと形の稽古に入っても何かある度に腹をへこませ動きの中心は臍下丹田から上方に移ってしまいます。常に腹に不必要な緊張を持たないように努めることが臍下丹田中心の動きを身につける元になります。もし、帯がきつすぎて帯刀できないのであれば帯は身にまとうつもりできつくなく、緩みなく締めてください。
工夫してください。
- 2016/05/04(水) 21:25:00|
- 居合 業
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手の内をルーズにしたら腕の力みがなくなると錯覚されることがあります。大石神影流剣術で構えを取るとき、臍下丹田が中心にならず腕で構える方に腕の力みを去るように指導したときに起こりやすいことです。
自分自身の感覚としては手の内をルーズにすれば刀や木刀に力が伝わらないので力みがなくなったと感じるのだと思いますが、それはたんに力が伝達されなくなっただけであり、依然として腕の力みは残っています。深く工夫しなければなりません。
[手の内]の続きを読む
- 2016/05/05(木) 21:25:04|
- 剣術 業
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呼吸が浅い方は臍下丹田中心の動きができません。所謂腹式呼吸ができず、胸で呼吸していては上半身中心の動き、肩腕中心の動きしかできないのです。いつまでたっても臍下丹田の動きができない方は自分の呼吸を見直してください。
また呼吸が浅い方は、熟慮することなく話をする傾向にあり、軽率な行いをしてしまうこともあります。自分自身の呼吸を確認してください。
- 2016/05/06(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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澁川一流柔術において礼式は動きを練るうえで非常に大切な稽古です。
相手を押し返したのち、受と捕の双方が胸の高さに両手を位置させますが、両手の位置が高すぎると上半身中心の動きになりがちで、低すぎると天地が通らなくなる傾向があります。両手指先は澁川一流でいう檀中に正しく位置させなければなりません。
- 2016/05/07(土) 21:25:00|
- 柔術 業
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昨日の続きですが、檀中に位置させた両手を開いた時、指先が下を向いていたり反っている場合には動きを正す必要があります。手首を力ませていたり、指先が自分の体として感じられていないからです。
臍下丹田から指の先までの流れを感じ取れるように稽古してください。
- 2016/05/08(日) 21:25:00|
- 柔術 業
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大石神影流剣術第七代宗家のお話しです。宗家が瑞穂舞の師匠の浅野先生の舞を見学していた時に浅野先生の動きが消え、気付いた時には舞が終わっていたということです。
中心が全くぶれず、動きに全く無理無駄がなければ実現することだと思います。
無雙神傳英信流抜刀兵法の師 梅本三男貫正先生も我々の居合の速さはスピードではなく、動きが見えない事だと教えてくださっていました。
- 2016/05/09(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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澁川一流柔術の稽古で心がけなければならない事は相手との調和です。形稽古と言っても相手との勝ち負けを決めるものだから調和ではなく手順が大切だろうと考える方は、そこまでしか上達しません。体で手順を覚えているにもかかわらず、自分の手順を見事に演じようとするのは心の病です。
手順を重んじて相手との調和を無視してしまう方の動きには必ず破綻が生じます。破たんした動きは隙だらけの動きです。
来れば則ち迎へ、去れば則ち送る、対すれば則ち和す。五五は十なり、二八は十なり、一九は十なり、是を以て和す可し
この心が分からなければ柔術も剣術も居合も理解は難しいと思います。
- 2016/05/10(火) 21:25:00|
- 柔術 業
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澁川一流柔術の「込入」はそれ以前の「履形」「吉掛」が離れた状態から受が仕掛けてくるのに対して、捕が両胸襟を取るところから始まります。
初心者の方は自分の両襟を取っている受の手を何とか排除しようとしてしまいますが、それは逆で受が自分の両襟を取ってくれているから技をかけていくことができます。両襟を取られたらそこを通じて捕と和すところから技は始まります。
- 2016/05/11(水) 21:25:00|
- 柔術 業
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半棒の稽古は木刀を手にする者の動きが大切であり、木刀を持つ者が業を導き出す心がなければ形稽古としては成り立ちません。
半棒の形には木刀で斬り込んでできたのをかわして木刀の峯を打つ動きが多くありますが、木刀を持つ者が半棒を持つ者に正しく斬り込まずただ木刀を振り下ろすだけで切先を床近くまで下ろしてしまうと峯を打つ動きはできなくなります。実際には峯を打つ動きは木刀を持つ者の手首を打つ動きに変化できるものですが、実際に打つことはできないので峯に打ち下ろしています。この条件を木刀を持つ者が崩してしまえば形として成立しなくなってしまいます。
木刀を手にする者は負け役をするという意識ではなく、自分が正しく導くのだという意識を持って稽古してください。
- 2016/05/12(木) 21:25:00|
- 柔術 業
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半棒の手の内も、剣術・居合の手の内も基本的に変わることはありません。ただ握るだけで手の内が定まっていなければ打込んだときに臍下丹田からの力が棒に伝わらず、手先だけの打込みとなってしまいます。
安易に棒を手にするのではなく、どのようにすれば棒に力が伝わっていくのかを工夫すれば打込みだけでなく、他の動きも変わってきます。
- 2016/05/13(金) 21:25:00|
- 柔術 業
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過去に他流派の経験がある方で貫汪館に入門された方はよほどの覚悟を持たなければなりません。他で「良し」とされたことが、ここでは「悪し」とされることが多いのです。
流派の指導方法の違いもありますし、本質的な違いもあろうかと思います。過去身につけたものにこだわっていると新たなものを身につけることは難しいものです。それ故過去に他の武道を経験された方であっても「素直」に新たなことを吸収される方は、過去にこだわる方よりも上達が速やかで過去の経験が生きることもあります。
武道を何も経験されたことがない全くの初心者の方のほうが上達が速いのは何も持っていないために指導をそのまま吸収されていくからです。
- 2016/05/14(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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土佐藩上士であった佐々木高行【文政13年(1830) - 明治43年(1910)】は維新後明治政府に仕え、伯爵となり、明治21年から死去まで枢密顧問官を務めた人物です。
『保古飛呂比』という日記を記していますので、その中に記されている武術関係の記述を抜き書きします。日記とありますが、後に記されたり、補われた部分も多くあります。年齢は数え歳です。
天保13年(1842)正月13歳
「是月、高木流槍術師範岩崎作之丞・北條流軍学師範肚琢左衛門・朝鮮流要馬術師匠久徳守衛ニ入門ス、但シ父上は文学ハ好マレズ、武芸ハ好マレ、夫レ故一般竝ヨリハ早ク入門致セリ、」
土佐藩では一般に元服の頃より武芸の稽古を始めたとされていますので、入門はやや早めであると思います。もちろん、坂本龍馬が姉に武術教育を受けたように、家庭での教育の一環として基礎的なことは教えられていたと考えられます。
- 2016/05/15(日) 21:25:00|
- 武道史
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天保14年(1843)14歳
「此年、真影流剣術師匠美濃部猪三太ヘ入門致シ候事」
剣術の入門が槍術よりも1年後なのは、佐々木高行の個人的な好みであったのか土佐藩で一般的な事であったのかはわかりません。今後明らかになることがあるかもしれません。真影流剣術は土佐で行われた剣術ですが資料を撮影しているものの、分析をしていないので今後時間があるときに明らかにしていこうと思います。
- 2016/05/16(月) 21:25:00|
- 武道史
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天保15年(1844)15歳 元服の年 12月
「此年、初メテ槍術・剣術式日ニ出勤ス」
式日とは武術や学問の上達の状況を検分される日で、褒賞を受けることもありました。式日にどのような検分が行われていたのかはいずれ武道学会で発表しようと考えています。
- 2016/05/17(火) 21:25:00|
- 武道史
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弘化4年(1847)12月 17歳
「一 此年、大坪流馬術師匠澤田勘平ニ入門致シ候事、澤田ヘ馬術入門致シ候処、馬役ハ一体風儀悪シク候テ、弟子ニテモ大身ノ人ニハ贈物モ多ク、時々馳走不致テハ、能ク稽古出来ズ、自分等ノ小身且ツ貧窮ニテハ、不面目事ニテ、修業セズ、止ミタリ、
一 同年漢文章ヲ原傳平ニ学バントシ、算術ヲ小栗謙吉ニ学バントス、然ルニ両様共書籍ニ依レトノ事ナレ共、買求メ候事出来ず、廃業ス」
馬術の稽古も学問も貧乏であったため続けられなかったことが記されています。もともと100石であった家は実父の急死により48石になっています。48石がお金がかかる武術や学問修業には少なかったことが分かります。
「弟子ニテモ大身ノ人ニハ贈物モ多ク」というのは禄高の高い武士は武術の師に贈物をしていたということです。学校教育の感覚であれば賄賂のように見えますが、今も昔も出費の多い武術の師匠は大身が入門してくれることによって生活が支えられる面がありました。広島藩の貫心流の例では大身の子息が入門した時に支度金として師匠の細六郎にお金を渡しています。師に対する礼として余裕のあるものには当然のことであったと思います。
- 2016/05/18(水) 21:25:00|
- 武道史
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嘉永2年(1849)5月 20歳
「剣術式日ニ付南会所ヘ出勤
但シ南会所ハ政治庁ニテ、其大広間ヲ以テ武芸式日等ノ場所トス」
まだ土佐藩に文武刊・致道館ができるまえのことで教授館では武術の教授はしていませんでしたので武術の検分が大広間で行われていたものだと思われます。畳の上での剣術であったわけです。
- 2016/05/19(木) 21:25:00|
- 武道史
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嘉永5年(1851)8月 23歳
「同廿三日、兼テ願相成リ候ニ付、剣術修行ノ為メ、江戸表ヘ本日出足、右ニ付山田喜三之進槍術修業ニテ同行、北山通リ、讃州丸亀ヨリ、備前下津井ニ渡海、中国筋所々見物、湊川楠公ノ墓前ニ再拝シ、大阪ニ著、同所ニテ兼ネテ落合ヒ候筈ニ致シ置キ候樋口真吉・山崎文三郎・遠近晋八・桑原助馬並江戸本郷石山孫六等、五月上旬土佐出足、九州地方ヨリ当地ニテ出会、右石山ハ真影流剣術家(註:一刀流の間違い、或いはこの記事は一刀流の石山が柳河藩で大石進の門人にもなったことを知ったうえで書かれたか。)ニテ、昨年来御招請相成候処、此度帰府致シ候、依ツテ自分差向、右石山家へ立越候筈ニ候、大阪ヨリハ同行七人組ト相成、賑々敷相成リタリ、
以前ヨリ江戸ヘ修業ノ志願有之候処、貧窮ニテ出来ズ、此度無理ニ借財シテ、一ヵ年ノ筈ニテ出足ス、江戸著相成候ハヾ兼テ祖母上(實ハ御母上)ヘ、斉藤叔父上ヨリ、一ヶ月二朱ヅツ小遣参候間、夫レヲアニシテ参リタレ共、長ク続カズ、翌春帰国ス」
お金がなければ廻国・江戸修業も難しかったことが分かります。樋口真吉の9月6日の日記には次のように記されています。
「六日 山田・佐々木二氏予ニ先タツ事二日登坂也ト、皆此地ニ會スルノ宿約アリト雖如此ナランコト真ニ愉快ト可謂哉、両氏ハ河内屋某ニ宿ス」
- 2016/05/20(金) 21:25:00|
- 武道史
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嘉永5年(1851)9月 23歳
「此月十一日、大阪上代土屋采女正様内真影流小林儀右衛門・尾木静馬・山岡水之助ト、上代屋敷ニテ試合、右山岡ハ一人達者ナリ、江戸浪人同伴、吾藩人ニハ山札喜三之進・樋口真吉・桑原助馬・山崎文三郎・遠近新八、但しシ遠近ハ学者ニテ試合セズ、」
他流試合の際に他流をあまり良く言わないのは、まだこの頃には一本の基準が共通化されず、流派ごとに異なった価値観があったからだと考えられます。したがってよほどの力量の差がなければ、他流派をほめることはなかったのでしょう。
樋口真吉の同日の日記には次のように記してあるのみで相手の批評はしていません。
「御城代屋鋪ニおいて試合、午飯出ル、立合役アリ、帰路後藤先生ヲ訪フ、御屋布稲荷社祭り喧譁甚シ」
- 2016/05/21(土) 21:25:00|
- 武道史
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嘉永5年(1851)9月 23歳
「同十九日、津藩渡辺亮之進門人数人ト、演武場ニ於テ試合、」
「同二十日、同藩(津藩)津田孫七門人数人ト、同所ニ於テ試合、跡ニテ酒肴ヲ出ス、大勢ナレドモ格別ノ達人ナシ、」
ここでも他流派をほめていません。
樋口真吉の同日の日記には次のように記してあります。樋口は津藩の武士について「分相を貪る事甚劣ナリ」と述べています。審判がいませんから自分が勝ったとするためには卑怯な振る舞いをしたものだと思います。
「十九日
午前宿主案内ヲ以武場ニ出ル、宿ヨリ十八丁餘、城ノ西方ニアリ、玄関入口錫明ノ額ヲ掛、武場板鋪、又壁書ヲ額トス、
掟
一出席ノ向武道之外他事を談し申間敷事
一礼儀ヲ正くし軽率なる儀ハ相慎ミ過申、他邦人ニ対し候而者別而不遜之儀有之間敷事
一稽古者如何ニも猛烈ニいたし少茂用捨有之間敷、但ひたすら分相を貪り卑劣之所作ハ相嗜之相手方納得存し候様ニ勝武可有之事
一休息之内も見所ニ正坐し、人々の所作ニ心を留め見可申、物陰ニ引込不行儀成振舞致間敷事
一諸流之花法ハ各同しからすといへとも試合ニなり候而は刺撃之二ツに帰し候間、相互ニ打解け彼長を取り己か短を補ひ、他流之批判妄ニ致間敷候事
右之條々堅可相守也
嘉永元年五月督学
武場目付
目付役出て挨拶アリ、試合両側ニ立ル人数三拾餘人、分相を貪る事甚劣ナリ、拙堂之意如何、黄昏終る
廿日
正六ツ半時出席ス、いまた壱人ノ出席なし、武場留守居目未醒怠可知矣、暫有て人数廿餘人出来り、三輪ニ組て試合、午前ニ終ル、是より先土州島村某鉾術ヲ以来遊スト云、予等未其人ヲ知ラズ、武館掛り清水克助宿へ来ル、石山氏へ金百疋、予等へ金二百疋ヲ贈り来ル、武場目付ハ渡辺七郎・山田八右衛門両人ナリ、此日遠近生等阿漕ノ裏ニ遊ブ」
- 2016/05/22(日) 21:25:00|
- 武道史
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嘉永5年(1851)9月 23歳
この記事には日にちが記されていませんし、記事の内容からすれば、土佐においてのことですので、跡から書き足した記事だと考えられます。この頃土佐で指導していた二代目の大石進(当時は大石進士)より佐々木の父にあてた書簡です。
「柳河藩剣術師範大石氏ヨリチチへの書簡左ノ通リ、
御口上書拝見仕候、出立御祝被下、無存掛見事ノ御肴鯛拾枚御恵贈被下、御厚情の段千万忝ク仕合ニ奉存候、早速参上御礼等申上儀の處、先達テヨリ不快ニ罷在、出立モ差延申候、何様清快之上参上御礼可申上候へ共、先ヅ御礼答迄如此御座候、以上
大石進
九月晦日
佐々木三六様
貴下」
当時の書簡の書き方がよくわかります。また二代目の大石進の付き合いの範囲もわかる資料です。
- 2016/05/23(月) 21:25:00|
- 武道史
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嘉永5年(1851)11月 23歳
日付は記されていませんので、後から記したものだと思います。
「在京中ハ処々剣術試合に立越ス、阿部伊勢守屋敷ニテ、柳行流(柳剛流)トテ、足下打之流儀、岡田十内弟子ト試合ス、
柳行流ハ頗ル長竹刀ニテ、遠方ヨリ足ヲ打チ候事ニ付、兼テ竹刀ノ寸法ヲ取極メ、双方同寸法ノ約ヲ為セリ、孰レモ其心得ニテ立合候處、自分ハ勿論、何レモ立合ニ足ヲ打タレ、大敗ス、是ニ於テ石山ノ内弟子笠井吉人ナル者大ニ怒リ、兼手の約ニ背キ、長刀ヲ被用タリト見ヘ、双方ノ竹刀ヲ相糺スベシ、果シテ約ニ違ヒ候ハバ武士ニ有ルマジキ仕業ナリ、此ノ儘ニハ致シ難ク候、拙者共ハ主人ノ馬前ニ討死スルハ、平日ノ覚悟ニテ、私ニ一命ヲ捨て候コトハ、不本意ナレ共、場合ニヨリテハ、一身ハ勿論、主人迄ノ恥辱ニモ相掛リ候事アレバ、其節ハ不得止第ナリト、時宜ニヨラバ、真剣勝負ニ及ブベキ勢ナリ、自分共モ負ケ原ナレバ、笠井ノ議論ヲ助クルノ景況ヲ示シタレバ、岡田十内等狼狽ノ色ヲ顕シタレバ、阿部藩ノ役人共心配シテ、市内寸尺ノ儀ハ不行届ノ段ヲ謝ス抔ニテ、漸ク事ナク治マリ、又々仕合ヲ初メ候處、竹刀ノ寸尺モ約ノ如クニテ、且又一同モ足ヲ防グコト聊カ巧者トナリテ、最初ノ如キ大敗ハ無之、其上石山先生ハ未ダ試合無之處、追々相初メ、勝利ヲ得テ、孰レモ喜悦トナリ、試合畢リテ阿部侯ヨリ酒飯ノ饗応アリ、敵味方相和シテ帰レリ」
この記事は樋口真吉の11月26日の「於阿部伊勢守様屋鋪柳剛流岡田十内弟子ト試合、脛打妙ナリ」という記事と同じ日のことであろうと思います。
面白いのは嘉永5年の時点で他流試合において竹刀の長さを同じにする約束をして、試合を始めようとしたことです。柳剛流は脛打をするので長い竹刀を用いたものだと思いますが、試合の条件を同じにしようとする動きは。講武所においては2尺8寸までに統一される以前にあったということを示しています。
また、ここで述べることではありませんが「講武所の剣術では、各流派の名手が教授方になり、流派を越えて、試合を中心に行われた」とあるのも他藩ですでに行われていたことを講武所が取り入れたと考えるべきではないかと思います。
- 2016/05/24(火) 21:25:00|
- 武道史
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嘉永5年(1851)11月 23歳
日付は記されていませんので、前回と同じく後から記したものだと思います。
「柳河藩邸ヘハ、大石流剣術修行トシテ「縷々行ク、其他石山ノ門下ニテ、青山住旗下武田某・・神田三河町住旗下浅野等ヘハ、定日ニ参リ候事、」
所謂「寄稽古」「寄試合」と言われる判定で行われた大々的な試合以外にもこのような流派を超えた交流が行われています。ここでいう大石流とは大石神影流のことですが、柳河藩では他の流派も防具着用の試合においては他藩より先に言っていましたので、大石神影流以外の流派とも稽古をしたと思います。
- 2016/05/25(水) 21:25:00|
- 武道史
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安政3年(1856)2月13日 28歳
「是十三日、黒田甲斐守家来 間角弥、今日帰足之由」
間角弥は秋月藩の槍術家で当時かなり有名であったらしく得意技は「間の裏はね」と呼ばれていたようです。穂先の交差の反対側から相手の槍をはねたものだと思います。土佐を離れることが日記に記されているということは、やはり名は高かったのだと思います。
剣術は大石進の門人で、大石神影流です。
- 2016/05/26(木) 21:25:00|
- 武道史
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安政2年(1855)2月 27歳
同月、藩ニテ左ノ通り、
覚
近来文武之道別而御世話被仰付、既此度御他藩ヨリ槍剣鍛練之者御呼入、於武芸所諸流打込椿古方被仰付侯條、一同二厚ク御趣意奉引受、真実之修業方勿論肝要二侯、然ルニ此頃見物人夥敷相成侯趣、自然煩雑之体ニモ罷成侯テハ、御他藩ノ人二封シ御外聞モ不宜、且椿古人之妨ニモ可成二付、向後一日人教ヲ被限見物被仰付侯間、志有之輩ハ、共度々文武方へ届出、受差図、礼儀正敷見物侯様被仰付之、
但武芸師家丼御用懸リノ面々ハ勿論、貴賎ヲ不限格別之事、
「既此度御他藩ヨリ槍剣鍛練之者御呼入」という箇所は寺田兄弟により大石進種昌が招かれたり、その門人たちが招かれたりした流れで、その後、他藩の槍術剣術家が高知にやってきて試合をしたことを指していると考えられます。一度他流試合を公に(個人的には他流試合をする者がありました)認められると、その流れはますます盛んになったものと思われます。
見学者が多いので人数制限をしています。
- 2016/05/27(金) 21:25:00|
- 武道史
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安政2年(1855)2月 27歳
昨日の続きです。
一右鎗剣他流打込被仰出侯儀ハ、最初幡多郡住徒士樋口眞士口、同樋口甚内両人、筑後柳川帝大石進先生ノ門人トナリ、大石流ヲ学タリ、同流ハ四っ割ノ竹刀ニテ、頗ル長刀相用ヰ、他流試合ヲ致シ侯趣ニテ、樋口兄弟帰国ノ上、其議ヲ唱へタリ、自分ハ樋口兄弟卜懇意ニナリ、且自分ノ流儀ハ眞影流ニテ、同流ノ古流ハ袋竹刀ナレドモ、新流ハ四ッ割竹刀ナレバ、師家二乞ヒテ樋口ト試合ヲ初メタリ、尤モ古流ハ上段ナレドモ、新流ハ下段ナリ、大石流勿論下段ヲ主トセリ、共頃寺田小膳、同弟寺田忠次両人筑後二至り、大石ノ門人トナリテ帰国シ、忠次道場ヲ内江ノロニ開キ、追々門人モ出来タルニゾ、自分モ時々同道場へ行キテ試合セリ、
土佐で他流試合が始まったのは樋口真吉京大が大石進に習って以降のことで、佐佐木高行は同系統の眞影流で袋竹刀を用いていたけれども、師に許しを得て試合を始めたことが記されています。
他流試合をする流派を新流と呼び、現在も用いらているような四ッ割竹刀を使い、下段(現在の中段)をも散るとし、他流試合をしない流派を古流と呼び、袋竹刀を用い上段にとるとしています。
- 2016/05/28(土) 21:25:00|
- 武道史
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安政2年(1855)2月 27歳
昨日の続きです。
又一刀流ノ師麻田勘七モ、新二鷹匠町二道場ヲ開キ、門人モ多ク出来、毛利夾輔・山田廣衛・馬場来八等頻二修行セリ、一刀流ハ四ツ割竹刀ニテ下投ナリ、他流試合モ致スコトナレドモ、麻田勘七先生ハ固陋家ナレバ、好マザル模様ナリ、然レドモ馬場・毛利・山田ノ面々ハ、他流試合二周旋セリ、依ツテ大石流ノ寺田、一刀流ノ麻田他流試合ヲ致シタリ、然ルニ藩中ノ門地家ハ、小栗流・無外流ノ二派ノ門人多数ナレバ、他流試合ヲ嫌ヒタリ、右二流トモ袋竹刀ニテ上段打チナリ、尤モ小栗流師家ノ内、日根野辦治ハ他流試合ヲ主張シタレドモ、至ツテ小身ニテ、殊二郷士ヨリ養子ノ身分、旁門人モ軽格多ク、士分ハ少ナク、権力ナク、門地家ノ同流ヨリハ餘程悪マレタリ、如此有様ニテ議論八釜敷テ、一般ニ行ハレ侯事ハ容易ニハ出来ザル勢ナリ、
小野派(中西派)一刀流を指導した麻田勘七は他流試合を好まなかったけれど、その弟子が他流試合を行い、小栗流・無外流は他流試合を嫌ったものの、小栗流の日根野辦治は他流試合の実施を主張したけれども小身であったため、小栗流の他の師範から憎まれたことが分かります。
麻田勘七の弟子に武市半平太がおり、日根野辦治の弟子に坂本龍馬がいます。
- 2016/05/29(日) 21:25:00|
- 武道史
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安政2年(1855)2月 27歳
昨日の続きです。
然ル處吉田元吉、是レ迠ハ専ラ読書セルニ、寺田忠次二就キ、 吉田氏の寺田へ入門ハ、嘉永四年ノ末カ同五年ノ事ト覚ユ、修業ヲ初メタルニゾ、吉田ノ門下土テ小栗流・無外流等相学ビ居タル、市原八郎左衛門・由比猪内・眞邉榮三郎、其他後藤良輔象次郎事 等モ寺田ノ道場ニテ修行スルニ至リテ、大ニ勢力ヲ得タリ、然レド未ダ一般ニハ行ハレズ、物議ハ絶立ザルニ、思召ヲ以テ打込ミ試合被仰出候ハ、実ニ大旱ノ降雨ノ如クアリタリ、
吉田東洋は学問ばかりしていたにもかかわらず、大石神影流の大石進種昌の門人である寺田忠次の弟子となり大石神影流の稽古を盛んに行い、また吉田一派の人物が盛んに大石神影流を稽古した様子が記されています。この中に後藤象二郎もいました。
土佐で他流試合が解禁されたのは吉田東洋にあずかるところが大きかったようです。
- 2016/05/30(月) 21:25:00|
- 武道史
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安政3年(1856)2月20日 28歳
「同二十日、太守様南会所へ御入、上田馬之助 細川能登守家来 村上桂蔵 中川朱里太夫家来 多羅尾勢五郎 松平次丸家来 島田勘之丞 浪人 等ノ剣術御覧之由」
土佐藩は他流試合の開始は遅れていますが、交通の便が悪い地であるにもかかわらず、この頃他藩からの修行者が訪れていることがわかる記述です。
ここで一度『保古飛呂比』については中断します。
- 2016/05/31(火) 21:25:00|
- 武道史
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