武道を稽古してきて何十年かになりますが、武道を稽古していたら人間性が向上するとか人格者になるということは理想にすぎません。
競技で人に勝つため、名を上げるためという思いで始めた人の中には、武道を稽古することによって、武道では仮定であるはずの競技での勝敗にますます固執するようになり、やがてその思いが変化し組織の中でも高い地位を求め、他者を許容しない偏狭な人間になっていく人がかなりの割合でいます。また、古武道の世界では名を上げるために虚構を作りあげる人もいます。また古武道と言いながらそうでない人たちも多くいます。そういう人にとって武道は利用できる手段なのです。
一方で本当の人格者も多く見てきました。そういう人たちは初めから武道を修行ととらえて長年取り組んでこられた方です。
武道は人を育てるのではなく、正または邪の道を歩ませます。自分はどちらの道を歩みたいのかしっかりと考えてください。
- 2021/10/01(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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無双神伝英信流抜刀兵法の師である梅本三男先生は抜付けをたとえられて「でんでん太鼓のように」と言われたことがあります。これは刀を振り回せということではなく中心が働いて周辺は無駄な力を入れずに中心の動きに従うということのたとえなのですが、肩腕について言えることであるだけではなく下半身、鼠径部の下の動きについてもいえることです。そのレベルに至れば理解できます。
- 2021/10/02(土) 21:25:00|
- 居合 業
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本当の技を教えて明日やめられたら秘伝がもれてしまう。という考え方もあるようです。真実であると思います。今の人の中には習ったことを何でも公言する人がいます。
貫汪館では初段には初段の二段には二段のカリキュラムがあり段位が上がることがなければ奥の形・手数を教えることがないシステムになっています。支部長はカリキュラムを守って指導していると思います。
安易に何でも、できてもいないのに教えることは地に足がつかない人を育てることにも通じます。三人の師はできてから、次を教えてくださいました。つまりできない人はできるまで同じ稽古をしなければならず、できないのに次はないのです。本物を育てようとすればそうなります。
- 2021/10/03(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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江戸時代の記録からみるとおおむね10年で免許皆伝に至っていると以前述べたことがありますが、この10年は免許皆伝までスムーズにいった人で、またほぼ毎日その流派を師の道場で稽古し同時並行でほかの種目の流派を複数習っている場合です。週に1回稽古して10年というのではありません。週に1回であれば単純に考えて同じ技量が身に着くまで70年かかります。それほど厳しいものだということを考えず10年と思っていたら大きな心得違いになります。週に1回で10年と考える方は形をそれなりに見栄え良くできればという程度でしかないと心得なければなりません。そして見栄えよくできればという思いは形の形骸化を招く元だということも知らねばなりません。
- 2021/10/04(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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流派とはその武術を習得するための体系であり、思想です。仏教に多くの宗派があるように武術に多くの流派があるのはそれを体得するための方法がいくつもあるからです。したがって自分に適する流派を選ぶことが大切で適さない流派を選んでも習得には時間がかかってしまいます。
しかし流派が自分に適さないからといって修行途中に自分の都合の良いように変えてしまうと修行途中で道は閉ざされてしまいます。江戸時代に新しい流派を作る人は、殆どは特定の流派を習得して後の工夫によります。
現代のように新たに作られたり、古い名前を用いて別物の内容で作られたりする古武道という名のもとの流派ならば、習得もしないうちにどんどん分派が作られていくのかもしれません。海外には海外で日本人がはじめた日本では聞いたこともない○○流△△派というのが多くあります。
- 2021/10/05(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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書籍などに一度間違いが載るとそれを引用した書籍に間違いが乗り、間違いはどんどん拡散していきます。大石進種次に関することも間違いが拡散されてしまい、定説になっていると感じることもあります。また、他の地方史に関することなども面白おかしく書くためか間違いがあってそれを他の人が信じてしまうのだろうと感じることが多くあります。誤植であれば気づくこともあるのかと思いますが、堂々と歴史として書かれるとどうしようもありません。『福岡縣篤行奇特者事績類纂』には大石進が中津藩の長沼無双右衛門と試合するまでに門弟と試合をしたのが何月間と記していますが文脈からすると明らかに何日間の誤植です。このような誤植は気づくこともできますが、堂々と間違いが記してあればなかなか気づくことができません。
武道史の一部分だけを見てもそうなのですから、世の中には正しいと信じられていることでも史実は異なるということがかなりあるのではないかと思います。何事にも複数の史料をあたり(複数なければどうにもならないのですが)、それを検証してから公にすることが必要だと思います。
- 2021/10/06(水) 21:25:00|
- 未分類
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「敵は慈悲を弱さと受け取る」は映画の中でのセリフでしたが、ろくでもない人物が門に入れてほしいとやって来て、教えている中でとんでもないことを何度もしでかし、そのたびに許してみても結局このセリフのようなことが起こるということを何回か経験しています。
初めから師事しようとは思っておらず、武道を習うことがそれこそアクセサリーを身につけるためなので、師の立場にある者を物売りか何かのように思っています。こちらが「慈悲」だとおもっていても、むこうは「自分に対して弱い人間なのだ。」としか思いません。何度もどうしようもない態度をとります。
各支部長は世の中にはそのような人物もいるのだということを頭の片隅において道場の運営をしてください。
- 2021/10/07(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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直接武道とは関係ありませんが、人を用いて自分の存在を確立しようとする方もいます。人を巻き込んで、めんどうな事態を引き起こしながら自分は遠くから高みの見物をするのです。このような人物はどの分野にもいて、自分自身はフィクサーで、良いことをしたくらいに思っていますから態度が改まることはありません。遠くに位置する外野を楽しませて自分のポジションを確立するのです。武道関係者にもこのような人はいます。本人にはそのような意識はなく人の役に立ったと思っていますのでやっかいです。
そのような人物が絡んできたときには適当に対処し、距離を置いてください。たまにそういう人物が稽古に来ることもあります。指導する方がうかうかしていると道場はとんでもない事態になってしまいます。気を付けてください。
- 2021/10/08(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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武道を稽古する人は自分の稽古する武道に価値を見出すために、お金がかかってもそれは当然だと考えます。以前武道学会で防具がテーマのときに「自分の防具は車のベンツ位の値段がする。それくらいお金をかけなければ上達しない。」という意味のことを話された方がおられました。びっくりしましたがその方にとってはそれだけの価値のあるものなので出し惜しみはしないということだと思います。
無雙神傳英信流では比較的長い刀を用いますので模造刀でも普通の方で10万円くらい、身長が180cmくらいの方だと、それに合わせて模造刀を買うと15万円くらいかかります。真剣はどのように現代刀を刀鍛冶さんに安く売っていただいても研ぎ師さんに頼んで、さらに拵を作ると50万円くらいはかかってしまいます。オークションでたまたま私たちが使う長めの刀を見つけても、それが安かったとしても拵が割れていた李錆があったりして手を入れなければならなければ余計にお金がかかります。大石神影流では木刀が流派の木刀で特注であるため1万円くらい、それに鞘が必要になります。鞘は手作りすれば安くつきます。手数の稽古が進むと稽古長刀、稽古槍も必要になり六尺棒も必要です。さらには鞘之内の稽古をするため模造刀・真剣も必要になりますが、模造刀や真剣は無雙神傳英信流の稽古で購入しています。澁川一流でも稽古用の懐剣、半棒・六尺棒・三尺棒、稽古用の鎖鎌、十手、分童、などが必要になります。手作りすれば安くなります。
また組織を運営するための資金として年会費、昇段審査費用なども必要です。これを高いと考える人はそこに価値を置かない人ですし、当然出費は必要だと考える人は価値を見出す人です。なかには武道をしながらなるべく自分からの出費を削ろう他の人にお金を払わそうとする人もいますが、このような行動は人としても論外です。武道以前の問題で、いくら稽古してもこのような人が上達することはありません。
釣りや車などのほかの趣味にお金をかけながら、武道の稽古もしようと思い、武道は高くつくと考える人もいます。週末にガソリン代をかけて釣りに行き、船に乗り、高い釣りどお愚をそろえていても武道にはお金がかかると思ったり、外国の高級車に乗りながら武道にはお金がかかると思ったり、ほかの趣味で高価な衣装が必要なのに武道にお金がかかると思う人もいます。そのような人には向かないものだと思います。どのようなことをしても最低限必要なお金は出ていきます。
何に価値を置くかは人それぞれです。
- 2021/10/09(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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教えるようになるためには自分の業がしっかりしたものであるだけでなく、効率的な指導方法も身につけなければならず、また心法も指導できるようにならなければなりません。自分自身の相当な修行が必要です。
と同時に組織の運営の能力も身につけなければなりません。稽古場所の確保や、組織を運営するための資金をどうするかなど面倒な仕事もしなくてはならなくなります。人が多くなればその人の能力に応じて補佐してもらえるようにしなくてはなりませんし、場合によっては何もせずに地位だけ欲しがる人も出てきますので、そういう動きにも対処しなければなりません。また、上部組織の運営に困難がある場合にはスムーズに物事が進むようにこれを助けなければなりません。
ただ腕が立つというだけでは組織の運営はできませんので、物事を広く深く見る目を養っていかなければなりません。また、それが自分の上達を助けていきます。立場が人を作っていきます。
- 2021/10/10(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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細かなことですが貫汪館で稽古される方には知っておいてほしいことです。何かを書くときに他の方が書かれたものを参考にする場合は必ず出展を明らかにして記してください。昇段審査の論文作成で心がけておられることですが、念のために記しておきます。
歴史を論ずるための史料を探し出すにはお金と労力は相当にかかります。それをもとに色々な記述をしていきます。それを無断で引用されしかも出典を明記せずに「こういう史料もある」とさも自分自身で見つけたかのように記されたらたまったものではありません。私自身もそのような経験をかなりしています。日本武道学会で発表を続けていますが、この発表を何時かまとめて本にしようとしているのですが、先に無断引用されて書籍に書かれたら私が盗んだかのように思われてしまいます。短い文であっても他者の研究を使わせていただくときには必ずそのことを記すようにしてください。
交通費往復3万円を用い、宿泊費6千円を使い、たった1ページまたは数行の文章しか書けなかったとしても他人が勝手に自分のものとしてそれを用いてよいわけではありません。そのようなことを武道学会に所属していない武道とはかかわりないどこかの名誉教授や武道の高段者、大学院の学生などが行っていますから世の中は信用できないのですが、貫汪館で稽古される方は心しておいてください。
- 2021/10/11(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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歴史とは歴史的事実ではなく作られたものであるといわれることがありますが、意図的に作った歴史ではないにしても一度記された歴史が信じられて通説になってしまうことはよくあるのではないかと思います。大石神影流の歴史の調査をしていて感じることです。
たとえば大石進種次は江戸で男谷精一郎と試合して勝ったので、加増されたといわれますが、加増の時期が違います。また初めての出府と試合についても天保3年暮れに出府し、4年に試合をしたといわれますが、これも異なります。大石神影流ではなく久留米の加藤田平八郎と男谷との試合も一方的に男谷が勝ったように記されたものがありますが、加藤田の日記ではそうではありません。島田虎之介は「剣は心なり・・・」と言ったとされ人格的にも素晴らしかったような印象を持ちますが、出身地の中津では島田が急死したときに試合態度などから毒殺されたのではないかと考えた人もいます。
また、大石進種次が長竹刀の元凶で大石がいたから実用的ではない竹刀が使われるようになったと書かれますが、これは半分真実で半分真実ではありません。大石進種次は各人が使用する竹刀・刀は身長に応じて変わるべきだと考え長さの上限を乳通りまでとしました。身長が低ければ短い竹刀、高ければそれに応じた竹刀を用いるべきとしたのです。しかも竹刀は節の多い孟宗竹の根元を使って竹刀を作ったので相当重いもののようでしたが、大石進の7尺の身長で用いる竹刀を他流派の、大石進の考えを知らない人たちが用いたのであって、実用的ではない竹刀の元凶とされるのはおかしな話なのです。
武道学会の精査された論文のなかにも、一度間違って書かれた論文に基づいて記されたものがありますから、論文だからといって完全に信用できるわけでもありません。歴史の教科書が年を追うごとに書き換えられていることを見てもお分かりの通りです。
歴史を記すのは慎重に過ぎるくらいでよいのだと思います。
- 2021/10/12(火) 21:25:00|
- 武道史
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無雙神傳英信流の師 梅本先生は「自分には仕事があったから、今の居合がある。何も仕事をしていなかったら今の業はなかったと思う。」と話してくださったことがあります。大きな薬草の会社の専務をされていましたが、その仕事で役人と対応し、お客様と対応することが居合を作っていったと話されました。実社会と殆どかかわることがなく、命がかかることがない現在の状況で武道だけをしていると上達はないということかと思います。
武道の専門家のような高段者の中にたまにろくでもない人物を見ることがあるのはそういうことなのかもしれません。
- 2021/10/13(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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素抜き抜刀術では仮想の敵は生きていなければなりません。貫汪館では剣術や柔術も行い居合も太刀打や詰合の稽古もしなければならないので生きた敵をイメージするのは難しいことではないと思います。
自分は生きた敵をイメージしていると思っていても、抜付けるときに敵が止まっていたり、抜付けた後には荒いコマ送りのように敵が次のシーンに移動していたり、斬撃したときには次のシーンに飛び敵が床に倒れているようでは敵は生きてはいません。ドタバタ動き所謂めりはりのある動きをされる方に、コマ送りの敵をイメージされている方がいるように思います。敵は生きていますので、太刀打ちや剣術を稽古しているときのような相手をイメージして稽古してください。同じ回数稽古しても生きた敵とコマ送りの敵では稽古の結果は全く異なるものになってしまいます。
- 2021/10/14(木) 21:25:00|
- 居合 業
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権威ある武道史の本であっても、完全に信用してしまうことは出来ないという例はいくつか見てきています。
たとえば、富永堅吾の『剣道五百年史』に「他流試合の禁は、幕府の指示に基づき、地方の諸藩はもとより各師範がこれを固守したもので、」とあるので、幕府が禁止した法令があるのかと思って事あるごとに調べてきましたがいまだに見つかりません。武道学会の武道史で実績ある先生にお伺いしましたが「他流試合」で死人が発生しても、それは殺人事件ではないので、中世・近世で「他流試合」の禁止に関する法令などというものは、公的に明文化された物はあるわけはないというのが私の考え。」とお教えいただきました。
また、山田次郎吉の『日本剣道史』に「されば有名な簗川の大石進。久留米の加藤平八郎の如きは都下を荒らし廻つて男谷の道塲へ來て試合を望んだ。例の五尺餘の大竹刀で一と突に千葉も桃井も破つた手並を、爰にても顕はすつもりであつた所。精一郎は例の遣ひ慣れたる三尺八寸。太き竹刀を上段に執て常の如くあへしらつた。遉の大石、加藤等は其妙技殆んど入神の如きに敬服して了つた。」とあるのですが、武道史を少し学んでいる人にとっては、この記述に間違いがあるのはわかることだと思います。
堀正平の『大日本剣道史』にも「而して後大石も天保六年五月二十六日同じ陰流系の男谷下総守の門に入つて随身更に修行したといふ。」とありますが、天保6年に大石進は江戸に出ていませんし、男谷に入門したという事実もありません。
今井嘉雄の『十九世紀に於ける日本体育の研究』 には「大石の長剣術は槍の刺突と刀剣の斬撃とを一器に求めた点一個の相違には違いなかったが、槍としては短く、剣としては長すぎるうらみがあった。加えて槍術が既にその長さの利を喪失しつつあった時代に、剣術に槍の長さの利を求めたことは、むしろ時代錯誤のそしりをまぬかれない。」とありますが、その前に今井自身が「身長七尺と称せられていたから、彼にとっては、五尺余の長竹刀も必ずしも長くはなかった。」と書いていますので理論が矛盾しています。大石神影流では刀・竹刀の長さは地面から乳通りまで(以下)という決まりを知らず大石神影流を学ぶものが全員五尺余の長竹刀を使ったというような誤認をしています。
ほかの書籍にも間違いがありますが省略します。このように権威ある武道史の本に間違いがありますから、それ以降に書かれた本や論文にも間違いが踏襲され、一般向けに記された本はこれらの権威ある本をもとにして書かれているので間違いが拡散していきます。
権威ある本に記されたことであっても一度真実かどうかを疑ってみるという態度が必要だと思います。私自身が中学生・高校生のころからこれらの本を信じていてきましたが、どうもおかしいと気づいたのが武道史の研究を本格的に行うようになってからでした。
- 2021/10/15(金) 21:25:00|
- 武道史
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歴史を偽って、古い流派や技が一子相伝で伝えられていて誰にも知られていなかったとか、秘密裏に伝えられて特定の集団にしか知られていなかったという武術を公開して教え始めたという流派が、コンスタントに生まれています。現在は映像で相伝者(創始者)が話すのを見ることもでき、また映像がそのような人たちの広報の手段ともなっています。
ところが形・技を見せるときには自信を持って堂々として行っているのに自ら歴史を語るとなぜか表情や態度に自信のなさが表れてしまいます。誠実な心も残っていて良心の呵責があるのでそのようになってしまうのだと思いますが、それが見えない人で歴史や武道史に疎い人であれば信じ込んでしまいます。しかし詐欺師の才能がある者は自分自身をだますところから始まりますので何をするにも自信があり堂々としており、そういった流派は偽りの存在であってもかなり勢いを持ちます。人は簡単に騙されるものなのです。
貫汪館ではCOVID-19の感染予防のため澁川一流柔術の素手の形の稽古を休止しておりましたが、ワクチン接種が進んでいる状況等を考慮して、マスク着用等の予防措置をしたうえでの稽古を再開します。
- 2021/10/16(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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現代武道を稽古したことがない人が現代武道を語ったり、古武道を稽古したことがない人が古武道を語ることには無理があります。しかし自分がまともに稽古したこともないのに、何とも思わずに評論する方が世の中にはいますし、その評論を正しいと思って堂々と公開もします。武道は行動の学問であるにもかかわらず、したことがないものをどうして評論できるのか不思議です。
現代武道も古武道も対人関係である事から心の部分はかなり共通していますが、たとえば剣道が現在のように打突後に前に出るようになったのは大正の頃です。そこで運動形態は大きく変わってきています。それ以前と以後では別物といっていいほどの動きになっていきます。現代剣道を稽古している人が剣術になじめなかったり、剣術を稽古してきた人が現代剣道になじめない理由はそこにあります。異なるものを同じものと考えて行おうとするからです。卓球のラケットの振り方でテニスの試合に出るようなものです。
経験して違和感を感じたことがある人ならわかることでも、頭の中でだけ考えている人にはわからないかもしれません。知らないことを語るのは無理がありますので貫汪館で稽古されている方は十分に気を付けてください。
貫汪館ではCOVID-19の感染予防のため澁川一流柔術の素手の形の稽古を休止しておりましたが、ワクチン接種が進んでいる状況等を考慮して、マスク着用等の予防措置をしたうえでの稽古を再開します。
- 2021/10/17(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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英信流で立膝に座る時に右手が定まらない方が多いので記しておきます。正しく半身を取って座ることができ、左足裏の位置も定まり肚が落ち着き、胸は自然に開き両肩が鎮まった状態が前提です。
右手首の左側が軽く膝頭の内側に接します。肩が鎮まっているので肘は体側に自然におります。できていない方は右手の手首の位置が定まらず、肩が浮き右肘が落ち着きません。英信流の立膝は時間をかけてしっかり稽古しなければできるようになりませんし、正しく座れていなければ正しく抜くこともできません。
貫汪館ではCOVID-19の感染予防のため澁川一流柔術の素手の形の稽古を休止しておりましたが、ワクチン接種が進んでいる状況等を考慮して、マスク着用等の予防措置をしたうえでの稽古を再開します。
- 2021/10/18(月) 21:25:00|
- 居合 業
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兎と亀のお話ではありませんが、はじめに上達が早い人もあれば、始はなかなか上達せず苦労していても次第に上達の速度が速くなり先に上達していた人を追い越すこともあります。
初めに上達が早い人はなぜか途中で慢心が起こります。まだまだ先は遠いのに早く上達してある程度まで行ったことに安心するのだと思います。さらにわるいことにはその安心が下達を招いてしまうのです。自分ではコンスタントにまじめに稽古を続けているつもりでも、道をそれて、それた方向にどんどん進んでいますので、遠ざかっていきます。我がでるのです。気付いても苦労して元の道まで戻らなければ、再び上達することはありません。
はじめなかなか上達しない人でもあきらめることなく、暗闇の中をもがきながらでも正しい方向を見つけようとしている人は遅くても道を踏み外さずに着実に上達していきます。後者の人も何人も見てきました。初めにおかしな癖を持っていてなかなかそれが正せず上達に苦労されるのですが、正しい方向に気付かれると少しずつではあっても着実に上達していかれます。地道な努力は上達につながります。
- 2021/10/19(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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素直さは上達の近道で最速の方法です。今稽古に来ている子供たちの内二人が教えているとおりに素直に斬撃の稽古をしていてしかも正しい動きが身についてきているので、2尺8寸の模造刀で斬撃の稽古をさせたことがあります。身長も高くはなくいつもは中たちの子供用の軽い木刀で稽古しています。
思った通り普段通りに呼吸に合わせて振り、普段通りに斬撃したときの刀は普段通りの一に自然に止まりました。手の内を締めてとか握力を用いた振り方をしたわけではありません。もっともそのような振り方をしていたら重い模造刀で体を痛めていたっと思います。素直な子供は教えたとおりに吸収していきます。「我」の強い人はいくら稽古をしても「我」が邪魔をしてまた道をたがえさせてかえって離れて行ってしまいます。素直な子供の心を見習えば速やかに上達します。
- 2021/10/20(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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「模造刀といっても刀であるので、刀を貸し借りするものではない。初心者が刀を持っていないからといって模造刀であってもむやみに貸すものではない。」無雙神傳英信流の師から教えられたことです。
取り扱いなどを丁寧に説明していても、借り物だから、自分がお金を払っていないからという私にとっては不思議な感覚で刀をいい加減に扱う人も一定の割合でいました。木刀しかりです。いいかげんに扱うのです。お金に不自由していない人にそのように扱う傾向があったように思います。
一番ひどい話ですけれど、お貸ししていた模造刀を「歩けるようになった自分の子供が下緒を持って引きずって歩いていた。武道をする自分の子供が刀を引きずって歩くのはうれしいことだ。やはり自分の子供です。」と本当にうれしそうに私に話した人がいました。扱い方もお教えしていて、模造刀といえども危険であり、家の人が安易に触れることができない状態で保管しておくことをお話ししていたにもかかわらずです。そういう人でも自分でお金を払ったら大切に扱う人がいます。不思議なものです。
- 2021/10/21(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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現代剣道が歩み足ではなく継ぎ足で長い距離も進退するようになったのは長い竹刀が使われるようになって柄も長くなったためだといわれていますが、半身が取れなければ多少柄が長かったら、邪魔になります。正対する流派や両足つま先を前に向けなければならない現代剣道を稽古する方には長い柄で歩み足は無理なことです。
少し考えてみれば長い柄では継ぎ足になるという論は成り立たないのですが、竹刀と長い柄のせいにしてしまいたいのでしょうから考えることもないのだと思います。それでは古武道の長刀や槍術は継足をしているのか? 長巻はどうだったのか? 銃剣道の(今は防具をつけたら現代剣道のように継足をしますが)形を行うのに継ぎ足で遠い間合から近づいているのか? 考えればわかることです。
相手と接近して微妙な間合いで動くためには継ぎ足をします。これも今行われているように決まった動きではなく相手に応じての動きです。飛び込んで打つためには後足のつま先も前に向いた方がよく、そのため現代剣道では半身が取れないのですから柄が長ければ歩み足は難しいでしょう。竹刀の柄の長さのせいではありません。
- 2021/10/22(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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大石進種次が「腹巻」をこしらえ、「竹腹巻」ではないことは1か月前にも述べましたが、『山口縣剣道史』にも「竹腹巻」と記してありました。『山口縣剣道史』は『柳河史話』と『武藝流派大事典』を参考にしている様なのでそれぞれを見てみると、『柳河史話』には胴に関する記述はなく、『武藝流派大事典』に「竹腹巻」とあります。大石進について書かれた刊本で最も古いとされるのは『福岡縣篤行奇特者事績類纂』ですが、これには誤植や間違いがあると以前指摘したとおりです。この本に「竹腹巻」とあります。おそらくこの『福岡縣篤行奇特者事績類纂』を参考とした書籍は「腹巻」とせずに「竹花巻」としたのではないかと思います。大石神影流の胴に関する江戸時代の記述については以前述べましたが、その記述では他流のものと異なり大石神影流の胴は厚い革で作られているとなっていました。
写真は鳥取藩の河田佐久馬らが用いた胴ですが、おそらくこのようなものを用いたと思います。写真は瑠璃光山泉龍寺所蔵のものです。以前訪れて写真に撮らせてもらいました。河田佐久馬は家伝の一刀流を修めたのち、はじめ長府の多賀虎雄に大石神影流を学び、後に大石進種昌に入門しました。廻国修行者の英名録には一刀流兼大石神影流と記しています。
一字の違いが後に大きな影響を与えます。
- 2021/10/23(土) 21:25:00|
- 武道史
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流派を捏造すれば証拠が残りいつかはその実態がわかると思いたいのですが、巧妙なやり方もあります。
すでに無くなってしまった一地方の村落だけの、何流と関係しているのかよくわからない流派が歴史上に存在すれば捏造は起こりえます。その伝書、目録がありさえすればよいのです。古武道の流派を稽古した人がその目録に沿って技を作っていけば、あるいは形の手順が書いてあるものを見て、それらしい形を作っていけば100年後にはわからなくなってしまいます。そのような手法は一部の方だけ残っていて、あるいは一部の形だけ教えられていたのにもかかわらず、ほとんどすべての形をあたかも実際に教えられたかのように伝えていく場合にも行われています。
私が武道史の研究を広島で本格的に始めた30年くらい前には、今はなくなってしまった流派で形のごく一部の初歩的な部分を知っていた人や、最初の形だけを習った方もおられましたので、そのころに捏造しようと思った人がいたとしたら今よりももっと簡単だったかもしれません。実際にすべてを習ったという嘘も行われているのかもしれません。
巧妙に行えばわからないものですので、100年後の日本古武道振興会や日本古武道協会にはどのような流派が加盟しているかわかりません。
- 2021/10/24(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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ある程度稽古が進むと、技と心がつながっていて不可分のものだということがわかってきます。この関係がまだわかっていない人はさらに稽古を積まなければなりません。
心と技のつながりがわかってくると技を通じて自分の心が見えてきます。心が強くどこかにとらわれて偏ってしまうとその人の技もまたいびつなものになってしまいます。力強くと思っている人は強引な動きにしかなりませんし、速くと思っている人は焦った動きで体の調和がとれていません。正しくと思っている人は形(外形)を作ってしまいますし、自然にと思う人は自分が自然だと思う形を作ってしまいます。そこがわかると日常の生活での自分の行動も稽古のときの気づきと同じ心の偏りから出ていることも見えてきます。稽古で技を通じて見える自分の心を正すことによって日常生活も変化していきます。
奉納演武や演武会では自分のダメな部分がよく現れてしまいますが、それは心の至らぬ部分ですのでそこを正さずに外形だけを正しても正したことにはなりません。自分に負けそうになりますが一生が修行です。厳しいものです。
- 2021/10/25(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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武道のことではありませんが、長州鍔は他藩へ販売して藩の財源とするほどに特産品として多く作られたといわれます。以前萩の骨董屋さんで長州鍔はないかと尋ねたことがありますが、萩の鍔は他地域の骨董屋が持っていて萩にはあまり残っていないと聞いたことがあります。
さて、この長州の鍔ですが藩の贈答用にも用いられていたようで、長州藩が加藤善右衛門と大石進種次を萩に招聘したいと使者を出した時にも柳河藩への贈答用に長州鍔をもっていっています。また、大石進(当時は進士)種昌が弘化2年に萩で指導したときも御礼に長州鍔をもらっています。藩が長州鍔を贈答用に用いることも長州鍔を全国に宣伝して藩の財政を豊かにする方策であったのかと思います。
私も以前長州鍔を持っていたことがありますが、品質の良い長州鍔はかなりのお値段がしますのでなかなか手に入れることができません。
- 2021/10/26(火) 21:25:00|
- 武道史
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何も知らない人だけでなく、ある武道の高段者の方で自分が知らない武道の方を妄信しているのを見たことがあります。肩書だけみると素晴らしいので、肩書すなわちその人だと信じこんでいたのです。「あなたの行っている武道の目でその人を見たら何かわかるだろう。」と思ったのですが、自分が知らない武道の肩書を信じている人には見えないようでした。
巧妙な詐欺師はどの世界にもいます。肩書ではなく、その人を見なければなりません。現在は武道の場合にも競技での成績がその人物の素晴らしさだと勘違いしている人もおり、また、それを利用して人をコントロールしようと考える人物もいますが、武道が道ではなくなってきているのだと思います。
- 2021/10/27(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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無雙神傳英信流も、大石神影流も、また澁川一流でも刀は振りません。刀を自由に扱おうとすればかえって自由にはなりません。
体の中心を動かすので刀は動きます。たとえば箸を用いるのに指先を使わないのと同じです。箸の使い方を習い始めたばかりの子供は何とか指先で箸をコントロールしようとしてぎこちない動きになります。刀を振ろうとしている方はそのような状態になっています。素人目には力がこもってよいように見えますが、唯すらすらと動くためには刀を振るという意識をなくさなければなりません。
- 2021/10/28(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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『五輪書』の一節です。
世の中を見るに諸藝をうり物に仕立 わが身をうり物の様に思ひ 諸道具に付てもうり物にこしらゆる心 花實の二つにして花よりも実のすくなき所也 とりわき此兵法の道に色をかざり花をさかせて術をてらしスポーツの世界でも人気を求めて花を飾ります。、これはスポーツの多くがビジネスと切り離せないためでもあり、そのためにきらびやかなコスチュームなどが必要な競技もあります。今も昔も人の心は変わらないようです。花がないスポーツは人気がなくビジネスにはならないため表に出る機会は減り、ますます人気がなくなってしまいます。宮本武蔵の頃から武道にもその傾向があったということになります。
貫汪館で稽古している無雙神傳英信流、大石神影流、澁川一流はほとんどが花がない流派です。この花がない流派に無理やり花をつければ陳腐なものにしかなりません。流派を残すためには花ではなく違う方法を考えなくてはなりません。さあどうするか、知恵を出してください。
米沢の上杉家・直江兼続の菩提寺である春日山林泉寺には何度かお参りをしていますが、最近は参禅会に参加される方が少なくなっているとお聞きしました。坐禅には花はありません。
- 2021/10/29(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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本当の古武道であれば歴史と文化があります。新しく作った古武道には歴史とそれに伴う文化はありませんが、本当の古武道よりもそれらしく装うことがあります。歴史の専門家であればそれが本当なのか虚飾なのかは理解できますが、一般の方には武道の歴史に関する深い知識はありません。現代剣道が江戸時代から行われていて柔道も江戸時代から行われていると思う方が大半です。多少時代劇を知っている世代に対してなら、「現代剣道には時代劇のような流派はありませんよね?」というと、「あれっ」という顔をされます。ましてや古武道の流派が本当に江戸時代から続いている流派であるのか、新しく作られたものなのに江戸時代から続いているといっているのかはわかりようもありません。
貫汪館では三つの流派の稽古以外にその歴史等の調査研究を行うことにしていますで、少なくとも自分が稽古している三つの流派に関する歴史、その時代背景はよく学ぶように心がけてください。一般向けの武道史関係の書籍には間違いが多々あり、また研究者による専門書にも間違いもありますので、おやっと思ったら質問してください。
- 2021/10/30(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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普段真剣や模造刀、木刀を用いて稽古しているので大石神影流で防具を着用して稽古するときに、竹刀を持つとどうしても違和感を覚えるという方があります。
柄頭と切先をつないだ戦を考えると直線に感じられ、竹刀の上側を見るとむしろ反りが真剣とは反対になっているように感じるのだと思います。しかし、竹刀の下側・刃の方を感じることができれば反りは浅いものの刀と同じ反りを感じることができるはずです。
もしそうできない場合には真剣や模造刀、木刀の刃の部分を意識できておらず反った形状のものを棒を用いるように使っているかもしれません。自分の意識を探ってください。
- 2021/10/31(日) 21:25:00|
- 剣術 業
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