無雙神傳英信流の詰合の初めの形である発早は英信流表の虎一足と変わるところはありません。想定ではなく実際の相手がついただけのことです。
詰合に至るまでに虎一足の稽古で抜かずに抜けることを十分に稽古していると思いますので張り受けについては省略します。立たなければよいだけのことですから。
発早で大切なのは、といいますか、詰合いの鱗返までの形で大切なことを述べておきます。
遣方は打太刀が脛に抜き付けてくることが読めたのちに張り受けをすることが大切です。手順が決まっており、自分は脛を守るのだと思って動けば死んだ形になってしまいます生きた形を遣うためには必ず相手の動きを読んでから動くことが大切です。
また、脛を受けたのちの動きは、たとえば柏手を内、音がして両手を開いたときには斬撃をしているという間で行う必要があります。受ける、斬るの2挙動ではありません。工夫してください。
これは制剛流の伝書の絵図です。
- 2015/03/01(日) 21:25:00|
- 居合 業
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拳取は発早の斬撃のタイミングと同じく、たとえば柏手を内、音がして両手を開いたときにはうち達の手首を制しているという間で行う必要があります。
左手で手首を取る動きは臍下中心に行われていますので、体を動かせば必然的に右手も働き右手の刀の切先は手首を取った時には相手の腹部についています。取る、それから突く動作と二つに分かれることがないように工夫してください。
これも制剛流の伝書の絵図です。
- 2015/03/02(月) 21:25:00|
- 居合 業
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岩波は拳取の動きを双方が同時に行います。この時ただ単に同時に行っていたのでは相討ちとなってしまいます。遣方はできれば相手の動きを読む必要があります。
双方手首を取ったら領す組になってしまいますのでこれをはずすには遣方は下肢の力を抜き重心をふっと下に落とします。それにより相手が掴んでいた手首の実態は感覚上なくなり遣方は右手で打太刀の肘を取ることが可能になります。
柔術的なセンスが求められる形ですので十分に工夫してください。
制剛流伝所の絵図です
- 2015/03/03(火) 21:25:00|
- 居合 業
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八重垣は打太刀の拍子を外すことを習います。打太刀は脛に抜付けた後、3回連続して斬り込んできますが、これも決まった動きと思って動いていたら生きた形にはなりません。かならず打太刀の動きを読んでから動く稽古をおこなってください。打太刀が初めから速く斬りこんでいたら遣方は決められた手順を繰り返すだけなってしまいますので、相手のレベルに応じて斬込む速さを工夫してください。
本心鏡智流の伝書の絵図です。
- 2015/03/04(水) 21:25:00|
- 居合 業
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鱗形の動きも受ける、切り下すとニ挙動にならないことが肝要です。
受けるのではなく相手の動きを吸収したらそのまま相手に返すことで自分の切先が相手の顔を降りていきます。動きを吸収するためには両手は臍下丹田から出ており、肩・肘は存在していない感覚が必要になります。相手の斬撃は手ではなく臍下に通じるので、そのまま返すことができます。
工夫を重ねてください。
吉岡流の縄の伝書の絵図です。
- 2015/03/05(木) 21:25:00|
- 居合 業
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学問でも武道でも、教えられるのを待っていてはなかなか身にならず、自ら求める姿勢が最も大切であるというのが今の実感です。
自ら求めるというのは武道であれば、先生の動きを見せていただけるときには寸分もらすことなく、今の自分が見ることができる能力をすべて用いて見させていただくことです。
武道史という分野の学問であれば、これまでの先行研究を可能な限り学び、研究方法を学んだうえで、自分がどのようなことを研究したいのかを明確にして、可能な限り1次資料にあたって自分の考えを持つことを言います。
与えられるのを待つ姿勢ではなかなか向上できません。
田宮流の絵図です。
- 2015/03/06(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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初心者の方に「見て取ってください。」というと、これまでの自分の経験をもとに手順を見て覚えようとされます。これはいたって普通のことですが、道場で「見て取ってください。」というのは基本的にはどのように動いているのか本質を見て取る努力をしてくださいという意味です。
形の手順は何度も繰り返していれば体が覚えてしまいますが、これまで経験したことがない動きは、どう動いているのかを何とか解明しようとしなければ見ることができません。見えていないものを見てくださいというために「見て取ってください。」と言っています。
道場で稽古しなければならないのは本質的な部分です。習う姿勢も工夫してください。
しばらく柳河藩のとある流派の市販が記した『刀剣摘要抄』の絵図を押せていきます。『刀剣摘要抄』は、それまでに記されている書籍の中から重要と思われることを、その師範が抜き書きしたもののようです。柳河藩で身分ある武士に対して発行されています。
- 2015/03/07(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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初心者の方に稽古していただく大石神影流剣術 試合口5本の「張る」動きは突っ立った姿勢から生じません。
体が沈む動きを刀に乗せていますので、瞬時に「張ろう」とすると、瞬時に沈む必要があります。そのためには最低必要限の脚力のみを用いて立っている必要があります。体にひずみなく前後左右に偏らず無理無駄をなくし、立つことを心掛けたのちに「張る」ことができるようになります。初めから難しいことを要求されています。工夫してください。
- 2015/03/08(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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昨日述べた動きは状況は異なりますが澁川一流柔術でも用いています。澁川一流柔術の多くの方の最後は右膝で受の右胸を圧しています。この動きも立った状態から膝を曲げるのではなく、必要最低限の筋力しか用いずに立った状態にあるので、その力を抜くことによって体は下方に降り膝が相手の胸の上に乗ります。
工夫してください。
- 2015/03/09(月) 21:25:00|
- 柔術 業
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貫汪館では基本の習得に時間をかけて稽古します。それは基本がそのまま業となるからです。基本の稽古ではかたちの上で相手と争うことはありません。ただ礼法を行い、ただゆっくりと木刀を上下し、ただ歩き、ただ蹲踞します。普通に考えればこのような稽古が相手と戦う技につながるとは思えません。
この基本の動きが正しくできるようになることが近道であるにもかかわらず、相対して行う形の稽古に入ると、たいていの方は基本を忘れ自分の思うとおりに動き相手と争おうとします。
この時点で速やかに上達する人と、同じ所に留まる人が分かれてしまいます。心して稽古しなければなりません。
- 2015/03/10(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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日本武道学会中四国支部会の懇親会での会話です。
現代武道の先生が「一人に伝えられれば良いんだよ。」とおっしゃいました。古武道と違い剣道・柔道といった現代武道は稽古される方の数が圧倒的に多く、ましてや大学の先生方ともなれば、教えられた学生の数も、私とは比較にならないくらい多いと思います。そういった先生方が「一人に伝えられれば良いんだよ。」とおっしゃいます。
いかに伝えることが難しいことか・・・。
私はできるだけ多くの方に伝えたいと思って20年以上指導してきています。
イレギュラーですが貫心流・司箭流の奉納額です。広島藩で伝えられていた貫心流・司箭流は徳島藩から本流を習いに来た細親子が広島藩に召し抱えられて広島藩で大きな流派として引き続き教授されることになりました。
細義知が広島藩にやってきて築山通欽に入門したのは50才を過ぎてからのことでしたが、既に徳島や江戸に門人がおり、名のある人物でした。
細親子が広島藩にやってこなければ広島藩の貫心流・司箭流は存在感の希薄な流派になっていたかもしれません。それほど人を得るのは難しいことなのだと思います。
築山通欽の門人の一人が頼山陽で、この奉納額は頼山陽の子息である頼余餘一によって記されています。頼余餘一は細義知の門人です。
- 2015/03/11(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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大石神影流剣術と澁川一流柔術では有声の気合いをかけます。無雙神傳英信流抜刀兵法では無声の気合いをかけます。いずれの気合いも呼吸がその基となることは言うまでもありません。
有声の気合いも無声の気合いも双方にメリットとデメリットがあります。有声の気合は確実に呼吸がなければできませんが、無声の気合いは自分で気づかないうちに呼吸を止めている場合があります。また、有声の気合いは息を肚から一気に吐くことによりなされるものであるのに、大きな声を出す事を第一としてしまえば、気合をかけることによって体を力ませ収縮させてしまいます。つまり動けない体にしてしまいます。無声の気合いは体を力ませることはあまりありません。
自分がどのような気合いをかけているのか確認してください。
- 2015/03/12(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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無雙神傳英信流抜刀兵法では技を盗ませる稽古をします。つまり見て取らせる稽古をしています。
見て取らせる稽古では手順を覚えさせているわけでもなく、本質的な動きそのものを取らせようとしています。したがって手順をみていたり、刀の動きを見ていては見て取ることはできません。それらは結果にすぎず、結果のみを見ていたら本質的なものを取ることはできません。
どのように動いているのか、体の内を見るように努めてください。初めの内は見えないかもしれません。それでも見えないものを見る努力を重ねていれば、少しずつ見えてくるものです。努めて行ってください。
- 2015/03/13(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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無雙神傳英信流抜刀兵法の稽古で一緒に抜くのは真似てもらうためです。とはいっても形を真似るのではなく見取稽古と同質の稽古です。この稽古は言語学習でいえばシャドーイングにあたる稽古方法で見たままを自分の体に取り込みます。先生に遅れずにとか、先生より早くという思いは稽古の妨げにしかなりません。
自分の体・意識を同調させ一緒に抜くことによって真似ます。
明日からは地御前神社の奉納額を載せます。今日は地御前神社の写真です。神社は宮島の対岸にあり明治維新まで厳島神社本社を内宮、地かたの御前の本社を外宮と称されていたといいます。御鎮座は推古天皇の端正元年と言われています。
- 2015/03/14(土) 21:25:37|
- 居合 総論
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澁川一流柔術では二人で組む稽古を始めた途端に相手を投げよう、抑えよう、関節を決めようと無理やり動く方が大半です。
しかし、これは技から遠ざかってしまう思考なので初心者が持つべきではありませんし、指導者がそのような思いを持たせるべきではありません。
稽古の方向性は技はかからなくても、意識と動きにおいて、自分自身、そして相手との調和を保つことです。調和を保てるようになれば、技をかけようとしなくても調和が保たれているが故に自分が動くことによって相手も動くようになります。
初心者の内に技を何が何でもかけようという思いはもつべきではありません。
この絵馬は大正時代に金毘羅参拝記念に納められたようですが、その当時このような船が瀬戸内海に走っていたのでしょう。薄くなっていますが船中の人物が生き生きと描かれています。
- 2015/03/15(日) 21:25:00|
- 柔術 業
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人は刀や木刀や、半棒、六尺棒を持つと、自由に扱おうとします。しかし人が自由に扱おうとするが故に、かえって刀や木刀や半棒、六尺棒は本来持っている働きができなくなってしまいます。
自分の自由にしようとすればするほど遠ざかり、自由に働きをさせるが故に自分と一体になります。人生における、ある人間関係に似ています。
弁天様の絵です。神仏習合の時代には厳島神社の御祭神の市杵嶋姫命と同一視されていました。
- 2015/03/16(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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刀はそれぞれの流派によって適する物が異なります。
長さは当然のことなのですが、中子の長さ、元幅・先幅の比率、重ねの厚さ、鎬の高さ等々。真剣を求められる際には必ず先達に相談してください。
どこかの合戦の絵図なのですが、文字が良く読めず、不明です。
- 2015/03/17(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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古武道を学ぶ方は歴史の勉強は不可欠です。自分が学ぶ流派がいつごろに成立したか、その時代はどのような時代であったのかを知らなければ、流派に対する理解は深まりません。
極端な話ですが、澁川一流柔術を学ぶ方が柔術は甲冑を身に着けて鎧通しを用いるものだから澁川一流柔術にはそのような形が存在しなければならないと考えたら大きな勘違いです。幕末に成立した流派ですので、実用を考えれば平時の護身でありしたがって形もそのように構成されています。
無雙神傳英信流抜刀兵法を学ぶ方が、居合はすべからく3尺3寸と考えたとしたら、無雙神傳英信流抜刀兵法のほとんどの形は改変しなくてはならなくなります。流祖を林崎甚助としていても、その発展は江戸時代であり、大森流はもちろんのことですが、二人で組んで行う太刀打、詰合の形は刀と刀で対するようになっています。
このようなことは歴史を学ばなければ理解できません。勉強してください。
町の様子を描いた絵図です。頭巾をかぶった武士もみえます。
- 2015/03/18(水) 21:25:00|
- 武道史
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大石神影流剣術では他流派にあるように初めに木刀を汲んで床の上に置きという所作はありません。また、お互いに正座で礼を行うということもありません。演武をするときには初めから木刀は腰にあります。
これは稽古が道場稽古ではなく、神社の境内などで行われたことも大いに関係していることです。また、柳河藩では武術上覧には藩主は建物の内にあり、その庭先で演武が行われたことも関係しています。このようなことも歴史を知らず稽古が道場の床の上だけで行われていたと思っていては理解できない事であろうと思います。
地御前神社の最後の絵馬は大石内蔵助です。他にも絵馬はたくさんあるのですが、薄れてしまってはっきり見えません。また、廃棄処分されたものも多いと思います。
- 2015/03/19(木) 21:25:00|
- 剣術 総論
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当然のことでありながら人によっては忘れてしまうのが神前での作法です。
神座に向かって刀を振らない、抜き付けない。このような当然の作法を忘れてしまうのは神座に神を感じる心を持たないからだと思います。たとへば、そこに神話の絵に出てくるような神がおられたとするならば決して神に向かって斬りつけることも抜き付けることもないでしょう。
他の流派では考え方が異なるかもしれませんが、無雙神傳英信流抜刀兵法では奉納で試し切りを行うことはありませんし、神前に試し物を置いて神座に向かい後方からこれを切るようなこともしません。無雙神傳英信流の考え方では神に刃が向くことは不敬であると考えるからです。そこに神ではなく人がいると考えても、そのようなことはできません。
また稽古をする、演武をするときに演武場に進み出るのに隙なく歩むのは当然のことですが、肩をいからし、睨みつけるのは神を意識できないからだと思います。
刀礼にしてもしかりで刀に霊性を認めなければ形だけの刀礼となります。
- 2015/03/20(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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半棒の形の多くは棒で相手を打つことで終わります。しかし、打とうとして打っていれば真の打ちはできません。他と同じく、打つという状態は結果であり、体を使った結果打つという状態が起こります。打とう、打とうとして打った時には、すでに我が強く心の調和も崩れ、それが体の動きに表れますので手打ちになってしまいます。
工夫してくだあい。
廿日市市の山間部の八幡宮に奉納してある額の写真を載せていきます。山間部の八幡宮ですが絵師に描かせた額が奉納してあります。
- 2015/03/21(土) 21:25:00|
- 柔術 業
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昨日の続きですが、打とうという我欲がないのに、正しく打てない場合はいわゆる手の内が悪く棒と体が一つになっていません。
手の内とは言葉の上で考えれば棒との接点である掌の状態のことのみと思いますが、体と棒を一つにするためには臍下から手の内を通って棒端に至るまでを一つにするための言葉です。心が鎮まり、体が治まり体の中の流れを感じその流れが棒端に至れば、打とうとせずして真の打ちができるようになります。
- 2015/03/22(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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基本に手馴れてくると、同じことの繰り返しであるが故に慢心が生じ、初心の緊張感はなくなってしまいます。心の問題であり、誰にでも訪れることです。
しかし、上達した人は常に自分を戒め、今よりは次、次よりはその次と自分の質を高め続けることができた人です。「自分の変化を楽しめない人でなければ向上しません」と上達した一人は言いました。同じことをしていても質的に向上し、無理無駄がなくなり、より楽になることを楽しめる人こそが向上できる人なのです。
しかし、多くの過多は筋力が強くなった、力強くなったということに満足を覚えてしまいます。
- 2015/03/23(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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初心派の方にお教えして一度できるようになった事が、次に自分で行おうとするとできないというのはよくあります。これは心にかかわることですので、ただくりかえしてもできるようにはなりません。
柔術であれば、投げたい、抑えたい、きめたい、という思いが素直な動きを妨げます。居合であれば握りたい、抜き付けたい、斬りたい、という思いが動きを妨げ、剣術であれば強く、す速くといった思いが動きを妨げています。
これらの思いはおこるのが自然であり、仕方ないことですが、この波風をしずめることがいわゆる心の修行となり、技の質が向上していくもととなります。
初心の内にはただ静かにゆっくり、心も体も鎮めて稽古することによって上達すると心に言い聞かせてください。
- 2015/03/24(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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以前にも述べていますが、稽古をされる方がかわるので再び述べます。
要するに他流派について語るべきではないということです。少し知ったものは雑談において自分と他との違いについて語りたくなります。
自分がその流派を習ってもおらず、その流派については外からしか知らないのですから、語りたいと思うことが間違いなのです。 たとえ、その流派をかじっていたとしても、本当に伝授を受けた人物に習ったのか、そうではないのかによっても理解は全く異なってしまいます。
まず、自分が稽古している流派に集中し、体得できるよう心掛けなければなりません。真剣に稽古すれば初心者から10年である程度のレベルに至ります。真剣にというのは昨年末の日本武道学会中四国支部会で発表した片岡健吉について、その資料を読んでください。
- 2015/03/25(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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いつも述べている繊細さについて言っています。
心が繊細であるためには体の感覚も繊細でなければなりません。体と心がつながっているからです。力みがいっぱいに入った体で繊細に自分の体をとらえなさいとか、必要以上に体を緊張させているのに鳥の声を聴き、風の流れを聞きなさいと言っても無理なことです。
心を繊細にしようと考えたら体を繊細に使えるようにならなければなりません。
- 2015/03/26(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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元の自分に勝つことを勘違いして、より力強くと思う方は無雙神傳英信流抜刀兵法にはむきません。元の自分に勝つとはより楽により自由になることで上達していけばいくほど実感は伴わなくなります。抜き付けた斬った血振いしたといった実感はどんどんなくなり、どのように動いても無心に座った時と同じ状態に近づいていきます
- 2015/03/27(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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立身流などの歴史が古い流派は多くが居合、柔術、剣術その他の武術を包含しています。しかし幕末に成立した多くの流派や幕末に改編された多くの流派では包含する武術の種類の数は少なくなる傾向にあります。しかし、幕末の武士は現代のように柔道だけ、剣道だけという稽古の仕方はせず、いくつもの種類の武術を稽古するのが普通でした。
たとえば、細川義昌は砲術、軍太鼓(甲州流)、軍具、兵学(甲州流)、竹内流小具足組打、無外流剣術、川心流槍術を稽古しています。
また、片岡健吉は大石新影流剣術、無雙神傳英信流抜刀兵法、高木流体術ヲ、竹内流組打、以心流槍術、源家古傳馬術〔調足流〕、北条流兵学などを学んでいます。
これほどまで多くはなくても大石神影流剣術流祖の大石進種次は大島流槍術、大石神影流剣術を指導し、八條流馬術の免許を得て2代目大石進に教えているようです。はっきりとした資料は残っていませんが、電撃抜討流も稽古したのではないかと思われる形跡もあります。
明治維新以降も植田平太郎は無雙神傳英信流抜刀兵法、神道流剣術、宅間當流柔術の免許を得ています。
このように稽古の多い少ないはあっても、複数の種目の武術を稽古してはじめて広く目を開くことができるのではないかと考えます。
今日からしばらく長崎の工芸品の写真です
- 2015/03/28(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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貫汪館では無雙神傳英信流抜刀兵法、澁川一流柔術、大石神影流剣術の3つの流派を稽古しています。この3つの流派が相まって貫汪館の武術の全体を初めて理解できます。
昨日述べたように幕末の武士現代のように柔道だけ、剣道だけという稽古の仕方はせず、いくつもの種類の武術を稽古するのが普通でした。
私自身は居合、柔術、剣術の3つの種類の武術を指導していますが、そのほかにも、銃剣道、短剣道、自衛隊で習ったことなど多くの武術を経験していて、現代武道の経験であってもいろいろな意味で無駄にしたことはありません。
いわゆる古武道では、一つの武術だけを専門にという稽古方法では逆に一つのことを求めがたいという傾向があります。広い目で物事を見ることができず、自分が行っていることを多角的に判断できなくなるからです。
- 2015/03/29(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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手の内が遊んでいる方は大石神影流の「張る」「乗る」といった技はできません。体と刀がつながっていなければいくら体を使っているつもりでも体の動きが刀には伝わらないからです。
逆に手の内を握りしめて使う方は刀が生きて働くことがありません。不要な力を込めて握っていては刀は自由にならないのです。たとえていうならばホースの中を水が流れようとしているのに途中でホースを踏みつけているようなもので臍下からの働きは刀には伝わりません。
道場で常にお教えしていることなのですが、安易に考えず常に工夫を重ねてください。
- 2015/03/30(月) 21:25:00|
- 剣術 業
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ありがちなことです。稽古を重ね、ある程度自由に遣えるようになると慢心が生じます。下手な自信を持つようになるのです。しかし世の中には自分の知らないことのほうが多く、絶対という事はありません。自分の常識の範囲の中では自由であるかもしれませんが、自分が破れるのは自分の常識の外から攻撃される故です。下手な自信をもってしまうと不測の事態には対応できません。
不測の事態に対応しなければならないのが武術です。常に自分が知らないことが存在するのだと、自分が絶対ではないのだと思わなければなりません。
- 2015/03/31(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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