貫汪館の一人の方のお力で貫汪館フェイスブックができました。有難うございました。皆さん検索してみてください。 6月8日16:00~20:00まで福岡県久留米市北野コスモス館 交流ホールで指導を行います。興味がある方は久留米道場の連絡先へご連絡ください。初心者の方、他流派の方も歓迎いたします。 流鏑馬の行事の後も、森さんに祝宴に招かれて飲めない身ながら参加してきました。そこには地元の方々もたくさんおられ、今まで知らなかったことも教えていただきました。
いままで神有月には出雲大社で神々の縁結びの相談が行われていると思っていたのですが、集まられるには集まられるのですが会議場は別のお社でした。神有月に出雲に行かれる方はぜひこのお社にも参拝ください。
出雲大社から西に稲佐の浜方面に向かいいなさの浜の交差点の手前15メートルくらいにある釣具屋を目安にそこから北に5メートルくらい入りすぐ東に20メートルほど歩けば目に入ってきます。車は入れませんので稲佐の浜の駐車場に車を止めて歩いてください。
稲佐の浜の写真です。ここからは7月に合宿する餘手の三瓶山も見えます。
- 2013/06/01(土) 21:25:43|
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貫汪館Facebookのアドレスです。
http://www.facebook.com/Kanoukan.Official
6月8日16:00~20:00まで福岡県久留米市北野コスモス館 交流ホールで指導を行います。興味がある方は久留米道場の連絡先へご連絡ください。初心者の方、他流派の方も歓迎いたします。 宴会でお聞きした話ですが毛利と尼子の争いでもし尼子が勝っていれば日御碕神社の方が出雲大社よりも大きな神社になっていたということなのです。歴史も日御碕神社の方が古いのだと宮司が話されていました。
出雲大社にお参りし日御碕まで行かれる方はぜひ日御碕神社にもお参りしてください。
今日は日御碕神社に至るまでにある「つぶて岩」とその周辺の風景です。
- 2013/06/02(日) 21:25:15|
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前回の講習会で大石神影流の手数の稽古をいたしましたが、その際に気になったことを数日にわたり述べていきます。
構えについてですが、中段から上段にとったり、中段から附けにとったりする動きを見てもお分かりのように全ての構えは「構える」ということに居つくことはありません。「構える」ことに居つく方のほとんどは心に力みがあったり、下肢に力みがあったり、あるいは「構え」という言葉に居ついて「構えてしまう」方です。
はじめの中段は手を差し出すこともなく、形を固めることもありません。右片手で刀を下にだらりと下ろしただけの状態を保ったまま刀は中段の構えに位置します。
全ての構えは「構える」ということはなく、刀がたまたまそこに位置しているだけなのだという意識を持ってください。
- 2013/06/05(水) 21:25:05|
- 剣術 業
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今日は試合口にある「張る」という動きについて述べます。この動きは臍下丹田の働きが刀に伝わって振動となり鎬で張るのですが、現象だけを捉えて肩先や手先で行ってしまうと業になりません。また臍下丹田の働きが刀に伝わるためには下肢は緩み、そけい部も緩んでいなければなりません。
また、張ったあとは切っ先は相手の中心に指向しているのですが、これは振動が戻ったことによりますので手で張って手で戻すわけではありませんのでご注意ください。
まず緩めるところから始めてください。
- 2013/06/06(木) 21:25:27|
- 剣術 業
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今日は手数の中での「突き」の動作について述べます。手数にあらわされる「突き」の動作は他の切り込む動きなどの動作が相手に木刀が当たる前に木刀の動きを止めるだけで相手との距離の関係で相手に木刀が到達しているのに対し、「突き」の動作は相手に到達していないところで切っ先が止まっていなければなりません。
そのため体を緊張させ固めて手が出ないようにされる方も居られるのですが、そのようにする必要はありません。下半身を前に進めるだけで切先は前に出て行きますので実際に突かない限りはほとんど手を用いることはありません。相手の顔を突く動作は突くほうも緊張しますが、下半身の出る量を加減し上半身は楽に用いて切っ先を刺突部位に志向させていくだけで十分です。
- 2013/06/07(金) 21:25:43|
- 剣術 業
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小手を切る動きは小さな振幅でこれを行います。どうしても振りかぶりが大きくなってしまう方が居られますのでご注意ください。
人によっては、小さくというと刺すような動きにされる方も居られますが、これは切る動きとはなりません。またスナップを使っているわけでもありません。正面を切るときの動きの振幅が非常に小さくなった動きですので工夫してください。
- 2013/06/08(土) 21:25:50|
- 剣術 業
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久留米道場の稽古記録が更新されています。お読みください。昨日久留米で指導を行ってきました。
皆さん以前よりは自分自身の心と体に気づくようになっておられますが、これから上達していくためには以下の事に気を付けてください。
動く前に工夫をする事
動いた後に駄目だった、また駄目だったと思うのではなく、動く前に如何にあるべきかを工夫してから動くようにしてください。何度もダメな動きを繰り返していたら駄目な動きしか身につきません。
基本を再確認する事
全ての形の動きは基本の上に成り立っています。正しく無理無駄なく座れ、正しく礼ができ、正しく歩け、正しく呼吸でき、正しく袴捌きができるといった事が疎かでは、その先ができないのは当然の事です。基礎は基礎、応用は応用と考えるのは大きな間違いです。基礎のレベルを超えて応用が身につくことはありません。基本的な稽古は刀がなくてもできますので、自宅で積み重ねてください。
「我」を捨てる事
いくら指導を受けても、自分の価値観でそれを受け取り勝手な解釈をしていては道を外れるばかりです。いくら一生懸命歩いているつもりでも指し示す方向に歩まず、自分が行きたい方へひたすら歩いていては遠ざかることはあっても近づくことはありません。、自分はこれだけ努力していると思われても、遠ざかる努力をしても意味がありません。素直さこそが上達への近道です。
大石進先生の石碑の後ろに毎年可愛い花が咲いています。
- 2013/06/09(日) 21:25:43|
- 居合 総論
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規定の改正で澁川一流柔術の昇段審査では二段から居合(抜刀術)の一部の形が加わりました。
柔術のみを稽古される方には刀を扱うことが苦手な方が多く居られます。その原因の一つは思い違いにあります。刀を使うには力強くなければならないという思い違いから手の内が硬く刀に心が通っていない状況にあります。刀を持つのは書道で筆を手にするのと同じ繊細さが手の内に求められます。重いものを使うのだからという思い込みをやめ、刀の切先にまで心が通う繊細さを手の内に求めることが上達につながります。
- 2013/06/10(月) 21:25:49|
- 柔術 総論
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太刀打の月影は上段に取った打太刀に構えを解いた遣方が静々と近づいたときに打太刀が袈裟に切り込んできます。
遣方は構えを解き体も心も無の状態にありますので、切り下ろしてきた打太刀の動きがそのまま自分の心に映り、打太刀の勢いがそのまま自らの勢いとなって太刀が上がっていき双方の太刀が合します。その瞬間に双方がぱっと分かれて車にとるのですが、この分かれる動きは熱した油に水滴を落としたときにはじかれる勢い、のようにたとえることができるかと思います。分かれようとして分かれるのではないのであせることも居つくこともありません。工夫してください。
- 2013/06/11(火) 21:25:54|
- 居合 業
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現在貫汪館では無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術の三つの流派を指導していますが、この三つの流派を混同してしまうと、それぞれの流派の特徴を失うことになりますので気をつけて稽古しなくてはなりません。
澁川一流柔術は無構えですので相手に正対しますが、この思いで無雙神傳英信流の太刀打ちなどを稽古してしまうと正対する悪い癖があることになります。また大石神影流では立って構えたときに無雙神傳英信流よりも両足先はより開きます。また無雙神傳英信流と大石神影流とでは振りかぶり方も異なり、同じように太刀を肩にとっても、その構えは異なっています。
まったく別のことを行っているのだという意識がなく漠然と稽古してしまうと全てがいい加減になってしまうので注意が必要です。
ただ異なるといっても、臍下から動かねばならぬことや全ての無理無駄をなくしていかなければならないのは共通したことです。共通した動きの原理と表面に現れるものの違いをしっかりとして意識して稽古しなくてはなりません。
- 2013/06/12(水) 21:25:53|
- 居合・剣術・柔術 総論
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大石神影流の手数については多い方には既に30本くらいをお教えしてあります。しかし、同時期にお教えしているのにその習得の差があまりに大きいのは上達する方が一つ一つを大切に習得されようとしているのに対して、上達していない方は手順を覚えようとされているのみであるような気がします。
一つ一つを大切にされる方というのはお教えした呼吸に乗せた構え方をしっかり稽古して身につけておられる方ですが、上達されない方は、ただ手順のみをなぞっておられ、その中身がどうなのかを検証しながらの稽古はされていない方です。
また手数の稽古を一人稽古されるときにも上達される方は自分のその動きが理にかなっているのか、そうではないかということを検証しながら稽古できる方ですが、上達されない方はただ手順を繰り返しておられる方です。
手数の稽古で上達するためにはその動きが持つ意味を一つ一つ理解し、自分の動きを検証できる方にのみ可能です。もし、そのようなことが性格に合わないのであればへとへとになるまで千回、二千回とひたすら稽古していかねばなりません。
- 2013/06/13(木) 21:25:58|
- 剣術 総論
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柔術を専門に稽古しておられる方が大石神影流の手数を稽古すると、木刀であるためかどうしても力で木刀を打ち込もうとされる傾向があります。
しかし刀は刃がついており触れれば切れるものであり、棒が威がなければ相手にダメージを与え得ないのとは異なっています。木刀は真剣の代わりであり、刃のない棒とは異なっています。棒と思わずに真剣であると思って手数の稽古をしなければ上達するものではありません。
自分が斬るという思いがあればどうしても必要以上の腕力を込めて刀を扱おうとします。その思いを捨て、刀が斬るのだと観念して稽古してください。
- 2013/06/14(金) 21:25:34|
- 剣術 総論
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上達しようとすれば稽古以外にはありません。それもただ繰り返すだけではなく自分自身を変えていく稽古をしなければなりません。
力で刀を扱おうとする方は、毎日回数は少なくても刀を振り、今日はここまでできた、今日はここまでできたと、力を入れない稽古をしなければなりません。
手の内が硬い方は、どうすれば柔らかな手の内になるのかと日々刀を手にして工夫しなければなりません。
肩が体から遊離する人はそうならないように鏡の前で動いて工夫しなければなりません。
そのような日々の工夫なく道場に出たときにのみ駄目な動きの稽古を重ねていれば駄目な動きが身についてしまうのは当然のことです。
- 2013/06/15(土) 21:25:15|
- 居合・剣術・柔術 総論
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貫汪館ホームページの貫汪館で稽古している流派についての説明を変更しました。有難うございました。
貫汪館H.Pのトップページに「お知らせ」の項を設けました。英語版のホームページの「For foreigners」に写真を加えました。 澁川一流柔術の方は非常にシンプルで、技をかけるための歩数も少なく組み立てられています。
そのためか、初心者の方にあっても自分の動きを「いち、に、さん」と区切って動こうとされる方が散見され、また履形が受けが中段・下段をついてくるのに対して技を掛けるためか、慌てて動いては動きが止まり、また新たに動いては止まりという動作を繰り返す方もおられます。
前者の癖を治すためには初めから終わりまで「いーち」という拍子で動く癖をつければ変化していきます。後者の癖がある方は相手の動きを見て動くことをやめて相手の動きを読んで動く工夫をしてください。動きを見て動くので間に合わないから慌てるのであって、常に相手の動きを読む工夫を重ねていけば余裕が生まれてきます。
上達のための工夫を重ねてください。
- 2013/06/16(日) 21:25:59|
- 柔術 総論
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稽古の最中に力みが入っていることを指摘すると、さっと直すことができる方もおられます。このような方は、何が無理な状態であるのかを理解できている方です。
そのような状態まで上達された方がさらに上達するためには、回数を重ねる必要があります。手順が不安であるためにそちらに意識がいってしまい体に余分な緊張が入ってしまうのですから、不安がなくなるまで一人で稽古を重ねればよいだけなのです。
手順にまったく不安がなくなれば、相手の動きを読むことや、自分自身の心身の状態や周りの状況なども感じる余裕ができてきます。そのようになるまで回数を重ねて稽古してください。
- 2013/06/17(月) 21:25:42|
- 居合・剣術・柔術 総論
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ある方も言われましたが礼儀がわかっていない方はやはり上達はされませんし、たとえ少し上達したとしても、それ以上上達されることはないように思います。
これまでの経験から述べると、せっかく稽古しているのだからと、どんな人にでも手を掛けて教えてきましたが、礼儀を知らない方は、あたかも学校教育であるかのように教師は立場として教えるのが当然という意識を持っておられ、大切なことを教えてもそれを大切なこととは思われないようで、自分が興味関心を持ったことにしか意識が行かないようです。
また、大切なことを教えていただいているという意識がなく、大切なものだという意識もないので礼をわきまえない行動をしても平気でいられるように思います。
かたぐるしい礼儀作法のことではなく、ありがたいという感謝の気持ちを持たない人には礼儀を求めても無駄なことであり、一歳取っていてもこのような思いのない人には上達してもらうことは困難としかいえません。
若い方であれば考え方を改めることもあると思いますが、中年すぎてから稽古を始められる方に考え方がかわる事を期待をするのは、相手がよほどの方でなければ無理なのかもしれません。
- 2013/06/18(火) 21:25:32|
- 居合・剣術・柔術 総論
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無雙神傳英信流抜刀兵法の師である梅本三男貫正先生に入門して、やっと大森流11本を覚えた頃のことです。
土曜日の午後の稽古のことだったのですが、土曜日は稽古する方が少なく、マンツーマンで指導していただける日が多くありました。そんな日に先生が「大森流を一緒に抜いて稽古しなさい」といわれました。位置をずらして向かい合って座し、私が先生のほうを向いて先生の動き始めにあわせて抜きましたが、やっと11本できるようになったばかりですので、自分のペースでゆっくり抜きました。
先生は動きを止められ、「一緒に抜くのは動きを写し取るためだから、自分を捨てて私が動くとおりに動きなさい。考えていては写し取れない。」と教えてくださいました。
私は教えのとおりに頭を空にして先生の動きに身を任せて動くことを心がけましたが、不思議なことに普段できないような先生と同じような速さでとても楽に動くことができました。決して先生に負けない速さでとがんばったわけではなく、ただ先生の動きに自分を任せただけです。
もちろん自分ひとりで稽古するとそのようにはいかなかったのですが、たびたび先生にそのような指導をしていただくと、なんとなく理解できるところが増えてきました。
初心者の方は一緒に抜くときには、そのような心がけで己をむなしくして稽古してください。
- 2013/06/19(水) 21:25:49|
- 居合 総論
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座した状態から抜きつけ、そのまま膝をついた状態での斬撃などで終わる英信流の横雲などの形では起こりにくいのですが、大森流であれば血振いのために腰の位置がわずかに浮いたり、順刀のように座した状態から立ち上がった場合や、英信流であれば虎一足で後方に下がって腰を浮かせる形や、浮雲など立ち上がる動きの形の場合に自分の目線の位置が高くなってしまうと目付けが一般的に低くなりすぎる傾向にあります。
これは想定が十分頭に入っていないことから起こりますので、この癖をなくすためには目付けについて指摘を受けたら、兄弟子などに頼み実際に相手についてもらってそのイメージを十分につかむ稽古をしてください。その後自分の目付けを確認するといかに目線が低かったかが理解できると思います。
- 2013/06/20(木) 21:25:36|
- 居合 総論
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貫汪館ホームページのトップページに支部一覧を載せました。お住まいのお近くの支部で稽古していただくことができるようになりました。
また、左のリンクからも各支部のホームページをご覧いただけます。 無雙神傳英信流抜刀兵法の抜き付け、運剣後の動作で振りかぶりすぎることがあります。
運剣で切先が活きたまま廻剣しており、そのまま頭上に来た刀の位置は正しい場合、そこから切先が後方下方へ落ちてしまうのは、振りかぶろうという思いと強く斬ろうという思いが動きを過剰にさせています。正しく運剣できていれば、そこから振りかぶる必要はないということを頭の中で整理し、また強く斬ろうと思う心の力みをなくせば、動作過剰はなくなっていきます。
- 2013/06/21(金) 21:25:14|
- 居合 業
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無雙神傳英信流の稲妻、鱗返、波返はいずれも足を後方に引き抜きつける形です。
これらの形は体の中心が後方に下がるということに意味があるのですが、下肢の用い方によっては不十分になってしまいます。
下がる足の膝を極端に開こうとすると、前脚を突っ張らざるを得なくなりブレーキがかかり後方への動きがスムーズに行かなくなってしまいますので自分の動きがどのようになっているか確認してください。
- 2013/06/22(土) 21:25:18|
- 居合 業
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兵法の早きと云所実の道にあらず 早きと云事は物毎の拍子の間にあはするに依て早き遅きと云心なり 其道上手になりては早く見えざるものなり 仮令へば人にはや道と云ふて四十里五十里行ものも有り 是も朝より暮まで早く走るにてはなし 道の不勘成るものは一日走るも一向に捗ゆかざるものなり 乱舞の道に上手の歌ふ謡に下手の付けて謡へばおくるゝ心あって急がしきものなり 又鼓太鼓に老松をうつに静かなる位ゐなれども下手は是にもおくれ先たつ心有り 高砂は急なる位なれども 早きと云ふこと悪し 早きはこけると云ひて間にあはず、勿論おそきもあしゝ 是も上手のすることはゆるゝゝとみえて 間のぬけざる所なり 諸事しつけたる者のすることは急がしく見えざるものなり 此鍛を以て道の理をしるべし、殊に兵法の道に於て早きと云ふこと悪し、是れもその仔細は所によりて沼ふけなどにては身足共に早く行がたし、太刀はいよゝゝ早く切る事なし 早く切らんとすれば 扇小刀のやうにはあらず、ちゃくと切れば少しも切れざるものなり よくゝゝ分別すべし 大分の兵法にしても早く急ぐ心わるし 枕を押ゆると云心にては少しも遅きことはなき事なり 又人のむざと早きことなどには背くと云て静になり人につかざる処肝要なり 此心の工夫鍛錬あるべき事なり 『五輪書』の文章ですが、本当に理解できる方は少ないようです。宮本武蔵の説いたような動きをする方を見たら、おそらく「普通」「たいしたことはない」「一般的」と思うでしょう。それは中が見て取れないからです。見えない方にとってはどれだけ素晴らしいものが眼前にあっても素晴らしいとは思えぬものです。
ただただ速く動くものや、ただただ力強いと見えるものを尊しとします。
「
枕を押ゆると云心にては少しも遅きことはなき事なり」という意味を考えてください。
貫汪館竹本道場と名古屋中央支部を貫汪館ホームページの支部一覧に加えました。
- 2013/06/23(日) 21:25:02|
- 居合・剣術・柔術 総論
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枕をおさゆるとは 頭をあげさせずと云心なり 兵法勝負の道に限って人に我身をまわさして跡につく事悪し いかにもして敵を自由にまわしたき事なり 然るによって敵も左様に思ひ我も其心あれども 人のすることをうけがはずしては叶ひがたし 兵法に敵の打ところを止め つくところを抑へ ふむ所をもぎはなしなどする事なり 枕を抑ゆると云ふは我が実の道を得て敵にかゝり合う時 敵何事にても思ふきざしをせぬ内に我是を知りて 敵のうつと云ふ其のうの字の頭を抑へて 後をさせざる心 是枕を抑ゆる心なり 縦令へば敵のかゝると云ふかの字を抑へ とぶと云ふとの字の頭を抑へ きると云ふきの字を抑ふる みな以て同じ心なり 敵我にわざをなす事に付て 役に立ざる事をば敵に任せ 役にたつほどの事をばおさへて敵にさせぬやうにする所兵法の専なり 是も敵のすることをおさえんとする心後手なり 先我は何事にても道に任せてわざをなすうちに 敵もわざをせんと思ふ頭を抑へて 何事も役にたゝせず 敵をこなす所 是兵法の達者 鍛錬の故なり 枕を抑ふる事能くよく吟味有べきなり 昨日と同じ『五輪書』の文章です。
この心は澁川一流柔術であっても無雙神傳英信流であってもなくてはならないものです。大石神影流ではこの心を手数に表しています。よくよく読んで参考にしてください。
裏庭になったぽぽの実です。毎年実をつけ、毎年道標に載せてきたように思います。年月は流れ去っていきます。何もしなければ何もしないままに終わってしまいます。
- 2013/06/24(月) 21:25:20|
- 居合・剣術・柔術 総論
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物事に本気で取り組み、事をなそうとする時にはどうしても気負いが生じます。また気負いがなければ勢いがありませんので物事をなすことも難しくなります。
気負いにはよい面もあれば、用心しなければならない部分もあります。気負いこむことによって視野が狭くなり周りが見えなくなることもあり、また自分自身が見えなくなることもあります。
業の上で言えば、居合では柄手が早くかかりすぎたり、抜ける状態ではないのに無理やり抜いたり、柔術であれば、床をけって進んだり、剣術であれば動くときではないのに早々と動いてしまったり、また総じて必要以上に力みが入ったりする場合があります。
気負っている場合、自分にそのような動作の隙ができていないかどうかご確認ください。
裏庭の柿の実です。まだ小さいのですが、今年はたくさん実をつけそうです。ただ防御策を講じなければ猿に全て持っていかれるでしょう。
物事をなそうという時には必ず魔がその隙に付け入って来ようとします。何かなそうとしたときにはどうしても、しようとすることにのみ意識がいきますが、隙を作らないように動かなければなりません。
- 2013/06/25(火) 21:25:40|
- 居合・剣術・柔術 総論
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ごく初心の内は教えられたことに忠実に手順を間違えず一つ一つ確認しながら丁寧に稽古することが大切ですが、すでに何度も繰り返し手順を考えなくても自然に体が動くようになったら丁寧さがかえって技の上達を阻害することがあります。
「忠実に手順を間違えず一つ一つ」という意識が自由であるべき自分の動きをかえって居つかせてしまうのです。稽古が進んだら手順を忘れて仮想の敵をみて無理無駄なく隙なく稽古することを心がけるように工夫してください。
裏庭の蜜柑の実です。まだ親指の先ほどしかありません。昨年は裏山のサルがミカンの味も覚えました。今年も盗りに来ると思います。
一度その甘さを知ったものは全てを奪いつくそうとします。そうならない前に手段を講じなければ、いくら自分のものだと主張しても後の祭りです。
- 2013/06/26(水) 21:25:42|
- 居合・剣術・柔術 総論
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無雙神傳英信流抜刀兵法の稽古では初心者の方には特に座ることを中心に稽古していただいています。これは居合においては座るという事がまさに居合の基本そのものであり、座ることのレベル以上に業が向上する事がないからです。
一般に稽古を始められたばかりの方は、指導する前には「座る」という形を作られようとします。ぴんと背筋を伸ばし、大腿部をはり、手のひらを腿の上に力を込めておき肩甲骨のあたりに力を込めています。しかし無雙神傳英信流においては、そのような座り方を否定します。まさに自然物としてそこにあるだけの座した姿勢を求めます。作った姿勢からは無雙神傳英信流の業は生まれないからです。自然物としてそこにあるだけであれば重心は下方に下がり自然に臍下丹田にこもるものを感じます。丹田に力を込めるわけではありません。肩甲骨も引力に応じて下がり、自分の腕の重さを感じるようになり、肘の位置も納まるべきところに納まり、脇をしめるという事なども意識せずにその状態にあります。
この状態を求めずに肩の稽古をしても、それは形をなぞっているにしかすぎません。塗り絵をしているだけということになります。塗り絵はいくら上手に塗れても自分の絵ではありません。いくら色を変えようが線の細さをかえようが塗り絵は自分のものではないのです。
本当に上達しようと思えば初心の内には座ることを求めるのが早道なのです。
座る稽古は渋川一流柔術や大石神影流では時間をかけて行う事はありません。これは稽古体系がそのようになっているからですが、疎かであって良いという事ではありません。渋川一流には御膳捕という形があり、居合(抜刀術)がありますが、座ることができなければこの形はできません。
大石神影流は基本的に屋外で稽古をする事を基準に考えられてますので、稽古体系の中に座るという事はありませんが武家で稽古されてきた流派です。屋内で座ることなしに生活はできませんし、初めの神前での礼も座ることができなければ、できないものです。
- 2013/06/27(木) 21:25:11|
- 居合 業
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初心者の方に行っていただく礼法も非常に重要な稽古です。たいていの方は正座して礼をするときには手を出して前に置きそれから上半身を倒しにかかるため出した手が支柱となってしまい上半身が固まってしまいます。
礼は自ら頭を下げるわけですので手先から動こうとせず、まずは臍下丹田の下部を中心に体を動かして上半身が前傾していくように試みてください。そうすれば力を入れて固めていない限り手は自然に前に出ていこうとします。この動きを用いて、手を出すのではなく手が出る状態を求めてください。
上記の動きは柄手の動きそのものの動きですので、礼法ができない人は抜付けもそのレベルでしかありません。
また上記の動きは太刀打の水月刀の構えや大石神影流の附けの構え、さらには澁川一流の六尺棒の構えにも通じてきます。全てはつながっているのです。
- 2013/06/28(金) 21:25:17|
- 居合 総論
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無雙神傳英信流と大石神影流の歩み方は外見上は異なっています。無雙神傳英信流は基本的に摺足を用いますが大石神影流では摺足を用いません。
さて無雙神傳英信流の稽古では初心者の方には時間をかけて歩む稽古をしていただきます。歩むことは立ち姿勢の応用であり正しく立てていなければ歩むことはできないものです。「正しく」というのは自然にという言葉と置き換得ることができます。
人によっては歩む稽古が嫌いなようですが、歩めなければ稽古の場に出ることもできませんし、大森流の虎乱刀や太刀打、詰合、奥居合などこれからしなければならない多くの形をすることもできません。歩む稽古が嫌いな方は歩むことに工夫がないため、ただ歩いているだけで、回数を重ねているだけという思いしか持ちえない方かもしれません。
上達は己自身との対話を通じて可能になります。自分の動きのどこに歪があり、どこに無理無駄があるかという事を発見する喜びを、さらには自分自身の心のどこに歪や無理無駄があるのかという事を発見する喜びを持つ方は速やかに上達します。
今日の渋川一流柔術の稽古の時間に北大阪支部長が稽古に来られ、無雙神傳英信流抜刀兵法の稽古を3時間されました。大森流、英信流表、太刀打と稽古されましたが3時間の間に目に見える形で上達されました。何を習得しようという思いをもって覚悟を決めて稽古されるので上達の速さが違うのだと思います。先々週も稽古に来られましたのでこの2週間での上達は目を見張るものがあります。
結局のところ、上達につながるのは上達しようとする心がけなのですが、流派の教えに如何にしたら添えるかという心掛けが上達させるのだと思います。
貫汪館北大阪支部のホームページです(←クリックしてください)
- 2013/06/29(土) 21:25:21|
- 居合 業
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旧来の指導方法は基本的に一度見せたらそれを習得しなければならないというものでした。
無雙神傳英信流抜刀兵法の師 梅本三男貫正先生の同門であった方にお聞きしたことがあるのですが、梅本先生の師である尾形先生は一度指導され、それを門人にやらせて、二度くらいでできなければ、できるまで稽古をしなさいといってあとはほったらかしだったようです。懇切丁寧に手取り足取りという指導はされていません。
澁川一流柔術の師 畝茂實嗣昭先生の教え方は次のようなものでした。先生のもとでは二人で稽古していましたので、一度手順を追って教えてくださり、次に技をゆっくり掛けてくださり、やってみなさいというもので、決して手取り足取りという指導ではありませんでした。
大石神影流の師 大石英一先生の指導も同様で、先生にはマンツーマンで教えていただいていますので、一度目は動きが伴った手順の説明で,二度目は実際に手数の稽古で、多くてももう一度同じ手数の稽古を付けてくださるくらいで、後は自分でしっかり稽古しなさい、という指導法でした。
このような指導法であれば、よほど集中していなければ自分のものにすることはできませんが、時間の密度が濃いために、一度教えられた事が鮮明に体に記憶されます。
どのような思いで稽古するのかが問われ、また上達の早さに関係してきます。
武術の稽古を学校教育か何かと勘違いする方には上達は難しいかもしれません。外形ではなく本質を見てとる稽古をしてください。道場の中だけの稽古では足りません。
- 2013/06/30(日) 21:25:24|
- 居合・剣術・柔術 総論
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