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無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

同じではない 3

 「打突後に前に進むのと打突後に進まないのは何が違うのか。同じ防具を付け、同じ竹刀を使っているのだから我々がしている剣道と幕末の剣術は変わらないではないか。」と考える人や全く疑問を持たない人の方が多いと思います。
 要は竹刀を刀の代わりとして用いるか、竹刀を競技のルールの中で一本と認められる最も効果的な使い方をするかの違いです。現代の剣道では竹刀を刀の代わりとして用いず竹刀を竹刀独自の使い方をしているのです。それゆえに刀を用いることを基本として作られた剣道形と現代の防具着用の剣道の動きに違いがあります。
 ここは非常に大きな違いであるにもかかわらず、幕末の剣術と現代の剣道を同一視することには大きな矛盾があります。このような動きが現れてきたのが大正時代ですから大正時代には剣道の競技化が進み竹刀の使い方が刀の使い方から離れていっただと思います。時代背景としては幕末に刀を常に腰にしていた武士が20歳くらいであったとして大正時代に入ると65歳くらいになっています。大正10年になると75歳くらいです。現役で剣道を指導している人はほとんどいません。もしいたとしたら中山博道と同じように考え、あれでは斬れぬと思ったことでしょう。

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  1. 2024/09/01(日) 21:25:00|
  2. 武道史

同じではない 4

 すでに大正時代に競技化が進み刀の使い方と竹刀の使い方が離れてきました。これを問題視したのが陸軍でした。白兵戦で真剣をふるうときに剣道式の打込をしたら敵兵を切ることができなかったのです。これは以前私の居合の先輩の森先生の体験談でもお話ししているところです。これではいけないと陸軍戸山学校でそれまでは刀を試すための試し切りを白兵戦のための稽古方法としました。剣道式の打突しか習っていない者は斬る動きができないので斬る経験をさせなければならなかったからです。と同時に剣道の改革にも着手しています。
 「刀と剣道」という戦前と戦中に発行された雑誌には、剣道は白兵戦でも役に立つという意見があるものの、剣道と居合を一緒に稽古しなければならないという意見や、「試し切りを武道に。」という広告もあります。おそらくはこのころから「剣居一体」という言葉が用いられ始めたのではないかと思いますが、詳しく調べたわけではないので確証はありません。また「試し切りを武道に。」という広告は本来試し切りは刀を試すものであったという史実を踏まえたうえで言われています。不思議なことに剣道の先生から剣道形をしっかり稽古せよとか、剣術流派の形を稽古せよという話は出てきません。意識の中で我々は江戸時代の剣術と同じ剣道をしているという思いがあったのかもしれません。競技化が進み変化したにもかかわらず変化が緩やかであれば気づかなかった可能性もあります。
 この辺りを起源として現在行われているパフォーマンスの試し切りが行われるようになりました。ここも誰かが明確にしておかなければ今行われているようなパフォーマンスの試し切りが江戸時代から行われていたと一般の人に信じられてしまう恐れがあります。もうそうなっているかもしれません。
 簡単に現代行われている剣道と幕末の剣術は同じような防具と竹刀を用いていても全く別物であるということを述べてきました。幕末の剣術は竹刀を刀の代わりとして用い、現代剣道は竹刀を刀の代わりとして用いるのではなく刀から離れた竹刀独自の使い方をする武道です。大きな断絶が生まれていますから知っておかなければならないところです。
 剣道を経験している方が無雙神傳英信流抜刀兵法や大石神影流剣術の稽古で苦労するのは刀を使っても竹刀を使う癖が抜けないところにあります。同じものだと思って稽古してきたので頭からその考えが消えないかぎり刀の使い方にならないのです。歴史をしっかり知り、頭の中も変えなければ難しいものがあります。現代剣道を長年稽古した方は無雙神傳英信流抜刀兵法や大石神影流剣術に真剣に取り組もうとしたら、竹刀の遣い方と刀の遣い方は別なのだという認識をはっきり持つところから始めなければなりません。
 これまで述べてきたことを資料をもとにまとめて武道学会で発表すればよいのかと思いますが、そんな余裕はありませんのでどなたかに期待します。

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  1. 2024/09/02(月) 21:25:00|
  2. 武道史

試合

 かつて海外の門人から大石神影流の防具・竹刀の稽古も撃剣というのかという質問をする人がいました。大石神影流には撃剣という言葉はありません。大石進種次は伝書の中でこのように語っています。

大石七太夫藤原種次幼ナキ時愛洲新蔭流ノ唐○(金へんに面)袋品柄ノ試合ヲ学タレトモ十八歳之時ニ至リヨク〃〃考ルニ刀ノ先尖ハ突筈ノモノナリ胴ハ切ヘキノ処ナルニ突ス胴切ナクテハ突筈之刀ニテ突ス切ヘキノ胴ヲ切ス大切ノ間合ワカリカネルナリコノ故ニ鉄○(金へんに面)腹巻合セ手内ヲコシラヘ諸手片手突胴切ノ業ヲ初メタリ其後江都ニ登リ右ノ業ヲ試ミルニ相合人々皆キフクシテ今ハ大日本国中ニ広マリタリ夫ヨリ突手胴切之手カズヲコシラヘ大石神影流ト改ルナリシカル上ハ諸手片手突胴切ノ試合ヲ学モノハイヨ〃〃吾コソ元祖タルヲ知ヘシ

 大石神影流では手数(形)の稽古と試合の稽古があるのです。愛洲新蔭流では簡易な竹製の面と(手袋のような簡易な小手もあったと思います)袋撓を用いて試合の稽古をしていましたが、大石進種次は試合の稽古に突き技と胴切りの技を取り入れ、鉄の面と胴をこしらえて袋撓を現在のような竹刀に変えて試合の稽古をしました。
 つまり大石神影流では撃剣ではなく試合なのです。この試合という言葉は現在の試合という言葉の定義(勝敗をはっきりさせるスポーツで使われる試合)ではなく試し合いです。手数の稽古で養った技をそれぞれが試しあうという意味です。
 大石神影流には撃剣という言葉は用いられず、試合という言葉を用いますので間違わないでください。今まで九州各地の史料をみてきたなかでも撃剣という言葉は幕末のかなり遅い時期でなければ出てきません。それも津田一伝流などの江戸の影響を強く受けた流派に出始めるのが最初です。

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  1. 2024/09/03(火) 21:25:00|
  2. 武道史

見るべきもの

 学校のクラブ活動の影響もあると思いますが、初心者の人が1年や2年先に稽古を始めた人の稽古を熱心に見ようとすることがあす。拙いゆえにわかりやすいのだと思います。現代の稽古の2年は江戸時代の真面目に稽古する人に比べれば3か月や4か月稽古をしましたというレベルです。そのような方の手順を覚えましたというレベルの人をみても手順を覚えるのに役に立つ程度です。下手をしたら目に付くダメな癖を自分のものにしてしまいかねません。
 私が見て学んだのは常に師匠です。師が演武されるときには何一つ見落とさないように心がけました。師匠を見て学んだので他の門人のおかしな動きに気づくことができました。自分よりも数年先に稽古している人の稽古を熱心にを見ていたら師の動きは理解できなかったと思います。優れた人のされることは自然であるので見えがたいものです。偽物の方が目を引くことが多いので本物を見ておかなければ偽物と本物の区別がつかなくなるのです。むしろ偽物に心惹かれるようになってしまいます。武道だけでなくすべての物事は同じだと思います。

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  1. 2024/09/04(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

出會

 武道関係の古文書を読んでいると「出會」という言葉がたまに出てきます。広島の貫心流の調査研究をしていた時に「出會」という言葉が試合を意味するものだということを知りました。関東地方ではどうか知りませんが、九州でも「出會」という言葉が試合という意味で用いられたようです。〈読点は私がつけました)
 天保2年に島原で記された武道関係の古文書に

 文化十五年四月下旬築後久留米ノ浪人犬上郡兵衛左衛門ト云柔術者嶋原ニ來リ川井金市導場ニテ捕手ノ出會有リ、又犬上磯野派ノ鎌鎗ヲ学フ松井奥山両導場ニ犬上鎗術試合ヲ望ム依之両導場其望ニ応シ奥山ノ導場ハ浄林寺丹羽ンイヲイテ出會ス、松平導場ニテハ城下江東寺ニヲイテ出會アリ、是嶋原ニ他国ヨリ槍術修行者來ル始メ也、其後文政十一年築後柳川立花侯ノ家人笠間司馬・大石進両人嶋原ニ來リ槍術試合ヲ望ム、依之当藩中松平・板倉・奥山・横山等ノ導場当時槍術達者ナル者ヲ択テ出會アリ・・・

 と記されています。出會という言葉が試合と同義に用いられていますので単純に出会ったのだと解釈しないようにしてください。出會と導場という文字を太字で大きくしていますが、導く場と書く「導場」も当時用いられていた一般的な用語でむしろ現在用いられている「道場」と記されている場合の方が圧倒的に少ないのでこれも覚えておいてください。

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  1. 2024/09/05(木) 21:35:00|
  2. 武道史

大石進種次の加増

 昨日の記事とも関係するのですが、大石進種次が文政11年に笠間司馬とともに島原藩へ赴き槍術の試合をしたという島原の古文書の記述がありました。
 大石進種次の加増が行われたのは文政11年(1828)6月15日です。先行研究にに男谷精一郎との試合ののちに加増されたというのは間違いです。
 加増の理由として『柳河藩用人日記』には

武術出精ニ付相折返し
御加増被下置候段於      大石進
御前被 仰付候
     但別而剣術之方他方
     迄称シ候段被 聞召届被遊
御満悦候由ニ而


と記されていて武術に熱心に取り組み、ことに剣術は他国からも称賛されており、藩主も満足していると述べられています。島原藩の古文書には笠間司馬と大石進の島原藩での試合についてしか記されていませんが、笠間司馬も家川念流の師範ですので剣術の試合も行ったのだと思いますが、史料を見つけることができません(柳河藩の史料には二人が剣術の試合も行ったことが記されています)。

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  1. 2024/09/06(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

他流試合

 現在日本武道学会での一般的な見解では関東地方においては百姓、足軽などの身分の低いものから他流試合が始まったということになっています。しかしこれを全国一律に当てはめようとするので大きな無理があります。大石進種次が半農藩士であったから行動が自由であり突き技や胴切りなどの新しい技を試合に用いて自由に他流試合をしたのだという説もここから出ています。全国一律にとらえるので無理があるのです。幕藩体制といっても藩ごとに政治は異なっており現在の日本とは同一に考えられません。
 日本史では江戸時代になって城下集住が進められたと記されています。城下から離れた地に住んでいるのは土佐藩で言う郷士(下士)であり、徳島藩で言う原士のような身分の低い存在であると考えられるのですが、柳河藩には「在宅」という制度があり藩に許可を得て農村地帯で自分の領地を直接知行する武士たちがいました。農村地帯に住まわされているのではなく、許可を得て住むのです。理由は直接知行の方が実入りが多いから、と柳川古文書館の学芸員の方に教えていただきました。したがって武士であっても農耕を行います。大石家は立花宗茂の父の高橋紹運とともに岩屋城にこもり討ち死にした武士の子孫ですから立花家では名誉ある家でした。また馬に乗ることができる身分であり、城下へ指導に行くときには馬に乗って指導に赴いていました。
 さて前置きが長くなりましたが、先日の「出會」という言葉の説明の中でみたように文化年間にすでに島原藩では武士による槍術の他流試合が行われています。同じ資料には文化文政年間に島原藩の剣術師範の一門が他地域から来た者の剣術の他流試合に応じており、また弟子たちは他藩にも出かけています。もっと早くは柳河藩の鎗剣師範の村上傳次左衛門(大石進種次の祖父遊釼の師)は宝暦年間に島原藩浪人黒木四郎太と試合した史料が柳川にあります。黒木四郎太は実在の人物で島原藩の史料には島原藩士であったけれども後に浪人をして剣術を教えたとあります。流派は復心流です。応じた村上傳次左衛門は柳河藩の正式な槍剣師範です。
 このように関東地方における他流試合の始まりと九州では異なっています。日本史を考えるうえで日本を一律に考えることはできません。

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  1. 2024/09/07(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

ゆっくりはやく

 梅本先生は指導によく言葉を用いられました。畝先生や大石先生はほとんど言葉を用いられませんでした。
 梅本先生が指導に用いられた言葉に「ゆっくりはやく」があります。理解できるレベルにある人には理解できる言葉ですが、ゆっくり動いても早いのです。むしろゆっくり動くからはやいのです。
 此が理解できるレベルにあれば理解が進んでいる人ということになります。理解できなければ理解できるまで黙々と稽古を重ねてください。畝先生や大石先生は言葉では話されませんでしたが梅本先生と同じようにされていました。

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  1. 2024/09/08(日) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

道をたがえる

 初心者が形・手数の手順を覚えしばらくたってきたら稽古に飽き始めることがあります。手順を覚え、それに手馴れてきたらたらそれに安心して同じことを繰り返しているからです。求めていないのです。この段階はまだ修正が効きます。人によりますが、より繊細さを求めたり正確さを求めたり、より深く深く稽古をしなければならないことに気づく人もいます。
 しかし、この段階から次のダメな方向に行ってしまうと抜け出せなくなってしまいます。2.3年たち形・手数も覚えたころにより質を高める方向へは行かずに、見栄えを飾り始めるのです。質を高める方向に行かないのは自分はできるという慢心のせいでもあり、見えていないからでもあります。見えていないから自分はできると思い慢心が強くなり、強い慢心のせいでますます見えなくなり自分ができるという間違った自信を持つようになります。
 有声の気合も上級者が肚から出る息に音がのっているのを勘違いして喉から大きな声をがなり出したり、体が使えて剣の速さや重さが出ているのが見えずに肩から先の筋力を用いて同じだと自信を持ちます。指導しても指導されたことを求めようとはしなくなります。軽く考え自分がしたいことをしたいのです。救いようがなくななります。さらに重症になると何もできてないにもかかわらず慢心しているがゆえになぜか先輩風を吹かせるようになってきます。仕切ろうとするのです。道場にあっては稽古年数の違いはあっても全て修行者であり、道場の修行者をまとめるのは師以外にはないのですが、不思議なことに仕切ろうとし始めます。こうなると修行中であるという自覚もなくなっているのだと思います。
 梅本先生のもとでもそのような人を見てきましたし、私が指導を始めてから30年の間にもそのような人を見てきました。一人や二人ではありません。数年先に稽古を始めたとしても半年以内に追い越される人もいますし、本質的なものが初心者の方が上であることもあります。道をたがえればどんどん追い越されていきます。修行中だという自覚がなければそのようになってしまいます。

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  1. 2024/09/09(月) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

違い

 稽古を始めたばかりの人であってもこれまでの人生の中で身につけてきたものが良質であれば形.手数は身についていなくても何年も前に稽古を始めた人よりも本質的なものがはるか先に行っているのはよくあることです。
 家庭教育や私学などの学校教育によって正座に慣れている方、家庭教育によって部屋の中では静かに繊細に行動することに慣れている方、何か本質的に私たちが行っていることと共通したことを経験している方。このような方はそうでない方よりも稽古を始める時点で何年も先に行っていますので形・手数の手順を覚えたら先に稽古を始めた人をあっという間に追い越していきます。貫汪館で礼法や歩き方を何か月も稽古するのはそれらを身につけさせるためなのですが、すでに身についており、刀を振っても自然に動けるのです。
 また茶道や華道の経験があるからか、また何かの個人レッスンを受けた経験があるからか、何らかの良い経験がある方は師弟関係についてもよく理解しておられ、師の話すことを聞き逃すまいとされ師の指導に忠実に会得されようとされるので習得がそうでない人よりもはるかに早いのです。
 反対に似てはいても異なるものを経験している人はその経験に引っ張られているので忘れないかぎりは上達が困難なものがあります。たとえば現代剣道ですが竹刀と刀の振り方は本質的に異なるにもかかわらず、いつまでたっても竹刀の振り方で刀を振ろうとするので上達が難しくなります。また剣舞をされた方は見せるために形を作ろうとするのでこれも忘れなければ困難です。見える動きは斬られてしまいます。学校のクラブ活動レベルでスポーツをされた方の中にも難しい方がおられます。例えばボールを蹴り、打つときには力を籠めますが刀を用いるのは逆で体を楽に自由にします。楽に自由になるので抜付けができ刀を振ることができ刀を振ったあとでも自由に変化することができます。ここが学校のクラブ活動レベルで球技を経験した人には理解できないようです。何かするときには必ず力を籠めようとされるのです。
 また学校のクラブ活動を真面目に経験している方には稽古の在り方についても理解できないところがあるようです。古武道の道場と学校のクラブ活動の根本的な違いは道場では全員が修行者であり、その意味では対等であるということです。すべての人が師と弟子の関係にあるということです。できないから稽古しているのに数年先に入ったから先輩だとか後から入ったから後輩だという思いは道場での稽古を阻害します。学校のクラブ活動では先輩の動きを見ようとかしこまることがあったと思いますが道場では1年2年先に稽古を始めていても初心者のレベルにすぎません。先に述べたように初心者の方のほうがが本質的なレベルが高いことも普通にあるのです。下手に見てしまうと自分のレベルまで落ちてしまいます。先輩の顔をして後輩を教えようという心が起こるのも学校のクラブ活動の弊害です。全員が修行者であるという点から、初心者であっても本質的なもののレベルが高い人を形・手数の手順を覚えた程度の人が教えたらせっかくの本質的なレベルまで壊してしまいます。悪いものほど目に付くので生真面目な人ほどダメな動きを身につけてしまいます。
 上に述べたことが理解できる人は上達し続けます。

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  1. 2024/09/10(火) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

ゆっくり正しく楽に楽に

 教えを受けたらそれを会得するためには「ゆっくり正しく楽に楽に」行わなければなりません。
 正しい動きや呼吸が身についていないのに外形だけを求めて理にかなわない動きで真似をしていたらやがてそこから抜け出せなくなってしまいます。10回ダメな動きをしたら10回稽古しただけダメなものが身に付き、やがて定着してしまいそこから正しいところに戻ろうとしてもダメなものを身につけた何倍もの正しい稽古をしなければならなくなるのです。
 たとえば1ヵ月ダメな稽古を続けたらそれを修正してダメな稽古をし始めた時点に戻るのに、正しく稽古し続けたとしても4か月、いた後で気づいて、それを何度も繰り返していたらたとえ気づけたとしてもダメなものが定着してしまいます。

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  1. 2024/09/11(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

失われてはいない

 ある時期「失われた・・・」といい、古武道の流派は形骸化して本当の動きが残っていないということをいう人物がいました。それに載せられてそう考える人たちが多くあらわれ、自分が稽古している流派を変えてしまおうとする人たちもいました。貫汪館にも影響を受けた人がいたがあります。
 立ち止まって考えられない人たちです。失われたのか、自分ができないだけなのかを考えることができず、自分ができないにもかかわらず、失われているからできないので、正しくはこうだと勝手に変えようとするのです。
 武道を商売にする人は次から次へと新しいものを販売していかなければ飽きられてしまい、商売にはなりません。つまり目的は収入を得ることですから、そうすることによって耳目を集めます。
 しかし、流派を稽古する者はその流派の教えに従ってじっくりととことん稽古して会得していかなければなりません。そしてできなかったことを一つ一つ会得していくのです。それが流派の教育システムです。自分ができないからと言って流派の現在が間違っていると考えるような人は流派の稽古を通じて会得するということができない人ですので流派の稽古にはむかない人です。
 以前も言いましたが、禅宗を修行しながら座禅では到達できないから称名念仏を専一に修行すると考える曹洞宗の僧侶がいたとしたらおかしなことなのです。

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  1. 2024/09/12(木) 08:36:08|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

大切なものを扱うように

 初心者の方が間違いやすいのですが、現在の剣道を見慣れているためか木刀や刀をたんに使用する武器と思っておられることがあります。剣道の試合のビデオなどで竹刀をお互いにカチャカチャ接触させているのを見たり、パフォーマンスとしての腕試しの試し切りを見て刀を物を切る包丁のような道具として感じておられるからかもしれません。
 そのような思いを持っていると無雙神傳英信流や大石神影流さらには澁川一流の技は身に付きません。木刀や刀を自分にとって非常に大切なものと考えれば体も心も繊細にならざるを得ず、正しい動きが身についていきます。
 たとえば小さな赤ん坊をどのように抱きどのように寝かせたかを思い出してください。絶対にいい加減な扱いはしていません。心も体も繊細でなければ赤ん坊は傷ついてしまいます。そのような思いで木刀や刀を用いて稽古してください。

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  1. 2024/09/12(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

見取り稽古

 月間武道4月号になぎなたを武徳会本部で修行した榊田八重子藩士の著書から引用して次のように記されています。

「昔の武道では、じっと見ている見取り稽古は重要な稽古手段であった。構え方や足捌き、手の用い方を目で見て覚えることや、技についても打ってきた面を薙刀のどこで受けるか、受けただけでなく瞬時に相手を攻めていける態勢をどうつくるかを見定め、相手の距離や感覚を瞬間的に自分の目にとどめることが大事となる」

 どの流派も同じだと思います。私も常々見取り稽古の大切さを述べています。しかし残念なことにせっかく見取り稽古の機会を作っても、見るのが形・手数の手順だけでは上達するものも上達できません。表に現れる事象の奥にあるものを見て取ることが大切です。

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  1. 2024/09/13(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

写し取る稽古

 見取り稽古は無雙神傳英信流、大石神影流、渋川一流のいずれにおいても大切な稽古です。無雙神傳英信流では見取り稽古のほかに写し取る稽古があります。一緒に形を抜く稽古です。
 私が初心者のころから梅本先生の道場でマンツーマンになるとよく向かい合って写し取る稽古をさせてくださいました。先生の動きを写しとるのです。自分を無にしてひたすら先生の動きを写しとります。「自分」はなく、あるのは先生です。写し取るのですから先生とタイミングを合わせるという思いはなく先生の動きを自分の体で行うのです。すこしでも「我」があれば写し取ることはできません。写し取る稽古をしているのに先生より先に座ったり、先に膝に手を置いたり、先に鞘手が動き始めたり抜付けたり斬撃したりすることもありません。遅れることはあったとしても先になることはありません。梅本先生に教えられたことです。
 ここができない方は「我」で稽古しているのですから成就することはありません。

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  1. 2024/09/14(土) 21:25:00|
  2. 居合 業

一本の基準

 現代の剣道は競技として発展していますので一本の基準は明確です。といっても変化してはいますが。私が中学生のころは「小手面」の二段打ちはとらないという審判もいて、小手と面の両方入っているのにその審判は何回も二段打ちが決まっているのにかたくなに一本とはしませんでした。中学で剣道を教えていた部外講師の先生が抗議しましたが、小手と面の両方に打ち込むのはおかしいという主張でした。小手を防がれて面が入ればよかったのだと思います。そのようなおかしな審判もいましたし。ひどいのは県の体育大会で、振りかぶってしっかり打たなければ一本とはしないという審判もいました。体つきを見ると剣道の先生というよりは柔道の先生といった感じでした。まだまだいい加減な時代だったのだと思います。
 さて、江戸時代はどうだったのかというと、流派によって一本の基準は異なっていました。審判もいませんし、お互いがお互いの価値観で考えますので両方とも自分の勝ちだと思っていることもあります。明治維新が近づくと見ている人が勝負付けを書き、10本勝負くらいのなかで双方の名前の上や下に〇印や△や×を書いています。しかし、それも見る人の主観によるので同じ試合でもつける人によって評価は異なります。
 流派によっては力強く打たなければ一本にはならないと考え、また違う流派は真剣であれば強く打たなくても致命傷になると考えます。そのような流派が試合すれば前者は確かに打たれてはいるが後から強く打ったからこちらの一本と考え、後者は先に打ち込んだからこちらの一本と考えます。一本の価値観が異なるのです。
 ちなみにこのころの試合は真剣勝負が基準になりますから、現在の剣道の試合と異なり、一度双方が斬りこもうと動いたら、どちらかが打ち込んでも、相打ちになっても、どちらも当たらなくても一本目です。それを10回繰り返せば10本勝負です。真剣勝負を10回繰り返すような感じです。

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  1. 2024/09/15(日) 21:25:00|
  2. 武道史

一本の基準の統一

 一本の価値観・基準が統一していったのは明治時代に大日本武徳会の元で審判の制度ができてからだと思いますが、幕末に各藩でそのような動きが起こっていました。
 廻国修行の英名録や日記をみると廻国修行者がある藩を訪れた時には、その藩の流派ごとに試合が行われています。たとえば久留米藩だと今日は神陰流、次の日は津田一伝流、そして次の日は直心影流というように流派ごとに試合をしていました。ところが津藩や福山藩などは流派名は記されていません。つまりどの流派であろうとも防具を付けた稽古は一緒に行っていたのです。そうすると各流派の形は異なっても防具・竹刀の稽古では価値観が統一されていきます。また広島藩では明治維新後廃藩置県が行われる以前に藩の流派は貫心流に統一されています。このような藩がほかにもあります。藩の流派が一つにされたということはその藩での一本の価値観・基準が統一されたと考えられます。
 武道史の研究から幕府講武所がその先駆けであったような印象を受けますが、それよりも早い藩はいくつかあります。むしろ幕府講武所がそれらの先進的な藩の影響を受けていたということができます。

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  1. 2024/09/16(月) 21:25:00|
  2. 武道史

出来た、分かったと思った時が上達しない時

 稽古をしていたら出来たと思ったり、わかったと思うときがあります。初心者や中級者、上級者のいずれの段階でも起こります。これが早い段階で起こる人はその時点で上達しなくなりますので心を改めなければなりません。いつまでたっても初心者のままです。
 常々お話ししているように江戸時代の武士は剣術、鎗術、柔術、馬術、鎗術などの複数の種目の武術を同時並行で稽古しながら早い人でも10年かかって免許皆伝です。しかもここが最も大きな違いですが、武士は毎日腰に刀を差しています。農民は毎日鍬や鎌などの道具を用いています。しかるべき家であれば立ち居振る舞いも家庭教育で身につけています。現代人は全く0からです。
 このような状態で出来た、分かったと思うのは慢心に近いものがあるのかもしれません。先には先があり奥には奥があるのです。

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  1. 2024/09/17(火) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

大石先生の指導

 私が大石英一先生に入門を許され
(知らない人のために述べておきますが、希望すればだれでも習えるというものではありません。先生のおめがねにかなわなければ入門は許されず稽古できないものです。おかしな人に安易に武道を教えれば凶器を持たせるようなものですし、指導に素直に従えないような人に教えても時間の無駄にしかなりません。)
大石先生に稽古をつけていただくときはマンツーマンでした。他の門人はいませんでした。
 したがって手数をお教えくださる時には初め私が打太刀をして先生に打突する必要がありました。「こう斬ってきなさい。こう突いてきなさい。こう防ぎなさい次にこう動きなさい。」と口頭で指示されてそれに応じて大石先生が仕太刀を演じてくださるのです。一度教えてくださったら次は私が仕太刀をします。教えてくださるのは一度です。私が全くの素人であったならすぐに脱落したかもしれません。破門です。先生も可能性がない者に無駄な時間は使われません。私はすでに無雙神傳英信流も澁川一流も教えていたので、その覚悟がありできたことだと思います。もし破門になっていたら免許皆伝の兄弟子が亡くなられているので大石神影流はなくなっていたでしょう。
 貫汪館で稽古される方はそのような覚悟を持って稽古されれば上達します。

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  1. 2024/09/18(水) 21:25:00|
  2. 剣術 総論

居合道

 大石英一先生にとって居合道は大石神影流とは相いれない武道であったようです。そのような居合道をする人としか接点がなかったからです。はじめ私が居合をすることを知られた大石先生は不安に思われていました。私はなぜだかわかりませんでした。
 その後しばらくして、私の前に入門を許された方の話をされました。その人は居合道の高段者であったらしく大石先生が足運びはできますかと尋ねられた時に自信をもって「居合ができますので足運びはできます。」と答えられたそうです。しかし実際は全くダメだったのだそうです。決まった足幅、決まった間合い、決まったステップを決められたとおりにすることが足運びだと思っていた居合道の高段者は大石神影流の自在な足運びができなかったのです。相手の身長や状況などによってすべては自在に変化すべきものです。それが大石神影流の手数(形)です。その居合の高段者に対しての指導はすぐにやめになったそうです。決まりきったことをその通りにきちっと行うのが足運びだという考えがあっては自由にはなれません。
 稽古を始めてしばらくたったころに上記のお話を聞いて、なぜ大石先生が私が居合をしていることを不安に思われたのかが納得できました。
 貫汪館で稽古される初心者の方の中には手順を正確に覚えなければならないと思っておられる方がいますが、大切なのは常々言っているようにそこではありません。理にかなった手順の間違いは良い間違いとでもいえるものです。一方決まりきったことしかできずに手順を間違わなかっとしても貫汪館の3流派では意味がないこととされます。自由になるための形がかえって人を不自由にしてしまうものであっては意味がありません。

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  1. 2024/09/19(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

変わった

 稽古からしばらく離れていた人が再び稽古に来初めて道場の雰囲気と稽古する人たちが変わってしまったと感じることがあるようです。実際は稽古をしている人は何も変わらず淡々と稽古を続けているだけなのです。上達はあるかもしれません。
 実際は変わったと感じた人が変わっていて自分の視点から見れば変わったと思っているだけなのです。たとえば車を運転していて登の坂道で止まっていたとします。ぼーっとしていてブレーキを踏む力が弱まり、自分の車が坂道を少しづつ後退しているときに、人はほかの車が前に進んでいると錯覚します。自分が動いているのにほかの車が動いていると思うのです。
 このようなことは武道の稽古だけでなく他のことでも起こるかもしれません。立ち位置を明確にしておかなければなりません。「変わった。」と感じている人は自分が変わったことに気づいていないことが多いのです。

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  1. 2024/09/20(金) 09:29:38|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

先入観の悪影響は大きい

 何も武道を経験していない方の方が真っ白な状態で始めることができるので上達が早いのですが、なにも経験していなくても武道に関する強い先入観がある方はそれが邪魔をしてしまいます。
 たとえば巻き藁を何本も並べて斬るのが素晴らしいと思った方は姿勢を崩してでも斬るという動作をしてしまいます。隙なく自然にという思いはなく「斬る」ということに執着しているので形・手数の稽古をしてもそのような動きをしてしまいます。
 映画かアニメですばやく力強い動きに魅せられた方はやはりそのような動きをよしとして無理に速く動こうとしたり必要以上に力を籠め力みながら動くことを良しとしていますので無理無駄なく、ゆっくり静かに正しくとということが理解できません。
  YouTubeなどに影響を受けた方も同様です。
 そのような方はまず、真っ白になるところから始めなければなりません。

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  1. 2024/09/20(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

子供の稽古

 柳河藩では子供の武道の稽古を奨励しており、初めは子供であれば奨励のために上覧や大改の際に演武をすれば「画」をご褒美として授かっていました。やがて年齢は7歳未満に限られるようになったようです。つまり子供で稽古をするものが多かったので褒美を与える年齢を引き下げたのだと考えられます。
 子供で褒美をもらう子供は師範の苗字と同じ者が多かったので、はじめは子や孫を個人的に自宅で指導するのかと思っていましたが、史料をたくさん見ていくうちに師範と苗字が違う子供もかなりいて師範の親戚だけではないのではないかと思えるようになりました。しかし、7歳未満の子供(当時は数えですので現在で言えば5歳くらいでしょうか)が大人と一緒に道場で稽古していたようにも思えません。他藩では元服前後から導場に通っているところが多いように思います。
 どのように指導をしていたのでしょうか。史料がないので不明です。

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  1. 2024/09/21(土) 21:25:00|
  2. 武道史

 ある支部で支部から居合刀を貸していた未成年の方が稽古に来れなくなったので居合刀を返しに来られた時に、きちんとお礼が述べられただけでなく、居合刀もきれいに手入れされていたということです。
 本部でも状況によってご本人が購入する居合刀が濃州堂から届くまでお貸しすることがありますが(長寸の居合刀は製作に時間がかかります)、お貸しした居合刀を返却されるときの様子は様々です。丁寧にお礼を言われ居合刀の手入れをきちんとして柄糸の間の埃や手あかを落とし鞘の汚れを落として返す方もおられれば、鉛筆か何かを返すような感覚で返す人もいます。
 どのような人が上達していくかは言うまでもないことだと思います。

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  1. 2024/09/22(日) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

周りの状況を見る

 ある演武会で見学している方の真ん前に来て、元からいる人を遮る形で見学している方がおられました。稽古着でしたので演武される方だと思いましたが、その状況はあまりにも異常でした。まるで誰もいないかのように前に立たれたのです。その人が一般の方だとしても考えられない行動です。後でその人が所属している流派がわかりましたが、その流派の全体的な行動を見ていたら、そういうことをするのも納得でした。
 誰にでも気づかないことはあります。それをなるべく気づくようにするのが武道の稽古です。判断が難しい状況もあると思いますが、そのような時には周りをよくみて兄弟子や師にたずねて行動するように心がけてください。また同門の人が気づいていない場合には教えてあげるようにしてください。

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  1. 2024/09/23(月) 21:25:00|
  2. 未分類

島原藩における槍・剣術他流試合の始まりについて 1

Ⅰ はじめに

柳河藩槍剣師範である大石進種次は文政11年(1828)6月、「武術出精ニ付」30石から60石に加増されている。藩政日記には「但別而剣術之方他方迄称シ候段被聞召届被遊御満悦候由」と記されており 、大石進種次の剣術が他藩から称賛されていたことが加増の理由であることがわかる。したがって柳河藩周辺の藩では文政11年以前に他流試合が行われていたことが推定できる。
大石家の口承 では種次が廻国のために初めて訪れたのは島原藩であるとしている。そこで島原藩の記録を調査し、島原藩での他流試合がいつ頃、どのような形で行われ始め幕末まで続いたかを明らかにし、九州における他流試合の状況を解明する一助とすることを目的とした。

島原藩における槍・剣術他流試合の始まりについてa
  1. 2024/09/24(火) 21:25:00|
  2. 武道史

島原藩における槍・剣術他流試合の始まりについて 2

Ⅱ 島原藩と島原藩の武術を解明するための資料について
1.島原藩について
 島原藩は元和2年(1616)に松倉重政が移封されたことに始まる。寛永15年(1638)高力忠房が移封され、その後松平忠房が移封されて深溝松平家が治めることになった。深溝松平家は寛延2年(1749)に宇都宮に転封となり戸田氏が入封したが安永3年(1774)再び深溝松平家が入封した。以後深溝松平家が明治維新まで島原藩主を務めた 。
 本論で取り上げるのは深溝松平家が統治する島原藩である。

2. 島原藩の武術を解明するための資料について
(1)『深溝松平家藩中芸園録』(資料1)
 『深溝松平家藩中芸園録』は天保2年に島原藩士大原久茂によって記されている。『嶋原半島史』下巻 に収録されており、『肥前島原松平文庫所蔵資料目録(2)』に島原市教育委員会の吉岡慈文氏によって7ページにわたりその概要が詳細に紹介されている 。
『深溝松平家藩中芸園録』には2巻本と4巻本があり、2巻本では自序を欠き、記述内容も少ない。
4巻本にはそれぞれ同じ自序があり、自序には

  久茂少時日夏氏ノ輯ル本邦武芸小伝(ママ)卜云書ヲ見タルニ兵家者流ヨリシテ射騎刀槍及ヒ鳥銃捕獲ノ術凡ゾ其師範タル人々ヲ紀載テ其流儀ノ源ヲ探リ其修練ノ妙詣流派ノ分ルヽコトヲモ書載セヌ、武備ニ於テ功有卜謂へシ、竊ニ以ルニ、国家之龍輿シ玉フ時吾公家宗室ヲ列シ玉ヒ身ヲ以テ国ニ殉へ玉フ事三世古今ノ希ナル事ニソアリケル、故二茅土ノ封ヲ受国ヲ伝へ今二到ラセ玉フ、世上昇平トナリシ後モ益々武備ヲ重ンシ数精芸ノ士ヲ擢テ用ヒテ用ヒテ教導ノ任トナシ玉フ、是レ先代ノ功業ヲ纂修シ玉ヒ、国家ノ藩屏トナラセ玉フノ至意ナリ、久茂世禄ノ家二生レ恩沢ノ中二長シ講レ武ノ次熟々藩中芸術ノ盛ナルヲ見テ日夏氏ニ傚其師家ヲ記録セシコトヲ欲シ授受ノ淵源ハ各其家ニ就テ訪求メ修練ノ妙ハ世人ノ口碑ヲ採り之ヲ故老ノ人二証シ其出処進退ハ   官庫ノ記録ニ正シ、浮華ナルコトハ刪去リ其典実ヲ存在シ十タヒ寒暑ヲ歴テ草稿始テ脱セリ命シテ芸園録卜云、上ハ
公室士ヲ蓄へ玉フ盛意ニ負カス下ハ九原ノ人二愧ルコトナカランコトヲ庶幾ノミ、且戦国ヨリ
寿松公マテハ紀録略疎ニシテ伝へ聞コトモ亦稀ナリ、
興慶公以来記スルコトラ得タリ

とあり、大原久茂が『本朝武芸小伝』にならって島原藩の武術流派とその師範について記録したことがわかる。その記録の範囲は「寿松公マテハ紀録略疎ニシテ伝へ聞コトモ亦稀ナリ、興慶公以来記スルコトラ得タリ」とあることから寛永9年(1632)から元禄11年(1698)まで深溝松平家の当主であった松平忠房(1619-1700)の時代から天保2年までである。
 記述内容は射術・馬術・槍術・刀術・砲術・兵法・諸礼・柔術・捕手・縄術・棒術・陣貝の12種類の武術の流派と師範についてであり、下記の流派についての記述がある。
射術:吉田流・雪荷派・山和流・日置流
馬術:大坪流
槍術:竹内流・樫原改撰流・寶蔵院流・種田流
刀術:一刀流・小野派一刀流・捨像流・浅山一傳流・直心影流・真陰流・新勘一傳流・復心流
砲術:関流・澤流・自得流・種子島流荻野流
兵法:甲州流・謙信流
諸礼:小笠原流
柔術:玉刀流・起倒流
捕手:楊心流
縄術:難波一甫流
棒術:香取流・無比流
陳貝:謙信流

 4巻本のそれぞれの文末には異なる事態と字の大きさで「此巻大原家相譲人無之、□江相譲置度依頼ニ付申請候也、石川治部左衛門為久」「右巻大原久茂本家相譲へし人無ニ付、□江相譲置度依頼ニ付申請候吉也、石川為久」「此巻大原家可相譲見込無し故、□江相譲置度段」「而久茂ゟ依頼、申受候也、石川為久」「此巻訳アリテ久茂ゟ申請候也石川治部左衛門為久」と記されており、『深溝松平家藩中芸園録』は大原久茂から石川治部左衛門為久へ譲渡されたことがわかる。

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  1. 2024/09/25(水) 21:25:00|
  2. 武道史

島原藩における槍・剣術他流試合の始まりについて 3

(2)『矢島家御伝記』(資料2)
 『矢島家御伝記』 はその初めに河野秋景が「霊丘神社の社掌土井豊築ぬしハ年比忠実(マメヤカ)に神事(カミコト)勤(ツトメ)勲(イソシ)まるゝ中に暇(イトマ)ある時ハ深溝家御代々(ミヨミヨ)の古記日記をよミてむねとある處(トコロ)々を書抜て」と記していることから土井豊築が深溝松平家の古記録・日記から抜粋して編纂したものであることがわかる。
 矢嶋家の矢島武源太は島原藩に一刀流を伝えた杉野甚五兵衛近長の孫である杉野甚五左衛門長堅の弟子で文化2年に導場を開き、その二男矢島八馬、その子矢島雄馬と明治維新まで一刀流を教授しており、『矢島家御伝記』により島原藩における剣術の試合について理解できる。

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  1. 2024/09/26(木) 21:25:00|
  2. 武道史

島原藩における槍・剣術他流試合の始まりについて 4

Ⅲ 島原藩の槍術流派・剣術流派
1.槍術流派
(1)竹内流
文化14年に板倉八右衛門勝彪から浅井十右衛門に出された『竹内流免許之巻』 にはその伝系は以下のように記されている。
竹内藤市郎則正 ― 同 京八正家 ― 中山角兵衛義家 ― 小川主膳長吉 ― 初鹿野六左衛門盛政 ― 板倉八右衛門房勝 ― 板倉八右衛門俔方 ― 板倉八右衛門勝相 ― 板倉八右衛門勝周 ― 板倉八右衛門勝健 ― 板倉八右衛門勝彪
また同(竹内) 京八正家から伊藤新五兵衛貞則 ― 同 友右衛門貞陳 ― 三浦喜惣兵衛定策 ― 三浦喜惣兵衛定清 ― 村上左忠次義臣 ― 村上佐忠次義直 ― 板倉八右衛門勝彪と二つの伝系を並列して書き自分へとつないでいる。
 『深溝松平家藩中芸園録』によれば板倉八右衛門房勝は幕府旗本の初鹿野六左衛門に竹内流を学んだ。その後板倉家では竹内流は絶えたため、文化6年に家督を継いだ板倉八右衛門勝彪が家督を継いだ後に江戸で中津藩の村上左忠治義直に師事して竹内流を再び島原藩にもたらした。そのため、伝書に祖先の板倉八右衛門房勝からの家系図と、板倉八右衛門勝彪の師への伝系を記したものと思われる。

竹内流免許之巻

(2)樫原改撰流
 文政11年に奥山常右衛門永圖から牧喜代馬に宛てた『樫原流鑰鑓目録』 によればその伝系は
飯笹長威入道 ― 仝若狭守盛近 ― 仝若狭守盛信 ― 仝山城守盛綱 ― 穴澤雲齊入道 ― 樫原九郎左衛門俊直 ― 有馬善右衛門茂次 ― 有馬善右衛門茂共 ― 菅谷良助由晴 ― 長谷奥右衛門安淑 ― 長谷利太夫安之 ― 奥山常右衛門永章 ― 長谷利太夫安暉 ― 奥山常右衛門永圖
となっている。
 『樫原系槍術の研究』 によれば樫原改撰流は樫原流から有馬茂次から分派している。菅谷良助由晴は宝永6年に島原藩に召抱えられているので、この時から樫原改撰流が島原藩に伝わった。『深溝松平家藩中芸園録』によれば奥山常右衛門永圖のあとは奥山小右衛門永歳が、またその子奥山利八郎永言が天保2年当時樫原改撰流を修行している。一方、長谷奥右衛門安淑に師事した野澤土右衛門慶米も樫原改撰流をよくし、その子野澤作之右衛門有慶は奥山常有衛門永章を師として樫原改撰流を学び文化4年から指南を始めている。その子野澤作左衛門慶休も天保2年当時門弟を指南している。島原藩には樫原改撰流の導場が二つあったことになる。
 
(3)寶蔵院流
 文化12年に松平孫十郎から石原元之進に宛てた『十文字鎌目録』 によればその伝系は
寶蔵院胤栄 ― 中村市右衛門直政 ― 高田亦兵衛吉次 ― 高田又兵衛吉通 ― 豊嶋左近右衛門英方 ― 石井喜八郎忠利 ― 豊嶋喜左衛門實堅 ― 松平三郎太郎(後改孫十郎)景信 ― 松平十郎右衛門景國 ― 松平孫十郎
となっている。
 『深溝松平家藩中芸園録』によれば豊嶋喜左衛門實堅が豊後杵筑城主松平侯の家人である石井喜八郎忠利に学び寶蔵院流を島原藩にもたらした。同書に「豊嶋喜左衛門實堅豊後ヨリ島原ニ来リシ時」とあるので新規に召抱えられたのではあるまいか。松平孫十郎は松平十郎右衛門景温と言い、天保2年当時、嫡子小平太も槍術を勉習している。

(4)種田流
 文化8年に桃井十兵衛義方から奥平勢之亟に宛てた『種田流鎗術組合目録』 の写しによればその伝系は
大嶋雲平吉綱 ― 月瀬伊左衛門清信 ― 種田平馬正幸 ― 種田市左衛門幸勝 ― 山岡丈左衛門正臣 ― 桃井岫雲義利 ― 桃井十兵衛義方
となっている。
 『深溝松平家藩中芸園録』によれば江戸詰の桃井十兵衛(岫雲)義利が土岐山城守の家臣山岡丈左衛門正臣に習って島原藩士に伝授した。

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  1. 2024/09/27(金) 21:25:00|
  2. 武道史

島原藩における槍・剣術他流試合の始まりについて 5

2.剣術流派
(1)一刀流
 寛延4年に杉野甚五兵衛近長から世古楫兵衛に宛てた伝書〔一刀流秘伝書〕 (前半が欠けているため表題不明)によればその伝系は
井藤一刀景久 ― 小野次郎衛門忠明 ― 井藤典膳忠也 ― 古谷次郎左衛門信知 ― 古谷猪兵衛信武 ― 杉野甚五右衛門近長
となっている。伝系によればいわゆる忠也派の一刀流である。
 『深溝松平家藩中芸園録』によれば杉野甚五右衛門近長は元和州郡山城主本多侯之家人で同じく本多侯の家人であった古谷猪兵衛信武に学んでいる。本多家が断絶した後島原に到り享保13年に150石で召抱えられた。杉野甚五右衛門近長の子杉野甚五兵衛貞長宝暦3年に家督を継ぎ一刀流を指南した。
その子杉野甚五左衛門長堅 は明和9年に家督を継ぎ一刀流を指南している。杉野長堅は天明年中に江戸で永井侯の家人長沼四郎左衛門徳郷・植村侯の家人西尾源左衛門克忠等について直心影流を修行して島原に帰った。「爰ニヲイテ長堅ヲ師トシテ刀術ヲ習フ者多シ、殊サラ冬ハ寒稽古トシテ日数三十日夜暁ヨリ門弟数多導場ニ出席シ朝辰ノ刻迄勝負試合ヲ修行ス其繁昌他ノ刀術師家ニ倍セリ」という状況であった。杉野長堅の門人に文化2年に導場をもうけて指南した矢嶋武源太保敬がいる。
杉野長堅の子杉野甚五左衛門長穀は文化14年に家督を継ぎ、また一刀流を指南した。杉野長穀は文化年中に江戸で「中西猪太郎子正ニ随身シ」修行している。

(2)小野派一刀流
 『深溝松平家藩中芸園録』によれば金森甚右衛門定泰と石原太仲通胤が小野次郎右衛門忠勝について学び島原藩4代藩主松平忠刻の稽古相手を務めたという。

(3)捨像流
 『深溝松平家藩中芸園録』によれば筑前黒田侯之家人である高木太左衛門勝義が流祖。島原藩第2代藩主松平忠雄は高木太左衛門勝美に捨像流を習ったという。東儀左衛門勝乗も高木太左衛門勝美の弟子で、同門の土橋麻右衛門景髙に習った東儀左衛門勝乗の子東儀左衛門勝美も捨像流を指南した。

(4)浅山一傳流
 文政元年に都築五十馬によって発行された『一伝流武者組目録』(宛名部分が欠)によればその伝系は
浅山一傳齊重晨 ― 小嶋甚左衛門光友 ― 仲村九兵衛光利 ― 中井茂右衛門重頼 ― 小野里新兵衛勝之 ― 中田七左衛門政経 ― 浅山一傳重行 ― 森戸三太夫朝恒 ― 森戸三休偶太 ― 森戸一傳金春 ― 森戸三太夫春邑 ― 森戸歸春鏗鋼 ― 森戸三太夫金堅(春の誤字か) ― 森戸柗之助 就幼年 ― 金春属門人 後見 林運五郎 ― 都築五十馬
となっている。
 『深溝松平家藩中芸園録』によれば都築五十馬は文化12年に江戸で浅山一傳流森戸松之助が幼年のため後見の後見林雲五郎より免状を得たという。

(5)直心影流
 嘉永3年に鈴木喜彌太犖利より鈴木治郎にあてた伝書〔鹿島神伝影流兵法〕 によればその伝系は
杉本備前森紀政元 ― 上泉伊勢守藤原秀綱 ― 奥山休賀齋平公重 ― 小笠原源信齋源長治 ― 神谷傳心齋平直光 ― 髙橋直翁齋源重治 ― 山田一風齋源光徳 ― 長沼四郎左衛門藤原國郷 ― 長沼四郎左衛門藤原徳郷 ― 鈴木喜彌太源犖健 ― 鈴木喜彌太源健亨 ― 鈴木喜彌太源犖利
となっている。
 『深溝松平家藩中芸園録』によれば鈴木多作利犖の次男である鈴木喜彌太源犖健は父より復心流を学んだが、寛政11年に江戸に出て長沼四郎左衛門亮(ママ)郷に随身し文化3年に長沼四郎左衛門亮(ママ)郷より奥旨を得て島原に帰り指導したという。同書によればこれとは別に江戸で指導した芦田善蔵敬之もいた。

(6)真陰流
 『深溝松平家藩中芸園録』によれば匹田豊五郎である。正徳2年に亡くなった今井佐次兵衛と、今井の弟子の稲田久太夫仲治がいた。

(7)新勘一傳流
 『深溝松平家藩中芸園録』によれば流祖は青木止水である。島原藩では享保年間にのちに復心流を開く堀波衛門尚春がおり、その弟子に享保7年に奥旨を得た内田時助延宗がおり、その養子で新勘一傳流をついだ内田茂太夫武雅、さらに文政11年に亡くなった内田茂太夫の弟子稲田義平幸次があった。天保2年当時稲田義平幸次の子である稲田与一太夫幸尚が指南していた。

(8)復心流
 明和9年に是永小左衛門光治より鈴木利休蔵にあてた免状〔免状 剣術、居合等〕 によればその伝系は
堀波右衛門衛尚春 ― 黒木周助調實孝 ― 是永小左衛門光治
となっている。
 『深溝松平家藩中芸園録』によれば、安永年中に亡くなった黒木四郎太調實が堀波右衛門尚春より奥旨を授かり、その後を受けて、是永小左衛門光治とその子是永金治兵衛喜和が指南をしている。
 黒木四郎太調實には和田久太夫武親という弟子もあり、その子稲田長右衛門仲興、さらにその子稲田兵九郎仲英が天保2年当時復心流の指南をしている。
また、寛延3年に鈴木源四郎利員が堀波右衛門衛尚春より奥旨を授かり、その子鈴木多作利犖、またその子鈴木八郎利賓と天保2年当時迄指南を続けた系統もある。

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  1. 2024/09/28(土) 21:25:00|
  2. 武道史

島原藩における槍・剣術他流試合の始まりについて 6

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  1. 2024/09/29(日) 21:25:00|
  2. 武道史

島原藩における槍・剣術他流試合の始まりについて 7

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Ⅴ まとめ
1.島原藩での槍術の他流試合の開始は文政元年である。
(1)その後文政10年に柳河藩からの笠間司馬・大石進・高石隆介の訪問、さらに島原藩士の柳河藩への訪問、それに応じた柳河藩士の島原藩への訪問によって活性化したと言える。
2.島原藩での剣術の他流試合の開始は文化2年の江戸両国浜丁御旗本小野安芸守家人永坂相馬厄介人高梨九十郎の訪問が始まりであり、一刀流杉野甚五左衛門長堅の門人と試合をしている。
(1)ただし、島原藩浪人の復心流の黒木四郎太が宝暦年間に柳河藩に出向き、柳河藩槍剣師範の村上傳次左衛門と試合をしている。
(2)また、杉野甚五左衛門長堅の門人磯野丈治貞吉が享和3年に長崎で中尾小十郎と試合をしている。
(3)忠也派一刀流の杉野家は天明元年に直心影流を取り入れ、文化元年に中西家の一刀流を取り入れており、他流試合の開始以前に他流試合に対応できる稽古方法がとられている。
(4)文化文政のころから島原藩士が廻国修行し始め他流試合を行っている。

Ⅵ おわりに
 島原藩の史料を見る限り、武士階級の者が積極的に他流試合を行っている。
 文政10年に柳河藩の笠間司馬・大石進・高石隆介が島原藩で試合した時、島原藩で槍術では竹内流の板倉家は1700石、樫原改撰流の奥山家は100石、寶蔵院流の松平家は100石である。柳河藩の宝蔵院流師範の笠間家は250石 、愛洲神蔭流師範の大石家は30石 (在宅の武士、文政11年に60石)、
 また剣術で他流試合を始めた島原藩の一刀流杉野家は150石である。

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  1. 2024/09/30(月) 21:25:00|
  2. 武道史

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貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)

Author:貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)
無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術 貫汪館の道標へようこそ!
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