無雙神傳英信流抜刀兵法の3段の論文です。資料をもとによく書かれています。
1 はじめに
私が子どものころは実際に体験するか、雑誌や書籍などでしか知り得なかったような情報が、今ではインターネットで簡単に手に入れることができるようになった。古武道を標榜する武術の流派がどんな中身でどのように伝わってきたのか、インターネットのホームページにアクセスすれば幾らかは調べることができる。検索されるサイト側としても、インターネットにホームページを掲載する以上、それを明らかにすることが目的の一つなのだろうし、掲載している情報の信ぴょう性を確保するためにもその歴史的な経緯や伝承の正当性を広く明らかにする努力が、暗黙の裡に求められるからである。また、武術の中身という点でいえば、SNSの普及により画像や動画が掲載されることも多くなった。その流派の評判や歴史的な背景を知ろうとすれば、そういうサイトを検索することも可能である。しかし、歴史的事実を認識する視点と歴史的価値を評価する基軸がどこに置かれているか、そこに我田引水はないか、真贋を見極めるうえで常に吟味が必要であることは言うまでもない。古い書物に載っているから間違いのはずはないと決めつけることも、現代の常識だけで背景や経過を考慮せず古い書物の価値を断罪することも、どちらも早計だということである。情報が氾濫している現代では、判断材料は格段に増えたとはいえ、そのリテラシーの重要性はより増しているだろう。
歴史を振り返る際にはできる限り吟味を重ね、謙虚で誠実でありたいものである。以下、標記の課題について検討するにあたって、翻って我々がどのような姿勢で稽古をするべきか、そして将来に向かってどう展望するのかという意識をもって述べてみたい。
2 無雙神傳英信流抜刀兵法の経緯
(1)林六太夫守政による土佐への伝承
一般に、今日につながる武道の原型が形成されたのは、15世紀後期から16世紀にかけて生まれた流派武術においてであるとされ、17世紀初頭に江戸幕府が成立してからは、「弓馬剣槍」が武士の表芸として修練された。幕府は軍事的には各藩を厳しく監視したが、260余りの藩では、武術流派は統制されることはなく多くの流派が展開した。(参考文献1 12頁)
本来戦いの技術である武術が平和な世の中に栄えたというのは、武士の嗜みとして各地で武術が奨励されたこと、平和になったことで稽古体系が整理されたこと、また歴史的な記録が後世に残りやすくなったということもあるのだろう。
貫汪館の無雙神傳英信流抜刀兵法は、江戸時代以前からの居合を今に伝える古流の武術である。その伝系は、次のとおり。
流祖・林崎甚助重信
田宮平兵衛業正
長野無楽入道槿露齊
百々軍兵衛光重
蟻川正左衛門宗讀
萬野団右衛門信貞
長谷川主税之助英信
荒井兵作信定(荒井清哲)
林六太夫守政
林安太夫政詡
大黒元右衛門清勝
松吉八左衛門久盛
山川久蔵幸雅
下村茂市定
細川義昌
植田平太郎竹生
尾形郷一貫心
梅本三男貫正
森本邦夫貫汪
…しかし、この系図に何代と数を振るのは無理があるのです。長野無楽入道槿露齊自身は林崎甚助の弟子でもありますし田宮平兵衛の弟子でもあります。それ以後の何代かにわたってはいくつかの流派の人物を系図に取り入れた可能性が非常に大きくあります。また土佐に林六太夫守政が伝えてからは比較的明確ですが、私たちへの伝書には林安太夫の名が記されているものとないものがあります。~
流派武術は歴史が長くなれば長くなるだけ何代目ということは難しくなり、単純には言えないものだと思います。系図のみを見て数えれば、単純に何番目と思ってしまいますが、伝書に記してある系図は天皇家の系図や家系図のように単純に考えることはできないものだという事は頭に入れておいてください。…(道標2013/01/17)
居合の始祖、林崎甚助重信を流祖とする無雙神傳英信流抜刀兵法は、林崎以来の達人と称される長谷川主税之助英信(文禄7年~享保4年(1719))の相伝を経て、林六太夫守政(寛文3年(1663)~享保17年(1732))により土佐にもたらされた。この居合は、後に土佐では一般に長谷川流、長谷川英信流と呼ばれることになるが、当時は、無雙流と呼ばれていた。
江戸時代の土佐の歴史書である『南路志』によると、林六太夫について「無雙流ノ居合ハ荒井二代目ノ勢哲二学テ」「林氏の居合釼術ハ二代目の勢哲より直傳也」とある。長谷川主税之助の伝えた無雙流には和術もあったようで北信濃地方に無雙直傳流として伝わったとされるが、林六太夫は、土佐では無雙流のうち和は教授しなかった。ただ、林六太夫本人は、長谷川主税之助と同様に多芸の人で小栗流和術にも通じており、土佐においては殊更無雙流の和を広める必要性がなかったのではないかとも言われている。
また、「二代目の勢哲」から学んだという箇所について、「伝系にある荒井兵作信定(荒井清哲)は荒井氏の二代目に当たるということを言っているのか、あるいは無雙流の居合は林崎甚助に始まるとしながら、長谷川主税之助を一代目、荒井を二代目と考えていたようにも受け取れる。」と論考されている。(参考文献2 63頁)
私は、確固とした根拠があるわけではないが、居合術総体の元祖である林崎甚助を流祖として顕彰するものであって、同じ『南路志』に「其以後段々に流枝出来る也」とあるのは、以降徐々に流派としての形が整えられてきたということであり、土佐に伝わる無雙神傳英信流抜刀兵法としては、林六太夫によって土佐に伝えられた無雙流の長谷川主税之助が一代目という感覚であったのではないかと思う。
また、林六太夫は、土佐に無雙流を伝えたというだけでなく、大森六郎左衛門による大森流を取り入れ、後述する無雙神傳英信流の業の体系の骨格を確立した。(参考文献4 101頁)
(2)土佐藩表芸への道のり
無雙流が土佐藩に伝えられた当時の様子については、林六太夫の三男で、小栗流師範の足達茂兵衛の養子となった安達甚三郎(林縫丞)が天明3年(1783)に口述した記録を掲載している『朝比奈氏家系幷小栗公由緒書』(写本)からうかがうことができる。
林六太夫には三人の高弟がいたが、三男の安達甚三郎も小栗流のみならず実家の流派も修行しており、息子や小栗流を稽古する者で希望する者に対しても教えていた。その安達甚三郎が土佐藩で正式に見分に取り上げられる表芸となるよう願い出る様子が書かれている。(参考文献5 2頁)なお、ここでは林家の流派が「長谷川流居合兵法」と表現されており、長谷川主税之助のことを「江戸では長谷川流の遣い手と言われていた」としている。(参考文献5 資料二より)
口述によると、長谷川流は土佐藩の「表芸」にはなっていないが、小栗流の見分を一通り済ませた後の再覧の際に演武できる可能性もあるので、土佐藩の「武芸御目附」という上役の目に留まるようあらかじめ演武を想定して長谷川流の道具(鞘木刀や居合刀)を用意しておき、実際に「長谷川流居合之業」「居合太刀打」「居合詰合之業」を演じた、という逸話が出てくる。その結果、「上役に対してのサプライズの演武の披露は、首尾よく済ませることができて本望だった」と述懐している。
また、上役に対して「武芸之物語」を様々な機会に申し上げる中で、「実の父から伝えられた長谷川流居合兵法の業を絶やしてしまうのは残念なことであるので、業は家芸として後継者に継承し、絶やさぬよう稽古を続けさせております」と訴え、共感を得たという。(参考文献5 資料二より原文意訳)
これらのエピソードは、老境の安達甚三郎が「ここ数年病気がちで、うまくしゃべることもできず、あちこち具合が悪くなり」と弱々しいながら、どこか当時を懐かしく振り返る様子が目に浮かぶシーンであり、土佐藩での長谷川流の興隆のエポックであった。土佐藩のお墨付きを得て表芸として取り入れられるよう、小栗流師範としてのコネクションも活かし、機を見計らって行った流派としてプレゼンテーションが見事に奏功した訳である。「このような先人の努力と質の高い(他の武術を併修し、その中での居合という認識を持った)稽古があったからこそ、今に長谷川流の伝統が続いている」(道標 2016/10/03)と言われるのは、まさにその通りだと思う。
(3)無雙神傳英信流抜刀兵法の円熟
長谷川流が土佐藩の表芸となってからの状況については、文政11年(1828)3月から天保12年(1841)1月までの剣術・槍術・居合・弓術・馬術・軍貝等の武術の見分(式日)を中心とした『教授館總宰餘業記録』というものがある。そこには、無雙神傳英信流居合兵法を相伝する山川久蔵幸雅(安永3年(1774)~嘉永元年(1848))らが連れてきた弟子の坪内清助の居合の抜方と和術の遣方を見分した後、坪内清助に稽古の功労として鍔を授与したという記述も見える。この記録によると、山川久蔵が指導していた形は「大森流」「英信流表」「太刀打」「詰合」「大小詰」「大小立詰」「英信流奥」であり、今に伝わる無雙神傳英信流抜刀兵法の形が演武されていることが分かる。(参考文献5 4頁)
また、「この頃、一般には土佐では居合は谷村派(無双直伝英信流)、下村派(無双神伝英信流)の二派に分かれたと思われているが、現在につながっているのがこの二つの流れというだけなのであって、幕末の居合導役が知られているよりも数多くおられたことから、実際には多くの分流があったと思います。」(道標 2007/08/09)というのも実際に文献を見れば一目瞭然であり、一子相伝とか家中秘伝の業などという流派武術のステレオタイプなイメージとは程遠いという実感を持つ。
明治17年(1884)に編纂された『高知藩教育沿革取調』によると、高知藩では、宝暦2年(1752)に藩校を設け、明治5年(1872)まで藩士の教育が続けられた。文久2年(1862)に開館した致道館では、士官学や練兵といった西洋式軍隊の養成のための科目も見える。ここで居合術は、選択科目の一つとされていたという。
このように、当時の流派武術は、流派間の交流や演武での共演の機会はよくあった。また、武術の褒賞を受けるため誰が年に何回稽古したということを詳細に記録して上役に差し出す手続きや、武術の検分を受ける制度もあった。(道標 2010/09/25)
これより後、嘉永6年(1853)、ペリーの黒船が来航する頃になると、尊皇攘夷や倒幕運動も起こり、剣術が一層盛んになった。剣術修行として諸国を巡る者も多く、道場が情報交換の場ともなった。18世紀後期から19世紀にかけては、江戸初期からの流派でも中興や復古再編が行われている流派が多いという。(参考文献1 15頁)
今にして思えば、藩による奨励による流派武術が互いに切磋琢磨できる制度、弟子を育成するシステムがうまく機能したこの幕末に至るまでの時期が一つのピークだったのではないかと思う。
なお、無雙神傳英信流居合兵法という流派の名称については、何時の頃からこの流名が土佐で用いられていたのかは不明であるが、少なくとも安政4年(1857)のある師範に対する起請文や後に中山博道が無雙神傳英信流居合兵法の相伝者である細川義昌(嘉永2年(1849)~大正12年嘉永2年(1849))に出した起請文にも記されていることから、少なくとも18世紀の半ばの当時では流通していた。(道標 2010/03/21)
(4)明治維新以降の受難と変遷
1868年の明治維新の「文明開化」期に武士階級が解体され、廃刀令が出て、伝統的なものは時代遅れとされると、江戸時代に展開した流派武術は存亡の危機に直面し、多くの流派が断絶してしまう。(参考文献1 17頁)
土佐藩の藩校においても、江戸城の無血開城のあった明治元年には、槍術、抜刀などは廃止、剣術も明治3年には廃止、「私塾修行随意たらしむ」と、江戸時代までの武術は公的には履修科目とはしなくなった、あるいはできなくなった。
しかし、土佐藩がある意味で幸運だったのは、明治維新を推し進めた薩長土肥の一員でいわゆる勝ち組であったことである。かつて土佐藩主の山之内容堂に付き随い長谷川流居合の修行を行っていた板垣退助は、明治の代には自由民権運動の主導者であり従一位勲一等伯爵、維新の元勲の一人になっていた。明治26年に高知に帰郷した折、英信流が衰微しているのを惜しんだという。(『土佐史談』十五号所収・「英信流居合術と板垣伯」より)折しも英信流の根源を尋ねる中山博道に仲介を頼まれ、板垣退助は、衆議院議員として在京中であった細川善昌を紹介した。弟子を取らないことで有名だった細川善昌も板垣退助の知遇斡旋となれば無碍にはできなかっただろうと想像する。
細川善昌に教えを請うた中山博道は、夢想神傳重信流十八世として、土佐の剣士たちの間でもっぱら隆盛を極め、全国的にも普及していった。(『板垣退助と英信流(えいしんりゅう)』高知市広報「あかるいまち」2007年7月号より)
現在、居合人口が多い流派は無双直伝英信流とこの夢想神傳流だそうだが、土佐の居合の系統という意味で言えば、明治時代の受難から命脈を保ったということになる。その一方で貫汪館に伝わる無雙神傳英信流抜刀兵法は、細川善昌から唯もう一人の継承者である植田平太郎竹生により後世に託されることになった。
3 無雙神傳英信流抜刀兵法の特質
(1)形の体系から
無雙神傳英信流居合兵法の特質としては、これまで述べてきたように、形の体系からいえば、大森流、英信流表、太刀打、詰合、大小詰、大小立詰、英信流奥を江戸時代から今に伝えているということがまず挙げられる。北信濃地方に伝承されたという無雙流の和は幕末で廃れてしまい(参考文献6 27頁)現在では失伝してしまった。長谷川流につながる現代の居合流派でも、当時の太刀打や詰合、大小詰などの業を継承していないところもあると聞く。
今の無雙神傳英信流抜刀兵法の形のうち、一番古い形を伝えているのは英信流表であり、江戸時代に入って林六太夫守政により大森流が付け加えられ、英信流奥は英信流表の成立以降、江戸時代になって次第に現在の形へと発展したものと考えられている。(参考文献4 100頁)
太刀打、詰合は純粋に居合というよりもほとんどの形が剣術の業であり、『南路志』の「林氏ノ居合釼術」という表現を裏打ちするものであり(参考文献3 15頁)、安達甚三郎の「口述」に出てきたとおり、居合とともに伝承されてきた。
また、これまで相伝者の武歴で触れてきたように、林六太夫らは小栗流和術を教え、山川久蔵までは夏原流柔術、下村茂市は、高木流体術拳法の師範でもあり小栗流和術も嗜むなど、居合を修める者は柔術も専門的に修行した者が多い。「居合と柔術は相性がよく無雙神傳英信流抜刀兵法にも大小詰、大小立詰という柔術的技法が伝えられている。この点、江戸時代の柔術は刀を持った相手に素手で対応できるレベルをめざすものであり、刀を抜かない状態から相手に対応しなくてはならない居合と近い関係にあるといえ、居合を剣術と柔術の間に位置づく武道とする見方もある。逆に柔術家にとっても刀の働きを知らなくては柔術足りえない」(参考文献2 65頁)と説かれている。
無雙神傳英信流居合兵法は、居合の流派にあって、こうした剣術、柔術の要素を併せ持つ古くからの様式をよく残す流派である。
(2)流派に求められる心身の運用から
武術本来の動きというものは、人間の身体に最大限の合理性を求めるものであり、稽古内容は年齢・体格・筋力等の違いに左右されることのない「身体活用の真理・本質・可能性の追求」を本道としなければならない。
無雙神傳英信流居合兵法で最初に稽古する大森流については、正座を基本とする。武術においては、しっかり立つということはその場に居つく事につながり、自分の動きを不自由にすると考える。そこで居合では座ることによって本来の引力に抗していない状態を認識させる。そこには脚力を鍛えて瞬発力で動くという発想はない。
また仮想敵を立てて単独で行う形を修行の初期の段階で行うことによって、動きそのものをより深く体得させることをめざしている。それは例えば、初動において抜きつけの動きを見せないこと、左右の手の働きは体の深奥の動きによって制御されており、その働きを感得すべきこと、刀勢は体の最下部さらにその下にある地の力が人体に働くことによって生まれるものであり、体の各部は地の力の伝達経路であるので、その伝達を妨げるような我の力や力みがあってはいけないこと、などである。(参考文献4 102~105頁)
具体的な形について英信流表の一本目の横雲を例にとると、「横雲は居合の基本とも言うべき形で、この形が完全に、つまり自由に動ければ、居合の修行は終了したといっても過言ではない。居合においては形が全ての教育方法であり、形を修行することによって自由な動きが身に付くように仕組まれている。したがって手順の定まった形を稽古していても、その動きの中にはあらゆる方向へいつでも動ける体遣いが内在していなければならない。」とされている。
なお以下、四本目の浮雲、山下風、岩波の三本は、体を浮かせるという動き、続く浪返、鱗返は体を力みなく実態のない線に沿って廻すという動き、九本目の瀧落は、山下風が柔術的な動きを入れているのと同様に、相手の手の内の状態を知り刀の小尻をふりもぐという柔術的な技法を取り入れている。(参考文献3 82~99頁)
貫汪館ではこうした形の稽古においては「力に頼らない無理無駄のない肚からの動き」を心身の運用の要諦としており、特質の一つだと考える。
(3)稽古体系から
明治維新以後、軍隊や学校での実際の訓練・教育に西洋の体育思想を導入した日本では、江戸時代より伝わった「動き」が西洋式の国民皆兵に都合のよい「動き」へと換骨奪胎された。武術も例外ではなく形のみ残す事態に至った流派も多いという。(参考文献4 99頁)
また、それまでの流派武術の稽古方法が大きく変わり、少ない人手でより多くの者に対して迅速に効率的に稽古できるよう集団教授が取り入れられるようになった。
これは規模の大きい流派武術の道場でも同じことがいえる。教授する側とされる側の質的、量的なバランスがどうかによるところも大きいと思うのだが、流派の求める稽古がどこまでできるのかという点では、江戸時代からの流派武術を標榜する貫汪館では、集団教授を極力回避して稽古をしているように思う。この点、北大阪支部について言えば、一人の指導者が号令をかけるなどして同時に多数の門人に対して同じ指導を行うという稽古の形ではなく、習熟のレベルに応じた稽古課題を課したり、門人の経験値を早く上げるような稽古の中身とすることでただ一方的に指導を受けるだけの門人を極力減らしていくなど、より多くの門人の指導に指導者が対応できるよう普段から稽古体系を工夫していただいていると思う。
4 おわりに
明治維新や敗戦後の占領・民主化のように、社会全体の仕組みや価値観が変わると、伝統的な事物は危機に襲われる。武道の振興を図ろうとも、時代基盤そのものが変わってしまうと過去と同じようにはいかない。
武道は特に戦後、スポーツ化、国際化が進んだ。最近ではインバウンドを見込んだ「武道ツーリズム」が国を挙げて進められようとしていたところ、昨年からは世界的なコロナ禍で、いつまで続くのか分からないがインターネットを介したコミュニケーションが加速している。
ここ数十年で、いくつもの流派がなくなっている(道標 2020/12/31)という。しかし、かつてのように、形を変えてでも環境適合していく、少数ながらも極力変化せず脈々と生き延びていこうとするという生き残りのアプローチは、現代にも置き換えることは可能だろう。本審査課題に即していえば、先に述べたような貫汪館の伝える無雙神傳英信流居合兵法の特質を生かした稽古をどう充実させ、流派の最適規模を保ちつつ門人のすそ野をどのように拡大し、安定的に後世に受け継いでいくのか、これは我々稽古する門人一人ひとりが更に研究・実践をしていく必要がある。
≪参考文献≫
1)魚住孝至「武道の歴史とその精神 概説」国際武道大学附属武道スポーツ科学研究所2008年7月
2) 森本邦生「無雙神傳英信流の研究(1)-土佐の武術教育と歴代師範及び大森流の成立に関する一考察-」広島県立廿日市西高等学校研究紀要第11号 平成15年3月23日
3) 森本邦生「無雙神傳英信流の形…英信流表、太刀打、詰合」広島県立廿日市西高等学校研究紀要第12号 平成16年3月31日
4) 森本邦生「無雙神傳英信流の形…大森流、英信流奥」広島県立廿日市西高等学校研究紀要第13号 平成17年3月31日
5)森本邦生「『教授館總宰餘業記録』にみる土佐藩の居合について」日本武道学会第49回大会発表抄録 平成28年9月8日
6)榎本鐘司「北信濃における無雙直傅流の伝承について-江戸時代村落の武術と『境界性』-」,スポーツ史研究7号 1994年
- 2021/03/17(水) 21:25:00|
- 昇段審査論文
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あるテーマについて話をするときにその前提が異なれば当然のことですが話はかみ合いません。
以前、「道標」を読まれている他武道をされる方がその内容について貫汪館で稽古される方に話されたとき、それを聞いた人が「そういうことを書かれているのではないのだが」と思ったということをお話ししましたが、それは前提が異なっているからです。
武道史をあまり知らない人が幕末のある人物の日記を読んで、その人物が自分自身で試合のたびに勝ったようなことを書いているので、その人物が相当な実力の持ち主で、まるで小説の宮本武蔵のような絶対的な実力者だと信じられていたことがありました。なるほど、そう思っておられれば話がかみ合わないはずだと感じました。
「試合」を現在の試合のように審判がいて、勝敗がはっきりしていると思っておられたようなのです。「試し合い」だとは思っておられず勝敗は絶対的なものだと信じておられました。当時はお互いが自分で判断するのですから、流派の基準によって判断し、双方が自分のほうが勝っているという状態があるのですが、「試合」という言葉のイメージを現代的な定義からしか考えられず、そのような状態は考えられないようでした。
武道学会で武道史の研究をされている先生方にとっては常識的なことですが、なぜか一般の方には常識とはなりません。もともと試合とは「試し合い」の意味であったはずが、日本で試合が西洋のmaych とかgame という言葉の定義に置き換えられてしまったことが起こる原因なのかもしれません。
- 2021/03/29(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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