4.試合
先述の村上傳次左衛門に関する立花織衛家文書の5通の史料の内の〔御意伝達書〕と仮題が付けられている端裏に二と記されているもの には次のように記されている。
村上傳次左衛門
其方儀御当地江罷越候以来、弥増武術之心懸不浅、一分之嗜者不及申、大勢之弟子 引立、其上三年以前従嶋原黒木四郎太と申浪人之剣術者、御家を心掛、師範等も可仕覚悟ニ而罷越候處、侍中之内誰そ仕合之儀望申候段承及、早速参會、其場之仕方始終具ニ被聞召届、御名目ニ相拘り候儀彼是神妙之至被遊御満悦候、仍為御褒美御加扶持只今被下置候御合力ニ被結、拾弐人扶持被為拝領、給人格且組付ニ被仰付候、此段可相達旨被仰出之、以上
八月
これによれば村上傳次左衛門は柳河に居住して以来多くの門弟を育ていることがわかる。また3年前に嶋原浪人の黒木四郎太が柳河藩の剣術師範になろうとして柳河藩士と試合しようとしていたところ村上傳次左衛門がこれに応じ見事な働きをしたことにより現在支給されている合力に加えて合わせて十二人扶持を支給し、給人格と組付を命じられている。内容から考えると村上傳次左衛門は柳河藩士という身分を得たのちに嶋原藩浪人黒木四郎太と試合をしている。
黒木四郎太は天保2年(1819)に島原藩士大原久茂によって印された『深溝松平家藩中芸園録』 に
黒木四郎太調實
黒木四郎太調實者者初メ周助卜呼、堀波右衛門尚春ニ随身シテ復心流之刀術ヲ修行シ其奥旨ヲ得タリ、是ヨリ調實其刀術ヲ以テ人々ヲ教導ス、爰ニヲイテ調實ニ従テ専ラ刀術勉習スル者、是永小左衛門光治・橋田久太夫武親等ナリ、調實後御暇ヲ乞ヒ浪人ヲ業トシ島原南有馬村ニ籠居シ安永年中卒スト云々
或人曰、四郎太調實ハ刀術ヲ好テ能稽古ヲツトメ其志シ浅カラス御徒歩ヲ勤メ其行迹質朴之人ニテ有りシト也
と記されており黒木四郎太が島原藩を致仕した浪人であることがわかり柳河藩の上記の資料の記述の正確さを確認できる。
同じく立花織衛家文書の5通の史料の内の〔御意伝達書〕と仮題が付けられている端裏に三と記されていもの には次のように記されている。
村上傳次左衛門
其方儀門弟中稽古之節昼夜相手ニ成、其上御覧之節毎度致仕相、扨又志厚弟子中引立之趣委細被聞召、為抽儀被遊御満足候、仍為御褒美御上下被為拝領之旨被仰出之候、已上
六月
村上傳次左衛門が上覧のたびに試合を行っていることがわかる。このころの上覧は一門ごとに行われていたので村上傳次左衛門と門弟との試合、また門弟間での試合であったと考えられる。褒美として上下を拝領している。
大石神影流の伝書である『大石神影流剣術陰之巻』に種次自身が「幼ナキ時愛洲新陰流ノ唐○(金へんに面)袋品柄ノ試合ヲ學タリトモ」 と記しており、村上傳次左衛門の流派では竹製の簡易な面と袋撓を用いて試合稽古をしていたものと考えられる。大石神影流では竹刀・刀の長さの上限を総長で地面から乳通りの高さまでとしているが、村上一刀が定めた長さは記録にはないが、村上傳次左衛門が記したと考えられる先述の『新陰流刀術印可』 によれば「一 太刀 弐尺三寸ヨリ五寸迄用之 一 脇差 壱尺八寸ヨリ九寸迄用之」と記されており脇差は通常のものよりも長いが、太刀は通常使われる長さとかわりはない。
- 2025/01/06(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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