古武道を稽古する者は自分の流派が成立した時代背景を知ることが大切です。
自分が稽古する柔術の時代背景を知れば、形の構成がなぜそのようになっているのか、戦国時代に成立した流派とはどのように違うのか、自分の流派が重点的に稽古させたいのは何かがわかり、稽古の目的も自分自身で明確にすることができます。
自分が稽古している居合の歴史を知ることによって居合における「抜付け」とは何か、他流派との違いは何かという事が明確になっていきます。
剣術の歴史的な成立過程を学ぶことで、自流派の特徴と当時の時代背景における先進性も明白になり、防具着用稽古の意味、現代剣道との防具着用での動きの違いも明白になります。
その他さまざまなことを学ぶことができますので必要最低限のことは学ばなければなりません。
- 2018/04/01(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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よく見ることができる方は上達が速やかです。講習会や平素の稽古で「みてください」という指導をすることがありますが、遠慮されるためか、近くに寄って、見ようとはされない方がおられます。
このような場合、見ていただきたいのは手順ではなく内側の働きやごく小さな動きの部分であり手順ではありませんので、邪魔にならない範囲で近くで見ていただかなければならないのです。
よく見る方は、よく上達します。
- 2018/04/02(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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ある程度上達してきたら、打太刀の稽古を始めなければなりません。ただし、打太刀の稽古をするときには仕太刀は自分よりも上位者が勤める必要があります。打太刀として不足する部分を指摘していただき、学んで自分のよりも下位者を導く能力を身につけていかなければならないからです。
打太刀の稽古を重ね、自分よりも下位者と稽古するようになった時には、下位者と対抗しようとする心を捨て、相手の全てを観る目を養うように努めることで、自分自身も向上していきます。
- 2018/04/03(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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澁川一流柔術の稽古には所謂乱捕り形式の意治稽古があります。しかし、これはあくまでも稽古の一つであって、優劣を決めるものではありません。師の畝重実嗣昭先生は意治稽古は寒いときに稽古前に体を温めるために行っていたと話してくださいました。
意治稽古は1対1で行うだけではなく、1対多で投げ捨てで行う稽古法、相手が懐剣などの武器を持って行う方法などがあります。
意治稽古では当身や握り潰す、抉るなどの技は用いませんので、1対1で大人と子供が稽古すれば体格差のため稽古になりません。最近は刃物で死傷する例も多いため、懐剣対素手で行う意治稽古の方が現実的な稽古であるといえます。子供に懐剣を持たせ、触れられれば斬られているのだという意識で稽古すれば大人と子供でも十分に対等の稽古になりますし、立場を変えて大人が懐剣を以って子供に突きかかり斬りかかれば子供にとってもよい稽古になります。
英国ロンドン支部のジェイコブ・グリーズリー氏はソフトな素材でナイフを作り、稽古しています。
- 2018/04/04(水) 21:25:00|
- 柔術 業
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形にはその技がかかるための条件があります。たとえば大小詰の抱詰は柄をしっかり押さえにくるから、あの技がかかるのであって、遠い間合から小手先で柄を押さえに来られた場合には、あの技はかからず、むしろ骨防返の業を使った方が有効です。
その他の形でも二人で組んで行う形には、そのようになる条件が必ず必要で、理にかなわない動きでかかってくる場合には、それぞれの形の中での技が有効ではないということが起こってきます。
打方・打太刀を務める方が確実に形の条件を踏まえて稽古すれば、双方が上達していきます。
- 2018/04/05(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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大石神影流の素振りや無雙神傳英信流の斬撃の稽古は数を重ねることを良しとする稽古ではなく正しい動きを身につけるための稽古です。したがってただ回数を重ねることには意味がありません。
特に素振りの最後、斬撃の最後は呼吸と心身の鎮まりと刀の動きが一致しなければ、次の上がる動きは心身が上ずった状態から始まってしまいます。必ず素振りの最後、斬撃の最後は呼吸と心身の鎮まりと刀の動きが一致するように努めてください。一致するまで待つことが大切です。
- 2018/04/06(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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貫汪館の海外の支部長は皆他武道の経験を持ち、貫汪館で稽古を始められた方です。しかし、どなたも新たな心で大石神影流剣術、無雙神傳英信流抜刀兵法、澁川一流柔術の稽古を始められるため現在教えられている現代武道や、過去に稽古された古武道の悪影響がありません。皆新たなことを吸収しようと稽古されるので、素直に全てを受け取ろうとされるのです。
一方、日本人の門人は武道の経験のあるなしにかかわらず、心にフィルターをかけて見るためか、ご自身の思いは別として素直にあるままを受け取れる方が少ないように思います。柔術の稽古をしたら(自分の思いで)力強く抑えよう、ひねろうという思いが表に現れてしまいますし、太刀打の稽古をしたら相手に近づくにつれて歩む速さが早くなり、剣術の稽古をしたら刃筋を狂わせてまで早く動こうとします。素直に全てを受け取ろうとしているのではなく、自分の思いの上に形の外面を合わせているのです。
新たな心にならなければ上達は困難です。
- 2018/04/07(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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かつて、ある流派の柔術の先生から海外においては柔術の公開セミナーは開かないほうがよいというお話をいただいたことがあります。こちらが形を教えているつもりでも、あえて技にかかるまいと抵抗し、また反対方向に動く方もおられるそうなのです。
自分の弟子を教える場合はそのようなことはおこらないかもしれませんが、十分に心しておかなければならない事です。
- 2018/04/08(日) 21:25:00|
- 柔術 総論
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初心者が方・手数の稽古をするのに、これが真剣勝負だとか命のやり取りだとかを第一に思うと、ガチガチに体も心もこわばってしまいます。したがってゆるゆるとした動きを中心に固まることがないように導いていきます。
しかし、手順を覚え稽古をするのにいちいち思い出す必要もなくなっているのに、形にこだわり命のやり取りであるということを忘れていたら、それ以上の上達はありません。
構えるときに、相手が目の前にいるのにただ上手に構えようと自分に集中していたり、実際の場合にはどのように相手が動くかわからないのにきめられた手順の動きを上手にしようとしていたら、それは武術ではなく、武術としての上達はないのです。
- 2018/04/09(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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左刀・右刀・当刀ともに抜付けは初発刀と変わることはありません。初発刀が動き始めから抜付けの最後まで一つの動きであるように、左刀・右刀・当刀も動き始めから抜付けの最後まで一つの動きです。相手に対して向きを変え、そこから抜付けの動きが始まるわけではありませんので注意してください。
- 2018/04/10(火) 21:25:00|
- 居合 業
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陰陽進退、虎一側、詰合の張り受けは受けるのだからと腕や握力に頼ろうとする気持ちがあれば受けることができません。刀の動きに体の動きがのらなければならないのですから無理な力を込めて腕を単独で使ってしまえば自己満足はできますが、かえって弱くなってしまいます。
いつも稽古で教えている通りにすればよいのですが、上手くいかない方は手の内をより柔らかく、肘は力を抜いたまま伸ばさず、体の開きに刀の動きを載せる事を心掛けてください。
- 2018/04/11(水) 21:25:00|
- 居合 業
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無雙神傳英信流抜刀兵法の太刀打「出合」「附入」で抜付けに打太刀と仕太刀が木刀を交えた後、仕太刀は前に出て打太刀を斬り、打太刀は後方に下がって仕太刀の木刀を受けますが、このとき打太刀は左足をさげ、それについで右足を下げ、また打太刀の切先は自分の右に向きます。この切先が自分の右に向いて受けることが難しい方の動きは、臍下丹田から体を開いて抜き付けず、鼠蹊部も緩んでおらず上半身で抜き付け体を固めています。そのため、後方に下がるのが難しく右足を蹴って後ろに下がっているのです。素抜き抜刀術で養った基礎をすててはなりません。
- 2018/04/12(木) 21:25:00|
- 居合 業
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ある方が、貫汪館で稽古できるようになったことも縁ががあったからですとおっしゃったことがあります。確かに私自身も無雙神傳英信流抜刀兵法の師である梅本三男貫正先生に師事出来たときも不思議な縁を感じましたし、澁川一流柔術の師である畝重實嗣先生に大学生の時に初めてお会いした時もまさしく縁でした。また、大石神影流剣術の師である大石英一先生にお会いできたのも不思議な縁であったと思います。
神話の上から言えば出雲大社の大神様が縁を結んでおられ、私自身も武道だけでなく、そうなるようになっていたのではないかと思えるような不思議な縁を授かっています。
しかし、求めることをしなければ縁がつながることもありませんし、縁をつなぐ努力もしなければ本来つながるべき縁であったものもつながらずに終わるかもしれません。また、縁があったとしても人の力をつくさなければ、つながれただけで、成就しないかもしれません。縁がつながり、また成就するように最大限の努力もしていかなければなりません。
- 2018/04/13(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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稽古で心と心がつながった状態にあれば、ことさらに相手の動きをよんだり、隙を見たりしなくとも、無念無想の内に自然に心に映ってきます。また、これを用いれば親子の心と心もつながり、人と人との間も適切に保たれていきます。
簡単に理解できる方法については既にお教えしているところですが、自らの心に、負けまい、劣るまい、勝とう、勝ろうという心があれば、相手と心はつながらず、和も存在しません。
深く深く求めてください。
- 2018/04/14(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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『よしの冊子』は松平定信の寛政の改革中に、その側近水野為長が柳営・世上の風評を聞くままに記したものです。
大嶋三左衛門の門弟である佐伯久米五郎が麹町貝坂で大弓の稽古を催した。久米五郎はもと武士で今は浪人か町人である。矢一手で青胴四文であり、揚弓場と同じように弓矢はかし出す。貴賤の別なく町人までいっている。その上、半的で賭的もある。博打のようでいかがわしい。
今のように武術が流行するので思いついたのであろう。風俗を乱す、もってのほかのことである。
このようなことはいつの時代でも起こるのではないかと思います。
- 2018/04/15(日) 21:25:00|
- 武道史
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『よしの冊子』に次のようにあります。
弾正殿が鈴木清兵衛(起倒流)を招いて、対面の上、自分は剣術ものである。剣術と柔らとの仕合ができるならば一度立合ってみたいといった所、鈴木は承知した。立合ったところ鈴木は一投げに投げられ随分狼狽したという事である。
面白い話です。
- 2018/04/16(月) 21:25:00|
- 武道史
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『よしの冊子』に次のようにあります。
羽生長門守家来に剣術の師匠があるが屋敷内の稽古で、夜八ツ時、八半時ころより稽古が始まる。近所では寝られないという小言を言っている。
今も昔も変わらず、気合を声に出す流派が町中に個人の道場を構えていたら同じことが起こるでしょう。
- 2018/04/17(火) 21:25:00|
- 武道史
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『よしの冊子』に次のようにあります。
北伴五郎は山の手で名高い槍の師匠であったが、心底がよくないため弟子が離れ、そのあと、森作左衛門の稽古場で取立(師範代)もしたが、それもよくなく、八丁堀の武士たちも離れ衰微していた。しかし、このごろは武藝が流行するので」弟子たちが世話をして槍の稽古が始まった。昔の稽古場は崩れてしまったので空地に菰囲いをして稽古を始めた。雨が降れば稽古はできない。
この師走は北伴五郎も賑やかなことになるであろうとのこと。
道場のはやりすたれはどの時代にもあることなのでしょう。
このころから江戸においては屋根付きの稽古場が一般的になっていたのかと思います。西日本では気候が良いせいか幕末になっても野外で槍の稽古が行われているところが多いように思います。
- 2018/04/18(水) 21:25:00|
- 武道史
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『よしの冊子』に次のようにあります。
この頃は武藝が流行するため今まで何もなかったところに稽古場などができ、バタバタと騒がしい。学問もその通りで大名の江戸屋敷の窓でずいぶんと素読の声が聞こえる。文武が盛んで教え散らかしている。
今の時代、こんな風に古武道が盛んになる大きなきっかけがあればよいのですが・・・。
- 2018/04/19(木) 21:25:00|
- 武道史
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『よしの冊子』に落し噺としてあげられていることで真実ではないでしょう。
武藝が流行するのである町人が何か工夫して商売にしようと思い木刀をこしらえて丸の内を「木刀 木刀」といって歩いた。大名の屋敷から「その木刀はいくらだ。」と声がかかり、「三文です。」と答えると、「それは高値なので一分二朱にしたほうがよい。」と答えた。値引き仕舞と思い、そのまま4.5間行ったけれど、取って返し「木刀を負けてあげましょう。」といったところ、窓の内から「まけた木刀はいらぬ。」と答えが返ってきた。
このころから、既製品の木刀の商いがあったのでしょうか。それともたんなるお話しでしょうか。
- 2018/04/20(金) 21:25:00|
- 武道史
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『よしの冊子』に次のようにあります。
鈴木清兵衛が松内蔵侯へ行き柔術を稽古したところ、鈴木は大いに負けて困ったという。ただし清兵衛も相手が諸侯でなければ当身で勝てたであろうが、諸侯であるためそのような失礼も出来なかったのであろう。
本当の話かどうか分かりませんが、先の鈴木清兵衛の話と言い、どうも大身には分が悪いようです。身分が高い者には勝ちを譲っていたのでしょうか。
この当時はどのような乱取りをしていたのかわかりませんが、当身をしなければ現在のような乱取りであったのでしょうか。ある程度のルールがあれば、この当時からすでに競技化が始まっているようにも感じます。
- 2018/04/21(土) 21:25:00|
- 武道史
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『よしの冊子』の若菜主計の話です。
青山やまぎしにいる若菜主計という浪人は名高い剣術遣いのようだ。顔より全身に古傷がある。いたって荒々しい流派で人々はこの若菜主計を恐れているそうだ。青山のあたりでも主計と言えば皆恐ろしがっている。けんかなどがあれば抜き身をとるので主計を頼みに行った。先年の米屋騒ぎ(打ちこわし?)の時に主計が出ていくと数十人の人たちはすぐにその場を引き払った。
この若菜主計がはじめた太平真鏡流は、幕末までの伝承はないようですが広島藩でも行われていました。若菜主計は随分と荒武者であったような感じを受けます。
- 2018/04/22(日) 21:25:00|
- 武道史
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『よしの冊子』に次のようにあります。
御先手の長田甚左衛門の子の六左衛門は武藝等は未熟であると言っているが、弓術は免許、剣術も免許、柔術も免許、鎗は免許ではないが数流派を使える。書物も少しは読めるようである。一向に自ら吹聴しないのはいたって実体者である。この度仰せ出された藝術書出にも書き出さないそうである。
時にこのような武士がいます。(武術で)得意なものは何かと聞かれたら、馬の沓を作るのが上手だと答えた武士もいます。
- 2018/04/23(月) 21:25:00|
- 武道史
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『よしの冊子』に次のようにあります。
上総あたりに人違いで母を切られたものがいた。斬ったものは人違いであったのですぐに立ち去った。斬られた者の息子は思い立って八丁堀の桃井春蔵の家に奉公し剣術を習った。その後仇がいるところがわかったので、暇を取り尼寺で中間として働いている者の所に至った。敵を討とうとしたところ仇はちょうど朝ご飯の準備をしているところだったので飯ひつを投げつけ、さらに煮立っていた汁の入った鍋を投げつけたので、掛かっていったものは火傷をおったけれどもひるまずに斬りかかった。仇は脇差を取り出し、互いに斬り合った。客殿でついに仇は切り倒された。敵を討った者の刀の鍔元には2.3寸の間に斬り込み傷があったそうだ。そののち桃井春蔵のもとへお礼を述べに行ったそうだ。
この当時、仇討はよくあった事かもしれません。神道無念流だけでなく、鏡新明智流も敵討ちに関係しています。
- 2018/04/24(火) 21:25:00|
- 武道史
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『よしの冊子』に次のようにあります。
武藝師範をする者に対し門人の名前と数を書きだすように指示があったところ鈴木清兵衛は門人二千七百人と書き出した。上役の思し召しはよろしからず、これほどの人数をどのように教えるのかとお沙汰があった。再び数を減らして届け出た。
この影響か一般に数を多く出したがる傾向があったが、50人くらいが良いという沙汰があったようだ。
一度や二度稽古した人も門人に数えるので、稽古した人数は2700人あったのでしょうが、実際に稽古を続けている者は少なかったのでしょう。
- 2018/04/25(水) 21:25:00|
- 武道史
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『よしの冊子』に次のようにあります。
上州真庭の樋口十郎兵衛というものは今年八十九歳という事であり、家代々剣術巧者である。この十郎兵衛も老人ではあるけれども巧者で、今でも仕合をし、なおかつ、他流試合をすると常々言うので弟子たちが差し止めている。小さな体であるが机上であり江戸でも近藤登之助屋鋪に稽古所を建て弟子を取り立てており、この度は武州八幡あたりに稽古所を新設するので碑文を書いてほしいと黒沢右仲に頼んだようだ。
真庭念流の樋口のことですが、長命であり、なおかつ、他流試合をしたいと考えているのですから気丈であったのでしょう。
- 2018/04/26(木) 21:25:00|
- 武道史
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『よしの冊子』に次のようにあります。
近藤石見森の屋敷で大御番剣術見分があった。野呂伊太郎という者が打太刀を打殺してしまったそうだ。そのほか居合で額を切られた者や木刀で鼻を折られた者など、ひどい怪我をしたものが5人いたようだ。石見は自分と同流の者には仕合をしようなどと言い、下の者は仕方なく荒業をするそうだ。石見は木刀で打殺された者は忠風で死んだのであり、怪我で死んだのではないといっているそうだ。
こんな乱暴な見分をする者もいたのだと思いますが、筆者は批判的です。
今の世でも、同系統の他流派の方に、太刀打の稽古は激しいので何度か指の骨が折れたと自慢する方もおられました。私達には無縁の世界です。
- 2018/04/27(金) 21:25:00|
- 武道史
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鈴木桃野の未整理の草稿を写したものといわれている随筆集『桃野随筆』に脇差の下緒についての記述があります。
稲葉閑斎が言うには脇差の下緒は帯に挟むものである。そのわけは挟まずにいると、道の途中で尿意を催した時に、汚れてしまうことがあるからという。両手がふさがってしまっているので如何ともしがたいのである。
- 2018/04/28(土) 21:25:00|
- 武道史
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『難波噺』は下総関宿藩士池田正樹が大坂城代の家臣として大阪滞在中に書きとどめた日記的随筆で、明和6年から安政3年までの記事が記されています。この『難波噺』に淀屋の刀剣について記してあります。
淀屋は宝永2年(1705年)、五代目の淀屋廣當の時に闕所になりましたが、その時の財産に刀脇差700腰とあります。いずれも折紙付と記してありますから、戸井要件を所持していたのだろうと思います。諸大名へ貸し付けていた金額は銀1億貫に上ると言いますから相当な富豪で、これらの刀脇差は、大名に関係するものかもしれません。
闕所前にのれん分けを受けていた牧田仁右衛門は店を出身地の伯耆国久米郡倉吉に開き、淀屋清兵衛と名乗ります。明治まで八代続きますが、多額の資金を調停や倒幕運動のために捧げつくしたと言われています。
- 2018/04/29(日) 21:25:00|
- 武道史
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『在阪漫録』は 大阪西町奉行として在阪した久須美祐雋が、大阪で見聞するところを安政4年から文久元年頃まで書き綴った随筆で、この中に長命痛・老人痛について記されています。
老人の腕が何となく疼むのを俗に老人痛などと言い、対外この痛みは40最後に生じるものなので、四十手などと世間では言う。
私は42歳よりこの痛みが起こり、様々な方法で療治したけれど治らなかった。48歳までは騎射もしたけれど、監察になってから2年ほど弓をしなかったがその後、再び射術をしようとしたが腕の痛みはやや収まっていたものの腕は萎えてしまい、弱手も引くことがかなわなかった。それで武技はやめたけれど、せめて居合でも抜こうと日々、三.四十本を抜いていたが再び腕の痛みを覚えたので居合も止めた。その後60歳になって大阪に移り、腕の痛みもなかったので居合の稽古を始め後には数を増やして日々、百五六十本ぬいた、またおおいひは三百五六十本抜いたこともあった。ところが風邪をひき発熱の後また腕痛が再発してしまい、居合の数も減らしたが日比腕痛は強くなった。
これを内山之晶が聞いて、奇役があり効くので試してみればよいといった。それは干瓢一味を黒焼きにして朝夕白湯で服すのである。これを用いたところ十四五日で少し痛みが軽くなり、二か月くらいでずいぶんよくなり二か月半でよくなった。家来の平野もこれを試したが、三十日で治った。
干瓢は常に食べるものであるが黒焼きにしなければ薬効はない。
この長命痛・老人痛がどのような病気かわかりませんが、このような症状を持つ方は試してみる価値がありそうです。
以上で江戸時代の随筆は終了します。
- 2018/04/30(月) 21:25:00|
- 武道史
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