明けましておめでとうございます。本年もよろしく願い致します。
年の初めにあたり、貫汪館で稽古される皆さんに一つだけお伝えしたいと思います。
「極意は汝が内にあり。」とは、1年半前、ある神社で、ある大神から授かった御神示です。
無雙神傳英信流抜刀兵法、 澁川一流柔術とも極意は既に皆さん一人一人の内に存在します。それは作るものでもなく、他に求めるものでもなく、師に教えられるものでもありません。
既に己の中にあるのです。深く静かに見つめるときそれは現れてきます。慌てず、焦らず、静かに求めてください。決してなくなることはありません。
ただただ、ひたすら求めてください。
- 2008/01/01(火) 00:49:15|
- 居合・剣術・柔術 総論
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随分前、ある武道をされる方から何故古武道は長い間をとるのかと質問されたことがあります。この場合の間とは時間的な間の事です。その武道では対峙して間をとることが無いようです。
時間的な間について、あくまで無雙神傳英信流抜刀兵法と澁川一流柔術について述ます。
はじめに無双神伝英信流についてですが全ての武術はそうなければならないのですが、特に居合はいついかなる時にでも、相手に対応できる武術でなければなりません。そういった意味から専門的に居合の稽古をされたことがない方が演武や稽古において時間的な間をとることを奇異に感じられた事はもっともなことであろうと思います。しかし、素抜き抜刀術(一人で行う居合)において間をとることには以下の様な意味があります。
初心者にとって立姿勢は勿論のこと座姿勢においても動きの変化の後に(立姿勢から座姿勢に移ることも含めて)心も体も静まることは難しいものです。その静まりようは水面が少しの変化も無く鏡のような状態になっていなければなりません。業を身につけるため初心から非常に高度なものを要求しています。勿論初心者にも随分稽古した者にも完全にできることは無いのですが、その段階において最高の状態を求めています。その状態に二呼吸以内に至らなければなりません。
次に想定の問題があります。以前述べたように無双神伝英信流においては敵の殺気を感じて、まだ不十分な敵にこちらから先に抜付けるという想定はほとんどありません。多くは敵が自分に斬りかかるのに対して抜付けるという想定です。したがって相手が動き始める前に動くことは無いのです。
次に太刀打、詰合といった二人で行う形について述べます。太刀打は素抜き抜刀術(一人で行う居合)と違って距離の間をとって対峙します。しかし、太刀打と言えども時間的な間をとって前に進みます。これは敵の状態を知ること無しに前に進むことは出来ないからです。形は手順が決まっていますが、手順が決まっていながら全てに対応できる動きを内包していなければなりません。間をとって対峙している間に相手の心、動きの偏り、全てを読まなければなりません。さらには敵のいる場所の地の利、天の利、見えない得物まで。時間は瞬時であるに越したことはありませんが、それらを読むこと無しにただ、形どおりに抜き合わせてすぐに斬りに行く稽古をすれば最後の部分の技のみの稽古をしていることにしかなりません。たとえば、打太刀(負けるほう)がこれらのことをなさず、すぐに斬りに行けば打太刀はたんに負ける稽古をしているに過ぎません。また、これらのことは前に進みながらも行われています。常に状態は変化するからです。
詰合においては、座して行う形の全ては素抜き抜刀術(一人で行う居合)同様、間は詰まっています。打太刀から先に抜きつけますが、これとて太刀打同様全てを読んだうえでなければ抜付ける事は出来ません。
次に渋川一流柔術においてですが、今まで述べてきた無双神伝英信流と同様、初心者はであっても対峙した時、心も体も静まることなしに形を始めることはありません。通常、上位者が受(技を掛けられる者)をとりますので、受は下位者の静まるのを待って仕掛けなければなりません。そうでなければ技は技でなく技が掛かることはありません。体が静まっていないのに形が出来てしまうのは受が受をとっているからであって、けっして出来ているわけではありませんし、そのような動きを合わせる稽古をしていては下位の者の上達はありません。
上位者同士の稽古にあっては太刀打に述べたことと同じです。相手を読むこと無しに形が始まることはありません。柔術は得物を持った敵に素手で対応できる動きを養う武術です。「打込」の形における懐剣も本来は懐から急に取り出されるものですし、「鯉口」の形も急に抜きつけられるものです。
天地をよむ事に付いては明治神宮の野外での演武に出場された方はよくご理解いただいていると思います。
無双神伝英信流においても渋川一流においてもこれらのことを全ての動きに要求するために時間的な間です。よく工夫されてください。
- 2008/01/02(水) 14:28:51|
- 居合・剣術・柔術 総論
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今日、ZRX1200Sに乗り片道2時間かけて、ある神社に御参りに行ってきました。その神社は不思議と心が静まり、その場にいるだけで稽古になる場の力を持っています。
1週間近くバイクに乗っていなかったのですが、やはり、バイクに載ることは稽古になります。自分の全身とバイクとが一つになっていなければ乗っているといえず、そのために体を使うことは稽古以外の何物でもありません。また、心を散漫にすることは即、死につながることですので、心の状態も刀を扱う時と何らかわるものではありません。
針仕事もそうなのですが、小手先で針を使うのではなく、体で針を用います。そのような動きも、針を運ぶ時の心のもちようも全てが稽古になります。
さて、昨日半日掛けて、新春にふさわしい柄のバッグを作りました。末広がりです。表側と裏側の写真を載せます。
昨年作ってまだ紹介していない作品、紅白です。これもおめでたい柄になりました。これは付け下げの着物の反物を安く購入して作りましたので、いくつか同じような作品があります。無地の部分も多かったのですが無地の部分はバッグの裏地に用いました。
次の作品は紫色の生地で少しきついくらいの色だったのですが、しわを伸ばす時あやまって水をこぼし、その部分だけ色合いが少し変わったので、思い切って全部見ずにつけたら 、非常に良い色合いに落ち着きました。年末にお世話になっている方に差し上げました。線が上下に入っているので、バッグの横の縫いあわせで線がずれないように注意しました。
最後に少し明るすぎるくらいの夏向きの紅型です。これも同じ生地を何枚か買い、同じような柄のバッグを数個作っています。
渋川一流柔術の稽古始は1月5日(土)午後2時から、場所はいつもの廿日市市スポーツセンター武道場です。無双神伝英信流抜刀兵法の稽古始は1月9日(水)午後6時半から、廿日市市立七尾中学校武道場です。以後稽古は平常通り行いますのでお間違いになられないで下さい。
- 2008/01/03(木) 22:11:46|
- 居合・剣術・柔術 総論
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渋川一流柔術の初段の論文を紹介します。実技の試験は随分前に終わっていたのですが論文が苦手で書き上げるのに時間を要しました。小学校6年生から稽古し、中学三年生まで努力して、初段になりました。
間合について
間合とは自分と相手の距離、空間のことを言う。間合は礼を考えるうえでの重要な観点でもある。
間合をどう処理するかは勝敗の別れとなる。物理的には相手と自分との距離は同じ1メートルであったとしても、「相手にとっては遠く、自分には近い」という状況を作り作り出すことができる。
間合とは相互の様々な要素が絡み合って一つの間が生まれる。自分の間合を保ちたいと思っても相手も常に変化する。常に自分に有利な間合を取ることは難しいことだが、自分に有利な間合を取れるようにすることが大事である。自分に優位な間合を取るためにはまず、自分の間合を知ること。稽古をつみ体に染み付かせておくことが大切。自分の間合を理解することにより、相手に対して有利な間合が取れるようになる。
間合には近間で絶対的間合というものがる。絶対的間合とは、お互いが詰め寄り、何か変化、動きがあれば、一瞬のうちに飛び込んでいくぎりぎりの間合のことである。これは張り詰め糸が切れる一瞬のような緊張感のある間合の事。絶対的間合において勝負している時には動きが無くとも周囲を緊張感が包み込む。
間合とは一つではなく多くのとりかたがある。
私は間合の大切さを学んだ。自分に有利な間合を知り、稽古を重ねて体にしっかり染み付かせることが大事と言うことが分かった。これからも稽古を重ね、自分に有利な間合を見つけ、どんな相手に対しても自分に有利な間合を取れるようにしていきたい。
無双神伝英信流抜刀兵法の稽古始は1月9日(水)午後6時半から、廿日市市立七尾中学校武道場です。以後稽古は平常通り行いますのでお間違いになられないで下さい。
- 2008/01/05(土) 10:52:53|
- 昇段審査論文
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昨日、渋川一流柔術の稽古始を行いました。皆さん良い稽古をされておられたように思います。
初心者の方は静かに丁寧に稽古をしていただいておりますので、自分の体、動きの歪みが自覚できるようになっておられます。これからも焦ることなく、静かに丁寧な稽古を続けていただきたいと思います。形だけを覚える為の通り一遍の稽古をし、歪みが分からないまま稽古を続けてしまうと、それが当たり前のものになってしまって、違和感を覚えなくなってしまいます。こうなってしまっては本来の動きに戻すためには大変な苦労を要しますので、決して道を間違われないようにしてください。
一つだけ気になったところを述べますと、相手との接点は相手の中心を取る為のものであるということを忘れないようにしていただきたいと思います。
稽古が進んだ方の動きを見ていて気になったのは「打込」の際に相手の動きが読めていないために心が焦り、体が遅れる所です。いつもお話していますように渋川一流にあっては素手で、剣の動きに対応できることを技の目標としていますので、剣の動きが読めなければ柔術になりません。このところをよくよく工夫していただきたいと思います。
股関節(鼠径部)が弛まないために上半身のみで技を掛けようとして技に重さが無い方も、子供も大人も含めて散見されました。上半身は神経がいきわたり、無理無駄な力を抜くことは出来ても、下半身はただ固めてしまう傾向の方は多いようです。よくよく工夫されてください。
無双神伝英信流抜刀兵法にあっては座法の稽古から始めますので、座法がある程度出来た方は形において股関節(鼠径部)の違和感には気づきやすいと思いますが、再度確認してみてください。
貫汪館ホームページの無双神伝英信流抜刀兵法と渋川一流柔術のそれぞれの行事のページに平成20年度の行事予定を載せました。未確定のものもありますが、ご確認ください。 無双神伝英信流抜刀兵法の稽古始は1月9日(水)午後6時半から、廿日市市立七尾中学校武道場です。以後稽古は平常通り行いますのでお間違いになられないで下さい。
- 2008/01/07(月) 00:06:17|
- 柔術 総論
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今日の渋川一流柔術の稽古では、数人の方の「受」の動作が一度限りのものになってしまっており、自ら不自由な動きを作り出してしていました。
「受」はしっかりと「捕」に仕掛けなければ「捕」の稽古にならないことは言うまでも無いのですが「受」は仕掛けを一度限りのものと考えて仕掛けてはなりません。形の上では一度のみの仕掛けでそれを「捕」が返すのですが、実際の場面で「捕」の動きが不十分な場合は次から次へと仕掛けるのが当然で、不十分な「捕」が技を返すことはありえません。
一度しっかりと仕掛ければよいと考えるために、仕掛けた後にいかにも安定したと錯覚するような次の動きが出来ない体勢を自らが作っています。これでは稽古を通じて自分自身で動けない体を養っているのと同じ事です。稽古は「捕」のみが行うものではないと言うことを理解してください。
これまでも何度か無双神伝英信流抜刀兵法の稽古で言及してきましたが、形が、その動きしか出来ないような自分を作るのであれば、形稽古には全く意味がありません。形の手順は決まっており、その手順をふみながらも同時にどのようにでも変化できる動きを内包しなければならないのが形稽古です。したがって、たとえ手順を間違ったとしても次から次えと自然に変化出来なければならないのが形稽古です。
安易に考えてはなりません。
貫汪館ホームページの無双神伝英信流抜刀兵法と渋川一流柔術のそれぞれの行事のページに平成20年度の行事予定を載せました。未確定のものもありますが、ご確認ください。 無双神伝英信流抜刀兵法の稽古始は1月9日(水)午後6時半から、廿日市市立七尾中学校武道場です。以後稽古は平常通り行いますのでお間違いになられないで下さい。
- 2008/01/07(月) 23:58:37|
- 柔術 業
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今日はくるみボタンの紹介です。
くるみボタンは自分の好きな柄でボタンを作ることが出来ます。大きいものから小さいものまで作れますが、写真の大きいものが直径22mm、少し小さいものが18mmです。
このくるみボタンは1年半前に浴衣のはぎれで作った夏用のバッグのあまり布を保管しておいて花柄の部分と風鈴柄の部分で作ったものです。桜の模様が風鈴の模様です。あまった布を捨ててしまうのがもったいないので何か出来ないかと思っていたところ、門人の女性に教えられ作りはじめたものです。
裏側が写っているくるみボタンが二つありますが、二つのくるみボタンをヘアゴムで結んでいます。女性が髪をまとめるのに使うことが出来ます。
本日、18日の中國新聞の朝刊の17面の「わたしの作品」のコーナーに、がまぐちバッグを載せていただきました。御紹介します。
貫汪館ホームページの無双神伝英信流抜刀兵法と渋川一流柔術のそれぞれの行事のページに平成20年度の行事予定を載せました。未確定のものもありますが、ご確認ください。 無双神伝英信流抜刀兵法の稽古始は1月9日(水)午後6時半から、廿日市市立七尾中学校武道場です。以後稽古は平常通り行いますのでお間違いになられないで下さい。
- 2008/01/08(火) 20:10:50|
- 未分類
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本日の無双神伝英信流抜刀兵法の稽古の気づきを述べます。
初心者の方がやっと、緩むとはどういうことなのかを理解し始められました。いままで、動きの中で緩むということを経験したことが無いので、手探りで緩めていたつもりが関節を曲げていたに過ぎないということが理解できたと思います。緩むことができなければ、刀はどうしても腕力で操作してしまいます。たとえ自分では力を使っていないつもりでも、それはゆっくり動いているに過ぎず腕力を用いていることにかわりはありません。これをきっかけに自分の体をより感じられるようになっていただきたいと思います。これでよいと言うことはありませんのでより深く、より深く。
技がある程度上達された方に、通し稽古をしていただき大森流と英信流表を3回ずつ抜いていただき、奥居合の2本目まで稽古、太刀打も手直しをしながら通しました。今日は久々の稽古ということもあってか呼吸が浅い状態での動きが多かったように思います。いくら体が緩んでいても、呼吸が浅ければ重心は浮き刀に力は伝達されません。しっかりと呼吸を工夫していただきたいと思います。
貫汪館ホームページの無双神伝英信流抜刀兵法と渋川一流柔術のそれぞれの行事のページに平成20年度の行事予定を載せました。未確定のものもありますが、ご確認ください。
- 2008/01/10(木) 00:15:09|
- 居合 総論
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無双神伝英信流抜刀兵法の稽古では、思い込みを避け常に今現在の自分の動きを見つめ直す習慣を身につけていただきたいと思います。
初心者の方が歩法の稽古をするとき、以前に比べ、無駄な力を抜いて歩いているように自分では思っても、さらに深く自分を見つめればいたるところに無理無駄があることが分かると思います。これでよいだろうと思い込んだときに、自分の中に甘い基準が確立され、そこから抜け出すことが出来なくなります。
随分稽古された方の中にも抜付けた時の重心の位置や体の角度が思い込みによって、しかるべきところに無い方もおられました。刀を持たずに動いていただき、解説すると体で感じることが出来たようですので、刀を振るとはこういう事という思い込みが自分自身をくづしていたようです。
私が指摘したところは、冷静に自分自身を分析してください。
それから鞘手ですが、これも随分と自分自身のの思いで鞘手を狂わせている方が多いようです。何人かの方には稽古の時に時間をかけ手を取って詳細にお教えしていますが、正しい鞘手が出来ていれば、絶対に肩や上腕に力みが入ることは無く、鞘引きをしても体は緩んだままの状態にあります。鞘を送ると言う思いが体を狂わせ、結果として異なった手の内になっている方が多いようです。肩や上腕に少しでも無理無駄な力みが生じた時は鞘手の動きが間違っているということですので、再度見直してください。
貫汪館ホームページの無双神伝英信流抜刀兵法と渋川一流柔術のそれぞれの行事のページに平成20年度の行事予定を載せました。未確定のものもありますが、ご確認ください。
- 2008/01/10(木) 23:52:19|
- 居合 総論
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特に初心者の方に言えることですが、自分の感覚ほどあてにならないものはないと考えてください。
今日の渋川一流柔術の稽古では初心者の方に師範代につききりで指導していただき、素直で無理のない有効な動きが身につき始めていました。しかし、二人の初心者の方は上達していると言う実感は持てなかっただろうと思います。
それは当然のことで今まで持っていた要所要所での体の強張りや緊張を排除した結果、自然な動きにかわり、技が有効になっているのですから自分自身に力がこもっていると言う実感はありません。いままで持っていた「やっている」という実感は筋肉の無駄な緊張に過ぎなかったからです。無理無駄な緊張が無くなれば実感は薄くなり、心もとなくなると思いますが決して実感を求める稽古をしてはなりません。当分の間、可否を判断するのは指導者であって自分自身ではありませんので、しっかり指導者に耳を傾けてください。
稽古がある程度進んだ方でも体の緊張がなかなかとれない方がおられますが、日常生活の中で体の緊張をとくことを心掛けてください。コップを持つ時、箸を持つ時、着替えをするとき、稽古の機会はいくらでもあります。道場内だけで直そうとするととても時間が足りません。これまでの生活で養ってきた凝り固まりですので生活の中で直す事が稽古の近道です。
また、くるみボタンを作りました。猿蟹合戦のバッグのあまりの布から柄をとりました。蟹と蜂です。くるみボタンは作り始めるといくつでも作りたくなります。ボタンのほとんどが今日ハワイへ旅立っていきました。
貫汪館ホームページの無双神伝英信流抜刀兵法と渋川一流柔術のそれぞれの行事のページに平成20年度の行事予定を載せました。未確定のものもありますが、ご確認ください。
- 2008/01/12(土) 21:50:17|
- 柔術 総論
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本日、上田祐定刀匠を備前長船の備前長船日本刀傳習所に尋ねました。上田刀匠については何度かご紹介いたしましたが、古刀と同等の地鉄を目指され、砂鉄から自家製鋼し日本刀を打たれる刀匠で、その伝統を後世に残すべく多くの弟子を養成されています。春には門人11名になられるとの事でした。
門人の練習用の炭代は御自身で打たれた玉鋼の包丁を販売することにより得られており、門人の習う姿勢も師匠にこたえるべく、自分に妥協を許さず、師匠に素直に真剣そのもの。武術の稽古もそのようになければならないというお手本のようです。機会があれば一度見学にいかれることをお勧めします。見学されれば自分がどのように修行しなければならないかと言う答が見つかると思います。
さて、今日は昨年の夏に新にお願いした刀の焼入れまでの工程が終わられたので、刀を見せていただくために訪ねました。
上田先生がご自身の
「刀鍛冶の日々」(←クリックしてください)というブログに
「30数年の刀工生活の成果を妻に見せ、今日まで支えてくれた事に感謝する。刀工生活最高の日である。」
と書かれているように、先生が全身全霊を用いて打ってくださった大作の刀であり、刀には言うまでもなく既に魂がこもっていました。構えた瞬間に体に通じるものがあり、非常にありがたいことであり、終生の修行に使わせていただく刀になると思います。
刀が研ぎあがり、拵の作成まで、まだまだ日数はかかりますが、新たな刀にふさわしいよう現在稽古に用いている、やはり上田先生に打って頂いた2尺8寸2分の愛刀での現段階での稽古の仕上げをしなければなりません。
- 2008/01/13(日) 22:58:09|
- 居合・剣術・柔術 総論
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今日は山口県にある石城山に行ってきました。石城山には無双神伝英信流抜刀兵法の師である梅本三男貫正先生がいつも奉納演武をされた神社があり、私もよく連れて行っていただきました。
また、御神名は伏せますが、この石城山にある神社のうちの一つのお社の御神剣と同じ鋼で作られた大神の分御霊である剣を4年半前にさる縁により授かり、我家の神棚に御神剣としてお祭してあり、私にとっても石城山は武術の上で非常に縁のある山です。
さて、石城山は歴史学上、神籠石で有名な山です。神籠石とは山の中腹から8合目あたりを帯状に取り囲む石積みを言いますが、神域であったという説と山城であったという説があり、現在では山城説が有力のようです。神籠石の写真を御覧下さい。
現在では土に覆われて見えない部分も多いのですが、このように露出している部分もあり、はっきりと見ることが出来ます。
また、龍石という龍が口をあけたような形の岩もあり、古代の城跡であったとしても宗教的な色彩は濃いものであったように思います。写真は龍石です。
これらの神籠石には山口県教育委員会と光市教育委員会による説明板が立てられており、山城説をとっています。説明板の写真です。
石城山の最高峰の高日ケ峰からは四国、九州を含め360度を見渡すことが出来ますが、地理的に新羅が攻めて来たのを防ぐ為だけの城だと考えるには無理があるように思います。新羅から攻めてくるには当然船を用い、船であれば陸路を通らずに瀬戸内海を直接近畿地方に行っても良いわけですし、たとえ陸路を取ったにしてもわざわざ、敵が籠る備えのある山城を攻略するよりも素通りして平野で戦えばよいのですから。
山城であったとしても、そこが古代からの神域であったから守ろうとしたと考えるほうが自然なように思います。
1時間ばかり歩いて約1周しましたが、最後に瀬戸内海の見える神社で景色を眺めて帰りました。非常に心が落ち着く山ですので、皆さんも一度訪ねてみてください。写真は境内に咲いていた桜です。
- 2008/01/15(火) 00:32:16|
- 未分類
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無双神伝英信流抜刀兵法の稽古では太刀打、詰合、大小詰、大小立詰といった二人で組んで行う形よりも一人で行う素抜き抜刀術の形稽古に時間をより多く割きます。
したがって、素抜き抜刀術の稽古の質がよくなければ太刀打、詰合、大小詰、大小立詰となどの二人で組んで行う形の稽古の質はそれ以上のものにはなりえません。
稽古の最中に、動きに質のよくなった人には「今の動きで良いです。」と声をかけますが、それを「今の外形で良いです。」とかってに解釈して、先ほどの外形を再現しようと試みてはなりません。以前も述べましたが、形稽古は、自由自在な動きを身につける為のものであって形を身につけようとするものではありません。そして形を身につけようとしたしたが最後、それは武術とは程遠い不自由なものになってしまいます。
外形は無理無駄の無い調和の取れた動きについてくるものであって、武術の稽古は外形を求めているのではないのです。よく工夫してください。
今日の稽古の気付きを述べました。
- 2008/01/16(水) 23:07:48|
- 居合 総論
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今日の無双神伝英信流抜刀兵法の稽古では初心者の方を2名重点的に指導いたしましたが、それぞれに特徴があり指導の内容も異なったものになりました。
2人ともに礼法、歩法、刀の構え等の稽古をしましたが、年長の方は体を使う繊細なお仕事をされているためか、動きの修正をすると、どこが悪いのかを感じ、自分自身で見つけられ無理無駄の無い動きへと本質的に変化していかれました。今日のような稽古をこれからも続けていただきたいと思います。
もう一人の方は中学生ですが、年長者に比べ体を用いて繊細な動きをした経験の量が圧倒的に少ないため、ややもすれば、感じることによって自分の動きの質を変化させるのではなく、形を覚えてそれを繰り返そうとする稽古となりがちでした。
何度も述べているように、座した時、歩く時、礼法の時の体の角度や肘の位置、手の位置等を覚えてそれを再現しようとするのは意味のないことどころか不自由な体を作り上げてしまう基となってしまいます。そういった外形は無理無駄なく調和の取れた動きになれば自然とそうなるものですから、けして外形を作る稽古はしないで頂きたいと思います。
初心の段階で意図的に形を作る稽古をしてしまったら、むしろ稽古はあだにしかならず、後々上達することはありません。覚えるのではなく違和感を感じる稽古をすることを、よくよく心してください。
初心者から中級者の仲間入りをされかけている方、初心の頃の稽古を忘れ、一つ一つの動きが荒くなり始める時期です。ここでコースアウトしてしまったら、もともこもありません。一つ一つの動きを細部に至るまで再確認していただきたいと思います。刀をもたない道場外での稽古を大切にしてください。
- 2008/01/18(金) 00:02:36|
- 居合 総論
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渋川一流柔術では、相手がすれ違いざまに抜付けに斬り付けようとするのを捕る形のグループを「鯉口」といい、上段から斬り下ろして来るのを捕る形のグループを「居合」と言います。
今日はまもなく中極意を授けねばならない二人の方が稽古していましたが、随分難しそうにされていました。
最も大きな原因は二人とも刀が使えていないという所にあります。「鯉口」で抜きつけようとする「受」の木刀の握りが強く体ががちがちになっており、あれでは抜付けることは出来ませんから、当然ながら相手の抜付けの初動を利用して技を掛けることは出来ません。また、「居合」において「受」の斬りおろしも不十分であるため、「受」の動きを利用して技を掛けることも、相手の動きはじめにのって技を掛けることも難しいと思います。つまり形の用件を満たしていないのです。この段階の稽古に至っては、お互いに刀を扱うことになれる必要があります。自分で時間を見つけ、居合の稽古をされることを望みます。
子供達の意治稽古において大人の方に懐剣を用いていただき、突き、斬りかかって頂いています。もうよくご存知でありますが、この稽古の時けして妥協して技を掛けさせないで下さい。子供達の多くが、突き、斬りかかる動きをかわし内に入ることが出来るようになっているのですが、相手の手をとった瞬間に技をを掛けようとして居着いています。このいついた状態を看過して容易に技を掛けさせていると、「これでいいのだ。」と思い、万が一のことが起こった場合に子供達は本当に対処することが出来なくなってしまいます。心を鬼にして稽古をつけてやってください。
初心者の大人の方の稽古では、無理無駄な力を抜くことに苦労されていたと思います。体を力ませ、力を用いねばかからない状態であれば、無理をして技を掛けようとせず、どこに原因があるのかを見つけてください。正しくない動きを重ねてしまえば「習い性となる。」の言葉どおり抜け出せなくなってしまいます。
- 2008/01/19(土) 20:40:12|
- 柔術 業
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柔術を稽古される方が今年に入って二週ほど連続して居合の稽古に来られ、木曜日に稽古した正座の姿勢は形の稽古に移れるほどレベルが高いものになっていました。しかし、今日の柔術の稽古では正座の姿勢は完全に後退し元のレベルに戻っていました(過去と同じという事ではありません)。
居合の稽古に来られる方には常々お話しているのですが、一度出来たものを体に残った残像を基に再現しよう、あるいは、あの時の感覚を再度自分の体に再現しようとするのは駄目な稽古なのです。
日々、体調は変化し、自身の体の感覚も変化します。そのときの気分や感情によっても全く異なった状態にあります。自分の体でありながら、全く同じ時と言うのは一度もないといってよいのです。したがって過去の感覚を再現しようとしても基準となる自分自身が変化しているのですから不可能なことなのです。「あの時できたから、あのように。」というわけには行きません。
どのように動くか、どのように動かないかは既にお話してあります。その手引きにしたがって動き、決して過去の自分にに惑わされないように心してください。
- 2008/01/19(土) 23:11:34|
- 柔術 総論
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昨日と本日、無双神伝英信流抜刀兵法九州支部長が稽古に帰ってきましたので、3月から九州支部指導部長となり九州に赴かれる方との二名に特別稽古を致しました。昨日は手直しをしながら大森流・英信流表を約3時間通し稽古。本日も手直しをしつつ約3時間の稽古をし、大森流・英信流表の通し稽古も100本を超える数を抜きました。
稽古のときにも十分にお話したと思いますが確認のために再度記します。
無双神伝英信流の稽古においての上達とは無理無駄がなくなることを意味します。したがって上達すればするほど、「刀を抜きつけた。」「刀を振った。」という実感はなくなっていきます。私が手直しをし、そのとおりに動かれ、私の目から見て質の向上が見られたとしても皆さんはすぐに実感として質の向上を感じることは難しいと思います。何故ならばより質の高い動きには筋肉の無駄な緊張はありませんし、抜付けも斬撃も威力は大きくなったとしても自分で刀を止める訳ではありませんから当然その反動もありません。「自分自身ではよく分からないが、それで良いと言われる。」まさしくそれでよいのです。自分で分かれば自ら道を歩むことが出来るのですから導く師は不要です。分からぬ故に師匠が導きます。実感がないからといって決して自分自身で実感を求め、かってな方向へ歩まないで下さい。細い道をそれてしまえば、後戻りは困難を極めます。
次に座法について述べますが、座法は形の大元であり座法が出来なければ、その後どのように動こうとも基礎のない建物のようにもろいものです。崩れるしかありません。崩れようとするものを筋肉の緊張によって補強してしまえば、見た目はしっかりしていても武術として動けぬ体に過ぎないということも忘れないで下さい。また、いくら動かぬ時に座法が出来ようとも、動き始めてしまえば全く異質な体の備えをするようでは無双神伝英信流における業とはなりえません。抜付けようと、斬撃しようと、血振るいしようと、全ての動きは座している状態と全くかわりません。また、正座も立膝も立姿勢さえも本質からすれば異なるものではありません。座法の稽古は道場でなくてもどこにおいてでもなすことが可能です。たとえ椅子に座っていようとも、またその本質は変わるものではありません。姿勢を作ることなく、そこにあるだけ。よくよく工夫されてください。
動きを乱すものは多くの場合己の心だということも知っておかねばなりません。たとえば抜付けの鞘の動き。初発刀の抜付けは前方の我に斬りかからんとする敵の左側面に抜付けますが、抜付けは前方への動きではなく我が体の意識の前後への広がりです。したがって抜付ける時の鞘の動きは自分の中心を中心として刀の反りのままに素直に後方にさがります。小尻が自分の右のほうに出てしまうということはありません。そのような抜付けは抜いた後に両肩を使ってその動きによって刀を動かしているに過ぎず、抜き、斬るという2動作になり居合とはなりえません。これは自分のより強く抜付けたいという思いがそうさせるのであって、その思いを無くさねば本当の抜付けは出来るものではありません。動きの歪みはそのような自己の思いから生じてきます。「強く」「速く」「勢いよく」といった思いが、動きのひずみを生み出しているのです。技術としての無念無想を忘れてはなりません。
- 2008/01/20(日) 23:20:21|
- 居合 総論
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無双神伝英信流抜刀兵法では、素抜き抜刀術でも太刀打や詰合といった二人で組んで行う形でも稽古において絶対に忘れてはならないことがあります。
それは、自分がどのような状態にあろうとも、その瞬間その瞬間はそこにあるだけということです。どういうことかというと想定によって形の手順は決まっており、それを変えることはありませんが、抜付けの刹那も斬撃の最中も、あらゆる状態において、相手が変化したらそれに応じられる体勢になければならないということです。
形稽古は決まった手順を繰り返すために次の動きが分かっており、ややもすればその手順どおりにしか動けない体勢を作ってしまいがちです。しかし、それでは自由自在な武術である為の稽古にはなりえず、かえって動けない体を作ります。
たとえば初発刀では前から我に斬りかかる相手の左側面に抜きつけますが、無双神伝英信流において細川義昌先生が抜付ける箇所をこめかみとか手首といったように限定されて教えておられないのは動きの中で如何様にも変化できる稽古のためです。したがって初発刀は相手がこのように変化することも想定できるので、このような換え業をも稽古し・・・左刀は・・・などということは無双神伝英信流にはありません。それは形稽古において常に自由であるからです。したがって一番分かり易い例でいうと「横雲」と「向払」は別物ではないのです。あらかじめこのように動こうとして動けば別物ですが常に自由である形稽古からすれば同じ物なのです。
太刀打や詰合において時々、待つべき打太刀の私が先に斬りかかる事がありますが、これは遣方の稽古をされる方がそのようにしか動けない遣方をされる場合です。意地悪をしているわけではなく、心と体の歪みをお教えしているのです。
素抜き抜刀術では相手がいませんのでそのような教え方は出来ませんが、自分自身が今の動きはと常に感じておれば正すことが出来るものです。
武術の形稽古において自由自在を求めるとは、どういうことか工夫を怠らないで下さい。
- 2008/01/21(月) 23:04:01|
- 居合 総論
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昨年11月に友人に自作の木刀を2振り送っていただきました。その木刀が非常によく出来ており封を開けて手が触れた瞬間に「これは違う」と思えたほどです。すぐに腰にとり抜付けて見ましたが、居合刀はおろか上出来の真剣と拵え以上のバランスと握りのよさです。岩手県宮古市の櫓櫂職人のもとで削ったものだということですが、このようにすぐれた木刀を持ったのは初めての事です。いつも家で身近においており、気になったときには腰にとるのですが木刀が私の至らぬところを教えてくれます。
稽古の道具は非常に大切で何でも良いというわけではありません。勿論使い方も重要なのですが、「道具が業を導き出す。」ということもあります。
皆さんが使っておられる稽古着、あまりにごわごわしたものだと体の感覚がそちらに奪われ自分の体の感覚が鈍くなってしまいます。身にまとい何の違和感もないものであれば自分の動きを感じ易くなります。居合の角帯もそうです。しめ方が重要なのは勿論ですが、素材や織り方によって抜付けの感覚は異なります。
稽古に用いる居合刀は言う必要もないと思います。皆さんには濃州堂の居合刀を使って頂いていますが、特に柄は特別に注文して拵えていただいています。
真剣の鞘にも強く感じたことがありました。鞘は代え鞘を作っていますが、ある職人さんが作った鞘はとても調子が良く抜付けがかわります。
六尺棒にしても十手にしても同じ事です。稽古用の分童や鎖鎌は自作しなければなりませんが、上手く出来たものはやはり業を導き出してくれます。反対に下手な物を使うと業の質は落ちてしまいます。
ただ、高価な物が良いというわけではないので、誤解がないようににして下さい。
- 2008/01/23(水) 00:32:52|
- 居合・剣術・柔術 総論
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「手癖が悪い」 別に盗み癖があると言っているわけではありません。無双神伝英信流抜刀兵法の師 梅本三男貫正先生が門人を指導されるときによく使われていた言葉です。
人間は手先が器用であり、指や手首が非常によく働きます。しかし、無双神伝英信流にあっては、「肚で抜き肚で斬る」という言葉でも示したように体の中心を使うことを良しとし、末端を使うことを良しとしません。
相当に稽古を積んできた方でも知らず知らずのうちに動きが崩れ、鞘手で指先や手首を使おうとし、抜付け、斬撃においても手首や指を使おうとします。これは手先や指先が器用で他の部分より感覚がより発達しているために起っていることですが、その弊害については稽古のときにお話し、どのようになすべきかを指導していますので、ここでは詳説しません。「肚で抜き肚で斬る」ためには技術としての「無念無想」が不可欠です。ああしよう。こうしようと思えば必ず手先が働き、体にひずみが生じます。
これと同様「背筋を伸ばし」「腰を入れて」「脇をしめて」などという思いのもとに体を動かすことも、末端を使っていることにほかなりません。
調和のとれた無理無駄の無い動きのためには手先の業を使ってはなりません。もう一度自分の動きを見直してください。
- 2008/01/23(水) 23:32:53|
- 居合 総論
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昨日と本日の稽古を見ていて、やはり、何かしようとする思いが強すぎて、その思いが人の動きを狂わせているのだと感じざるを得ませんでした。
「正座する」「礼をする」「刀を構える」「鞘手を引く」「抜付ける」「血振るする」「納刀する」すべての思いが体を歪ませています。頭が体よりも先に働き、何かしようとした部分から自分自身を崩していく。崩れたから直そうとしてさらに歪みを大きくしていく。そういう悪循環に陥っています。
常々、感じる事と考える事の違いについて、耳にたこが出来るくらいお話していますが、初心者でもない方がいまだに考えています。また、初心者であっても、ある程度できるようになったら、同じ動きを稽古するうちに動きに慣れ、感じるのではなく考え、何かしようと思って自らを狂わせています。
初心者を卒業された方は次の段階に入らなければなりません。何度も繰り返すようですが術技としての「無念無想」を求めなければなりません。
加賀友禅のはぎれで作ったくるみボタンです。写真よりずっと感じが上品です。先日、中國新聞に私のバッグを載せてもらったら、友人の奥様と、別の友人のお嬢さんからがま口を依頼されたので、バッグ用の生地のはぎれがでました。
- 2008/01/25(金) 00:19:58|
- 居合 総論
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師の話されることを本当に理解するのは難しいことで、たいていは表面だけを捉えて理解したと思っていることが多いものです。私の場合もそうでしたが、師のレベルは現在の自分自身のレベルよりもはるかに高く、師はそこに導こうとして話をされますので、現在の自分のレベルでわかったと思うのは非常に浅薄なレベルでの理解に過ぎません。
話された事が本当にわかるのは、そのことを探求して工夫に工夫を重ねて初めて体で答えが出るものであって、すぐに理解できたと思うのは思い上がりもはなはだしいと思わねばなりません。私自身、晩年の先生のお話を体で理解できたのは先生が亡くなられて随分経ってからということも数多くあります。
たとえば無双神伝英信流抜刀兵法の師 梅本三男貫正先生は「私が重い刀を使っていると皆は思うが、無重力状態にある刀を横に動かし、縦におろし、血振るいするのだから、刀は何の造作もなく動く、少しも力はいらないものを・・・。」と話された事があります。当時、私自身そのようなレベルには到底至っておらず、理想として聞いていたのですが、今では体で理解できるようになっています。できるようになって初めてこういうことだったのかと思えます。ただし、ひとりでに出来るようになったのではなく、先生の教えを総合的にどこも欠かすことなく稽古した結果として、求め続けた結果としてそうなったものです。そうなれば実に簡単なことなのですが・・・。軽い刀であろうと重い刀であろうと、全ては無重力状態にあり腕力を使わないので、重い刀を用いた後に軽い刀を用いても、軽いと感じようもなく、軽い刀を用いた後に重い刀を用いても重いと感じようはないのです。腕力を使うわけではないのですから。このようなこともその場でわかったつもりになって浅薄な理解をしていたら体得することは出来ません。
渋川一流柔術の師 畝重實嗣昭先生は「やっていたら、わかるようになる。」とよく話されました。「やっていたら」です。すぐにわかったと思うのは自己満足に過ぎません。
- 2008/01/25(金) 23:11:20|
- 居合・剣術・柔術 総論
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渋川一流柔術には形の数が約400あり、その中には居合(抜刀術)・六尺棒・三尺棒・十手・分童・鎖鎌といった得物を用いる形も多くあります。したがってこれらの形の手順を覚えるだけでも大変なことであろうかと思います。
昨日の稽古では、初心者の方はもちろん、稽古を詰まれた方の中にも新たな形を稽古すると、手順として形を使われるため、形の一連の流れに途切れができておれれる方がみられました。
形を頭で覚えようとし、「この次はこう、その次はこう」と動かれるのでそうなってしまうのですが、動きが途切れたところは隙であり相手に返されるところですので、決してそのような稽古は積み重ねないで下さい。静かに流れある動きを稽古することが大切です。流れなき稽古は無意味といっても良いと思います。
また、このことに関連しますが、渋川一流では形の最後に「エイッ」という気合をかけますが、この気合を形の最後に形の一連の流れとは別ものとして流れが止まった後にかけておられる方もおられます。形の中で気勢が充実した結果としての気合ですので、流れと別のものであるわけではありません。再度ご自分の形を確認してください。
- 2008/01/27(日) 12:31:30|
- 柔術 総論
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土曜日に九州支部長が先週に引き続き稽古にきたので、浮雲を重点的に稽古しました。
浮雲について少しまとめておきます。浮雲は大森流の動きも英信流の動きもこれまでの自分の動きを質的に変化させる重要な形ですので、心して稽古しなければなりません。
浮雲は文字通り身体が浮かねば業にならないのですが、身体が浮くためには座姿勢で心も身体も沈んでいなければなりません。つまり、あるべきところに心と身体がなければならないのです。これは大森流の正座であろうと英信流の立膝であろうと同じ事ですが、絶対に「腰を入れる」とか、「背筋を伸ばす」とかいう意識で座姿勢を作ってはなりません。姿勢を作ったが最後、後の動きは全て作らねばならなくなり、自由自在であるべき武術としての形ではなくなってしまいます。「そこにあるだけ」を稽古しなければなりません。
次に浮雲の体の浮き始めは柄の導きによります。柄が身体を導くが故に体は浮き重さは消えます。一度重さが消えてしまえば後は、足をもずらす(交差させる)まで身体のどこにも滞りなく凝り固まりなく動きます。また、その動きは脚を動かしているわけではなく刀が脚を導きます。
間合の近い敵に手元下がり切先上がりに刀を抜付けるとき、身体は真下に落下します。間合が近い故に決して敵に向かって前傾することはなく、故に脚力で上体をささえることもありません。体が真下に降り抜付けた時も両脚は楽に自由です。
ここまでが浮雲の最も重要な動きで、ここまでできれば後の動きは全て自由になります。
浮雲で体が浮くことを覚えれば大森流を含め全ての業はその質が変化します。今までの動きがいかに体を鈍重に使っていたかがわかり、今までの鈍い動きは消え去ります。
ただし、再度述べますが、ここに至るためには座姿勢ができていなければなりませんので、道場外でよくよく稽古を積んでいただきたいと思います。
今日、昼から数時間掛けて短刀用の刀掛けを製作しました。縁あって手元に来た御神剣はさる方の御指示によって自宅の神棚の前にあるのですが、今まで市販の二本掛けの短刀用の刀掛けに掛けてありましたので、あまりに刀掛けが大きく気になっていました。
初めて作ったにしては、我ながらよく出来ていると思います。あとは表面の仕上げをしなければなりません刀掛の材質は朴です。
- 2008/01/27(日) 22:37:24|
- 居合 業
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無双神伝英信流抜刀兵法においても渋川一流柔術においても指導を受けたことを形を行いながら直そうとする方がおられます。そしてのような方に限って何度も何度も同じ過ちをくり返し、結果として全く異なるものを身につけておられます。
無双神伝英信流においては一人での素抜き抜刀術の稽古に多くの時間を割きますが、一人での素抜き抜刀術の稽古であるが故に焦ることなく自分自身に向き合うことが可能になります。しかしながら「形を数抜いていれば」、あるいは「多くの種類の形を繰り返し抜いていれば」上達するのだと考え「早く多くの形を」と思う方は絶対に上達することはありません。工夫なく5本過ちを繰り返せばそれだけ過ちが身についてしまうため、同じ時間に工夫を重ねて抜いた1本のほうが、はるかに上達への近道となります。
動きは動かざる間に工夫しておかねばなりません。体を動かさなくとも感覚は働かせることが出来ます。感覚を指導されたように働かせてからのちに体を動かす稽古を重ねてください。抜く前(動く前)に感覚の中で正しく抜けていなければ、決して正しく抜く(動く)ことは出来ないのです。
渋川一流柔術の稽古や無双神伝英信流の太刀打、詰合、大小詰などの稽古は相手がつくために工夫して後、動くということは相手を待たすため難しいと思われるかもしれませんが、柔術の稽古にあっても相手を待たせてもかまいません。また、不十分であれば同じ形の稽古を工夫した後に繰り返してもかまいません。遠慮なく「受」にリクエストしなければなりません。
太刀打、詰合等も同じ事です。出来なければ打太刀に時間をもらい工夫した後、もう一度同じ形の稽古をして下さい。
道場外では動かなくても感覚を働かせて稽古することができます。むしろ、道場外で工夫する稽古こそが上達への近道でもあります。現代は昔のように365日3時間稽古できる環境にある方は僅かです。上達のためには道場外の稽古が大切になります。
- 2008/01/28(月) 19:47:38|
- 居合・剣術・柔術 総論
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「我が強い」 無双神伝英信流の師 梅本貫正先生が『手癖が悪い」と同じように指導されるときに使われていた言葉です。
たとえば抜付けのさい、腰が上に伸び上がる方は「早く動こう。」という我の思いが強すぎるのです。切先が鞘から離れる前に右手が中心から右にずれている方は、意識的にせよ無意識にせよ「早く抜きたい。」という我の思いが強すぎるのです。鞘手の肘が後方に折れているのは「早く鞘を引きたい。」という我の思いが強すぎるのです。
すべてにおいて、「無理無駄なく」からはなれてしまうのは自分自身の「こうしたい、ああしたい」という思いが強すぎるためであり、自分自身が自分を崩しているのです。
渋川一流柔術においてもしかり、重心が浮いてしまう方はたいてい、相手に業を掛けたいという思いが強く結果として自分自身を崩しています。動いた結果、相手が崩れているのであって、崩そう崩そうと思って崩しているのではありません。
再度、自分自身の心を観察してください。
- 2008/01/30(水) 22:06:30|
- 居合 総論
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先日来、渋川一流柔術を専門に稽古される方が数名、無双神伝英信流抜刀兵法の稽古に来ておられます。
現在は歩法、礼法、刀の構え方をくり返し稽古して頂いていますが、稽古を見ていると、その日の最初の頃の稽古内容のほうが終わり頃の稽古の内容よりも良いように思います。その日の最初の稽古は新鮮な感覚で手探りで探求しながらされているのですが、繰り返すにつれ動きに慣れが生じ、感覚が鈍感になっていっているのです。この慣れの感覚は奢りに通じるものですので、厳に慎まなければなりません。繰り返し述べますが稽古は毎回新たな感覚で自分自身を磨くものでなくてはなりません。そうでなければ下達してしまいます。
喩えて述べれば、薄い氷の上を歩いて向こう岸まで行こうとするのに途中で慣れてしまっていいかげんな動きとなり、池に沈むようなものです。一歩一歩静かに歩まなければなりません。
無双神伝英信流の稽古が進んで中級者になろうとされている方は特に上記のことに留意しなければなりません。形の動きは一通り覚え手順を間違うことは無くなっているのですから、次は内容を高めていかなければならないのです。強さ、速さを短絡的に求めては決して至ることはなく、至ったと思ってもそれは体力の低下とともに衰えていくものでしかありません。中級者にさしかかるころから、見栄え良くとか、斬った突いた実感を求めようとする欲が生まれ始めます。それは閉ざされた道でしかありません。
業が進むということは、動いた結果、強さ速さが、それこそかってに出現するものであり、自分で出現させるものではないという事をよくよく心しておかねば稽古にはなりません。中級者の稽古はいかに動くかこそが大切で、強さ速さは動きが正確になれば自然と生まれてくるものです。目に見える動きは目に見えないものの働きによります。私がお話した言葉を腑に落ちるまで稽古されることを望みます。
稽古は一歩一歩薄氷を踏むが如きもの。慎重に慎重に。
- 2008/01/31(木) 22:53:36|
- 居合 総論
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