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無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

理合

 形・手数にはそうなるべき理論があります。それを無視して形だけを稽古しても役に立たないものにしかなりません。
 たとえば無雙神傳英信流の太刀打の「受流」「受入」の最初の動きでは遣方が打太刀の袈裟に斬り、それを打太刀は鍔もとで受け、小さく下がって遣方の右小手を斬りますが、最初の打太刀の動きの足運びが大きすぎると刀の物打で受けることになり、次に小さく下がっても小手が切れる間合にはなく、ただ遣方と打太刀が刀を打ち合うだけになってしまいます。
 また大石神影流の「阳剣」では打太刀の心の起こりを斬りますが、動きを見て斬れば出遅れて打太刀と仕太刀が相打ちに近い形になり、間合が正しくとれません。また「無二釼」では仕太刀は上段に取った打太刀の小手に斬り込み、払われるのですぐに面に斬りこみますが、打太刀との間合いを考えずに次の足運びを普段通りに行うと鍔元で斬りこむことになります。打太刀の小手と面の距離だけわずかに歩を進めればよいのです。
 形・手数の理合を理解して稽古すれば形・手数が求めるものを体得できますので、なぜそうなるのか、何をすべきなのかを理解したうえて稽古してください。わからなければ指導者に尋ねてください。

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  1. 2022/07/01(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

礼儀

 他流派批判は江戸時代から行うものではないとされています。内輪で他流派と自流派の比較を行っていたということは古文書などでも明らかですが、その古文書が公開されることを前提として書かれたものか、そうでないかを考える必要があります。公に他流批判をすると諍いが起こります。他流の考え方や技を公に批判して諍いが起こらないのは相手側が分別のあるいわゆる大人だからでしょう。
 礼とは対人関係です。たとえば友人にお土産として旅をして買って帰ったお菓子の箱からいくつかをあげることがあったとします。親しい友人ならある事でしょう。しかし、自分が務める大きな会社の社長に同じことをしたらどうでしょうか。こちらは礼を重んじて行動していると思っても相手にとっては不快ということもあります。立場の違いを考えずに行動したり、日本国内であっても地域性があり、それを考えずに行動したり、ましてや相手が文化がかなり異なる国の人であれば日本式の礼儀は通用しないこともあります。
 SNSなどでは自分と自分の関係者しか見ていないと思うためか、武道関係の礼を重んじるべきと考えている、また述べている人であっても他流派の考えを批判しているのを見たことがあります。言行不一致です。心が不安定な人かもしれません。江戸時代なら果し合いになったり謹慎蟄居を命じられるかもしれないということに思いが至らないのです。
 常に気を付けておかなければなりません。

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  1. 2022/07/02(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

技がかかる条件

 澁川一流柔術の技はほとんどが護身術の技といっても差し支えありません。自ら技をかけにいくのではなく、相手の仕掛けに応じて技をかけるのです。そこを間違えてしまうと競技武道へと変質していきます。
 たとえば履形の負投では相手の心の起こりを抑えます。また返投では相手の動きをかわし動きが終わりかけたところを返します。このような条件を無視して無理やり相手の手を取りに行ったらかかるべき技も有効ではなくなり,力をもちいた取り合いになってしまいます。
 四留や枠型などは相手が仕掛けてくる動きなしには成立しません。相手の動きを用いてこちらが技をかけているのです。
 六尺棒の技もしかりで、その多くの形が相手の起こりを制します。これを無視して自分から仕掛けていくと技は有効にはならずかえって返されてしまいます。
 自分が行っていることは何かということをしっかり理解していなければ道を外れてしまいます。

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  1. 2022/07/03(日) 21:25:00|
  2. 柔術 業

富永清太夫 1

 富永清太夫は蓮池藩士で大石神影流に有縁の人物です。この人物について大正11年発行の『蓮池傳記』によって少しわかったので忘れないために記しておきます。佐賀県立図書館のレファレンスの皆様のおかげです。佐賀県立図書館では丁寧に親身になって調べていただきました。これまで何度か佐賀県立図書館を訪れていますが、自力では『蓮池傳記』にたどり着けませんでした。
 富永清太夫は諱を吉利といい、天保5年に江戸に行き、はじめ小城藩士の五郎川に学んだと記されています。『蓮池傳記』の記述からすると江戸にいた小城藩の五郎川に大石神影流を学んだことになりますが、五郎川は小城藩の師範ですので少し疑問が残ります。天保8年に伊庭氏について江戸で5,6年学んだとありますので心形刀流を学んでいることに間違いはありません。江戸から帰ったのちには大石進種次に入門して再び大石神影流を修行します。「大石氏に就いて更に其の技を窮め大いに得るところあり」と記されています。
 しかし、土佐藩の樋口真吉の日記の天保11年11月24日の記録には「此日肥前蓮ノ池ノ人富永清太夫来り同宿、此人原五郎川大四郎弟子、酉ノ年江戸へ出伊庭ノ門ニ入且大石先生ヘモ出入シ即諸家ヘモ先生ニ従稽古致スヨシ、人前江戸稽古附ニ委シ、清太夫酒肴ヲ買テ我等ニ出ス」とあり、五郎川大四郎の弟子となっていますので、江戸に出る前に小城藩の五郎川大四郎の弟子となり、酉の年(天保8年)に江戸に出て、心形刀流を学び、さらに天保10年から11年にかけて出府した大石進種次に入門し、大石種次について諸大名のもとでも稽古したと考えるのが正しいように思います。また、天保11年11月には九州に帰ってきていますので、『蓮池傳記』には少し間違いがるのではないでしょうか。 
 複数の廻国修行の英名録によると初めの頃には「大石神影流兼心形刀流」と記していますが、一時期「神形刀流」とも名乗っており、最終的に「心形刀流」に落ち着いています。天保14年に蓮池藩の師範となったようです。慶應元年に52歳で亡くなりました。

 続く

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  1. 2022/07/04(月) 21:25:00|
  2. 武道史

富永清大夫 2

 久留米藩の加藤田平八郎の『加藤田平八郎東遊日記抄』に次いで『剣術師家並ニ上等之門人大略』という記述があります。この中には窪田助太郎、男谷精一郎、伊庭軍兵衛、井上傳兵衛、清水治郎、近藤弥之助小倉右馬之助、中西忠兵衛などと言う師匠の名前がありその下に門人の名が記されています。伊庭軍兵衛の門人として小森三四佐、富永清大夫、坪井家新助、小野寺小助、大野茂三郎、荒井米松、武田文三郎とあり富永清太夫は二番目に記されています。
 加藤田は天保9年4月23日に江戸に着いています。そのため『剣術師家並ニ上等之門人大略』は天保9年ころの状況を記したものかと思います。『蓮池傳記』では富永が伊庭に入門したのは天保8年ですから、入門して1年くらいしかたたないうちに伊庭の2番目くらいの門人に数えられています。推定ですが、大石神影流の稽古が相当役に立っていたのではないかと考えられます。

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  1. 2022/07/05(火) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

富永清大夫 3

 富永清大夫について2回書きましたが、『立花壱岐と大石進』という自費出版の冊子があり記されたことは多くが小説のようで出典を明らかにせず物語風になっていますが、史料の写真が挙げられておりこの中に富永清太夫宛ての伝書がありますので詳しいことがわかりました。
 富永清大夫は天保8年5月吉日に小城藩の五郎川大四郎から『新陰流剣術陰之巻』を授かり免許皆伝となっています。五郎川大四郎は大石進種次が大石神影流を名乗る前に免許を授かっています。『蓮池傳記』には江戸で五郎川に大石神影流を習ったことになっていますが、間違いで小城で大石神影流を習い、免許皆伝後に江戸に出たのでしょう。五郎川大四郎は大石進種次が大石神影流を証する前の弟子ですので「新陰流」となっています。
 昨日記した加藤田平八郎の記事が天保9年であるとすれば、富永が江戸に出て心形刀流に入門して1年もたっていないので、加藤田が見た富永の試合(撃剣)の技は大石神影流で鍛えられたものであったのでしょう。
 天保11年11月吉日には大石進種次から富永清太夫に『大石神影流剣術陰之巻』が出ています。ただし、この巻物(巻物といっていいのかどうかわかりませんが)は表題は「大石神影流剣術陰之巻」とはなっていますが、陰の巻に記されるべき内容は省略されており、いきなり日付、署名、宛名となっています。内容は五郎川大四郎によって記されたものがあるので省略したのでしょう。
 富永清太夫は天保8年大石神影流(新陰流)免許皆伝→天保8年出府心形刀流入門→天保11年大石進種次より免許皆伝ということになります。
 大石進種次は天保3年に短期間、天保10年から11年にかけて約1年出府していますが、大石進の試合の話として伝わるものの中には天保3年に大石進について出府し、男谷道場で稽古を続けた小城藩の五郎川是一郎(大四郎の弟)やこの富永清太夫が行った試合が混じっているのではないかと推察します。ほかにも大石神影流を稽古して出府していた人物がいるかもしれません。
 富永清大夫についてはこれで終わります。

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  1. 2022/07/06(水) 21:25:00|
  2. 武道史

現代武道と古武道

 現代武道の多くと古武道の多くの違いは競技を中心とするか否かにあります。現代武道でも合気道のように競技を行わないものもありますので、多くと記しました。
 競技を中心とする武道は競技を盛んにすることがその武道の振興につながっていきます。大会が多ければ多いほどいわゆるチャンピオンになることができる機会も増えその目的のために熱心に稽古する人が存在し活動の中核になっていきます。小学生向けの大会が多く存在するのもそのためです。小学生の全国大会を取りやめる武道もあるようですが、中四国レベル、県レベルの小学生向けの大会が存在し、小学生に競わせることは続けるようです。
 古武道の多くは競技をせずただ稽古を重ねます。演武会はありますが優劣を決めるためのものではなく、それまでの自分自身の稽古を振り返り、その後につなぐため、古武道の振興(一般の人に存在を知ってもらう)ためにあります。江戸時代には藩主の上覧や家老などによる大改(おおあらため)などがあり、現在行われている演武会はそれに相当するものと考えた方が良いように思います。江戸時代にも試合・仕合があったではないかと考えられる方もおられると思いますが、審判はなく、トーナメントでもなく、チャンピオンを決めるわけでもなく、各々が自分の技を評価し、また見ている人がそれぞれに評価しますので現在行われている試合とは大きく異なります。
 古武道を振興するには現代武道と違った方法が必要になります。しかも現代武道が広報に用いる「礼儀が身につく」「忍耐強さが身につく」「集中力が身につく」といった使い古された文言を用いてしまえば、一般の人には古武道と現代武道の差はわからず、存在を知られている現代武道と変わらないものととらえられてしまいまい、現代武道が衰退するときには古武道も衰退していきます。そうしないための有効な方法を各支部で工夫してください。

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  1. 2022/07/07(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

感じる

 良いものを見るときにはまず感じてください。こうなっていて、こうだから優れたものなのだという見方もいいのですが、初めて見たときにそのような見方をすると自分の感性はなくなってしまいますし、好き嫌いもなくなってしまいます。良いと感じるのはあくまでも自分の感性であり、いくら一般的に良いものだという評価があったとしても自分が良いと感じないものは自分にとっては縁がないものです。まず、素直な目で見てどう感じるかです。
 刀の鍔や縁頭、目貫なども好き好きです。いくら高名な作者の作品であっても良いと感じないものは自分には縁がありません。良いものばかりを見ることは大切ですが、その良いもののなかにも自分に合ったものそうではないものがあります。そこは感性の部分ですのでその感性は大切にしてください。

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  1. 2022/07/08(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

閉ざされた思考

 とある武道の会議で、その武道の普及策をいろいろ考えておられましたが、特定の集団に所属しておられるか、おられた人たちの集まりであったのであまりにも思考が閉鎖的なことに考えさせられたことがあります。

 その組織ではその武道をすることが当然でした。しかし、近年は他のこともしなくてはならないので衰退しています。こうなってしまってはいくら内部で声を上げてもだめなので政治家の力を用いてその武道を盛んにしてもらうように組織の長に働きかけてもらおう。
 組織としてその武道に力を入れず衰退しているのであれば、勢力を盛り返すためには組織外の人を取り込もうとなるはずなのですが、そのような議論にはなりません。不思議です。

 中学校武道必修化でその組織のOBが居住する中学校でその武道を始めた。その組織からの支援を求めようとしたが、校長が地域外からの支援を求めることは出来ないといった。
 たとえ地域内でもその組織を学校に入れれば校長はどのような立場に追いやられるかわかりません。過去の歴史から考えればわかるはずなのですが、その組織のOBなので思いが至らないのかと思いますが、そのようなことが思いつかないのも不思議です。

 会員の減少で、組織の運営のための資金がないので、会費を上げよう。会費を払っている人にも賛助会費を払わせよう。
 最初に述べたことにもつながりますが、なぜ組織外の人を取り込むことによって会勢を盛んにしようとしないのか。そもそもその組織では段が高いことよりも大会で優勝することの方が重んじられてきたのに、会費が上がった場合、段位に応じて会費が上がるので昇段しようとする人はますます減少します。自分達がその武道が好きだったので、その組織の所属する他の人も好きだろう、昇段したいに違いないとはならないはずです。昇段が給与には結びつかないのですから。

 いくつかあげましたが、このようなことは私たちが流派の生き残りをかけて考えるときにも起こりうることかもしれません。内側から物事を見るのではなく、自分が置かれた立場の外から広い目で物事を考えることが大切です。何も知らない外の人から古武道を見た場合にはどのように見えるのかを考えなければなりません。

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  1. 2022/07/09(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

将来にのこすためには

 古武道は現代武道と異なり歴史・文化と精神性という面から考え伝統を保持し、受け継いでいかなければなりません。現代武道ではないので現実に合わせてどんどん改編していくようなものではありません。現状に合わせてどんどん改編していくなら、弓術・火縄銃は現代戦では不要なので競技中心へと変化。柔術は素手の格闘技としてその体系・技・稽古方法を大幅に改編、剣術は現代剣道と試合できるように稽古方法を変更(形稽古はしなくなり最終的には現代剣道になりますが)、槍術は幕末に武士が銃を持つようになったときに槍は持てないということで稽古をなくした藩も多かったので、これも弓術・火縄銃と同じで不用なので競技化(スポーツチャンバラのようになるかもしれません、幕末に相面試合が盛んになった時、各流派の規定の槍の長さではなく、試合に有利な長い槍を用いるところが多くなったという話もあります。)ということになります。古武道が歴史・文化と精神性のある存在でなければ存在意義はなく消えてなくなります。
 将来的にも貫汪館で伝えている無雙神傳英信流、澁川一流、大石神影流の三流派は古武道として伝えられたままに残していく必要があります。改編しながら時流に合うように変化させてしまえば歴史・文化と精神性という流派が持つ特徴は無くなってしまい古武道ではなくなります。稽古していただく方にも、そのような意識を持った人に来ていただかなければなりません。
 さてどのようにして将来に伝えていく人たちに集まっていただき稽古していただきましょうか。そういう意識をもった人に来ていただくための方法を考えなくてはなりません。難しい問題です。人の目に触れないもの、不要なものはやがて消え去ります。

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  1. 2022/07/10(日) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

体を壊す

 武道の稽古で体を壊す人もいるようです。無雙神傳英信流や大石神影流の形・手数の稽古で正しく動いていればそのようなことになることはないのですが、間違った動きをしているとそうなるということは自分自身で体験しています。
 以前、無雙神傳英信流の稽古を週に2回していた門人が職場の関係の剣道の高段者の方に「週に2回、1回に2時間半も居合の稽古をしていたら肘がボロボロになるだろう。」と言われたという話はしたことがあると思います。たしかに竹刀の振り方で私たちが用いる長めの刀を使えば肘を痛めるのではないかと思いますが、長めの刀には長めの刀の遣い様があります。その遣い様は稽古のときに厳しく指導していますので、それを会得しようと努力していれば肘を痛めることはありません。もっとも私たちから見れば短い刀であってもしっかりした刀の重量は竹刀よりもかなり重いので、刀を遣う時に竹刀の遣い方をしていれば体が丈夫に生まれた人でなければ肘や手首を痛めると思います。
 大森流や英信流で正しく動ければひざを痛めることはないのですが、素抜き抜刀術で遠すぎる間合を想定している人は体の正しい状態が保持できず後ろ脚の膝を痛めることがあります。膝が痛いと感じたら無理に行うのではなく、自分の動きを疑って正してください。
 腰を痛める方も師の道場ではおられましたが、これは振りかぶりの動作が過剰で下半身を固めながら後方に背をそらすように振りかぶっている方でした。これも何時も指導しているように正しく行えばそうなることはありません。「時計の振り子」の動きです。
 大石神影流も上記と同じようになることがありますが大石神影流の特徴として「踏み込む」ということがあります。この踏込が強すぎると膝を痛める元となります。大石神影流の足運びは無雙神傳英信流と異なり基本はすり足ではなく、地から浮かせてはおろし浮かせてはおろしの繰り返しです(ただし、体の動きの本質は変わりません)。「踏み込む」のはその延長で行われます。この足運びは床面ではなく小石や木の根などがある外で稽古が行われていたことに起因すると思われます(無雙神傳英信流でも状況によってはそのような足運びを用います)。「踏み込む」目的はあくまでも小石や木の根などに足運びを邪魔されないようにすることにありますのでドンと強く踏み込む必要はありません。ここを間違うと膝を痛める原因となりますので注意しなければなりません。
 体を痛める原因の多くは「強く」「勢いよく」「しっかり」「ぱっと動いてぱっと止める」というような意識にあります。少しでも稽古によって体を痛めたと感じたら自分の動きと心を見直してください。

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  1. 2022/07/11(月) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

体を壊す 2

 昨日は居合・剣術で体を壊す場合について述べましたが、j澁川一流柔術で体を壊してしまうのは受をしているときに起こりがちなのでいつも言っていることではありますが念のために述べておきます。
 捕が未熟な場合。捕が未熟なときは受に技が効いているかどうかわかりません。そのため無理やり技をかけようとすることがあります。相手を心配しながら技をかける心を持っている初心者なら問題ないのですが、何が何でも強引に技を効かせようと考える心をもった初心者もいます。指導する方はよくよく人を見てあらかじめゆっくり丁寧に動くように注意してから稽古させなければなりません。
 受が我慢する場合。受も捕も未熟なとき、受が体を固めて我慢すると関節の可動範囲が狭くなってしまいます。この時に捕が無理やり技をかけると体を痛めてしまいますので、指導者は体を固めて我慢せず可動範囲を広げること、また捕は無理やり技をかけないことを指導しておかなければなりません。
 受の受け身が未熟な場合。大きく投げる形の場合に受け身が未熟だと怪我をしてしまいます。初めのうちは投げ落とさずに
捕の重心を崩したところで動きを止めます。慣れてきたら指導者が怪我をしないように受が受け身をしやすいように投げて慣らしていきます。
 柔術は怪我をしやすい武術ですので、けがをせず、させずに丁寧に稽古を重ねてください。

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  1. 2022/07/12(火) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

言葉の意味

 指導は見て取らせることを基本とした方が、言葉で指導するよりも誤解が少なくて済みます。たとえば英語で few, a few または little, a little などを用いた場合どれくらい少ないかは用いる人の感覚によります。「ほとんどない」「少しはある」という感覚が人によって違うのです。
 無雙神傳英信流の師梅本三男先生は脇を大きく開いて振りかぶる人に「ぎゅっと絞って」という言葉を用いられていましたが、言葉にとらわれる人は、それまでの動きとは逆に両肘がつくくらいに絞って振りかぶっていました。「ぎゅっと」という言葉の意味が人によって違うのです。私が「力を抜いて」と指導しても力を抜くのがどういう意味か分からない人もいますし、体をふにゃっと芯がない状態にする人もいます。形は繰り返しているうちに覚えると指導したら、稽古後に家でイメージトレーニングもせずに週に1回道場に来るだけで覚えることができると取る人もいますし、毎日家でできることを稽古してくる人がいます。当然後者の方が早く体で覚え上達していきます。
 稽古する方は言葉による指導には限界があると思い、言葉の裏にあるものを会得する努力をしなければなりません。

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  1. 2022/07/13(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

間違ったイメージトレーニング

 形や手数の手順を覚えるためにイメージトレーニングをすると思いますが、間違ったイメージトレーニングをしていたら、なかなか覚えられないどころか間違った方向へ行ってしまう可能性があります。
 打太刀をイメージするときに実際に打太刀に立った指導者の動きをイメージできれば正しくイメージトレーニングができています。しかし指導者の打太刀の動きがそのままイメージできず、打太刀の動きを人形を動かすように「最初は上段に構え、次に自分が三歩進んで、そうしたら正面を斬ってくる。」と頭で考えて考えたように打太刀を動かし、「それに対して自分はこのように動く」とと、イメージしていたら結局頭を使って手順を覚えようとしていることになります。打太刀をイメージするなら指導者の動きをそのまま思い出します。それに対して動く自分をイメージします。もし指導者の打太刀の動きが思い出せないとしたら稽古中に不必要なこと(たとえば、「打太刀が脇中段をとったので、この手数では上段、三歩進んで、・・・。」)を考えながら稽古しているかもしれません。相手に集中していないのです。指導者が打太刀をしてくれているのに、相手に集中できなければ、イメージトレーニングのときに指導者の打太刀の動きが浮かんでくることはありません。うまくイメージトレーニングできない人は普段の稽古をふりかえってください。

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  1. 2022/07/14(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

指導者がうれしい稽古態度

 指導していて指導が楽しくなる場合があります。
 稽古する方が示されたとおりに会得しようと素直に努力しているとき、ひたむきさが伝わってくるのです。習得しようとして努力しているのにまだできないのか、指導されたことはほうっておいて自分の好きなことをしているのかはわかります。見たままではなく頭で考えて「我」をはさみ、教えたことと手順は似ていても違うものを作ろうとされていると、教えることが伝わらないと感じてしまいます。
 稽古される方が見知らぬ場所を旅することを楽しまれているように未知のもの、自分の体の中にないものを習得する過程を楽しまれているときも指導者冥利に尽きます。できないと苦しまれている方には「自分にはできるはずだ」という思いが見えます。つまりその人にとって未知のものではなく、これまでの経験からできるべきはずのことができないと苦しまれているのです。
 稽古している方から質の良い質問、的を得た質問が出るときも指導者にとってうれしいものです。本質的な部分を習得されようとしていて、未知のものなので自信はなく、これでよいでしょうか、こういう考え方でよいでしょうか、と質問が出る場合その人は会得しかけています。
 指導者がうれしいのは、稽古する人が稽古を楽しみ、すなおに上達していかれることです。

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  1. 2022/07/15(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

形・手数の覚え方

 形・手数がなかなか覚えられない方がおられますが、そういう方の多くが細部にこだわって覚えようとしておられます。大切なのはまず大雑把に全体像をとらえてから細部に至ることです。
 大石神影流で例えれば阳釼は乗って勝つ手数というイメージを持ち、それからこう動いたときにはこう動くということを身につければよいのですが、覚えられない方は最初から細部にこだわり、打太刀が脇中段に構えたときはこちらは上段に取り、次に三歩進んで、打太刀が正面を斬ってこようとするときに、こちらはそれに乗って正面を斬り、それから残心してと細部のこだわっていたら、阴剱もそのように覚えなくてはならなくなり、陽之表十本すべてを覚えようとしたら、すべてが混じってしまいこんがらがり覚えられないのは当然です。
 無雙神傳英信流であれば、初発刀は敵が斬りかかってくるので横に抜付け縦に斬撃すると形名と関連付けてシンプルに覚えてください。
 日本史に例えれば奈良時代、平安時代、鎌倉時代という時代区分を覚えることなしに古事記の完成、養老律令の編纂、三世一身の法の制定、長屋王の変、国分寺建立の詔、大仏造立の詔、恵美押勝の乱、宇佐八幡宮神託事件、桓武天皇即位、薬子の変、空海、高野山に金剛峯寺建立、応天門の変、摂関政治の開始、『土佐日記』、『源氏物語』、院政、守護・地頭の設置、「撰択本願念仏集」、東大寺南大門金剛力士像完成、「新古今和歌集」の編纂、評定衆設置、貞永式目制定、後鳥羽上皇没、「十訓集」成立、日蓮の「立正安国論」、文永の役・・・といった出来事を先に覚えようとするようなものです。時代ごとの特徴があって出来事を覚えるほうがはるかに速やかです。
 覚えられない方は最初に全体像をつかむ習慣をつけてください。最初に細部にこだわると覚えるのは難しいと思います。

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  1. 2022/07/16(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

初発刀と虎乱刀

 大森流は無雙神傳英信流の中の一部ですがもともと別流派であり、大森流11本で一つの体系としてまとめられています。大森流は江戸時代になって新たにまとめられた体系であり、かなり理論的に段階を追って上達できるように構成されています。
 初発刀から当刀迄は抜付けのときの体の開き、腰の角度、体を床に預けることを徹底的に身につける段階です。陰陽進退で初めて立って立たざることを習得させ始めます。そこを経ずに、たとえば初発刀を稽古したらつぎは虎乱刀の方がやりやすいので、左刀、右刀などの形はとばして虎乱刀を教えようと思ったらかえって上達できなくなってしまいます。やりやすいのは外形を真似しやすいだけで本質はレベルが高くなっていなければ会得できません。
 自分が虎乱刀ができているかどうかを確認するための目安は、立っていても初発刀と同じように鼠径部が緩み体を床に預けることができているかどうか。抜付けが初発刀と同じように丹田から抜いている感覚があるかどうかです。すくなくともこの2点を確認して初発刀と同じ感覚がなければさらに稽古を重ねてください。

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  1. 2022/07/17(日) 21:25:00|
  2. 居合 業

柄留

 柄留は間近に対坐している相手が刀を抜こうとして柄に手をかけるところを下から小手に抜付ける形です。したがって抜付けた刀の切先は上へあがることはありません。
 切先が上へあがってしまう原因は小手を斬り留めるという意識がなく、単に勢いよく斬り上げているか、対坐している相手を間近ではなく遠くに想定している場合です。想定を間違えると異なる動きになってしまいます。
 自分がどのように動いているか振り返ってください。

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  1. 2022/07/18(月) 21:25:00|
  2. 居合 業

違和感を手掛かりに

 少し稽古して如何にあらねばならないかがわかってくると自分の動きに違和感を感じるようになります。指導者の動きを見て、かくあらねばならないという理想ができ、自分と指導者の動きの差に気付いたり、自分自身の体の状態(肩が上がっているとか膝が伸びているとか、踵で立っているとか、正座で反りかえっているといったような)がどうも自然ではないと感じたりします。
 そのような違和感を感じたら、それを手掛かりにして稽古を進めてください。対処療法的に外形だけを修正するのではなく、なぜそうなっているのか、その奥その奥を求めていくのです。自分自身の深い部分を見ることができるようになりその部分を正すことができれば、他の部分もおのずとよくなっていきます。
 このような稽古ができるのは自分を疑うことができる人、自分を否定できる人なので、稽古が進んでいることになります。

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  1. 2022/07/19(火) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

歴史は作られる

 歴史は意図的に作られるものであり、歴史的真実ではないということはすでに述べていますが、あらゆる分野でこれは起こります。たとえ史料をもとにした推論であってもそこには解釈する人の考えが入りますので、その人によって作られた歴史ということになります。また、歴史を研究する人が真実だと思うことを伝えようとしても、それを読む方にその歴史に関する知識がない場合には間違って解釈することもあります。
 武道史を少しかじった人が間違うのは幕末の剣術が現在と同じような防具と竹刀を用いているからその技法も現在と同じであるとする大きな間違いがあります。幕末の剣術は腰に刀を帯びている人たちが行っていたものですから、竹刀はあくまでも刀の代用です。形・手数の刀の遣い方から大きく外れることはありません。打ったときに継足で前に進んでいくという動きもしません。技法的に大きく異なるのですが、現代剣道の人たちが同じものと思い込んでいるので、一般の人たちの思い込みも改まりません。多くの現代剣道の人たちは剣道形と防具をつけて竹刀を持った時の動きが大きく異なるのは何故かを考えたことはないのだろうと思います。
 防具と竹刀.・撓の関係もそうです。一般の人のイメージでは防具をつけたら現代用いられているような竹刀を用いていたと考えるのですが、現代イメージするような防具をつけるようになっても長い間は袋撓を用いていました。現代式のコミ竹刀、または越中竹刀とよばれるものは大石進以降と考えられているのですが、そこはイメージできません。また、武道史の書籍にも四つ割などの撓が一刀流で用いられ始めたとありますので、すぐに現在用いられている竹刀が一刀流で用いられ始めたのだとイメージするのですが、以前武道学会のある先生に聞いたところ、それは四つ割の竹を袋に入れた袋撓だと答えられました。
 現代式の防具が出現する前は一般の人は木刀で試合稽古を行っていたのだとイメージします。そういうことが流派によっては行われていたかもしれませんが、試合稽古をする多くの流派は簡易な竹製の顔のみを覆う面と、革製の小手、袋撓を用いて試合稽古をしています。
 防具をつけての試合は関東地方では身分の低い農民や足軽によって盛んになったので、九州でもそうだろうという想像で大石進種次も半農半士だという位置づけをする武道史の本もあります。しかし柳河藩では扶持米を得ていた武士がいるだけでなく直接知行地を経営する「在宅」という制度がとられていて、農村地帯に居住する武士たちも少なからずいました。大石進が半農半士であったから格式にとらわれず他流試合をし、突きや胴切の技を編み出したといわれるのは間違いで、柳河藩では大石進の祖父の遊釼の師である村上一刀の頃(宝暦の頃)から武芸上覧の際には村上門下は試合を行っています。また村上自身も他藩の浪人と試合を行って褒章を受けています。柳河藩では師範は藩が指定しますから勝手に町道場として指導しているわけでもありません。九州では関東よりも早い時期に袋撓で他流派との試合が行われていて、関東で身分の低いものによって撃剣が盛んになったというのとは異なっています。九州、或は瀬戸内の中国地方の他流試合については研究する余地が大いにあるのですが、これは余裕がなければできません。
 貫汪館で稽古される方は書籍に記されていることがすべて真実であると考えるのではなく、それは本当であろうかという思いももってください。

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  1. 2022/07/20(水) 21:25:00|
  2. 武道史

張受

 大森流の陰陽進退の張受は抜付けの動きと変わることはありません。刃を用いるか鎬を用いるかの違いで手の内の角度は異なりますが、抜いたのちに受けるわけではなく、抜くとそのままが張受とならなければなりません。そのためには左足を下げる位置が大切となりその位置が狂うと抜いて、受けるという2段階の動きとなり、手先の技になります。2段階の動きをいくら手先で行ったとしても「一」で抜付けてくる刀に間に合うことはありません。「一」で受けるためにはゆっくりと正しく稽古して正確な動きを身につけることが先で、どたばたと焦った稽古をしてはなりません。正確な動きを身につけて無理無駄がなくなればやがて速くなっていきます。上達を焦ってしまうと道を外れることになります。
 大森流で張受をしっかり身につけたら、より低い姿勢の虎一足も無理なくできますし、より速く行う必要がある詰合の張受もできるようになります。まずは陰陽進退で先を焦らずにしっかりした張受を身につけてください。

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  1. 2022/07/21(木) 21:25:00|
  2. 居合 業

流刀

 大森流の流刀も陰陽進退の張受けと同じように鎬を用いる形です。したがって刃で斬る手の内とは90度ことなっています。指導者は特にこの点に気を付けて指導しなければなりません。初心者の方はこの時の手の内を初発刀の刃を用いる手の内と同じにしてしまいがちですので、この形を指導するときには最初に鞘手柄手の遣い方を繰り返し指導して初発刀との違いを納得させてください。
 また流刀で刀を抜くときも陰陽進退の張受けと同じく抜付けの動きを用います。一、二と抜いて体を囲うわけではなく抜いたときには囲っています。もっとも体が相手の刀の下にあるわけではなく、体も低く流していますので難しい形です。体が相手の刀の下になく鎬で(万が一の場合に)受流すという点では大石神影流の一味や阴剱の動きと似ていますが、これを抜付けの動きで行いますので難易度は高く、陰陽進退の張受けをしっかり身につけたのちに行わなければ中身を伴わない形だけの動きになってしまいます。

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  1. 2022/07/22(金) 21:25:00|
  2. 居合 業

無理はしない

 体調が悪いときには稽古を休むことも必要です。中学生、高校生の頃に厳しいクラブ活動をされていた方には休むことに罪悪感を感じられる方もおられますが、江戸時代の人たちは体調が悪ければ稽古を休んでいます。廻国修行を複数の人数で行っているときにも体調が悪い人はその人だけ相手方との稽古を休んでいます。これまでの武道学会の発表の中にも記していますので貫汪館の会員で史料が必要な方は支部長に言ってください。
 江戸時代は医療が発達していないので、大事をとったことも大きな理由だと思いますし、体調が悪いのに無理して稽古しても上達は望めないと判断したこともあると思います。現代は医療が発達していますので多少のことは治りますが、さらに体調が悪くなるような無理はすべきではありません。稽古が続かなくなります。また、感覚がおかしいような体調の悪さのときに無理に稽古をしても、効果が上がらないこともあります。ご自身で判断されてこれなら大丈夫と思える程度であれば稽古によって体調がよくなることもありますが、そうでなければ稽古を休んでください。中途半端な体調のときには体を動かさずに見取り稽古をすることもできます。見取り稽古は大切な稽古です。居合の師の道場は狭かったのでかわるがわる指導を受けていました。私が高校生の時の話ですが、自分の稽古のときだけでなく先生がほかの方にどのように指導されるのかをじっと聞いていました。梅本先生はその場におられる皆さんに「森本君は私が他の人に指導していても話ををじっと聞いている。だから上達するのだ。」とおっしゃいました。

 休まれるときには可能な場合は指導者に連絡してください。指導者は個人個人に今日はどのような指導をしようとあらかじめ考えています。

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  1. 2022/07/23(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

下から

 ずいぶん前の話で私が高校生の頃のことです。居合の師の梅本先生が「居合は下から下から、(現代)剣道は上から上からだけれども」と教えてくださいました。まだまだ剣道の癖が抜けていないころです。言葉の意味は分かっていたのですが、下からということはすぐには体感できませんでした。
 これは形の稽古をするときだけのことではなく、正座をして師に対して礼をするときも、互礼をするときも、刀礼をするときも同じです。礼をするときに手を床につきに行くという思いの方は上からです。このような礼をされる方の形の動きもまた上からです。どのようにすれば下からの動きになるかはお教えしているとおりですので、自分の動きを確認してみてください。座礼を上からしている方はすべての形の動きを見直してください。

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  1. 2022/07/24(日) 21:25:00|
  2. 居合 業

日本古武道振興会の目的

 貫汪館では澁川一流柔術と無雙神傳英信流抜刀兵法が日本古武道振興会の会員となっています。日本古武道振興会の目的はその規約に

(目的)
第3条 本会はわが国の伝統文化財であり武士道精神の発露である古武道の保存振興に務めるとともに生涯教育の一端を担い人間の品性資質の陶冶及び青少年の健全育成、体力増進に寄し、わが国の伝統文化を次世代に伝えていくことを目的とする。

 とあります。 「生涯教育の一端を担い」(「人間の品性資質の陶冶」「青少年の健全育成」「体力増進」)の三つを行いつつ、つまり、修行、教育、体育(体育は死語になりつつありますが、やがて学校教育においても体育という語は何かに置き換えられるかもしれません)に役立ち、次世代に古武道を伝えていくことを目的としています。
 一昔前はなぜか、どういう理由かわかりませんが、古武道は子供がするものではないという変な考えをもつ他流派の先生があり、私たちの活動も妨げられたことがあります。「子供が・・・」という理由です。日本古武道振興会ではなく日本古武道協会での話ですが、この時の事務局長であった花輪先生はたまたま海外出張に出られており、帰られてから「私が日本にいたらそんなことをさせなかったものを。子供が稽古しなかったら古武道に将来はありません。」とおっしゃいました。
 古武道振興会では「青少年の健全育成」を目的の一つに挙げていますので、そのようなことはおこりません。

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  1. 2022/07/25(月) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

握る

 顕著に居合のレベルが現れるのが握るという動きです。抜付けの最終的な動作が親指を除く四指で柄を握りしめてしまうのです。抜付けの最終的な動きは掌中に柄がおさまるのであって、握りしめるわけではありません。したがって前腕に緊張感はありません。握ってしまったら握り始めで臍下からの力の伝達は途絶え方・腕で抜付けていることになります。初歩的なことですが、何かをしたという充実感を欲していたら難しいことです。
 梅本先生はそのような動きをする形を「また小銭をつかみに行っている。」と揶揄されていました。初発刀などで横に抜付けたときには前腕の下部から親指の先がおおむね床と平行になりますが、握った場合には手首は下方に曲がります。自分がどのような動きをしているか確認してください。

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  1. 2022/07/26(火) 21:25:00|
  2. 居合 業

演武會は上達の機会

 貫汪館では4月に広島護国神社、12月に廿日市天満宮で奉納演武をしています。その他は日本古武道振興会の5月の下鴨神社、白峯神宮での奉納や日本古武道協会の日本武道館での演武があり、10月には立身流の新田神社奉納演武に参加させていただいたり、熱田神宮の奉納演武に参加せていただいたりしています。
 この演武の機会は大切で、これまでの稽古の成果を振り返ることができる機会であると同時に、演武のために演武する形を集中して稽古することによって自分の至らぬところに気付く機会ともなります。至らぬところはすべての形・手数に共通する部分であることが多く、一部分の形を稽古することが全体を見直すことにもなります。演武の機会を積極的に利用して上達につなげてください。

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  1. 2022/07/27(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

歴史の解釈は難しい

 関東地方で農民や足軽層によって撃剣が盛んになっていき、他流試合が始まりそれがそれが武士階層に及び盛んになっていったというのが今の解釈ですが、それは中央から見た場合で地方では異なった歴史を有しているように思います。
 たとえば広島藩の貫心流は文化文政期には防具を着用して稽古していたであろうということが残された史料から推定できます。これは細六郎が50歳を過ぎて徳島から広島の築山家に貫心流の本流を習いにやって来て、やがて広島藩の師範になってから定着したものだと思います。初代の細六郎は浪人ですが、元は武家です。いわゆる原士ではありません。細は徳島でも貫心流を教え、江戸でも貫心流を教えていたのでそれ以前に徳島で防具を着用し袋撓をもちいた稽古が行われていたのだと考えられます。当然江戸でもその稽古をしていたでしょう。廻国修行もしていますので、英名録は残っていないものの防具と袋撓での試合をしたのではないかと考えられます。
 関東地方では比較的身分の低い人たちの中で撃剣が盛んになっていったようですが、九州では武士階層による袋撓を用いた他流試合(稽古)が行われていた記録もあります。宝暦の頃、柳河藩では藩の師範である村上傳次左衛門が嶋原藩浪人と試合をした記録があり、村上傳次左衛門は上覧のたびに門弟の試合を行っています。
 榎本先生は『撃剣試合覚帳』を分析されて文政期には西南地方のいくつかの藩で関東地方に先駆けて他流試合を活発に行っていた(武道学研究1986年 19 巻 2 号 113-114)とされていますが、「袋竹刀を用いて試合剣術を行 う新陰流系統の流派が西南地方には継承 されてお り,それらの流派が関東からの試合剣術に刺激された」ともまとめられています。しかし堅牢な防具は関東地方が先ですが、簡易な面と籠手と袋撓は九州ですでに用いられていました。
 柳河藩では藩の家老である家川念流の師範が試合に応じており、関東からの試合剣術に刺激されたというのではなく、むしろ関東地方に先駆けてという榎本先生の解釈のほうが妥当なのではないかとも思います。
 また「西南地方には土着の武士団が広範に存在 し,これらに独 自の流派が継承 されていた。そして,それ ら武士団 のおかれ た種々の社会的 ・地理的条件が,他流試合を受容するに好都合であった」ともまとめられていますが、柳河藩では藩の家老であり家川念流の師範が廻国修行者を受け入れており、土着の武士と間違って長い間解釈されてきた柳河藩の師範である大石家もまた藩の師範であるという地位を持ちながら加廻国修行者を受け入れています。土着とは言えないのです。藩によって異なるのでしょう。
 史料がたくさん発見されなければ確定したことを言えないので歴史の研究は難しいのですが、現在行われている関東中心の剣術の歴史だけでは日本全体を見ることは出来ないのではないかと考えます。山陽、九州の試合の先進地域の研究が進まなければなりません。

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  1. 2022/07/28(木) 21:25:00|
  2. 武道史

人生は短い

 何を目的に生きるかは人それぞれです。目的もいくつかあると思います。その目的の一つが武道の稽古を通じて何かを会得することにあれば人生は短いという覚悟を持って取り組まなければなりません。
 武道の稽古を通じて何かを会得しようとすれば長い年月がかかります。江戸時代の武士のように毎日複数の種類の武術を稽古していても普通は免許皆伝にいたるまで短くても10年はかかります。免許皆伝になってもその先の稽古、修行はあります。週に1回の稽古の現代人であれば短くても70年かかることになります。人生は90年くらいですが、人生の後半からは急速に時の流れが速くなります。何かを得ようとすると一生の目配りをしておかなければなりません。
 人によっては仕事も子育ても終わった頃に集中して稽古を始めればよいと考える方もおられますが、そのころには一般的に気力も衰え始め自分が思ったようにできなくなることもあります。若いころには吸収する力も強いので若いころに集中して稽古をすればそれだけの蓄積もできます。同じ時間稽古しても若いころと年取ってからでは吸収する力が異なるのです。また、年をとればとるだけ自分の物事に対する頑固さが強くなる傾向にあります。それが稽古の妨げになるのですが、若いころに稽古を重ねておけば特定の考え方に固執せずに広く物事を見る習慣も身につきます。
 若いとき(人によって異なります)に寸暇を惜しんで稽古しておけば先は速やかなのですが、心が固くなってしまうと、その心をほぐすところから始めなければならないので苦労して修業しなければなりません。その苦労に打勝てるだけの熱心さも必要となります。
 何を目的として生きるかは人それぞれですが、武道を通じて何かを会得しようとしたら思い立った時に、稽古できる時に稽古してください。

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  1. 2022/07/29(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

稽古していないけれど

 柔術の師の畝先生がまだ師のもとで稽古されていた時のお話です。
 先生の師は農業と針灸接骨を生業とされていましたが時に不在のことがあったそうです。そんな時に弟子だけで稽古をしていると、それを見ておられた師の奥様が「それは違う。」と言われることがあったのだそうです。畝先生が言われるには「奥様は稽古はされておられなかったけれど弟子たちの稽古とご主人の指導をたまに見ておられて、それだけで稽古の良しあしがわかるようになられたようだ。」ということでした。戦前のことですから今と違ってテレビもありませんしYouTubeもありません。、録画して再生もありませんし、YouTubeを繰り返してみることもありません。一度見たらそれを理解して覚える力が優れていたのかもしれません。そのような力が欲しいものです。

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  1. 2022/07/30(土) 21:25:00|
  2. 柔術 総論

良いものをたくさん見ているから

 無雙神傳英信流抜刀兵法の師である梅本三男先生は私が畝先生のもとで柔術を稽古したいとお願いしたときには、それほど快く許可いただいたわけではありませんでした。他のことをすることが悪いと思われたのではなく、畝先生をご存じでもありませんでしたので悪い影響が居合に出ることを恐れられたのです。私は銃剣道はもともと仕事で稽古していてその延長で依願退職後も続けていましたので許可いただくということはありませんでしたがこれも実は心配しておられました。私が若く、銃剣道も初一本を尊ぶような思いが強くあったためだと思います。よく森本君は居合も「突撃で突っ込むから」とご指導いただいていました。(今にして思えば現代剣道の前傾して飛び込んで打突する癖が抜けていなかったのですが・・・。旧軍で稽古した先生方の動きはやわらかく静かな動きでした。)
 しかし柔術の稽古も一段落し、銃剣道も広島国体の銃剣道競技の開始式で形を演武させていただくようになり銃剣道連盟本部の先生にご指導いただいていたころに、先生はこうおっしゃいました。「自分は子供のころ広島の武徳殿のそばに住んでいてよく稽古を見に行っていた。その頃に剣術も柔術も長刀も素晴らしい先生方が形を稽古されるのを見て学んでいた。森本君はせっかく古武道の大会で演武するのだから、素晴らしい先生方も多いと思うのでしっかり学んできなさい。」「銃剣道も連盟の本部から来られるような方であれば本物を稽古しておられるだろうからしっかりと学びなさい。」
 その頃になると先生は私の他の武道の稽古が居合に良い影響を与えているとみられたのだと思います。先生にはしばらくの間ご心配をおかけしていました。それほどに師は私の成長を見守っていてくださいました。師にいくら感謝しても感謝しきれるものではありません。

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  1. 2022/07/31(日) 21:25:00|
  2. 柔術 総論

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貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)

Author:貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)
無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術 貫汪館の道標へようこそ!
ご質問のある方は記事へのコメントではアドレスが記されてないため返信ができないので貫汪館ホームページに記載してあるメールアドレスからご連絡ください。よろしくお願いします。

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