謹賀新年 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
新しい年が始まりました。心新たにして道を進みましょう。
- 2023/01/01(日) 06:00:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
速やかに上達する方法はいくつもあり、それを組み合わせて取り組まねばなりません。私自身の経験からいくつかを挙げておきます。
1.これまで自分の中に築き上げたものを捨て去る。
古いものの上に新たなものを築いても木に竹を接ぐ様なものです。自分はこれまで築き上げたものがあると思っていたら新たなことは入ってきません。
2.教えられたことは素直に受け取る。
1ができなければ素直に受け取ることは出来ませんが、教えられたことを「そうはいっても」とか「そんなことは無理」と思い、とことん追求することがなければできるようにはなりません。今は出来なくても求め続けていればできるようになるものです。とはいってもいつかできるようになると安易に考えてほっておけばできるようにはなりません。
1と2は最低限心掛けなければならないことです。そうでなければ流派に入門するということにすらなっていません。3.奥の奥を探求する。
指導を受けたところを直そうとすれば自分自身で奥の奥まで求めなければなりません。例えば、胸や両脇の力みをなくすだけ伝悪斬撃で振りかぶった時に肩が上がることを指摘されたらその先の鼠径部、膝、足首の状態はどうなのかを自分自身で確認してください。表に現れる現象の奥を求めなければなりません。
4.中庸を心がける。
どちらにも片寄らないで常に変わらないこと。過不足がなく調和がとれていること。なのですが、若いうちにはどうしても真の強さ、間に合う速さではなく、力強さ、素早さを求めてしまいます。
5.日常生活と切り離さない
貫汪館で稽古している流派に特別なことは何もなく誰でもできるようになるものです。したがって日常生活そのものが稽古になります。日常生活の中での動きを質の高いものにするように心がけるだけです。武道は趣味であり日常生活は全く別のものと考えているのと日常生活の中での動きを質の高いものにしていくのとでは上達の度合いが全く異なります。
ほかにも色々と上達の方法はありますがまずは上記のことを心がけてください。
各支部長の思い次第ですが、大阪支部での講習のように支部長が講師として私を呼べば、支部に出向いて指導をしお話しする時間も十分に取れます。大阪支部では夕食を一緒にさせていただき、私が三つの流派を稽古するうえで得たことをお話ししています。大阪支部での講習に他の支部に所属されている方が稽古に来られてもよいようにしていますので他の支部に所属される方も積極的に他の支部で行われる講習会に参加してください。
- 2023/01/01(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
昨日は速やかの上達する方法について述べましたが、今日は上達しない方法について述べます。昨日述べたことと表裏ですが心当たる点があれば改めてください。
1.かつて習ったことや古武道に対する自分の先入観をかたくななまでに大事にし、その上に習ったことを重ねようとする。
後生大事に自分がかつて習ったことを大事にし、捨てることができないのですから新たなことは入ってきません。自分は出来ていると思っても砂上の楼閣にすぎず、確固たるものが身についているわけではないのです。昨日述べたことと表裏です。また古武道に対して先入観が強くそれを変えることができない人も前記と同じです。力強くなければならないと筋肉の緊張を良いものだと考えていればいつまでたっても力任せの動きは変わりませんし、速くなければならないと相手との関係を無視した素早さを求めていれば正しい動きも身に付きません。
2.教えられたことにあれやこれやと付け加える。
これも昨日述べたことと表裏です。教えられたことを教えられたように素直に習得すべく努力すればよいのですが、このほうが良い、ああしたほうが良いと自分の考えをつけ足すのです。結果として異なるものを身につけていきます。
3.表面上の形・手数の手順にこだわる。
形・手数はその内にあるためのものを習得させるための手がかりです。形・手数を寸分狂いなく機械のように行おうと心がけていたらかえって不自由なものが出来上がり役に立ちません。生真面目な人ほどその傾向にあります。そのような方・手数を身につけても役に立ちません。形・手数はそうするのではなく、そうなるべくしてそうなっているのです。
4.みせたい
中途半端に稽古した形に起こるのですが、自分よりも下の者や素人の方に見せたくなるのです。見せるために力強く派手な動作を行い本質から離れて全くの別物になります。明治時代以降に一部の居合が見せるための剣舞化していったのもそのようなところに原因があるのではないかと思います。
他にも色々ありますが、直接お話したほうが分かりやすいと思います。支部長の考え次第ですが支部で講習会を計画して私が招聘されるときには直接お話しできます。
- 2023/01/02(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
澁川一流柔術の師である畝重實先生は私に免許皆伝上極意を授けてくださったあとに数幅の書を書いてくださいました。写真はそのうちの一つです。「自分は書は得意ではないけれど習ったことがあるので書いてあげましょう。どういう意味を込めたかは考えてください。」と言ってくださいました。
良寛さんが新潟県燕市国上の国上寺の五合庵に住んだ頃の作品、「時に憩う」の結句だそうです。
擔薪下翠岑
翠岑路不平
時息長松下
静聞春禽声薪を担いて翠岑を下る
翠岑道は平らかならず
時に息ふ長松の下
静かに聞く春禽の声
と読み下すようです。春禽は鶯とされているようです。
先生のお住まいも鶯の声が聞こえるようなところにありました。我が家の裏山からも春になれば鶯の声が聞こえます。
先生が何故この句を書いてくださったのか、私にはわかります。
- 2023/01/03(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
Ⅰ.はじめに
蓮池藩心形刀流師範 富永清太夫 ははじめ大石神影流を小城藩の五郎川大四郎に習い免許皆伝となり、その後江戸で心形刀流の伊庭軍兵衛に入門、天保10年(1839)には伊庭軍兵衛より表徳免状を得ている。天保10年から11年にかけて大石進種次が出府した際には、大石について諸藩の江戸藩邸で稽古し、大石進種次からも天保11年に大石神影流の免許皆伝を授かった。その後、さらに江戸の伊庭軍兵衛について修業し弘化4年(1847)には心形刀流の印可を授かっている。
本研究では残された史料から富永清大夫がどのような経歴を持った人物であったのかを明らかにし、また大石神影流と心形刀流のかかわりについて論じたい。
Ⅱ.『蓮池傳記』における富永清太夫
『蓮池傳記』には富永清太夫について以下のように記されている
富永淸太夫
淸太夫諱吉利餘江村に生る天保二年十八歳初めて成章館に入り漢學を修む仝五年江戸に赴き小城藩士五郎河氏に從ひ刀法を學び仝八年伊庭氏に就て刀法を學び江戸に留まること五六年其技大いに進む直與公其藩邸に於いて其技を観て大いに感する所あり後ち歸りて柳河に赴き大石氏に就いて更に其の技を窮め大いに得る所あり天保十四年刀法教師となり其の碌を下賜せらる慶應元年四月歿す享年五十二歳盛林寺に葬る
これによれば富永淸太夫は江戸で小城藩士の五郎川大四郎に学んだことになるが、五郎川は小城藩の師範であり「江戸に赴き」は「小城に赴き」の誤植であろう。
- 2023/01/04(水) 21:25:00|
- 武道史
-
-
Ⅲ. 富永清大夫関係文書
富永清大夫に関する文書は佐賀県佐賀市蓮池町の盛林寺に所蔵されている。盛林寺の所蔵に至ったのは富永清大夫のご子孫が古文書の保存を依頼されたことによる。盛林寺に所蔵されている富永清大夫関係の古文書は以下の通り
1.『神陰流剣術陰之巻』(天保8年(1837)5月吉日、五郎川大四郎より富永清大夫宛)
免許皆伝の際に授けられる巻子である。
2.『愛洲神陰流免状』(天保8年5月吉日、五郎川大四郎より富永清太夫宛)
賞状様の一枚物の紙に免許皆伝であることを証したもの。
3.『心形刀流表徳免状』(天保10年(1839)仲夏日、伊庭常同子秀業より富永常海子宛)
心形刀流の表徳「常同子」を与え、師範となることを許す免状。
4.『大石神影流剣術陰之巻』(天保11年11月吉日、大石進種次より富永清大夫宛)
大石神影流の免許皆伝の際に授けられる巻子であるが、すでに大石進種次の弟子である五郎川大四郎から授けられているためか、一枚物の紙に表題と年月日差出人宛先のみが記され手数名(形名)、道歌などは省略されている。
5. 『免状之事』(天保11年11月吉日、大石進種次より富永清太夫宛)
賞状様の一枚物の紙に大石神影流の免許皆伝であることを証したもの。
6.『弘化二巳年(1845) 心形刀流形目録』
心形刀流の形の1本目から二十六本目までの形の手順を簡単に記したもの。弘化2年(1845)に記されたと思われる。
7.『印状之事』(弘化4年(1847)4月天晴日、伊庭軍兵衛常同子秀業より富永清大夫宛)
心形刀流の最終的な印可状
8.『起請文之事』(天保11年か、鍋島照三郎與義)
鍋島照三郎與義より出された心形刀流の起請文、天保甲子年9月19日の日付があるが天保には子年は庚子年しかなく11年である。天保には甲辰があり、辰を根と書き誤ったとすれば天保15年になる。
9.『起請文之事』(嘉永7年、鍋島縝之助紀倫)
鍋島縝之助紀倫より出された心形刀流の起請文
10.〔起請文〕(天保11年から安政3年までの人名の記載)
巻子の継ぎ目の糊がはがれたものをつなぎ合わせてあるため年代がバラバラになっている。
11. 『起請文之事』(安政2年から元治元年までの人名の記載)
巻子の継ぎ目の糊がはがれたものをつなぎ合わせてあるため年代がバラバラになっている。
12.〔牢人から帰参させる〕(文化元年(1804)7月、蓮池藩から富永嘉十宛)
富永嘉十宛てで牢人から帰参させ三人扶持米五石四斗を与える旨が記してある。富永嘉十と清太夫との関係は不明だが、『蓮池藩日誌』の文化元年七月の記事に「三日宗眼寺ニ於テ彩雲院殿三十三年祭ヲ行ひ軽罪ヲ赦ス。」とある。
13.〔心形刀流師範役による加増〕(天保15年(1844)4月、蓮池藩から富永清大夫宛)
富永清太夫を心形刀流師範役とし壱人扶持米壱石八斗一を与える旨が記してある。
14.〔心形刀流師範役による加増〕(安政6年(1859)2月、蓮池藩から富永清大夫宛)
富永清太夫が心形刀流の師範役としてよく勤めているので、三人扶持米五石四斗切米を与える旨が記してある。
- 2023/01/05(木) 21:25:00|
- 武道史
-
-
Ⅳ.蓮池藩の剣術流派
蓮池藩の剣術流派についてまとめた記録は『蓮池藩日誌』 の文政5年(1822)の12月の記述に「是ノ年武芸師範及び頭取ニ在者左ノ如シ」として下記の流派と師範・頭取が挙げられている。
弓術師範 中沢太左衛門
無辺流師範 村上謙兵衛
火矢師範 堤 半九郎
種田流師範 村上 蔀
実手流師範 八谷紋右衛門
馬術及ヒ新蔭流師範 西村市郎左衛門
騎射師範 大塚藤右衛門
関口流師範 中嶋権右衛門
無辺流頭取 田中五郎左衛門
諸石七左衛門
新蔭流頭取 中村藤四郎
日置流頭取 副貫勘十郎
関口流頭取 古賀孫右衛門
神求流頭取 青木甚四郎
荻野流頭取 真嶋佐一郎
円極流師範 豊田卯左衛門
剣術流派は実手流と新蔭流のみであり、文政5年当時には蓮池藩では心形刀流の稽古は行われていなかったと考えられる。この年以降に『蓮池藩日誌』に藩の師範・頭取についてまとめられた記録はなく心形刀流の初出は次に記す天保9年(1838)の記録である。
Ⅴ.『蓮池藩日誌』に現れる富永清太夫
『蓮池藩日誌』には編年体で蓮池藩で起こった出来事について記されている。断片的にではあるが富永清太夫または心形刀流について記されているのでそれらの記事を抜き出すと以下のようになる。
天保九年正月 富永清太夫江府ニ於テ、小城藩ノ撃剣家五郎川是一ノ門ニ入テ学フ。是一歿ス。因テ幕
府ノ士伊場郡兵衛(ママ、以下同じ)ニ就テ学フ
天保十年十一月 又タ釼術習練生富永清太夫モ亦タ三回水野候ニ於テ撃剣を試ミ、侯ヨリ物ヲ賜ハル。
因テ公人ヲ水野候ニ遣シテ之ヲ謝ス
天保十一年六月 藩邸ニ於テ新蔭流千々岩代藏・心形刀流富永清太夫トノ撃剣ヲ試ム。各勝敗有リ。又
タ清太夫ノ師範伊場郡兵衛ノ撃剣ヲ観ル。清太夫其教示ヲ受ケ練熟シタルニ因テ、郡兵衛ニ縮緬二巻金
五百疋ヲ贈テ之ヲ労ス。
七月 江府ニ於テ栗山亀太郎・犬塚隼人・納富八之進ヲ伊場郡兵衛ノ門ニ入テ、撃剣ヲ学ハ
シム。
弘化三年正月 野中友吉江府ニ於テ心形刀流伊場郡兵衛ノ門ニ入リ、其相伝ヲ受テ下藩ス。
嘉永二年十月 是ノ月学生ノ席諸及ビ新蔭流・心形刀流・関口流ヲ観ル。重職陪席ス 。
嘉永三年十一月 柳川藩士撃剣家大石進其門弟ト共ニ来ル。石橋泰助其門ニ入リ教導ヲ受ルヲ以テ、大
石ニ金員ヲ与エ之ヲ慰労ス。
安政二年二月 石橋泰助・成富徳次郎ヲ心形刀流頭取ト為ス。
慶應元年十月十九日 公心形刀流ヲ観ル。重職陪席ス。
『蓮池藩日誌』の天保9年(1838)の正月の記事によれば、富永清太夫は江戸で小城藩の五郎川是一に入門したが、五郎川是一が亡くなったため幕臣の伊庭軍兵衛に入門したことがわかる。小城藩日記天保8年10月5日の記録に「五郎川是一郎病気之末相果候段一類服部嘉右衛門ゟ御届之事 」とありこの頃五郎川是一が病死していたことがわかる。五郎川是一郎は五郎川大四郎の弟で天保3年(1832)に大石進種次が藩命により男谷精一郎と試合するために出府した際に師の大石進と出府しており、大石が柳河藩に帰ったとも大石のすすめによって男谷精一郎のもとに残って稽古していたと考えられる 。また小城藩日記天保6年(1835)2月29日の記録には「五郎川是一郎柳川ゟ帰着之事 」とあることから一度小城藩にもどり大石進種次のもとで稽古したのちに小城藩江戸藩邸に出ていたものと思われる。富永清太夫は江戸で五郎川是一について稽古しようとしたが、五郎川が亡くなったため心形刀流の伊庭軍兵衛に入門したのであろう。
また天保10年(1839)11月の記事によれば、富永清太夫が水野忠邦の前で三度撃剣を行っている。また、天保11(1840)年6月の記事では富永清太夫は新蔭流千々岩代藏と試合している。その後富永清太夫の師である伊庭軍兵衛の撃剣を見、清太夫を教え熟練させたことにより報奨を与えていることから、富永清大夫はこの頃には相当のレベルにあったことがわかる。その後は富永清太夫に関する直接の記述はなく、蓮池藩士の心形刀流への入門や大石進種昌(2代目)とその門下の蓮池藩への訪問等が記されているだけである。
Ⅵ.諸記録に現れる富永清大夫
1.土佐藩士樋口真吉の廻国修行日記『西遊記稿本下 再遊之巻』
樋口真吉は土佐中村の人で、もと無外流を学んでいたが無外流が試合稽古に突き技を許さず、上段構えしかとらさず、また他流試合を禁止していたことで師の土方半三と意見が合わず破門され天保8年に柳河藩の大石進種次に入門した。その後、4回ほど大石進のもとで修行している 。この樋口真吉の天保11(1840)年9月から12月までの記録である『西遊記稿本下 再遊之巻』の11月24日の記録に
此日肥前蓮ノ池ノ人富永清太夫来り同宿、此人原五郎川大四郎弟子、酉ノ年江戸へ出伊庭ノ門ニ入且大石先生ヘモ出入シ即諸家ヘモ先生ニ従稽古致スヨシ、人前江戸稽古附ニ委シ、清太夫酒肴ヲ買テ我等ニ出ス
とあり、富永清大夫が五郎川大四郎の弟子であり、酉ノ年つまり天保8年(1837)に江戸に出て伊庭に入門したという記述は『蓮池傳記』に合致している。
富永清大夫は11月24日以降『西遊記稿本下 再遊之巻』によれば25日、26日、27日、29日、30日、12月1日、2日、3日、4日と樋口真吉が大石進のもとを去る12月5日まで樋口真吉と稽古していることが見て取れる。その後も大石進のもとで稽古を続けたと考えられる。
1.土佐藩士樋口真吉の廻国修行日記『西遊記稿本下 再遊之巻』
2.久留米藩剣術師範加藤田平八郎の『加藤田平八郎東遊日記抄』
『加藤田平八郎東遊日記抄』は久留米藩の神陰流の剣術師範である加藤田平八郎によって記され他日記の抄録と思われる。加藤田は天保9年に出府し他流試合を行っている。10月4日の記述に以下のようにある。
伊庭軍兵衛門人小森三四佐、富永清太夫両人一昨日参、肥前平戸僑居鱗山殿、安部能登守殿公氏方先生
之御業前ヲ被致一覧戸候ニ付御障も無之御座候はヽ遠方道御苦労御入来願度宗師匠軍兵衛申聞候段申
聞候ニ付出席致候所、近藤矢之助、清水治郎門人召連出席、数面遣候内軍兵衛ゟ試合諸侯方御所望ニ
付致試合候、諸侯方渾而伊庭之門人ニ付程能遣、歩も出入無之様致置候
上記より、富永清太夫は天保9年(1838)に江戸の心形刀流伊庭軍兵衛のもとに居たことがわかる。
3.久留米藩剣術師範加藤田平八郎の『剣術家並ニ上等之門人大略』
『剣術家並ニ上等之門人大略』には江戸の剣術家とその門弟について記してある。窪田助太郎とその門人、男谷精一郎とその門人について記した後に心形刀流男谷精一郎とその門人が記してあり、門人には筆頭に小森三四佐、次に富永清太夫が記されている。加藤田が出府したのは天保9年であるため天保9年当時の心形刀流の上等の門人として二番目に富永清太夫が挙げられていることになる。
[蓮池藩心形刀流師範富永清太夫について ― 心形刀流と大石神影流とのかかわり ― 3]の続きを読む
- 2023/01/06(金) 21:25:00|
- 武道史
-
-
Ⅶ. 廻国修行の英名録に現れる富永清大夫
1. 小城藩 江副七兵衛の英名録
小城藩の江副七兵衛は『諸国釼家姓名録』(天保8年(1837)~弘化2年(1845)までの試合記録)と『釼家姓名録』(天保10年~天保13年の廻国修行英名録)を記しているが、『釼家姓名録』に天保11年(1840)10月5日から10日の間に蓮池藩の愛洲神蔭流 13名と試合している。その筆頭に富永清大夫の名がある 。
2. 中津藩 日下田鹿之助の廻国修行の英名録
日下田鹿之助は新当當流古宇田次郎太夫の門人で弘化2年(1845)5月から弘化5年(1848)11月まで九州北部を断続的に廻国修行している。弘化3年(1846)11月19日に蓮池藩を訪れており大石神影流と心形刀流を流名とする富永清大夫と野中友吉を師範とする富永以下8名と試合している 。
3. 長州藩 渡部直八の廻国修行の英名録
渡邉直八は『大石神影流諸国門人姓名録』 によると長州藩の陪臣である。大石家の門人であり弘化4年(1847)から弘化5年 (1848)にかけて九州北部を廻国修行している。弘化5年2月7日に蓮池藩を訪れており大石流と心形刀流を流名とする富永清大夫を師範とする富永以下15名と試合している 。
4. 齋藤新太郎の廻国修行の英名録
齋藤新太郎は弘化4年(1847年)4月より嘉永2年(1849年)まで廻国修行に出て全国を巡っている。嘉永2年閏4月25日に蓮池藩を訪ね心形刀流を流名とする富永清大夫を師範とする富永含め10名と試合している 。
5. 飫肥藩矢野宗吾の廻国修行の英名録
矢野宗吾は安政4年(1857)から万延2年・文久元年(1861)にかけて九州北部を中心に中国地方をへて姫路藩まで廻国修行している。安政7年(1860)1月に蓮池藩を訪ね時肆場で心形刀流を流名とする富永清大夫を師範とする富永以下め25名と試合している 。
6.土佐藩武市半平太の廻国修行の英名録
武市半平太は万延元年(1860)の8月18日の丸亀藩の直清流剣術を手始めとして12月17日の飫肥藩の堀内流と大石神影流まで中国地方と九州を廻国修行しているが、11月11日に蓮池藩の時肆場で心形刀流を流名とする富永清大夫を師範とする富永以下11名と試合している 。
- 2023/01/07(土) 21:25:00|
- 武道史
-
-
Ⅸ.大石進種次と伊庭軍兵衛
これまで見てきたように富永清大夫は大石神影流を基礎として心形刀流を学び蓮池藩の心形刀流師範となったと言える。では大石進種次と伊庭軍兵衛はどのような関係にあったのであろうか。
1.大石進と伊庭軍兵衛との試合
大石進種次は天保10年(1839)柳河藩の参勤の先立として3月23日に江戸藩邸に到着している 。この出府は水野忠邦の要請によったものと考えられ、在府中に記録に残るだけでも天保10年9月3日、天保11年2月13日、天保11年3月1日、年月は不明ながら7日に水野邸で試合を行っている。
天保10年9月3日の水野邸での試合には伊庭軍兵衛とその門人も出席しており大石進と伊庭軍兵衛は二度試合をしている。また富永清太夫も伊庭門人として出席している。
天保11年2月13日の水野邸での試合にも伊庭軍兵衛とその門人も出席しており大石進と伊庭軍兵衛は一度ないし二度試合をしている。また富永清太夫も伊庭門人として出席している。
天保11年3月1日の試合は槍術の試合であるため伊庭軍兵衛一門は出席していない。柳河藩の剣術師範は槍術師範も兼ねることが多く、剣術と槍術の二術に通じるものが多く、大石進種次は大嶋流槍術の師範も兼ねていた 。
年月は不明ながら7日の試合では大石進は体調不良であったらしく試合はしていないが、伊庭軍兵衛は出席して大石門下の加園元次郎と試合している 。
天保11年2月17日には伊庭軍兵衛方に越後堀丹波守と信濃国岩村田藩の内藤金之丞が出向き大石進以下柳河藩士による剣術の稽古を見た。試合組は記されていないが伊庭軍兵衛一門との稽古であったと考えられる。
上記にみるように大石進種次は天保10年から11年にかけての出府では伊庭軍兵衛と稽古・仕合の上で密接な関係があった。
大石先生江戸稽古之附 水野越前様江罷出候節諸々覚
2.伊庭軍兵衛の柳河藩への接近
伊庭軍兵衛は大石進種次の出府に先立ち天保10年2月5日に柳河藩邸に稽古に出向き来たい旨を願出ている。
井庭軍兵衛(ママ)高人釼術為修行左之定日
之内月ニ六度稽古ニ罷越度、依而御門
札差図願出候間御帳場迄相達□□
一六三八五十日
伊庭軍兵衛は柳河藩の江戸藩邸での月に六日の剣術修行を望んでおり、これは他流試合ではなく、柳河藩邸で稽古がしたいということである。大石進種次が出府するということを知っていた伊庭軍兵衛が積極的に大石進との稽古を望んだということではないだろうか。大石進種次を江戸に呼んだと思われる水野忠邦の意向による柳河藩邸での修行とも考えられる。
- 2023/01/09(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
Ⅹ.まとめ
蓮池藩士富永清太夫ははじめ柳河藩大石進種次の門人である小城藩の五郎川大四郎に入門して愛洲新陰流を学び天保8年に免許皆伝を得て後江戸にのぼり、五郎川大四郎の弟である是一郎に学ぼうとしたが是一郎の病死により天保9年に心形刀流の伊庭軍兵衛に入門した。天保9年に久留米藩の神陰流師範加藤田平八郎が江戸で試合をした時には心形刀流に入門して1年もたたないうちに心形刀流の上等の門人に挙げられている。
天保10年5月には伊庭軍兵衛から心形刀流表徳免状を授かり、大石進種次が天保10年4月から11年にかけて出府した折には大石について諸家で稽古をし、天保11年11月には大石進種次から免許皆伝を授かり、弘化4(1847)年4月には伊庭軍兵衛から印状之事を授かっている。富永清大夫は初め大石神影流と心形刀流の両流派をなのっていたが、最終的には心形刀流のみを名乗っている。これは蓮池藩の意向が働いたものと考えられる。
富永清大夫が短期間に心形刀流の実力者となったのは大石神影流でその基礎を養っていたからであったと言える。
また、心形刀流伊庭軍兵衛は大石神影流の大石進種次とたんに試合をしただけでなく、柳河藩邸に出向いて稽古するなど技の上でも強いつながりがあったことが推測できる。
Ⅺ.おわりに
蓮池藩心形刀流師範富永清太夫は最終的に心形刀流を名乗っているが、その基礎には大石神影流があることが分かった。
小城藩出身の剣道範士 辻真平は剣道形制定のための5人の主査のうちの一人である。実父は小城藩士心形刀流剣術師範 永田右源次である。永田右源次が誰から心形刀流を習ったか不明で今後の課題ではあるが、もとは大石神影流江副七太夫の門人である。つまり辻真平の実父の剣術の基礎は大石神影流にあったことになりその子 辻真平もまた大石神影流の影響を受けていたことになる。
山岡鉄舟とともに宮内省の道場済寧館の御用掛(剣術世話係)となった鳥取藩の一刀流の河田景与は大石種昌に大石神影流を習い、廻国修行の英名録には「一刀流 兼 大石神影流」と記している。
明治36年に大日本武徳会第1回範士号を授かった高尾鉄叟の師は大石神影流と一刀流を合わせて新陰一刀流を唱えた赤松縣である。赤松は水戸藩出身で大石進種次の弟子となり長崎で新陰一刀流を開いた。
大石進種次は大石神影流陰之巻において下記のように述べている(下線筆者)
大石七太夫藤原種次幼ナキ時愛洲新蔭流ノ唐○(金へんに面)袋品柄ノ試合ヲ学タレトモ十八歳之時ニ至リヨク〃〃考ルニ刀ノ先尖ハ突筈ノモノナリ胴ハ切ヘキノ処ナルニ突ス胴切ナクテハ突筈之刀ニテ突ス切ヘキノ胴ヲ切ス大切ノ間合ワカリカネルナリコノ故ニ鉄○(金へんに面)腹巻合セ手内ヲコシラヘ諸手片手突胴切ノ業ヲ初メタリ其後江都ニ登リ右ノ業ヲ試ミルニ相合人々皆キフクシテ今ハ大日本国中ニ広マリタリ夫ヨリ突手胴切之手カズヲコシラヘ大石神影流ト改ルナリシカル上ハ諸手片手突胴切ノ試合ヲ学モノハイヨ〃〃吾コソ元祖タルヲ知ヘシ
大石進種次は諸手突き、片手突き、胴切の技を防具着用の試合で広めたのは自分であるといっている。今後は大石神影流がどのような形で、またどのような流派に影響を与えて行ったのかを明らかにしていきたい。
本発表に当っては次の方々に御指導とご協力を賜りました。
佐賀県佐賀市 盛林寺様
柳川古文書館学芸員 白石直樹様
心より御礼申しあげます。
- 2023/01/10(火) 21:25:00|
- 武道史
-
-
古武道の稽古はよりよく生きるためにしています。したがって怪我をして体を痛めたり、それが生活に支障をきたすようなことがあってはいけません。片岡健吉の稽古記録にあるように病気やケガがあれば見学したり稽古を休むことがあっても良いものです。治してから集中して稽古すれば遅れは取り戻せます。
その時に体調が悪くなくても、また痛めたところが治ったとおもっても何年も何十年もあとになって出てくることがあります。過去に無理な稽古を続けている場合です。極端に重い木刀を振り続けていたり、誤った考えで特定の部位だけを鍛えると考えて何かを行っていた場合には必ずのちに歪が出てくるものです。無理せず体に極度の負担をかけず、中庸を保った稽古を心がけてください。
- 2023/01/11(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
ある古武道の大きな流派は直前に稽古した方とではなくても演武会で息があった演武をされています。その流派の方に直接聞いて驚いたことがあるのですが、年に数回行われる講習会で稽古しているだけで息が合うのです。稽古される門人の方たちが流派の思想と師の指導を素直に学んでおられるのだということがよくわかります。教えられたことを皆さんが素直に学んでいるので動きも気持ちもあうのだとおもいます。私たちの流派でも教えをしっかり身につけようとされている初心者の方は上級者と演武しても息が合います。
一方、直前にお互いが何回か稽古しているにもかかわらず息が合わないというのは、流派の思想と師の指導よりも自分の「我」が強いのです。仕太刀と打太刀、受と捕が自分がやりたいように動いていれば息が合うはずはありません。片方が流派の思想と師の指導を大切にして形・手数を使ったとしても片方が自分がやりたいように動いていたら合いません。ましてや双方が思い思いに自分がやりたいようにしていたら絶対に合うことはないのです。同じ流派に所属していたとしても、それぞれの心と動きは我流なのです。
自分がどのような思いで形・手数を稽古しているのかよくよく考えてください。
- 2023/01/12(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
私が梅本先生、畝先生、大石先生に師事していたときには稽古の後に十分にお話をしていただける時間がありました。また稽古日でないときにもお訪ねしてお話をお伺いする時間もとっていただけました。その中で先生方の心を教えていただくことができました。今は公共の施設をお借りして稽古をしているのでそのような時間十分に取ることは出来ず、稽古される方もお忙しく、ましてや支部で稽古されている方には頻繁に招聘してくださる大阪支部を除けば全く話しをする時間がありません。大阪支部の皆さんの進み具合が速いのはお話をする時間を十分に取っていただけているので流派の根底にある心を理解していただいているからです。道標を記しているのは皆さんに少しでも三人の師から伝えられたことをお伝えするためです。
多くの初心者は古武道を技の習得だと考えてしまいます。しかし心が理解できずに真の業が習得できるわけではなく、自分が習得できたと思ってもそれは猿真似にすぎません。異なる武道を稽古していた人がその武道の影響をいつまでも受け続けるのは心が無雙神傳英信流・澁川一流・大石神影流の大元にある部分に至っていないからです。いつまでたっても見せるための演武をしたり、心のやり取りもなく残心もないただ慣れた動きを良しとしたり、固まる動きをよしとして長い間それを引きずっているのは心が異なるからなのです。
「帰依」という言葉がありますが私は師と師の教えと流派を信じて稽古してきました。話をお聞かせいただくことがなければ心を教えていただくこともできませんでしたし、信じて稽古するということもなかったと思います。猿真似の技だけしていたでしょう。
- 2023/01/13(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
無雙神傳英信流抜刀兵法、澁川一流柔術、大石神影流剣術の三つの流派ともすべての形・手数は単純素朴です。地味といってもいいかもしれません。人目を引くような形・手数が一つもないのです。強い筋力や瞬発力などの身体能力を必要としません。これは稽古によって誰でも上達できるということです。よく考えられた形・手数で全く無理がなく誰でも上達できるシステムが構築されているのです。多少体を痛めたところがあったとしても無理無駄な動きをさせないので正しく動けば形・手数を遣うことができます。
これが合わない人もいます。物事は好き好きですから、派手な動き、身体能力を求められるような動き、筋肉の緊張を覚えるような動きが好きな人には会いません。物足りなく感じるのです。心の部分を探求しようとする人には最適な流派なのですが、アクションがしたい人には不向きです。
このあたりを考えて広報活動をしないと適した人が集まらないのではないかと思います。
- 2023/01/14(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
武道における礼と無雙神傳英信流抜刀兵法における礼法について一、はじめに
まず、「武道」について
武道という言葉は、「武士としての生きる道」「武士道」といった意味で、江戸時代以前から使われていたようである。特に武道というものが、武術や武芸を指すという意味のものではなかった。現代に於いての「武道」という言葉の概念は、大正後期ごろに柔道・剣道・弓道の総称として使われ始めたものである。
現代武道では、競技性という側面よりも「人格形成」としての目的を主体とし、礼法を重視されているのである。
また、「武道」は、日本武道協議会が制定した武道憲章では「かつて武道は、心技一如の教えに則り、礼を修め、技を磨き、身体を鍛え、心胆を錬る修業道や鍛錬道として洗練され発展してきた、術から道へと発展した伝統文化である」と規定している。
そして、近代以前の流派武術を伝承しているものは「古武道」と呼ばれている。
武道という概念を大まかに捉えるならば、日本において独自に発展した武術の文化を基にして、近代になってからは西洋のスポーツに混ざりながら、伝統性と近代性の両面を持ちあわせて近代的に再編しながら成立した文化と言えるであろう。
二、「武士道」という言葉について
武士道を論じた書物で有名なものとして、新渡戸稲造の『武士道』が有名であるが、では武士が実際に活躍していた時代に、当時の人々が何を指して「武士道」と呼んでいたのであろうか。
武士道という言葉は、中世社会にはまだ見られない。
中世では武士の行為が「弓馬の道」、「弓矢とる身のならい」などの言葉が当てはめられていた。「武士道」という言葉が出現しだしたのは、武田流兵学の聖典として知られる甲陽軍鑑である。兵学の書として、武士の間で広く読み継がれたことから「武士道」という表現の普及に大きな影響力を与えていたと思われる。
甲陽軍鑑において武士道が語られるのは、専ら戦場における武功、勇猛果敢な働きと不可分であるとされている。
武士道に役立つ人間を行財政の事務的役職などにつけるのは人材の損失という批判であり、武士道とは端的に戦陣における働きぶりとして、を指している。
しかしながら武士道のその後の展開は、外面的な武勇よりも内面的な強さを重要とし、人としての徳を積むことへの方向へ進んでいった。
1642(寛永19)年に出版された『可笑記』の武士道論で、武士自身による武士道の定義として、「武士道の吟味と云は、嘘をつかず、軽薄をせず、佞人(こびへつらう者)ならず、表裏を言はず、胴欲ならず、不礼ならず、物毎自慢せず、驕らず、人を譏らず、不奉公ならず、朋輩の中よく、大かたの事をば気にかけず、互ひに念比にして人を取たて、慈悲深く、義理つよきを肝要と心得べし、命をしまぬ計をよき侍とはいはず」
200年以上も続く世界史的に稀な太平の世であったことで、武士道は次第に徳義な性格を深めるものへと進化していった。そして、武士道の精神は武士階級にとどまるものではなく、広く庶民へも浸透することとなり、国民道徳としての性格を持つようになった。
三、「武道の礼について」
武道において、もっとも基本となることは「礼」である。
礼とは相手を思いやり「礼に始まり礼に終わる」という言葉は、まさにお互いを尊重し、敬意を示す態度を表している。
貫汪館の礼法に関して説かれている部分には「武道は人との関係において成り立ちます。「和」がない武道は暴力に過ぎません。相手との「和」を保たせる基本が礼である。」との教えがある。
どんなに正しい作法であったとしても、心がこもっていなければ「礼」とは言えず、表面を取り繕うものではなく、相手を思いやり、尊重する心の表れであるといえる。
「礼」のなかに含まれることとして、「義」は常に人として正しい道を志し、「勇」は、「義」を果たすためには勇気が必要であるということであり、徳として教えられるものである。「仁」は、愛や寛容、他者への情愛等を指す。「礼」は、相手への思いやりを形として表したもので、「誠」とは、その文字の通り「己が言ったことを成す」ことを指す。「名誉」は、常に高潔さを求め、人格の尊厳を重んじる徳のことである。「忠義」は「何のために生きるのか」を指す徳のことである。この「忠義」だけは、他の6つの徳とは異なり、武士特有の思想価値観であるといえる。「忠義」を考えるとき、それは強制ではなく自発的なものであり、武士は己の正義に対して忠実であるという行動規範であると解釈する。
これらのことについて、心のない「礼」では武道に求められる道ではないということではないだろうか。
この7つの道徳規範を含めて、「礼」とは、武道だけに限らず、現代社会に照らし合わせると、「相手を敬い想う気持ち」「相手の立場に立つ」という心が社会でも日常においても欠かすことができないものである。
四、「無双神伝英信流抜刀兵法における礼法について」
無双神傳流抜刀兵法の礼法の流れとして、神前の礼、刀礼、帯刀をし終えた後に、再び刀礼、神前の礼との手順となる。
道標「礼法」では、無雙神傳英信流抜刀兵法で行う礼法や、澁川一流柔術で行う礼式は単なる儀式ではない、とある。
初心の内に、これを単なる儀式と考え、手順をしっかり確実にという事に主眼を置いて稽古してしまえば、後々の自分自身の稽古はそのレベルを基準にしてしか進みませんので、上達は困難を極めます。自分で初心に戻って礼法から稽古しなおさなければならないのですが、人の心はそう素直ではなく、手順を覚え、体に染みついたものを再度壊してやり直すことほど難しいものはありません。
神に礼をする、刀に礼をする、師に礼をする、互いに礼をするのは礼の心が大切であり心なくして礼の形を作ってしまえばそれは礼ではありません。目的のない動きなのですから、それ以後いくら形を稽古したところで形のみを求めてしまう癖からは逃れることはありません。
また帯刀するときも、刀を使うために帯刀するにもかかわらず、帯刀の動きを見事にしようとしてしまえばかえって不自由な体を作ってしまう事になってしまいます。帯刀する時はすきなく、動きに無理無駄ない、いつでも不測の事態に応じることができる状態でなければなりません。
戦う技術ではない、たかが礼法ですが、それ以後のすべてをきめてしまう、と説かれています。
また、道標では、無双神伝英信流抜刀兵法にも渋川一流柔術にも共通して言えることに正座の姿勢の大切さにも言及されています。
座姿勢は本質的に座ることそのものが地球の引力に抗していない状態であるので、下肢に無理が働かない、非常に安定した状態に入りやすく、体の中心と引力の線が一致した場合には全ての方向に自由に動ける状態にもあります。
立姿勢で体の中心と引力線が一致し、下肢に力みがない状態が再現できれば、無理のない自由な動きをなすことができます。
ただし、正座をするときに留意しておかなければならないのは、いつもお話をしているように、現代の良い姿勢が、即、武術にとっての良い姿勢にはならないということです。現代人の感覚の良い姿勢(胸をはって背筋を伸ばし両肩甲骨をひきよせ、体を力みによって統一させ・・・)は明治以降富国強兵政策の中で、国民皆兵のために導入された体育の授業の中で形作られたものです。したがって、現代において武術の経験のない人や経験の浅い人が正座の姿勢を見た場合、現代的な感覚の良い姿勢で正座しているのを見事だと感じる事が多いいのが現実です。
胸を張ることなく、両肩甲骨をつけることもなく背筋をピンと伸ばすこともなく、体を力みによって統一させることのない、あくまでそこにあるだけの姿勢、そのような極自然の姿勢から業は出てきます。この正座の状態を基として立姿勢を工夫することが、居合、柔術ともに上達への近道となる、とあります。
五、最後に
入門して七ヶ月を振り返り、初心をいつでも忘れることなくこれらの稽古を疎かにすることなく、毎回の稽古で常に新しい自身を感じ形のみに流れることなく、心と志と理を求める稽古を積んで参りたいとかんがえます。
- 2023/01/15(日) 21:25:00|
- 昇段審査論文
-
-
無雙神傳英信流抜刀兵法の手の内は常々お教えしていますが、これを斬撃の稽古で構えたときのことのみととらえている方の多くが動きの中では異なることをしています。
たとえば斬撃の稽古で振りかぶった時、初発刀で振りかぶった時に小指と掌が上下にあいた(すいた)状態になる人が多いのですが、これは右手があるために刀を右手に預けることによってそうなっています。振りかぶった時に自分の手の内がどうなっているかを確認するためには振りかぶった状態のままで一人であれば鏡の間近に移動して確認し、複数がいるのであればスマホで写真に撮ってもらうなどして確認してください。自分でわかっていない、またはできていると勘違いしているので、自分自身の感覚で修正することは出来ません。目視してください。
またこのように小指と掌が上下にあいた状態のかたは斬撃したときに必ず体に反動があります。臍下丹田から背中を通り、脇の下から腕の下部そして手の内から切先までがつながっていれば刀は体と一体となって動きますが、手の内が間違っていいることによって体と刀は別のものになっています。それで斬撃したときに無意識のうちに刀を止めようと刀をつかみます。筋力が強い人ほどその反動を感じませんので、自分はそうなっていないと思いがちです。これは動きの最中に起こることですのでスマホで自分の斬撃を確認してください。すべての動きは自然に柔らかくあるべきものです。
少しでも違和感を感じれば上達の見込みはあります。違和感を感じない人は山に入り、自然に身を任せ木の葉の音を聞き、鳥や虫の声を聴き、小川のせせらぎの音をきいて、自分の感覚を取り戻すところから始めてください。
- 2023/01/16(月) 21:25:00|
- 居合 業
-
-
抜付けで鞘手の小指・人差し指・さらには中指迄が鞘から離れる方がおられます。正しくは昨日述べた斬撃の稽古のときに中段に構えたときと同じ小指、薬指が軽く鞘に巻き付いており前腕の内側の線が親指迄つながり、手首が折れてはいけません。
前述のようになってしまうのは少しでも鞘を後方に下げて刀を抜こうとするためですが、抜けないからこそ工夫ができるのです。まず正しく抜けていないということを自分の事実として認識し、どのようにすれば正しい鞘手の手の内で抜付けができるか稽古してください。たいていは抜きたいという思いが先に立ち体が緩んでいないのです。
鞘手がおろそかになる人は柄手もいい加減になっています。ひどい場合には抜付けを右手で行ったり正対してしまい、何流かわからなくなっています。
自分の体を自分自身で観察できる力がまだ備わっていないので、鞘手を確認するためには抜付けたところで止まり、鏡を用い自分の鞘手の手の内がどうなっているのかをしっかり確認してください。手首が折れているのは抜付けで力強さを感じるためのダメな動きを身につけているので数年かけて直してください。毎日、刀を持っていないときにいつも鞘手の稽古をしても数年かかります。それ以外には方法はありません。また、ここを身につけなければ無雙神傳英信流ではありません。手首がおれてはいないけれど小指や薬指が開く人は心を鎮めゆっくりと動く稽古を重ねてください。早いうちに直しておかないと直らなくなります。
鏡で自分の歪に気付いたら正面からビデオを撮り確認してください。鞘手がおかしい方は右手中心に刀を振り最後には体の開きが正対していこうとしています。
- 2023/01/17(火) 21:25:00|
- 居合 業
-
-
稽古はゆっくり丁寧に行って自分のダメなところをなくしていかなければなりません。
多くの方が上級者と同じようにしたい思われるためか速く速くと動かれます。自分が動けるスピードの限界に挑んでいるかのようです。結果として雑な歪な動きが身についてしまいます。
指導者も指導するときにはゆっくり丁寧に動かなければなりません。さらにいえば自分ができる最高の業を見せるのです。これができなければ指導を受ける人たちはいい加減なものしか受け取れません。
稽古は 「ゆっくり丁寧に」。忘れないでください。
- 2023/01/18(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
無雙神傳英信流、澁川一流、大石神影流ともに足心にたちます。踵に体重を乗せて踵で立ったり、踵を浮かせて蹠骨部で立つわけではありません。
踵で立てば肚が働かず浅い呼吸になり動きは鈍重になります。踵で立つ癖を持つ人はまずいないのですが、この癖を持つ人は何らかの特殊な事情でそのように癖づいているのでなかなか直りません。土台が異なるのですからすべてが違います。これは立っているときだけではなく正座したり、立膝であっても出てくる癖です。1カ月や2か月で直るものではなく、毎日心がけても最低でも数年必要になります。治るまでは全く上達することはありません。後進に追いつかれ追い越されるだけです。対処療法にも意味がありません。これまでの稽古で積み重ねたものは砂上の楼閣であり元から正さなければ無意味なのです。
前がかり踵を浮かせて蹠骨部で立つ人は素早く前に動きたいという思いが形に現れた人です。心がそうさせていますので心を鎮めて体を鎮めるほかに直すことは出来ません。そうせずに踵を床につけたとしても形だけで本質は変わっていません。この癖を持つ人も正座や立膝で座った時にもその癖のままに座ります。
どちらかの癖を持つ人は何を差し置いてもこの癖を直すことを優先してください。直らなければ上達しないどころかいくら稽古をしても悪い癖を身につけるだけです。直れば上達します。
- 2023/01/19(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
ある流派の方にあることを尋ねられたのですが、あまりに当然すぎる事で初歩の段階で伝えられていなければならないことでした。近縁の流派であったので当然伝えられるべきはずのことだとおもいます。免許皆伝制をすて段位性となり、稽古しているうちに高段者となり、流派を会得しているわけでもないの教えることができるようになってしまうと何代か伝えられているうちにそうなっていくのかもしれません。
数世代前にわかれた同じ流派を習ったという方が話されていることにも同じようなことがありました。一応免許皆伝制を維持している様なのですが、中身がなく形だけなのです。ようは手順だけを伝え根本的なことがなくなっており、柔(やわら)のか所だけが大切になり、痛い痛くないで技が効く効かないという教え方をする全く形骸化したものになっていました。大切なことはどこへいってしまったのかとあっけにとられたことがあります。ご本人は古くからそのような教えだったのだと思っておられましたが、伝わっていないのです。
他流派の方でいらないものをたくさん付け加え元の教えはどこに行ってしまったのかと思える方のお話を聞いたこともあります。創作なのに「古武術」と称する人の考え方や、マスコミで取り上げられて有名になった人の動きなどを付け加えているのです。いらないものをつけ加えたら本来ある大切なものがなくなっていきます。
私たちが稽古している流派も適切な人がいなければ、いつどのようなことになるかわかりません。次の代に人を得なければそうなってしまうか伝えられることなく絶えるのでしょう。子供たちのような素直で純真な心の持ち主でなければ正しく伝えられていきません。「流」とは名ばかりで大切なところが伝えられていない形(かたち)ばかりのものになってしまいます。
- 2023/01/20(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
演劇の演出家の先生と久しぶりにお会いしお話をしたときのことです。俳優さんでも自分の癖(個性ではなく)を持ち続けて演技していると本物にはなれないようです。門人の演武をいろいろ見てきましたが自分の癖を個性だと思って演武している方には違和感を感じ、ある意味おかしな気持ちの悪さを感じてきましたが、これなのだと思います。
流派の動きではなく自分の癖がその人にとっては素晴らしく感じられているのでしょう。もっとひどい場合には流派を名乗りながら自分の考え方で演武しているのを見たときです。流祖代々の師範の教えよりも自分の考えの方が素晴らしいのだと思います。
澁川一流柔術の畝先生は「やっていればできるようになる。」とお話しくださいました。ただただ素直に教えられたことを稽古していればということです。自分の癖に基づいてでもなく、自分が新規発明したことに基づいてでもありません。
- 2023/01/21(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
言葉だけなら何とでも言えます。大切なのは行動が伴うかどうかです。「わかりました。」「承知しました。」といったところで行動が伴っていなければ嘘を言ったということになります。
武道は行動の学問ですのでむしろ言葉はなくても行動していれば良い部分があります。行動が伴わない言葉だけの人は相手が社交辞令を言っているのか、おだてているのか騙しているのかが理解できません。自分が言葉だけだからです。心は読めないのです。理兵法というのはこれに通じるものがあります。理だけわかったら、できなくても自分ができたようなつもりになってしまうのです。口先だけで行動が伴わないようなことは武道の修業にとって大きな妨げになってしまいます。
日常の行動で自分が多弁だと思ったら自分自身をみつめなおしてください。
- 2023/01/22(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
稽古には覚悟が必要です。覚悟がなければ会得できるものではありません。知ったことができることだと考える人は物真似は出来ても何も会得できずに終わります。
鞘手のかけ方、柄手の掛け方は秘伝です。いわゆる鞘引きも秘伝です。同じ土佐の他流派とは大きく異なっています。門人にしか教えません。教えられたとしてもこの部分をいい加減にとらえて会得しなければ無雙神傳英信流にはなりません。見える者が見れば物真似をしているとしか思えません。
しかしせっかく秘伝を教えても覚悟がない人は死に物狂いで会得しようと思わずに簡単にできたつもりになって形の手順を稽古することに興味関心が行きます。何がなんでも会得しようとは思わないのです。もうこのようなことは何度も直接お話ししているのに簡単にとらえてしまう人がいるということが驚きなのですが、修行して会得しようという覚悟がない人はそのようなものかもしれません。これは今はやりの「こういうことが分かった。」とか「このように動けばうまくいく。」というようなものとは異なり流派の根幹をなす部分なのです。それが流派を稽古するということです。梅本先生は私ができなければ何度も何度も動きを止められ、私は何度も指一本を動かすのみの稽古をしました。できなければ次はありません。
大石先生はそもそも覚悟がない者は弟子に取られませんでした。
特に人に教える立場にある人はどのような覚悟で稽古に取り組んでいるのか自分自身に問うてください。
- 2023/01/22(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
慢心とは仏教で自分を他と比較して心の高ぶることをいいます。詳しくは慢・過慢・慢過慢・我慢・増上慢・卑慢・邪慢があるようです。
「慢」とは自分より劣ったものに対して、自分の方がすぐれていると思うこと。「過慢」とは自分と同等の人に対して自分が勝っており自分以上の人は自分と対等と思うこと。「慢過慢」とは自分よりも素晴らしい人に対して自分の方がさらに素晴らしいと思うこと。「我慢」とは自負心が強く自分本位で物事を考えること。「増上慢」とは分かってもいないのに分かったようにふるまい、おごりたかぶること。「卑慢」とは自分よりはるかに勝っている人に対して大したことはないと思い、自分は少し遅れているだけだと思うこと。「邪慢」とは間違った行いをしても、正しいことをしたと言い張り、自分に全く徳が無いのに有ると思うこと。だそうです。
そっくりそのまま武道に当てはまります。仏教と比べ武道の場合は強い弱いにこだわりますのでなおさらなのだと思います。なおさらであるからこそ修行なのですが、自分自身で慢心に気付いていない人は稽古すればするほど慢心が強くなります。
- 2023/01/23(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
「恩を仇で返す」ということわざがあります。英語ではThe axe goes to the wood where it borrowed its helve.というようです。 澁川一流柔術の師畝茂實先生は慈愛の人でしたので諺通りのことをする人たちがいました。やさしいので騙せると思ったのでしょう
ある人物は稽古が半年にも満たないのに「空手の弟子と稽古したいので免許が必要。」と先生をだまし、先生の伝書を借り受けて2巻作成し、1巻は売名のために広島城に寄贈しようと画策しました。展示させようとしたのです。広島城がそのような新しいものを必要とすることなく、断られたら地元の公民館に寄贈しました。そして新聞記者に記事を売り、自分を宗家を譲られた人物と紹介しました。
ある人物は、これも弟子と稽古したいから免許が必要と先生に要請しました。先生は心技ともに至っていないのでと要所要所を省略され、心技ともに至ったら書き足すつもりでおられました。しかし、その弟子は自分の著作に「最近の古老は伝書を全て書かずに渡す者がおり・・・。」と書きました。先生は「これは自分に対する悪口である。」と言われ、私に要所要所を省略した理由を話されました。
絵伝書を伝書を自ら作り印判を先生に求めた人物もいます。先生は必ずコピーをくださいと言われたにもかかわらず、その後は音沙汰なしでした。
このようなことを「恩を仇で返す」というのだと思います。
- 2023/01/24(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
武道の稽古は重ねれば重ねるだけ自分のダメなところが見えてきます。初心者の内にはみえていないのでこれだけできるようになったと思うのですが稽古を重ねれば重ねるだけ自分が見えるようになってくるのでダメな個所は増えてきます。
初心者の内には自分ができなければならないことが10段階でしか見れずに自分は1できていると思っていても稽古を重ねれば初心稽古が進むとその1をさらに細かく見ることができるようになり、1を10分割できるようになります。そうすると出来ていたと思っていたことが実は細かく見ていくと1のうちの10分の3しかできていなかったことに気付きます。100分の3しかできていなかったのです。さらに稽古が進み1を100分割できるようになると、たとえ100分の30出来るようになったとしてもでいないことは70あります。稽古が進めば進むほどできていないことが増えてくるのです。それゆえに謙虚に道を求め続けることができます。
このような稽古をしていけば慢心になることはないはずです。「できるようになった」としか思えない人は自分が何をしているのか見つめ直してください。
- 2023/01/25(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
私が自衛隊を依願退職して広島に帰り、梅本先生に個人的に指導を受けるようになったとき、先生は何度も何度もできるようできるようになるまで鞘手柄手の動きを途中で止められました。初めのうちは鞘手の動きはじめの動いたか動いていないかわからないようなところです。何が悪いのかもわかりませんでした。次第に自分の「我」で動いているのだとわかりましたがわかってもできるものではなく、柄手を柄に触れさせていただけるようになるまで何日もかかっように記憶しています。柄手が柄に触れるとまた「我」が出てしまうことの繰り返しで初発刀の最後の膝を床につくところまでどれほどかかったか覚えていないくらいです。その後は比較的スムーズに指導していただきましたが、「我」のでるところは多くあり、そのたびに「我」をなくす稽古です。
「我」は人によって異なりますが「強く」「速く」「しっかり」「見栄えよく」といったところが初心者にありがちなところです。稽古が進んでも初心者とは別の「我」が生じます。それを自分自身でなくす稽古ができるか、それともますます強くするのかで武道が修行になるのか、自己満足の虚栄心の養成になるかが決まります。後者であれば武道を稽古する意味は全くありません、むしろ普通の人よりも我欲の塊になっていくのです。「我」をなくす稽古が「古 (いにしえ) を稽 (かんが) える」ことで、流派を身につけることです。戦前にできた居合の大流派の後学の人がその流派を作った人の形と手順は同じでも本質が全く似ても似つかぬことをしているのを見ると流派は途絶えているのだと感じてしまいます。私たちが稽古している流派もいつそうなるかわかりません。稽古する方の心掛け一つです。
- 2023/01/26(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
教えられたことを通り一遍おこなってできたと思う人と、まだまだと思って工夫する人では上達の速さが全く違います。
無雙神傳英信流でははじめに稽古する礼法はそのまま抜付けにつながります。人によってはいつまでたっても自分で体を傾け手を出す人がいますがその人の抜付けはそのレベルにとどまり何年たとうが10年以上になろうがそのレベルの抜付けしかできません。反対に礼法をまじめに稽古した人は肚の働きを覚え手先ではなく体で刀を抜く(抜ける)ことを覚えますので初心者であっても質の高い抜付けをします。上達は速やかです。
ただ回数を繰り返す人と、質を高めるために一つ一つの動きを検証して次はより良くと心がける人の違いです。
- 2023/01/27(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
大事をは皆受取と思ふとも
みかかさるには得る道はなし 無雙神傳英信流の道歌です。いくら道を示しても、極意を教えても、それを知識として得ただけで会得したと思い込む方が実際におられます。磨かないのです。会得できるはずはありません。一つを教えられたら命がけで会得しようと心がけなければならないのに、次の稽古に来ても全く変化がない人は聞いただけで会得していると考える方です。そもそも上達しようとする熱意もないのかもしれません。
自分がある程度できるという間違った自信を持っていればそうなるでしょう。「できる」のですから。根拠のない大きな自信を持っていますから会得しようとする工夫もありません。本来ならば稽古が進めば進むほど繊細になり自分の至らなさがより見えてくるはずのものなのです。できると思ったときが要注意です。
- 2023/01/28(土) 21:25:00|
- 未分類
-
-
ものをよく習おさむと思共
心掛すは皆すたるなり 以前は良かったのに、ダメになったというのはよくあることです。会得したと思ったときに慢心し、心がけていなければ完全に身についていなければ身から離れていきます。これも慢心のなせる業でしょうか。できていた(できかかっていた)ことが完全にできなくなり残ったのは中身ではなく中身を似せた外側だけの張りぼてです。気迫の真似事をして表情を作ったり、剣術や柔術で有声の気合が肚からでるのではなくただ有声の気合ににせた声を喉から出してみたり。中身がなくなるのです。
常に心掛け求め続けていなければそうなってしまいます。「できた」と思う心がそうさせてしまいます。
- 2023/01/29(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
我道の居合一筋雑談に
知らぬ兵法事を語るな 世の中には様々な方がおられます。実際に自分が経験したこともないのに、知識だけのことをべらべらとまくし立て自分の知識に酔う方。現代はインターネットがあり何でも発信できるのでこのような方を目にすることも多くなったのだと思いますが、この道歌が出来たころにもそのような方がいたのでしょう。子供のころによくいる「物知り博士」であればかわいいのですが、こと武道に関しては話は別です。武道は実伝を得て後に体得して初めてわかる道です。心と業を道の師について習ったこともないのに語ることは出来ないものです。
また武道は人の命にかかわることをしています。知らないことを語るのはその命をいい加減に扱うことに通じてきます。昨今のにわか素人軍事評論家が人の命が失われていることも全く考えずに、べらべらと持論を述べるのと似たようなところがあります。貫汪館で稽古される方は絶対にそのようなことはしてはなりません。
- 2023/01/30(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
師にとわすいかに大事を教へき
心をすましねんころにとへ できていると思ったう人は自分に疑問をもつことはなく、また外形にしか興味がなければ質問もできません。すでに習っているのに真面目に聞いておら、知らないと質問するのは論外です。
深く求めているときには疑問ができ、工夫していてもできないことがあります。そういう時に師に訪ねたら道が開かれるときがあり真摯に求めている弟子を師は導くことができます。しかし、教えられたことを求めず、会得するための工夫を怠っている者には教えることがかえってマイナスになることもあります。
求めている者には与えられ、求めることを怠っている者にはたとえ与えられたとしても無意味になるものです。「心をすましねんころに」でなければなりません。
- 2023/01/31(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-