武道はできるようになったと思った時に道を外れ始め、堕落していきます。修行どころか慢心への道です。さらに自分が立派な人物であるかのように見せかけるために、行動の伴わない、自分とはかけ離れた道を説くようになります。
はじめは10出来ないと思っていたのに、少し進んでは20出来ていないと思うようになり、さらに進んだら100出来ていないと気づくことが修行です。自分を素晴らしいと思ったり、達成したと思ったらそこで地獄への道を落ちていくことになります。
そういう意味から古武道は試合がないために慢心しやすいとも言えますし、試合がなく優勝者をきめないので道を進みやすいとも言えます。
限られた条件の中で優勝者をきめる武道の試合は純粋な武術・武道という観点から考えればあまり意味がないもので、実際には、不意を突いたり、気象を利用したり、1対多であったり、ありとあらゆることが起こるのが現実です。その現実から離れたところに試合の優勝者があります。武道をスポーツ・競技ととらえるか、あくまでも万が一の実際の場面で用いられるものと考えるかの違いですが、私たちはいくら防具着用の稽古に上達したとしても、それは全体からみればごくわずかな部分だと考えなければなりません。
- 2018/11/01(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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貫汪館では旧来の初傳・中傳・免許皆伝等の許しのほかに上達の度合いを確認するために習得した形・手数の練度に応じた段位制度を併用しています。この段位制度の利点としては目標を持ちやすくその目標に向けて努力しやすいことにありますが、他の団体等を見ても大きな弊害もあるように感じます。
その弊害とは段位が高ければそれだけ大きな声を上げることができるという点にあります。6段よりも7段の方が高位にありますので7段の方の話すことの方が信頼され、さらには8段の先生が言うことが信頼される大きな弊害があります。実際には段位はその人物を評価するものではなく、基本的に技術の評価であるにもかかわらず、段位の高い人物の影響力が大きくなるのです。したがって人間性が低い人物であってもその影響力は大きく、団体全体に与える悪影響は非常に大きくなってしまいます。
幸い貫汪館ではその弊害を防ぐために段位は7段までしかありませんし、範士や教士といった称号も設けていません。8段を設け、範士の称号を設けてしまうとその肩書に慢心してしまうことを恐れたからです。大きな武道の団体の状況をみても、これは正しい判断であったと思います。
今後海外にさらに組織が発展して外国人の間に稽古されるようになると海外から8段や範士といったものを設けてほしいという声が上がるかもしれません。しかし、既存の大きな団体の現状を見ると、そのようなものを設ければ組織が駄目になっていくもとだと考えます。
- 2018/11/02(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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貫汪館で稽古している無雙神傳英信流抜刀兵法、澁川一流柔術、大石神影流剣術ともに意図的にそのようにするそのような位置にもっていくという稽古方法はとりません。
刀の位置、高さ、相手を押さえる位置、彼我の位置関係等々、かくあらねばならないというものはありません。全て彼我の状況によって定まりますので子細な部分化で規定する必要はないのです。
特に素抜き抜刀術は一人で稽古を行うので、初心者は不安になって斬撃した刀の位置や高さ、抜付けた時の高さや角度、振りかぶった時の刀の角度などを気にして目安にしたいようなのですが、全て彼我の関係によって決まることです。そうするのではなく、そうなるのです。ここを間違って稽古すると、稽古したばかりに逆に不自由なそのようにしか動けない体を作ってしまうことになります。
植田平太郎先生が細川義昌先生の教えを書き残したものにも、抜付けだけに関してのべれば、抜付けは相手の右側面とあり、詳細な部位を規定されてはいません。
- 2018/11/03(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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上達するためにはかつて習った事を忘れる必要があると、これまでにも記していますが、異なる理論の上に新たな技を身につけようとしても不可能だからです。
たとえはあまりよくありませんが、江戸時代の木造家屋を建てる時の考え方で、鉄筋コンクリートの家を建ててうまくいくかどうか、また逆がうまくいくかどうか・・・。
忘れられない方はそのようなことをしようとされているのです。これまで何人かの方が年数をかけ稽古して、無雙神傳英信流抜刀兵法、澁川一流柔術、大石神影流剣術の形・手数の手順を覚え、手慣れた動きができるようにりました。しかし、そういう方は流派を体得しているとは言えないのです。流派の手順を覚えているにすぎません。
流派の考え方、理論を体得するほうが形・手数の手順を覚える事よりもはるかに大切なのです。そこに気付ける方だけが上達をしていきます。年数が長い短いではなく、形の手順を覚えているかいないではなく、大切なことはそこにあります。
- 2018/11/04(日) 21:25:00|
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行おうとする物事に対して反対する勢力は、真意は別の所にあるとしても必ず大義名分を振りかざしてきます。
したがって、物事を準備するためには隙を作ることはできません。隙は無くても嘘の理由までもこしらえて邪魔をしようとする悪意がある人物はたくさんいます。悪意ある人物が存在するという事まで想定したうえで物事を進めなくてはならないので大変なのですが、悪意ある人物は実際にそのようなことを平気で行います。
いつか正されることがあったとしても、悪意ある人物が天罰を受けるとしても、被害は大きいものです。
守るのは難しく、攻めるのは簡単です。物事を守ろうとすれば、細かなことにまで気を配り、細心の注意を払わなくてはなりません。悪意ある人物たちには恥も正義もないのですから。
- 2018/11/05(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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中身がないものであっても、マスコミやSNSによって、素晴らしいものであるかのように見せかけることが出来る時代になっています。以前はマスコミ出版だけでしたが、現在はSNSがあります。
自分に自信が持てるようになるまでは、これらによって振り回され、「子どもの未来のため」「地域の活性化のため」「自分を知るため」・・・などという言葉があれば、その言葉にまどわされ、中身をよく吟味しないまま素晴らしいものと思い込んでしまうのです。
また、中身がないものたちも、そのような言葉や雰囲気を出して人を呼び込みますので、ますます、見えなくなってしまうのだと思います。いわゆる古武道で人を集める方の中にも、一見して
覚悟がない事がわかる人もいます。覚悟がないので、技・技術のことばかりが前に出るのだと思いますが、そのような人であってもマスコミや、出版やSNSをつかった自己宣伝は巧妙です。現代武道を長年された方でもまどわされるほどです。
武道に限らず、このようなことはどの分野でも起こっています。育児中の母親は「子供たちの未来のために」という言葉に弱く、それを行っている者の真意は見えず、病を得ている方も特殊な方法にまどわされることがあります。十分に気を付けて、惑わされることがないようにしなければならない時代になっているように思います。特に子供の教育にかかわることには要注意です。子供を間違った道に進ませる可能性もあります。
- 2018/11/06(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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言い出したことを責任をもって実行しないのは誠がないからです。以前も言及しましたが誠がある人は言った事に責任が取れなければ苦しみます。言った事に責任が取れなくても苦しまないのは心と体がバラバラなのです。
最近は便利な言葉、「私の想いにこたえてくれる」があります。想いにこたえてくれているのですから、こたえてくれた人に感謝する必要もありませんし、その人を裏切っても何も感じなくてもよいのです。その人が行動したことは自分の為ではなく想いという実態が存在しないもののためだからです。
誰がこんな言葉を表に出し始めたのかわかりませんが、日本人はどんどん責任感を失っていきます。
- 2018/11/07(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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「真心をもって約束を守り、相手に対するつとめを果たすこと。」「いつわったりあざむいたりせず、真実で正しい道を守ること。」だそうですが、もう多くの日本人には失われつつあるのかもしれません。
「真心をもって約束を守り」の部分を「利害関係に基づき」とした方がぴったりしますし、「真実で正しい道を守ること。」を「利害関係において得をする道」とした方がぴったりとあてはまると思ってしまいます。
30年前アメリカ陸軍防空学校に留学した際、中東の陸軍士官達と話をしているとき「昔の日本人ビジネスマンは立派な心を持った素晴らしい人たちばかりだったが、最近はアメリカ人のビジネスマンのようになっていて悲しい。」と言われたことがあります。初めに述べたような状態になりつつあったのだと思います。30年前がそうなのですから、今、日本人はどうなったのでしょうか。
- 2018/11/08(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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無雙神傳英信流抜刀兵法においても大石神影流剣術においても「上段」という言葉にとらわれて剣を上にあげる事と勘違いする方がおられます。確かに剣は上にありますが相手に向かって落ちる寸前の状態であり、体の内部の動きも落ちる寸前にあります。したがって中段や下段の体の状態とかわることはありません。
上段に構えたときに鼠径部のゆるみがなくなり、重心が上がっている方は自分の構えを見直す必要があります。
- 2018/11/09(金) 21:25:00|
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大石神影流剣術や無雙神傳英信流抜刀兵法では相手の心を読まなければ形として成立しないものが多々あります。相手の動きを見てから動いたのでは遅く、逆に相手に制せられてしまいます。形であればこそ心の動きを読む稽古をしていかなければなりません。
- 2018/11/10(土) 21:25:00|
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かって、「命もいらぬ、金もいらぬ。そんな人物でなければ共に仕事はできぬ。」 と言った人がいます。
今は実は自分の利益を第一に考え、また、自分の名をあげることを第一に考えて動いているのに、それを町の発展のためと置き換えたり、未来ある子供のためと置き換えるのです。この言葉に多くの人達はだまされ、実際に何が行われているのかを見ようとはしません。
たとえ大義名分を掲げたとしても、掲げた本人に誠がなければ、長い目で見たときには害悪でしかありません。
自分は私利私欲が第一ではなく、公益のために動いていると見せかけて、実は自分の利益を第一に動けるので、便利な言葉です。このような言葉を用いる者がいかに多いことか。心身一如ではないので言葉を弄して、言葉遊びをしても何も苦しむ必要はないのです。
大きな国難がせまりつつある今、「命もいらぬ、金もいらぬ。そんな人物でなければ共に仕事はできぬ。」 そのような人物はどこにいるのでしょうか。
- 2018/11/11(日) 21:25:00|
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形を通じて上達するということは現代武道の多くの人には理解不能かもしれません。形を攻防のパターン、つまり、こうきたらこうするというパターンの練習だと思っているからです。
ある現代居合道を稽古しているアメリカ人が、形数か少なければ、相手に対処できないと言ったことがあります。形を攻防のパターンと日本人現代居合道指導者に教えられているからです。しかも、現代居合道なのでたんに素抜き抜刀術を教えているにすぎません。
そのような考え方からすると、居合でも、弓に対する形、砲に対する形、槍に対する形。手裏剣に対する方がすべて必要になってきます。心得としての教えでは不十分です。
- 2018/11/12(月) 21:25:00|
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形稽古を単なる決まったパターンの繰り返しと教えられていれば、古武道の稽古を始めても上達しないのは当然のことです。実際はいかようにも動ける状態の中のひとつを表しているにすぎないのですが、決まったパターンの繰り返しと考える方は次はこう、その次はこうとあらかじめ考えて動くので、まったく生きた稽古にはなりません。
下手な現代武道の稽古をされた、あるいは教えられた方が、古武道の形稽古で上達しない大きな原因の一つはここにあります。
- 2018/11/13(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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是故誠者、天之道也。思誠者、人之道也。至誠而不動者、未之有也。不誠、未有能動者也是この故ゆえに誠は、天の道みちなり。誠を思うは、人の道なり。至誠にして動ざる者は、未之有あらざるなり。誠ならずして、未能動うごかす者は有ざるなり、と。
『孟子』離婁上の一節です。時代が違うのだと思わざるを得ません。
今は誠よりも経済です。誠よりもSNSの評価です。誠が人を動かず時代ははるかに遠い過去のものになってしまいました。お金やお金に結びついた評判やマスコミに作り上げられた虚像の評価が人を動かします。
誠は今は人は動かせないけれど、天にだけは通じるかもしれません。
- 2018/11/14(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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身内だけの演武会、あるいは発表会ではなく、全くの素人の方を含んだ外部の人たちが見ることができる場での演武をかりに公的演武とよびます。その公的演武で絶対にしてはならない詐欺的行為があります。
それは自分が正規に習ってもいない流派を演武することです。自分が習ってもいない流派を演武するのは、かわったものを見せたいという利己的な思いから起こることであって、正規にその流派を習った者からすれば完全な詐欺的行為です。
また現存しない流派を復元したとしても、それをたとえ復元であるとうたったとしても公的な場で演武するのは詐欺的行為です。それを見た素人の方にはたとえ復元といったとしても復元という言葉ではなく、その演武が目に焼き付くからです。武道に縁のない人には「復元」という意味もよく理解できない場合もあります。復元したと浮かれている方にはそれでよいのかもしれませんが、それが果たして正しいのかどうかは誰からも検証を受けることはできないのです。正しいかどうかわからないものを公的な場で演武できるのは、復元したものにたいする自信と、見せたいという利己的な心から発することです。貫汪館で稽古する方は絶対に行ってはなりません。
- 2018/11/15(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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貫汪館の古武道には特別な身体能力は必要ないと記し、必要なのは素直な心だと書いたことがあります。然し必要な事がほかにあることに気づきました。それは自分と向き合うことができる力です。
貫汪館の古武道には特別な身体能力は必要ありませんが、心がそのまま形となって現れる武道ですので自分に向き合って自分を知るのが嫌な方には向かないのです。動きを正そうと思えば自分の心を正す必要があります。つまり自分自身の至らないところ嫌なところを見ざるを得ないのです。
自分自身の心を見ることなく、バブルの頃のように浮かれた世の中だけを見て、その中で楽しく暮らそうとする方には向いていない武道だと思います。
- 2018/11/16(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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最近は日本の国防に若い人たちの意識がやや高くなっている傾向があるといいます。はたしてそうでしょうか。
たしかに、そのような傾向があるようにも感じることがありますが、少し奥を見ると、自分たちは国を護るために戦うことはないけれど、自衛官の皆さんは頑張ってね、応援するから。という意識を持っている若者が増えたようにも見えます。
しかし、サッカーや野球の応援のようにいくものではありません。もし日本に何かあったら日本が戦場になります。スポーツのように自分は応援だけとはいきません。そこまでの意識があるのかないのか疑問です。
- 2018/11/17(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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自分で経験したことでもないのに人の話を伝え聞いて、しかもその状況に自分の憶測を交えてそれを批判する。さらには状況もわからず、自分の勝手な憶測でその批判に同調する。そのようなことが行われる時代です。人との付き合いは余程慎重に行わなければなりません。と同時にそのような批判に意味があることなのかどうかを判断する目も養わなければなりません。
そのようなことが武道を行っている、指導しているという人の中でも行われるような時代です。事実を確かめずに批判をしても「無礼」の責任を取らずに済む時代だからです。時代が時代なら果し合いになりかねない、または責任をとらなければならないようなことが平気で武道を稽古している、指導しているという人たちの間でも行われるようになってきています。覚悟を必要としない時代だからでしょう。
- 2018/11/18(日) 21:25:00|
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上達しようとしたら自分を捨てなければなりません。自分の想いを先に立て、流派の形だけを身につけようとしても身につくことはありません。流派にはそれぞれの考え方があり、それは個人をこえたものであり、その流派の持つ考え方を身につけず手順のみ覚えても、流派を身につけたことにはならないからです。
流派の外形ができても、その流派を体得しているとは言えず、むしろ、覚えている形数は少なくても流派の考え方に随って従って稽古している初心者の方が流派の修行者ということができます。流派の考え方を身につけようとする人は形の覚えは遅くてもやがて成就しますが、流派の考え方を身につけず、ただ自分の考えに基づいて手順を覚える方は流派の習得は難しいかもしれません。
- 2018/11/19(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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少なくとも演武場に出るときのその人の歩み方を見れば、その人がどのような思いで武道を稽古しているかが分かります。
貫汪館では居合、柔術、剣術を併修していますが、居合はいついかなる時でも何かあった場合に対応する技を身につけなければならず、貫汪館で稽古する柔術の形にもそのような心構えを必要とする形があり、剣術にも鞘の内の手数があります。心掛けている方は、そのような歩み方をしますし、そうでない方はそれなりの歩み方しかしていません。
- 2018/11/20(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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歩み方について述べましたが、座り方でも、その人がどのような思いで稽古しているのかが分かります。現代武道は明治以降の国民皆兵の基本教練の影響を受け、姿勢もそのようになるのは当然のことです。国民皆兵とは全く関係のない現在の教育現場でも、授業の開始や終了時に「起立、気を付け、礼」は行われており、幼稚園児に「良い姿勢」と言ったら、背筋をピンと伸ばす軍隊式の姿勢をとります。
一方、古武道では、少なくとも貫汪館ではその技の特性から座り方が、背筋をぴんと伸ばして重心を胸にまで上げてという事はしません。重心は床の下に落ちているかの如く体は緩め、作るのではなく天と地はつながります。常に稽古の時にお教えしている通りです。
この思いが異なると貫汪館では上達していけません。
- 2018/11/21(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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世の中には器用な方もおり、普通では考えられないくらいの多くの柔術流派、剣術流派を身につけているとする人もいますが、近い関係にある流派であればそのようなことも可能かもしれませんが、立ち位置が異なる流派を身につけるにはいくつもの考え方、流派ごとの遣い方を身につける必要があります。そうでなければ、たんに動きをなぞっているにすぎません。多数の柔術流派を同時に修業したり、多数の剣術流派を同時に修行するのは非常に困難なのです。
登る道は異なっていてもたどり着く場所は同じという言葉があるのは、それだけ方法論が異なるからです。一度たどり着いた人が上から下を眺めればいくつもの道があるのがわかるでしょうが、たどり着いていないのに同時にいくつもの道を歩くのは難しいとしか言えません。
そのような理由からも、貫汪館では他流派を稽古されている方の入門は特別な事由がなければお断りしています。
- 2018/11/22(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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最近初心者の外国人を教えていますが、物事を習うのには素直さが大切だと感じてしまいます。その人はこれまで、武道を何も稽古したことがなく、習うことすべてが新しいのだと話されますが、何もないので教えたことを素直に受け取ろうとされるのです。
下手に現代武道の経験があったり、自分自身の武道に対するイメージが強かったりすると、習ったことがそのまま身につかず、自分自身の思いに基づいて身につけようとしてしまうので、歪んだものが身についてしまう事が多く、それを修正するために余計に習得するための時間がかかってしまいます。
何か知っていたり、身につけている方も新たなことを習うには素直に真っ白になって始めるほうが早道なのだと思います。
- 2018/11/23(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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江戸時代或いは室町時代に起こった流派であっても、それが実用であった時代にはその時代に応じたように変化していくのが自然なことです。現代の古武道が文化としての伝統を守ろうとするのとは異なっています。
ある流派の先生が、流派の歴史はとても古いけれども、幕末といった時代に応じた変化をしてると述べられていました。それが自然なのだと思います。戦国時代に起こった流派だからと言って、その時代の世の中の状況にあったままの状態を維持していただけでは幕末に銃を用いた中での白兵戦には不向きであったでしょうし、対応も難しかったでしょう。
時代に応じた変化を記した流派もあるかもしれませんし、記していない流派もあるかもしれません。他流派の演武を拝見するときには自分の知識にのみ基づいた見方をしては間違えてしまいます。
話は外れますが、戦場で白兵戦を体験された兄弟子が、正面に斬りつけても、ヘルメットがあるために不十分、袈裟に斬りつけても相手が厳寒用のぶ厚い綿入れを着ていた場合には効果がない。ヘルメット下の横面か突きと話されたことを覚えています。
- 2018/11/24(土) 21:25:00|
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初心者の方は、どうしても刀の柄を握りしめようとしてしまい4指を深くかけてしまいます。これは柔術の稽古をしても同じ状態になります。
初心者の方は刀の柄を握りしめないように4指を浅くかけなおかつ、できるだけ人差し指と中指は使わないようにし、親指は生きているようにしてください。そのような状態で刀を振ると、刀が手の中からすっぽ抜けてしまうと思われるかもしれませんが、そこから上達が始まります。柔術の手の内はその応用であると考えてください。
- 2018/11/25(日) 21:25:00|
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貫汪館の古武道の動きを稽古し続けて動きはずいぶんよくなっている方にどうしても身につけていただかなければならないのは覚悟です。これがなければ武道ではないと言ってもよいと思います。
簡単に言えば事を行う時に自分の命を投げ出せるかどうかという問題です。人を相手にしているのが武道です。問題がこじれてしまえば当然そのような事態になることを覚悟していなければなりません。また、何かを守ろうとするときには、そのような事態になることを覚悟していなければ守ることもできません。いかに上手に技が使えても、この覚悟がなければ武道にはなりません。また、覚悟がない人はいかに上手に演武してもそれが見えてしまいます。見る人が見ればいかに上手に動いていても、武道ではなく武道に似ている運動をしているにすぎないことを見て取られます。
覚悟を持って稽古しているかどうか、自分に問うてください。
- 2018/11/26(月) 21:25:00|
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一言指導すればすべてが変わっていく方と、一言で足りず10も20も教えて初めて伝えたいことの半分くらい理解する方がいます。
たとえば柔術の稽古をしていて「腰が高い」と指導した時に、その指導の意味は何かを考え「膝で相手を抑えているのだから、この指導は自分がつっ立っていて相手の胸に重さがかかっていないという事だ。」とすみやかに理解できる人は上達しますが、たんに腰の位置を下げるだけの人はなかなか上達しません。何も求めておらずただ指示を待っているからです。
何をすべきか、何をしなければならないのかという事がわかっていれば一言の指導で上達していきます。
- 2018/11/27(火) 21:25:00|
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「気が利かない」というのは、ある状況の中で、当然そのように動くべきことが出来ない場合に使われます。
それはこうしたらこうなる、こうしなかったら、こうなってしまうという事を考えていないからです。ある意味、武道においては致命的な欠点です。しつけられて、パターン通りに動くことはができるのは当然ですが、流動する状況の中で判断する必要があります。一度でも「気が利かない」と言われたことがある方は、周りをしっかり見て、どう動かなければならないかを判断して行動してください。周りが見えていなければ、武道を稽古しているのではなく、決まりきったことだけを身につけようとしていることになります。それでは武道を稽古しているとは言えません。
自分が常日頃、どのように動いているかを確認してください。
- 2018/11/28(水) 21:25:00|
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大切なことの指導を受けたら、少なくとも次回の稽古までには習得して臨もうとする心構えが必要です。そのような覚悟があれば完全には習得できていなくても、その方向で努力していることは表にあらわれます。
しかし、大切なことの指導をうけても、そのうちにと考えている方は、不思議なもので次の稽古の時には、できないのではなく、していないのだという事が見て取れます。
習得しようとしている方の上達はすみやかですし、そのうちにと考えている方の上達は、その程度ででしかありません。
- 2018/11/29(木) 21:25:00|
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打太刀、受は通常、師や上位者が行います(下位者が打太刀や受の稽古をする場合は別として)。形はある意味約束事の上に成り立っています。したがって打太刀や受を行う者はその理をよく知ったうえで仕太刀や捕を導くように動く必要があります。単なる負け役とは異なります。
たとえ長い年月稽古したとしても、理をよく知らないものが打太刀や受を行うと仕太刀や捕が上達しないだけではなく、理を体で覚えることもできず、たんに手順を繰り返しているにすぎなくなり、形稽古をしたばかりに不自由な動きが身についてしまったという事にもなりかねません。数年稽古していても理がよく理解できていない方は師に尋ねてください。
- 2018/11/30(金) 21:25:00|
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