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無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

謹賀新年

謹賀新年

 あけましておめでとうございます。
       本年もよろしくお願いいたします。

 年の初めに無雙神傳英信流抜刀兵法・澁川一流柔術・大石神影流剣術が上達できる方法を記しておきます。
 各流派には上達するための方法があります。自分を無にして、その方法に素直に従う事が上達への一番の早道で迷うことなくすべてを短時間で吸収していくことができます。ただそれだけのことなのです。
 一方、その方法にのらず、我意を中心にして、手順だけ真似をしてその手順を見事に行おうとすると、手順は覚えていたとしても、何年稽古しても上達することはありません。このような場合には必ず、全くできていないにもかかわらず柔術はできるけれど、居合はできないとか、剣術はなんとかなるけれど、居合はできないという思いを持つようになります。
 上達するための方法は難しい事ではなく簡単なことですが、この簡単なことができないのは自分の心が邪魔をしているからです。いかに素直であれるかが上達するかしないかを決めていきます。

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  1. 2019/01/01(火) 08:08:08|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

土佐藩 片岡健吉の稽古記録について(2)-1

今日から昨年末に日本武道学会中四国支部会で発表した「土佐藩 片岡健吉の稽古記録について(2) ―安政6年の『文武修行日記』を中心に―」を分割してあげていきます。4年前に発表したものと重なるところも多いのですが、お許しください。

Ⅰ はじめに

片岡健吉(1844~1903)は土佐藩士であり明治維新以降は自由民権運動の活動家、またキリスト教徒として活動した。
平成26年12月20日の日本武道学会中四国支部会で「土佐藩 片岡健吉の稽古記録について―安政5年の『文武修行日記』を中心に―」という演題で片岡健吉が安政5年(1858)、満14歳となる年に記した『文武修行日記』『稽古玉帳 萬控帳』を用いて片岡健吉の馬術、剣術、居合・體術の稽古について発表した。
本研究は片岡健吉が安政6年(1859)、満15歳となる年に記した『武藝控』1)から当時の土佐藩における武術稽古の実際について明らかにしようとするものである。
『武藝控』には表紙に「安政己未年 武藝控 正月吉日」と記されており、日付と、その日にどういう武術を稽古したかが記されている。裏表紙には「安政六年中 諸武藝日記 片岡健吉源益光 花押」と記され、裏表紙に紙縒りで『玉帳』2)が閉じられており、年度途中までの稽古回数のみが記録されている。

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  1. 2019/01/02(水) 21:25:00|
  2. 武道史

土佐藩 片岡健吉の稽古記録について(2)-2

Ⅱ 片岡健吉について

片岡健吉の略歴を以下に記す3)。
片岡健吉は天保14年(1844)、土佐藩士片岡俊平(馬廻格・250石)の嫡男として高知城下中島町に生まれた。
慶応4年(1868)1月、迅衝隊左半大隊司令及び外輪物頭に任じられ、1月20日に京都に向けて出陣、2月、大目付に任じられ、御軍備御用を兼帯し、迅衝隊総督・板垣退助に従って戊辰戦争を戦い会津若松城攻略等数々の功を立てた。
明治元年(1868)11月、陸軍参謀中老職となり、役領250石を加増され、11月、大目付を兼帯。
明治2年(1869)3月、参政・軍事掛を兼帯し、家禄400石に累進した。
維新後は新政府に出仕し、明治4年(1871)からロンドンに2年間留学。帰国後に海軍中佐となったが、征韓論派の失脚に伴い、職を辞して高知に帰った。
明治7年(1874)、板垣退助らと共に立志社を創設し、初代社長となる。
明治10年(1877)、西南戦争の最中に国会開設の建白書を京都行在所に提出したが不受理となる。同年、立志社の獄で逮捕され、禁錮100日の刑を受ける。
明治12年(1879年)、高知県会の初代議長となるが、県会議員選挙の制限選挙制に反対し、辞職。
明治13年(1880)、第4回愛国社大会の議長を務め、その後河野広中と共に国会期成同盟代表として国会開設の請願書を元老院に提出。
明治14年(1881)、自由党の結成に協力。
明治20年(1887)、保安条例違反による退去命令に従わず、禁錮2年6ヶ月の刑に処される。
明治23年(1890)に第1回衆議院議員総選挙で当選。以後第8回まで連続で当選。
明治31年(1898)から死去まで衆議院議長も務める。
日本基督教団高知教会の長老であり、東京キリスト教青年会第4代理事長ともなった。晩年、同志社第5代社長に就任し、在任中の明治36年(1903)に死去した。 
片岡健吉の武術修行を『片岡健吉日記』4)にみると次のように記されている

嘉永6年(1853) 正月 「沢田勘平門ニ入リ馬術ヲ学フ」
安政4年(1857) 6月 「寺田忠次門ニ入リ剣術ヲ学フ」(註:大石神影流)
安政5年(1858) 7月23日 「下村茂市門ニ入リ長谷川流居合 高木流体術ヲ学フ」
万延元年(1860) 10月21日 「本山団蔵門ニ入リ竹内流組打ヲ学」
  同   11月4日 「郷円之丞門ニ入リ槍術ヲ学」(註:以心流)
  同   12月ヨリ 「谷村亀之丞ニ馬術ヲ学」
(註:谷村亀之丞は無双直伝英信流の師範も兼ねる)
文久元年(1861) 8月25日 「本山団蔵ノ門ニ入リ古傳馬術ヲ学」(註:源家古傳馬術〔調足流〕)
  同   9月11日 「中山衛門七郎門ニ入リ北条流兵学ヲ学」
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  1. 2019/01/03(木) 21:25:00|
  2. 武道史

土佐藩 片岡健吉の稽古記録について(2)-3

Ⅲ 片岡健吉関係の武術資料について

 片岡家文書は高知市立自由民権記念館に所蔵されている。武道史関係の文書5)は以下の通り。

1.『居合歌之巻 全』
2.『居合心持引歌 全』
3.『高木流體術拳法』
4.『體術道標』
5.『安政5午年 文武修行日記』
6.『稽古玉帳 萬控帳』(註:安政5年)
7.『安政6年未歳武芸控』
8.『玉帳』(註:安政6年)
9.『安政7年申年正月吉日 文武玉帳』
10.『文武修行日記』(註:安政7年)
11.『文武修行日記』(註:万延7年)
12. 馬術関係の伝書
 
Ⅳ 安政6年(1859)に片岡健吉が稽古した流派について

 片岡健吉が安政6年に稽古していた流派は『武藝控』から読み取る限り、安政5年に稽古していた流派と変わらず、前縁に稽古をしていた流派をそのまま続けていたと考えられる。

1.馬術(流派名不詳)
 片岡健吉は嘉永6年(1853)正月に沢田勘平に入門し馬術を修行し始めたが、沢田勘平の流派は不詳である。当時土佐では大坪流、朝鮮流要馬術、源家古伝馬術、調息流が行われていたという6)
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  1. 2019/01/04(金) 21:25:00|
  2. 武道史

土佐藩 片岡健吉の稽古記録について(2)-4

2.剣術(大石神影流)
 土佐藩では大石神影流を学ぶ者が多かった。柳河藩の大石進種次、大石進種昌父子の総門人数は655名で、九州地方に233名(柳川藩の門人を除く)、中国地方に71名、四国地方に76名、近畿地方に10名、その他の地域に12名の門人がいたが、土佐藩士の門人は60名にのぼった7)片岡健吉は安政4年(1857)6月、寺田忠次に入門し大石神影流剣術を修行し始めた。
 片岡健吉の師である寺田忠次は柳河藩で直接大石進に師事して免許を得たのち、土佐藩で師範となった。嘉永5年(1852)、大石進種昌(2代目大石進)を土佐藩に招聘するため柳河藩に赴き、大石進種昌は友清助太夫と清水和作を伴い8月から10月頃まで土佐藩で指導した8)。吉田東洋や後藤象二郎はこの2代目大石進の門人である9)。
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  1. 2019/01/05(土) 21:25:00|
  2. 武道史

土佐藩 片岡健吉の稽古記録について(2)-5

3.居合(無雙神傳英信流)、体術(高木流)
 片岡健吉は安政5年(1858)7月23日、下村茂市に入門し長谷川流居合と高木流体術を学び始めた。
土佐の居合は一般に長谷川流と呼ばれるが、下村茂市の流派は正式には無雙神傳英信流と言う。下村茂市は山川久蔵の門人で、文久2年に藩校致道館の居合術導役となり、明治元年に居合術指南役となっている10)。また、下村茂市は弘化2年(1845)に高木流体術の師である清水小助より皆伝を授っている。居合と同じく文久2年に藩校致道館の体術導役となった11)。

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  1. 2019/01/06(日) 21:25:00|
  2. 武道史

土佐藩 片岡健吉の稽古記録について(2)-6

Ⅴ 安政5年と安政6年の月別稽古日数の比較

 安政5年の稽古記録には『文武修行日記』『稽古玉帳 萬控帳』という2種類の稽古記録があり、多少の稽古回数の増減がある。

1.馬術
 馬術の稽古日数を表1に月別に記した。
表1から、片岡健吉は安政5年には月平均で約10日馬術の稽古をしているが、安政6年にはやや回数が少なくなり月平均6回の稽古をしていることがわかる。
2.剣術
 剣術の稽古日数を表2に月別に記した。
 表2から、片岡健吉は安政5年には月平均で約21日剣術の稽古をしているが、安政6年には約17回と減っていることがわかる。
安政5年の資料の分析から「不遣」と記した場合は防具着用稽古を行わず、手数(形)稽古か見学のみであったことが推測されるため安政6年の『武藝控』でも「不遣」と記した場合にも稽古日数に入れた。また、「怠」と記されている場合には稽古日数に入れなかった。
3.居合
 居合の稽古日数を表3に月別に記した。
 表3から安政5年には月平均で約20日居合の稽古をしているが、安政6年には約18回と減っていることがわかる。
4、体術
体術の稽古日数を表4に月別に記した。
 表4から安政5年には体術の稽古は月平均で約20日の稽古をしているが、安政6年には約17回と減っていることがわかる。
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  1. 2019/01/07(月) 21:25:00|
  2. 武道史

土佐藩 片岡健吉の稽古記録について(2)-7

Ⅵ 奨励法と片岡健吉の稽古日数について

明治17年(1884)に編纂された『高知藩教育沿革取調』12)は高知藩の藩校・営中文武学校(江戸藩邸内)・代表的郷学・私塾寺小屋について、その概要がまとめられており、弘化2年(1845)第13代藩主・山内豊熈の時にだされた文武奨励のための奨励法について下記のように記載がある。

  奨励法

一、壱ケ年中 文百會(會猶回ト謂フカコトシ以下倣之)以上 武百會以上ヲ勉励シ続テ五ケ年ニ至レハ褒詞ノ沙汰ニ及フ
一、以上引続キ五ケ年(十年目)ヲ経レハ賞金ヲ下賜ス
一、以上引続キ五ケ年(十五年目)ヲ経レハ更ニ賞金を下賜ス
一、以上引続キ五ケ年(二十年目)ヲ経レハ直賞ノ沙汰ニ及フ

一、壱ケ年中 文百會以上 武二百會以上 若クハ文二百會以上 武百會以上ヲ勉励シ続テ四ケ年ニ至レハ褒詞ノ沙汰ニ及フ
一、以上引続キ四ケ年(八年目)ヲ経レハ賞金ヲ下賜ス
一、以上引続キ四ケ年(十二年目)ヲ経レハ更ニ賞金ヲ下賜ス
一、以上引続キ四ケ年(十六年目ヲ経レハ直賞ノ沙汰ニ及フ

一、壱ケ年中 文百會以上 武三百會以上 若クハ文二百會以上 武二百會以上ヲ勉励シ続テ三ケ年ニ至レハ褒詞ノ沙汰ニ及フ
一、以上引続キ三ケ年(六年目)ヲ経レハ賞金を下賜ス
一、以上引続キ三ケ年(九年目)ヲ経レハ更ニ賞金ヲ下賜ス
一、以上引続キ三ケ年(十二年目)ヲ経レハ直賞ノ沙汰ニ及フ

一、壱ケ年中 文二百會以上 武三百會以上を勉励シ続テ二ケ年ニ至レハ褒詞ノ沙汰ニ及フ
一、以上引続キ二ケ年(四年目)ヲ経レハ賞金ヲ下賜ス
一、以上引続キ二ケ年(六年目)ヲ経レハ更ニ賞金を下賜ス
一、以上引続キ二ケ年(八年目)ヲ経レハ直賞ノ沙汰ニ及フ

一、壱ケ年中 文二百會以上 武三十以上九十九會以下 若クハ武三百會以上 文三十以上九十九會以下ヲ勉励シ続テ四ケ年ニ至レハ褒詞ノ沙汰ニ及フ
一、以上引続キ四ケ年(八年目)ヲ経レハ賞金ヲ下賜ス
一、以上引続キ四ケ年(十二年目)ヲ経レハ更ニ賞金ヲ下賜ス
一、以上引続キ四ケ年(十六年目)ヲ経レハ直賞ノ沙汰ニ及フ

一、壱ケ年中 文百五十會以上 武三十以上九十九會以下 若クハ武二百會以上 文三十以上九十九會以下ヲ勉励シ続テ六ケ年ニ至レハ褒詞ノ沙汰ニ及フ
一、以上引続キ六ケ年(十二年目)ヲ経レハ賞金ヲ下賜ス
一、以上引続キ六ケ年(十八年目)ヲ経レハ更ニ賞金ヲ下賜ス
一、以上引続キ六ケ年(廿四年目)ヲ経レハ直賞ノ沙汰ニ及フ

一、壱ケ年中 文百會以上 武三十以上九十九會以下 若クハ武百會以上 文三十以上九十九會以下ヲ勉励し続テ八ケ年ニ至レハ褒詞ノ沙汰ニ及フ
一、以上引続キ八ケ年(十六年目)ヲ経レハ賞金ヲ下賜ス
一、以上引続キ八ケ年(廿四年目)ヲ経レハ更ニ賞金ヲ下賜ス
一、以上引続キ八ケ年(卅二年目) ヲ経レハ直賞ノ沙汰ニ及フ

 この奨励法がだされた当時の藩校は教授館で、文武の教授は「専ら本館に於てするに非すして文武師範数家を立て藩士をして皆其宅に就きて学はしむ。而して特に儒家の中に於て、複た数名を選て教授役と為し、毎日館に入り生徒を導かしむ。其余の儒家を平儒者と称し、其宅に在て生徒を導くを許す。習字師亦同じ。同武伎に至りては偏に各師家に就きて業を受けしむ。」という状況であったため、各師範が門人の出席回数を藩庁に提出したようである。土佐藩郷士の細川義郷の安政3年(1856)の日記13)の12月の記録に「廿日大寒 居合弟子勤怠帳下村茂一へ出す。」とあるのが、このことを示している。
 試験(生徒の技量の検分)も行われており、「文」においては試業といい儒家の師弟及びその門人等で学業上達の者を指名し本館で経史の素読、講義をさせている。「武」では式日と称し、槍・劔・柔術・抜刀(居合)は土佐郡帯屋町南会所に於いて、射は同町引合場に於いて、砲は土佐郡潮江村小石木駄に於いて、馬術は土佐郡鷹匠町南馬場及び小高村桜馬場に於いてそれぞれ3ヵ月ごとに見分が行われている。
 片岡健吉の安政5年(1858)の『文武修行日記』にみる馬術、剱術、居合、体術の総稽古回数は615回であり、安政6年(1859)の『武藝控』にみる馬術、剱術、居合、体術の総稽古回数は714回である。奨励法が示す「壱ケ年中 文二百會以上 武三百會以上を勉励シ続テ二ケ年ニ至レハ褒詞ノ沙汰ニ及フ」という条件に武だけであれば2年連続して十分にかなっている。

Ⅶ まとめ
 本研究から以下のことがわかった。

1.奨励法との関係
 土佐藩では奨励法で文武の稽古回数によって褒賞を与えているが、この制度が満14歳、満15歳と年少の片岡健吉の稽古意欲を2年間かきたてていると考えられる。
奨励法には「一、壱ケ年中 文二百會以上 武三百會以上を勉励シ続テ二ケ年ニ至レハ褒詞ノ沙汰ニ及フ」という条件がある。文の記録が存在しておらず、不分明ではあるが褒詞を受けていた可能性もある。

2.稽古の欠席理由

 安政6年の稽古記録には馬術、剣術、居合、體術を通じて、安政5年の稽古記録には見られなかった葬祭などの理由による欠席が見受けられるようになっている。年齢が上がることによって社会的な活動が稽古を制約することが多くなったと考えられる。
 また、武術の式日(武術の見分)に出席することも多くなっており、そのような場合には他の武術を休むこともあった。
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  1. 2019/01/08(火) 21:25:00|
  2. 武道史

土佐藩 片岡健吉の稽古記録について(2)-8

1)馬術
  馬術では安政5年の稽古記録には休業日以外では「雨天により馬場が使えない」「風邪」という理由が述べられているが、安政6年の稽古記録には葬祭のほか、他の武術の式日以外に欠席の理由は記されていなかった。
2)剣術
安政5年の稽古記録には剣術では欠席の理由には、けが以外では風邪、風雨がある。安政6年の記録ではけが以外には不人数(稽古する者がいなかった)、他の武芸の式日(武術の見分)、病気、落馬、葬祭などの理由が記されている。

3.打毬
 安政5年の記録には打毬の記述が4回記されているが安政6年の記録にはなかった、

4.剣術稽古
  安政5年の記録にも安政6年の記録にも手数(形)の稽古について記述はなされていないが防具着用稽古をしなかった日にも出席していると考えられるため、手数(形)の稽古は行われていたと考えられる。

5.居合の稽古
 安政6年の稽古記録には2月27日の記録に「三百本居合 木刀ニ十本」という記録があり、若年ではあっても数稽古を始めていることがわかる。

6.クミウチ
 安政6年の体術の記録には「クミウチ」の記録が9回出てくる。これは形稽古ではなく、いわゆる乱取りの稽古ではなかったかと考えられる。

Ⅷ おわりに

 片岡健吉の稽古記録は安政5年と安政6年のもののほか下記の冊子が残っている。引き続き分析を行いたい。
安政7年の『安政7年申年正月吉日 文武玉帳』『文武修行日記』
万延7年の『文武修行日記』



1)高知市立自由民権記念館所蔵片岡家文書
2)同上
3)立志社創立百年記念出版委員会編,『立志社創立百年記念出版 片岡健吉日記』、高知市民図書館、1974年4月1日,pp.289-318
4)立志社創立百年記念出版委員会編,『立志社創立百年記念出版 片岡健吉日記』,高知市民図書館、1974年4月1日,pp.3-4
5)高知市立自由民権記念館所蔵片岡家文書
6)平尾道雄著、『平尾道雄選集第4巻 土佐武道と仇討ち』、高知新聞社発行、1980年3月10日、pp.204-213
7)森本邦生、『大石神影流『諸国門人姓名録』について』、日本武道学会第40回大会発表抄録、2007年8月30日
8)平尾道雄著、『平尾道雄選集第4巻 土佐武道と仇討ち』、高知新聞社発行、1980年3月10日、pp.246-251
9)7)に同じ
10)土佐山内家宝物資料館所蔵「御侍中先祖書系図牒」
11)土佐山内家宝物資料館所蔵「御侍中先祖書系図牒」
12)『復刻版 高知藩教育沿革取調』、土佐史談会発行、1986年12月20日
13)高知市立自由民権記念館所蔵細川家文書

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  1. 2019/01/09(水) 21:25:00|
  2. 武道史

形は作らない

 海外で指導して思う事ですが、一部の人たちは映画や現代武道の形の影響を受けて、形を作ろうとしてしまう傾向があります。
 貫汪館の形稽古は自由になることを目的としており、形の見事さを競う方向性を持った武道とは異なっているため、形を見事に行おうという考えのもとに稽古してしまうと、貫汪館の古武道が目指している方向とは違う方向に行ってしまいます。形を作るのではなく形の稽古を通じて内なるものを養っていかなければなりません。 
 考え方一つなのですが、考え方を変えることができる人は上達し、考え方を変えることができない人は停滞します。
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  1. 2019/01/10(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

指が生きて働く

 あるダンスを間近で見る機会があり、改めて、私が習ってきた事は慥かな内容であると感じました。
 指が生きて働くことで体の中心が働き、自由になるのです。初心の内には指(手の内)は体(臍下丹田)と刀を一体にするために稽古しますが、一度刀と体が一つになれば、体の中心からの働きを意識しなくても手の働きがあれば体と刀は一つになって働きます。また手の働きで、体がコントロールされるようにもなってきます。
 ヒントは親指の働きと親指以外の指の微細な働きにあります。

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  1. 2019/01/11(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

力を込めない

  初心者の方は、どうしても体に力みが入ってしまいます。木刀を持っても、刀をもっても、素手の柔術をしても特に前腕の筋肉を用いて何かをしようとしてしまいます。筋肉に力みが入っててしまうと、動きはぎこちなくなり自由はなくなるのですが、それでも初心者の方は筋肉の緊張に安心感を覚えるようです。
 指導者が初心者に教えなければならないのは、たとえ不安であっても無理無駄な力を入れない方がスムーズににまた有効に技が使えるという事です。そのためにはただ単に形を教えるのではなく、基本に忠実に動けるようになるように導かなければなりません。ここを徹底的に指導して、身につけてもらうと、その後の上達がスムーズになります。
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  1. 2019/01/12(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

小細工を弄する

 教えられたことができないからと言っていかにもできるかのように見せかけてしまったり、こうしたほうが効果的だと自分で考えたことを行ってしまうと流派の教えることからは外れてしまい、結局その流派では上達できなくなってしまいます。流派の教えには深い意味がありますが、それを勝手に自分の都合でなくしてしまうのですから、流派が体得できないのは当然です。それを行ってしまうのは自分のエゴが強いためです。
 エゴを強くしてしまうための修行ではなく、エゴをなくしてしまうための修行です。自分の勝手な考えが道を外させてしまいます。
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  1. 2019/01/13(日) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

自由に扱おうとする

 筋力がある人(自分の力に過信がある人)は木刀を持っても刀をもっても、六尺棒や半棒をてにしても、自分がそれらを腕力で自由に扱おうとするところからなかなか離れられません。反対に筋力がない女性や子供は自分の腕力でそれらを扱うことができないので素直に指導に従う事によってそれらを体と一体にすることをすみやかに学びます。
 筋力で扱う人はやがて手首やひじを痛め始めてしまいますが、その状態になってしまうと稽古もままならなくなってしまいます。自分で自由に使うのではなく、まず自分の体と一体となることを学ばなければなりません。

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  1. 2019/01/14(月) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

手順ではなく

 米国のエルパソで教えて強く感じたことは手順を覚えて、手順通りに形を稽古しようとしたら上達できないという事です。
 上達とは心身が自由になっていくことですが、形をしっかり細部に至るまで間違いなく行おうとする稽古からは自由生まれません。エルパソの指導者はもともと現代居合を稽古していたためか、どうしてもそのような癖が抜けず、門人にもそのように教えています。私が指導してそのようなことにこだわらずに、感じたとおりみたとおりに動くように指導したら、心と体のありようが変化し始め、自由になり始めました。また、その変化について理解もできたようです。

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  1. 2019/01/15(火) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

日常生活

 海外で稽古する方は映画などの影響と、日本人が武道を特別なものと教えている影響で、特別な何かをしなければならないという思いを持つようです。特に貫汪館で学ぶ前に日本の現代武道を学んだことがある方は、動きの結節点ごとに体に力みを入れて固めてしまう事、筋力を力強く使う事、握る事(手の内の冴えと教えられているようです)、角々しい動きになることがひどく、そのままではとても自由になれない状態にあります。
 しっかりと武道は特別なものではなく、バイクに乗る人にはバイクに乗るときの体の用い方、料理が好きな人には料理をするときの体の使い方、体を動かして働く人にはその時の体の遣い方、パソコンを打つ仕事をするときにはその時の体の状態をそのまま武道の稽古に用いればよいのだと教えると、無理無駄のない自然な動きに変化していきます。

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  1. 2019/01/16(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

日常生活の質

 昨日の続きです。これまで稽古は日常生活の中でもできると述べてきましたが、日常生活の質が(競技ではない)武道の質をきめるのではないかと思っています。日常生活がいい加減な人はいい加減な武道に、日常生活を社会的地位に依存して生きている人は中身ではなく表を飾った武道に、日常生活で一つ一つを大切にしない人は自分の動きを大切にしない武道に、日常生活でいつも焦っている人は焦りのある武道になってしまうように思います。
 自分の武道を正すには日常生活も正さなければなりませんし、武道が求めるところを日常生活でも行わなければなりません。

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  1. 2019/01/17(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

相互に作用する

 現代居合道の影響を強く受けている方を指導し、上達してもらうためにはいくら懇切丁寧に説明して自由であるための居合の稽古をしていただこうとしても難しいことがあります。力んで動きを固めてしまう事が良いことだという考えから離れられないからです。
 そのよう人な人を導くには居合の稽古から離れて柔術の稽古をしてもらう方が、居合の理解が早いという事も経験しました。柔術では動きを固めていては技をかけることはできません。受も捕もそのような動きには何の意味もない事がわかります。ごつごつした動きでは相手を崩すことができず、相手を崩した後に動きを封じることができないからです。また、筋力を用いる事よりも技を使う方がはるかに有効だという事にも気づかされます。
 柔術が居合の質を高めることもあり、また、柔術の手の内を理解するためには居合の稽古も不可欠です。

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  1. 2019/01/18(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

感じとる

 米国のエルパソで指導した方の中には私の教えにそのままに忠実にあろうと努める若い男性がいました。私は大切なのは手順を覚えることではなく、見たまま、感じたままに動くことだと教えましたが、最終日にその人は自分自身であることを掴みました。見て感じ取って自分のものにしたのです。3日目でしたが、自分で会得したものは絶対に自分から離れていくことはありません。
 指導者は、門人が自分自身で会得する、その時を待たなければなりません。
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  1. 2019/01/19(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

自分の考えを挟まない

 私たちが流派を学ぶのはそこから何かを会得するためです。教えの通りに稽古して、努力してできるようになって何かを自分のものにするためです。流派の教えを守り、その流派から何かを会得することが流派を学ぶことなのだとしなければなりません。
 しかし、現代人の中には、自分ができないので自分がやりやすいようにかえて、できたと思う方もいます。自分のやりやすいように変えるのですから流派を学んでいるのではなく、流派を利用しているにすぎません。何も会得していないのに、そのようなことをしていたら修行ではなく、自己満足に基づく強いエゴを身につけていることになります。素直に教えの通りに努力を重ねることがなにものをかを会得することにつながります。。

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  1. 2019/01/20(日) 20:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

流派を示す

 指導者が前に出て門人に居合や柔術、剣術を見せて見とり稽古をさえるときには、自分の業(自分の癖)がいかに優れているのかを見せるのではなく、流派がいかにあるべきか、という事を示さなければなりません。
 これまで流派を稽古してきて、その流派の考えに基づいた自分の最も良いものを示すのです。ここを指導者が間違えてしまうと門人は指導者の癖を身につけているだけになり、流派を稽古していることにはなりません。 見とり稽古をさせるという事は簡単なことではありません。

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  1. 2019/01/21(月) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

稽古させる

 現代居合道の影響を受けた指導者は門人になかなか次の形を教えない傾向にあります。大森流に何年もかけ次に英信流表に何年もかけ、二人で組になって行う太刀打や詰合、大小詰などはよほどの高段者が行う形。
 貫汪館ではそんな稽古はしません。できるようになれば次の稽古をしなければ、前の形もそれ以上に上達することもありません。正しく指導していれば1年もあれば大森流、太刀打、英信流表まで進むことができるはずです。もったいぶった稽古は貫汪館には無縁です。

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  1. 2019/01/22(火) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

刀が基本

 大石神影流剣術や無雙神傳英信流抜刀兵法の太刀打や詰合、さらには澁川一流柔術の居合や「棒と刀」の打太刀は木刀を用います。しかし、木刀はあくまでも真剣の代用です。刀が使えなければ木刀を使えているとは言えません。
 したがって無雙神傳英信流抜刀兵法が上達した方は木刀を真剣のように使うことができるようになってきます。一方、いくら無雙神傳英信流の稽古をしていても木刀を木刀としてしか使えない方は刀を正しく使うことができていないということになります。木刀をうまく使えないと思ったら自分の無雙神傳英信流抜刀兵法を見直さなければなりません。

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  1. 2019/01/23(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

腕を使う

 大石神影流の二刀を使うと、他の二流派、無雙神傳英信流抜刀兵法と澁川一流柔術の自分の動きがはっきりしてきます。二刀は片手で木刀を一本ずつ使わなければならないので、腕力を用いる方は手先がより強く働くために肚からの動きではない事が見えてしまいます。
 一方、肚から動けている方は二刀を使っても小手先の動きにはならず無理がありません。大石神影流の二刀は自分の動きがよくわかる手数です。

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  1. 2019/01/24(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

指導に随う

 稽古を始める前から古武道に先入観を持っている方は自分の価値観があるため、なかなか指導されることが腑に落ちない事もあります。
 私の場合は現代剣道が先であったため、竹刀の振り方と刀の振り方が違うことが理解できず、また、竹刀よりも重い真剣を扱うにはより筋力が必要で握力も強くなければならないと思っていました。そのような思いがあるために、力を入れないという指導を受けても素直に従うことができず、初めの内は力で刀を振り回し上達しないどころか、悪癖も付けていきました。それが駄目なことだと理解できたのは指導を受けるようになってしばらくたってからのことです。
 己を捨てて、ばかになって指導に従う内にみえてくることがあります。

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  1. 2019/01/25(金) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

より深く

 指導を受けたことを、言葉の表面だけとり、半身と言われれば形だけ半身にし、また腰が高いと言われれば形だけ腰を低くする。このような浅い稽古ではなかなか上達しません。
 一つの言葉の裏には多くの意味があり、その言葉の意味を探りながら稽古する必要があります。また、そうすることが相手と向かい合った時に相手の意図を知るための稽古ともなります。
 自分の理解に自信が持てなければ必ず質問してください。
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  1. 2019/01/26(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

初心者の抜付け

 無雙神傳英信流抜刀兵法で礼法等の基礎を終え、形稽古を始めたばかりの方の抜付けはどうしても抜くということにとらわれ、柄頭を右に向けて抜いて行くため、抜付けにならず、只抜くだけになってしまいがちです。つまり相手からはこちらが斬れる間合、こちらは相手が斬れないという状況になってしまいます。
 初発刀は何とか正しい方向に抜けても左刀、右刀となるととにかく抜こうとしてしまいますので全く抜付けにならない事があります。こういう時には心を落ち着け、初発刀と同じ腰の角度になるまで自分自身で待ち、初発刀と同じ状態になってから抜くように心がけてください。待つことが大事です。

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  1. 2019/01/27(日) 21:25:00|
  2. 居合 業

立って行う

 無雙神傳英信流抜刀兵法の大森流、英信流表は座して行う居合がほとんどです。しかし、膝を痛めている方は正座、立膝ともにできない場合があります。このような状態で居合の稽古をして上達することは難しいのですが、先日座ることが困難な夥多に居合を教えていて、このような状態の方でも鼠蹊部が緩むということが理解できていれば上達の可能性が大いにあるということが分かりました。
 立っていても鼠蹊部が緩めば座しているときと同じように

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  1. 2019/01/28(月) 21:25:00|
  2. 居合 業

「踏み込む」と「飛び込む」

 大石神影流の手数の稽古では右足を踏み込みます。しかし飛び込んでいるわけではありません。この違いを明確にしておかなければいくら手数の稽古をしても、正しく上達していくことができませんので注意してください。
 踏み込みは前足(通常は右足)で行います。すり足とは異なりますが、本質的な動きは同じで右足が進んでいきます。右足が進むにつれて左足がついていきます。前足(通常は右足)が主体となる動きです。
 飛び込みは遠くからできるだけ早く打とうとして、左足を用いて飛び込みます。このような動きをしたときには左足のアキレスけんが切れることがあります。左足(後方の足)が主体となる動きで、現代剣道に用いられます。飛び込んだ場合には、余勢が生じ、現代剣道のように前方に進んでいくという、どの剣術の流派の形・手数にも用いられない動きが生じてしまいます。刀の動きではなくなります。

 大石神影流は大石進種次の祖父の師であり愛洲陰流と称していた村上一刀の頃から踏み込む動作をしています。

      振りあぐる太刀の下こそ地獄也
              只踏み込めよ先は極楽


 大石神影流を稽古している方が踏み込んだ時に余勢が生じて体が前にもっていかれそうになるとしたら、外見は同じでも、まったく異質な動きをしていることになります。一見外見は同じに見えますので指導者が漠然と見ていたら指導できません。
 下半身の動きを見直すことが上達につながります。
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  1. 2019/01/29(火) 21:25:00|
  2. 剣術 業

大石神影流の足運び

 昨日述べた踏み込みの話と同じような話ですが、大石神影流の足運びはすり足を用いません。しかし本質はすり足とかわりません。
 大石神影流では一足前に進むたびに足の裏を力はなし、着地しの繰り返しですり足は用いません。一見すり足に見えても力足の裏は浮いています。足運びの前提としてあるのが鼠径部が緩んで腰が落ちていることです。工夫してください。

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  1. 2019/01/30(水) 21:25:00|
  2. 剣術 業

大石進種次の身長

 大石進種次の身長は大牟田にある石碑に七尺と刻まれています。七尺は約210cmになりますが、大石進種次の玄孫に当たる私の師匠も初めは疑念があったそうです。しかし、親戚の家で伝わっていた話に「その家の長押(あるいは鴨居)の上に置いた餅を大石進種次は余興として背伸びをせずに食べていた。」というものがあったそうなのです。長押と鴨居では10cm位の差がありますが、鴨居の上には餅を置くスペースを取りにくいので長押だと考えられます。
 オーストラリア支部長の身長は約195cmです。当時の大石家の親戚の武家屋敷は現存しないので、萩と、松江の武家屋敷でマイケルに立ってもらい試してみました。いずれも鴨居と長押の高さは同じでした。マイケルが普通に立って口の高さから鴨居までは約5cm、長押までは約15cmでした。
 したがって、大石進種次の身長は長押と考えればちょうど210cmで石碑に刻まれた通り七尺、鴨居と考えても200cmあることになります。 
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  1. 2019/01/31(木) 21:25:00|
  2. 剣術 総論

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貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)

Author:貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)
無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術 貫汪館の道標へようこそ!
ご質問のある方は記事へのコメントではアドレスが記されてないため返信ができないので貫汪館ホームページに記載してあるメールアドレスからご連絡ください。よろしくお願いします。

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