3.流派の体系
村上傳次左衛門が発行した現存する伝書は橘軍八(村上傳次左衛門)が発行した『新陰流刀術印可』 と『愛洲陰刀術甲冑傳』 である。『新陰流刀術印可』には形名があるが、『愛洲陰刀術甲冑傳』には形名はなく二十一箇条の項目が羅列してある。大石神影流成立以前の現存する伝書は村上傳次左衛門の子の粟生次郎右衛門が発行した『新陰流剣術陽巻』 、村上傳次左衛門の門人である田尻藤太が発行した『愛洲陰流刀術』(仮題) 、大石遊釼の名代として足達右門が発行大石進種次に発行した『新陰流剣術陽巻』 のみであり、これらを表にまとめ比較する。
同じ形が記してある箇所を比較するため本来伝書にはないスペースをあけた。
表省略 村上傳次左衛門(橘軍八)が発行した伝書とその子粟生次郎衛門が発行した伝書、村上傳次左衛門の門人が発行した伝書を比較してみると基本的に形名とその体系が同じことがわかる。
一方、2)伝系 で論じたように岡藩出身で広島藩で信抜流(心貫流)を教えた永山大学の伝系と村上傳次左衛門の子の粟生次郎衛門が記した伝系は類似しており永山と同じく岡藩出身であった村上傳次左衛門はその釼術の伝系から岡藩に伝わっていた心貫流を修めていたと推定できる。
しかし同じ源流のものと思われる元禄6年(1693)発行の『新影流伝書』 によればその形名は「両燕帰、千人詰、剣之巻、乗太刀、車菱、心之無二剣、宝寿剣、石之唐櫃、剣無切」となっており、時代は下るが永山大学が伝えた文久3年ころと思われる信抜流(心貫流)の『神文前書』 にも同じ形名が記されている。「両燕帰」に異体字が用いられ「両燕皈」となっている違いしかない。
村上傳次左衛門の剣術の形名と同じ源流から発したと思われる流派の形名は大きく異なっている。
- 2025/01/05(日) 04:25:00|
- 武道史
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