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無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

折れず曲がらず

 友人に外見から、折れず曲がらずの日本刀を判断する方法はないものかと話したところ次のように教えて頂きました。参考にして下さい。

 「完全ではないですが冶金学的にある程度の見当はつけられるそうです。
 古刀によくある肌物は曲がりやすいそうです。新々刀で地金が鏡面になっているものは美術的には見どころがないとして見下げられていますが、実はあの手は強いらしいです。
 あれは地金が詰みすぎて普通に研ぐと鏡面になってしまうのですが、最近では研磨の技術進歩によってある程度地金の模様が出せるそうです。
 具体的には浜部一門をはじめとする因伯地方のもの。水戸の勝村勝徳、川越の藤枝太郎。他にもありそうです。
新刀でも細かくよく詰んだ地金に、細い直刃を焼いたようなものは強いと思われます。」

 私がお世話になっている上田祐定刀匠は「折れず、曲がらず、よく斬れ、尚美しい」日本刀を理想とされ作刀されていますが、武術を稽古するものにとっての刀とはそのようなものではないかと思っています。



 4月13日(日)午前9時より、廿日市市の速谷神社で貫汪館奉納演武会を実施いたします。
  1. 2008/04/01(火) 07:24:30|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

指導

 無双神伝英信流抜刀兵法における指導においても渋川一流柔術における指導においても私自身は随分厳しい指導をしています。厳しい指導といっても所謂スパルタ式の「ああせよ、こうせよ。」「手の位置は、腕の高さは」「何回繰り返して」という指導ではなく、稽古をする方が、自分自身の心や体が偏り、癖となっていて、なおかつ自分自身が気付かぬところを指摘しています。
 この指導は、素直に自分自身を冷静に見詰める態度をもって、指摘されたところを「ああ、そうだ」と思える人であれば上達するのですが、あまりに我(が)が強く、自分はちゃんとしていると思い込んでいる人や、長年の癖である心や体の偏り、凝り固まりがそのまま、自分自身の自然さであると思い込んでいる人には、私の指導が自分自身を非難されていると思えるようです。
 年齢の若い方の方が長年の凝り固まりが少なく、また、あってもそれに気付きやすいようですが、年齢を重ねた人、自分自身にへんな自信のある方は気付きにくいようです。
 先日、講習会に参加した他道場の年少の女の子は非常に素直で、指導する内容をすぐに吸収し自分のものにしていました。しかし、そのような子でも「絶対にこうあるべきだ、ここをこのように動かさなければならない。」と強制され形作った動きは癖となってこびりついていており、気付いてもすぐには直らないようでした。
 年齢を重ね、心や体の偏り、凝り固まりが癖になっている方でも、指摘すると素直な方はそれに気付き、直そうと一生懸命に努力されます。そのような方には、指導をしながら頭が下がる思いで、心底上達していただきたいと思います。
 無双神伝英信流抜刀兵法の師範代代理は年少で稽古を始めたわけではありませんが、まれに見る素直な真っ直ぐな心をもっており、私の指導を心から受けとめ、2年間ひたすらそれを求めました。年少ではありませんので、相応の心や体の偏り、凝り固まりはありましたが、指摘されるとそれを直そうと懸命に努力しましたので、2年間で素晴らしい上達をしました。勿論苦労しなかったわけではありません。しようと思っても自分の体が言うことをきかない事に何度も涙しました。そのような努力が形に表れたのです。
 渋川一流柔術 七尾道場長も最近居合の稽古を始め、指摘する度に、自分の体がより理解できるようになり、同時に柔術の業も向上しています。
 縁あって貫汪館で稽古される方には皆さん全員に上達していただきたいと思っています。素直な心を忘れず、形作ろうとすること無く、自分自身を見つめながら稽古を重ねて頂きたいと思います。
 
 貫汪館ホームページ(←クリックしてください)の無双神伝英信流抜刀兵法の行事のページに大森流講習会の写真を載せました。御覧下さい。

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  1. 2008/04/01(火) 21:20:10|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

血振い

 無双神伝英信流抜刀兵法の動きでも渋川一流柔術の動きでも全ての動きは体の中心から始まる故に動いていない手であっても死んでいるわけではなく動かずに働いています。動きという事に関しては主に素手で行う渋川一流柔術よりも刀を手にする無双神伝英信流抜刀兵法のほうが気付きを得やすいので、大森流の血振いを例にとって説明します。
 大森流の多くの形の血振いは斬撃の後、外見上、左手を左ハラにとりつつ、右手は切先までの流れを保ちながら床上を切先がすべるように後方にめぐり右肩後に刀をつるした状態から柄頭が上に上がり、刀が下方に落下するとき、体は浮きます。
 外見上、こうなるからといって形を真似したら体はばらばらになってしまいます。いつもお話しますように外側に現れる形は内面の働きですので、形を真似することには何の意味もありません。
 ではどのように動いているのか。斬撃したときに動きの中心は臍下丹田であり、手が左右に分かれるからといって、動きの中心が変わるわけではありません。臍下丹田が開くことによって左右の手は分かれ左手は左ハラに、右手は刀を保持したままに後方へめぐっていくのです。このとき、中心から動く故に何も持たない左手と、刀を保持した右手の質量は感覚の上では同じになります。刀を肩につるした後、柄頭が上に上がるときも右肩から先が働いているのではなく、体の中心が働き、上半身を上方へと導きますので、何もしない左手もその場にありながら上方への働きをなしています。刀が落下するときもしかりで、右手の落下と同時に左手はその場にありながら落下する働きをなします。落下するが故に下半身は浮きます。
 これらの動きをなすとき体のどこにも凝り固まりはありません。凝り固まりがあり、また、自分の頭で「末端の肩、肘、手のここをこうして」などと考えれば考えるほど体は中心を失い、自由に働かなくなります。
 講習会のときにも、上記のことは経験していただきましたが、うまくいかない理由は主に上記の理由によります。
 たとえとして血振いを例にとりましたが、無双神伝英信流の動きは全てこのような動きであり、渋川一流柔術の動きもまた同様です。
 工夫してください。 

 
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  1. 2008/04/02(水) 21:53:24|
  2. 居合 業

腹筋

 どう勘違いされたのか妙に体の動きに調和がなくばらばらになっているので、よく見たら腹筋に力を入れておられました。このような方が今までにも何人かおれれるのですが、それが癖になっている場合には腹筋に力を入れているという実感すらないようです。
 腹筋に力をいれ、腹を少しへこませたまま動くと臍下丹田は体の中心とはなりえず、体は鳩尾から上の部分と大腿部から下の部分に動きは分断されてしまいます。したがって重心は高いままで、刀の振りは腕力に頼るしかなく、柔術で相手を制する際にも上半身中心になり真の力は伝わっていくことがありません。
 腹筋には絶対に力を入れることなく緩ませたままでなければ下腹部の充実もなく、臍下丹田が動きの中心となることもないのです。
 すみやかに悪癖から脱せられることを望みます。 
 
 
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  1. 2008/04/03(木) 22:34:30|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

外見の奥にあるものを

 これまで、何度も述べてきましたが、外に現れるものは内なる働きが現れたものに過ぎません。したがって、内なる働きを求めることなく、いくら外見を真似したところで、それは偽物でしかありえず、絶対に自在な動きにつながるものではありません。
 現代は写真もビデオもあるから江戸時代の人よりも稽古がし易い環境に確かにあります。しかし、その便利な物を、形を外見を似せることのために使ってしまえば便利が故にかえって上達を妨げる基となってしまいます。また、説明を受けること無しに写真やビデオを見たところで、下位の者が上位の者の動きを理解することは難しいものなのです。下位の者が見て理解できる業であれば、その人の業はそのレベルであって、底が知れたものに過ぎません。業の本質が見られるということは斬られてしまうということなのです。

 動きについて極論すれば内なる働きが同じであっても手の長さ足の長さ、胴の長さ指の長さ、用いる刀の重さ、長さ、反り、重心の位置が異なれば、外見は異なっているのが当然です。
 何度も説明していますが、外見を真似、形作ったものは武術とはなりえないものなのです。見取り稽古はいつもお話するように、刀の末端を見ることなく本体の動きを見取る稽古を心掛けてください。
 
 
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  1. 2008/04/04(金) 21:49:12|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

稽古雑感

 本日の稽古の感想を記します。

 本日は渋川一流柔術の稽古日ですが、月曜日も土曜日も例外的に棒術の稽古をいっせいに行う場合以外は床面があいていますので、無双神伝英信流抜刀兵法の自主稽古に使って頂いています。
 4月の人事異動で夜勤となり水曜・木曜の居合の稽古にこれなくなった方が今日始めて居合の稽古に来られました。
 今日一日で随分上達されたのですが、本人には上達したと言う実感はなく、私が「今日一日で上達しましたね。」とお話してもどう反応してよいかといった反応でした。もっとも上達とは無理無駄fが無くなることですので、何かをしたと言う実感(筋肉の緊張)は上達につれますます薄くなっていきます。わからないからこそ、師が導いています。迷うことなく実感を求めることなく歩んでいただきたいと思います。

 中学生になって剣道部に入り1年間剣道の稽古を続けた男の子がいます。下半身が緊張しゆとりがなくなり結果として上半身の動きにも歪みが生じています。いかにも飛び込むためだけの下半身となってしまいました。限定されたルールの中で限定した動きのみを稽古する武道の欠点でしょうが、本人も自分の変な動きには気づいています。気長に指導しなければなりません。

 六尺棒や十手の稽古をされていた方は突きや打ちのさい、身体が硬直化しないように心掛けなければなりません。形であるが故に最後の打ち、突きのあとに受(敵)は動きませんが、実際には不十分であった場合、敵は動き続けます。その動きに対応できるような打ち、突きの状態でなければなりません。決して極めであってはならないのです。形の上であるからこそ止まったように見えますが、止まって止まらずでなければ武術の形とはなりえず、形稽古をしたばっかりに実際では斬捨てられたという事態にもなりかねません。工夫してください。


 春の新作バッグです。久々に作品をつくりました。加賀友禅の反物から生地をとりました。写真では生地に縞が移っていますが、実物はもっときれいです。すでにもらわれていきました。

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 4月13日(日)午前9時より、廿日市市の速谷神社で貫汪館奉納演武会を実施いたします。
  1. 2008/04/05(土) 22:12:44|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

より深い稽古を

 指示されたことを単純に考え、出来たと思ってしまえば上達はありません。
たとえば、無双神伝英信流抜刀兵法の稽古をされる方にも渋川一流柔術の稽古をされる方にも正座の姿勢で私がいつも話している、いわゆる「へたった」姿勢をとって、無理無駄の無い姿勢だと思い込まれている方がおられます。 
 それは自分で思い込んでいるだけであって本当に無理無駄がなくなっているわけではないのですが、自分の思い込みが強いばかりに一向に良い方向へと進みません。
 多くの人の身体は感覚が発達しているところと、そうでないところがあり、感覚が発達している所の筋肉の緊張は分かり易いのですが、感覚が発達していない所の筋肉の緊張は分かりにくいものです。したがって、無理のない姿勢で座れていると自分自身で感じても多くは身体の前半分の緊張のみなくなり、うしろ半分の緊張はしっかり残り、肩や肩甲骨が下がらないために肚が虚になり腰が抜けた姿勢をとってしまいがちです。総身の緊張がなくなることが大切であるのに、一部分のみ感じて「よし」と思うことから逆に大きな歪みが生じてしまいます。 
 稽古することは単純にすぐに出来るようなものではありません。少しずつ、少しずつ進んでいくことしかありえないのです。自分自身を客観的にみつめ、着実に稽古していかなければなりません。

 今日の桜です。所用があって山口県へ行ってきました。 
          
              桜1

                                桜2
     
 
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 4月13日(日)午前9時より、廿日市市の速谷神社で貫汪館奉納演武会を実施いたします。
        速谷神社ポスター

  1. 2008/04/06(日) 21:43:34|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

質の良い稽古

 今日は渋川一流柔術の稽古日でした。先日来、中学校を卒業し、明日高校の入学式を迎える女の子が土曜の稽古に加え月曜日も稽古に来ています。自発的に稽古日を増やしているだけにやる気もあり、探究心も持っています。
 指導に対しては自分のどういう動きを指摘されたのかを、まず把握しようとし、それが分かったら同じ間違いをしたときは、自分自身で気づくようになりました。そして、なぜそのような間違いを重ねるのかを自分で考え、解決しようとしています。
 ただ、指摘されたことに毎回従うのではなく、指摘されたら、自分自身で何故そうなってしまったのか、どうしてそうなるのかを、研究し、解決し、より良い動きを目指す事が出来る人は、そうでない人よりも格段に進歩します。同じ時間稽古していても何倍も早く上達するのです。
 月刊『武道』に板寄せつ氏の話として「・・・ただ今は、何を教えるにも、習う者が徹底的に説明されねば承知せず、指導者も手をとって教えますが、昔の教えは叱られるだけ、何芸でも同じでしょう。どこをどうするのか、自分で陰で工夫をし、練習をして、ある程度のところまで行かねばなりませんでした・・・」と紹介されていますが、まさしくそのとおりで、渋川一流柔術の師 畝重實嗣昭先生はそのような指導をなされましたので、道場外での工夫が大切であり、先生に見ていただく次の稽古日までに、ある程度までは御教えいただいたことを習得しておかなければなりませんでした。
 無双神伝英信流抜刀兵法の師 梅本三男貫正先生も「自分自身で復習もしてこないようでは・・・。」と話されていました。
 道場内においても道場外でも自分自身で探求することが上達にとって不可欠です。

 廿日市の桜です。同じ木のほとんどの桜の花は薄いピンクなのに一本の枝の桜の花だけ全て濃いピンクでした。携帯でとった写真なので鮮明ではありませんが。

            sakura.jpg


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  1. 2008/04/07(月) 22:40:56|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

新たな感覚

 動きを工夫し、極力、無理無駄を廃して動く時、動き始めた時人によって感覚は異なりますが体がムズムズ、モゾモゾ、今までになかった感覚を感じることがあります。
 それは、今までに使っていなかった体の部位が働くようになり始めているからです。今まで眠っていたものが目を覚まし働き始める。そんな時上記のような感覚が生じます。しかし、間もなくそれがあたりまえになるので、その感覚は消えますが、さらに深く深く稽古を続けると、そのような感覚が生まれます。さらに眠っていたものが目を覚ますのです。
 今までにそんな感覚が一度もない方、稽古を始める以前の感覚で身体を動かしていませんか。稽古を始める前とは全く質の異なることをしようとしていますので、身体の感覚が今まで通りということはないのです。
 無双神伝英信流抜刀兵法の師範代代理は上達の過程で「どんどん楽になる」と感じました。そして、居合の稽古は、どんなに時間を掛けても、いわゆるエネルギー消費のための運動にはならないとも感じました。それほど異質な動きであると言うことを感じました。
 道場で指導している内容を今までの感覚でとらえてものにしようとすれば、外見上の形だけを真似ているに過ぎません。
 工夫してください。

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  1. 2008/04/08(火) 21:36:51|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

心の力み

 身体が力んでいるだけなら、身体の力みを除くことは、そう難しいことではありません。しかし、心の力みから来る体の力みは、なかなか取り除けるものではありません。
 心の力みとは、無双神伝英信流抜刀兵法であれば、速く振りたい、強く振りたいという思いです。身体の調和があり、動きに無理無駄が無ければ、意識しなくとも速く強いのにもかかわらず、さらに速く、さらに強くを求めることから力みを生じ、身体の調和が乱れ、かえって遅く、弱くなってしまいます。
 渋川一流柔術も同じで、相手を速く抑えたい、速く投げたい、力強く技を掛けたいという思いが身体に力みを生じさせ、かえって、自然な速さ、強さから遠ざかってしまいます。
 随分と上達してからでも、これらの心の力みは頭をもたげてきますので油断できません。せっかく身体の調和がとれ、無理無駄が無くなり、自然のうちに速さ強さが生まれてきているにもかかわらず、筋肉の緊張と言う実感を求める心が生まれ、調和を乱してしまいます。
 己の心が己の意に従わぬという事実をみつめ、さらに工夫してください。

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  1. 2008/04/09(水) 21:56:17|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

工夫

 今日は無双神伝英信流抜刀兵法の稽古日でした。
 先週、どうなることかと思った方が随分と工夫され数段レベルが上がっていました。立ち姿にも全く無理がなく、最低限の力で中心を保持しながら立っておられましたし、その延長線で刀も身体の一部になりかけていました。よく工夫されたものだと感心しました。
 残念なことは道場で稽古をされるにつれ元の我の強い動きに戻っていかれたことです。やはり、心がそうさせるのですが、「頑張ろう」「上達しよう」という熱心さが逆に作用してしまい身体を力ませ、手馴れた癖のある動きへと逆戻りさせているのです。想いをかえ技の上での無念無想を求めなければなりません。
 稽古に少し遅くなってこられた方にも、やはり心の焦りがありました。真面目な方なので、急いでこられたのだと思います。その心の焦りが残っていて、身体の動きまで焦らせていました。道場に来られる途中、心を静め、平らかにすることを第一にされたほうが、事故にもあいませんし、稽古も初めから高いレベルで始めることができます。
 無双神伝英信流抜刀兵法の師 梅本三男貫正先生は「道場に来る交通手段によって、その人の稽古が影響を受けてしまう。」と話されていました。また渋川一流柔術の師 畝重實嗣昭先生は稽古をつけていただくためにお伺いすると必ず稽古前にコーヒーをお出しくださり、しばらくお話をしていただいた後、稽古をつけてくださいました。稽古にはいる前に心を整えてくださっていたのです。
 

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  1. 2008/04/10(木) 22:10:03|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

かたち

 昨日、無双神伝英信流抜刀兵法の稽古日に同門のベテランの方が稽古にみえられました。その方は師の梅本三男貫正先生に入門される前は他の流派を習っておられました。
 稽古におみえになった時には、随分無理無駄の無い自然な動きになって帰られるのですが、久しぶりにみえられると、最初はどうも形にこだわられた不自然な作った動きをされます。
 聞けば始めに習った流派では斬撃は床上何cmで止める、手の高さは・・・。足の位置は・・・。と事細かにかたちにはめる教え方で習われていたそうで、また梅本三男貫正先生にも先生が晩年の格段の上達をされる前の教えられ方で、「脇をしめる」「手首を入れる」「腰を入れる」といった教えられ方をされたために、その言葉が頭にこびりついているようでした。そしてそれらのかたちにはめる言葉が動きを質の低いものに留めてしまう働きをしているようでした。
 もっとも晩年の梅本先生は、本質を見抜く力のある者にマンツーマンで教えられる時を除き、数人が一度に習うときにはまったく言葉では教えられなくなり、習うものは見て取るしかなくなていましたので、それ以前の言葉が頭に残っていても仕方のないことなのですが・・・。また、個人的に教えられる時には以前の教え方とは全く別の教え方をして頂きました。 
 思うにかたちにはめる教え方と言うのは講習会形式で、多くの受講者に教える為の方便として考えられたものです。つまり、軍人に同じように行動するために行った教授法と同じものであって、「底は浅いけれどもあるていどのかたちにはなる」ための教え方です。
 本質は決して集団教授法では伝えることはできませんので、集団教授法を用いて教えられた方はある意味、可哀想でもありますし、集団教授法で教えられて年月が経ち指導者となった方は、それに疑問ももたないのだと思います。

 歌に

身の曲尺の位を深く習ふべし留めねど留る事そふしぎや

 とあり、はっきりわかるように留めるのではなく留まるのであり、そうするのではなくそうなるのです。
「そうする」と「そうなる」では外見は同じように見えても本質は全く異なっており、前者はそのようにしか動けない身体をつくっているのであり、後者は自在に動ける身体を養っているのです。
 道場でお教えしていることをしっかりと聞いていただき、自分のもののとした上で稽古を重ねていただきたいと思います。

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  1. 2008/04/12(土) 00:17:52|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

稽古雑感

 今日は渋川一流柔術の稽古日でしたが、明日が速谷神社奉納演武であるため九州支部長と、師範代代理が稽古に来ましたので、無双神伝英信流の稽古もつけました。
 九州支部長は心掛けが変わったのか今日は非常に素直な稽古をしており歪みが少なくなっていました。稽古を始める前に「肚のみで動くこと。動けないからと言って帳尻合せのために手先を動かしてはならない。動けなければ肚を工夫すること。」と稽古に絶対条件を付したのが良かったのかもしれません。残念なことは、長年間違った小手先の動きをしているところが自分自身の一部となっており、それが自然に思えているところでした。くれぐれも間に合わせの安易な稽古をしてはなりません。癖となってこびりついてしまえば、癖だと言うことにも気づかなくなってしまいます。
 師範代代理は、病にかかり、完全には回復しておらず、講習会以来2週間ぶりの稽古でしたが、指導すればすぐにもとの動きに戻りました。これは変な癖を身につけず素直に稽古してきた賜物です。稽古の最中には咳もでなかったのは動きの中での身体の調和が取れていたためだと思います。太刀打・詰合・大小詰も稽古しましたが、動きの調和が乱れてしまう所はたいてい心の焦りが生じているところでしたので、久しぶりの稽古であっても焦らず、心を沈め、身体と心の調和を図るようにしなければなりません。
 渋川一流柔術の稽古では六尺棒、三尺棒の動きは、動きの間を計ることにもっと心を用いられたほうが良いように感じました。棒が剣に対して遅れるのは棒に居着いているためであり、棒術も素手の柔術と同じと心得て稽古しなければなりません。渋川一流柔術では六尺棒や三尺棒、十手、分童などの得物を使う技は全て素での技と同質の動きですので、ことさらに得物を持つからと言って別の動きをするのではありません。工夫が必要です。

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  1. 2008/04/13(日) 00:35:54|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

速谷神社奉納演武

 今日は廿日市市にある速谷神社で奉納演武を行いました。例年4月は広島城内にある広島護国神社で奉納演武を行なうのですが、本年は護国神社で工事が行われているため、初めて速谷神社で奉納演武を行いました。
            速谷神社

 まず始めに渋川一流柔術の子供達の演武についてですが、終始集中して演武できたことは褒められるべきことだと思います。ただ残念だったのは形を間違えずに行おうという想いが前に出てしまい、対敵動作であること、自分を守る動きであるということの意識が薄く結果として気迫の薄いものになってしまっていました。
 中学生・高校生の演武は本人が自覚を持っているためか、以前の演武に比べ格段に上達し、年少者の指導が出来るレベルの演武をしていました。道場で何を稽古しているのかがはっきりと分かっているのを感じました。
 大人の演武ですが、さすがに全員対敵動作であるということが理解できており終始隙なく動いておられました。
 一方、得物を手にした演武ですが、以下のような点に心掛けられれば更に良くなるでしょう。
 それぞれの得物には、それ特有の長さ、重さ、太さがあります。それらによく慣れ、それぞれの間合を会得し、その特性を利用した動きが出来るようにならなければなりません。そのためには、まず、得物を体の一部にしなければなりませんので、得物を使うと言う意識を捨て、得物と一体になるよう心掛けてください。
 渋川一流柔術師範代には後に続く方たちの模範となる立派な演武をして頂きました。有難うございました。
 次に無双神伝英信流抜刀兵法の演武ですが、全体的にみて今までの稽古の成果が出た演武をしておられました。
 今後のために述べれば、初心者の方は、演武という場になれていないので仕方ないかとも思いますが、心が落ち着かず、手先が働き姿勢が崩れる方が散見されました。特に抜付けたあとの斬撃では焦りが体を前に崩し、身体の中心よりも意識の中心が前にでているために振りかぶりが浅く斬撃が弱くなっていました。
 また、これも初心者の方なのですが、抜付けの際、切先が鯉口を離れる前に柄手が右によっており抜き付けても、実際には前の敵を斬っていませんでした。稽古中何度も注意しているので、せめて演武の前には注意されたところを直してこなければなりません。今後の努力を期待いたします。
 師範代代理は私の相手を務めるために太刀打、詰合、大小詰と二人で組んで行う形の演武をし、大森流、英信流表、英信流奥と素抜き抜刀術を演武してくれましたが、病み上がりにもかかわらず、よく演武してくれました。他の方も師範代代理を見習い、稽古においては素直に、私見を交えず、純粋に、求められることを探求していただきたいと思います。

 最後になりましたが、大人の方も子供達も、また、保護者の方も早朝より会場設営、進行、演武等、皆さんよく協力して演武会を運営していただきました。有難うございました。
 

 4月20日(土)、21日(日)、福岡県久留米市において無双神伝英信流抜刀兵法の稽古会を行います。無双神伝英信流抜刀兵法に御興味のある方は 貫汪館ホームページ(←クリックしてください)の無双神伝英信流抜刀兵法 稽古のページの連絡先よりご連絡ください。

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  1. 2008/04/13(日) 16:24:55|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

自己暗示

 今日は渋川一流柔術の稽古日でしたが、自分自身の思い込みが、自分の動きを決めてしまい、そこから逃れることが難しくなるのだということを思い知らされてしまいました。
 ある女の子が稽古の最中に良くこけるのですが(日常生活でもよくこけるということです。)、どうも見ていると自らこけているように見えるのです。そしてある状態に至った時に必ずこけ始めるのです。その状態になったら自分はこけてしまうと、今までの経験から思い込んでいて自らがこけに行っているようでしたので、絶対にこけないからそのまま動くように教えたら、何もなかったかのように技が急に上達し、こけなくなりました。
 もっともこけるというのはバランスを崩し、なおかつ下半身に踏ん張る力が入っていないためにおきますので、無理が全くない状態と似ているのです。
 もう一人の方は技を掛けるために、身体のどこを使い、次にどう動きと論理的に身体を動かさなければならないと思い込まれていました。
 したがって頭で考えながら動くために全身の調和がとれず、逆に理想の状態からは遠くなっていました。常々、技の上での無念夢想をお話しているのですから、もうそろそろ、論理的にという思考から離れなくてはいけません。

 4月20日(土)、21日(日)、福岡県久留米市において無双神伝英信流抜刀兵法の稽古会を行います。無双神伝英信流抜刀兵法に御興味のある方は 貫汪館ホームページ(←クリックしてください)の無双神伝英信流抜刀兵法 稽古のページの連絡先よりご連絡ください。

  貫汪館ホームページ(←クリックしてください)の無双神伝英信流抜刀兵法と渋川一流柔術の行事のページに速谷神社奉納演武の写真を載せました。御覧下さい。
  1. 2008/04/14(月) 22:18:23|
  2. 柔術 総論

わからないんです

 「わからないんです。」  この言葉、稽古をされている異なった人から何度かききました。話してくれた人は皆、上達の過程にある人たちでした。
 今日は銃剣道の稽古日でしたので、遅い時間になったのですが見に行きました。私に縁がある3人の高校生が陸上自衛官の方にほぼマンツーマンで稽古をつけていただいています。そのうちの一人でもっとも上達している高校生が今日同じ事を話しました。
 今までこの言葉を話した人は無双神伝英信流抜刀兵法にも渋川一流柔術にもいましたが、動きの無理無駄がどんどんなくなっていき、動きの質が向上しているときに「わからないんです。」といいます。・・・上達しているのかどうか分からない。これでよいのかどうか分からない。
 今までの人生では「このように動きなさい。」「これが良い姿勢です。」と鋳型にはまることを強制され身体の緊張という実感を伴うことがよいとされてきたものが、反対に緊張をとかれているのですから実感はなくなってしまいます。自分自身がどのように動いているのか、どういう状態にあるのか、わかりにくくなってしまうのももっともな事なのです。
 だからこそ、師が過ちのないように導きます。このとき師の導きに従わず、自分の実感に頼ることを主にしてしまえば道をそれてしまい戻ってくるのはとても難しいことになってしまいます。実際そのような人たちは貫汪館では全く上達しないどころか下達し、稽古も止めてしまう方がほとんどでした。いわゆる「我が強い」のです。
 無双神伝英信流抜刀兵法の師範代代理はいまだに、どんどん向上していますので、ますます、楽になっているという実感しかないようです。
 自分自身はどうであるのか、自問してください。

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  1. 2008/04/15(火) 21:36:53|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

師言

 無双神伝英信流抜刀兵法の師 梅本三男貫正先生がご存命であったころの随分前の事です。
 先生の業が本質的に変化向上されていたとき、それまでの教えと異なることもあり、多くの門人がそれを理解できず、先生の以前の技のほうが素晴らしかった等と思う方も多く、特にお亡くなりになってからはそれを公言して憚られない人もたくさんでました。また、先生の教えの真意が理解できないために「これが先生の教えられたこと」と言いながら、見当はずれな内容を教えられる方も出ました。
 私自身は当初、理解できないながらも師の教えのとおりに稽古を続け、数年すると先生の話される内容が少しずつ身体で理解できるようになり、やっと「こういう事だったのか。」と思うことがたくさんあるようになりました。
 ある日、先生を車でご自宅へお送りしたときに「先生のお話になられることが、体得は出来ていないものの95%は理解できるようになりました。残りの5%は私の理解が正しいかどうか確信がもてません。」とお話したところ、先生はたいそう喜ばれ、「そうか、わかるか。わかるようにあったか。」と何度か仰られました。わかったふりをする門人が多かったのです。
 自分の経験したことのない高度な内容を自分の経験から判断してわかったつもりになるのは、大きな間違いです。真の理解は指導される内容に忠実に稽古を積んでからと考えてください。

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  1. 2008/04/16(水) 22:47:46|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

師言 2

 昨日は師言につて私自身の経験を述べましたが、実は師の梅本三男貫正先生にも同じようなお話があります。
 先生はよく、私に先生の師である尾形郷一先生から先生宛の書簡を見せてくださいましたが、あるとき、尾形先生から先生に宛てた居合の業の教えについての書簡を見せてくださいました。そこには先生が徳島に通われていた時には尾形先生が教えられていなかった、尾形先生の業に関する新境地と具体的な動きについて書かれていました。先生はある動きについて、「そんなことが実際に簡単に出来るとは思えない。」と私に話されながらも、色々と試行錯誤されていました。そしてある日「こうすれば良いのだ。」と私に教えてくださいました。当然私にすぐにできようはずはなく、それからその課題に取り組む日々が続きました。
 その動きが出来るようになれば、抜付けが本質的に変わる重要な教えでしたので、先生の動きがそれから変化されたのは言うまでもありません。

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  1. 2008/04/17(木) 22:47:58|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

褒めて伸ばす事の出来ぬもの

 世の中には「褒めて伸ばす。」と言う言葉があり、叱る事よりも大切だと考えられています。
 しかし、武術の稽古ではそのような方法をとるのは危険であり、貫汪館でも「褒めて伸ばす。」という手法は用いていません。
 私自身は無双神伝英信流抜刀兵法においても渋川一流柔術においても師から「褒めて伸ばす」という方法をとられたことはありません。むしろ、常に至らぬところを指摘されていました。
 武術は競技武道と異なりルールにのっとって自分の得意技が決まれば勝つというものではなく、自分の命を守ることが出来ねば無意味なものです。また、万が一の場合、敵はルールなどなく襲ってきます。そのとき、自分自身に苦手・不得意なところがあれば、それが隙となって刺され切られてしまいます。
 したがって、武術においては自分自身が苦手なところ、不得意なところを直すのが先決となるのです。逆に出来なければ武術として無意味であるため、出来たところを褒められることもありません。できて当然なのです。冷たいようですが、武術の稽古とはそもようなものです。
 自分自身に甘えがないか、確認してください。
 
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  1. 2008/04/18(金) 22:00:37|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

武道史研究のネック

 武道史を研究していて、いつも残念に思うことは、当然その家にあるべき資料が家は続いているものの様々な理由によってなくなってしまっていることです。
 平成15年に弓道の門外漢ながら『芸藩弓道小史』を記し、広島県弓道連盟発行の『広島県弓道の歩み』に載せていただきましたが、調査の過程で全くと言って良いほど資料を見つけることが出来ませんでした。
 写真は広島藩の吉田流の師範であった小篠家代々の墓地で今なお門人の立てた立派なお墓が残っています。戒名には弓の字のつくものが多く、小篠家と弓術との強いつながりを感じさせます。小篠家は今は廿日市市に現存していますが、お尋ねしたところ、満州引き上げの際全ての文書が失われてしまったということでした。非常に残念なことです。

 「吉田流

 ・・・これとは別に小篠家によって伝えられた吉田流もあった。享保の頃、御中小姓、小篠文太は伊勢国、津藩士,吉田六左衛門につき弓術を修行し、廣島藩に於いて門弟に教授を始めた。この後五左衛門・斧槌・三左衛門・五左衛門と続き幕末に小篠吉左衛門があった。三左衛門の子五左衛門は伊勢国津の吉田家から相伝の秘書を授かり、また、もう一人の子源左衛門は諸国遊歴の後、常陸国水戸に居住し、門弟を育成した。」

       小篠家墓地


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  1. 2008/04/19(土) 21:01:08|
  2. 武道史

久留米稽古会

 昨日、今日と福岡県久留米市で無双神伝英信流抜刀兵法稽古会を行いました。
土曜日は午前9時~午後5時まで。本日は午前9時~12時まで稽古しました。土曜日は九州支部長と師範代代理二人に稽古をつけ、本日は師範代代理と二人で稽古しました。
 昨日の稽古の収穫は、九州支部長がやっと自分の動きを乱しているものは自分の心なのだと得心のいったことです。
 気をつければ出来る動きでも気を抜けば全く駄目になるのは、本人の心がそのまま動きの悪さとなって表れてしまうからです。心が力む人は体が力み、心が焦る人は小手先で間に合わせの技をつかいます。無双神伝英信流抜刀兵法の技はそのように仕組まれているのですからどうしようもありません。稽古を数年積んで動きの悪い人は心を改めなければならないのだと知らねばなりません。
 九州支部長も今後は大きな変化をすることと思います。
 師範代代理は素直ですので随分得をしています。2月になってから稽古がほとんどできなかったので心配であったのですが一日目の午前中には以前の勘を取り戻し、午後には腕を上げていました。本日の稽古でもさらに腕を上げたことは言うまでもありません。人間ですから全てが出来るようになるわけではありませんが、素直さが業の向上に大きな貢献をすることは間違いありません。
 私が教えていて、私以上にできるようになるところがあり、そのようなところは見習っています。良い弟子を持つことは師匠冥利につきるといったところでしょうか。
 師範代代理の御両親も暖かな優しい方ですので、よい教育を受けて育てられたのだと思います。
子供の教育はおろそかにすることができません。
 

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  1. 2008/04/20(日) 18:37:59|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

不思議なもの

 久留米で稽古をしている時に不思議なものをみました。久留米市武道館の小道場で稽古をしていたのですが、小道場は剣道場のロフトのような部分で剣道場の稽古がどうしても目に入る位置にあるのです。稽古をしている時に剣道場で数人の方が居合の稽古を始められました。
 始めは稽古中にちらりと抜付けが目に入ってきたので、一般に行われている夢想神伝流の稽古をされているのだろうと思い、弟子もそう思っていたようですが、休憩している時に目に入ってきた形の手順は無双直伝英信流のものでした。
 無双直伝英信流は映像で河野百錬先生や福井春政先生の古い方の居合を見たことがありますが、それらの方の動きの質とは全く異なり、どうみても動きの質は夢想神伝流、さらにいうならば剣道連盟制定居合のものでした。
 無双直伝英信流居合形もされていましたが、剣道形と同じ質の動きでした。
 もっとも、夢想神伝流でも中山博道先生と同じ質の動きをされる方をいまだ拝見したことはありません。中山博道先生に神道無念流の免許皆傳を得、呉有信館を開き、呉や江田島の海軍軍人に剣道の指導をされていた福島小一先生の動きの質は中山博道先生の居合と同じ質の動きでしたが・・・。
 思うに制定居合というものをはじめに強制的に身につけさせられてしまえば、その動きの質が身につかざるを得ず、そこから流派の形を稽古したとしても、動きの質は制定居合、手順は流派の手順といったものになってしまわざるを得ないのではないでしょうか。それでははたして流派と言えるのかどうか。
 流派の形というものは動きを身につけるものであって手順を身につけるものではありません。したがって流派が伝わるということは、師から許しを受けた者のみが弟子を持つことを許されるといった手順を確実にふむことによってのみ可能となることなのです。他の流派の先生に審査を受けて段位を認められたからと言って、流派と言う観点からいえば何の意味もありません。それぞれの流派の教習課程や身につけるべきものの優先順位、全てが流派の違いであるからです。
 そういた意味では段位を発行しない日本古武道協会や日本古武道振興会のありかたというものが古武道の団体としての理想のあり方なのだと思います。
 

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  1. 2008/04/21(月) 21:15:05|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

稽古を始める心構え

  以前にもお話しましたが、私が渋川一流柔術の師 畝重實嗣昭先生のもとに入門を御願いに行ったとき、当然失礼のないように、スーツでお伺いしました。
 先生は私に何故柔術の稽古をしたいのかとお尋ねになられ、私は自分の考えをお答えいたしましたが、先生はその答をたいそう気に入られ、入門を快く許してくださいました。後々にも、あの答えは良かった。よく言ってくれたと話してくださったくらいです。
 もしそのとき私が「強くなりたいから。」「肩書きが欲しいから。」などといった答えをしたなら、教えることはできなかったと、話してくださいました。先生はその頃、師のことを全く考えず、自分のことしか考えぬ、我儘な門人同士のいざこざに心を痛めておられました。
 無双神伝英信流抜刀兵法の師 梅本三男貫正先生のもとに入門の御願いに行ったのは高校生のころの事ですから、学生服を着て御願いに行きました。事前に中学の剣道の先生に居合を習いたいのですがと相談したところ「剣道のついでに居合の段位が欲しいのであれば剣道連盟の中西先生に習いなさい。苦労するかもしれないが本物の居合を習いたいのなら梅本三男先生に習いなさい。私の兄も習っている。」とお話くださいました。私は中学生の頃に何度か梅本先生の居合を拝見しており、本物を感じていましたので、すぐに梅本先生に習うことに決めました。 
 先生もやはり何故居合を習いたいのかを聞かれましたが、私が「本物の居合を習いたいのです。」と答えたら気に入っていただき、すぐに許してくださいました。
 武術を習うということは、先生とは師弟関係となることを意味します。つまり安易な気持ちで入門することは出来ないのです。
 自分の勝手な都合で稽古を休むことは出来ません。先生は今日は誰々が稽古にくる日だから何を教えようと事前に考えてくださっているからです。
 自分の勝手な思いで、こうが良いだろう、こっちのほうがいいだろうと判断することも出来ません。先生は一人一人の全てを見たうえで、稽古を成就する先の先まで見越した上で、このように稽古しなさいと指導されるのです。したがって現代武道と異なり集団教授法は絶対に用いることは出来ませんし、用いたとすればごく一分の優秀な才能を持った人間のみしか力を伸ばすことは出来ません。
 師は全身全霊を用いて弟子を指導してくださいます。したがって弟子となるものは安易な気持ちで稽古を始めることは許されないのです。
 師は誰でも良いから居合・柔術の稽古をしてみたいと思う人は、誰でも良いから弟子にとる方の元で稽古するしかありませんし、いつまで続けるかどうかわからない人は、そんな弟子でも良いから弟子にしたい、数を増やしたい人の下で稽古するしかないのです。


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  1. 2008/04/22(火) 21:18:39|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

稽古とはこのようなもの

 時々、無双神伝英信流抜刀兵法の稽古を始めたいと言って来られる方の中に「かっこいいから。」と言われる方がおられます。そんな方はまず続きませんし、師弟関係ということも理解されることはありません。
 はたして、かっこいいのかどうか。私も含めて無双神伝英信流抜刀兵法でも渋川一流柔術でも真剣に稽古される方は(今はそういう方しかおられませんが)自分の業を常に至らぬとしか思えず、稽古が進めば進むほど至らなさがより見えてきますので、満足すると言うこともありません。
 無双神伝英信流抜刀兵法では日常生活での動きの質から流派で必要とする動きの質へと動きを変換するために普通の人で半年くらいは座法、礼法、歩法の稽古を行い、刀を振ることはありません。上級者の稽古の風景のみを見てかっこよいからと思って始めたら大きな間違いだと気づかされるでしょうし、その段階でもまだかっこよさを求めていては座法、礼法、歩法で身につけるべきものも身につかず、半年が1年に及ぶこともあるでしょう。
 この段階の動きがある程度身について刀を抜いて構え斬撃の稽古をするようになった段階においても、かっこよさを求める人はいくら静かにゆっくり刀を抜くように求めても「シャキーン」と勢いをつけて刀を抜きます。何度か指導しても直らぬ人は再度、座法、礼法、歩法の稽古からやり直しですが、この時点で心掛けのない人は何も言わず稽古に来なくなります。意地悪ではなく本質を身につけさせようとするのですが、そのような人にとって本質などどうでも良いようです。
 何とか形を稽古する段階になって、抜付けを静かにゆっくり、狂いなく歪みなく抜く指導をしても、形だけ求め、小手先で早く抜こうとし、改められない方がではじめます。「私は時代劇にあこがれて始めたのだ。」と言う方もいます。当然このような方も続くことはありません。
 上達すれば上達するだけ自分の至らぬところが見えてきますので、ストレスの解消になるわけでもありません。修行と言われる由縁です。
 しいて言えば上達すれば上達するだけ、以前に比べて動きが楽になったことがはっきりと体感できますし、日常生活での動きも楽になります。したがって上達していけばいくほど同じ時間稽古していても体力の消耗はなくなりますので、運動しているというわけでもなくなってしまいます。と同時に心も楽になるのですが、時代劇における表面上のかっこよさとは無縁のものです。


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  1. 2008/04/23(水) 21:48:10|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

上達過程

 無双神伝英信流抜刀兵法の稽古を今までされてきた方の中に上達ということについて全く考え間違いされてしまっていて、あるいは自分で勝手に思い描いてしまっていて、上達どころか下達された方が多くおられますので、上達の過程について記しておきます。
 はじめ、座法・礼法・歩法を稽古しても、斬撃の稽古をするようになっても、さらに形の稽古をするようになっても、今までの日常生活の動きからの脱却を図り、無双神伝英信流抜刀兵法における動きへの転換を図りますので、まず、無理無駄を動きから無くすことを要求されます。
 したがって、相当長い期間、ゆっくり静かに、まるではじめて赤ん坊が立ち上がり歩くかのような感覚で動かねば、すぐに元の動きへと戻っていってしまいます。この期間は現在の自分の必要最小限と思われる筋力しか用いることは許されないため、感覚的には非常におぼつかなく頼りなく感じられるはずです。このおぼつかなさ、頼りなさを嫌ってもとの動きの延長線で形を稽古してしまえば、それは武術として成り立たない動きでしかなく、衰えてしまう動きでしかありません。
 やがて、ゆっくり静かに動いていても、おぼつかなさ、頼りなさがなくなり、それがごく自然に感じられる時がやってきます。それが、その速さにおいて無理無駄が無くなった段階です。
 無理無駄が無くなれば、しだいに動きには速さがついてきますが、このとき、もっと速くと思って行った速さは作り物でしかなく、大きな無理無駄を伴うものとなってしまいます。動きに精度が加わり無理無駄がなくなればなくなるほど、自然に速さは増してきます。それは自覚できるほどの変化ではなく、何時の間にか変化していくものです。気づいたときには以前よりは速くなったと感じる程度です。
 無双神伝英信流抜刀兵法においてはこのような上達過程をたどります。したがって私が上達したと褒めたとしても、第三者には、なんであんな弱弱しい動きが良いのかと思われるでしょう。しかし、それは上達のために必ず通らなければならない道であり、真の動きを身につける為の過程なのです。
 動きの質を変化させて向上しようとしているのですから、右上がりの直線で上達するわけではありません。むしろ、第三者が外見のみ見れば、一度右下へと下がった(下手になった)ように見えるでしょう。

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  1. 2008/04/24(木) 21:37:44|
  2. 居合 総論

昨日の稽古の気づき

 昨日の無双神伝英信流抜刀兵法の初心者の方2名の稽古の気づきを記します。
 初発刀の鞘手柄手の掛かりまでは随分工夫されたこともあり動きは良くなってきました。しかし、柄手がかかってからの動きは自分勝手に敵にお構い無しに、ただ刀を抜いておられます。
 無双神伝英信流にあっては初発刀・左刀・右刀・当刀・陰陽進退の抜付けは動かぬ敵を斬る据物斬りではなく、我に斬りかかる敵を迎撃します。したがって、ただ刀を早く抜くとばかり思っていては敵がまだ間合に入っていないのに抜付け、抜付けが空を斬った後に敵に斬られてしまいます。また、「ゆっくり、静かに」を勘違いし独善的に抜いていたのではやはり、斬られてしまいます。
 自分の動きを武術としての居合となすためには、前述した「我に斬りかかる敵」をしっかり想定する必要があります。敵は我を斬ろうとして接近しますので、当然、彼我の間合は変化します。抜付けで自分の切先がどこを通るのか自分の有効範囲はどこまでなのかが分かっていなければ、間合を制することはできず、抜付けは意味のないことになってしまいます。
 昨日は早く抜くという事にのみ意識が行き、実際の自分の刀の有効範囲よりも手前しか斬っておられませんでした。二尺四寸五分の刀が脇差ほどの働きしかなしていないのです。
 右手を動かすことにより、速くという実感を求められていますが、技術的に言うならば、抜付けで右手が動くということは切先は遅れることを意味します。
 また、今の段階で敵に間に合う居合など全く求めておりませんし、できようはずもありません。動きの質の変化が全くなされていないからです。したがって、今これを求める気持ちがあるとすれば、思いをかえなければ上達しようはずもありません。自分が動ける速さ以上に速く動こうとすることは自ら自分自身の動きを壊していることを意味します。
 想定する敵は自分の腕に応じてゆっくりとした敵で良いのです。
 自分の刀の有効範囲をよく知り、ゆっくりではあっても自分に斬りかかる敵をしっかり想定して稽古しなければなりません。 
 

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  1. 2008/04/25(金) 18:49:13|
  2. 居合 総論

拍子

 今日の渋川一流柔術の稽古で気になったことがありますので、記します。
 形とは動きを養うものであって、それ自体を見事に演じようとするのは何の意味もないことと何度も述べてきました。したがって形の稽古を行うときに、受の仕掛けの速さ、タイミングはそれぞれの個性に応じて異なるのは当然のことであり、仕掛けの条件(突く場所、深さ等)に叶っていれば、それで良いのです。受けの仕掛けの速さ、タイミングは異なっているのですから、これに応じる捕も当然、相手によって、速さやタイミングが異なってきます。相手によって動きが異ならなければいくら自分自身が独善的に正しく動いていようとも、相手は倒れるものではありません。この点を良く考えて稽古しなければ形稽古は全く意味のないものになってしまいます。
 つまり、相手がゆっくり動いているのに、こちらが速くとのみ心掛けて動いてしまえばタイミングが合わず技は掛かりませんし、相手が速く動いているのに、こちらがゆっくりのんびり動いていては技を掛ける前に相手に制せられてしまいます。
 相手の個性による動きの違いは相手が動き出してからわかるものであってはならず、少なくとも相対した時には相手がどのような動きをするのかを読んでいなければなりません。読めていなくて、相手が動き出して始めて分かるようでは、相手の動きに間に合うはずもないのです。心掛けてください。

 5月4日(日)京都下鴨神社において午後1時から、5月5日(月)京都白峯神宮において午前11時から、日本古武道振興会による奉納演武会が行われます。無双神伝英信流抜刀兵法は4日と5日、渋川一流柔術は5日に演武します。お時間のある方はお越しください。 

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  1. 2008/04/27(日) 00:10:39|
  2. 柔術 総論

小手先

 渋川一流柔術でも無双神伝英信流抜刀兵法でも小手先の業を嫌います。
 昨日の渋川一流柔術の稽古でも初心者の方がいわゆる小手先の業を使い稽古しておられましたが、絶対に止めなければなりません。
 小手先の業になるのは肚中心で動こうとすれば動けず、そのため、意識的にせよ無意識にせよ形の表面を整えようとして、手先から動いているからです。
 「出来なくて当たり前」の覚悟を持たなければなりません。初めから肚中心で調和が取れた動きが出来るならば稽古する必要はありません。できないからこそ、稽古しているのですから、できたような外見を整えていたら、いつまでたっても出来るようにならないばかりか、小手先の動きが身についてしまい、治そうとしても治すことのできない悪癖としてこびりついてしまいます。
 上級者が懐剣を持って意治稽古を行えば、すぐにわかりますが、小手先で抑えようとし身体が逃げているので業は全く有効ではなく、何度やっても相手を抑えることが出来ません。つまり、無駄な時間を費やして有効ではない業を身につけているに過ぎないことに成ります。
 初心者の方は、「出来なくて当たり前」の覚悟をしっかりともって稽古を重ねてください。

 5月4日(日)京都下鴨神社において午後1時から、5月5日(月)京都白峯神宮において午前11時から、日本古武道振興会による奉納演武会が行われます。無双神伝英信流抜刀兵法は4日と5日、渋川一流柔術は5日に演武します。お時間のある方はお越しください。 

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  1. 2008/04/27(日) 20:11:10|
  2. 柔術 総論

心がけ

 今日の渋川一流柔術の稽古を見ていて感じたことですが、まだまだ「出来なくて当たり前」の覚悟が足りない方が多くおられます。
 なぜ、心を臍下丹田に沈めて動かないのか。
 相手がおらず、自分の身体だけを動かす時には出来るのに相手がいれば、速く業を掛けよう、極めようという思いが先にたち、身体の調和を自らが乱し、小手先で業を掛けてしまう。これは結局のところ自分の心がそうさせてしまうのであって、極論すれば稽古に対する心掛けが悪いのです。
 出来なくて当たり前だからこそ、静かにゆっくり調和を乱すことなく稽古します。しなければならないのです。
 結果として、やがて業が身につき、意識しなくとも有効な動きが生まれてきます。

 無双神伝英信流抜刀兵法の師範代代理は稽古に「我」を交えることなく静かにゆっくり体の調和を乱すことなく稽古を続けました。結果として、今は意識せずにある程度の速さと威力のある居合を抜きます。腕力ではなく業が身についたのです。今から磨けばさらに上達していきます。稽古に対する心掛けが良かったのです。私の稽古の十数年分の上達を2年で成し遂げたのは心掛けのよさ以外の何物でもありません。

 いつまでたっても業が上達しないと思っている方は、自分の稽古に対する取り組み方をもう一度見つめなおしてください。

 5月4日(日)京都下鴨神社において午後1時から、5月5日(月)京都白峯神宮において午前11時から、日本古武道振興会による奉納演武会が行われます。無双神伝英信流抜刀兵法は4日と5日、渋川一流柔術は5日に演武します。お時間のある方はお越しください。 

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  1. 2008/04/28(月) 22:15:08|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

師弟関係

 ある雑誌に細川義昌師と中山博道師、植田平太郎師との関係を「・・・交流があり、居合伝の指導がある程度なされ・・・」とありましたが、全国的な雑誌であり、影響力も大きいので、また、間違った価値観、知識が世に広まるのかと情けなく思います。
 中山博道師も植田平太郎師も細川義昌師に入門したのであり、入門したからにはたとえどんなに二人の武道界における地位が高かろうとも、細川義昌師とは師弟関係以外の何物でもなく、これを「交流があり」などという軽い言葉に置き換えることは許されないことであり、これではまるで中山博道師も植田平太郎師も細川義昌師を師としてみていない、対等であると思っていたと言うよう受け取られかねない表現です。また、両師とも細川義昌師から免許皆傳を受けられているにもかかわらず、「居合伝の指導がある程度なされ」と書くのはまるで、両師があまり指導も受けていないのに免許皆傳を名乗ったと言わんばかりの文章です。
 かって畝先生は「弟子となるものの権利は師を選ぶことのみである。師弟となったからには師の話すことに全て従わなければなくなる。」「師弟といえば親子も同然。我が子の危機に際しては親は我が命をなげうってでもこれを助ける。」と御教えくださいました。私も師に何かあれば自分の命は顧みないのが弟子としての当然の勤めだと思っておりました。
 先生は私を「森本先生」と呼ばれていましたが、これは私が既に無雙神傳英信流抜刀兵法や銃剣道等を指導していたからであって、畝先生の御人格からでた言葉に過ぎません。あくまでも、師弟関係です。他の門人は何を大きな勘違いをしていたのでしょう。

 今は、そのような師弟関係を「交流」などという言葉で汚す時代。嘆かわしい限りです。
 


 5月4日(日)京都下鴨神社において午後1時から、5月5日(月)京都白峯神宮において午前11時から、日本古武道振興会による奉納演武会が行われます。無双神伝英信流抜刀兵法は4日と5日、渋川一流柔術は5日に演武します。お時間のある方はお越しください。 

  貫汪館ホームページ(←クリックしてください)の無双神伝英信流抜刀兵法と渋川一流柔術の行事のページに速谷神社奉納演武の写真を載せました。御覧下さい。
  1. 2008/04/29(火) 21:46:07|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

出来なくて当たり前

 今日は無双神伝英信流抜刀兵法の稽古日でしたが、まだまだ稽古への取り組みが甘すぎるように思います。
 身体の無理無駄を無くすことを稽古して頂いているのに、抜付け、斬撃、血振いにこだわり、形にしなければならないと思い、身体を力ませて固めてしまう。これでは形稽古は全く役に立たないどころか武術にとって形稽古はしないほうがましという状態になっています。
 形稽古における外見は求めてそうなるものではなく、自在な動きを工夫した結果、そのようになったものでなくては武術における形とはいえません。形稽古の目的はあくまでも自由自在に動ける己を作ることにあるのです。そのための基礎として無理無駄を無くす稽古をしているのですから、それをないがしろにして外見に目が行くようでは、無双神伝英信流抜刀兵法における上達は望むべくもありません。
 極限まで無理無駄を排除するためには今までの日常生活の中で得ていた動きの実感からは離れなければならないのです。実感は薄らぎ不安に感じるかもしれませんが、そこがスタート地点なのです。スタート地点に立つことをおそれていては、何も出来ません。
 初心者なのですから形は出来なくて当たり前なのです。

 5月4日(日)京都下鴨神社において午後1時から、5月5日(月)京都白峯神宮において午前11時から、日本古武道振興会による奉納演武会が行われます。無双神伝英信流抜刀兵法は4日と5日、渋川一流柔術は5日に演武します。お時間のある方はお越しください。 
  
 5月25日(日)に一般に公開した自由参加形式の貫汪館居合道講習会を実施します。講習会のテーマは『英信流表の形・・・形が教える事』です。詳しくは貫汪館ホームページ(←クリックしてください)の無双神伝英信流抜刀兵法 稽古のページを御覧下さい。
  1. 2008/04/30(水) 22:15:55|
  2. 居合 総論

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