日本武道学会40周年記念シンポジウムは8月29日(水)、霞ヶ関ビル33階の東海大学学友会館で開催されました。
シンポジストは柔道を代表してIJFメディアコミッショナー ミッシェル・ブルース氏、IJF教育コーチング理事 山下泰裕氏、剣道を代表してFIK副会長 アラン・デュルカメ氏、FIK副会長 福本修二氏が講演をされ、その後質疑がありました。
山下氏が海外で柔道の普及に勤めておられる熱意はしっかりとわかったのですが、では講道館柔道を通じて一体何を普及しようとされているのでしょうか。講演の最後にロシアのプーチン大統領が柔道家である事を紹介され、日本のテレビ番組でインタビューを受けるプーチン大統領の様子を映されました。
講道館柔道の最も素晴らしい点は嘉納治五郎による柔術の競技化にあるのではなく、「自他共栄」の思想にあると私は思います。
講道館のホームページには下記のようにあります。少し長くなりますが引用します。
「嘉納治五郎師範は少年時代から身体が弱くなんとか強くなりたいと柔術を修行しました。
はじめ天神真楊流柔術を、続いて起倒流柔術を学び、それぞれ奥義に達しましたが、他の流派にも興味をもち、研究に打ち込み、諸流のよさをとりいれ、さらに自らの創意と工夫を加えた技術体系を確立するとともに、理論面でも柔術の「柔よく剛を制す」の柔の理から「心身の力を最も有効に使用する」原理へと発展させ、新しい時代にふさわしい技術と理論を組み立てました。
嘉納師範はこの原理を「精力善用」の標語で示し、これこそ柔道技術に一貫する原理であるとともに、社会生活すべてに於ても欠くことのできない重要な原理であることを明らかにしました。
そしてこの原理を実生活に生かすことによって、人間と社会の進歩と発展に貢献すること、すなわち「自他共栄」をその修行目的としなければならないと教えました。
主とするところは「術」ではなくこの原理と目的により自己完成をめざす「道」であるとして、術から道へと名をあらため、その道を講ずるところという意味で名づけられたのが「講道館」という名でした。」
この講道館柔道の修行目的である「自他共栄」の思想が一体どれほど世界的に普及しているのでしょうか。私達の身近で考えても、私達が社会体育の活動の塲として十数年来使用させて頂いている中学校の武道場ですが、数年前、新たに柔道の専門家である体育教師が転勤してきたときに、自己紹介するでもなく、いきなり「私がここに転勤してきたので、ここを○○○市柔道連盟の活動の拠点にしたいから、あなた達はよそで稽古してほしい。連盟からも正式に話があります。」と話かけてきたり、出て行かないとなると、「更衣室の生徒の物がいじられているので更衣室の使用は不許可」にしようと工作したり・・・等々。また、もう少し目を広げてみても、私達が武道場を使用している市の体育館で柔道の大きな大会が開催されるときには、かならず、会場準備という名目で前日から体育館を全館借り上げ、体育館を使用している多くの団体が稽古できなくなっていますが、実際には準備は一日中行われることは無く、体育館は遊んでいる時間のほうが多いという実態。これは柔道に限らず、剣道の大会でも同じ事ですが・・・。
ここには「自他共栄」の思想や「人間形成の道」という思想は全く見受けられません。本当に「自他共栄」の思想や「人間形成の道」という思想を重んじるのであれば、そうすることによって他者の稽古場所を奪っているということに気付くはずであり、気付けば、大会当日早朝に準備するという他者に対する「思いやり」がもてるはずです。
回り道になりましたが、講道館柔道がほんとに嘉納治五郎の柔道修行の目的である「自他共栄」を世界に普及しようと努力しているならば、柔道の高段者を大統領とするロシアの政治姿勢にあらわれるはずですし、世界ももっと「自他共栄」を念ずるようになるでしょう。また、そうでなければ、嘉納治五郎の柔道は過去の遺物となってしまうのではないでしょうか。
9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。他流派、他道場の方や一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
- 2007/09/03(月) 18:06:26|
- 武道史
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日本武道学会第40回大会一般発表の第一日目は東海大学高輪校舎で8月30日(木)行われました。
発表は武道指導法系・人文科学系会場、人文・社会科学系会場、自然科学系会場の3箇所に別れて行われます。したがって全ての発表を聞くことはできないので、私はたいていは人文・社会科学系会場にいます。
1日目の発表ではいつものように工学院大学の数馬先生による「北関東における武術流派の伝播に関する研究(4)」や山崎先生による「平法中條流の技について」など詳細にわたるまで研究された発表がなされました。発表抄録については持ち帰ったものを道場内で回覧いたしますので、ご覧いただければと思います。
学会フォーラムでは「武道の国際化ーその光と影ー」というテーマで、柔道・剣道・空手・すもう・弓道・なぎなたの各専門分科会から代表者が出られ、それぞれ意見を述べられましたが、特に印象に残ったのは弓道の方のお話でした。
全日本弓道連盟の中央道場は神道の施設である明治神宮苑内にあり、また、神道による儀式が弓道の大会等でいまだに行われていることを話されました。国際弓道連盟には日本以外のアジアの加盟国は無く、またイスラム圏も参加せず、欧米の國のみ加盟しているということでした。
私は当然の事であると思いますし、弓道が現在の弓道のあるべき姿を維持しようとされるならば無理に弓道を海外に普及することはないのではないかと思います。柔道の例に見るように、無理をして海外に普及しようとすれば、武道の持つ良い部分をある程度すてなければならなくなり、結局国内でも、武道の変質が起こらざるを得ません。現在存在する武道が素晴らしいと考えるならば、海外から習いにに来ようとする人達を拒む必要はありませんが、急速に海外に普及しようとすることは必ず本質が変化するということを覚悟しなければなりません。
ところで、昨日以下のような記事を目にしました。
『中教審は、昨年12月に改正された教育基本法で、教育の目標に「伝統と文化の尊重」が掲げられたことから、「武道は日本の伝統や文化を知るために役立つ」と判断。1、2年時に水泳や陸上競技、ダンスなどとともに教えることにした。』
「伝統や文化」といいますが、現代武道を一括して同列に論じても良いものなのでしょうか。各武道それぞれですが、一体どの時代の日本の伝統や文化を身につけさせたいのでしょう。武道の種目によっては明らかに明治維新以降の富国強兵策のもとでの軍隊式一斉教授法に基づく教育方法がとられ、体遣いもまた明治以降の西洋式のものに移行しています。教育問題に関しては、いつも、あまりにも無知な人たちが議論していると思うのですが現代武道と古武道の違いさえ分からな方達がどのような議論を経て「武道は日本の伝統や文化を知るために役立つ」と判断したのでしょうか。
9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。他流派、他道場の方や一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
- 2007/09/05(水) 07:48:07|
- 武道史
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一般研究発表第2日目は8月31日(金)に行われました。
私の発表「大石神影流『諸国門人姓名録』について」は会場におられる方に、それなりの興味を持っていただけたと思います。特に南山大学の榎本鐘司先生や明治大学の長尾進先生にはご質問いただき、発表後にも引き続き廊下でご質問いただきました。今後何をはっきりさせねばならないのかがわかり調査の方向性が定まってきました。
また、福島大学の中村民雄先生には懇切きわまる御指導を頂き、これほどまでにお考え頂いていると言うことに感謝の思いがこみ上げました。ご指導のもと早く論文をまとめなければ思っております。
無双神伝英信流の師 梅本三男貫正先生、渋川一流の畝重實嗣昭先生のご存命中にも両師に教えていただける縁のありがたさに常に感謝いたしておりましたが、日本武道学会においても素晴らしい先生方にご縁を頂いたことに感謝いたしております。
学会の期間中、一つ残念だったのは、最終日の午前の発表の後ごみ箱に発表抄録が何部か捨てられていたことです。かりにも人が発表にいたるまで努力して作成したものを、一度手にした後で自分に興味のない発表だからといって会場でごみ箱に捨てる行為は武道を修める人間として許される事ではないと思います。私が見た時間には配布資料はまだ、各教室入り口そばの机上に積まれていました。必要なければ、そこに返却すればよいのだという考えをどうしてもたれなかったのでしょうか。配布用の資料が積まれた机とごみ箱の間は5メートルも離れていませんでした。
小さなことかもしれませんが、このような事が日本武道学会で行われていれば、いくら日本武道協議会の武道憲章に「武道は、武技による身心の鍛錬を通じて人格を磨き、識見を高め、有為の人物を育成することを目的とする。」と書いてあっても、武道に興味の無い一般の人にとってそれは空理空論と思われるでしょう。
礼なき「武」は容易に「暴」と化してしまいます。我々も心しなければなりません。
9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。他流派、他道場の方や一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
- 2007/09/05(水) 17:59:46|
- 武道史
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無双神伝英信流抜刀兵法、渋川一流柔術に共通して形の稽古というものは非常に繊細で同じ事をしているつもりでも、ほんの僅かでも歩む道がくるってしまえば、取り返しのつかないことになってしまいます。
ゆえに、渋川一流の稽古においても私がよしと思う方にのみ指導者または兄弟子として初心者を指導して頂いています。稽古年数が長く、たとえ手順を正確に覚えていても動きの本質ができていなければ、指導的立場には立って頂いていません。何も知らない初心者の方に、間違った方向付けをしてしまいかねないからです。
これは無双神伝英信流においてはとくに当てはまることですので、居合の稽古では道場では私以外に指導的立場にある者はいません。一人で行う居合の形であっても兄弟子であるからということで、形をお手本として見させていないのは、間違った動きを良いものとして植え付けたくはないからです。太刀打にあっても打太刀が遣方を導きますので、動きのできていないものが打太刀にたてば必ず、遣方の動きはおかしくなってしまいます。
技を少し覚えると、すぐに教えたくなる方も世間一般にはおられますが、貫汪館にあっては、まず自分の稽古に専念していただきたいと思います。
9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。他流派、他道場の方や一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
- 2007/09/06(木) 23:11:45|
- 居合・剣術・柔術 総論
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先日、日本武道学会に出席するために上京し、学会が終わった翌日、東京都杉並区高円寺南2-7-1拓都ビルB1F にある
劇団夢現舎で居合の稽古をしました。
午前中は広い場所を借りていただいて「太刀打」の稽古、午後は稽古場で大森流を陰陽進退まで稽古しました。
「太刀打」の稽古は劇団の皆さんは初めてでしたので、手順を覚えることに苦労されたと思いますが、流石に日々の演劇のための稽古の質が高いので、要所要所の難易度の高い体遣いもかなりのレベルで習得されていました。
午後は大森流の稽古をしましたが、抜付け以外の動きは非常によく稽古されていました。私が反省しなければならないのは抜付けの教え方にありました。
私自身、抜付けの動作が以前に比べてどんどん楽に自由になっており、抜いていっているという実感はほとんどありません。抜付けの動きは、あえて言葉にすれば「体が楽になっていけば(いたら)抜けていた」という感じであり、傍から見ればスッと速く抜いているという様に見えるらしいのですが、実際は速さを感じることはありません。
今回の講習では「見たとおりにやってください。」と教えましたので、見たとおりにやられたら、意図的にスッと速く抜くという動きになってしまったのだと思います。結果として皆さん切先が伸びず、ちじこまった動きになっており、固い動きになってしまいました。いくら速く抜けても敵との間合いが計れてなければ敵を倒すことはできません。
私は自分が自分の動きで抜かず、ゆっくり静かに(自分の感覚ではそうなのですが)見た目に分かるように抜くべきであったのかと思っています。はじめゆっくり静かに正確に抜く稽古をしなければ、できあがるものは全くの別物になってしまいます。次回の稽古ではここを主として会得していただきたいと思っています。
来年の夢現舎の公演予定は下記のようになっています。
2008年
2月1日(金)~21日(木) No.21 『続・遺失物安置室の男』 アトラクターズ・スタジオ
8月 エジンバラ国際フェスティバル参加 英国・エジンバラ
11月8日(土)~9日(日) 凱旋公演 於 紀伊國屋サザンシアター
(協力:国際アルファ通信) 稽古が終わって、JALで羽田空港から広島空港まで帰り、そこからZRX1200Sに乗って高速道路を走り、約1時間かけて廿日市に帰ったのですが、そのとき不思議な感覚を覚えました。
バイクに乗ると軽い前傾姿勢であるのにもかかわらず、全身がすーっと楽になったのです。それは上田先生に打って頂いた刀で居合を抜いている時と全く同じ状態です。
バイクに乗るのも稽古の一つと考え工夫して乗っていたのでそうなったのかもしれません。
9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。他流派、他道場の方や一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
- 2007/09/07(金) 22:30:39|
- 居合・剣術・柔術 総論
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一昨日の無双神伝英信流抜刀兵法の稽古、本日の渋川一流柔術ともに稽古する方の良い動きを経験することができました。
まず、一昨日の居合の稽古の話ですが、「詰合」の拳取の方の稽古で、ある方が遣方をされる時に今までは打太刀の拳を取る手の内がどうしても弱かったのですが、初めて私が身動きできない動きをされるようになりました。これまでの稽古は静かに無理なく無駄なくをひたすらに追求していただいており、速さ強さなどは全く求めてもおりませんでした。その無理無駄のない動きがやっと功を表しはじめたのです。
本人は全く力を入れていないのに私の腕は動かそうにも動かない。体のほんの僅かな働きでこうも違うものかと驚かれていました。拳取の動きができたら岩波で私を投げることもでき始め、膝で押さえられたら身動きもできないほどに定まってきました。
本日の柔術の稽古では、今まで動きがへなへな、ふらふらだった子供が返投げで私を投げて膝で腕を押さえたのですが、この動きも非常によく、腕を動かそうにも動きませんでした。
居合の動きができるようになったのは女性で、柔術の動きができるようになったのは小学校4年生の女の子です。
二人とも筋力で私を押さえつけようとは全く思ってもいませんから(不可能だということも分かりきっていますので)、はじめから素直に、指導される通にただひたすら努力を重ねてきました。結果として静かで無理無駄のない動きが速さ強さを生みだし始めたのです。今は始まりに過ぎませんが、やがて業は大きく成長していくことと思います。
二人の動きには強さを生み出そうとするいわゆるタメなどはありませんし、すらすらと動きは流れています。その自然な流れこそが、速さ強さを生み出します。男性の皆さんはどうしても無意識のうちに筋力に頼ろうとしがちです。今一度自分の動きを見つめなおしてください。
特に、男性の初心者の方は何かの動きをしようとするとタメをつくってから強く動こうとしがちです。タメは常に変化し続ける彼我の関係を有する武術にあっては隙以外の何物でもありません。居付いた隙はすぐに斬られてしまいます。また、タメを作って充実していると感じるのは体の力みを感じているに過ぎないのだと気付かねばなりません。
9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。他流派、他道場の方や一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
- 2007/09/08(土) 22:11:20|
- 居合・剣術・柔術 総論
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今日の渋川一流柔術の稽古を見ていて、多くの方が上半身の無理無駄な力を使うまいと努力はされているのですが、下半身の特に股関節(そけい部)の工夫が不十分であるように思いました。
いくら上半身の無駄な力が抜けても、下半身が上半身を運んでいるのですから、脚で蹴って動いてしまうと、動きには段ができ、重心が浮いてしまって技をきめることはできなくなります。
一般的に上半身のほうが下半身よりも感覚が発達しているので、無理無駄を自覚しやすいのですが、そこにとどまらず、股関節(そけい部)を中心とした下半身の無理無駄のない動きの工夫をしていただきたいと思います。
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- 2007/09/11(火) 01:19:41|
- 柔術 総論
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先日東京に行った際にある方からお聞きした話ですが、日本でも権威のある古武道の団体に新たにある流派が正会員として加盟したということです。
その流派を初めて調査され、世に知られるもとを作られた、ある大学の武道史を専門とされる教授に数年前に直接お話を聞いていたのですが、その流派の実技の継承はたくさんあった師範のどの系統でも断絶しており、継承者は存在しないということでした。さらに今回「宗家」という名称で加盟された方は、その教授にその流派に関する資料はないかと何度か問い合わせをされていたようです。
その古武道の団体で会員ではないという立場で初めて演武会で演武されたときには「○○流の復元を宜しくお願い致します。」と述べられていたようですが、その家が数代にわたって教授してはいるものの実技の継承が断絶していたことは明らかでした。
私がこの事に関して思う事は二点あります。
一つ目は権威のある古武道の団体がその目的に<文化としての古武道の保存振興>ということを掲げておりながら、その家にかつて存在していたとしても、実技の伝承が途絶えているのに、書き物に基づいて復元した流派が果たして文化財としての古武道と言えるのかということです。
現在、世の中には書き物に基づいて復元した流派が、非常に多くあります。しかし、それらでさえ、復元ということを公表せずに50年もたてば江戸時代から継承されていた流派という嘘が真実に化してしまうでしょう。これをはたして文化財としての古武道と言っていいのでしょうか。たとえ手順は復元できたとしても、その流派に伝わった動きは断絶した時点で消滅しています。
そのようなものを文化といい、古武道というのであれば、私のような者でもいくつもの流派を名乗ることができます。武道史の研究をしていればその流派の形の手順を書いた物は幾らでも見つけることができるからです。かって日本武道学会で雑談の際に武道史の研究をされながら剣道を専門にされる方にお話をしたこともありますが、その方も笑いながら、「それなら私でもいくつもの流派を名乗ることができる。」と話されていました。
二つ目は、その流派の流名には他家の姓がついているのにその姓に連なるものでない者、また流派の継承が江戸時代に唯一一人と限られてはいなかった流派の師範であった者が「宗家」という称号を勝手に用いてもよいのかという点です。
宗家制度については以前にも西山松之助先生の『家元の研究』に言及したように武術にあっては完全相伝制をとっていた流派がほとんどであり、一つの流派に天皇家のような存在は無かった(あった流派がまれであった)というのが常識です。
宗家と称することができるのは竹内流や関口流のように、流祖以来その家で伝承された流派や江戸時代において、あるいは維新後まもなく、遅くとも明治時代にはすでにそのような制度が固定されていた流派だけであろうと考えます。
仮に現在、流派の存続のためという理由で、新たに唯一絶対の宗家制度をとったとしたら、いつからそのような宗家制度をとったのかを明らかにすべきであろうと思います。そうでなければ、そのような行為は自分だけが尊いという自尊他卑の現れであり、武術の修行とは口先だけのものでしかないでしょう。現代は誰も彼もが宗家と称して偉くなりたいようですが、同じ流名で他にも継承がある(あった)にもかかわらず宗家と名乗るのはいかがなものかと思います。今回の○○流であっても江戸時代にいくつもの師範の系統があったのになぜ、自分を「宗家」と称することができるのでしょうか。
現在大坂で伝承されている渋川流の水田先生は、先代まで宗家という称号を用いられていたにもかかわらず、実技の継承は無くても渋川家が存在するかぎり、また存在した限り宗家は渋川家であると自ら師範と称されました。古武道の世界にも、このような高潔な方が居られます。
今回の流派の加盟は、ある理事が強引に推し進めたことであり穏健な理事の皆さんがそれに従ったようですが、その流派の実技が断絶しており実技は復元であり、宗家の称号は?という事実を知っておられても、加盟は議決されたことでしょうか。もし、このような決定が今後もなされつづけるようでしたら、その団体の権威は地に落ちざるを得ないでしょう。
このような問題を解決する方法はただ一つです。
その「日本でも権威のある古武道の団体」に中立的な立場の日本武道学会会員の中の武道史の権威による諮問機関をつくることです。
「古武道の定義」
「宗家の定義」
「加盟しようとする流派の加盟の可否」
等の参考意見を求めるべきであると思います。
諮問機関の意見が「否」であるのに理事会で「可」決定されれば、所詮それだけの団体という扱いを受けるだけですから。
私を含め貫汪館で稽古する方は、決して古武道を自分の名誉や権威として利用するのではなく、文字通り「修行」のために行うものと心得なければなりません。
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- 2007/09/12(水) 17:40:27|
- 武道史
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先日所用があって岡山県長船町の刀匠 上田祐定先生のもとへ行ってきました。
今、使用している二尺八寸二分の刀を打って頂いた刀匠です。夏も終わり再び居合刀から真剣の使用に戻りましたが、やはり上田先生の真剣でなければしっくりきません。先生の肩は腰にさしただけで、体の感覚が全く異なり、数段上達します。私の真剣は貫汪館のホームページの無雙神傳英信流抜刀兵法のトップページに載せている刀です。
上田先生は現代の多くの刀工と異なり日本刀は「折れず曲がらず、よく斬れる」がその条件であるという立場から地金の工夫をされ、砂鉄から自家製鋼されています。
お訪ねしたときは、ちょうど折り返し鍛錬をはじめらるところで、見学させていただきました。最近はお弟子さんも多く日本一の刀鍛冶集団になっておられるので、横座にお弟子さんが座られ上田先生が指導、向う槌も弟子三人で鉄を鍛える様子は迫力に満ちています。
そして何よりも弟子の皆さんが「親方」を大事にされその指示を聞き漏らすまいと一生懸命になっておられる姿に感銘を受けました。それはあるべき武術の道場そのままの姿でしたから。
修行中は当然、収入はありませんが、親方の上田先生が全くのボランティアで後継者を育てられ、炭代、鉄代、寝所の全ての出費をまかなわれます。それぞれの弟子は生活費は自分で何とかしなければなりませんが、弟子が玉鋼で作った包丁も生活の足しになるようです。現在全ての刀匠が刀を打つだけで生活できているわけではなく、上田先生は弟子達が生活に困らないようにとまず、包丁作りを指導されます。
いつも上田先生をお訪ねして思うのですが、先生にある思いは「良い刀を作り、その技術を後世に伝える。」ということのみです。現代の古武道家も「業をひたすら磨き、後世に伝える。」ことのみを願い、地位や名誉を必要としないという立場になければならないと思います。
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- 2007/09/13(木) 23:04:25|
- 居合・剣術・柔術 総論
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昨日の無双神伝英信流の稽古をみての感想を記します。
複雑な形になればなるほど、どうしても手先から動こうとされ結果として体がひずんでしまう事があります。人間は手先のほうが器用なので、難しいと感じたらまず手先からと無意識のうちに思ってしまうようです。
しかし、それでは力を入れない力強さは決して生まれるものではありません。全ての動きはあくまでも中心から発しなくてはなりません。もし、できていないのならば、できないのならば、歪みがわからないのならば、自分が自分の体を認識できるスピードを越えて動こうとしているのです。形稽古の意義は動きの本質的な質を高めることにあるのですから、いくら速く動けても中身が伴っていなければ、無意味であるどころか、上達の妨げにしかなりません。
此処で、中心からの動きといいましたが、その動きが少しづつ切先に伝達されるのだとは考えないで下さい。そのような動きにはタイムラグができて、いくら中心が働いたとしても、結局遅い動きにしかなりえません。体の各部に弛み無く、しかし硬直無く、そのような状態が維持できていれば中心の動きが同時に切先の動きにつながっていきます。決して外見を真似ようとせず、よくよく自分の動きを工夫されてください。
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- 2007/09/14(金) 21:44:40|
- 居合 総論
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武術において気迫で相手を抑えるという事を聞くことがあります。しかし、無双神伝英信流においても渋川一流柔術においても気迫で相手を抑えるなどということが可能でしょうか。
無双神伝英信流抜刀兵法にあっては想定では、すでに敵に斬り掛かられつつあるという状況がほとんどであり、この敵を気迫で抑えることができるならば、居合の技術は不要といっても過言ではありませんん。また、渋川一流柔術においても女性や子供が自分に危害を加えようとしてやってくる敵に気迫で勝ることができるというならば、護身の技術も磨き上げる必要はないでしょう。気持ちが萎縮しないことは必要ですが、不利な状況にあるからこそ業が必要になるのであり、業に裏打ちされた心の状態があれば自ら鬼気迫るような気迫を出そうとすることは全く必要ありません。
勝海舟の話をまとめた『氷川清話』に心のありようについて以下のようにあります。文中の白井亨は幕末の防具着用の剱術の全盛期に生きた人ですが、当時一流の剣術家といえども40歳、50歳になると体力の衰えとともに剱の腕も衰えていくのを見て嘆き、兄弟子で形を通じて達人となった寺田宗有に入門し道を得た人で、江戸でただ一人、大石神影流の大石進に勝ったと伝えられています。
「無我無心は禅機の極意だ。人一たびこの境に達す、真個敵なしだ。かつて白井亨という剱の達人があつておれもたびたび就いて教えを受けおおいに裨益した事があった。この人の剱を使うやほとんど一種の神通力を具えていた。その白刃を提げて立つや凛として犯すべかrざる神気刀尖より迸りて向などに立って居れなかった。おれも是非この境涯に達せんと必死に練磨したけれど、たうたう達しなかった。
おれもひどく感心して話すと、白井は笑って、足下が多少剣道を解しおればこそ自分の切先もそう恐ろしく感ずれ、無我無心の人には何とも感ぜぬものよ。ここに剣法の奥儀は存するよと諭した。おれもますますその人の及ぶべからざるを知了した。」
この文書から気迫とは何かを考えてください。
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- 2007/09/15(土) 19:19:24|
- 居合・剣術・柔術 総論
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今月初め、
、劇団夢現舎で居合の講習会を行いましたが、夢現舎の俳優の方から講習会の感想文が届きましたので、連続して掲載します。皆さん武術に対する感性が高い方ばかりなので、感じられた内容もレベルが高く、貫汪館で稽古されている皆さんにも大いに参考になると思います。
「居合の時間(稽古)は、いつもわくわくして楽しみです。今回は午前中から夕方までの長時間、稽古ができてとても有意義でした。
午前中は木刀を使っての太刀打、形を稽古してみて普段芝居の稽古でする殺陣と共通する部分や違いを発見しました。体の使い方を教わるたびに新たな発見をして驚き感心してしまいます。
体の使い方で、「下がる部分があるから上がる部分がある。」というのがとても印象的で、身体は連動しているんだな―と改めて思いました。実際はまだまだそのように上手に身体を使えませんが、それを知っているのと知らないのでは大きな違いだと思います。
それぞれ個人のの身体で違いがあるので、自分で一つ一つ探っていく必要があると思いました。まだまだ、かたい所や力が入ってしまうところが多々ありますが、一つ一つ大事に自分の身体を扱っていくようにしたいと思います。
次回も楽しみにしております。その時までには今回教わった事の一つでもできるようになっていたいと思います。」
「先日は私達のためにご指導くださいまして有難うございました。
新たな発見あり、忘れていた感覚の再認識ありと、とても収穫のある稽古となりました。やはり無駄な力を抜くというのが自分の課題でした。
そして、ふと気がついたのですが、自分は普段の行動(歩く。自転車に乗る)でも肩や体のどこかに無駄な力みがあったのです。
こういった普段の力みを見直していけば、きっと居合でも自然と無駄な力を抜くことができると思いますし、それがまた、夢現舎の芝居にもつながっていくものと思います。
またご指導いただける日を楽しみに致しております。有難うございました。」
9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。他流派、他道場の方や一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
- 2007/09/16(日) 17:52:27|
- 居合・剣術・柔術 総論
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劇団夢現舎の俳優の方からの居合講習会の感想文を続けて掲載します。稽古は今月初めの講習会で4回しかできていませんが、非常にレベルの高い方々で、すでに数年分に匹敵するものを身につけておられます。貫汪館で稽古されている皆さんも大いに参考にしてください。
「先日はお忙しい中、朝から長時間ご丁寧に教えていただき有難うございました。
何回か教えて頂いているのに、何故かこういうことに緊張する私ですが、先生の立ち姿を見て不思議と落ち着くことができ、そして新鮮な、初めて先生の動きを見て圧倒された時のような気持ちになりました。
先生の仰って下さる事が、普段の芝居の稽古で言われていることと重なり、相変わらずできなかったり、仰って下さっていることを多分全部はとらえきれていないことを反省しつつも発見と驚きがたくさんあり、楽しんで稽古を受けることができました。
あれから皆で、ああでもない、こうでもないといいながら復習しています。すぐに物事の本質はとらえられないでしょうが、少しずつ前に進んで生きたいと思っております。
また稽古していただける日があることを願っております。どうぞ先生もお体ご自愛くださいませ。」
「先日はお忙しい中、ありがとうございました。
いつも先生の稽古は始まる前は緊張するのですが、やっていると楽しくてしかたくなってきます。
でもまだまだ力が抜けません。
一人でくり返し稽古しているときは、「力をぬく」「バカになる」を意識してできるのですが、いざ相手と向かい合ったりすると、たちどころに力んでしまっています。しみついた殺陣の動きになってしまったりするので頭で考えすぎているのかもしれません。
「バカになる」も「軸で動く」も、どれも芝居に通じていて勉強になります。
今後ともお忙しいとは思いますが、稽古を付けていただきたいです。時間がありましたら、是非お願い致します。そのときにはもう少しバカになれるようにしておきます。
9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。他流派、他道場の方や一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
- 2007/09/17(月) 18:29:58|
- 居合・剣術・柔術 総論
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劇団夢現舎の俳優の方からの居合講習会の感想文の3回目です。
「午前中は芝居の稽古場ではなく、場所を借りて広いところで木刀を用いて稽古しました。
太刀打の二人で組んで行う技は道理がわかれば体がついていくと思うのですが、道理もまだ理解できていないせいか、頭の中が真っ白になって時々固まってしまいます。
新しく教えていただいたものを自分の中で消化するには時間をかけてコツコツ重ねていく必要があるなあと感じました。一つ一つの形の名前をヒントに動けそうな気もします。
午後行われた居合の稽古は、今までの復習も含めての稽古でしたが、前回よりも先生の言葉が理解できたように思います。
前回まで分かっていなかった部分が、初参加する方と一緒に稽古を行ったことで外側から自分と比較した時に、自分の中に“解けていく”ものがありました。
私は右手で持つ癖があるのか体で感じるのではなく、右手の力だけで支えていたようで、「左手が死んでいる」と言われた時、ハッとしました。今まで筋肉のせいにしていた部分がとんでもない、基本の体の使い方だったということで、これからの向き合い方に変化がおきてきそうです。
次回の稽古までに忘れず、より体を使えるようになっておきたいです。新しいことを吸収できるやわらかい頭をもって。
次がすごく楽しみです。」
「刀を当てにいっていると普段の殺陣の稽古でもよく注意されます。何故そのような結果になってしまうかを考えると、先に進めることばかりを考えてしまい、闘いの意識が無いので、なんとなくそれらしい事をやっているとしか見えません。
これは芝居の稽古のときも同じで、話ばかり進めようとして相手との対話を忘れてしまうと、何を見せたいかが見えてこない。話が発展してこない。つまり熱が生まれてこないのです。
日常生活にも通じる事で、バイトでも(牛丼屋)ただあるマニュアルをやるのではなく、そのマニュアルが何故あるのかを考えないと、いざという時困ってしまったり、普段、家で読書をする時でも、ただ読むだけではなく、言葉の一つ一つを考えていかないと読んでいる本の意味が本の本質が分からないのではないかと思いました。
「形を覚えるだけでは使い物にならない」
今回、居合を通じて改めて様々な事を感じることができました。
有難うございました。
9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。他流派、他道場の方や一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
- 2007/09/18(火) 18:11:10|
- 居合 総論
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劇団夢現舎の俳優の方からの居合講習会の感想文の4回目です。
「先日は稽古をつけていただいて有難うございました。大変有意義な時間をすごさせて頂きました。
第1回の稽古の際に教えていただいた構え方。相手の気を受け、背中に通しそれをお尻まで落しして、丹田から切先に通す。このイメージをやっと感じられるようになりました。
動こうとすればするほど、どうしても力が入ってしまう。相手の勢いが強ければそれだけ力が入ってしまう。すると刀を腕の力で持ってしまうようになり、上半身に力が入ってしまいます。相手の気を背中に通し、お尻から丹田に通すことで、上半身の重さを丹田で支えられるようになる。
言うのは簡単です。ですが、やはりいつでも、この丹田で体重を支えられるようになる為にはもっと稽古が必要だと思いました。普段、生活している中で丹田で体を支えることを意識しようと思います。
「腑に落ちる」という言葉がありますが、芝居でも相手の言葉を受けて、それをきちんと腑に落としていないと(納得していないと)返す言葉がうそ臭くなってしまいます。僕はまだ、相手の芝居をきちんと受ける事が出来ていないので嘘臭い、軽いと、いつも演出家に言われます。太刀打の稽古でも相手の気をきちんと受けて腑に落としていないと、形が乱れてしまうと今回教わり、これは芝居でもつかえるなと思いました。
また、相手に剱を振るさい、存在を相手にぶつけるようにすると教わりました。剱を降ろうとするとどうしても力が入ってしまうように、芝居でもセリフを言おう言おうと思うとだめになります。その思いを、存在を相手にぶつけるという心積もりが良いのだと改めて思いました。
お陰様で、本当に勉強になりました。いつかまた、稽古をさせてもらう日を楽しみにしております。まだまだ未熟者ですが、何卒よろしくお願い致します。本当に有難うございました。」
9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。他流派、他道場の方や一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
- 2007/09/19(水) 17:50:15|
- 居合 総論
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劇団夢現舎の俳優の方からの居合講習会の感想文の5回目です。感想文は今回で終了です。
「早いもので劇団夢現舎居合道講習会も4回目となりました。
今回は一日がかりの長丁場にもかかわらず、いつもと変わらぬ熱心なご指導有難うございました。
広島と東京という距離のため、年間に数回しか実現できない講習会ですが、回を重ねるたびに先生の教えが自分の身体の中に積み重ねられてゆくのを感じます。たとえば、一年前の稽古で終了間際に軽く説明を受けた「右刀」「左刀」「当刀」が難しく感じられたのですが、今回久々にやってみたところ自分で思っていたよりスムーズに動いた事に驚きました。勿論、「出来た」と言って憚りのないレヴェルには到底及びませんが、それでも戸惑うことなく素直に身体が反応してくれたような気がしました。これはおそらく先生の言われる「力を抜く」感覚や、その動きの構造を四回目にして身体で理解し始めたからではないかと思います。
稽古の後、日常の生活に戻った際にも、それはふっとよみがえってきました。ちょっとした些細な行動を何気なしに居合の観点から省みると、その動きの中にはなんと無駄の多いことか。すると最近忙しさにかまけていろんな事が雑になっている自分が見えてきました。知らず知らずに上ずった生活や心身状態にあった己を点検することが出来ました。だからといって、それがすぐに修正できるほど私は達人ではありません。まずは一つずつ気付き、それを受け入れてゆくしかありません。そしてそれらを修正してゆくことこそ自分が精進してゆくための課題となり、今後の修行を続ける上でいいモチヴェーションになります。しかしながら、道は気の遠くなるほど長いです・・・。
また、今回は初めて太刀打を教えていただきました。シンプルな形の中にあらゆる動きに対しての想像力、相手との間合、呼吸が重要で、どれをとっても舞台の上で必要な物ばかりです。まるで演技そのものといっても過言ではないくらい応用できるものが詰まっています。ただ、やあらめったらに刀を振るのではなく、その動きの本質を考え、想像することがとても楽しく重要なことだと思います。
思うに、おそらく剱も芝居も想像力を広げ、それを活かす事がとても大切だと感じます。それこそが人間の許された特権であり、、思いやる心であり、愛に通ずるものではないでしょうか。その力を養うために修行があり、遂行するためには気張らず、あせらず、欲を出さず、ぐっと気持ちをはらに落として、自分の奥底に眠る自分本来の姿、自分にしかない能力を発見してゆくことではないかと思います。
・・・と偉そうな事を並べましても、まだまだ始まったばかり。あまり頭で考えずに稽古を重ね、少しずつ身体にしみこませてゆこうと思います。今回の稽古で最後の最後に先生が仰った一言が、今でも何度も頭によぎります。
「要領が分かってきて、稽古に慣れてきた時こそ要注意です。」
次回の稽古を今から楽しみにしておりますので、よろしくお願い致します。
以上で今回の、劇団夢現舎での講習会の感想文は終わりです。貫汪館で稽古される皆さんも、俳優の皆さんの稽古に向かわれる姿勢を見習ってください。
話は変わり、写真を見てください。
8の数字が並びました。88888km。5年半で走行した距離です。自動車を通勤に使うことはほとんどありませんので、稽古への行き返り、武道史調査で使った車の距離数です。よく走ったものだと我ながら思います。この数字、稽古場所の七尾中学校に着いたときに並びました。
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- 2007/09/20(木) 17:02:17|
- 居合・剣術・柔術 総論
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先日、斬撃が浅い方をどのように修正しようかと考えて、呼吸に工夫をして頂きました。
今までも呼吸に工夫をしていただいてはいたのですが、このたびは何も考えずにただ、呼吸にのみ意を用いていただき、呼吸を深く行い、それにのせて、運剱、斬撃を数回していただいただけで、動きは完全に良くなってしまいました。
その後の稽古でも斬撃の動きは良く、呼吸と斬撃を会得されているのですが、ふと、呼吸のみの工夫で良くなったのではないのかもしれないと思いました。その方は、当日たまたま仕事が長引き、稽古時間がほとんどないのにもかかわらず、急いで道場にこられたので、稽古着に着替えずにTシャツで斬撃の稽古をして頂きました。稽古のあと、「今日はTシャツだったので上半身の動きが稽古着に比べてとても楽で、とくに肩の動きがスムーズでした。」と話されました。
良く考えると、私も稽古着の時よりも正式な紋付の時やTシャツのときのほうが抵抗(動きにくさ)が少ないように感じます。
斬撃が浅かったのは、呼吸が浅かったことによりますが、着衣が生んだ上半身の動きに対する抵抗(動きにくさ)に無意識のうちに気をとられて、知らず知らずに呼吸が浅くなっていたのが真の原因でした。
稽古時間が残り少ないのにも関わらず、走って道場に来られたという熱心さが、着衣による動きの違いに気付かせ、次の稽古からは着衣が異なっても、呼吸が同じように深く出来るようにさせたのだと思います。
熱心さが生んだ上達の機は天恵だと思います。
9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。他流派、他道場の方や一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
- 2007/09/22(土) 22:07:52|
- 居合 総論
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以前行った二段の昇段試験の課題論文をご紹介します。
中学3年生の女の子ですが、長年稽古してきただけにしっかりした考えをもっています。
『二つの姿勢』
「武術における姿勢には身体の姿勢と心の姿勢があります。この二つの姿勢が出来てこそ、自分の身を守ることが出来るのです。
身体の姿勢とは背筋を正し、重心を落とすことです。また、何をするにも、腰から動くことが大切です。私が呼んだ本には「力というのは本質的に《腰からの力》で無ければならない。足腰の出来ていない人は肩の力に頼るようになってしまう」と書かれていました。このように《腰からの力》を使えるようにするには、股関節を柔らかくし、身体の力を抜いて常に腰から動く、ということを心掛けなければならないと思います。常に心して動けば、力を抜いていても《腰からの力》で動くことが出来ます。身体の姿勢は意識の持ちようで、出来るようになるのです。
もう一つの心の姿勢はそう簡単にはいきません。武術や武道、なんでも僧ですが自分の心が落ち着いていないと本来の地価あは発揮されません。常に冷静でないといけません。稽古では「これは稽古だ」と思い安心してしまい冷静さを欠く事はありません。ですが、稽古でも武器を使うことがあればまた違います。物を使うことによって冷静さを失うことはありませんが、怖いと思ってしまうことがあります。稽古でさえも恐怖を感じてしまうのに、もし実際に何かあれば自分は冷静でいられるのかと、時々思うことがあります。ですがそれは気持ちの問題ですから、自分に自信をもつことが大切だと思います。私は常に冷静でいなければならないと思っていましたが、武道の上級者は自分の小手打ちについて、こう述懐したそうです。「どの瞬間を、どのように打ったかは覚えていません。その時頭で考えず、身体に仕事をさせるのです。」また、別の人は「裕美を習うということは自己を習うのである。自己を習うことは自己を忘れることである。」と述懐したそうです。この二人は冷静になるよりも、無心になっているようです。
冷静と無心。どちらがいいのか、人によって違うと思いますが、これからも私は常に冷静でいられるように稽古します。」
心身を二つに分けることは出来ません。心が出来れば業も進み、業が進めば心も上達します。それはどちらが先とも言えないものですが、まず、初心の方はひたすら稽古と心得てください。
貫汪館H.Pの貫汪館会報のページに月刊『武道』8月号の記事を載せました。 9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。他流派、他道場の方や一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
- 2007/09/23(日) 14:02:39|
- 昇段審査論文
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貫汪館では人によりますが、礼法・座法・歩法等の基礎的な稽古を約半年して頂いた後、形の稽古をして頂いています。無双神伝英信流抜刀兵法の形の稽古は大森流に始まりますが、大森流が初心者のための形と考えると大きな間違いを生んでしまいます。
今までにも述べてきましたが、大森流は無双神伝英信流に取り入れられてはいますが、英信流とは別の体系を持っており、大森流の稽古のみで相当なレベルにまで達することが出来るように仕組まれている流派です。それは大森流そのものが英信流とは別の流れの人である大森六郎左衛門という、林六太夫守正の剣術の師であった人物が作った流派であるためです。
したがって、初心者用の形であると軽々しく考えると後々の稽古に悪影響しか及ぼしません。
一般に居合の稽古を始めたばかりの人は座姿勢から始まる形よりも、早く立姿勢からの形を稽古したい傾向にあります。しかし、何故、大森流の形のほとんどが座姿勢から始まるのでしょうか。それは座ることこそが居合の為の身体を養う極意であるからです。
立つことが許される「虎乱刀」は大森流の体系で言えば、ほぼ最後の、動きの完成の時期に至ってからとなります。座姿勢の大事さについては以前にも述べましたので詳しくは述べませんが、
「正座の姿勢では足首、股関節、腰は自然に引力によって正され無理・無駄な力はまったく入っておらず、また、下半身が自然であるが故にそれにのる上半身の腹、背、胸、肩、腕、首にも全く無理・無駄な力は入らない。」という稽古をし、立ってもまた、その状態であらねば居合は抜けるものではありません。
稽古をあせらず、座ることの意味を思いながら稽古を進めてください。
以前述べたことと重なりましたが、初心者の人に再確認していただくために述べました。
貫汪館H.Pの貫汪館会報のページに月刊『武道』8月号の記事を載せました。 9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。他流派、他道場の方や一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
- 2007/09/24(月) 10:00:23|
- 居合 総論
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渋川一流柔術の初段の課題論文をのせます。小学校6年生から稽古をした中学校3年生の女の子の論文です。時間に制約があり週に1時間しか稽古できませんが、動きの質が向上してきました。
『間合』
「私は「間合」について調べてみました。
間合とは、自分を相手との距離、空間を言う。この空間をどのように処理するかが勝敗の分かれ道になり、相互の技量、体格気力、構え、癖など、様々な要素が集まり一つの空間が出来るというものだった。
間合にとって重要なことは相手も変化し自分も変化する。そのような状況の中で常に有利な間合を取るということ。だから、そのためにも、まず、私は自分の間合を取ることが必要だと思う。この間合なら相手に攻撃が出来る。この間合なら相手の攻撃をかわすことが出来る。など、日頃の稽古においてしっかり掴んでいくことも必要になってくる。と思う。そして自分の間合がわかって初めて相手に対して有利な間合が取れるようになってくるのだと思う。
私は、よく稽古中に間合が遠いと言われる。たしかに間合が遠いと突いていくとき相手まで手が届かないし、逆に自分に隙が出来てしまい。攻撃されると思う。相手との間合は近すぎても遠すぎても駄目なので常に自分にあった間合を考えることがこれからの稽古に必要なことだと思う。
他にも体格の違いによる間合もあり、背の高い者・低い者・背が高いが俊敏さにかける者など色々あり、それにあった間合を考えて動くことも大事だし、これからの課題になってくるんだと思う。
でも、間合は柔術にだけではなく、話す時の間合など、何をするときにも必要になってくる。
たとえば、話す時の間合では会議や話し合いなどで必要になってくる。みんなの意見がばらばらで話し合っても纏まらず、ただただ時間が過ぎていくそんな時に、間合をとる。イコール休憩を取ることが必要になる。
間合には相手の目を見ることが重要だと思う。例に出した話す時の間合でも話す時相手の目を見て動かなければいけないのと同じように、柔術も相手の目を見て動かなければいけない。それは間合とつながり自分が目をそらせば隙が出来、逆に相手に自分との有利な間合をとられてしまうからである。
だから、これからの稽古は、そのことを踏まえて取り組んでいきたいと思います。」
間合は柔術にとって非常に重要で、相手にかかっていた技も3cmも間合を間違えると技は掛からなくなってしまいます。
よくよく工夫してください。
貫汪館H.Pの貫汪館会報のページに月刊『武道』8月号の記事を載せました。 9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。他流派、他道場の方や一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
- 2007/09/26(水) 00:04:10|
- 昇段審査論文
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小学校4年生の昇級審査の作文を載せます。なかなか身体が思うように動きませんでしたが、最近は動きに柔らかさが出てきました。また、作文では自分の課題を良くとらえており、後は自分の問題点をどのように克服するか自分で工夫していければさらに、上達すると思います。
『私が心掛けなければならないこと』
「私が稽古するときに心掛けなければならないことは二つあります。
一つ目は、人が稽古をしている時は自分は関係ないと思うんじゃなくて、姿勢を正しくして、ちゃんと人が稽古をしているところを見て「こうするんだ。」と理解しながら稽古したほうがいいと思います。
なぜなら、私はお兄ちゃんと二人で先生について同じ形を習うことがありますが、お兄ちゃんが先に稽古しているとき、先生は「ちゃんと見た?」と聞かれます。私はボーっとしていたので「もう一度やって下さい。」と言います。お兄ちゃんは「ちゃんと見ろよ。」といいます。私はお兄ちゃんに「ごめん。ごめん。」としか言えませんでした。
人が稽古している時にも、自分が稽古しているときにも集中していなければいけないと思います。お母さんも「たとえ、自分に言われたことじゃなくても、自分のこととして聞かないとだめよ。」と言いました。
私はこれから、座って待っているときには、姿勢を正しくして、人の稽古をしっかり目で見て考え、自分の稽古のときに、それを生かせるようにしたいと思います。
二つ目は爪を切ることです。
稽古をするとき先生方や他の人に怪我をさせてしまうからです。先生の手に傷があるのをみて、今度から絶対に爪を切って来ようと思いました。
私は柔術を稽古していて、大変だと思いますが、楽しいこともたくさんあります。これからも頑張っていこうと思います。」
貫汪館H.Pの貫汪館会報のページに月刊『武道』8月号の記事を載せました。 9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。他流派、他道場の方や一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
- 2007/09/28(金) 00:04:46|
- 昇級審査作文
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昨日の無双神伝英信流の稽古では、抜付けでの右手の働きを重点的に稽古していただきました。
右手の働きといっても、右手を有効に使うという事ではなく、右手を使わずに右手は働くのですから難しいのだろうと思うのですが、刀を抜くという、あるいは抜付けるという意識があっては、抜付けはいつまでたっても、何度繰り返してもできるものではありません。
では、右手を使わすまいとするのかといえば、それもまた間違いです。刀を抜く、あるいは抜きつけるという意識が心の力みであるのと同様に、それは負の方向の力みでしかないのです。
大森流で正座をする意義は座ることにこそ極意があるからと述べましたが、英信流の居合膝での座法に比して正座は初心者の方には、その体感が得やすいものと考えます。昨日の稽古でも現段階において許容範囲にある正座をされる方が動き出してしまうと、先ほどの正座の身のありようはどこにいったことか、全くといっていいほど消え去っていました。
貫汪館にあっては常々お話しているように正座の姿勢は「あるがまま」であり、天賦の形であることを稽古しています。いわゆる気迫を出そうという事はなく、背筋にも肩にも胸にも肘にも手首にも体の各部のどこにも緊張はないはずです。この状態はたとえ抜きつけたときでも、刀を振り上げ斬撃し、血振いをしてもまったく変わることはありません。
動いていない正座も、動いている抜付けも「静と動」といって対比されるものではなく、どちらも「静」といえば「静」でありどちらも「動」といえば「動」であるものであって異なるものではありません。
術理は道場でお話いたしますが、まず、上記のことを自分の頭にも体にも納得させて稽古に望んでください。
貫汪館H.Pの貫汪館会報のページに月刊『武道』8月号の記事を載せました。 9月30日(日)に行う無双神伝英信流 居合道講習会の案内を貫汪館ホームページの無双神伝英信流の稽古のページに載せましたのでご確認ください。他流派、他道場の方や一般の方にも公開して行う講習会ですので柔術の初心者の方も御参加ください。
- 2007/09/28(金) 17:20:01|
- 居合 業
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無双神伝英信流抜刀兵法 居合道講習会は今回は「詰合」を行いました。
「詰合」は通常、英信流表がある程度つかえるようになってから稽古するものですが、今回は初心者の方には経験していただく事を目的に、形の進んだ方には英信流表の向上を目的に、それぞれ稽古していただきました。
今回も、前回と同じく道場外からは、横浜から稽古に来て頂いたり、広島市内で稽古されている上級者の方にもお越しいただき盛況な講習会となりました。
「詰合」は立膝の状態から行いますが、以前にも述べたように、この立膝の姿勢が極意と言っても良いのです。座した状態のままに動き抜付け斬り、受ける。いずれの動作も立膝で座した状態と変わるものではありません。
動きも連続していたり、速い動きのものもありますので、座した状態が崩れてしまうこともあるかと思いますが、そのような時には必ず、再度、立膝で座した時の状態をご確認いただければ良いと思います。
今日の稽古は御膳9時は~午後4時までという長時間の稽古でしたが皆さん良く頑張っていただいたと思います。
今回の講習会で新たに自分の稽古すべきところを見つけられた方は、上達の好機です。ますます、工夫を重ねてください。工夫・稽古によって道は開けます。
中には親指の付け根の手の皮を痛められた方が居られますが、これは止太刀をした時に起こったものだと思います。木刀をとめる際に柄を握り締めたために、毎回、木刀に右手親指の付け根を擦り付けてしまったのでしょう。止太刀は動きの中心である身体の中心に急にロックをかけ、連動している各部が止まることによって成立します。決して身体の末端を固めて刀を止めているわけではありません。それでは形のための形となって変化に自由に対応出来る動きを身につけるのとはほど遠い稽古になってしまいます。さらに工夫してください。
貫汪館H.Pの貫汪館会報のページに月刊『武道』8月号の記事を載せました。 無双神伝英信流抜刀兵法 居合道講習会への御参加有難うございました。次回は11月または12月に実施する予定です。日程は近日中にご連絡いたします。。
- 2007/09/30(日) 23:44:34|
- 居合 総論
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