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無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

阳剱

 大石神影流剣術の阳剱は素振りを正しく稽古していればできるようになるものです。刃筋正しく斬り込むことが大前提の手数です。
 正しく素振りができているのに、阳剱がうまくいかないのは相手の木刀があるために、無意識のうちにその木刀を脇にそらそうと自分の太刀筋を変えてしまうところに原因があります。相手の木刀に惑わされることなく、ただまっすぐに切り込みます。
 また、素振りでは正しく振れているのに手数になると、相手の頭上で木刀を止めなければならないという思いから、体をすくめて力み自ら自身の自由をなくしていることがあります。木刀が止まるのは居合の稽古で習得しているように臍下からの動きを止めるからであって、腕肩を力ませて木刀を止めるのでもありません。
相手が目の前にいるために、いないときの動きができないのは心の問題ですので自分の心のありようを工夫してください。

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  1. 2015/05/01(金) 21:25:00|
  2. 剣術 業

阴剱


 阴剱は阳剱の対となる手数で、相手の動きに従ってかつ手数です。相手の動きに従って勝つといっても相手の動きを待つ心ではなく、心も体も常にニュートラルな状態にあります。その中の選択として相手の動きに従っているのです。
 車の構えは変化が自由な構えです。これを先入観から町の構えと思ってしまうと変化ができなくなってしまいますので先入観は捨ててください。さてこの変化が自由にできる構えの中で相手に従って勝つのですから阴剱よりも、動きそのものは難しくなります。また、手数の手順も多くなりますが、まずはゆっくり動き手手数乗合を体得しなければなりません。手順が多いからと言って決まった動きをなぞる稽古をしていたら、本当の意味で相手に従って勝つことはできません。
 工夫してください。

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  1. 2015/05/02(土) 21:25:00|
  2. 剣術 業

無二剱

 無二剱は現代剣道でいう二段打ですが、初めから二つ打つと考えて行うわけではありません。小手を打込む、小手を切るつもりで動いたのを防がれるので次の動きが起こります。初めから二つではなく、変化して二つ目が生まれます。
 打太刀の小手を切って、次に面を見るときの打太刀との間は15㎝程度しかありません。二太刀目に大きく出すぎないように工夫してください。

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  1. 2015/05/03(日) 21:25:00|
  2. 剣術 業

二生

 二生は阴剱と同じく形の上では相手に従う手数です。が、附けの構えを取ることからわかるように攻めていなければ使えません。仕太刀が攻めているので、打太刀は無理に切り込みます。それを下方からせめて出て、それに耐えきれず打太刀が斬りこんできます。
 この手数では初めにとる附けの構えが本物である必要があります。工夫してください。

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  1. 2015/05/04(月) 21:25:00|
  2. 剣術 業

日置流

 流祖・日置弾正正次は伊賀平氏の出自で、その射法を伝えるとともに源氏系の逸見の射法も伝えた。文明の頃佐々木氏が多賀党と近江箕作山西麓に戦ったとき、佐々木氏のために奮戦し、後土御門天皇にも仕えた事があるという。正次は弓術修行のため諸国を遊歴し、審固持満・飛貫中の秘術を会得したという。3)
廣島藩では、日置流には文化の頃に父山下角太夫より教を受けた山下勘左衛門があった。幕末には山下角太夫がいる。また、前述の神尾弌之があった。

吉田流

吉田流弓術の祖といわれる吉田重賢は近江国蒲生郡河森に生まれた。幼時から家伝ともいうべき源氏系の逸見・武田・小笠原の古流弓術を習得したが、日置弾正正次に学び新流の開祖となった4)
 廣島藩の吉田流は勝田家によって伝えられていた。承応元年(1652)、玄徳公の命により勝田五左衛門は、加賀藩士吉田左近太夫につき弓術修行。印可を得て翌年帰藩し、それ以降勝田家が師範となった。この系統は左近衛門流とも呼ばれていた。
これとは別に小篠家によって伝えられた吉田流もあった。享保の頃、御中小姓、小篠文太は伊勢国、津藩士,吉田六左衛門につき弓術を修行し、廣島藩に於いて門弟に教授を始めた。この後五左衛門・斧槌・三左衛門・五左衛門と続き幕末に小篠吉左衛門があった。三左衛門の子五左衛門は伊勢国津の吉田家から相伝の秘書を授かり、また、もう一人の子源左衛門は諸国遊歴の後、常陸国水戸に居住し、門弟を育成した。

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  1. 2015/05/04(月) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

稲妻

 稲妻は三段打です。が、これも二生と同じく初めから三つ打つと考えて行うわけではありません。
空くから次を斬り、また次が空くから次を斬ります。
 難しいのはむしろ、ニ撃目を受ける打太刀の動きで、打太刀の動きがいい加減なために仕太刀が打太刀の指を斬りそうになることが往々にしてあり、それを避けるために、仕太刀が本来斬るべき位置よりも低い部位に斬りこんでいることがあります。
 打太刀を務める方は工夫してください。
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  1. 2015/05/05(火) 21:25:00|
  2. 剣術 業

太陽剱

 太陽剱までの手数は明確に陽、陰と交互に組み立てられてます。太陽剱も、表面上は打太刀に従って勝つ手数ですが、附けの構えを取ることからわかるように攻めているから、打太刀は切り下さざるを得ません。
 また、動きの面でいえば振りかぶるときに焦りで重心があがることがあります。素振りの動きと照らし合わせてみれば自分の至らぬところが分かります。工夫してください。

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  1. 2015/05/06(水) 21:25:00|
  2. 剣術 業

著作権

 インターネット上の画像にも著作権があるという事は周知の事実になっています。貫汪館門人の皆さんもその点には十分にご留意ください。
 しかし以前、日本武道協議会に加盟する〇〇道の雑誌の記事に貫汪館ホームページと道標の大石神影流剣術関係史跡の写真を盗用されたことがあります。高名な作家が記した文章に出版社の編集者が貫汪館のウェブ上の画像を断りもなく盗用していたのです。気づかれないと思ったのでしょうが、切羽詰れば職業人でさえ著作権を無視したことをします。
 一般の方も平気で著作権を無視して、盗用をするようです。貫汪館の道標の2009年5月7日の『明治期の農村部の武術4』の写真も、良くも悪しくも一部の人には名の知れた人に盗用されていました。私があげている写真がサムネイルであり、クリックしなければ拡大表示にならず、また何年も前の記事だからだから盗用してもわからないと思ったのでしょう。私もある人に教えてもらわなければ盗用されていると気づきませんでした。
 盗用は犯罪行為であるので貫汪館の方は十分に気を付けてください。

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  1. 2015/05/07(木) 21:25:00|
  2. 未分類

樋口真吉の天保11年(1840)第2回廻国修行日記『西遊記稿本下 再遊之巻』より 1

  土佐中村の大石神影流師範 樋口真吉の第2回目の廻国修行について抜き書きします。
 第2回目の廻国修行は天保11年(1840)9月20日から12月18日までの行われ、この間、大石進のもとでの稽古の後、長崎、佐賀を経て再び大石進のもとで稽古し土佐に帰国しています。行程は『西遊記稿本下 再遊之巻』としてまとめられています。
 
 10月7日
「柳河を立て江ノ浦永江吉太郎を訪、三朝屋を過時ニ樺島五郎七ト同岩熊ニ偶、江浦を少シすぎるとき湯村猪三郎ニ逢、宮部ニ至り大石先生ニ謁賀、安全、島原屋忠七ニ宿、久留米藩中高松利貞同宿、此人去年ヨリ大石先生ニ随江都ニ遊、以来東海道五畿を経当時当地ニ来ル、長州修行者弐人宿ニ来ル、此人ハ明八日此地發足と云、肥前平戸修行者壱人来訪、此人ハ三年前より留学と云」

 この文章から、久留米藩からの留学生 高松利貞が、大石進が二度目に江戸に出た時、大石進にしたがって江戸に出たことがわかります。
 また、続々と他藩からの留学生が来ていることもわかります。これら、他藩からの留学生が何を目的に大石進ののもとで稽古し、自分の藩に戻ってからどのような活動をしたのかは一部はわかっていますが今後の研究の課題です。

 写真は伊勢の外宮です。
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  1. 2015/05/08(金) 21:25:00|
  2. 武道史

 樋口真吉の天保11年(1840)第2回廻国修行日記『西遊記稿本下 再遊之巻』より 2

 10月8日
「大石氏稽古人数
  先生
  若先
  今村五市
  伊藤東吾
  椎嵜午允
肥前平戸家中
  草刈和一郎
 筑後久留米家中
  高松喬次郎
  堀酉之助
樺島五郎七
〃 岩熊
  大石進士
 長州家中
  内藤駒之丞
 槍横地長左衛門


稽古終より長州修行者島崎の家ニ行、暇を告て帰ル、長州其日發足柳河城下へ出ル也、湯村・伊藤ヲ訪、雨降雷鳴ニなる、夜伊藤東吾・堀酉之助来ル、湯村猪三郎亦来ル、」

 この記録からも他藩からの留学生が大石進のもとで学んでいることがわかる。
 横地長左衛門は夢想流の鉤槍の師範、この当時、柳河藩の大嶋流槍術師範加藤善衛門のもとで試合槍術を学んでいたと思います。
 内藤駒之丞は長州藩の柳生新陰流の師範内藤作右衛門の縁者であろうと思います。長州藩は剣術師範を藩命により大石進に入門させています。

五十鈴川です。
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  1. 2015/05/09(土) 21:25:00|
  2. 武道史

樋口真吉の天保11年(1840)第2回廻国修行日記『西遊記稿本下 再遊之巻』より 3


10月12日
 「先生   東吾
  若先   五市
  岩熊   馬允
  直次郎  乕松
  関升太郎 和作
  猪三郎  酉之助
  喬二郎  和一郎
  五郎   真吉

シナヘ竹ヲ造、革二枚求ル、一枚六百文、持参ノ撓コヽニ欠しタリ」

 この記録から竹刀を自作していることが分かります。竹、柄革・先革・中結なども自作していたのでしょう。大石進の家の庭には竹林がありました。


伊勢の内宮です。人が多かったので上部だけ写真に収めました。
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[樋口真吉の天保11年(1840)第2回廻国修行日記『西遊記稿本下 再遊之巻』より 3]の続きを読む
  1. 2015/05/10(日) 21:25:00|
  2. 武道史

樋口真吉の天保11年(1840)第2回廻国修行日記『西遊記稿本下 再遊之巻』より 4

10月24日 雨
「前夜過鍛冶屋町時ニ赤松縣門人を以招予、則□所ニ至、赤松ハ常州水戸浪士大石門人、去年より當所ニ住シ剣術・柔術師範すると云、豊後森の家中之人居合、此人ハ我森を通りシ節行違イシ人也、柔術修行者之由、赤松菓子及饂飩を出、夜ニ入帰ル、四ツ時小川氏ニ至ル、稽古場出席十人餘、相手赤松縣・小川喜代二両人なり、稽古畢茶つけ出ル、夜逸雲来ル」

 赤松縣は水戸で一刀流を修め、大石神影流を学んだ後、長崎に道場を開き、やがて神陰一刀流を名乗ります。神影一刀流に関する資料は現在のところ門人帳しか見当たりませんが、一刀流よりも大石神影流の色彩が濃い流派であったように思います。柔術流派の名称はわかりませんが。水伝流抜刀も教えていたようです。

伊勢の神楽殿です。
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  1. 2015/05/11(月) 21:21:00|
  2. 武道史

樋口真吉の天保11年(1840)第2回廻国修行日記『西遊記稿本下 再遊之巻』より 5

11月1日 曇
「武雄ヨリ牛津ニ至六里之間淤泥煩足、黄昏佐嘉城下ニ着、白山町武富文之助ヲ尋逸雲ノ書簡ヲ渡、其後武伎試合ノ都合ヲ問、文之助ヨリ示サレ本ト町逆旅秀屋ニ行、秀屋主人云、修行者宿家少ク此頃蓮池町村岡庄兵衛替ルト云、因テ村岡ニ至、村岡我等ヲ迎二階ニ通ス、家造甚廣大美麗ナリ、村岡ハ中間ノ由、質物店ヲ出ス、コノ城下官人皆店ヲ構ウ、主人役場ヘ我等カ事ヲ達ス、暫シテ帰り来、国主ノ名及禄数ヲ尋、故ニ委書記シテ与フ、主人書付ヲ持テ再ヒ学館ニ出、帰り云、学館云明日ハ支リアリ明後日ノ立合ニアラスンハ出来申マジト」

 修行者宿についてのお話です。天保11年ころには佐賀に修行者宿があったことが分かります。また、佐賀藩の中間である村岡庄兵衛は質屋を経営しており、「城下官人皆店ヲ構ウ」とあることから佐賀藩に仕える身分の低い者たちは副業に商売をしていたということもわかります。
 修行者宿については何時か資料を集めて、まとめなければならないと思っていますが、することが多すぎめども立ちません。

五十鈴川の橋から下流です。
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  1. 2015/05/12(火) 21:25:00|
  2. 武道史

樋口真吉の天保11年(1840)第2回廻国修行日記『西遊記稿本下 再遊之巻』より 6

11月2日
「主人庄兵衛出ル後、マタ主人学館ニ出手首尾不及シ帰リ云、今日ハ殿様御入、御文学有之存、明日御入御与学有之、御試合可然と、九ツ頃より村岡次男青柳平一郎同行ニ而白山町武富文之助を訪、文之助出迎、寝二通シ茶菓ヲ出ス、儒者也、江戸へも行と云、古賀先生へも随身スト云、談話黄昏旅宿ニ帰ル、夜家中の士弐人来ル、柳生流也、面小手ナシト云、因テ試合ハ断、小森庄兵衛・益永宗内也」

 この記録から佐賀藩での試合の取次は修行者宿の主人がしていたことが分かります。
 また、夜、柳生流の門人が来たけれども面小手を着用しない流派なので試合を断っています。こちらが防具を着用して相手が着用せず試合というのは、やりづらかったのだと思います。あるいはこちらも防具なしで袋撓を用いなければならなかったのかもしれません。

五十鈴川のそばの国旗です
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  1. 2015/05/13(水) 21:25:00|
  2. 武道史

樋口真吉の天保11年(1840)第2回廻国修行日記『西遊記稿本下 再遊之巻』より 7

11月3日 晴天
「九ツ時学寮下役帯刀之人主人迎ニ来ル、主人同道家来ニ撓ヲ擔カセ学館ニ至大門ヲ入、玄関ニ着、羽織着の人二人式禮ヲナス、案内ニテ二間ヲ通六曲引廻シ刀掛備ヘアル処ニ我等ヲ請ス、茶汲来ル、用所ヱ誘行時、諸先生来見夥シ、後導場ニ引テ行、此處ニモマタ六曲引廻シアル、童者我等ノ刀持来ル、此処ニ直シ刀掛ニアケル、則爰ニ装束ヲ改稽古支度ヲ調土間ニ下ル、土間ノ上見物之諸士纍々、三方充満漸動揺不歇、我等具足面不持参、因テ借用ユ、壱番黒原氏立合、森□□より初一人、又代り次予立合嘉村與兵衛、是より両人互ニ入替り入替り休ミ休ミ遣フ、勝負ハ向原好ニ任セ我等持参の撓ニテ初メ三本後三本□所々用之、短撓ニテ試合、向所撓ハ三尺餘リノ常程の撓ニ革を引通シタル撓也、流名ハ直心影剣術・體タイ捨流、鉄人流上段式(或カ)ハ中段下段式(或カ)ハ側構二刀、委ク記ニ遑アラス、四十人餘相手、畢時槍術師範出来り槍術ヲ好、依テ三人相手ヲ致、宝蔵院流十文字槍也、我ハ弐間柄、弐度目より九尺ヲ借遣、三度目種田流時日黄昏下役盥ニ湯ヲ取来ル、手足ヲ洗、座ニ直ル、挨拶の以前の人出、儒即草葉佐助出来り談話ヲナス、茶汲来ル、盆ニ握り飯三ツ有、竹輪・コンニヤク・焼ドウフ載来ル、食之、草葉及宮前より手引ヲナシタル人渡行ニテ学寮段々見物ヲ致ス、甚廣大也、遥奥深ク行処学生夥布素読声、燈火ニ伴ウテ連々タリ、公出席ノ間至テ広シ、モトノ玄関ニ還」

 佐賀藩での試合の様子が記されています。
 試合相手の流派は直心影剣術・體タイ捨流、鉄人流で二刀に対して苦労した記述はありません。
 「短撓ニテ試合」とありますので大石神影流に用いる乳通りの長さの竹刀はもちいなかったのでしょう。佐賀藩の竹刀は「三尺餘リノ常程の撓ニ革を引通シタル撓也」とあるので袋撓であったことがわかります。天保11年当時であっても佐賀藩の直心影剣術・體タイ捨流、鉄人流はコミ竹刀(現在用いられている竹刀)ではありませんでした。
 また樋口真吉は大嶋流槍術を大石進から習っているので剣術の試合の後に壊れて槍術の試合も行っています。大石門下であれば槍術を併修していたことは知られていたことなのでしょう。弐間柄の槍は大石門下の大嶋流で用いられていた長さ。この記述だけでは入身試合であったのか相面試合であったのかはわかりません。

伊勢で食べる赤福は格別でした。
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  1. 2015/05/14(木) 21:25:14|
  2. 武道史

樋口真吉の天保11年(1840)第2回廻国修行日記『西遊記稿本下 再遊之巻』より 8

11月3日の後半部分
「草葉先生及両三輩送り来ル、旅宿主人同道帰宿ス、学寮下役撓等ヲ擔テ随ヒ来ル、時ニ旅宿ニ太田半右衛門・島本龍嘯楼上ニ来ル居ル、色々談話する、此太田ハ當末家小城家中、五郎川是一郎内縁ノ由、大石先生へ伝言等致ス、島本ハ蘭学家ノ由、甚面白キ人物也、主人酒肴ヲ出ス、時ニ学寮ヨリ長谷川八郎酒一樽携来ル、此人稽古帳持参、又原五郎左衛門代官也・井内左馬之允両人来ル、倶ニ酒ヲ酌、学寮使者帰ル、原云、土佐野中兼山ノ風ヲ慕、又公よりモ諸家名家ニ入テ功積ニ筋求ヨトノ□故ニ土佐ヘ何レハ明年立越タシ、其中其御國御□様御御書簡下サレタシト云、因テ引請諾之、原氏宮内ノ詩ヲ書テ我ニ送ル、我等ノ姓名・地名記シ帰ル、井内云明後年ハ江戸独行致ス、帰路足下ノ国ヲ訪ント云、此人ハ儒者也、三更離杯
 学頭
   井内傳左衛門
   草場瑳助
   吉村祐平」

 試合の後の様子について記述されています。
 「草葉先生及両三輩送り来ル」とあるのは儒学者が宿まで送ってきたということで、厚遇されていたことが分かります。また、学寮下役が撓などを宿まで運んでくれたことも読み取れます。
 宿では試合相手から酒樽を送られ主演が行われています。また英名録は試合相手の側が姓名をしるし後刻、宿まで持ってきたことも読み取れます。

猿田彦神社です。万事よき方にお導きくださいます。
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  1. 2015/05/15(金) 21:25:00|
  2. 武道史

樋口真吉の天保11年(1840)第2回廻国修行日記『西遊記稿本下 再遊之巻』より 9

11月6日 寒
「両先生柳河ニ出、稽古ナシ、面ヲ造ル」

 この日の記述の量は少ないのですが、面はこの当時自作であったことが分かります。大嶋流槍術の加藤善右衛門に入門した藤井又一の日記には面が根は鍛冶屋が作っていた記述がありますので、面金を購入し、面布団などは自分でこしらえて縫い合わせていたのでしょう。

月読宮です
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  1. 2015/05/16(土) 21:25:00|
  2. 武道史

樋口真吉の天保11年(1840)第2回廻国修行日記『西遊記稿本下 再遊之巻』より 10

11月18日
「吾同九ツ時より宮部へ出馳走を請ル、先生水野公より拝領越前住兼法之刀二尺四寸五分并刀銘記ニハ川田興記トアリ、外ニ佐藤坦ノ書絹地軸、□□ノ大扇西羅城門渡辺綱之詩ヲ閲、夜ニ入帰ル」

 天保11年に大石進が江戸に出た時は水野忠邦の前で試合、さらに水野の家臣を指導しており、褒美として越前住兼法の刀を授かっています。その証左となる記述です。

8月1日(土)午前中に奉納演武を行う京都貴船神社奥宮の門です
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  1. 2015/05/17(日) 21:25:11|
  2. 武道史

樋口真吉の天保11年(1840)第2回廻国修行日記『西遊記稿本下 再遊之巻』より 11

11月24日 晴
「東吾・猪三郎・喬二郎、此日肥前蓮ノ池ノ人富永清太夫来り同宿、此人原五郎川大四郎弟子、酉ノ年江戸へ出伊庭ノ門ニ入且大石先生ヘモ出入シ即諸家ヘモ先生ニ従稽古致スヨシ、人前江戸稽古附ニ委シ、清太夫酒肴ヲ買テ我等ニ出ス」

 五郎川大四郎は肥前小城藩士で文政年中に三ケ年入熟し、皆伝を得ています。その門人の 蓮池の富永清太夫は江戸で伊庭に学び、かつ大石進に随身して江戸で諸家に稽古に出向いていることが分かります。『江戸稽古附』というものを持っていたようなので、これが発見できれば、当時の江戸の試合の様子が幾分かでもわかるのですが・・・。

8月1日に奉納を行う貴船神社奥宮です
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  1. 2015/05/18(月) 21:25:00|
  2. 武道史

大牟田市 貴船神社奉納 瑞穂舞・クリスタルボウル・古武道

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 5月17日(日)午前、大牟田市熊野神社で瑞穂舞・クリスタルボウル・古武道(大石神影流剣術・澁川一流柔術・無雙神傳英信流抜刀兵法)の奉納を行いました。
 今回、熊野神社で奉納の機会を持たなかった方も広島護国神社で大石神影流剣術第7代宗家の瑞穂舞を拝見されておられますので、どのような舞であるかはお分かり頂けると思います。
 クリスタルボウルは「妙なる響き」といった言葉で表すのがふさわしいかと思いますが、こればかりは実際にお聞きになって感じられなければお分かりいただけないと思います。
 さて瑞穂舞ですが、我々武道を稽古する者たちにとって絶対に見習わなければならないいことがあります。
 一つ目は体の動きです。瑞穂舞では指先、足先、髪の毛の先まで全てが繊細に連動しており、疎かなところが一つもありません。武道をする者はとかく相手にとられ、自分自身が疎かになり、自ら自分自身を乱してしまうことがあります。一人で抜く居合であっても刀を振ることにとられて自分自身が疎かになり自ら調和を乱してしまいます。
 二つ目は心の働きです。瑞穂舞を舞われる方は心が波立ちません。動きのある時も静かなる時もとどまっているときも常に心が鎮まっています。武道を行ずる人はそれがあるべき状態だとわかっていても、相手を攻めよう、相手を抑えようとしては心をいからせ、受けよう、かわそうとしては心を乱し、背伸びさせ、あるいはため込んで心に波風を立てています。これでは修行と言いつつ何の修業をしているのかわかりません。
 瑞穂舞を見て武道と同じものを感じ得なかった方はさらに工夫してください。
 今回初めて、私はクリスタルボウルの響きの中で居合の演武をさせていただきました。贅沢なことなのですけれど、私の修業のために無類を押してお願いしました。「クリスタルサウンドを聴くと、わずか数十秒で脳波がα波からθ波になることが確認されています。脳から全身の筋肉に弛緩の信号が送られ、緊張がとれたゆるゆるの状態となり、肉体的疲労や精神的ストレスから解放されます。また、深い眠りに落ちていき、日ごろ抑えているような感情、欲求、ストレスが寝ている間に解消されるという効果も期待できます。」とホームページに記されているように、居合をしている私自身の心の状態が引き上げられ、私の目指すところの天地人の調和に近づけたように感じました。

文末になりましたが、クラウドファンディングにご支援いただきました皆様、誠にありがとうございました。



  1. 2015/05/19(火) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

樋口真吉の天保11年(1840)第2回廻国修行日記『西遊記稿本下 再遊之巻』より 12

12月6日 曇少雨アリ
「先生へ暇ヲ乞、先生酒ヲ出ス、革ヲモラウ、上矢原茶店迄、伊藤東吾・清衛門・俊蔵・喬次郎・和一郎・宿主忠七塗師・升二郎見リ来ル、酒肴携来ル、別杯ヲナス、富三郎人足ニ雇、喬二郎高瀬マテ送り来リ遂ニ幸屋幸助ニ同宿、易者鈴木兵庫長州ノ人、此迄四里」

 大石進のもとを去る日の記述です。
 大石先生からは餞別として革をもらっています。竹刀や防具に用いるための革でしょう。大石家には門人が多く、出費が少なくなかったことが分かります。
 また、この記述でもそうなのですが、当時の人は、見送りに遠方まで出かけています。

貴船神社奥宮の右側の狛犬です
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  1. 2015/05/20(水) 21:25:00|
  2. 武道史

樋口真吉の天保11年(1840)第2回廻国修行日記『西遊記稿本下 再遊之巻』より 13


12月10日
「月出山村ニ内藪村ヲ出、山ヲ経て平川ニ午飯、是迄二里、平地二里行テ森城下ニ着、彼高橋但馬云残シタル但馬屋ニ休、高橋ヲ尋、不□、或人云、近来當所ニ帰ル人アリ、島只右衛門ト云、此人ナルヘシヤラント云、因テ頼ミ遣シ暫□所都ケ沙汰ナシ、□ニ立出、郭門ヲ出ル時□前ノ人我等ヲ呼テ只左衛門只今但馬屋迄来参と云、□ニ引帰シ但馬屋ニ至、只右衛門ニ逢、此人但馬ニテハナシ、此人ハ宝蔵院槍術修行ニ久留米へ四五年往来シ近頃帰ルト云、暫時談話シ別レ出、時ニ日夕陽ニ至、郭内大黒屋作兵衛ニ宿ス、壱人有来り云、醻□一人之老を伴ヒ帰ル、其人云碕陽ニテ土佐修行者ニ恩アリト云、此人足下ヲ待由也、極て但馬ナラント云、於是主人其人ヲ鑿穿ス、暫して帰ル、乃日壱里外ニ出□ス、日暮帰り来ラント云、夜三更但馬来、酒肴・蕎麦持参、且嚮ニ与ル處ノ金子返望いタス、我不受、但馬我等両人経餞別壱朱允贈り来ル、但馬モト佐左衛門と云、故ニ分明ナラサルヨシ、即今高橋佐左衛門也、此人実ハ四五年前出国ノ人也、此頃帰國柔術ヲ以て新ニ召出サルヽ都合ニ成り居ルト云」

 当時は写真も普及しているわけではないので人探しにも苦労したようです。
 森藩での記述ですが、宝蔵院槍術を習いに久留米に滞留し、また通った人物がいることが分かります。また、柔術によって新規に召し抱えられた人物がいることが分かります。広島藩では柔術の腕が立つ者は足軽として新規に採用されていた記録があります。森藩ではどのような身分で召し抱えたのでしょうか。

 『西遊記稿本下 再遊之巻』の記述はこれで終わりです。

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  1. 2015/05/21(木) 21:25:00|
  2. 武道史

大石神影流・足運び

 大石神影流剣術ではいわゆる撞木足を用いますが、形は撞木足であっても中身がそれに伴っていないことがあります。
 足先が開いていても膝頭がその方向に割れず、前方を向こうとしている場合は現代献堂式に足で床を蹴って進もうとしていますので本質的な動きが異なっています。自分の膝頭がどのような状態であるかを確認してください。
 また足先は開いているのに上半身がその角度にそぐわず前を向こうとしている場合も同じです。このような場合には膝頭は前に向こうとしています。
 足運びは言葉通りに足を運びます。

8月1日に奉納演武を行う京都松尾大社の神門です。
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  1. 2015/05/22(金) 21:25:00|
  2. 剣術 業

構え

 言葉では「構え」を用いますが、構えることはありません。
 上段であっても脇中段であっても刀を脇に下したときの肩肘脇の状態のままにそこにあります。刀が上に位置したときに脇が外れ、肘・肩があがってしまうのは振りかぶろう、打とうと思う心がそうさせています。特に上段にとった場合に状態がかわってしまう方は自分の心を見つめなおしてください。

松尾大社
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  1. 2015/05/23(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

発声

 大石神影流剣術と澁川一流柔術の気合いには発声が伴います。しかし、発声をしなければならないと考えて発声をした場合は気剣体はかえってばらばらになってしまいますので注意が必要です。
 多くの場合、大きな声を出そうと思い、むりやり発声するためにのどに力みがはいり、無理やり大きな声を出すため、重心が高くなってしまうためです。発生は肚から気合に伴って起こるように工夫しなければなりません。

大名行列1
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  1. 2015/05/24(日) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

半棒「立会」

 半棒の立会」は打太刀に斬らせて勝つ形です。
 初心者の方は打太刀の斬り込むタイミングを計って、いつ来るかと身構えてしまいますが、このような稽古はやめなければなりません。力みをなくし体を大地に預け心も力みも去ってただ立っていれば打太刀の変化が読めるようになります。
 もちろんそのような稽古をするためには打太刀を務める者が上位の者であり半棒をもつ者の力を引き出せるレベルの方でなければなりません。

大名行列 2
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  1. 2015/05/25(月) 21:25:00|
  2. 柔術 業

「受」

 澁川一流柔術の形は非常にシンプルであり、それだけに上達しようとすれば一つ一つの動きに繊細さが求められます。少しでも疎かにしてしまえば所謂形だけの物となってしまいます。
 履形の受は捕を突いていくという単純な動きしかしませんが、そこには大きな意味があります。この動きは拳(素手)で相手をつく形で表現されていますが、実際には素手による攻撃を意図してはいません。この意味を知らずに中段への当身であると解釈してかってに動きを変えてしまった師匠の弟子もいますが不見識の極みです。
 履形の突きはあくまでも刃物を持った相手に対する動きを稽古するための基礎です。まっすぐに受の手首を取る形は未発を抑え、返に取る形は已発をとります(本来の未発已発の意味とは少し異なります)。
 まっすぐに受の手首を抑える場合には相手の未発をとるのでよいのですが、返に取る場合、刃物に対処する形であるにもかかわらず、受が捕に対して中途半端に空間で拳を止めていたら実際には刃物は捕には届きません。捕は実際とは異なる位置で受の手首を取らなければならなくなります。
 このような稽古を重ねていても、間合いが違っているのですから形の稽古が業を生み出すことはありません。受は自分の責任を自覚して形として成り立つように動かねばなりません。

大名行列 3
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  1. 2015/05/26(火) 21:25:00|
  2. 柔術 総論

形・手数の手順を覚えるためには

 無雙神傳英信流抜刀兵法の太刀打・詰合や大石神影流剣術の手数の手順を覚えるのに「右足が出、左足がついていき、次に刀を振りかぶり」という体の動きの順番を覚えようとしてはいけません。それでは生きた形はいつまでたってもできるようにはなりません。
 ではどうするのか。形・手数の攻防の理論を学びます。
 「斬り込まれたので、下がって間を切る、次に相手がさらに打込もうと振りかぶろうとする、そこに機先をかけて前に出る・・・」というように形の攻防の理論をはじめに身に付けます。そうすれば体はそれに従うようになってきます。手足の動きの順番を覚えようとするから形・手数はいつまでたっても生きたものになりません。工夫してください。

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  1. 2015/05/27(水) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

伸びる人、伸びない人

 同じ時間稽古しても伸びる人と伸びない人がいます。その差は指導された事項を深く探求する心を持っているか、いないかにかかっています。
 指導されたことを軽く思い、外見を修正してて体得できたと思う方と、本当に身につくまで様々な方向から自分自身を探求する方とでは将来的に大きな差ができてくるのです。本気で探究した方は根本から修正できているために、その後に障壁となることはありませんが、軽くとらえ外面のみ修正した方は根本的には解決できていないため後々まで妨げとなって残ります。

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  1. 2015/05/28(木) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

修行

 武道の稽古を修行というのは武道の業が初めから心の問題と切り離して論じることができないからです。よく言われることに高段者になるにつ入れて心の問題の占める割合が大きくなるというおのがありますが、貫汪館では初めから心の問題が技に対して大きな比率を占めます。
 ただ単に形を覚えればよいと考えてしまえば貫汪館で稽古していることの本質は見えてきませんし、外見上は身についているように見えたとしてもまったく異なるものしか行えていません。初心の内によくよく話して聞かせている事ですが、自分の心に指導されることよりも大切だと思う事が存在すれば、本当のところは見えてはこないものです。
 上達しようとしたら、物事の本質を探究する心を持たなければなりません。

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  1. 2015/05/29(金) 22:00:39|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

自由にしようと思うから自由になりません

 剱術、居合の初心者の方で如何にも木刀や刀が重そうにし、振るたびに刀に体がとられている方の多くは刀を自由に扱おうとしてかえって自由になっていません。
 刀を扱おうとして柄を深く握っているためです。そのような遣方をすれば腕力がなければ木刀や刀は重くなってしまいます。そのような方は思い切って不安になるくらい、指は浅く、握り込まずに遣ってください。自由にしようと思わなければ自由になるものです。

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  1. 2015/05/30(土) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

形を作らない

 古武道は形稽古が中心であるため特に初心者は上級者の業をいて見事な形をしたいと思ってしまいます。しかし、常々言っているように形は内面の表れであり、内面が作られてのいないのに外側を求めるのは張り子の虎を作ろうとしているに他なりません。
 そのような稽古を重ねていれば形の数・手順は覚えていても、逆に自由ではなく居付いた心身を形成してしまいます。武道は居付くことを最も嫌います。何を目的として稽古しているのかを確認して稽古を続けねばなりません。

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  1. 2015/05/31(日) 21:25:00|
  2. 居合・剣術・柔術 総論

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貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)

Author:貫汪館館長(無雙神傳英信流 大石神影流 澁川一流)
無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術 貫汪館の道標へようこそ!
ご質問のある方は記事へのコメントではアドレスが記されてないため返信ができないので貫汪館ホームページに記載してあるメールアドレスからご連絡ください。よろしくお願いします。

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