古武道を稽古する形の個々の目的は様々だと思います。護身術として、文化として刀の遣い方を知りたくて・・・。
これらの目的を達成しようとすると、本当の稽古をする必要があり、自分の心を見つめることが不可欠になります。心の働きがなければ形は現れず、心のありようがそのまま形となって外に現れるからです。
古武道から何かを学ぼうとすればまず、心を学ぶことが早道となります。
- 2018/07/01(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
本当に役に立ちたいのか、目立ちたくて表に出たいのか、同じことをしているようでも最終的には異なった結果をもたらします。今の時代は「一隅を照らす」は死語となり、小さなことでも、いかにも大きくやったように広報をしたり、他でやっていたことであっても、さも自分が大きな活動にしたかのように広報する人がもてはやされます。報道やSNSの利用によっては、いかようにもできる時代です。
それらを用いることによって表に出ることができる「自分が」の時代なのです。
さて、このような時代にあって、どのように生きていくか稽古される方次第ですが、ないものをあるように見せたり、小さなことを大きなことに見せたりしていくと、自分がほんとうにそうなのだと自分自身で思い込んでしまうと、いざという時には稽古してきた事が全く役に立たないという事も起こりかねません。
- 2018/07/02(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
貫汪館の稽古はまず無理無駄をなくすことを主眼とします。無理無駄をなくすためには余分な力みは一切排除しなければならないため、キメは作りません。初心者にとってキメのない動きは筋肉の緊張感がないため、やっているのかやっていないのかがわかりにくい、わからない状態です。そこで不安感を覚え、筋肉の緊張を求めてしまう方もおられます。
また引き続き無理無駄をなくす稽古を重ねる方であっても自分が見えるようになるには随分長い時間がかかります。多くの方は他の方の動きが見えるようになって次に自分の動きが見えるようになるのですが、その間は自分の稽古に確信が持てません。
故に師匠がいます。正しい方向に上達しているかどうかを、しっかりと見ています。何も言われない時には正しく上達しており、何か指導されるときは道を外れかけているときです。
- 2018/07/03(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
何かをしてもらって当然と無意識のうちに思っていると、何が大切なのか、何に感謝しなければならないのかを見過ごしてしまうことがあります。本当は相当な努力をして、あるいはこれまでの長い積み重ねの結果として実現していることであっても、その人が見かけ上何事もなかったかのようにすらすらと行ってしまうと、何でもないことをしてくれたのだと見過ごすことがあり、逆に、大したことでもないのに、努力を表にあらわす方には有難いと思ってしまうのはよくあることです。
今の時代は表にあらわし強調したほうが評価される時代ですが、稽古される方はものごとの裏にあるものを読み取る稽古をして大切なものを見落とさないように心がけてください。
- 2018/07/04(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
誠をもってことを行ってくださる方がいます。また、見返りを求めて事を行う人もいます。もっとひどいのは実際には利用しようと思ってことを行う人もいます。
大切にしなければならないのは誠をもってことを行ってくださる人であるのは言うまでもありません。誠には誠でこたえる必要があります。
「誠」という言葉も久しく聞くことがなくなってしまいました。
- 2018/07/05(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
表に現れるものは内側の働きが形となったものです。したがって、心が曲がり、くせがあれば、動きもまた歪んでしまいます。
心を歪ませず、自然な状態に置けば動きもひずまず、自然に動けるようになり、心が何物にもとらわれることがなければ、動きも引っかかることなくのびのびとしたものとなります。心が正しければ動きも正しくなり、自然な速さも強さも生まれてきます。
- 2018/07/06(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
武道の慣例は「労働の対価として何かを受け取る。何かを受け取った結果として対価を払う。」という考えを持った方には理解できないと思います。
無理に教えなくてよいものを教えていただく、そのことに感謝しながら真摯に学ぶのが武道で、「教えるのが当然だろう。」「丁寧にわかりやすく教えるのが当然だろう。」という考え方では本当の所を学ぶ心構えができていないので、たとえ教えられたとしても、身につかないでしょう。
教えていただくことがありがたいという感謝の心を持てば、教えていただくことがより深く理解でき身に付くようになります。
- 2018/07/07(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
同じ日本語であっても、言葉の意味は人によって微妙に異なります。
「かるく扱う」といってもいつも重いものを扱う人には、この程度で軽く扱っていると感じでしょうし、繊細な仕事をしている人には、まだまだ、自分には軽く扱えていないと感じるでしょう。
人が持つ経験によって異なってくるのが言葉です。同じ言葉を用いているから同じ内容を把握しているとは限りません。読む本によっても影響を受けます。江戸時代の古典をよく読む人、明治時代の本をよく読む人、最近の実用本をよく読む人、こういう読書の傾向によっても言葉の持つ意味が異なってきます。
指導を受ける場合には師の言葉にとらわれることなく、その奥にあるものを、動きをよく見て会得しなければなりません。
- 2018/07/08(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
武道を駄目にしてしまうのは、ビジネスです。武道は人間形成の道とは言いますが、もともと闘争の術であっただけに非常に危うい要素があります。武道を人間形成の道であるといえるのは、武道を人間形成の道ととらえて取り組んでいる人に当てはまることであって、勝敗、優勝にこだわって稽古する人には当てはまらないかもしれません。ましてや優勝すればお金につながるようになってしまえば、勝つことが最も大切なこととなってしまいます。
勝つためには手段を選ばず、ルールすれすれのところで勝つという方法もとられ、人間形成の道とは程遠くなってしまいます。
武道とビジネスを結びつけることは武道の崩壊をもたらすと考えます。
- 2018/07/09(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
江戸時代の武術は命がかかったものなので、美しさなどとは無縁のものであったのではないかという考えをもたれる方もおられます。そのような考え方もあろうかと思います。
私たちが求めているのは無理無駄なく自由であることですが、無理無駄なく目的に沿った動きとなればそこに意図しなくても自然に備わる美しさが生まれてしまいます。たとえば戦闘機は目的に沿って究極まで無理無駄を排して設計されています。その形を美しいと感じる人が多いのですが、美しさを求めてそのような設計になったわけではありません。
武道で美しさを求めれば作った美しさであり、それは武道ではなくなってしまいます。しかし求めずして美しいと感じられることを否定する必要もありません。
- 2018/07/10(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
「やっていればわかるようになる。」というのは澁川一流柔術の師 畝重實嗣昭先生の言葉です。「わかるようになる」というのは外形・手順のことではなく、真の動きや心法のことです。
やっていればわかるようになるのであって、決してわかったつもりになるとか、わかったように動くということではありません。
確固としたものを習得していないときには自分に不安があり、何かに頼りたいために、力んで外形をしっかりさせようとしたり、素早く動くことによって自己満足しようとしがちです。形稽古である故にそれが可能になりますが、師が話されたのは本当の実力を身につけるための方法です。
わからないとき師が指示される方向に稽古していけば、かならずわかるときがやってきます。
- 2018/07/11(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
江戸時代は封建主義の時代なので自由や個性はなかったと考えられがちですが、武術の流派の数を見てもわかるように同じ剣術であっても数多くの流派があり、その地域のみに存在する流派もありました。また、同じ流名を名乗っていても、その内容に個性があり、異なる内容も教えていました。
一方現在は仲間を増やしたいと思うためか「同じ価値観で動く仲間を増やす」という没個性的な考え方もあります。同じ流派であっても価値観が多様であった時代と同じ価値観で動く仲間を増やす時代とはどちらが没個性的なのでしょうか。同じ価値観を持った者が多くなれば、同じものを大切にし、その頂点にある者にはさまざまなものが集まります。また、その中間にある者も満足感を得ることができるでしょう。しかし、その頂点に立つ者に間違いがあったとすれば、多くの者が同時に倒れてしまいます。
多様性があるからこそ生き残れ、同じ価値観であるものの%が大きくなればなるほど同時に多くの者が倒れてしまいます。歴史に照らし合わせれば明らかです。そのような社会はもろいのです。素晴らしいと思えることに疑いもなく付和雷同することは非常に危険なことで、裏にあるものを読んでいかなければなりません。仲間でないものは価値観がおかしいという考え方にも結び付いていきます。
武道を学ぶものは、多様性を尊び、これだけが絶対という価値観は持たないでください。
- 2018/07/12(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
打太刀は形の手順の流れで動くことなく、間合いを正確にとり、しっかり斬るべき機会に斬るべきところを斬り、突くべきところを突かなければ遣方・仕太刀の稽古になりません。
打太刀は上位者が務める故に往々にして上記のように間違った、ある意味いい加減な打太刀の動きが行われることがあります。打太刀がいい加減であると仕太刀の動きも、またいい加減なものになり、お互いに上達できません。しっかりと努めなければなりません。
- 2018/07/13(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
指導は内で働くものを見て、そこを正さなければなりません。「高い」「低い」「弱い」「遅い」は結果であって、それを正そうとすれば稽古をする方は外形にこだわり、稽古を通じてどのようにでも動ける自由を得ることはできず、形稽古をすることによって、かえって不自由になってしまいます。
- 2018/07/14(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
一昔前よりも今、美辞麗句に騙される人の%がかなり高くなっているように思います。考えなくなったのか、裏を読む力がなくなったのか、原因はわかりませんが、学校教育の弊害が大きく表れているようにも感じます。
誠はなくても人を引き付けるために美辞麗句を言ったものが正しく、美辞麗句を言わない、不言実行する者は見向きもされない風潮が以前よりはるかに強くなっています。「知るものは言わず」は死語となり、知ったように演じることが人を引き付け、正しいと考えられるようになってしまいました。人をみるのに「誠」があるかないかも判断基準ではなくなってしまったのだろうと思います。「誠」という言葉も死語なのかもしれません。
昔言われた、「誠」や「信義」や「正義」はなくなり、今時の美辞麗句に引き付けられるようになっています。
さて、武道を行ずる者はどのように生きていけばよいでしょうか。
- 2018/07/15(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
誠とは「誠実で偽りのない心。すなおでまじめな心」であるとされています。稽古するとき大切な心の一つです。自分自身でできたと思い込まない、指導されたことを素直に、私見を交えずそのままに吸収しようとする。
人は小さいころには自分しかわかりません。自分が見た世界しか理解できませんが、やがて自分が見たことがない世界を理解し始めます。自分が見たことがない世界があるとわかれば自分自身にとらわれずに誠をもってすなおでまじめな心で稽古できますが、この感覚が発達していなければ、稽古は自己中心的であり、自分の殻を破ることはできなくなってしまいます。
世の中に口先だけの事、美辞麗句に騙される人が多いのは自分にとって都合が良い言葉、自分にとって心地よい言葉にのみ動かされ、心奪われてしまうからでしょう。その裏にあるものを読み取ることはありません。
現在の自分にとって未知のもの、自分にとって不安を覚えるものが存在するという認識をもち、新たなことを習得しようとすれば、新たな世界が見えてきます。古武道の修行をすることによって隠されていた新たな自分自身がみえてきます。
- 2018/07/16(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
古武道は新たな能力を身につけるというよりも自分自身を磨いていき、今ある能力を最大限に活かす稽古をしていきます。そのため稽古をしていくと自分自身の心や姿を自分自身につきつけられてしまいます。自分の心の至らなさや本当の力に稽古を通じて気付かされていくのです。
自分自身の本当の心と姿を見るのはつらいものがあり、避けたくなってしまいますが、見ることをやめてしまうと外形だけの稽古になり、自分自身の変化も向上もなくなってしまいます。
自分の心と姿をしっかりと見つめるところから変化・向上は始まります。
- 2018/07/17(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
自分が行っていることに自信が持てないとき、如何にも素晴らしいことを聞いてしまうと、それが本当に素晴らしいことなのか、まやかしなのかを冷静に判断することなく、それに引きつけられてしまうことがあります。
古武道の稽古も同じで、かつて稽古に来る方の中に、マスコミに取り上げられ、もてはやされている方の方法論に引きつけられている方がおられました。それがたとえ本当の古武道の流派であったとしても、他流派の理論であり、自流派には用いられるものではないということも見えなくなっておられたようです。
自身は持てなくとも、今自分は何の目的のためにこのような稽古をしているのだということをはっきりと自覚していれば、そのようなことに惑わされることはないと思います。
- 2018/07/18(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
古武道は自分で立ち、自分で歩むために稽古します。全く同じ動きをロボットのようにタイミングを合わせて行うためではありません。
定まった形ではあっても、そこから自由となることを学びます。自由になるためには形から学んだことを自分のものとして身につけていく過程が必要で、一度身につけたら他に左右されることなく自分自身で動けるようになります。付和雷同することなく自分の足で立ちます。そのために稽古をしているのです。
- 2018/07/19(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
稽古を始めて指導されていることが体で理解できない時期がしばらく続き、あるとき、ふとこういう事であったのかと体で理解でき創める時がやってきます。
このようなときには、分からなかったことが次々と理解でき、居合と柔術の共通性もわかるようになり相互に良い影響を与えるようになり、柔術で理解できたことが居合の理解につながり、居合で理解できたことが柔術の理解につながるようになります。
この時点で満足せずに、より深く求めていけば、少しずつではあっても謎がt蹴るように理解が深まっていき、自分がどうすればよいのかという道筋も見えてきます。わかり始めたときを大切にすれば、向上は続いていきます。
- 2018/07/20(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
「三年かけて良師を探せ」という言葉をそのままに受け取ればなかなか良い師はいないので良い師に出会えるまで探し続けろという事になりますが、これは「三年けてみる目を養ってから師を探せ」と解釈した方が良いのではないかと思います。
全く知らない者に善し悪しはわかりません。道に志した時点では、どうしても派手なもの、華美なものに目を引かれます。その中で、この人が良師だと判断しても判断そのものが間違っていることがあります。
武道以外のものでもそうです。今の時代はセミナー、講和、まさしく百花繚乱です。見えない方が、饒舌なもの、派手なもの、華美なものに惹き付けられます。そして惹き付けられた方が、また見えない方を誘い込み、真実でない者が世に広がっていき、真実でないものに利用されている事にも気づかず、素晴らしいものに出会ったと嬉々としているのはのは見るに堪えないものがあります。
いつの時代もそうなのでしょうけれど、今の時代はますます見えない方が増えているように感じます。
- 2018/07/21(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
日本的な誠とは「人と交わって物事をなすときの心情の純粋さ」であり、表裏一体・内外一致であることをいいます。武術の修行は己の心を磨き、誠を体得するためにあります。
人と交わって人を利用して自分の利を得ようとするのは誠ではなく、嘘、偽りです。私達とは対極の存在ですが、現在ではそのような人達が、実際に利を得て、もてはやされる傾向があります。
武術を稽古する方はいかに誠を保つか、心しておかなければなりません。誠が通じない世になりつつあります。
- 2018/07/22(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
古武道の稽古において自己の「欲」が表に出てしまったら、間違った方向に進んでいると自戒しなければなりません。
「欲」とは自己満足のために、「力強く刀を振りたい=筋肉の緊張を感じたい」「気合をしっかりかけ充実感を得たい=声を作る、がなる」「速く動きたい=粗雑な中身のない動きをする」「満足感を得たい=動きの終りに体に無駄な力を入れ緊張させる」といった動きです。
初心者はこのようにしないと、自分が行っていることに安心できないようですが、ある程度稽古を重ねても、まだこのような「欲」が出る方は自分自身を冷静に第三者的な目で見つめて、しっかりと確実に上達する道を進む必要があります。
- 2018/07/23(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
心と体の結びつきは現代では希薄になりつつあるようです。心身ではなく、むしろ脳心といった状態なのではいかと思われるくらいです。
ある方が、嘘を言い続けると普通の人は体の不調として現れるけれども、心身一如でない人は嘘を言い続けても体に何の変調も起こらない、体と心が結びついていない状態にあると話されたことがあります。
古武道の場合は稽古が進めば進むほど、心身の相関関係が強くなり、心の状態が、そのまま業として現れるようになります。嘘偽りに平気でいられなくなるかもしれません。
- 2018/07/24(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
ある方から面白いことを聞きましたので、武道とは直接関係ありませんが、記しておきます。
特定の政治的思想を持った団体が、自分たちのシンパを集め、最終的な目的を達成するための手法があるそうです。それは「子供たちのために」「地域の発展のために」「困っている人のために」という企画を前面に出して人を近寄らせて目的を達成するのだそうです。
この手法は、政治的思想をもった団体だけでなく、ほかにも真の目的を隠してことを行おうとする団体も用いるそうですので、注意しなければなりません。
- 2018/07/25(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
これも、ある方から聞いた話です。
集まってくる人に、常に寄り添い、絶対に否定をせず、話を聞き、なんでも知っているように見せかけ、本当にそうだと信じ込ませる。そのような手法を用いて特定の層を引き寄せていき、自分のシンパを増やし、自分を信じてついてくる人物を用いて、さらに拠点を広めていく。特定の層を対象にしているので、25歳以下の若い人ばかりが中心となって活動したり、30代から40代の女性が周りに集まって、男性が少なかったり、20代の女性が中心であったりという偏りもみられるそうです。
主に新興宗教などにみられる手法だそうですが、信じ込んだ人は絶対だと思ってしまうので、裏を見ようとすることはなく、盲目的についていきます。新興宗教だけでなく、他の目的をもった人物も用いるということです。
こういう手法に女性や若い人が引っ掛かりやすいのは、それだけ信じ込ませやすいのかもしれません。私たちが行っていることとはかけ離れた世界です。
- 2018/07/26(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
自分の人生の中で起こることは些細な事であっても、何らかの示唆を与えてくれていたり、それが大きなことへの予兆であることが往々にしてあります。それに気付いていなければ何かが起こっても突然起こったように感じます。
気づいたら、これまでのことに居つくことなく柔軟に対応する事が大切で、居付き続けていたらせっかくの示唆や予兆が役に立たなくなってしまいます。武道における実際の対処法と同じように動かなければなりません。
- 2018/07/27(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
心身一如の状態は体と心が結びついた状態です。頭で考え頭で判断して動くのではなく、体全体で感じて動けるようになる状態です。最近は心と体がつながっていないために感じる力が相当に弱くなっている人が多いのではないかと思います。心と体がつながらない状態になると表層的なことでしか判断できなくなるので、人の心が分からなくなってしまいます。表面的なことにのみ感動し、誰が本気で自分のためを思っているのか、誰が表面的な親しげな動きしかしないのかという正しい判断もできなくなってしまうのです。
古武道の形稽古を正しく行うと、自分の心がそのまま動きとなって現れるということが分かるようになり、このような稽古を続けていると、体で感じ取る力が強くなっていきます。人の本心がどこにあるのか、今起こりつつあることの裏にあるもは何なのかということを感じるとることができるようになります。
- 2018/07/28(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
古武道の形がいくら上手にすらすらと遣えても、防具着用の稽古がいくら上手でも、覚悟がなければ働くことはできません。
覚悟というのは、何かあった場合に自分の命を捨てて守ることができるかどうかで、この覚悟があれば武道の技は拙くても働くことができます。守りたい者の為には自分の命を捨てる覚悟をもって稽古すれば、何かあった時に多少なりとも役に立つ働きができます。
- 2018/07/29(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
柔術を形稽古で上達していくためには守らなければならない条件があります。特に初心者にとっては大切なことです。それは受けは常にニュートラルな状態にあり、裏形を稽古する場合以外はことさらに抵抗したり技を返そうとしたりしてはいけないということです。もし受がこの条件を守らなければ、初心者は力みをなくすこともできず素直な動きができません。無理無駄をなくした体の状態は初心者にとって十分に重い状態です。また稽古相手は変わりますから身長差があったり、体重差があったりと、それだけでも同じ動きを繰り返すだけでは技は掛かりません。
かといって受は勝手に倒れたり、投げられたりすることは絶対にしてはいけません。それは死んだ稽古であり、古武道の形骸化をもたらしてしまいます。
- 2018/07/30(月) 21:25:00|
- 柔術 総論
-
-
剣術を形稽古で上達するためには、動きが終わる処(形の上で最後の動きとなるところ)で決めを作って体に力みを入れることは禁物です。特に私たちが稽古している大石神影流は形の動きが少なく単純ですので決めを作って力みを入れる癖がついてしまうと防具着用稽古と形(手数)稽古は完全に別物になり形骸化します。またきめられた手順だからと、相手に応じて動くのではなく、自分の手順にばかり意識がいき、お互いの動きに調和がとれていない状態になってしまうと、是も形骸化です。。
また、柔術の稽古と同じく、相手が変われば、身長差もあり間合等の条件が変わってきます。条件がかわった場合もそれぞれに応じて調和がとれた対応をする稽古をすることが大切です。
- 2018/07/31(火) 21:25:00|
- 剣術 総論
-
-