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無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)

無雙神傳英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、澁川一流柔術を貫汪館で稽古する人のために

大石神影流の源流愛洲陰流と村上傳次左衛門について 2

Ⅱ 柳川藩の幕末期の剣術流派と槍術流派
1.剣術流派
 柳河藩の剣術流派を他藩から訪れた者たちの廻国修業の英名録で確認する。
弘化4年(1847)10月に柳河藩で試合した長州藩の渡部直八の『諸国剣道芳名禄』には大石神影流、家川念流、新陰流の3流派のみが記されている。新陰流の師範は加藤善右衛門と田尻藤太で相師範である 。
嘉永2年(1849)閏4月に柳河藩を訪れた神道無念流斎藤新太郎の廻国修行の英名録『脩行中諸藩芳名録』によれば柳河藩の幕末の剣術流派には大石神影流、家川念流、電撃抜討流、疋田豊五郎流、新陰流があった。新陰流の師範は田尻藤太と加藤善右衛門で相師範である 。
大石進種次のもとに遊学した高鍋藩の石井寿吉の英名録には嘉永3年4月(1850)に大石神影流と試合し、嘉永4(1851)年6月に家川念流、電撃抜討流、新陰流と、嘉永5年(1852)5月に家川念流、新陰流と試合したことが記されている。新陰流の師範は加藤善右衛門と田尻藤太で相師範である 。
大石進種次の土佐藩門人である樋口真吉は4回大石進のもとに赴いているが、4回目は嘉永5年(1852)、江戸の剣術家でのちに土佐藩士となる石山孫六とともに九州から江戸へ廻国修業する途中に立ち寄っている 。この時の廻国の試合相手の流派と名前は『諸兵家尊名鈔巻四』に記されている。柳河藩では家川念流、抜討流(電撃抜討流)、神影流(ママ)(註:師範が田尻籐太であるので大石神影流ではなく新陰流)、匹田流(疋田豊五郎流)、家川念流と試合した。神影流の師範は田尻籐太のみが記されている 。
万延元年(1860)11月に廻国修行で柳河藩を訪れた土佐藩の武市半平太の『劔家英名録』には、家川念流、抜討流、新影流、大石神影流の4流派が記されている。新影流の師範は加藤善右衛門のみが記されている 。
以上からみるに柳河藩では大石神影流、家川念流、電撃抜討流、疋田豊五郎流、新陰流(神影流)の5流派が廻国修行者を引き受けている流派であり、他に廻国修行者を引き受けていない剣術流派があった可能性も残るが柳河藩が他流試合に積極的であったことを考えるとこの当時柳河藩の剣術流派は5流派のみが存在したと考えてもよいと思われる。

2.槍術流派
幕末期の柳河藩の槍術流派についておもに他藩から訪れた者たちの廻国修業の英名録で確認する。
 柳河藩の大嶋流槍術師範加藤善右衛門より免許を授かった飫肥藩の佐土原友衛 の嘉永2年(1849)から安政5年(1857)までの廻国修行の記録である『列国槍手名字簿』 によれば、柳河藩の槍術流派には大嶋流、夫木流、宝蔵院流があった。
 棚倉藩士ではじめ大嶋流を秋月藩士の間角彌(加藤善右衛門門人)に習いついで加藤善右衛門に習った棚倉藩士の伊原勝司の安政2年(1854)から安政5年(1857)までの記録がある廻国修行の記録である『金蘭簿』 によると柳河藩の槍術流派には大嶋流、夫木流、新撰流、宝蔵院流が記されている。
安政6年(1858)8月の清水正熾による自序がある『藝王姓氏録』 によれば柳河藩の槍術として新撰流、真心流、大島流、宝蔵院流、夫木流、新陰流が記されている。
柳河藩の大嶋流槍術師範加藤善右衛門の門人である津和野藩の原田康人 の文久2年(1862)4月13日から11月8日までの記録がある『英名録』 によれば柳河藩の槍術流派には大嶋流、夫木流、新選流、新蔭流、宝蔵院流、新心流があった。
以上からみるに柳河藩の槍術流派には大嶋流、夫木流、新選流、新蔭流、宝蔵院流、新心流があったと考えられる。

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  1. 2025/01/02(木) 21:25:00|
  2. 武道史

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