大森流の「初発刀」「左刀」「右刀」「当刀」、英信流表の「横雲」「稲妻」「鱗返」「浪返」などの抜付けで斬りこむのは「対手の右側面」です。
以前他系統の英信流の方に聞かれてそのように答えたら、「いい加減な」とおっしゃったことがあります。その方の英信流ではこれらの形の抜付けで斬りこむ場所が決まっているようなのです。ここで大切なのが先日お話しした梅本先生が私にお教えくださったことです。無雙神傳英信流の抜付けは敵が切りかかってくるので抜付けるのであって「敵の殺気を感じて、動かない敵にこちらから先に仕掛ける」のではありません。相手は変化しています。相手は自由な状態から始まりますので中腰になれば高くなり、座した状態から大きく抜きつけようとするか、刀を抜いて斬りつけてこようとするのかでも上下の変動があります。上下の変動があるのにもかかわらず、相手の両目に抜付けるとか相手のこめかみに抜付けるとかは抜付けの軌跡を抜付けの最中に自由に変えることができない限りは不可能です。無雙神傳英信流の抜付けは以前記しているように動かない人形に対して行っているのではありません。
細川義昌先生が「対手の右側面」と植田平太郎先生に教えられた所以です。どのように稽古するのかは常々教えている通りです。
- 2024/05/01(水) 21:25:00|
- 居合 業
-
-
「対手の右側面へ」ということを記しましたが、抜付けた時は「抜付けたる拳の高さは右肩の高さにて右前の所にて止る」と細川先生は植田先生に教えられています。細川先生の教えを植田先生が書き記され梅本先生はこれを印刷されて門人に配布されましたので一部が流出し、この伝書をもとに細川義昌先生の居合を復元しようとする人もいるようですが、不可能です。
細部は述べませんが第一に印刷物には多々誤植があり、これをもって復元しても正しい形を真似することはできません。第2に、これが最も大きなところですが、形は理合いが表に現れたものですから正しい理合が体得されないかぎり、「抜付けたる拳の高さは右肩の高さにて右前の所にて止る」ことが正しく再現されることはなく真似事なのです。この抜付けを体得できるまでに教えを受けながらであっても10年以上はかかります。「止める」ではなく「止る」と記されていますがこうなるまで稽古を重ねなければなりません。止めるのではなく止まるのです。真似事をすればとめています。また「右前の所にて」とさらっと書いてありますが右前のところというのは常に教えているところです。無雙神傳英信流の抜付けの理合を修行の結果として体得できれば右前のところで自然に止まるのです。外形を求める人には絶対に理解できないところです。直接私が教えていても形だけ真似しようとする人が多くいます。それでは無雙神傳英信流の稽古にはなりません。教えに従って愚直に稽古する人だけが会得できます。
- 2024/05/02(木) 21:25:00|
- 居合 業
-
-
居合の稽古は決められた手順を見事に行うことにあるわけではないということは何度も述べてきました。しかし、そこを間違える人が多いのでくどいのですが述べておきます。居合の稽古において基本的な動きはありますが決まりきった動きではありません。たとえば抜付けで切り上げた角度は何度とか斬撃で下した刀の角度は何度、突こうとしたときの切先の角度は床と並行というような決まりはなく、それに沿おうとする動きは自分自身を不自由にしてしまいます。
剣術の稽古を考えていただけばよいのですが打太刀の身長が高ければ正面に斬りこむときの角度は高く身長が低ければ低くなります。打太刀の顔をつくときも同じで身長によって突く高さは異なります。小手に斬りこむ場合、胴を斬る場合などすべて角度高さ間合いは異なってきます。また、人によって動きも異なりタイミングも異なります。素抜き抜刀術は仮想の敵をイメージしますが、イメージする敵は固着したものではありません。そう考えると決められた手順を見事に行うことがいかに意味のないことかがわかると思います。ただし法にのっとた動きをしなければならないのは言うまでもないことです。
いきた稽古をしてください。
- 2024/05/03(金) 21:25:00|
- 居合 業
-
-
初心者の方は無理に形・手数の手順を覚える必要はありません。大切なのは正しい理合に基づいて動くことで、それなしにいくら正確に手順を覚えても流派を稽古していることにはなりません。初心者の方の中には手順を間違えると申し訳なさそうにされる方もおられるのですが、正しい理合に基づいて動いた手順の間違いは間違いではなく、あえて言えばよい間違いなのです。
形・手数の手順は何度も稽古しているうちに自然に体が覚えます。頭で手順を覚え、それを追いかける稽古は無意味で有害なので初心者の方は安心して手順は間違えてください。
- 2024/05/04(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
演武の前には体を動かし準備をしたい気持ちが起こります。梅本先生は居合はいついかなる時にもできなければならないものなので演武の前に稽古するということを嫌われました。畝先生とは一度だけ公的な場所で演武をさせていただいたことがありますが演武の前に稽古されることはありませんでした。大石先生も同じで私が遠方に住まいしていることもあり、剣道大会の演武の前日には稽古をつけていただきましたが当日の稽古はありませんでした。
このように演武当日は稽古しないものという教えで私は育ってきましたが、どいうしても体を動かせたい人は場所をわきまえなければなりません。他流派の方がおられるような控室で木刀を振ったら何が起こるかを考えなければなりません。危険ですし無礼なことこの上ありません。所属している流派の存在にもかかわることです。また公開の演武会などでは一般の観客もおられますので通路などでも危険です。何度も言っていることですので貫汪館に所属している人はわかっていると思いますがくれぐれも気をつけてください。
- 2024/05/05(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
古武道が馬鹿にされるのは死んだ手順を繰り返すだけの形稽古をしている場合です。また稽古するもの演武するものが覚悟を持たずに手順だけを繰り返している場合です。悪口を言えばかっこだけのコスプレです。
斬るということは斬られるということ、突くということは突かれるということ、投げるということは投げられるということ、抑えるということは抑えられるということ、当てるということは当てられるということです。斬られる、突かれる、投げられる、抑えられる、当てられる覚悟がない演武は武道ではありません。ここがわからない人はいつまでたっても何回稽古しても上達することはありません。覚悟を持って稽古する人が上達します。
- 2024/05/06(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
「歩く姿をみれば、抜かなくてもその人の居合はわかるよ。よく見ていてごらん。」私がまだ高校生くらいのころに演武会の時に先生にご指導いただいたことです。それ以降、梅本先生の歩かれる姿を学び他の人たちの歩く姿を見ていました。
確かに全く異なるのです昨日述べた覚悟があるかないかの違いだと思います。ただ形を演じようとしているのか、形であっても真剣勝負をしようとしているのかの違いです。いかに上手に歩いても覚悟はなくただ上手に歩こうとしているのと覚悟がある歩き方とでは姿も異なります。自分がどのような歩き方をしているか考えてください。
- 2024/05/07(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
内輪で行う広島護国神社や廿日市天満宮の演武は貫汪館で稽古するすべての人が日ごろの成果を奉納する目的で行っていますので初心者の人も上級者も皆ひとしく奉納していただいています。
一方、日本武道館や下鴨神社、明治神宮、熱田神宮などでの演武、また昨年行ったような高知の自由民権記念館での演武や四万十市での演武などは流派を示す演武ですので演武できる人は限られます。どういうことかというと自分が演武するのではなく流派を演武するのですから演武する者全員が流派を体現していなければなりません。そこに個人はありません。自分の思いを表現するのではなく、流派を示すのです。ここを勘違いする方がおられます。稽古年数が長くなったので本人の意思を確認し、本気で稽古するという言葉を信じ、日本武道館での古武道演武大会に出場させるために何か月も指導したにもかかわらず、日本武道館では全く違ったことをするのです。流派よりも自分が先に立っていました。自分がしたいことをしたのです。流派よりも自分を優先させるような人でしたから、日本武道館での演武が終わったらまともに稽古に来ずに去っていきました。自分個人のための演武だったので目的を達成したのでしょう。このような人は一人ではありません。口では立派なことを言うのですが、平気で嘘をつくのです。ひどいケースでは本気で稽古をするという言葉を信じて日本武道館に演武者を連絡したにもかかわらず、まともに稽古しなかった例もあります。武道をする者というよりも人としておわっています。
自分を無にして流派の教えに従って稽古し演武できるような人でなければ流派を代表して演武はできません。また技だけでなく演武場以外での姿勢態度等も重要です。
- 2024/05/08(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
すべてのものには歴史があります。新しく作られたものにも過去の上に築かれています。過去がなければ現在はないのです。
時代に合わせて変化してきたものは現代武道ですが、私たちが稽古しているのは古武道です。古から学んでいます。それゆえに時代に合わせて変えていくべきものではありません。意図的に時代に合わせて変えていったら古から学ぶことはできなくなります。江戸時代の終わりまでに築きあげられてきたものから、動きや考え方を学べなくなるのです。明治維新は大きな転換点でした。そこから時代に合わせてしだいに変化してきたものが現代武道です。
たとえば現代の稽古袴は「投げ」の部分が極端に浅く無雙神傳英信流の袴さばきには適しませんが、袴さばきの動きを現代の稽古袴に合わせて変えてしまったら無雙神傳英信流の袴さばきの意味はなくなってしまいます。大きく言えば体と心の持ちようが変わるのです。博物館に行けば江戸時代の袴を見ることができますが、江戸時代の袴を見ればなぜあの袴さばきの動きがなされていたのかはわかると思います。江戸時代の袴を知らなければ「なんと不合理な袴さばき」と思うでしょう。歴史を学ばなければわからないことがたくさんあります。せっかく古武道を稽古しているのですからしっかり歴史を学んでください。
- 2024/05/09(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
渋川一流柔術を稽古するときに初心者の方は自分の筋肉の緊張を感じることで力が有効に働いているかどうかを判断し筋肉の緊張に安心感を覚えます。力が入っていたほうが(筋肉の緊張感があったほうが)技が働いていると錯覚されるのです。
しかし力を最も有効に使うときには力は最小で済みます。つまり上手になればなるほど筋肉の緊張は少なくなっていくのです。上達する方向性を間違えると違った方に行き上達はしません。稽古では技が効いているかどうかではなく正しく動けているかどうかを目標としてください。正しく動けていれば最小の力で技は効果的になります。力を最も有効に使うときには筋肉の緊張感も最小になります。
- 2024/05/10(金) 21:25:00|
- 柔術 業
-
-
無雙神傳英信流のダメな抜付けと渋川一流のダメな技のかけ方には共通点があります。
無雙神傳英信流のダメな抜付けは刀が鞘の中を移動しているときと切先が鯉口まで来てからの動きが変わる抜付けです。「居合は鞘の内から」という言葉は知っていながら切先が鯉口まで来たら強く抜きつけようとして新たに力を込めて2段階になったり、狙ったところに切先を走らせようとして肩から先の手わざになり2段階の動きになってしまうのです。
柔術のダメな技のかけ方は例えば履形の「捻付」で右手で受の右手をとってから、最後に床に相手の腕を抑えるまで同じ動きでなければならないのに左手が受の肘に触れた時に押さえつけようとして新たに力を込めて2段階の動きになったり、打込の抗止で受の肘に手刀が触れたところから新たに力を込めて動いて2段階の動きになることです。
2つの流派のダメなところははっきりしており言葉でいうと「終始一貫」がないのです。目先のことにとらわれ始めも終わりもないということが理解できていないのです。ここがわかれば居合も柔術も上達し始めます。
- 2024/05/11(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
初心者が形・手数の手順を覚えしばらくたってきたら稽古に飽き始めることがあります。手順を覚えたらそれに安心して同じことを繰り返しているからです。
しかし、形・手数の手順を覚えたらそこから本当の稽古が始まります。手の内は常に正しいか。体の力みはどこにもないか。構えは臍下丹田を中心としてなされているか。空間的にも心の面でも正しい間合いがとれているか。心の隙はないか等々求めなければならないことは限りないのです。
「一度私から指導を受けた。従ってみた。できた気がする。」・・・初心者の方にはよくあることなのですが稽古には限りがりません。どこまでも求め続けなければならないものです。それができる人は上達し続けることができます。
- 2024/05/12(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
私が思っていた以上に肩甲骨が動かなくなってしまっている人が多いのに驚いています。肩甲骨が動かず肩が前に出て固まっているのです。したがって刀を構えても両肘が張ってしまい内側の筋が働かずに肩から先で刀や木刀を振ってしまいますし、振りかぶったときにも手が自由に上がらず柄が頭上に来ず、頭上に刀を持って来ようとすると体を前傾させたり後傾させたりしてしまいます。抜付けも肘が張ってしまっているので柄手はどうしても柄を握ってしまい柄に添わせることができません。柄を握らず添わせるだけにしようとすると、無理に外側に手首を折ってしまいます。柔術の稽古をしても肩から先で力任せの動きをしたり動きが2段階になったりするのも肩甲骨の自然な働きがないためです。
肩を故障して長い間動かすことができず肩甲骨を動かすことができなかった場合には肩甲骨が動かなくなることがありのですが、日ごろから体の前半分ばかりを使っている人もそうなることがあるようです。このようになってしまったら毎日意図的に肩甲骨を動かすようにしなければ動かないままになってしまいます。上達できない原因の一つです。
- 2024/05/13(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
この世の中には間違ったことがさも正しいことかのように信じられています。
例えば大石進に関するお話もそうで、中学生のころから武道史を学んでいた私も、「大石進は試合に勝つことだけを目的として真剣では使えないような長い竹刀を用いて試合に勝ち、無意味な長い竹刀をはやらせた人物で剣術を実用的ではないものに変えた。」ということを長い間信じていました。武道史の本には「大石進の身長が7尺であった。大石神影流では竹刀・刀の総長は地面から各人の乳通り迄の長さが上限であり、人によって使う竹刀や刀の長さは異なる。」ということは書かれていません。
他流試合に対して一般の人が持つイメージも試合後に勝った方が導場の看板を持っていくというものですが、勝小吉は似たような行動もしていますが、幕末の廻国修行での他流試合の多くは、そのようなものではなく試合後に試合を受けいれたた方が廻国修行者が滞在する宿に酒や肴、饅頭などを持っていき歓談しています。試合を受けた導場主が廻国修行者にしばらく滞在して門弟の指導をしてほしいと頼む場合もありました。
現在行われている試し切りのイメージも一般の人は江戸時代からあのような腕試しのため試し切りが行われていたと思っていますが、大正時代頃から競技化した剣道の打ち方では白兵戦で敵兵を斬ることができなかったため、軍隊がまず斬らせる経験をさせなければならないと始めたものなので、腕試しとしての試し切りであれば本来軍服を着て行うべきものです。巻き藁や茣蓙を斬るためだけに特化した刀を刀鍛冶さんに依頼するすることが現代は行われているということを一般の人は知りません。
古武道に関しても様々に言われていることが間違っていて、それは広く世の中のことに関しても同じです。簡単に物事を信じる人は注意しなければなりません。稽古しても思い込みの強い人、自分の動きを疑わない人は簡単に騙されます。だますことによって得をする人がいるのですからよほど気を付けなければなりません。「兵とは詭道なり」は真実です。すべてのことに当てはまります。
- 2024/05/14(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
「流派の良し悪しではなく個人の能力の高さがすべてである。」という考え方があるようですが、必ずしもそうではありません。形稽古を知らない人の言うことでしょう。流派がそれぞれ持っている教習体系としての形は人を一定レベルまで上達させるためにあります。流派によって形やその構成が異なるのは上達させるための方法の違いです。それゆえに武道を始めようとしたら師と流派を選ばねばならないのです。自分に適している流派、適していない流派があります。
流派を選んだら、その流派の考え方に従います。「こうしなさい。」と教えられているのに「いえ、私の考えは違います。」といって流派の教えと異なることをしていたらその流派で上達することはありません。師と流派を選んだら教えに従って稽古することです。ここに自分の考えが入る余地はありません。しばらく稽古を続けていれば自分が変化しているのに気づく時が来ます。この段階に至れば上達させるための流派のシステムが理解できます。しばらくという年月は人によって異なります。教えを素直に吸収している人と、自分の思いが邪魔をしている人とでは習得するのに必要な期間は異なります。
- 2024/05/15(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
自分の考え方で上達するのか停滞するのかが決まります。「ここまでできている。」と考えるのか「できていないところがたくさんある。」と考えるのでは上達の早さが異なるのです。
「教えられたことの70%はできるようになった。」とそこに安住するのか、「まだ教えられてきたことの30%もできていないところがある。」と考え、できるように努めるのかでは先に大きな違いが生じてきます。特に形稽古中心の武道であれば手順を覚えて慣れた動きができるようになればそれでよしと思う人が多いのでこの差は非常に大きいものになります。
また実際に自分が70%だと思ったとしたら7%もできていません。
自分は未熟であると思うから上達します。
- 2024/05/16(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
素直さが上達の絶対条件であることはすでに述べていますが、素直であることは自分で思っている以上にはるかに難しいものです。少しでも自分の「我」があればその素直さは濁っていて教えられたことが入ってこなくなるのです。自分の「ああありたい。」「こうありたい。」という理想であっても流派が教えることとずれていれば、教えられたことは入ってきません。
例えば抜付けですが、無雙神傳英信流には居合は
軽く勝つのだという教えがあります。どういうことかというと抜付けで相手を両断する必要はないということです。それゆえ「抜き斬り」ではなく「抜付け」です。抜付けの後には運剣、斬撃があります。それを自分は抜付けで相手を両断したいと思って稽古していたら流派が求めるところには至らず、異なった方向に行ってしまいます。
すべてがこのようなもので教えを素直に受け取れる心を持つ人だけが上達していきます。
- 2024/05/17(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
無雙神傳英信流の稽古において「鞘離れ」という言葉で指導を受けたことはありません。
抜付けは刀が鞘のうちにおさまったところから(切先が鞘の奥にあるとことから)動きの最後までが一連の動作として行われるのであり、刀が鞘の中に納まった状態から動きはじめ、切先が鯉口まで来た時に動きを変えて2段階で行われるわけではありません。「鞘離れ」という言葉を用いると、イメージとして抜付けが2段階になってしまうのです。他流派を経験して貫汪館に入門した方に2段階の抜付けをされる方が多いのはこの「鞘離れ」という言葉を意識したためかと思います。
無雙神傳英信流の抜付けは刀が納まったところから(切先が鞘の奥にあるとことから)始まって鞘があろうとなかろうと、あるいは鯉口があろうとなかろうと、抜付けの最後の位置まで一連のよどみのない動きで行われます。
- 2024/05/18(土) 21:25:00|
- 居合 業
-
-
小尻は体遣いで後方に下がります決して一般的に言われるように左手操作で刃筋を整え、強い鞘引きが必要なわけではありません。初心の内から指導していることですが、鞘は左手で行われるものではなく体の中心から体の左右を同時並行的に用いることによって行われます。鞘手・柄手はバラバラに動くものではありません。
鞘は帯の中にありますので、よほど帯を締めつけているのでなければ手力で強く動かす必要はありません。お教えしたことを求め続ければ理解できることですが、初めに他流派を学んでいる方は鞘引きを左手で強く行うということから離れられないかぎり無雙神傳英信流では上達できませんので改めて述べておきます。貫汪館の流派。無雙神傳英信流、渋川一流、大石神影流のいずれも「強く」という体感を求めていたり筋肉の働きの「強さ」を感じた時には間違った動きをしていると思ってください。
- 2024/05/19(日) 21:25:00|
- 居合 業
-
-
抜付けに関して梅本先生は私が初心者のころから「手もない足もない達磨のように」と教えてくださいました。あくまでも比喩ですが、臍下丹田ですべてがなされるということで臍下丹田を離れて手足を働かせることはないということだと理解してください。鞘手をどうこうする、柄手をどうこうする、足をどうこうするという話ではないのです。すべてが中心に従って動きます。「でんでん太鼓」という比喩を用いられたこともありますが「でんでん太鼓」だと手足をブランブランとさせればよいのだという誤解も生まれますので「達磨」の比喩のほうが良いかと思います。
「達磨」の比喩、この年になってやっと体感としてわかってきました。求めてください。
- 2024/05/20(月) 21:25:00|
- 居合 業
-
-
稽古には繊細な感覚が必要です。武道では自分のダメなところを斬られてしまいますので「褒めて伸ばす」といってダメなところをそのままにしておくことはできないのです。
成長の過程で繊細さをどの程度身につけているかは人それぞれ異なっています。繊細さを持っている方のほうが上達が早いのは言うまでもありません。繊細さがない人は自分のどこがダメなのかを指摘されても感じることができないのです。繊細さを身につけるためには日常の生活から見直していかなければ道場の中での稽古だけではなかなか身につくことはありません。
この世の中には自分の利益を得るための巧妙な嘘、偽りがたくさんありますが、繊細さがない人はそのような巧妙な嘘・偽りにも騙される傾向があるようです。政治だけでなく古武道に関しても嘘偽りがあります。
- 2024/05/21(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
打太刀や受は仕太刀や初心者が形・手数を身につけることができるように仕太刀・捕を導きます。仕太刀・捕には様々な方がおられます。言葉で言わなければ理解できない方、動きを見せなければ理解できない方、はっきりと色に出して起こりを示さなければ理解できない方など様々です。打太刀はそのさまざまな方を上達させるためにレベルに応じて色々と工夫しながら導きます。その過程を経て本当の指導者としての打太刀・受ができるようになります。指導方法の工夫を怠らないでください。
- 2024/05/22(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
稽古は自分のダメな部分に気づきなくしていかなければなりませんが、生まれつき自分がダメなのではなく生まれつき自分に備わっているにもかかわらず、自分自身がそのようにしてしまっていることが多くあります。
よく武道の伝書に「本然」という言葉が用いられますが、生まれつき持っているものを成長していく中で失っているのです。「本来できるものなのにできなくなっている。」そのような考え方で稽古に取り組めば違う見方ができると思います。ヒントは稽古の時に示してあります。
- 2024/05/23(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
上達は自ら求めるかどうかにかかっています。次のステップに行くための指導はしたけれども、そこを真摯に求めずに自分ができることだけをしていては漫然と繰り返すだけでその状態に居つき上達はありません。新たなことを身につけようとすればそれまでの自分を壊さなければならないので不安になり下手になったように感じます。それが嫌な方はそれまでで終わりです。
不安を持ちながらも新たなことを習得しようとし新たな心で取り組む方はやがて習得し新たな段階に至ります。それはまた次の段階へのはじまりでもあります。古い自分を捨て新しくなり、さらに新しくなる。これができる人が上達を続けます。
- 2024/05/24(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
すべての稽古の前に斬撃の稽古をしていますが、これは刀を「振らない」ための稽古です。
刀を振ろうとしているわけではなく臍下中心に体を使った結果、刀が振りかぶられ、そして落ちていて、それが斬撃の動きとなっています。
刀を自分の思い通りに力強く自分が振ろうとしているわけではありません。ここを間違うと抜付けも血振いもすべてを間違ってしまいます。はじめにおこなう斬撃は「振らない」ことを稽古をしています。
- 2024/05/25(土) 21:25:00|
- 居合 業
-
-
大石進種次が30石から60石になったのは江戸で男谷精一郎と試合した後だと言われていましたが武道学会で発表したように試合をした天保3年ではなく文政11年です。その理由は藩政日誌に武術出精、ことに剣術は他藩に称賛されるほどだと記されていますから柳河近辺ではよほど名が知れていたのだと思います。
しかし、大石進種次の天保11年以前の動向の史料を見つけることができません。わずかに島原藩の記録に天保10年10月に笠間司馬と大石進が槍術の試合に来た。二人とも達者である。二人の話によると柳河では槍術剣術ともに盛んであるということなので翌年。島原藩から柳河藩に試合に行ったという記録を見つけただけです。
この時の柳河藩の藩政日記には笠間司馬が島原の三十番神に参拝に行ったことが記録されています。同じ10月なので間違いなく試合に行ったと思いますが名目は参拝です。ほかにも笠間司馬は熊本へ行ったりしていますので、笠間司馬と大石進は行動を共にしていたのではないかと考えられます。
平成25年9月10日に筑波大学で行われた日本武道学会第46回大会で発表した「剣術及び槍術における試合技術の発展過程についての考察―天保7年の『他流試合口並問對』の分析―」は「天保七年申年三月十日於東都録之」とある笠間恭尚により記された『他流試合口並問對』を扱っていますがこの史料は槍術、剣術の流派の試合の特徴について述べていますが剣術では雲弘流、武蔵流、一睡流、二天流、四天流、神蔭流、丹赤流等々の九州で行われた剣術流派について述べられています。笠間恭尚とは笠間司馬と同一人物である可能性もあります。大石進種次は天保11年以前にこのような剣術流派と試合したのではないでしょうか。
- 2024/05/26(日) 21:25:00|
- 武道史
-
-
形・手数を中心に稽古していたら「慣れ」が生じます。この「慣れ」が上達を阻みます。
大石神影流であれば基本となる「試合口」「陽之表」「陽之裏」「三學圓之太刀」の手順を覚え動くことができるようになったころ「慣れ」が生じます。手数を間違えずに動くことができるのでそれ以上の深いところを求めずに飽きてきて惰性で稽古をしたり、表を飾ろうとしはじめパフォーマンスとなり道から離れたり、後輩にアドバイスしたくなります。深いところを求め続ける人は飽きることがありません。示したところを求め続けるので探求心が鈍ることはありません。これは初心者の域をいつまでたっても脱することができないか、上達し続けていくかという大きな差となって現れてきます。
- 2024/05/27(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
古武道は現代武道の高段者がするものという考え方が私が子供のころにはありました。まず現代武道を稽古して5段以上にならないと教えることはできないとか習うことはできないという考え方で、実際にそのような方法をとっている古武道の先生(古武道の先生といっても現代武道の高段者です)もおられました。すべてではなく、そのような先生もおられたということです。
稽古をしたいと問い合わせてくる人の中には「剣道も柔道も稽古したことはないのですが、習うことはできますか。」と聞いてくる人が今でも少なからずおられます。そのような考え方が一般の方にも影響を与えているのだと考えさせられます。違和感があります。現代武道と古武道は別物なのですが古武道の広報力のなさが原因なのだと思います。
- 2024/05/28(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
昨日のべたように古武道は武道の高段者がするものだという考えを持つ人がいる反面、古武道は手順を覚えさえすればよい形だけの存在だと軽く見る人も存在します。
大石神影流を高知県の公共機関に招聘されて演武した後に高知県のとある文化的に地位のある人物から電話があり、「高知県(土佐藩)へ大石神影流を持って帰りたいから、教えてほしい。どうせ形だけだから短期間で覚えられる。」と電話があったことがあります。「大石神影流は防具を着用しての稽古もします。習得したいのなら毎月1,2回、10年くらいは稽古に通ってください。今月講習会をしますから稽古がどういうものか知りたかったら見にに来てください。」と答えましたが見に来られることはありませんでした。
その人にとっては古武道とはそれくらい簡単に習得できるどうでもいいような存在だったのだと思います。私が意地悪をしていると思ったかもしれません。古武道に対してそのような考えを持っている人もいます。
- 2024/05/29(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
形・手数の稽古も防具を付けた稽古も安全に行うことができます。しかし、武道とはもともと命がかかったものです。そこを忘れては武道は武道ではなくスポーツとなってしまいます。競技がない古武道は「しょせん形だろう。」と言われる存在になってしまいます。
貫汪館には以前何らかの武道を経験した方も稽古に来られますが、命がかかったものという実感がない方もおられます。そこがわからなければ古武道の上達はむつかしいという大事な部分です。真剣を持っている方は手入れをしながらよくよく考えてください。
- 2024/05/30(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-
初心者の方は見る目が育っていないので自分の目で見たものを直接追いかけようとします。
私は高校生の頃に梅本先生に入門して、梅本先生の斬撃や抜付けに不思議な力強さを感じました。稽古を重ねればわかることですが、梅本先生は力強く振ろうとも速く振ろうとも思ってはおられませんでした。しかし、私は強さを追いかけてしまいました。そのため本当の斬撃はできませんでした。先生に教えられるようにゆっくり丁寧に静かに稽古した結果として必要な強さは自然に生まれることがわかったのはだいぶたってからです。つまり、私は稽古時間を無駄に費やしていたわけです。初めから先生が教えられるようにしておけば上達は早かったのだろうと思いますが、それができませんでした。初心者の私が深い理解もないのに先生の教えよりも先生の見た目を追いかけようとしたためです。教えに素直な人だけが速やかに上達していけます。
- 2024/05/31(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
-
-