かつて必要に迫られ広島藩の弓道の歴史についてまとえたことがあります。広島県弓道連盟の出版物に載せていただきましたが、最近入門された方は見ておられないので、載せていきます。
Ⅰ はじめに
弓道史は私にとって今まで取り組んだことの無い分野であるが、今後の研究のために、現在までに発行されている書籍の広島藩の武術史に関する記述の中から、弓道に関するものをまとめ小史としてみた。
もとより江戸時代の武士は、平時にあっても一朝事あらば、戦場に赴かねばならないという前提の下に生きていた。(泰平の世が続き、刀の抜き差しもできない武士が居たということではあるが。)したがって、居合のみ、剣術のみ、柔術のみといった特定の種目の武術だけを修行する者の方が希であり、専門的に修行する分野の武術はあっても複数の種目の武術を経験する者が多かった。
例えば、広島藩円明流(剣術)の師家であった多田家は半弓の術を伝えているし、文政の頃の弓術家であった村井貞馬は相刀流の剣術家としても知られている。
弓道史の研究も武術史研究には不可欠のものであり、今後も研究を続け、廣島藩の武道史の全体像をとらえたい。
なお、現在では「弓道」の語が一般的に用いられているため、表題には「弓道」の語を用いたが、江戸時代には「弓術」の語が一般的であったため本文には弓術の語を用いている。
- 2015/06/01(月) 21:25:00|
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Ⅱ 廣島藩と弓術
廣島藩における弓術は浅野家が紀州にあったころから盛んであったらしい。『日本武道全集・3 弓術・馬術』1)によると京都三十三間堂の通し矢競技は慶長4年(1599)に紀州浅野家の臣で印西派の吉田五左衛門が千射を通したのが始まりといわれている。
また、慶長11年(1606)から文久3年(1861)までの255年間に京都三十三間堂に通し矢を行なった人数は延べ823名で約90藩にわたるが、このうち天下総一となったのは述べ41名、実数26名である。このうち紀州時代の浅野家から3名、安芸国に移ってから1名、計4名の天下総一を出している。
- 2015/06/02(火) 21:25:00|
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享保10年(1725)に設けられた「稽古場屋敷」ですが、この時剣術なども稽古できる藩の道場として設置されたようです。藩の道場としては他藩に比べて割と早く成立しているのですが、藩の資金がなく廃止になってしまったようで幕末に広島藩講武所ができるまで再び個人の道場で指導が行われたようです。
明和3年(1766)の、円明流剣術師範多田家は円明流剣術、円水流居合と半弓の術を家伝としていました。幕末には他流派との防具着用の試合稽古も行っています。5月10日
藩士、勝田五左衛門(吉田流)・近藤彦兵衛・生熊金重郎の三名、弓射場に於いて通矢の練習を開始する。
(『廣島市史(第2巻)』p89)
正徳5年(1715)中
尾長村東南矢賀村境に弓銃の射的場を設ける。
(『廣島市史(第2巻)』p135)
享保8年(1723)
6月12日
藩主、御中小姓、小篠文太(吉田流)に銀三十枚を賜う。小篠は伊勢国、津藩士,吉田六左衛門につき弓術を修行し、廣島藩に於いて門弟に教授す。
(『廣島市史(第2巻)』p240)
享保10年(1725)
7月13日
藩府「稽古場屋敷」を白島に起こし、武術練習場とする。当時の弓術の師範に勝田五左衛門(吉田流)・小篠五左衛門(吉田流)・中尾五太夫・吉田四郎兵衛・佐瀬半左衛門あり。
(『廣島市史(第2巻)』p530)
享保13年(1728)
正月13日
小篠五左衛門(吉田流)、門生の教育に力を尽くし今回家伝の半弓発射法を藩主へ教授の故をもって新知行百五十石を給与。
(『芸藩史拾遺』(第26巻)p66)
享保20年(1735)
12月28日
当時、足軽一組中に銃手二十人・弓手五人という藩制であったが、これ以後、銃の射撃法は井上権之丞・奥弥三兵衛の両流で、弓の発射法は吉田五左衛門(印西流)・勝田太郎左衛門(吉田流)の両流で教練すべきことに一定する。
(『芸藩史拾遺』(第26巻)p67)
延享2年(1745)
正月20日
小篠文太元實没(吉田流)する。初め四郎五郎と称し、長じて文太といい、後、改めて五左衛門という。国前寺境内に葬る。7)(写真1)
(『芸備碑文集上巻』p40)
宝暦元年(1751)
4月8日
筒井弥右衛門季時(印西流)没する。筒井は初め吉田直勝に学び後、筒井兼暁に従って秘巻を得る。超覚寺に葬る。8)
(『安芸備後両国偉人傳』p299)
明和3年(1766)
6月14日
藩主・重晟、円明流剣術師範、多田源八紀久に家伝の半弓(大和流)の修練を命じ、その射法を検閲。
(『芸藩史拾遺』(第26巻)p67)
徳山市の東のあたりです。
- 2015/06/02(火) 21:25:00|
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Ⅲ 廣島藩の弓術流派
廣島藩の弓術の流派には印西流・日置流・吉田流・印応流・竹林流・大平流・半弓の大和流などがあった。
印西流
正式には印西派という。印西派弓術の流祖は吉田一水軒印西である。吉田流を父重綱に学ぶが意見が合わず、叔父吉田業茂につき、左近衛門流の弓術を学んだ。始め豊臣秀次に仕え、後、結城秀康・忠昌に仕える。大阪の役後は徳川家康・秀忠・家光三台に仕えた2)。
廣島藩の印西流の師範には吉田家があった。慶長4年(1599)の京都三十三間堂の通し矢競技の先鞭である千射を通した紀州浅野家の臣で印西派の吉田五左衛門が先祖であるのかは不明であるが、正徳2年(1712)、吉田一郎左衛門が若年のため、流儀断絶がないようと判明を受けている。享保年間には五左衛門がおり、その後四郎兵衛が居るが、吉田家は断絶したらしい。
また、印西流は伴家によって伝えられていたらしいが詳細はわからない。文化の頃に伴甚四郎、幕末に伴兵左衛門がいる。
また、系譜は不明であるが、父神尾弌卓に従い印西流・日置流の奥秘を極め、藩主浅野重晟・斎賢に仕えた神尾弌之がある。幕末には神尾源兵衛がいる。
- 2015/06/03(水) 21:25:03|
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日置流
流祖・日置弾正正次は伊賀平氏の出自で、その射法を伝えるとともに源氏系の逸見の射法も伝えた。文明の頃佐々木氏が多賀党と近江箕作山西麓に戦ったとき、佐々木氏のために奮戦し、後土御門天皇にも仕えた事があるという。正次は弓術修行のため諸国を遊歴し、審固持満・飛貫中の秘術を会得したという。3)
廣島藩では、日置流には文化の頃に父山下角太夫より教を受けた山下勘左衛門があった。幕末には山下角太夫がいる。また、前述の神尾弌之があった。
吉田流
吉田流弓術の祖といわれる吉田重賢は近江国蒲生郡河森に生まれた。幼時から家伝ともいうべき源氏系の逸見・武田・小笠原の古流弓術を習得したが、日置弾正正次に学び新流の開祖となった4)
廣島藩の吉田流は勝田家によって伝えられていた。承応元年(1652)、玄徳公の命により勝田五左衛門は、加賀藩士吉田左近太夫につき弓術修行。印可を得て翌年帰藩し、それ以降勝田家が師範となった。この系統は左近衛門流とも呼ばれていた。
これとは別に小篠家によって伝えられた吉田流もあった。享保の頃、御中小姓、小篠文太は伊勢国、津藩士,吉田六左衛門につき弓術を修行し、廣島藩に於いて門弟に教授を始めた。この後五左衛門・斧槌・三左衛門・五左衛門と続き幕末に小篠吉左衛門があった。三左衛門の子五左衛門は伊勢国津の吉田家から相伝の秘書を授かり、また、もう一人の子源左衛門は諸国遊歴の後、常陸国水戸に居住し、門弟を育成した。
- 2015/06/04(木) 21:25:00|
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印応流
印応流は廣島藩に伝承されていたが、全国的な流派ではなかったらしい。
印応流は安永4年(1775)に久保田権之丞が「弟子中引受弓術指南仕候」として小人一人料を与えられている。文化の頃に久保田虎之進があり、幕末に久保田権左衛門かあった。
- 2015/06/05(金) 21:25:00|
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竹林流
正式には竹林派というらしいが、流祖は石堂竹林坊如成である。如成は真言宗の僧で近江国におり、吉田一鷗の射伝の奥義を得、後に紀州高野山に住し、芳野に移ったが、尾張清洲城下に来住し徳川忠吉の弓術師範となり尾張で没したといわれる。5)
竹林流には寛文6年(1666)に尾張光義侯の許諾を得て、名古屋藩士長屋六左衛門(竹林流)に入学した茨木弥太郎がいる。茨木弥太郎は師の長屋六左衛門より寛文10年(1670)に弓術の印可を得、翌年帰藩した。
- 2015/06/06(土) 21:25:00|
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大平流
大平流は明和4年に亡くなった三田村保衛門定虎の弩法の流派であろう。詳細は不明。
大和流
半弓の大和流は円明流剣術師範、多田源八紀久が復興した家伝の半弓である。近藤加太夫森から多田源八紀久の4代前の多田祐久に伝えられている。6)
- 2015/06/07(日) 21:25:00|
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Ⅳ 広島藩弓術史年表
人名と事績のみ判明していて流派名がわからない者が多いが、今後の研究により明らかにしていきたい。
慶長7年(1602)
12月
藩家第二世幸長公、江州堅田の住人、木村壽徳庵宗佐より日置流の印可状を受ける。
(『芸藩史拾遺』(第26巻)p61)
寛永年中
(1624~1643)
蒲生飛騨守浪人、岡越前広島に来て弓細工を教え、藩士の求めに応じ製作。また、藩用の弓も製作す。
(『廣島市史(第1巻)』p390)
承応元年(1652)中
勝田五左衛門、玄徳公の命により加賀藩士吉田左近太夫(吉田流)につき弓術修行。印可を得て翌年帰藩
(『芸藩史拾遺』(第26巻)p62)。
明暦2年(1656)中
藩府、京都蓮華王院三十三間堂に擬して城内三館境内に射場を新築
(『芸藩史拾遺』(第26巻)p62)。
閏4月晦日
藩命により徒歩小姓入江吉左衛門の倅,入江八郎右衛門、京都三十三間堂で矢数を試す。
(『芸藩史拾遺』(第26巻)p64)
9月19日
入江弥太郎(後に茨木弥太郎と称す)、湯川重三郎、入江八郎左衛門へ翌春上京矢数修行を命じ銀三貫四百五十目を下賜す。
(『芸藩史拾遺』(第26巻)p62)
9月19日
入江八郎右衛門、矢数試しの功により切米15石と三人俸で採用さる。
(『芸藩史拾遺』(第26巻)p64)
瀬戸内海を広島から大分の鶴崎へ向かう航海図です。現在の広島市の中心部の対岸に宮島が位置していたり、おかしなところも多々ありますが、当時の人の感覚ではそうだったのだと思います。
- 2015/06/08(月) 21:25:00|
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註:このころになると弓道は「通し矢」という競技中心になり、武技なのかスポーツなのかわからなくなってきます。万治元年(1658)
4月17日
入江八郎左衛門、城内三館三十三間堂に矢数を試む。総矢数5768本中1155本通す。
(『芸藩史拾遺』(第26巻)p62,63)
4月24日
湯川重三郎、城内三館三十三間堂に矢数を試む。総矢数5427本中1165本通す。
(『芸藩史拾遺』(第26巻)p63)
5月21日
入江弥太郎、城内三館三十三間堂に矢数を試む。総矢数6200本中830本通す。
(『芸藩史拾遺』(第26巻)p63)
万治2年(1659)
4月
藩主光晟、藩士数名に京都三十三間堂での通矢を命ず。湯川十三郎、総矢数6818本中1350本通す。
(『廣島市史(第1巻)』p401)
万治2年(1659)
8月11日
箕浦吉之丞に来年、京都三十三間堂での矢数修行を命じ、銀二貫弐百六拾参匁を下賜
(『芸藩史拾遺』(第26巻)p63)
万治3年(1660)
4月
藩主光晟、藩士茨木弥太郎・湯川十三郎・入江八郎右衛門・箕浦吉之丞を京都三十三間堂での試矢に臨ませる。
(『廣島市史(第1巻)』p402)
海路図は大竹、岩国周辺です。
- 2015/06/09(火) 21:25:00|
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寛文6年(1666)に他藩の師匠に入門して弓を学ぶものがあったことがわかります。寛文2年(1662)
12月24日
茨木弥太郎、堂前稽古出精により褒章として銀二百十五匁を受ける。
(『芸藩史拾遺』(第26巻)p64)
寛文3年(1663)
3月3日
徒歩小姓入江八郎右衛門、弓術修行のため尾張へ派遣のため銀五枚を下賜。
(『芸藩史拾遺』(第26巻)p64)
寛文4年(1664)
2月6日
生駒源五郎、矢数修錬の命を受け京都へ出発。同行者に甲久右衛門・勝田太郎左衛門(吉田流)を命ず。
(『芸藩史拾遺』(第26巻)p64)
5月8日
生駒源五郎,第1回通矢、総矢数2065本中1085本通す。
(『芸藩史拾遺』(第26巻)p64)
5月21日
生駒源五郎、第2回通矢、総矢数8685本中4022本通す。
(『芸藩史拾遺』(第26巻)p64)
寛文5年(1665)
11月
生駒源五郎へ再び上京矢数修錬を命ず。
(『芸藩史拾遺』(第26巻)p66)
寛文6年(1666)
4月
生駒源五郎、京都三十三間堂で矢数修錬す。同6月帰藩。
(『芸藩史拾遺』(第26巻)p66)
寛文6年(1666)中
茨木弥太郎を弓術修行のため、尾張光義侯の許諾を得て、名古屋藩士長屋六左衛門(竹林流)に入学させる。
(『芸藩史拾遺』(第26巻)p66)
岩国の西の航路図です。
- 2015/06/10(水) 21:25:00|
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通矢のことばかり記録に残っています。広島藩では京都三十三間堂を模した弓射まで作っています。茨木弥太郎が名古屋に赴いて長屋六左衛門に入門したのが1666年ですので、4年で印可を得たことになりますが、もともと弓術の修行をしていたと考えられますので短期間とは言えないと思います。寛文8年(1668)
5月
藩主光晟、御中小姓組生熊源五郎に京都三十三間堂での通矢を命ず。総矢数15000本中3006本通す。
(『廣島市史(第1巻)』p412)
寛文9年(1669)中
茨木弥太郎、師の長屋六左衛門と上京矢数を試みる。
(『芸藩史拾遺』(第26巻)p66)
寛文10年(1670)中
茨木弥太郎、師の長屋六左衛門より弓術の印可を得る。
(『芸藩史拾遺』(第26巻)p66)
寛文11年(1671)冬
茨木弥太郎、帰藩。
(『芸藩史拾遺』(第26巻)p66)
延宝4年(1676)
2月5日
藩府、弓工岡清兵衛に三人扶持を給す。
(『廣島市史(第2巻)』p74)
元禄5年(1692)
4月28日
藩府、京都三十三間堂に倣い弓射場を国泰寺村七十間多門の前に建築。
現在の光市のあたりです
- 2015/06/11(木) 21:25:00|
- 武道史
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斬撃
形の中で斬撃を行おうとすると振りかぶった時に心が焦れば焦るほど天地が通らなくなります。天地が通らないままに斬撃を行うと手打ちになり、真の斬撃はできません。強くなく強く、速くなく速くという動きにはならないのです。
このところを植田平太郎先生は「諸手上段に引冠り」と単純に記されていますが言葉面を読んだだけで習わなければここに大切なところがあるとは気づきません。澁川一流柔術でいうところの「根」が点に向けられている状態であり、体のどこにも無理はなく、力みもなければおのずと天地が通ります。感じることができなければ工夫に工夫を重ねてください。
- 2015/06/12(金) 20:59:08|
- 居合 業
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享保10年(1725)の藩府「稽古場屋敷」では剣術等の稽古も行われたようで藩が作った道場としては割と早い時期なのですが運営資金に行き詰まり廃止になりました。幕末に広島藩講武所ができるまで、個人の道場で稽古が行われていたようです。
明和3年(1766)の藩円明流剣術師範、多田源八紀久は円明流剣術と円水流の居合、半弓を家伝としていたようです。円明流剣術は幕末には防具着用で他流派との試合稽古も行っています。多田家は維新後北海道に移住し現在広島には墓石のみ残っています。5月10日
藩士、勝田五左衛門(吉田流)・近藤彦兵衛・生熊金重郎の三名、弓射場に於いて通矢の練習を開始する。
(『廣島市史(第2巻)』p89)
正徳5年(1715)中
尾長村東南矢賀村境に弓銃の射的場を設ける。
(『廣島市史(第2巻)』p135)
享保8年(1723)
6月12日
藩主、御中小姓、小篠文太(吉田流)に銀三十枚を賜う。小篠は伊勢国、津藩士,吉田六左衛門につき弓術を修行し、廣島藩に於いて門弟に教授す。
(『廣島市史(第2巻)』p240)
享保10年(1725)
7月13日
藩府「稽古場屋敷」を白島に起こし、武術練習場とする。当時の弓術の師範に勝田五左衛門(吉田流)・小篠五左衛門(吉田流)・中尾五太夫・吉田四郎兵衛・佐瀬半左衛門あり。
(『廣島市史(第2巻)』p530)
享保13年(1728)
正月13日
小篠五左衛門(吉田流)、門生の教育に力を尽くし今回家伝の半弓発射法を藩主へ教授の故をもって新知行百五十石を給与。
(『芸藩史拾遺』(第26巻)p66)
享保20年(1735)
12月28日
当時、足軽一組中に銃手二十人・弓手五人という藩制であったが、これ以後、銃の射撃法は井上権之丞・奥弥三兵衛の両流で、弓の発射法は吉田五左衛門(印西流)・勝田太郎左衛門(吉田流)の両流で教練すべきことに一定する。
(『芸藩史拾遺』(第26巻)p67)
延享2年(1745)
正月20日
小篠文太元實没(吉田流)する。初め四郎五郎と称し、長じて文太といい、後、改めて五左衛門という。国前寺境内に葬る。7)(写真1)
(『芸備碑文集上巻』p40)
宝暦元年(1751)
4月8日
筒井弥右衛門季時(印西流)没する。筒井は初め吉田直勝に学び後、筒井兼暁に従って秘巻を得る。超覚寺に葬る。8)
(『安芸備後両国偉人傳』p299)
明和3年(1766)
6月14日
藩主・重晟、円明流剣術師範、多田源八紀久に家伝の半弓(大和流)の修練を命じ、その射法を検閲。
(『芸藩史拾遺』(第26巻)p67)
徳山の東になります。
- 2015/06/12(金) 21:25:00|
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最後の記述の勝田家の墓は戒善寺にありますが、弓に関することは勝田家には伝わっていないようでした。浄土宗の戒善寺は古いお寺で広島市のお寺が移転される前は広大な墓地があったと記憶しています。私の母方の墓もあります。明和4年(1767)
正月27日
三田村保衛門定虎没す。六十八歳。彊蟄斎と号す。小篠元忠の子で三田村祐之の甥である。弓に関する著述、百余巻。特に弩法をよく研究する。大平流と称す。金龍寺に葬る。9)(写真2)
(『安芸備後両国偉人傳』p299,300/『芸備碑文集上巻』p,49,50)
明和5年(1768)
6月7日
多田源八紀久に半弓の師範役を命じ、藩主・重晟、自ら修練す。
(『芸藩史拾遺』(第26巻)p67)
明和6年(1769)中
藩主・重晟、多田源八の半弓の遠距離射的を新山村日通寺庵上また、同村村上流川原に閲覧す。
(『芸藩史拾遺』(第26巻)p67)
安永4年(1775)中
印応流、久保田権之丞、「弟子中引受弓術指南仕候」として小人一人料を与えられる。
(『広島県史 近世2』p1182)
天明2年(1782)
8月
勝田義安(吉田流)没する。香川南濱に師事する。『郷射義』三巻を著わす。
(『安芸備後両国偉人傳』)p306)
10月
勝田又三郎(吉田流)の養子千之助へ家督を命ず。
(『芸藩史拾遺』(第26巻)p67)
天明6年(1786)
9月
勝田千之助出奔により家名断絶。一族の勝田貢の弟勇衛に家名を相続させる。
(『芸藩史拾遺』(第26巻)p68)
寛政5年(1793)
10月21日
円明流剣術師範、多田紀久没する。祖先は半弓で家を起こしたが、後廃れた。明和4年(1767)、藩主、重晟の命により半弓の術を復興。藩主の師範役となる。
(『廣島市史(第2巻)』p745,746/『芸備碑文集上巻』p,77)
文化10年(1813)
5月8日
弓術家、神尾弌之没する。日置流・印西流を極め、藩主、重晟・斎賢に仕える。妙頂寺に葬る。10)
(『廣島市史(第3巻)』p194/『安芸備後両国偉人傳』p,300)
文政9年(1826)
8月
勝田太郎左衛門義方没する。吉田流弓術の師範、左近衛門流とも称する。戒善寺に葬る。11)
(『安芸備後両国偉人傳』)p306)
昔の航海図なので微妙ですが、徳山を過ぎたらすぐに大分県の鶴崎に到着です。
- 2015/06/13(土) 21:25:00|
- 武道史
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当然のことですが、幕末になり西洋砲術の優位がはっきりすると和式砲術も弓術もさらには槍術も無用の長物になります。それでも勝田家の弓術のみは残されたのは精神性を弓に求めたからでしょうか。文政13年(1830)
3月10日
村井貞馬没する。相刀流の剣術もよくする。禅昌寺に葬る。12)
(『安芸備後両国偉人傳』)p308/『芸備碑文集上巻』p,129,130)
文政13年(1830)
3月22日
家中の者が弓銃に事寄せ賭け事をする弊風あるのを禁ず。
(『廣島市史(第3巻)』p26)
天保5年(1834)
8月20日
三田村丹治定善没する。その祖、保右衛門定虎、文武に達し『神軍』を著述す。その書、散逸のため遺編を復旧する。金龍寺に葬る。9)(写真3)
(『安芸備後両国偉人傳』)p308)
文久3年(1863)
正月
軍制改革により弓術師範家の門生教育を停止する。但し、勝田勇の弓術は事由ありて特に希望者へ教授することを妨げず。この時、令達を受けた弓術師範は徒歩頭次席番外・伴兵左衛門、側詰次席・小篠吉左衛門、奥詰番外・神尾源兵衛、奥詰番外・久保田権衛門、馬廻り・山下角太夫である。
(『芸藩史拾遺』(第26巻)p68,69/『芸藩史』(第3巻)p,331)
Ⅴ 終わりに
簡単にではあるが広島藩の弓道史をまとめてみた。弓道は経験したことの無い武道であり、古流の弓術と現代弓道との違いさえわからないので全く具体的なイメージがわかず、字面だけの研究となってしまった。
本小論を書くにあたって旧弓術師範の家に残るであろう古文書類を調査するため、いくつかの菩提寺を訪れた。しかし、そのほとんどが無縁となっており、「原爆で途絶えた家も多いですから」という説明を各寺でうけた。
参考文献
『安藝備後両國偉人傅 全』、昭和12年12月15日、手島益雄著、東京藝備社
『藝備碑文集』上巻、大正17年7月20日、櫻井照登編、友田誠真堂
『藝藩史』(第3巻)、昭和52年7月27日、橋本素助・川井鱗三編、㈱文献出版
『藝藩史拾遺』(第26巻)、昭和53年4月28日、橋本素助・川井鱗三編、㈱文献出版
『藝藩輯要 附藩士家系名鑑』(『復刻 藝藩輯要』)、昭和45年7月20日
芸備風土研究会
『三百藩家臣人名事典』第6巻、1989、家臣人名事典編纂委員会編、㈱新人物往来社
『新修広島市史 第4巻 文化風俗史編』、昭和33年12月27日、編集発行 広島市
『増補大改訂 武芸流派大事典』、昭和53年12月10日発行、綿谷雪・山田忠史編
㈱東京コピイ出版部
『広島県史 近世1』、昭和56年3月20日、編集発行 広島県
『広島県史 近世2』、昭和59年3月27日、編集発行 広島県
『広島県人名事典 藝備先哲傅』、昭和51年1月28日、玉井源作著、㈱歴史図書社
『廣島市史(第1巻)』、昭和47年12月12日、広島市役所編、㈱名著出版
『廣島市史(第2巻)』、昭和47年12月12日、広島市役所編、㈱名著出版
『廣島市史(第3巻)』、昭和47年12月12日、広島市役所編、㈱名著出版
『廣島市史(社寺史)』、昭和47年12月12日、広島市役所編、㈱名著出版
『飽薇光華録 附芳名録 上』、昭和45年1月30日発行、益田啓編、
廣島縣私立修道中学校
『尚古』第二年 第八号、明治40年11月10日、山本群二、廣島尚古会
宮島千畳閣の絵馬
- 2015/06/14(日) 21:25:00|
- 武道史
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貫汪館での稽古は新たなものを身に付けていくのではなく、自分の内にあるものを開花させていく稽古です。
したがって、形の手順を覚えそれを外見上で見事に行えるようになることを良しとする方や、新たな形を数多く覚えることが上達だと思う方は貫汪館では上達できません。
参考までに無雙神傳英信流抜刀兵法で師 梅本三男貫正先生から受けた指導を記していきます。
面壁八年
抜き付けで鞘手・柄手ともに肚中心に動くのではなく小手先が働くときにこの指導を受けました。
臍下丹田の動きが伝わって手が働くようにするための稽古です。
ただ壁に面して正座していただけですが、「動けるか」と言われて初めて、鞘手・柄手を動かそうとして、その時初めてダメな動きをしていることに気づきました。
次の稽古でも「できるようになったか」と聞かれて、自分自身ができるようになっていないことが分かるようになりましたので、また座らせていただきましたが、その時に何とはなしに動けるようになり始めました。ただ、人によりますので、この稽古を何回繰り返しても、自分の内なる変化に気付こうとしない方には意味はないようでした。
- 2015/06/15(月) 21:25:00|
- 居合 業
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歩む
ただ歩む稽古を延々とさせられます。刀を持つこともありません。私は現代剣道をしていましたので献堂式の足さばきが抜けず、鼠蹊部・膝・足首等を緩めてすり足で進むことがなかなかできませんでした。しかし、この歩み方ができなければ無雙神傳英信流抜刀兵法の基本の一つである斬撃の稽古をしてもダメな動きを身に付けるだけになってしまいます。求められていることはわかっていたのでできるようになるまで来る日も来る日も歩きました。
貫汪館顧問は1年間は歩む稽古であったそうです。
- 2015/06/16(火) 21:25:00|
- 居合 業
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手の内
現代剣道の手の内と無雙神傳英信流抜刀兵法で求められる手の内は異なっています。初めの内には、どのように違うのかすらわかっていませんでした。刀を体の前に立て、その柄を挟むように両手の指先がすべて前方に向くようにする、そのまま小指と薬指の力を抜き指丘が柄に触れた状態から引力にひかれて切っ先がおり中段の位置にくる。ただひたすら繰り返して手の内を覚えます。それまでは作った手の内であり不自由なダメな手の内でした。力みなく、刀の重さも感じることがなくなるまで手の内の稽古のみを重ねます。
- 2015/06/17(水) 21:25:00|
- 居合 業
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斬撃
剣道でいう素振りですが、現代剣道の素振りに慣れていた私には最も難しい稽古で形を教えていただいた後でも稽古の大半は斬撃でした。歩む稽古はしていますのでその歩みに乗せて左足で刀を振りかぶり、右足を広く出しながら刀を下しますが、ただ歩むだけなら臍下中心に歩めたとしても、刀を振りかぶる動きになると重心は上がり、さらに振り下ろそうとすると臍下中心どころか肩中心になります。歩む稽古を重ねた北意味が全くありませんでした。「刀を振ろう」とする心がそうさせてしまうのですが、できないものはどうしようもありません。来る日も来る日も斬撃で形の稽古はできません。
ある程度満足いくようになったのは最近ですから先生が斬撃の稽古をさせられたのも当然のことであったと思います。
- 2015/06/18(木) 21:25:00|
- 居合 業
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納刀
無雙神傳英信流抜刀兵法では納刀時、鞘と刀が一文字にならなければなりませんが、手首を遣う癖があれば鞘をこねてしまうために切っ先が鯉口に入った時に刀と鞘が「く」の字になってしまいます。
手癖の問題なのですぐに治ることはありません。その日一日、また次の時にも本当にその癖が出なくなるように延々と稽古が続きます。
抜付けと納刀は表裏ですので、納刀ができなければ抜付けのレベルも上がりません。
- 2015/06/19(金) 21:25:00|
- 居合 業
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鞘手・柄手
面壁八年については延べましたが、かなり上達してからの手直しを受けているときの話です。繊細な動きですが「下がるから上がる」という理が師匠の満足のいくレベルまで体得できていませんでした。何日も繰り返し(その動きだけです)できるようになって次の段階に進ませていただきました。とはいっても今度は鞘や柄に手が触れる際の動きの稽古が延々と続きます。
稽古はこのように質を高めていくものだということを例示しました。まだまだありますが、この程度で。形の外見をいくら見事に取り繕っても武術という面からみれば意味はありません。内面から変化しなければ自由になることはないものです。
- 2015/06/20(土) 21:25:00|
- 居合 業
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斬撃
形の中で斬撃を行おうとすると振りかぶった時に心が焦れば焦るほど天地が通らなくなります。天地が通らないままに斬撃を行うと手打ちになり、真の斬撃はできません。強くなく強く、速くなく速くという動きにはならないのです。
このところを植田平太郎先生は「諸手上段に引冠り」と単純に記されていますが言葉面を読んだだけで習わなければここに大切なところがあるとは気づきません。澁川一流柔術でいうところの「根」が点に向けられている状態であり、体のどこにも無理はなく、力みもなければおのずと天地が通ります。感じることができなければ工夫に工夫を重ねてください。
- 2015/06/21(日) 21:25:00|
- 居合 業
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形の中で斬撃を行おうとすると振りかぶった時に心が焦れば焦るほど天地が通らなくなります。天地が通らないままに斬撃を行うと手打ちになり、真の斬撃はできません。強くなく強く、速くなく速くという動きにはならないのです。
このところを植田平太郎先生は「諸手上段に引冠り」と単純に記されていますが言葉面を読んだだけで習わなければここに大切なところがあるとは気づきません。澁川一流柔術でいうところの「根」が点に向けられている状態であり、体のどこにも無理はなく、力みもなければおのずと天地が通ります。感じることができなければ工夫に工夫を重ねてください。
- 2015/06/22(月) 21:25:00|
- 居合 業
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無雙神傳英信流抜刀兵法 太刀打の「附入」は柔術的センスが必要とされます。打太刀の右手首をとったとき遣方の左親指が生きていなければならないのです。
左親指が生きることなく単に手首を取っただけでは打太刀は簡単に右片手で遣方の胴を斬ることができます。この感覚を稽古するには自分の右手を左手で取る稽古を重ねてください。
- 2015/06/23(火) 21:25:00|
- 居合 業
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形の稽古を形が見事にできるようにできる事であると考えたら貫汪館では絶対に上達しません。何年稽古しようが何十年稽古しようが絶対に上達することはないのです。
貫汪館の上達とは自由になることであって、そのためには上達の過程で、形が下手に見えたり、頼りなく見えるのは当然のことであり、その過程を繰り返さなければ上手になることはありません。自由になるための手掛かりが形稽古であるのに外見にこだわって真の上達をしようとしない人は形の手順の中に自分を閉じ込めています。
何度も繰り返して述べてきましたが、本気で稽古しようと覚悟が定まっていない方には見えてこないことのようです。
- 2015/06/24(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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澁川一流柔術では履形の稽古でわかるように主に二つの方法で相手に対処します。
一つは、相手がまだ攻撃を起こす前に抑える、おこりを抑える方法。
もう一つは相手の攻撃を斜めに入りながら相手の動きをこちらに取り込んで技をかける方法です。
これは打込にはいっても居合にはいっても同じ事で変わることはありません。打込で相手が切り込もうとして振りかぶる手が頂点に至る前に前に出てこれを制することをする一方で、すでに切り込んできていれば、斜めに出て相手の攻撃を正面に受けないようにして技をかけていきます。
相手が切り込んできているときには絶対に相手の正面に入ることはありません。これは何度も話していることであり、靴形で基本として何度も稽古しているのでいう必要もないことですが、稽古を重ねるうちに勘違いをする方もいますので述べておきます。
- 2015/06/25(木) 21:25:00|
- 柔術 業
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無雙神傳英信流抜刀兵法の師 梅本三男貫正先生は物真似をすることを嫌っておられました。「本質を取ることは難しく、物真似はその人の本質ではなく癖を写し取っている。したがって武道においては物真似には全く意味がない。」と
ところが、うまく見せたい、他人によく見られたい人ほど表面的なものを似せて、できたと自己満足したがる傾向にあります。修行に臨む心がけが浅いのです。
映像を見て工夫したつもりでも、底が浅ければ物真似しかしていません。映像を見るのは表層ではなく、その奥にあるものを掴むために行います。
- 2015/06/26(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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澁川一流柔術では、懐剣を手にした方、刀を手にした方が負ける形が大半です。しかし間違える人が多いのがまた懐剣を持った動き、刀を持った動きです。
構えてしまうのです。「切るぞ」「打ち込むぞ」といかにもといった動きを表に出して自己満足してしまうのです。負ける動きをする「受」の稽古がそのようなレベルであればその人が行う「捕」の動きも同じようなレベルでしかありません。
懐剣を持とうが刀を持とうが自由に働いて相手を切る、打つ動きをしなければならないのです。どのような体勢になっているのか自分で確かめてください。その時の心の状態もガチガチで自由はないはずです。
- 2015/06/27(土) 21:25:00|
- 柔術 総論
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一度指導したことは徹底的に工夫して、まだまだ、まだまだと心と体で腑に落ちるまで工夫しなければなりません。指導は根源的なところを指導して表層的なところについては細かく述べていないのにもかかわらず、その根源的なところを正そうとしなければ上達するはずもないのです。
「指導されたけど、難しいところは、おいておき、とりあえずできるところから」と考えた時点で本質的な上達からは遠ざかっています。
- 2015/06/28(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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本質が同じであれば表に現れるものは変わります。変わって当然です。手の長さ足の長さ、体重身長、年齢すべて異なるのですから表に現れるものは異なります。
本質が同じであれば表に現れるものは違ってもかまいません。
しかし、本質はなかなか見えてこないものです。年齢には関係なく先入観が強い方ほど何年稽古しても、見ようとはしません。自分の価値観を通じてしか見ようとしないのですから見えないのが当たり前です。
これまで見えなかった人、見ようとしなかった人には共通するものがあります。
「自分はこれでよい」
「そんなことはしたことがありません。」
「できません」と言い続ける
安易に「はい」と言って、言ったら終わり
「どこどこでは、こうしていた」
自分の経験を良きにつけ悪しきにつけ。何度も口に出す。
- 2015/06/29(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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いくら極意を指導していても、それを自分の主観で判断して、勝手な解釈をしていれば自分自身ではわかったと思っていても実際には全く異なったことをしています。また、自分の思考でゆがめて解釈しているということにも気づくことはありません。
無雙神傳英信流抜刀兵法、澁川一流柔術、大石神影流剣術いずれの流派の指導でも初めから極意を授けています。それが理解できた素直な心の方は速やかに上達していき、自分のひずんだ考えを通じてしか理解しようとしない人は下達していくばかりです。
目の前のます毛の秘事を知ずしてとやかくせんと一都氣遣という状態ならまだ救いようはありますが、理解できている。教えられたことをしているという思いがあると、指導のしようがありません。
しばらく横浜市の金沢文庫にある称名寺の写真を載せていきます。入門したらこの写真のごとく狭い道をまっすぐに歩んでいかねばなりません。そこに私見をさしはさむ余地はなく、初めの内はよそ見をせず、指導のままにまっすぐ歩みます。
- 2015/06/30(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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