お世話になっている先生とお話ししていたら、柳河藩で足軽の武術を藩主が上覧しているのは珍しいことだとわかりました。ほかの藩では足軽の武術は藩主ではなく家老などが大改などで家老や老中が足軽の武術を見て藩主が足軽の武術の上覧をすることはないのだそうです。
柳河藩では足軽が弓術、槍術、剣術、柔術、捕手、早詰などの武術の上覧を受けています。それだけ柳河藩では武術に力が入れられていたのかもしれません。あるいは足軽の身分が他藩ほど低いものではなかったのかもしれません。私自身は他藩の状況を知らないので今後の課題です。
- 2021/12/01(水) 21:25:00|
- 武道史
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天保3年の大石進種次の出府については日本武道学会で発表しましたが、その資料中に小城藩の五郎川徳兵衛が大石進について藩に挙げた書類の中に大石進からの連絡について記してあります。
柳川罷在候大石
進与申者罷登立會候半ハ、随分
相応ニも可有之御答被致御由二候、
然末此節御指南幷当時江戸
詰之諸士為取立方急出府申付
相成、尤内実ハ右為試合方登
候由御座候、就而者追々發足道
中も兼而知音之道場ニも相尋
着府之上ハ小谷様(ママ)江稽古相願
向寒稽古共迄ハ一際稽古も可有之 これによると、大石進は江戸に上がる道中に
知音之道場があったことになります。
文政11年(1828)6月15日に「但別而剣術之方他方迄称シ候段」という理由で石高を倍に加増されています。私は大石進種次は初めて江戸に出るまでは九州の中だけで名が知られていたと思っていたのですが、江戸に上がる道中というと道筋には久留米、福岡、小倉くらいしかありません。久留米は隣の藩で何時でも行ける場所なので、久留米にある知音の道場をわざわざ訪ねることもないと考えられます。すると、山陽道あたりにも知音の道場があったように思います。
久留米の加藤田平八郎は文政12年(1829年)、回国修行の旅に出て、九州北部、山陽地方、近畿地方、伊勢、四国を廻ったことについては日本武道学会ですでに発表した通りです。加藤田はこれらの地域を試合相手に苦労することなく廻っています。加藤田が文政12年(1829年)に試合相手に苦労しなかったということはこれらの地域にすでに他流試合を受け入れる土壌があったことになります。加藤田平八郎は大石進種次よりも10歳年少です。
ここからは推測にすぎませんが、大石進種次は加藤田平八郎が廻国した地域を先に廻国していたのではないかと考えられます。その結果が文政11年(1828)6月15日に「但別而剣術之方他方迄称シ候段」という理由での石高倍増につながったと考えられます。
これらの地域を全て調べることは出来ませんので、そういった文政の頃の他流試合の史料が地方にあるかどうか貫汪館の支部の方は調べてください。
- 2021/12/02(木) 21:25:00|
- 武道史
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以前にも「生ものは扱わない」ということを書いたと思いますが、現在して活動している流派について門外漢が語るべきではないということでした。これはある武道研究者がモットーとしておられることでした。
現存する流派の古い伝書を見て、その流派の技がああだこうだとインターネット上で言うのもたいへん失礼なことです。たとえて言うならある家族のことをああだこうだといってインターネットに上げているようなものです。自分の知識を誇りたいのだと思いますが、自分ではこれが正しいのだと考えても門外漢の解釈はえてしてずれています。稽古したこともなく、またたとえ稽古したことがあったとしても深く稽古したこともなければ、人から人へと伝えられている大切なことを知ることもないので現代人とは感覚が異なる江戸時代やそれ以前の人が記したものだけを見て論ずるのは解釈がずれてしまうのは当然です。
無雙神傳英信流や大石神影流について海外の方がああだこうだと書いているのを見たことがありますが、知らない人が話をするとこうなるのかと思いました。
- 2021/12/03(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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流派にはそれぞれ特有の術語があります。
大石神影流であれば「はる」「のる」「ひきあます」「きせんをかける」「まきあげる」などです。無雙神傳英信流では居合で用いられる一般的な言葉を用いますが「抜付け(抜き切りではなく)」「血振ひ」「張受け」「刀を開く」「足をもずらす」などがあります。このような術語を用いて指導することがありますので意味が分からなければ各指導者に確認してください。
- 2021/12/04(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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お世話になっている南山大学名誉教授の榎本先生が書かれたものの中に「寸打」という言葉があります。養勇流田代家の辰昌の書簡の中にあるようで「いちどもあやうき勝は不仕候。寸打なとはゆるし申候。」と記されています。この当時は、まだ養勇流ではなく新陰流であったということなので新陰流の袋撓の試合で体のどこを打ってもよかったようなのですが、どうもこの「寸打」という言葉が気になります。
『五輪書』に記されているように
「或は扇、或は小刀などつかふ様にはやくふらんとおもふに依て太刀の道違ひて振がたし 夫ハ、刀きざみといひて太刀にてハ人のきれざるもの也」ということが新陰流で行われていたということなのでしょうか。あるいは別の動きなのでしょうか。
話は変わりますが、大石神影流では小手は小さく切りますが普通の振りかぶりから斬る動きが小さくなったもので、時々皆さんが間違って行っている摺りつけるような切りではありません。早く切ろうとして擦り付けるような動きをされている方がおられますが、それは間違いですので記しておきます。
- 2021/12/05(日) 21:25:00|
- 武道史
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以前、いい加減な言葉遣いや人間関係を無視した言葉遣いということをお話ししましたが、そのもとにあるのは状況判断です。おかれた場や人間関係がわかっていなければ丁寧な適切な言葉遣いはできません。
以前もお話したことがあると思いますが、ある方が主催されて私も招待され、その方も招待された居合の演武会がありました。その時に主催者から紹介されたので名刺を出して自己紹介しました。そうすると、名刺は受け取ろうとせず、あからさまにそんなものは良いですという態度を示し、言葉も出されました。その方は〇道の高段者でもあり、継いでいる流派が2流派地域の無形文化財に指定されているような肩書は立派な方でした。受け継いでいる道場も明治の初めから続く道場ですから、人物も立派な方であろうと思っていたのですが、そのような対応でした。差し出した名刺を収めるわけにもいかないので、意図的にさらに差し出して受け取ってもらいましたが、その方は後から席について私の名刺を見て、しまったという顔をされていました。有象無象の一人を相手にできないと思われていたのでしょう。主催者に紹介されているのに相手の名刺も受け取らず、あきらかに高みに立った態度をとるのは状況判断以前の問題もあるかと思いますが、気を付けなければなりません。ほかに大勢人がいたところでそういう態度をとるのは、相手にどのような思いをさせるか考えられなかったのでしょう。それと同時に自分自身が他とは違うという思いが根底にあったのだと思います。
もう一つのお話も名刺に関係しますが、ある時にお世話になっている方と、友人と3人でいたときに〇道の高段者で名が知られている(私は〇道をしませんので知りませんでしたが)人物がそこに来て、小部屋に招待したことがあります。お世話になっている方と知り合いでした。3人の名刺を受け取ってそれにちらっと眼を通し、お世話になっている〇道の先生と世間話をし、〇道をしている友人に△△県の〇道の先生は云々という話をし、最後に私に対しても広島県の誰々という〇道の先生と懇意にしていて云々、ほかにも〇道の何々先生・・・という話をし始めました。全く私の名刺を見ておらず、自分が〇道界で名が知られているということしか頭になかったのだと思います。さらにある人物を貶めるために嘘の話をし始めました。私が真実を知っていると思いもしなかったのでしょう。この人は〇道では有名な人ですが、状況も何もわかっていない人でした。気を付けなければならないことです。
状況を考えるときに自分を過大評価していたり、ある分野にだけに通じる評価を全てに通じるものだと思ったり、へりくだっている相手を中身がないからへりくだっていると考えたりすると正しい状況判断ができなくなってしまいます。
- 2021/12/06(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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武道学会でお世話になっている先生方のお考えでは剣術の堅牢な防具は槍術の防具をまねて始められたのではないかということです。剣術では袋撓を用いていたので、試合をしてもそれほど大きなけがをすることはないけれども、槍術では入身稽古をするにも短い槍を持った方は入身の勢いがついたところを長い槍を持った方につかれるため稽古槍でも衝撃が強いので早くから丈夫な防具が作られていたということなのです。袋撓を用いていても打たれると痛い剣術で堅牢な防具を用い始めたのは槍術の防具を取り入れたのだろうと想像できます。
さて、槍術では防具を着用して胴、胸当てのある流派は胸部、面、丈夫な喉当のある流派は喉を突いていたようですが、剣術では袋撓をもちいて堅牢な防具を用いていないころはどこを打ってもよかったようです。打突部位が定まってきたのは堅牢な防具を用い始めてからでしょう。堅牢な防具の目的が怪我をしない痛くないということにあったのですから当然のことだと思います。これまでどこを打ってもよかったものが堅牢な防具を用いることによって打つ部位が制限されてきました。
さて大石神影流ですが、大石進種次は大島流槍術と愛洲蔭流剣術を習います。槍術のほうは先述したように堅牢な防具を用いて刺突部位は制限されていたでしょう。一方愛洲蔭流剣術は唐竹面と袋撓の試合稽古でどこを打ってもよいスタイルです。大石進種次が突技と胴切りの工夫を始め竹刀の改良をすると、どうしても堅牢な防具が必要になります。大石進は現在用いられているような竹刀を発明しますので、あの竹刀でどこでも打っていいというのは無理があります。孟宗竹の根元の節の多い重たいところを用いて竹刀を作ったということですので、なおさら無理があったでしょう。そこで普段使っていた槍術の防具を改良して面の穂を増やして13本とし、籠手の改良を行ったことは想像に難くありません。 史料は出てこない可能性の方が高いのですが、おそらくそのような過程をたどったと考えられます。
大石進の剣術は、どこでも打っていい剣術の試合を習った後に打突部位が限定された剣術へと変化したことになります。しかし、槍術の防具を改良することによって突技を可能にし、突くための槍術用の胴(刺突に耐えられる)を用いて、胴切りの技を用いることができるようにしました。これも想像です。史料は出てきません。樋口真吉や来嶋又兵衛の日記には剣術と槍術の稽古で防具を変えたという記述はありません。
大石神影流の手数には防具着用の試合稽古の打突部位以外を斬突する技が打太刀、仕太刀にあります。大石進が手数を大切にしたというのは、流派の基礎基本という意味合いもあったと考えられますが、防具着用の稽古での刺突部位が限定された技だけでは剣術として不十分であるということを、はじめに習った唐竹面と袋撓の試合稽古から知っていたからという面もあるのではないかと思います。
- 2021/12/07(火) 21:25:00|
- 武道史
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武道の伝書を刊本で読むことができる時代です。江戸時代であれば目にすることができなかったような伝書でも読むことができます。しかし、注意しておかなければならないのは、その流派のことはその流派について語っており、どの流派にも当てはまることもあれば当てはまらないこともあるということです。現代剣道をされる方であまり武道史に詳しくない方がよく話されることがあるのですが、「『五輪書』には五方の構といって上段、中段、下段、右の脇に搆る事などが記されている。剣道と同じだ。」と話されたことがあります。どうも剣道形の上段、中段、下段、八相などの構えをイメージしておられたようでした。これなどは少し考えればわかることなのですが、『兵法家伝書』に書いてあることも現代剣道の理論と一致するとしてその内容を現代剣道の攻防に則して語っておられた方もおられますが、新陰流を習ったこともない方が、そのように語られるのは不思議なことでした。また、土佐の居合の伝書を読んであれはこういうことだと想像して語っておられた方もありましたが、私たちの流派の伝書で、それについては形も伝わっているのですから、私から見ればずいぶん珍妙な解説でした。
おかしやすい間違いかもしれませんが、そのような間違いはしないように気を付けてください。
- 2021/12/08(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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挨拶は相手との関係を正しく保つために大切なことで、その状況にあった挨拶が適切な言葉で、適切なタイミングで正しくできるように心がけることは武道の上達にもつながります。状況を無視してタイミングも無視して、また不適切な言葉で挨拶したらかえって相手との関係を壊すことがあります。あまり気にし過ぎてもぎこちなくなりますので、心に留め置くくらいでよいと思います。
海外から初見の方でインターネットを通じてコンタクトを取ってこられる方がおられますが、OSSという挨拶をされる方がおられます。空手をしている方はそれが普通の挨拶だと思われているようですが、空手ではなく他のアジアの武術をされている方の中にもそのような方がおられ不思議に思っていましたが、それが日本式の丁寧な挨拶の仕方だと勘違いされている様なのです。複数回やり取りをしてまともな方だとわかったら、日本ではそのような挨拶はしないことや空手の人たちの間だけに通じる特別な挨拶だと教えてあげています。相手を見てそのようにしていますので、感謝されますが、相手をみなければどのような反応が返ってくるかわかりませんので、そうはしていません。
これは海外の方の例ですが、私たち日本人も外国に行ったときには頓珍漢な挨拶をしているかもしれません。知らないところに行ったときには私たちも気を付けなければなりません。
- 2021/12/09(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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上達で一番大切なことは素直さであるということは何度も述べています。師は個々の弟子をみて導いています。その人が上達するのに最適なことを指導しているのです。集団教授でかくあるべしと全員に同じことを言っているわけではありません。今まで速やかに上達した人は指導を素直に聞いた人です。何の迷いもなく素直に指導に従って道草もせず、自ら異なった道にも行かずに稽古を重ねた人たちです。そのような人は本当に速やかに上達していきます。指導されたことができなければ、それを体得しようと真面目に取り組むのですから、一つ一つの努力の積み重ねが即、上達につながっていきます。
しかし、自分が流派の教えと異なる思想を持っていて「その教えは自分にはいらない、それは後回しにして、そういう稽古はしたくない。」と考えて自分がしたいようにするのであれば師は必要ありません。言葉には出さなくても指導者にはわかるものですし、自分自身が自分の心に気付いていなくても指導者にはわかるものです。
自分自身で探求しなければならなくなるのは守破離の離の段階に至ってからで、その先は自分自身で求めよと師から言われてからのことです。
- 2021/12/10(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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現代の剣道の1本は『剣道試合審判規則』にある「有効打突は、充実した気勢、適正な姿勢をもって、竹刀の打突部で打突部位を刃筋正しく打突し、残心あるものとする。」ということなのだと思います。それゆえに何度打ち込んでも上記の条件を備えていなければ1本になりません。
少し武道史を学んだことがある人は幕末には十本勝負くらいがよく行われていたということを読んだことがあると思います。この幕末の一本と現代剣道の1本とでは大きな違いがあります。幕末の一本というのは一度どちらかが或は同時に打突し、応じた時点で一本と数えます。したがって相打ちであれば双方が有効となりますし、双方が有効ではないこともあります。これが一本目です。次も同じように行われます。つまり10回斬り合いの試し合いをすることが十本勝負であり、現代の剣道のように何度打ち込んでも1本が決まらず、1本目が終わらないというのとは異なっています。江戸時代はあくまでも真剣勝負の代わりですので切り結んだ時にどちらかが傷つく可能性があります。したがって一本一本が大事でした。以前も述べたように相手の竹刀が自分にかすらないということも大事にされました。現代も1本を大切にせよという教えがされるということですが江戸時代の一本とは意味合いが異なります。
真剣で斬り込まれたときに「軽い」とか「浅い」とか「気剣体の一致がなっていない。」と言えるかどうかを考えればおわかりになるとおもいます。「今の葉小手が半分しか切れていないから1本にならない。」「今のは額までしか切れていない。あごまで斬らなければだめだ。」「今の切込は気合がなかったから一本にならない。」と言えるかどうかです。お世話になっている武道史の先生が、百姓や足軽が中心となって盛んとなっていった流派は棒で打つような感覚を持っていたので強く打つことが重んじられたのではないかとお話しくださったこともあります。幕末に、流派によっては強く打つことを重んじて相手に「軽い」といっていたところもありますから、そのような流派が基準になって明治時代の1本の基準が確立されたのだと思います。
一般の方は現代の剣道の試合と幕末の試合が同じものだと考えられますが、以前述べている打突の後に継足で前に進み出したことも含め、江戸時代の試合が現代の試合と同じものだと勘違いしないでください。
- 2021/12/11(土) 21:25:00|
- 未分類
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不思議なことにできる形・手数の数ではなく手順を覚えた数を誇る方がおられます。
無雙神傳英信流であれば大森流ができるようになって英信流表ができるようになるのであって、できもしないのに英信流表の手順を覚えても何の意味もありません。よく言われる踊りになってしまいます。大石神影流においても初めの試合口五本が満足にできなければ構えることもできず、間合も知らず、位を見ることもできず、張ることもできず、機を知ることもできません。そのような人が陽之表や裏、三學圓之太刀の手順を覚えたところで何の役にも立ちません。澁川一流で蹲踞もまともにできず履形もまともにできなければ他の形を覚えてもすべて砂上の楼閣です。形の手順のみを知りたく着実な稽古をしない方は、修行途中でこれだけ形を覚えたと己惚れてそこで上達は終わります。何が大切なのかがわからなければ上達につながりません。
- 2021/12/12(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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ずいぶん前、日本古武道協会の前の事務局長にお話をお伺いしたときに「古武道の先生には自分の本名以外にどんな場所でも武名とか諱とかをどうしても使おうとする人がいて、自分の感覚ではおかしく感じる。古武道協会の正会員ではない部外の古武道の先生が古武道協会に封書を出してくるときにも○○軒とか、××斎とかを書いてくる人がいるのは不思議だ。」という趣旨のことを話されました。その時の事務局長は古武道の経験はない方です。
私は居合の師から貫汪という剣号をいただき、道場の名前に用いるように指示していただきました。柔術の師からは嗣時という諱をもらいました。大石神影流ではそういうならわしはありません。私は伝書を書く場合など必要があるとき以外、普段は剣号とか諱を用いて自分を名乗ることはありません。ましてや一般の方に「何何流第何代△△△△□□」などと言うことはありません。
一般の方は、相手がそのように名乗ったら、奇異な人物と感じたり威圧感をおぼえるでしょう。それは一般の方に対する自己顕示欲の表れでもあります。武道は普通の人であるための稽古をしています。自分は他とは異なっているのだという自意識は道からそらせてしまいます。
- 2021/12/13(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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大森流の陰陽進退の最初の血振いや英信流の血振いは肘を伸ばしません。肘を伸ばしているときには体を開いているのではなく腕で刀をその位置にもっていっています。腕を使うと前腕が緊張し、刀を手の内で90度回転させることは出来ず、手首で刀を平にしているだけになります。
植田先生は「刀を開く」という表現を用いられていますが、体を開くことで刀を開いています。臍下を中心に体を左右に開くことによって刀は右に動き、肩腕の緊張がないので手の内にも緊張がなく刀は手の内で90度回転します。そのためには下半身の不用な緊張もなくさなければなりません。工夫してください。
- 2021/12/14(火) 21:25:00|
- 居合 業
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伝えられた形・手数はそのままに稽古をしていくのが上達の方法ですが、一昔前に「失われた・・・」ということがはやったせいか「現在には本当のことは伝えられていない、別の隠された意味があるはずだ。自分は本当の意味を見つけた。」などと考える人もいたようです。
新しいことをして自分は他とは違うと思いたかったのでしょう。伝えられておらず伝書だけを見て復元して考えたのなら、それは自分の流派であり、古い流名を名乗っていてもご自身が流祖ですのでそのようなことも起こりえるのでしょうが、伝えられている流派には築き上げられたた教があるので、その教えを無視することになります。また勝手に意味づけをしてその方向に稽古していくと、流派からはどんどん離れていき、それは流派を稽古しているとは言えないものになってしまいます。体つきや力量からくる個性とは別の問題です。
まずはできるようにしっかり稽古しなければなりません。
- 2021/12/15(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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武道を競技化すると安全に試合できるようになりますが、安全でないもの、競技化できない部分は廃れていきます。そして競技に特化した技が生まれてきて本来持っていたものが変化していきます。競技化して競技の技術の優劣を競い、競技での優勝者がもてはやされるので競技に勝とうとするのが当然だからです。
広島では講道館式の柔道が広まって、多くの柔術がなくなりました。初めは講道館式の乱捕と各流派の形を稽古していたようなのですが、試合のルールの制約で役立たない技、使ってはならない技は稽古しても意味がないということで形稽古をしなくなりやがて流派がいくつも無くなったようです。五日市にあった渋川流の道場がなくなった経緯は郷土史の先生が明らかにされていますし、海田にあった司箭流の道場がなくなった経緯は畝先生が見られていました。澁川一流でも地元以外に伝わっていたものには講道館式の乱捕をはじめていたところもあったようです。今は流派の活動はその地域ではなくなっています。武道史の研究をしていてわかった悲しい事実です。
軍隊では競技化が進み過ぎた剣道の技術では白兵戦に役にたたないということで、役立つようにと稽古方法の改良がなされましたが短期間であったので現代剣道に影響は与えませんでした。
競技化が進むと多くの人に受け入れられ競技者も多くなりますが、捨てなければならないことも多くなります。
- 2021/12/16(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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天保10年に大石進種次が出府し水野忠邦の前で手数と試合を披露したときの記録の中に、水野忠邦の希望で続けて3人と大石進が試合をし、水野忠邦は対戦する武士たちに何としてでも大石進を打突するように言ったにもかかわらず、大石進はかすり小手を1本受けただけであったということが記してあるというのはお話しした通りです。かすり小手とは竹刀が十分に届かず切先が防具の小手をかすったということであろうとおもいます。
大石進種次はもともと愛洲陰流の唐竹面・袋撓の試合を学んだ方です。武道学会の先生方の先行研究にあるように袋撓での試合はどこを打ってもどこに切り込んで当たっても有効とされたと考えられます(記録からは胴切りはしていなかったと思われますが)。もともと柳河藩ではほとんどの流派が袋撓での試合による稽古方法を用いていたと考えられますので、防具・竹刀を用いても相手の竹刀が体に触れることを嫌ったと思います。そういうところは打突部位がしっかり規定してあり、鍔迫り合いで竹刀が自分の体に触れても気にしない現代剣道との大きな違いです。
大石神影流の稽古で防具着用の試合稽古をするときには、防具外れであっても打たれたのだという意識をすてずに稽古してください。また、剣道経験者は相手の打突が自分に当たった時に現代剣道では有効打突の基準を満たしていなくても、自分は斬られているのだという思いを持ってください。
- 2021/12/17(金) 21:25:00|
- 武道史
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これまで何度か述べてきましたが上達が早い人はこれまで何もしてこなかった人でした。何もしてこなかったというと語弊があるのですが武道や、スポーツの特定の種目に集中して取り組んできた経験がない人です。ほかの文化的なことに取り組んできた人は別です。
武道の経験がある人はどうしてもその経験をよりどころにしますので、流派の教えに入るのは遅れてしまいます。たとえば剣道経験がある方は竹刀の振り方がそのまま刀の振り方だと錯覚している人がいますので、竹刀の振り方の癖がいつまでたっても抜けませんし、打突の後に前に進むことが正しいので、斬突の後に重心は前がかってしまい前に進むのを止めるため前足に力みが入ってしまいます。また、下半身の使い方が異なっているのですが、そういった癖が抜けません。柔道経験者しかりで投技は相手を投げつけようとしてしまいます。それぞれの武道の経験が上達を邪魔してしまうのです。忘れるためにはそれぞれの武道の経験年数の何倍かかかります。脚力中心のスポーツや上半身中心のスポーツであってもそれぞれの癖が出てしまいます。
しかし、武道を経験したことがない方は0からのスタートであるため真面目に稽古すればするだけブレーキもかからずに伸びていきます。乾燥した綿が水を吸収するような感じです。稽古を始めようとされて「武道を何も経験したことがないのですが。」と言われる方がおられるのですが、指導者からすれば大歓迎です。お教えしたことがそのまま上達につながるのですから。
- 2021/12/18(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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武道を経験したことがある人でも、忘れることができる方は速やかに上達します。素直といってもいいかもしれませんが、これまでの経験をよりどころにせずに習ったことをそのまま吸収しようとされる方です。自分の経験を無にして習える方はなかなかおられませんが、まれにそういう方もおられます。
そのような方はこれまでの武道の経験が生きることもあります。何をすればよいのか、何をしてはいけないのかをご存じだからです。
- 2021/12/19(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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稽古に当たって一般社会での地位を忘れることができる人も上達が早い人たちです。子供たちには社会的地位がありませんので変なプライドがなく、教えられたことを素直に吸収します。
へんに社会的な地位が高い人は「自分は・・・」という意識があるためか、指導されるということに対して心の中に抵抗があり、ましてや自分の動きや技を否定されると、心を閉ざしてしまう方が多いように思います。道場で何のために稽古しているのかということなのですが、社会的地位を心の中から追い出すことは難しいようです。何かの資格を得ることによって道場での態度がコロッとと変わった人もいました。偉くなったのです。
先に述べたように子供たちや社会人になって間もない方のほうが、そのような地位はないので、指導を素直に受け止めて上達する傾向があります。
- 2021/12/20(月) 21:25:00|
- 昇段審査論文
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今の若い人たち多くは剣道・柔道は知っていても江戸時代に剣術や柔術があったことは知りません。テレビなどで試し切りをしているのを見たことはあっても、そんなことが稽古方法の体系として存在しなかった居合はしりません。ましてや江戸時代に○○流や、△△流、□□流、というものがたくさん存在したということも知りません。若い人たちだけでなく私より下の年代の方にもそのようなことを知らない方がたくさんおられます。昔のようにテレビで時代劇をいつも見ることができるという状況ではありませんので、よほど広報に力を入れない限りこの状況は変わってこないのではないかと思います。知らなければ始めることもありません。
日本武道館や日本古武道協会がマスコミに積極的に働きかけて何かすることも期待できません。ただ稽古しているだけではあと100年たたないうちにいくつもの伝統のある流派がなくなるかもしれませんし、また新たないくつものうけの良い古武道をかたる新興捏造流派が栄えるかもしれません。すでに古武道をうたった新興流派で地位を築いているものもあります・・・。
- 2021/12/21(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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10月の初めに歩いた修験道の山 求菩提山ですが明治になって政府により修験道が廃止され神道か仏教かの選択を迫られ、神社として存在しています。しかし神主さんは東京在住で人も少なくなっているためお祭りもままならないということを求菩提資料館の学芸員さんからお伺いしました。
私が山を歩いているときに何か不思議な人たちが・・・胡散臭いビジネスマンのような新興宗教関係者のような・・・人たちが物を中宮のあたりに運んでいたので、下山した後に学芸員さんに再びお話をお伺いすると新興宗教の人たちが勝手に神社を利用して彼らのお祭りをしているのだということでした。お祭りといっても求菩提山のお祭りではなく求菩提山を利用した彼らのお祭りでした。勝手に穴を掘っていたこともあったりしたそうです。
私たちが稽古している流派も何時どうなるかはわかりません。無雙神傳英信流に植田平太郎先生がおられなければ細川義昌先生の教えその物の居合は残りませんでした。徳島の貫心流も尾方郷一先生が入門されたときにはほかにはほとんど弟子がおられなかったということを梅本先生がお話しくださいました。澁川一流も澁川一流改空手版だけが残っていたり、澁川一流の手順に似ているけど何流か全くわからない流だけが残っていたかもしれません。・・・そもそも師事するという考えがない人たちにとっては口先は別として実際は自分を祭主にした流派にしたいだけですから・・・・。大石神影流は私が入門する前には免許皆伝の方が二人おられました。しかし、入門を許していただく前にお一人は亡くなられ、もうお一人は手術をされておられ稽古は全くされていない状況です。
古武道の流派も流派名は残っても求菩提山のように別の新興宗教が勝手にお祭りをしている状況にもなりかねません。正しい方法(広報)を考えていかないといつなくなってもおかしくない状況です。
- 2021/12/22(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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稽古を始めて年数がたち、形・手数も覚えなんとなく形を追うことがにできるようになると、これでいいと思う心の緩みができます。その緩みが頼まれてもいないのに後進にアドバイスしたり、道場の中で自分の地位を確保することに意識を向かわせます。そのような例を師の道場でも見ましたし、私が指導している道場でも経験してきました。
そのような方に共通しているのは自分はできているという奇妙な錯覚です。修行を自らやめているのです。私が課題を明示してもその課題に本気で取り組もうとはされませんでした。自分では8割9割はできているという意識であったのでしょう。道場に来ても自らの修業をしようと思えないのですから、意識が他の方向へ行ってしまうのも当然です。居合の師である梅本先生も、柔術の師である畝先生も、剣術の師である大石先生も高齢になられてからも求められていました。修行を続けられていたのです。私にも越えなければならない大きな山がいくつもあります。一つ越えたと思ってもその先にまた越えなければならないものが現れます。それゆえに自宅に自分自身の稽古場を設けました。
はっきりと自分が越えなければならない問題を持ちそれに取り組んでいけば必ず道は開けていきます。また会得したと思ってもその段階ではより小さなことが見えるようになっているため不十分なところが見えてきます。そのような意識を持っている限り上達が止まることはありません。
- 2021/12/23(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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初心者の域を脱し形の手順を覚えたら自分の動きの偏りを正していかなければなりません。理解が進んでいくにつれて正すべきなのは現象ではなくその元だということに気付きます。手首肘肩脇肚、表に現れた歪の原因はより奥にある事が多いものです。手首ではなく肘、肘ではなく肩、肩ではなく脇、脇ではなく肚。そこに気付けるようになったらある程度のレベルにあります。
さらに人には心の偏りもあります。成長する過程で、「焦って早く早く」という心の偏りがある人、「強引に力強く」「のんびり」「どんかん」・・・様々な傾向があります。この心の偏りによっても動きの偏りが生まれてきます。稽古がずっと進んでいけば心を正さなければならないと気づく時点があります。心の修業をしなければならなくなります。
- 2021/12/24(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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武道は心の修業のためにありますが、なぜか武道の世界で地位・名誉・名声を強く求められる方がいます。ひどい場合にはこれにお金が絡むこともあります。
何十年も武道の世界にいて感じることは武道の世界に地位・名誉・名声を求める人は実社会のなかで地位・名誉・名声を自分の思うように求められなかった人が多いということです。満足できなかったものを強引に武道の世界に求められているように思います。
居合の師梅本三男先生は晩年に「居合は自分が自分自身の修業のためにするもの。」と述べられましたが、弟子の中には地位や名声を強く求める人物がいました。柔術の師畝先生は「心の修業である」ということを述べられました。剣術の師大石先生は武道に地位や名声を求める者がいるということを考えてもおられませんでしたが、私が教えを受け始めた後に実際にそのような人物が近づいたときには関係を絶たれていました。
武道の稽古を何のためにするのかをしっかり考えておかなければ、とんでもない方向へ行ってしまいます。
- 2021/12/25(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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学ぶということは「まねぶ」ということだといわれますが、実際にはまねをしているつもりが、師の癖を真似していることがあります。特に芸能と異なり武道では相手には見えないことが良いので、初心者には本質は見え難く、見えやすい癖が印象に残ってしまいます。居合の師梅本三男先生は私が初心者の頃に「物真似は好きではない。本人の本質をとらえずに癖を真似しているから。居合でも物真似が多い。しかし本質をとらえることができるなら真似ではなく一流の人物になれる。武道は本質を学ばなければならない。」と教えてくださったことがあります。
師と言えども完璧ではなく癖を持ちます。その癖を真似してはいけません。初心者の方は本質は見え難いので自分ではこう見えるということは当てにせず、師の教えをよく守り、師の教えに忠実に稽古を重ねてください。
- 2021/12/26(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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武道の修業は狭い登山道を上って頂上へたどり着こうとするようなものです。各流派それぞれに登山道があり、道は異なります。異なった道を歩みそれぞれに頂上を目指します。流派によって初めに急峻な道を歩ませ、後がなだらかになるかもしれませんし、ずっとなだらかな道を時間をかけて登るかもしれません。それぞれです。
その狭い道から外れてしまえば道に迷ってしまいます。せっかく流派を学びながら自分の思うとおりに歩こうとして、道に迷う人も多いのですが、本人は道に迷っているとは自覚せずに自分の道を進んで堂々巡りをしてしまいます。道を踏み外さないようにこうしてはならない、ああしてはならない、こうすべきだという教えがあります。ここは右へ行ってはならない、あそこは左に入ってはならない、そこは走らずに足場を確かめながら歩むべきだという教えです。しかし教が耳障りな人もいます。そんなかたぐるしいことはどうでもいい、自分は褒められて伸びてきたんだという人もいます。今の時代は叱ることなく褒めて伸ばすのだという考えをもっている親も多いのですから。
流派を学ぶということは、道を踏み外さず、勝手に道を変えず、そのルートに従って頂上を目指すということです。したがって、ごく近縁の流派でもない流派に良い稽古法があるといってそれを取り入れたり、あの流派の形を学ぼうとしてみたり、あるいは頂上に至る前に二つも三つも同時に異なる道を上ろうとしたりすることが可能かどうか、よくよく考えれば答えは自ずから出てきます。
- 2021/12/27(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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大石進種次が実際に腰にしていた刀の長さはよくわかりませんでしたが、日本武道学会第52回大会で発表した『天保10年および11年の江戸における大石進種次の動向について』で用いた『昨七日今八日』(徳島藩士武藤左膳宣旬の記録)に下記の文章がありました。私はこれを、一括して竹刀の長さととらえていましたが「面々腰之物と刀ハ先三尺以上」というのはその前の「諸家剣術者共寄合ニ而先見及候所、殊之外長指南兵」と別に考えるべきなのではないかと思います。つまり、全員長い竹刀を用いていて、佩刀は鍔先三尺以上である。という解釈になります。
そうすれば以下の文章で述べられているのは大石進種次の佩刀のことで、「大石進種次の刀は特に長く、5尺以上あり、殊の外太くて丈夫である(抜いてみるわけにはいかないので外見でしょうけれど)、鍔の直径は六寸ほど、いわゆる野太刀である。」と解釈できます。身長に応じた刀・竹刀を用いるという自身の考えを文字通り実践していたことになります。大石進種次は身長7尺(210cm)ですので5尺3寸の長さになります。私が大石神影流の稽古に用いる稽古刀は身長に合わせて3尺です。柄・鍔・鎺などを合わせれば4尺1寸になります。
諸家剣術者共寄合ニ而先見及候所、殊之外長指南兵(ながしなへ)、面々腰之物と刀ハ先三尺以上、殊ニ中ニ而ハ立花様御家来大石進刀ノ長キ事五尺計、殊之外太ク丈夫、鍔之大サ六寸計、世ニ申野太刀と存候事ニ御座候 大石進の佩刀は自身で用いる竹刀と同じ長さであったことになります。大石進を批判するのに「実際に用いることは出来ない長さの竹刀を用いて勝負にこだわった」と言われることがありますが、実際の佩刀も竹刀の長さも変わらないということです。
久留米の加藤田平八郎は大石進種次より10歳年下であり大石進の影響を受けていたと考えられますが、千葉周作一門と試合したときに「自分の佩刀は三尺(総長ではなく刃)なので竹刀も同じものを用いている・・・」と述べ議論しています。
大石進種次の佩刀も明治時代に3代目の大石進(二代大石進種昌の孫)が東京で事業に失敗したときに武具甲冑古文書と共にすべて処分されているでしょうから、関東大震災、東京大空襲、さらには戦後のGHQによる日本刀の没収を生き延びている可能性はほとんどないと思います。大切なものは地元に残しておいて東京に出てくれればよかったのですが・・・。
- 2021/12/28(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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日本古武道振興会の現在の規約には入会に関して「明治以降に成立した流派及び復元された流派の入会は原則として認めない。」とあります。ずいぶん前の規約ではあやふやでした。新しい規約は新たに入会しようとする流派に関して適用されています。
日本古武道振興会の目的が規約には「本会はわが国の伝統文化財であり
武士道精神の発露である古武道の保存振興に務めるとともに生涯教育の一端を担い
人間の品性資質の陶冶及び青少年の健全育成、体力増進に寄し、わが国の伝統文化を次世代に伝えていくことを目的とする。」(下線筆写)とありますので、伝統文化財ではなく、また武士道とは直接関係がない明治以降に成立した流派や復元された流派の入会は認めないということと解釈します。
復元した流派であってもよく研究されていれば良いのではないかと考える方もおられると思いますが、復元は復元です。その人たちのベースにあるものが異なれば手順は同じものであったとしても復元する人ごとにその中身は異なってきます。ましてや心は全く伝わっていません。心が伝わっていないのに、いかにも師範然として「生涯教育の一端を担い人間の品性資質の陶冶及び青少年の健全育成」ができるのかどうか・・・。復元した人物がその流派に近縁の流派を徹底的に稽古して免許を得て後に文献の調査・解釈を重ね復元して教えているということは聞きません。しかも復元した人物は堂々と流派を名乗り指導します「○○流は・・・」と言い、「こうかもしれないものを教えます。」とは言いません。
心のないものを指導して広める人には「生涯教育の一端を担い人間の品性資質の陶冶及び青少年の健全育成」ができないと考えられています。武道から心を取ってしまえば価値はありません。一般の人たちの中に武道をする人を嫌ったり拒絶したりするのは戦う技術を身につけている心ない人物がいるからです。
- 2021/12/29(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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貫汪館では無雙神傳英信流抜刀兵法、澁川一流柔術、大石神影流剣術を稽古していますが、本質はすべて同じです。いずれの流派も特異な動きは一つもなく、高い身体能力がなければできないという動きもありません。偶然私が習った流派がそうであったのですが、ある人が言われたように導かれてそうなったのかもしれません。
いくつかの例を挙げると、無雙神傳英信流と大石神影流は構えたときの足の向きや斬撃後の後足の位置と向きは異なるものの手の内(刀の持ち方)は完全に同じです、また異なるといっても応用の範囲内で本質をつかめば異なると感じることはありません。澁川一流柔術の蹲踞による礼と大石神影流の折敷礼は表面上は異なりますが本質は同じです。無雙神傳英信流の礼と澁川一流の蹲踞してからの礼も異なることはありません。例としていくつかあげましたが、全く同じものを稽古しているという感覚がなければ、いずれの流派も中途半端で本質をつかめてはいないということになります。
また三つの流派の内いずれかが苦手だという意識があるときには苦手なのではなく、その流派の稽古が不十分なのです。もし十分に稽古をしてなおかつ苦手だという意識があるとすればほかの流派も自分が思っているようにはできていないと考えてください。問題点は共通しているはずです。
- 2021/12/30(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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今年も無事終えることができそうです。
さて年の終わりに一つだけ述べておきます。私の師が喜ばれたことです。師はめったに弟子を褒めることはありませんが、褒めるときは弟子の成長がうれしいときです。普通の上達は稽古中に10進んだら次の稽古のときに1残っていればよい方です。その1の積み重ねで上達していきます。10教えても次の稽古で0やマイナスということもよくあります。
私が居合の師である梅本先生に褒めていただいたのは、先生の抜付けの下半身の動きと上半身の動きを研究してある程度体得できた時でした。先生は他の年長の弟子たちに「森本君は自分で会得した。自分で会得したことは決して身を離れることはなく、忘れることはない。」と喜んでお話しくださいました。柔術の師である畝先生にお褒めいただいたのは、ある程度稽古が進んだ頃に見学者が来て、先生に履形から込入くらい迄の形を続けて演武するように命じられた時です。それまでは前回習ったことを次の稽古で演武して、良ければ新しい形を教わるという形式でしたので、続けて演武することはありませんでした。当時は年下の親戚と稽古していたので先生に稽古をつけていただいてからはその形を習得するためにほぼ毎日稽古しており、それまでに習った形は履形の礼式から続けて稽古していましたので90本くらいの形を続けて演武するのは難しいことではありませんでしたが、畝先生は、良く稽古していると満足されて来客の前で褒めてくださいました。剣術の大石先生に師事してからは剣術の手数は毎日一人稽古でした。1か月に一度か二度稽古をつけてもらいに大牟田まで出掛けるのが金銭的に精一杯でしたので、自分自身に妥協はできませんでした。先生は二度目の稽古のときも三度目の稽古のときも「よく稽古している。」とほめてくださり、復習をお願いしても「稽古してきているのはわかっているから新しい手数を稽古しよう。」といってくださいました。
私も先日、稽古に来られる方をお褒めしたことがあります。前回の稽古ではできていなかったことが、できるようになっていたのです。長い間の課題でしたが自分で克服しておられました。方向性は示してあるので、自分の「我」を入れず、教えに忠実に進むべき方向を目指して自主稽古してこられたのです。このような上達をするj方はなかなかおられません。こういう稽古をされれば上達は速やかなのです。無意識にでも「我」を入れず、示された方向に忠実に稽古を重ねます。
明日からはまた新しい気持ちで稽古してください。
- 2021/12/31(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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