以前も述べたことがありますが、武道の上達には演武以外の行動が大切になります。
例えば演武会に行ったときに他流派の方の妨げとなる行動はしていないか・・・自分の道具を置く場所は、他流派の方が行動する妨げになっていないかどうか。他流派の方と控室が同じときに邪魔になるような行動をしていないかどうか。
そのようなところまで考えて行動できるようになれば、上達していくことができます。
- 2019/02/01(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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無念流
清眼之構。突は不用。勝負を貪る事多し。其心得有へし。 天保7年に笠間泰尚によって記された『他流試合口並問對』の神道無念流に関する記述です。当時は1試合に10本くらいの勝負です。10本くらいの勝負というのは現代剣道の3本勝負ちうのとは大きく異なり、10回打ち込むという事です。1回打ち込めば、その打ち込みが決まるか、相手がそれに応じた技が決まるか、相撃ちになるか、お互いに技が決まらないかです。これを10回繰り返せば10本勝負になります。
現代剣道で1本を大事にしなさいというのはこの名残だと思います。
ところが古武道の先生であっても、上記のように決まろうが決まるまいが次々に打っていくのが本当だという方もおられます。このような考えは神道無念流の江戸時代のやりかたを踏襲しているのだろうと思います。幕末の神道無念流関係の記述では、打たれた後に、あと打ちをして、強く打ったとする記述が多いように思います。それが冒頭に記した記述なのでしょう。
- 2019/02/02(土) 21:25:00|
- 武道史
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自分の演武の写真を見ると、いやになります。そこに自分の至らぬところがはっきりと写し取られるからです。なんとか見れる写真があるなってきたのは最近のことでしょうか。
自分の写真を見て、うまくできていると感じているうちは自分自身が見えていません。自分の写真を見て、ここをよくしていかねばと思える人は上達していくことができます。
- 2019/02/03(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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刀や六尺棒、半棒を手にすればその重さを感じやすいので肩があがったり、腕力でそれらを操作していることを感じ、正すのは比較的簡単です。しかし、素手の柔術を稽古しているときは、手首を取ろう、柔を取ろうという思いが自分の体を忘れさせ、自分の体の重さを感じることができなくなってしまいます。
素手で稽古するときには、より繊細に自分の体を感じることが上達の早道です。
- 2019/02/04(月) 21:25:00|
- 柔術 業
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いずれの道も厳しいものですが、こと古武道はよほど稽古しなければ習得は困難です。また、教えることができるレベルに至ろうとしなければ道をそれてしまいます。
もともと、古武道は命を守るためのもの、換言すれば闘争の手段です。相手は自分よりも腕がたつと思わなければなりませんし、それに対応できる技を身につけなければなりません。そのための稽古は余程自分に厳しくなければなりません。また、教えることができるレベルに至ろうとせず、趣味なので・・・。と考えていて自分の思う通りに稽古したいと思っていたら、流派の枠から離れて自己流にしかなりません。形は流派の形のまねごとをしているけれども、流派の教えに忠実であろうとしないので、流派という立場から考えればいくら稽古をしても自己流にすぎません。
覚悟がある方だけが上達を続けます。
- 2019/02/05(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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昨日、上達できる人について記しましたが、自分でできる稽古は一日、1分でも、2分でも稽古することが上達につながります。
一人で稽古できる方法として澁川一流柔術には六尺棒を一人で廻す稽古法がありますし、居合(抜刀術)があります。無雙神傳英信流抜刀兵法には斬撃の稽古もありますし、素抜き抜刀術は全て一人で稽古できます。大石神影流剣術でも構えの稽古や素振りの稽古は一人でできます。
場所の制約がある方でも、膝立ちで動くことなく斬撃の稽古はできますし、素抜き抜刀術の抜打はできます。六尺棒を廻すのもその場でできますし、六尺棒が回せなければ三尺棒で稽古はできます。大石神影流の長い木刀を持つスペースがなければ小太刀をもって稽古もできます。このような稽古を一人で積む方は上達が速やかです。
道場はごく初心者は別として、そのような稽古に時間をとる余裕はなく、また、一人でできる稽古を道場で稽古させる必要もなく、当然稽古してきたものとして上級の稽古に進んでいきます。
- 2019/02/06(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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理兵法とは理屈ばかり述べて実技が伴わないことですが、特に初心者の内には理屈を考えて行うのは禁物です。沢山稽古をこなすうちに見えてくることがあるのに、理屈が先行してしまうと理屈に基づいて動こうとするために体が自然に応じるという事はなくなってしまいます。
指導者が陥りがちなのは自分は稽古を積んでそうなり、その後理が見えてきたにもかかわらず、初心者に理を説明してしまうことです。私の居合の兄弟子にもそのような方がおられました。師はそれを嫌っておられました。理を説明したがる方は自分が優れていることを後進に示したいのであって、本当に後進のためを思ってそうしていたのではないからです。
- 2019/02/07(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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師は道を示す者です、その師の前にあり、その師に道を示したのは師の師です。師に従った故に道が開け、師の教えに忠実であったゆえにその流派を会得した者です。守破離という言葉がありますが、流派を会得していないうちに破や離はなく、流派を会得していないのに自分なりの指導という事もありません。
澁川一流柔術では中極意で指導が許されますし、大石神影流剣術でも大石雪江先生は中伝で指導をしていました。また、無雙神傳英信流抜刀兵法でも中伝で門人を指導していた例があります。しかし、いずれも師の教えを受けつつ流派を会得しつつであり、そこに勝手な自己流の想いをさしはさんで教えていたわけではありません。
他流派で外国人指導者に関して時に問題となっていることが、支部長として支部の指導を任せたら勝手な自己の解釈、自己の想いで自分なりに流派を教えてしまう事です。そのようなことをしていたら流派を指導していることにはならず、流派を名乗っていても異なる事を教えていることになります。その流派を名乗っていてもその流派の指導者ではありえません。
- 2019/02/08(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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全て、流派には指導していく順番があります。無雙神傳英信流であれば、礼法ができ、歩くことができ、刀の抜き差しができ、斬撃ができて後に、大森流、そして太刀打、英信流表、詰合というように段階を追って稽古していきます。これをいきなり、太刀打から始めたり、奥居合から始めても無雙神傳英信流としての技は身につきません。
指導者は習得させることを焦らず、しっかりと段階を追って確実に指導していかなくてはなりません。稽古する方は指導者が自分のレベルを見極めたうえで指導しているのだと思い、先を焦らない事が上達につながります。
- 2019/02/09(土) 21:25:00|
- 居合 総論
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昨日は無雙神傳英信流抜刀兵法における稽古の順番について述べましたが、澁川一流柔術も同じです。履形からはじめて吉掛、込入、打込と進んでいき、四留くらいまで進んではじめて棒廻しを教わります。四留くらいまで進んでいなければ柔術で必要とされる体を養っていないために棒を廻しても、それは澁川一流柔術の棒廻しとはならず、たんに棒を廻しているにすぎないからです。
また、三尺棒や十手・分童などもおなじで、鯉口、居合(素手の)まで進んで後に形を教えられます。三尺棒や十手・分童の形、さらには鎖鎌も、素手の柔術の動きが身についてその延長として行われるからです。澁川一流柔術は、無雙神傳英信流抜刀兵法同様に全伝が残る柔術流派ですから、澁川一流柔術を身につけるためには時間はかかっても順番に従って稽古していく必要があります。
- 2019/02/10(日) 21:25:00|
- 柔術 業
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大石神影流も他の流派と同じです。全伝が残っている流派ですので、大石進種次が定めたように稽古して習得していくことが大石神影流の体得につながります。試合口、陽之表、陽之裏、三學圓之太刀、鎗合と決められた通りに習得していく必要があります。試合口が満足にできないのに、陽之裏や三學圓之太刀を稽古しても無意味ですし、陽之表も習得できていないのに槍合を稽古しても真の上達はなく真似事をしているだけになります。
本当に身につけようとすれば、時間はかかっても定められた通り、地道に習得していくことが早道です。
- 2019/02/11(月) 21:25:00|
- 剣術 業
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武道の競技化をすすめることは個性の喪失につながります。現代剣道や柔道(講道館ではなく戦前戦中の武徳会の柔道)にみるように流派がなくなってしまいます。また、なくならなくてもその内容が共通化して、個性がなくなってきます。
同一流派内で大会を開き、競技を行って順位を決めて、表彰していっても同じことが起こります。同一流派内であれば価値観は同じですが、その中に含まれる幅がなくなってしまうのです。同じ中伝といっても、ある程度の技術的な基準を満たしていれば、人により思いやりがあり気遣いができることを評価すべきこともあれば、道場の運営に寄与していることを評価すべきこともあれば、普段の隙のない動きを評価すべきこともあります。流派内で競技をして、それを絶対的な価値観としてしまうと、技術的な面だけが評価されるようになるので、その他の部分は評価されなくなります。そういった意味で、競技を絶対とすると同じ流派内であっても流派の硬直化を招いてしまいます。
- 2019/02/12(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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武道の競技化が進み、競技で上位の成績を残した者が過大に評価されると、その人物の人間性はどうあれ、上位の成績を残したものが組織内でも、その発言の影響力が強くなり、高い地位に就くようになりなります。そのような例が現代武道の団体にも散見されます。
しかし、『武道憲章』には
「(目的)第一条 武道は、武技による心身の鍛錬を通じて人格を磨き、識見を高め、 有為の人物を育成することを目的とする。」
「(試合)第三条 試合や形の演武に臨んでは、平素錬磨の武道精神を発揮し、最善を尽くすとともに、勝っておごらず負けて悔まず、常に節度ある態度を堅持する。」
「(指導)第五条 指導に当たっては、常に人格の陶冶に努め、術理の研究・心身の鍛錬に励み、勝敗や技術の巧拙にとらわれることなく、師表にふさわしい態度を堅持する」
とあります。
現状はどうでしょうか?現代剣道にあっては、競技化の悪弊はないと思うのですが、競技で上位であった人物の影響力が強いのでしょうか・・・?
- 2019/02/13(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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古武道の存在すら知らない人たちが多い中、古武道が現代武道と違うところは何なのかを知っていただくのは大変難しいことです。武道を知らない方は現代剣道が古くから伝わるものと思い、現代柔道もまた古くから伝わるものと思われています。時代劇の知識が多少ある人に対しては現代剣道や現代武道には〇○流という流派名がないでしょ。」とお話しすると、現代武道と古武道の違いがなんとなく分かるようです。
多少古武道のことを知っている方でも柔術は乱暴な危険なものという認識であったり、居合は物を斬るのが居合だと思ったり、剣術も時代劇のイメージで、形稽古のイメージがわかなかったりします。また、少し知っている方であってもなぜか古武道ではない創作武道の身体操法をイメージされる方もおられます。
体験会を開き、古武道の体験をしていただくとイメージが変わるようなのですが、人に来ていただくことも難しい状況がります。さてどうするか。
先日、歴史が長く、時代小説などでも登場し、時代小説を読まれる方ならだれでも知っていると思われる流祖を持つ流派で、その家で室町時代から剣術を伝えておられる方とお話ししましたが、稽古される方が10名であるということでした・・・。
- 2019/02/14(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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長年身につけてきた癖の上に新たなことを身につけようとするのは無理なことです。新たなことはこれまで行ってきた事とは異なるにもかかわらず、自分で身につけた癖の上に新たなことを構築しようとすれば、外見は似せていても、それはしょせん偽物にすぎません。癖を捨て去ることが上達につながります。
- 2019/02/15(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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無理無駄をなくすことと腑抜けることは全く異なっています。無理無駄をなくすとは、しっかっりしたものがあった上で不必要なものをなくしていくことです。腑抜けてしまうのは、しっかりしたものも身につけていないのに、無理無駄をなくしているように見せかけようとするときに起こります。
稽古が浅い人はしっかりとした稽古を心掛けなければ、腑抜けにしかなりません。
- 2019/02/16(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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道場には流派を本気で会得しようとする人と、趣味で上達できればいいなと稽古しようとする人と、何かしてみようと思ってくる人たちが混在します。場合によっては、古武道を稽古することを自分のステイタスにしようという変わった考えの人も来ます。その中で指導者は指導していかなければなりません。
それ程熱心でない人は形・手順を覚えただけで、上達したと思うでしょう。指導者がそこで「良し」として次に進んだら、本当に会得したいと思っている人も勘違いをしてしまいます。かといって本当に会得したいと思っている人に対する指導のレベルに合わせて、教えていたら、いつまでたっても先の方には進めません。いずれにしても難しい問題が起こってきます。
本当に会得したいと思っている人が、週に四日すべて稽古に来ることができればよいのですが、それも現代人には難しい出でしょう。指導するのも難しい時代です。
- 2019/02/17(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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江戸時代の刀装具のデザインは調和があり繊細で心を和ませてくれます。このような刀装具を自ら選んで用いた人達の心を思う時、およそ殺伐とした心の持ち主ではなかったであろうと思います。
好んで用いる刀装具ですから自ら選んだ刀装具と同じような、繊細で穏和な人たちが多かったのではないかと感じます。
- 2019/02/18(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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心惹かれる刀装具のデザインは限られている空間の中で、調和を保って表現されています。狭い空間ですから少しでも調和が乱れていると見るに堪えません。
武道の動きも同じで、素人は調和が乱れた派手な、あるいみ暴力的な動きを好むこともありますが、調和を保った無理無駄がない稽古をする人が私たちの流派では上達していきます。
- 2019/02/19(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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澁川一流柔術の受け身は捕の技に従ってダメージをやわらげるように受けるだけで、ことさら回転したり、自分の動き安いように方向を変えたり、自らとぶような意図的な受身はありません。
受けは常に捕の動きに従って捕の動きを感じながら受身を取ります。澁川一流柔術では意図的な受身をしていたら、最後に習う「裏形」の習得への道は閉ざされてしまい最終的なレベルに至ることはありません。工夫して上達してください。
- 2019/02/20(水) 21:25:00|
- 柔術 業
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貫汪館の古武道は無雙神傳英信流抜刀兵法、澁川一流柔術、大石神影流剣術すべてに相手とのつながりが必要です。相手との和ということもできます。相手とのつながりがなければ、こう来たらこう、ああ来たらこうというように動きは全て途切れて、自分(エゴ)が中心の動きとなってしまい、我儘な動きとなってしまいます。
相手と動きのつながり、和があれば相手とは別物ではないので、そうなるべくしてそうなり、意図しなくても理にかなった動きになります。
- 2019/02/21(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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以前も述べたことがありますが、武道の集まりで集合写真を撮るときには、おのずと自らの立ち位置という物があります。
同じ流派内であれば、先生は中央、そのそばには高弟。その周りにその次の門人たち、後列がある場合にも先生の後ろに来るのは前列よりも序列はおくれるけれども後列では高位にある者。
違う流派がいくつか集まっている場合には、難しいのですが当然、他の流派の宗家・代表で年齢の高い方が中央、その周囲にそれに次いで年齢の高い流派の宗家・代表となります。その流派の門人もそれにしたがいます。
自分の流派がホスト・主催である場合は当然のことですが、自分たちは周囲に位置します。
私は自分自身の修業を通じて兄弟子や先生の動きを身ならってきて、当然のこととして身につけました。しかしこのような当然のことが、当然でない人たちもいるようで、我先に中央で移ろうとする人もいます。こういう集合写真で並ぶ位置にも心を配ることができれば上達していきます。
- 2019/02/22(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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大石神影流の稽古が三學圓之太刀まで進むと防具着用稽古をはじめなければなりません。大石神影流の防具着用稽古は現代剣道と異なり、江戸時代の形を踏襲していますので、打込んでも余勢を用いて向うへ抜けていくという現代剣道の動きをしません。また、何度も打ちあってまだ1本にならないということもありません。一度撃ち込めば区切りがつきます。したがって、中年以降でも防具着用の稽古は十分に可能です。
防具はある程度の値段がしますので、稽古を始めたらお金を貯めはじめるか、不要となっている防具を譲り受けるように努めてください。
- 2019/02/23(土) 21:25:00|
- 剣術 総論
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稽古の時も、また演武の時はなおさら、打太刀が真剣勝負のつもりで、気を満たせ、隙なく構えて打ち込まなければ、仕太刀や仕方の働きは中途半端になります。打太刀の心や動きは仕太刀や仕方に反映するからです。
打太刀を上位者がつとめるのは万が一の時に対応できるからで、自分が上位者であることを示すためではありません。打太刀打からといって自分が上位者だというおごりを以て遣えば双方の上達はなく、反対に打太刀が打太刀を真剣に学ばせて頂いているという心で稽古すれば双方が上達します。
- 2019/02/24(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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古武道では号令に合わせて斉一な行動をとる練習はしません。しかしながら演武会などで入退場がそろったり礼がそろうのは日頃から相手とつながり、和をたもつ稽古をするからです。和が保たれていれば歩幅や右左足をそろえなくても、全員の動きに統一性がありますし、また、そうでなければ、まちがった稽古をしていることになります。
- 2019/02/25(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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武道における縁は確実に存在し、私の場合は居合の師、柔術の師、剣術の師とは師事すべくして師事し、また私の中で三人の師にひとしくお仕えでき、技も全く三つの流派に違和感はありませんでした。学ぶべくして学んだといえることです。さらに言えば航空自衛隊を退職してからの銃剣道の旧軍時代から稽古を続けておられた先生方とその技にも全く違和感がなく古武道と同様に学ぶことができました。現在の銃剣道と異なり、その当時の先生方の銃剣道も短剣道も実際に戦場で生き抜くためのもであったからだと思います。
今までの人生の中で、私は師に恵まれてきました。私の経験から、正しく求めれば縁は結ばれるものだと思います。反対に正しく求め続けなければ、縁は断たれるものかもしれません。
- 2019/02/26(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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日本古武道振興会や日本古武道協会に加盟させていただいてから、尊敬し、お世話になっている他流派の先生方は私が他流派の者であるにもかかわらず、立ち居振る舞いや演武の在り方など、さまざまなことを教えてくださいました。
ある先生は、「今は少なくなったけれど、以前は他流派の自分自身よりも若い方に教えてくださる先生方が多く居られたものです。」といわれて、教えてくださいました。そのころすでに柔術の師も居合の師もお亡くなりになられていたので、とてもありがたい事でした。
そして今も折に触れ他流派の先生方が私に教えてくださいます。いつか私自身も恩返しとして後進の方にお話しできるような内容を身につけていかなければならないと思っています。
- 2019/02/27(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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無雙神傳英信流抜刀兵法の英信流表や奥には、浮雲や棚下のように、できるレベルに達しなければ身体的にキツイ形があります。
このような形を稽古し始めたら、難しくなかなかできないため、形を崩して如何にもできているかのように見せかけたり、脚力がある人は筋力に任せて体を保持し、できたように見せかけることがあります。このような見せかけの動きをしていたら本質は身につかず、それ以後の形も正しく身につくことはありません。稽古を重ねて正しく動けるように、無理なく自然に、筋力に頼ることなく、その形で求められることができるように工夫を重ねなければなりません。焦らず、正しく素直に稽古することが上達につながります。
- 2019/02/28(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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