武道にも様々な団体があり、古武道だけでも大きな団体に日本古武道協会と日本古武道振興会があります。私が中学生の頃の中学校の剣道の指導者は学校外の方でしたが、七段ということでした。しかし、しばらくたって、その当時大日本武徳会という、戦前戦中の大日本武徳会とは異なるものがあり、その剣道の先生は大日本武徳会の七段で全日本剣道連盟では五段だということがわかりました。その先生の師であった白石元一先生が戦後の大日本武徳会に軸足を置いていたからということのようでした。その先生が指導する中学校の生徒には全日本剣道連盟の段位を受けさせていました。そのころ、他の中学校の生徒で二段だという生徒がいましたが、やはり大日本武徳会の段位だということで、今後はもう、大日本武徳会の段位は受けないといっていました。
20年くらい前に銃剣道の稽古を一緒にしていた剣道の先生に大日本武徳会に軸足を置く方がおられました。事務局をされていたようで、「新たに入会する人の古武道の段位はどうやって決められていますか?」とお聞きしたことがあります。「入会のときに申請書に書いてあることがすべてなので、それを信じて段位を発行しているから、いきなり八段ということもある。」というお答えでした。
武道の団体は多くあり、外部の人にはその実情はわかりません。
- 2020/10/01(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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海外には日本のことがなかなか正しく伝わりません。武道においてもそのような傾向があると思います。
昨日少し触れた戦後の大日本武徳会についても「皇族が総裁を務めているので、日本で最も権威がある正当な古武道の団体だろう。」ということを海外の人から聞いたことがあります。
居合に関しても「全日本剣道連盟が制定した居合なのだから、その基礎基本はどの流派にも共通したものだろう。」ということを聞いたことがあります。
はなはだしいのは最近作られた、創った流派であっても、剣術があり、居合があり、柔術があればKORYUだという考え方を聞いたこともあります。またなぜか、古武道という言い方よりも古流という言い方がポピュラーであったりもします。
どうしてこのような知識が広まったものでしょうか。日本での滞在歴がなくて日本語の読み書きができない人にそのような傾向があるように思います。
- 2020/10/02(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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海外でのある人の考え方で理解できないと思ったことに、このようなことがあります。
自分の先生が日本から指導に来ても自分は支部長なのだから日本からきた自分の先生と自分は対等である。 先生の前では自分は一人の弟子であるという態度はとれないのです。自分は弟子を持っているのだから先生と対等なのだという不可思議な理論です。したがって、道場で先生から自分が指導されることは自分への屈辱であると考えるのです。
このような考えの人もいるのだと思っておかなければなりません。
- 2020/10/03(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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稽古では文字や言葉の奥にあるものを会得することが上達につながります。ある程度のレベルに達した方は、師が何を伝えたいのかを文字や言葉を通じて感じ取ることができますが、そうでなければ文字や言葉だけで理解したと勘違いしている場合がほとんどです。
特に欧米人は理論的なためかもしれませんが、文字に書かれたことで理解できると思う傾向が日本人よりも強いように思います。また、この段階の人にはこのように指導し、さらに進んだ人にはこのように指導するというように指導を変える事にも混乱してしまい。前はこのように教わったと文字や言葉に居ついてしまう傾向があります。
- 2020/10/04(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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昔から武道を商売道具として用いることはあったようで『五輪書』にも
世の中を見るに、諸藝をうり物に仕立、わが身をうり物の様に思ひ、諸道具に付ても、うり物にこしらゆる心、花實の二つにして、花よりも実のすくなき所也。とりわき此兵法の道に、色をかざり花をさかせて、術をてらし或ハ一道場、二道場など云て、此道をおしへ、此道を習て利を得んと思事 と記してあります。貫汪館で稽古している無雙神傳英信流・澁川一流・大石神影流は「色をかざり花をさかせて」ということがないので、売り物にはなりません。本部もそうですが、各支部長もむしろ自腹を切って指導している状況です。売り物にしようとしたら、外側を飾り立て、素人の方の気を引くようなことをしていかなければなりません。
本質は変化させずに、飾り、花を咲かせているだけだと思っていても、人は自分が行っていることに影響を受け、やがて本質も変化していきます。難しいものです。
- 2020/10/05(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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無雙神傳英信流の師 梅本三男先生は私が高校生の頃「昔は物事の道理がわかる人が千人、わからない人が千人といったけれど、今は物事の道理がわかる人は百人中一人くらいです。」と武道に関してお話ししてくださいました。その頃で百人中一人ですから、今はもっと少なくなっているのも知れません。
武道に関して道理がわからない人たちはインターネットの画像や動画を見たときには、いかにも華やかで力強く、派手なものに惹かれます。またもともとそうでなかったものも、集客を考えればそのような広報をしていった方が得になり、やがて本質も変化していきます。
正しく伝えるのはむつかしいものです。
- 2020/10/06(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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貫汪館で稽古している流派にはいずれも基礎があり、それを体得せずに先に進んでも外形ばかりで似ていることはしていても中身が全く異なるものしかできません。内側から出来上がるものが外形であって外形を作ってしまうとそこから離れられず、いくら外形を正したとしても内なるものが理解できていないため、形を変えたにすぎず、自由にもなれません。
無雙神傳英信流であれば初めに習う歩み方、刀の構え方、礼法、これらが型の基礎になります。これらの稽古をしっかり積むことによって何が良くて、何がいけないのかが体でわかるようにしていきます。内側の感覚を養うのです。
澁川一流では礼式と履形がそれにあたります。履形は技の手順の基礎を養うのではなく、無雙神傳英信流と同じように履形の稽古によって内側の感覚を身につけます。それなくしてはそれから先の形を習ったとしても、外形だけが身につくだけで、手順を知っているにすぎません。基礎が身についていれば指導された内容も理解できるようになります。
大石神影流しかりです。初めに稽古する構えや素振り、さらに試合口で基礎が養われていなければそこから先は手順を身につけたというだけに終わります。
基礎なしでは、砂上の楼閣になってしまいます。
- 2020/10/07(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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大石神影流には片手で刀を用いる手数があります。片手で刀を用いれば両手で用いるような速さ・重さ(両腕・両肩の重さを含めて)が生まれがたいのは手数の経験から体感しておられると思います。
だからといって、いわゆる鍛えて筋力を増強して両手の動きに負けないようにしようという考え方を流派はとっていません。片手で不足するものを理で補おうとしています。手数の中で片手で刀を用いるのはどのような状況で、どのように動くべきなのかをしっかり考えて稽古してください。
- 2020/10/08(木) 21:25:00|
- 剣術 業
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まじめに稽古している状態のというのは、毎週稽古のために道場に顔を出すということだけではなく、求めるべきことを求めていることを言います。たとえ2週間に1度しか稽古に来れなくても、自分に与えられた課題に真摯に向かい合って課題を解決すべく稽古している状態はまじめに稽古しているといえます。しかし、稽古していても自分の課題を解決しようとすることもなく惰性で行っている状態は真面目に稽古しているとはいいがたいものがあります。
- 2020/10/09(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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大石神影流の竹刀や刀は長いという印象がありますが、大石神影流で用いる竹刀や刀の長さはだいたい乳通りまでのものを用います。大石進の考えで、これ以上長いものを用いると、大石神影流の技を用いるには支障がある場合があるということです。
無雙神傳英信流には厳密な規定はありませんが大体身長の半分程度の刀を用います。腕の長さ足の長さなどによっても異なりますので一概には言えませんが無雙神傳英信流の抜付けをするにはこの程度の長さが相応ということです。身長170cmであれば2尺8寸程度ですし、身長180cmであれば3尺弱位ということになります。
大石神影流でも無雙神傳英信流でも比較的長めの刀を用いますが、自分に合わない刀を使えば正しい業は身につきません。心に偏りがあれば、大石神影流を稽古しても無雙神傳英信流を稽古していても、重く、長いものを使えるということを誇りたくなるものですが、私たちの流派では、その思いは自分自身の上達を阻害してしまいます。
- 2020/10/10(土) 21:25:00|
- 居合 総論
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渋川一流柔術の師 畝茂実嗣昭先生の手の内については何度も述べていますが、理解が進んだ方の中には居合をしっかり稽古すれば手の内がわかるようになる。柔術だけ稽古していた時にはわからなかったといわれる方がおられます。
柔術は力が並外れて強い方であれば同じようなことを腕力で行うことができますが、普通の方が本当の技を会得しようとすると腕力でとはなかなかいくものではありません。しかし初心者は技がわからないので腕力に頼る傾向があります。居合の稽古をすることによってその間違いを理解し始めます。
- 2020/10/11(日) 21:25:00|
- 柔術 業
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大石神影流で多用する突き技は面への突きです。大石神影流以外の流派の防具は喉の突垂もその後方の用心垂もないことから、その当時は他流試合では面を突いていました。
大石進種次は牛が引く犂を余興に自分自身で引いて見せたと伝わっていますから身長だけでなく力も強く、来嶋又兵衛の日記にも稽古後に相撲を取った時の記録に「大先生、大力〵中々立突候もの無座侯事。」とあります。しかし、大石進種次が試合のときに相手を痛めつけたという記録はなく、長沼無双右衛門との試合も長沼の面が不備で長沼が負傷していますが、力技であったわけではありません。
今は負傷を防ぐため突垂をついていますが、力任せに面金を突けば、相手を負傷させることにつながりかねません。防具着用稽古をするときには繊細な技を心がけてください。
- 2020/10/12(月) 21:25:00|
- 剣術 業
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真剣や木刀、六尺棒や半棒を取るときの手の内、さらには澁川一流柔術の手の内の柔らかさは猫をなでるときの柔らかさと表現すれば理解できるでしょうか。
- 2020/10/13(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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お世話になっている香川大学の山神眞一教授の『役に立つ少年剣道指導法』は昨年フェイスブックで御紹介しましたが、この中から古武道に通じるところをについて触れさせていただきます。
海外で剣道を始める理由で多いのが、日本の伝統文化としての剣道の持つ神秘性であり、精神性である。熱心な海外の剣道愛好家は、私たち日本人以上に日本文化に大きな興味関心を持っており、日本の歴史や文化をよく知っているのである。私たち日本人は、今一度日本の伝統文化としての剣道をみつめ直す必要があると思う。さらに言えば文化の伝承としての剣道指導の重要性を問い直さなければならない。 そのまま古武道に当てはまる内容です。古武道を稽古する日本人が古武道に関する歴史や文化を知らなければ伝えることはできません。また、日本人がそれらをしっかり学べば、道を踏み外すことはないと思います。
ただし、剣道では「日本の伝統文化としての剣道の持つ神秘性であり、精神性」に興味をもって始める方が多いのかもしれませんが、古武道の場合に注意しなければならないのは、アニメ等の影響によるコスプレ感覚です。日本文化を深く学ぼうとするのではなく外形のみにあこがれる、極端な場合には商売にするという考え方がありますので、注意しなければなりません。いかにもという派手な動きにあこがれて、流派の動きを変えようとする者もいます。
- 2020/10/14(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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国際化の問題点についても記してあります。
一方、剣道だけでなく、武道の国際化に関して,必ず問題となるのが、その国の宗教や生活習慣、固有の文化との関係であり、理解の仕方である。たとえば、剣道で重視している礼法すなわち、道場への出入りの際の礼の仕方や道場への礼法、さらには、先生や先輩への礼や上下関係など、日本人にとっては、不思議とは思わないことであっても、海外の人にとっては、礼の意味や日本人の考え方を説明せずに、押し付け的に指導すると、国や地域によっては、大きな誤解や摩擦を生じることがある。先に述べたように海外で剣道を始めるきっかけとしては、日本の伝統文化としての神秘性や精神性が理由の大半を占めているが、具体的な礼法や作法については、当該国の文化を理解する必要があるとともに、日本の伝統文化としての剣道の魅力を再認識し、説明できることが必要不可欠となる。
私たちの場合は神前での礼法や刀礼、また奉納演武などは一神教の宗教心の強い方には無理があるものと思います。幸い、公共施設の場合には神棚もありませんので、なんとかなりますが、神社での奉納演武はどうにもなりません。また師弟関係についても、心のつながりととらえず、たんに技術の習技者と考える人もいます。技術を得たのだからその技術を与えて段位を発行するのは自分の自由と考える者もいます。他流派にも、勝手に段位をだす外国人が破門になった例をよく聞きます。また、細心の注意を払って入門させても初めから欺くつもりの人もいます。
貫汪館では外国人修行者には日本文化を理解するために日本語を学ぶことを勧めています。
- 2020/10/15(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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剣道場で人集めが順調に言っている道場についての記述もあります。
①口コミを会員の義務とすること。ただし、勧誘活動は強制ではなく、会員の満足に応じて、口コミが大きな威力を発揮する意ことを説明し、理解してもらう努力をしているようである。 ②チラシを配る。チラシには、その地域で受け入れられやすい内容を詳しく説明し、全国大会出場などの強さのアピールは控え、だれでも入りやすいイメージを重視した内容にする。 ③募集イベントを行う。自然な形で剣道を体験、見学してもらうように計画する。駄菓子くじ引き大会、お餅つき等、体験時におもちゃの刀をプレゼントする。ほかにもしょぷ学校入学式に剣道衣姿でチラシを配ったり、4月だけでなく学校に慣れた5月中旬に募集イベントをする党、様々な角度から募集活動をしている。そして募集の特典・活動内容として、1か月無料体験、入会後、竹刀1本プレゼント、素振り・足さばき習得後、道義・袴プレゼント、半年経ち、続ける意思を確認後、小学生は防具一式プレゼント・・・ 口コミの有効なことは理解できていますが、稽古している方に協力をも求めることが難しく、これまで本部道場では口コミで集まった人は皆無といってよいでしょう。なにしろ、一般の方は剣術という言葉を知らず「剣道???「」となります。「アニメなどで、○○流というのがそれです。」と説明しても、そのイメージが現代剣道と結びついているくらいですから、説明そのものが困難です。柔術しかり、古武道としての居合しかりです。無雙神傳英信流には二人で行う形もありますと言ったら「居合なのに???」と怪訝な顔をされる方もいます。一人で刀を振るのだからある意味自分勝手に稽古ができると思われていたようです。
チラシは配っていますが、そもそも一般の人にとっては現代剣道や、現代柔道を江戸時代の武士が行っていたものという感覚ですから、チラシを見て少しでもわかる人はすでに何らかの古武道の知識がある人です。
言い方は悪いのですが、物でつることは大きな赤字がある本部道場には無理なことです。これまでにも私の居合刀をあげたり、木製の懐剣をこしらえてあげたりしていますが、効果はありません。もらえるのは大したものではないからだろうと思う人が多いようです。少年剣道の場合には長期間続かないという前提でもそのようなことができる財力があるのかもしれません。
募集については各支部とも苦労していると思いますが、若い方にアイデアをだしてもらってください。
- 2020/10/16(金) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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指導者の仕事はとして五つの項目が挙げてあります。開設の部分を省略して五つを抜き書きします。
①「やる気を引き出すこと」
②「魂を揺さぶるような言葉を持っていること」
③「ヘルプよりもサポートを」
④「子供の伸びない理由は、指導者にあるということ」
⑤「指導者自身が子供の良きモデルとなること」 ①は古武道には試合がないためにかなり難しいです。試合で優勝することがやる気を起こさせる大きな動機付けになったので現代武道では小学校の低学年から優勝者を決める試合があります。それが良いか悪いかは別としてやる気を起こさせる大きな魅力の一つになっています。古武道にはそれがありません。理想的な話は抜きにして現代武道から小・中・高校生、そして大学生から一切試合・大会をなくしてしまったらどうなるかを想像してください。古武道ではそれに代わるものを見つけ出さなければなりません
②は古武道は歴史が長いのでいくらでもあります。現代剣道でもそれらの言葉が用いられています。
③はその通りです。自ら伸びようとする者に自ら解決させます。そのためには指導者は「待つ」ことができなければなりません。
④もその通りです付け加えることはありません。
⑤は指導者にエゴがあれば難しいと思います。子供たちに尊敬されたい、素晴らしいと思われたいというエゴです。かつて澁川一流柔術で意治稽古の一つとして、「子供に木製の懐剣を持たせて突かせ、切らせてください。それを指導している者が捕り、次に子供を突いていき、子供に取らせてください。」とお願いしたことがありますが、結局行われませんでした。子供であっても木製の懐剣で自由に突き、切ってきたら捕るのはむつかしく、子供に恥をかかされたくないという思いが働いたのです。素手と素手であれば体格差があるので子供はどうにもなりませんが、刃物を持てば大人に触れることは可能になります。「子供の良きモデルとなる」というのと「子供にすごいと思われたい」というのでは大きく異なります。
- 2020/10/17(土) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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『役に立つ少年剣道指導法』には「◎本物になるための心得が記されています。」私たちが日々行わなければならないことで実践されていることだと思います。抜き書きしておきます。
一、剣道を学ぶとは心を磨くことと心得ること。相手を通して自分を見つめることや反省し感謝することを怠らないようにする。
二、大きな目標、身近な目標を常に意識すること。
三、苦しいことを避けない、安易な道を選ばない、いかに自分を高めるかを考える。
四、相手に勝つことよりも自分に克つ心構えが重要である。
五、常に上手にかかる姿勢が基本となる。鍛えてくれる厳しい相手を自ら求めること。
六、礼儀作法が日常生活できちんと実践できること。
七、稽古は、道場だけでないという意識を持つこと。 一は言うまでもないことですが古武道を修行ととらえるか、単に争いの技術ととらえるか、はたまたコスプレの一種と考えているのかによって全く異なります。
ニの大きな目標は私たちであれば修行ということでしょう、求めても求めてなかなか会得できるものではありません。身近な目標は演武会ということになるでしょうか。演武会の前には演武する形・手数を自分の中で最高のものにすべく稽古していきます。とはいっても自己満足ではいけません。何を求められているのか、求められていることができているのかを考えながら稽古することが大切です。
三は自分にとって難しい形・手数があったとしても「自分はこれでいい。」と思わないことです。そう思ったときには停滞や下達しかありません。
四では古武道には試合や優勝者を決める大会はありませんので、現代武道でいうような相手に勝つという目標設定はできませんが、自分に克つ・勝つということは大切です。たとえば居合であれば自分自身が刀を抜いて斬りかかってきたときに対応できるかどうか。また、柔術であれば自分自身が刀をもって斬りかかってきたときに対応できるかどうか。剣術であれば自分自身が刀槍や薙刀、鎖鎌や六尺棒をもって対峙したときに対応できるかどうかを考えてください。容易なことではありません。
五では現代剣道では防具着用の稽古が主体ですので、容易に実行できますが形稽古が主体であれば常に上位者から学ぶ姿勢を身につけてください。なかなか上達しない人は自分にばかり目が行き、上位者から学ぶ姿勢にかけています。
六の礼儀作法は当然のことです。礼儀作法がなければ常に争いの危険があります。礼儀作法と武道はつながっています。
七の稽古は道場だけではないということは常にお話ししているとおりです。また大会で優勝することが目標ではない古武道では日常生活のために稽古しているといっても過言ではありません。何か起こるとすれば日常生活の中で何かが起こるのです。
- 2020/10/18(日) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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礼法に関しては以下のように記されています。
立礼、座礼は、礼法の基本である。武道における礼法は、まさに禮の意味合いを示すあいさつであり、儀礼ではなく心を込めて相手に挨拶をするということである。したがって、剣道の指導等では、律令における人と人とのあいさつの状態の角度は15度程度といわれ、外形の大切さが強調されているが、さらに重要なことは、相手を尊重し相手の目を見てお辞儀することではないだろうか。
愛情深いまなざしをもって、相手と向き合い、相手を尊重した礼法を心がけていきたいものである。
「相手を尊重した礼法」ということが強調されていますが、心のこもっていない挨拶ほど無意味なもの、かえって相手に疑念を抱かせる元ともなりかねないものはありません。
私は無雙神傳英信流の師 梅本三男先生に高校生の頃、刀礼に心がこもっているかどうかを聞かれたときに得たことがあります。また、ある時、日本古武道振興会の常任理事にしていただいた後に、それまで何の縁もなかった、むしろ私たちの演武を嘲笑したとも受け取られかねない行動をしていた古武道関係の方から、突然、挨拶されたことがありました。その挨拶には禮とは異なった意味合いがあるということは見えていました。
心のこもらない、相手を尊敬していない礼法は、修行とはかけ離れたものだと思います。
- 2020/10/19(月) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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あとがきにこのように記されています。
この連載(註;月間武道の連載を書籍化されたのが『役に立つ少年剣道指導法』)
のお話を恩師・上田一先生(剣道範士九段・香川大学剣道部名誉師範・平成二十四年四月二十六日逝去)に「ご相談したところ、それはぜひお受けして、勉強するようにと背中を押していただきました。 山神先生ほどの方でも、その師から「お受けして、勉強するように」と話され、行動に移されています。 貫汪館の各支部長はそれぞれホームページに自分の考えをかけるページを持っています。日々の稽古の気づきをまとめていけばやがて自分の考えをまとめることができるようになり、それが後進の指導にも役立ってきます。ぜひ続けていただきたいと思います。
- 2020/10/20(火) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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流派の体系は上達させるための教育の方法です。一つ一つ最初から会得していくことが上達につながります。
形・手数はその手順を正しく自由にできるかどうかという与えられた課題ですので、その課題を解決せずに次の形・手数、次の形・手数と求めていくのは砂上に楼閣を作るようなものです。基礎がないだけではなく柱すらありません。
その形や手数が正しく自由にできているかどうかは師匠が教えるところでもありますが、自分自身も判断できなければなりません。それを知るために無雙神傳英信流・澁川一流・大石神影流にはそれぞれに形・手数の稽古に入る前に会得すべき教えがあります。その教えを会得しておけば自分が形・手数を正しく行っているかはわかるようになっています。自分自身で気づき正していけるのです。
人によっては知っている形数を誇り、その内容には頓着しないという方もありますが、貫汪館では流派の形・手数のシラバスを正しく修めていくことが上達につながります。
- 2020/10/21(水) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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無雙神傳英信流の師 梅本三男先生を補佐しておられた方に森潔(きよむ)先生がおられました。森先生は梅本先生よりも年齢は高く、また、陸軍幼年学校から士官学校を出られ、戦時中には陸軍の将校として大陸におられました。すでに記したかもしれませんが、白兵戦ではその経験から鉄兜の下の横面に斬り込むのが有効だから、剣道の稽古でも横面の稽古をするようにと私が剣道を習った弟の努先生に指導された方です。大戦末期には本土決戦のために東京近辺の部隊に呼び戻された優秀な方でした。
森潔先生は梅本先生を師とされ、よく仕えて道場の様々なことを自らしておられました。梅本先生の徳であったかもしれませんが、森先生の人格によるものであったと思います。波平の刀を持っておられました。私は梅本先生から森先生のあとをついで道場の事務局長に指名されましたが、森先生のようには十分に梅本先生にお仕えできなかったことを後悔しています。
森先生のような方をみることはなかなかありません。
- 2020/10/22(木) 21:25:00|
- 居合・剣術・柔術 総論
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『刀と劍道』は昭和14年に刊行された雑誌ですが文字通り刀剣と剣道及びその関係事項について記されています。時局柄偏った見方が多くありますが、気になる記事を見ていきます。
第1巻第1号に「高野佐三郎範士に話を聴く会」という記事があります。そのなかで全日本学生連盟会長陸軍大将の肩書がある菱刈隆という方が次のように述べています。
「軍隊では敵が撃ち込んでそれを払って撃つという事はやらず、打込む方だけで行く。今でも陸軍の教範には打のみだけ、突く事丈になっている。何にしろ二年間で一人前の兵隊にしなければならぬので一生研究するのじゃないですから。」 剣術教範のことを言われています。剣術教範には銃剣術についても記されていますが、ごく初歩的なことしか記されていません。話されているようにごく短期間に銃剣の使用法を身につけさせなければならないからです。
これをもって軍隊の剣術や銃剣術は技も単純で日本の武術の精妙な技の伝統を受け継いでないと断言すると大きな間違いです。
軍隊の剣術も長年稽古しなければならない教官、その他の軍人たちは一般の剣道と同じ技を身につけますし、銃剣術においてもしかりで巧妙な技を身につけます。剣術教範にはあくまでも初歩のレベルのことしか記されていません。
剣術教範のみをみて軍隊では単純な技しかなかったと考えるのは大きな過ちです。
- 2020/10/23(金) 21:25:00|
- 武道史
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『刀と劍道』第1巻第1号に「高野佐三郎範士に話を聴く会」という記事で高野佐三郎範士の話に次のようなものがあります。
脇坂侯おかかえの柳剛流の遣い手が講武所で桃井春蔵と試合をした。それまで他の者に勝っていた柳剛流の遣い手が桃井の足を打つたびに桃井は足を引いてポンと打ち、何本でも入った。これを見ていた千葉栄次郎は柳剛流の遣い手と試合をしたが上段に構え、足を打ち来るたびに竹刀を床に立て受け留めポンと面を打つことを何度もやった。
柳剛流の脛打はその対処法をわきまえた者にはきかなかったようです。
- 2020/10/24(土) 21:25:00|
- 武道史
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『刀と劍道』第1巻第1号に佐藤貫一という方の『剣法規則枢要』の解説が載っています。佐藤貫一はおそらく日本刀研究の権威の佐藤貫一だと思います。
「天性筋骨順逆之事 剣法の第一はかたち也。形調わざれば、働き自在ならず人々天性筋骨の順逆あり、其の形に随ふべし」
解説は逆にわかりにくくなるのでここにはあげませんが、常日頃貫汪館でお教えしていることですので稽古している方は理解できるだろうと思います。心が体の動きを乱している方はよくよくこの言葉を考えてください。
- 2020/10/25(日) 21:25:00|
- 武道史
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同じく『剣法規則枢要』からです。
「待懸
待つこころあらばかかるに難く、かかる気あるときは浮き立つべし。待つうちにかかり、かかるうちに待つべし。」
貫汪館で武道を稽古しようとする方は、どちらかというと初心者の内は「かかる気あるときは浮き立つべし」に該当する方が多いように思います。浮き立つがゆえに天性筋骨の順逆が乱れてしまいます。
- 2020/10/26(月) 21:25:00|
- 武道史
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同じく『剣法規則枢要』からです。
「動静心術
動静は心と気をいう。心気静かならざれば変に応じ難し。」
昨日述べたことと関連していますが、掛かろう、掛かろうとする方は浮き立ち、天性筋骨の順逆が乱てしまいますので変に応じることはできません。形稽古で手順が決まっているためにできたように感じているだけで、防具着用稽古や意治稽古では役に立ちません。
- 2020/10/27(火) 21:25:00|
- 武道史
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『刀と劍道』第1巻第3号に柔道居合術教士 中崎辰九郎という方の「居合術について」という文章が載っています。その中に「剣道と居合術」という項目があります。全文を載せると長くなるので要約します。
居合術はその初めから真剣を持って修行する。故に剣道の精髄とも極致とも称するものである。今日の剣道が竹刀を以て修行するので別個のように考えられるがそうではなく剣の道は居合術に始まって居合術に終わるべきものである。剣の道を修行するのに真剣を離れた修行が足らないところを持つのは誰でも首肯できる。したがって剣道の修行者は居合を併修して平素竹刀や木刀で鍛錬した腕で真剣に親しむことが肝要である。 この頃にすでに「剣道と居合は両輪の如し」という考え方があったのかと思います。
江戸時代の武士であれば常に腰に刀があるので、真剣に慣れ親しんでいるのは当然のこと。剣術のみの稽古で居合の稽古をしなかったとしても、多くの流派には刃引きの形もあり、たとえ刃引きの形がなくても自分の刀を抜いて振ったことがない武士がいたかどうか。
また、たとえ居合をしたとしても、その振り方の基準が刀ではなく竹刀や木刀にあったとしたら・・・。
- 2020/10/28(水) 21:25:00|
- 武道史
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『刀と劍道』第1巻第3号に「居合術について」という文章を記した柔道居合術教士 中崎辰九郎という方は伯耆流を稽古したようです。「修行者の陥り易すき道」という項に次のように記しています。
明治時代になって剣道がスポーツ化したとの評がある今日において居合術が藝術化して真の面目を失いつつあることについては弁解をやめて猛省しなければならない。居合術は一人で行い一人で修行する道である。それが武士道修行であることを忘れて、人中で上手に演じるための居合、各地の武徳会で優秀であることを誇るための居合、武徳会本部で練士教士の称号を得るための修錬なら唾棄すべきものである。
居合は一人で行うものという考えはこの当時にすでにあったのかと思います。太刀打、詰合、大小詰などは居合と考えられていなかったのかどうか…。人前で演じることで称賛を浴びたいと考える居合人がこの頃にもいたというのも今に通じるものを感じます。
- 2020/10/29(木) 21:25:00|
- 武道史
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『刀と劍道』第1巻第3号の「剣道史同講座 間合について」は佐藤忠三剣道教士が記されています。この冒頭に明治初年の松崎浪四郎と逸見宗助の伊藤博文邸における天覧試合について記されています。
この試合は互いに間合いを取って対峙すること30分。逸見より色を見せたところ、その色を利して松崎が逸見の小手を打った。今から考えると何故飛び込んで勝負を決しないのか。打っていきさえすればあいてが応じるのでその機会をとらえて勝を制すればよいではないかと疑問を抱くのは少なくないだろう。
内藤高治先生に下江秀太郎先生と某先生の試合の話を聞いたことがある。某先生は立ち上がりざまに下江先生の竹刀を叩き落したが、その後下江先生はじりじりと間をつめて某先生を道場の隅まで追い込み先生の竹刀を打ち落とすこと2回。2回とも一合もしなかった。内藤先生が言われるには某先生もさすがで打つべき機会でないときにはみだりに打たない。昔の剣道は無駄な太刀を使う事を非常な恥とした。 明治維新からはるかに遠ざかり、真剣を腰にしたことがない人たちが剣道の先生になると、今の剣道と同じように無駄な動きが多くなったのだろうと思います。竹刀を真剣と考えれば稽古といえども無駄な動きはできなかったでしょう。触れれば斬れてしまいます。
もっとも江戸時代であっても、先に打たれていても自分の方が後から強く打ったので自分の勝ちとする流派があったようです・・・。
- 2020/10/30(金) 21:25:20|
- 武道史
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『刀と劍道』第1巻第5号(昭和14年9月1日発行)の中山博通による「武道精神」という文章に次のようにあります。当時の漢字そのままを用いることは難しいので適宜現代用いられている漢字に変えています。
武道というものは古来の日本精神は漸時閑却され、近年でも事変前までは全く等閑に付されていた感があります。試みに手近な例を取れば軍隊でも近年は殊の他機械戦、化学戦に留意し、その戦果も顕著なものがあります事は喋々するまでもないことであります。
然し此処で考えなければならない事は日露戦争の折、南山の戦いで、日本の大砲の着弾距離は三千五百米に比し露西亜の「着弾距離は四千五百米であった。其差実に千米の開きがあるにも拘わらず日本軍が大勝をえた原因は那辺にあるかと云う事である。日本軍は機械を科学を征服する大和魂と云うものがある、成程大砲の着弾距離は敵のより千米も短いがその千米だけ敵に肉薄して戦えば差はないわけであり、差がないのみでなく千米肉薄する精神そのものが既に敵を飲んでいたのである。着弾距離何ものぞ、大砲や弾丸等の機械をはるかに超越している大和魂の表晴れこそ、武道の神髄であります。・・・中略・・・身を以て敵に当たる白兵戦の精神こそ前述同様大和魂の神髄であります。 昭和14年に剣道の大家の中山博通にこのように言われれば、そのように信じる若者もたくさんいたことと思います。斎藤彌九郎は西洋砲術を取り入れ両陣を対峙させて空砲を打たせ、騎兵を走らせたりして最後の白兵戦の訓練は銃剣ではなく面と小手と竹刀を用いる野試合を門人に演練させましたが、銃剣を用いるのではなく、防具竹刀を用いて試合させるというところだけが大きく後学の中山博道に残ったのかもしれません。竹刀であれば、後から自分の方が強く打ったから勝ともいえるでしょうが、1000メートル肉薄するまでに砲弾に当たってしまえばそれで終わりです。
だから幕府も諸藩も幕末には西洋砲術を取り入れたはずなのですが・・・。
- 2020/10/31(土) 21:25:00|
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