はてなキーワード: 陣営とは
人間なんだから、党派性も感情もあるし、ダブスタだってある。それくらいは普通にわかってた。
でも、ここ数年でかなり冷めてしまった。
自分たちに都合のいい話は、多少雑でも勢いで拡散する。敵認定した相手には、確認不足でも強く叩く。不都合な事実を出されると、「今それ言う必要ある?」みたいな空気になる。揚げ足取りで話を逸らす。
で、それをやってる側が「ファクトを大事に」「冷静な議論を」と言っている。
あれを見続けるの、結構しんどかった。
もちろん右派にもめちゃくちゃな人はいる。でも、そっちは最初からそんなに期待してなかったんだと思う。
左派には、「少なくともファクトは確認するだろ」という期待があった。だって左派=嫌われるインテリって言われがちじゃん。
最近はもう、右とか左とか以前に、「自分の陣営に都合がいいかどうか」でしか物を見ない人が増えすぎて、政治の話そのものが嫌になりつつある。
表現の法規制は、一度導入されると対象が拡大する傾向がある。 これは歴史的に繰り返し確認されてきた事実である。
この構造を理解せずに「嫌いな表現だけ規制してほしい」と主張することは、自らの首を絞める行為になりうる。
以上の諸問題を貫くのは、「自分(たち)の表現・欲望・不快感は正当であり、他者のそれは不当である」という非対称的な自己正当化の構造である。
| 自陣営の行為 | 自己正当化の論理 | 他陣営の同種の行為に対する態度 |
| 未成年キャラのR-18 BL | 「フィクションだから問題ない」 | 「ロリコンは犯罪予備軍」 |
| 男性キャラの性的客体化 | 「女性の手によるものだから搾取ではない」 | 「女性キャラの性的客体化は性差別」 |
| 実在男性のRPS | 「愛情表現の一形態」 | 「実在女性の性的画像は性的暴力」 |
| コミュニティ内の嫌がらせ | 「自浄作用」「マナー違反への指摘」 | 「男オタクのハラスメント文化」 |
この表が示すのは、同一の行為を自陣営と他陣営で正反対に評価するダブルスタンダードである。
本稿で検討した問題群は、いずれも「自分の欲望に対する無自覚と、他者の欲望に対する不寛容」という同じ根から生えている。腐女子文化には豊かな創造性と共同体的な連帯があり、それ自体は文化的に価値のあるものである。しかし、その内部に存在する暴力性・排他性・ダブルスタンダードを直視しなければ、自らが攻撃してきた「不寛容な社会」の鏡像になるだけである。
そして何より、性的表現の法規制という刃は、一度抜けば自分にも向かう。この認識なくして表現規制を軽々しく求めることは、腐女子文化を含むオタク文化全体の存立基盤を自ら掘り崩す行為であることを、すべての当事者が理解すべきである。
BL(ボーイズラブ)文化は、男性同士の恋愛・性愛を描くフィクションを中心に発展してきた。しかし、その消費構造が実在のゲイ・バイセクシュアル男性を素材として搾取しているのではないかという批判は、当事者コミュニティから繰り返し提起されてきた。
具体的には以下の論点がある。
これらの主張には一定の妥当性がある。しかし、「フィクションだから無関係」という論理は、RPSや実在コミュニティへの侵入行為には適用できない。また、「理解の入口になった」という功利的正当化は、当事者が現に被る不快や搾取を帳消しにする根拠としては不十分である。
より深刻なのは、この問題が指摘されたとき、腐女子コミュニティの一部が「ホモフォビアと戦ってきたのは我々だ」という自己正当化に走り、当事者の批判を封殺する力学が働くことである。マジョリティ(異性愛女性)がマイノリティ(ゲイ男性)の表象を占有し、かつその批判に対して「我々こそ味方だ」と主張する構造は、植民地主義的な知の収奪と相似形をなしている。
『イナズマイレブン』(主要キャラクターは中学生)、『忍たま乱太郎』(忍術学園の生徒は10歳前後の設定)など、明確に未成年と設定されたキャラクターのR-18 BL二次創作は、pixiv・同人誌即売会・SNSなどで大量に流通している。
| 論点 | 現行法の状況 |
| 著作権侵害 | 二次創作は原著作物の翻案権・同一性保持権を侵害しうる。権利者が黙認しているに過ぎず、合法ではない。いわゆる「グレーゾーン」は法的に保護された領域ではなく、権利者の好意に依存した状態である。 |
| 児童ポルノ該当性 | 日本の「児童買春・児童ポルノ禁止法」は実在の児童を対象としており、創作物(絵・小説)は現行法上は児童ポルノに該当しない。ただし、国際的にはフィクションも規制対象とする国がある(豪州、カナダ等)。 |
| わいせつ物該当性 | 刑法175条のわいせつ物頒布罪の適用可能性は理論上残るが、同人誌に対する摘発例はほぼない。 |
法律上「違法ではない」としても、10歳や13歳に設定されたキャラクターの性行為を詳細に描写し、それを大量に流通させる行為が倫理的に問題ないと言えるかは別の問いである。
腐女子コミュニティ内では「キャラクターは絵であり実在しない」「被害者がいない」という論理で正当化されることが多いが、この論理は男性向けの「ロリコンもの」に対しても同様に適用されなければ一貫しない。にもかかわらず、後述するように、男性向けの未成年キャラクター性的表現には激しく反対しつつ、自陣営の同種の表現には寛容であるというダブルスタンダードが指摘されている。
一部の権利者はガイドラインで性的二次創作を明示的に禁止している。しかし多くの場合、個別の対応コストや炎上リスクを恐れて黙認しているに過ぎない。この黙認を「許可」と読み替える文化的慣習は、権利者に本来不要な負担を強いている。
近年、英語圏の社会正義運動(いわゆる「Woke」)の言説——特にジェンダー論、ポストコロニアル批評、インターセクショナリティなど——が、日本のSNS上で選択的に翻訳・引用され、特定の表現を攻撃するための武器として使用される事例が増加している。
Woke言説そのものが問題なのではない。ジェンダー論やポストコロニアル批評は学術的に重要な知的伝統である。問題は、それらの理論が本来持つ複雑さや内部批判を捨象し、自陣営に都合の良い部分だけを切り出して「正義の棍棒」として使用する態度にある。
これは理論の誠実な適用ではなく、権威の借用による言論封殺である。そして、この手法が最も頻繁に向かう先が、男性向けのオタクコンテンツである。
「マシュマロ」「Peing」などの匿名メッセージサービスを利用した攻撃的メッセージ(通称「毒マロ」)は、腐女子コミュニティにおいて深刻な問題となっている。内容は以下のようなものである。
毒マロや晒し(SNS上で特定の作者・作品を名指しで批判すること)の結果、創作者がアカウントを削除し作品を非公開にする「筆折り」は日常的に発生している。これはコミュニティ内部の表現弾圧に他ならない。
特に注目すべきは、加害者もまた女性であり、被害者もまた女性であるという点である。「女性が女性を潰す」構造は、フェミニズムの言説では説明しにくいため、しばしば不可視化される。
腐女子コミュニティでは、特定の行動規範(「検索避け」「鍵垢での運用」「R-18はワンクッション」等)について定期的に激しい議論が発生し、「学級会」と呼ばれる。これ自体はコミュニティの自治として機能しうるが、しばしば規範の押し付けと逸脱者への制裁に変質する。
腐女子コミュニティの一部には、以下のような暗黙の序列意識が存在するとの指摘がある。
この序列は、「BLは高尚なフィクションだが、夢小説や男女の恋愛は自己投影で低俗」という偏見に基づく。
ここに深刻な矛盾がある。腐女子コミュニティの一部は、自らの表現が社会から偏見を受けてきた歴史を語りつつ、同じ女性向け創作者コミュニティ内で別のジャンルを蔑視・攻撃している。被抑圧者が別の被抑圧者を踏みつける構造であり、「連帯」の理念とは正反対の実態である。
近年、以下のような事例が繰り返し報告されている。
これらの運動に共通するのは、主観的な不快感(「お気持ち」)を客観的な権利侵害であるかのように主張する論法である。「私が不快に思う」→「それは社会的に有害である」→「規制されるべきだ」という三段跳びは、法的な権利論としては成立しない。
しかし、SNS上の炎上は企業にとって実害をもたらすため、法的根拠がなくとも事実上の表現制限として機能している。これは私的検閲(private censorship)の問題である。
最も深刻な問題は、男性向けの性的表現を攻撃する主体が、自らは第2章で述べたような未成年キャラクターのR-18 BLを消費している場合があるという点である。
Xやメディアで目立つ文学的・批判理論寄りの事例をピックアップ。統計・因果推論重視の実証派とは対照的に、「構造批判」「ナラティブ」「弱者発見」が優先されやすいパターンを示します。
「あなたたちが『がんばったら報われる』と思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。」 「世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひとたちがいます。」 (全文は東大公式HP掲載。医大不正入試を挙げ、女子学生の入りにくさを統計で指摘しつつ、新入生に「恵まれた環境のおかげ」と諭す内容)
「家事は不払い労働」「愛の行為だからお金に換算できない」で本当に正しいのか? → 断固として「不払い労働」と呼ぶ。 (1980年代から一貫。家父長制と資本制の搾取構造として位置づけ)
努力や個人の責任を「環境のせい」に還元し、弱者発見を強調。統計(医大合格率1.2倍)を挙げるが、解釈は「構造的女性抑圧」一色で、男性の努力や逆差別(例:理3類の微妙な数字)はスルー。家事「不払い労働」論も、男性の家事・育児負担増やDV被害男性のデータは無視しがちでダブスタ。ポストモダン的「客観性への懐疑」を体現し、「がんばっても報われない社会」を前提のナラティブ優先志向。
高市早苗氏について:「安倍さんが女装して現れた」「言っていることは安倍さんそのものだ」「女性がどういう歴史を歩んできて、どんな目に遭って今まで生きてきて、政治がそれに対して何をしないといけないのか一度も考えたことないのだと思う」「だから、中は男でしょ。安倍さんでしょ」 (会場爆笑。TBS「サンデーモーニング」出演者としても知られる)
通常なら「女性政治家への性差別」「属性攻撃」「トランスフォビア」と猛批判する側が、自ら女性議員を「中身は男」と貶下。女性首相誕生を「恥ずかしい」と選別し、政敵のイデオロギーを「女装」喩えで攻撃。フェミニストの権威を盾に、都合の悪い女性を「名誉男性」扱いする典型。古市批判の「文学的」路線を超えた、感情的・属性依存のイデオロギー亡者ぶりが露呈。
「女子枠に反対するのは弱者男性のワガママ」「ミソジニーとルサンチマンに溢れた快哉を叫ぶコメント」 (UNESCO報告書を巡る議論で、反対論を「弱者男性のワガママ」と一蹴)
女子枠(ポジティブアクション)を「構造的抑圧是正」と位置づけ、反対意見を即「ミソジニー」「弱者男性のワガママ」と人格攻撃。教育社会学者としてデータ(格差統計)を使うはずが、相手の動機を悪意で決めつけ、議論を封殺。 **弱者男性の「ワガママ」を問題視しながら、女性枠優先の「ワガママ」はスルーする二重基準。
「なんで、いま、みんな日本学術会議に関心を持ってるの? 新政権のツッコミどころだからというだけでしょう」 (菅政権批判の文脈で投稿。学問の自由より「政権叩き」の文脈を強調)
学術会議を「専門家」の聖域として守り、外部(政権)批判を「新政権のツッコミどころ」と一蹴。自分たちの権威を盾に、任命拒否自体を問題視しつつ「本当の危機は大学改革」とずらす。ポピュリズムを非難しながら、左派迎合的なナラティブを優先。実証派なら「学術会議の実質的影響力や再現性問題」をデータで検証するはずが、イデオロギー優先。
「ネット右翼の数はネット利用者の1%未満」「愉快犯」「言説の広がりは深刻」。 近年も『日本社会のしくみ』などで「大企業型・地元型」の暗黙ルールや二重構造を批判し、右傾化ではなく「左が欠けた分極化」と分析。
日本社会の「暗黙のルール」やナショナリズムを構造的に解体するが、自陣営(左派)の歴史解釈は絶対化。ネット右翼を「少数愉快犯」と矮小化しつつ、反対意見の広がりを「深刻」と警戒。データ(調査比率)を使うが、解釈は左翼迎合で「日本人原罪論」の延長。
「援助交際を主体的選択」「まったり革命」と肯定的論じる(後に一部修正)。
安倍銃撃事件で統一教会問題を「世直しとして機能した」「安倍の死で瓶の蓋が取れた」と発言。
初期はサブカル肯定的だったが、近年は統一教会・安倍批判で「構造的問題」を強調。事件を「自力救済」の文脈に置き、社会包摂不足を政権のせいにする。データ(非正規雇用拡大)を使いつつ、左翼迎合のイデオロギー優先。
ダブスタ・レッテル貼りが特に目立ち(田中・本田)、権威を盾にした体制批判(西田・上野)が学問の看板を借りて活動家に寄りやすい。Xで目立つloud minority。実証派(計量社会学)は論文で勝負してるから静かだが、社会学を「科学」に戻すにはこうしたアホ発言の構造的問題を暴くしかない。
もっと面白くてもいいと思うんだけど思ったより普通のアクション映画で62点。
病気の子供を抱えるド底辺労働者の主人公はうっかり仕事をクビになってしまう。人生逆転のために30日間生き延びれば莫大な金が得られるリアリティショーである「ランニング・マン」に参加することを決める。出場者を狩るために追いかけてくるハンターたちに加え、出場者を殺した人間には賞金が出るため市井の人たちも味方ではない。死の逃避行が今幕を開ける。
みたいな話。
う~~~~~~~ん。なんか脇が甘い感じがしてイマイチのめりこめなかったかな。
普通の逃避行アクション映画としてみれば普通に面白い。どうやって逃げるんだろう、身分証を偽造するのかな、変装するのかな云々という逃避行ギミックに関してはきちんと提示されて納得力は高いし、行く先々でのチェイスアクションもよい。ぼろホテルに泊まって風呂入った後、窓から外見てたらハンターがいて戻ろうとしたらドアが開かなくて半裸で逃げる展開とかの面白みも深いし、ド派手なカーチェイスもあれば、アンチランニング・マン連合のナード君の家に逃げ込んでそこで彼が家中に仕掛けた罠を作動させながらハンターを撃退しながら逃げるホームアローン展開もよい。
最後にはちゃんとハンターの大ボスとの飛行機の中での肉弾アクションも用意されていて、アクションと映画してカーチェイス、銃撃、罠、肉弾、爆発とおいしいところは全部用意されているのでなんも考えんと見るんだったら普通に満足できると思う。
一方で、なんか主人公にはあんま感情移入できないっていうか。徹頭徹尾、こいつプッツン野郎なんだよ。冒頭、自分をクビにした上司に怒鳴りこみに行く場面から一貫してなんかすぐキレる。そのことによって常に状況が悪くなっていくの、なんていうかエンタメとしては食い合わせがあんまよくないなって思う。社会派のサスペンスとかだったらいいと思うんだけどさ。怒りこそ貧乏人に残された最後のエンタメとは言うけど、こういう意味ではないじゃん?
最終盤でルールで保護されているはずの妻子をハンターたちが殺していた、だからハンターたちを殺してお前がハンターになることで金も名誉も立場も手に入れられる!って番組プロデューサーにそそのかされる場面があるんだけど、これまで再三、番組は情報を改ざんし俺たちを操ろうとしている!と警鐘を鳴らしてきた主人公はプッツン、ハンターたちに襲い掛かり、ハンターの大ボスから彼も元はランニング・マンで主人公と同じトラップを仕掛けられハンター堕ち。実は妻子は生きていたけど拷問されて殺されたと種明かしをされるも信じずに殺害。その後、飛行機ごと無事爆殺される(脱出するけど)。
たぶん、そうなるのわかってたと思うんだけどなぜか殺してそのまま殺されかかるの正直よくわからない。徹頭徹尾「金を得るため」だったという冷徹な目的意識のためとかだったら理解できるんだけど、結局彼は何も得られずに終了する。
俺が見落としてただけだったら申し訳ないけど、あの飛行機に脱出ポッドがあるのを知るシーンってなかったよね?もしそれまで考慮に入れて「自分は死んだこと」にすることでこのゲームから脱出することを目的としていたんだったら理解できるんだけど、そんな感じでもなかったし。
その後、アンチランニング・マン連合が主人公が生きてることを言いふらして番組の裏側を暴露。アンチランニング・マン陣営は規模を拡大する。そして主人公はしっかり顔をさらして妻子に会いに行く。いや、番組側からしたら妻子には絶対見張り付けとくやろ。主人公なんか何回殺してもええんやから。
ランニング・マンの収録の客席はアンチで埋め尽くされ、司会は契約を盾にとっとと離脱。いや、セキュリティどうなってんねん。少なくとも主人公がオーディションするときはセキュリティしっかりしてたやろ。客の身辺調査や持ち検は当然するやろと思うのに、みんな手に手にアンチの看板もって火炎瓶を投げまくる。そんなわけある?そしてプロデューサーを主人公が撃ち殺して終了。いや、こいつも素通りかい。もうめちゃくちゃだよ!
あとはどう考えても30日は長すぎるよね。アメリカ中を逃げ回ってもいいとしても逆に考えれば30日は短すぎるし、映画として考えるなら30日は長すぎる。映画としてはどっか州を指定して2週間とかのほうがよかった気がせんでもない。なんか妙な生活感が出てて中だるみを感じた。
あとはこれどこまで意識して書かれているのかわからんのだけど、女の扱いがなんか微妙なんよね。別に活躍させる必要はないとは思うんだけど、主人公に庇護されるだけの妻、なんかバカみたいな死に方する逃亡者も女だし、テレビを一方的に信じて主人公を含む逃亡者を悪人だとののしり続けるナードの母親のババア、そして終盤に出てきて人質になる裕福層の女。裕福層の女は「貧困をエンタメとして搾取する市民」として描かれていて、主人公に「そのスカーフ一枚で俺の子供は助かるのにお前は気にも留めない」みたいに責められたときに「私は悪人じゃない」って言わせるのはちょっとあからさますぎるかな。最後飛行機で撃たれた主人公に止血のためにそのスカーフを差し出すのは皮肉がきいててよかったんだけど。
あとこの辺の社会的メッセージに関してはどう評価すべきかかなりむつかしいと思ってる。知らんけど、この映画作ってる人はわりとノンポリっぽい感じだと思うんだよな。なんかその、マスメディアを操る存在とそれに対するアンチだったり、白人のデブの子供2人が逃亡者を焼き殺したり、貧乏人たちが主人公を無条件に応援していたり、裕福層は殺せと言っていたりとかそういう社会的メッセージがめちゃくちゃ露骨に出てくるんだけど、それをどこまで信じてるかはかなり怪しく感じる。俺の感想としてめちゃくちゃ冷笑的に”ネタ”として消費しているように感じたかな。
まぁそんな感じかな。ベイビードライバーのエドガー・ライト作品らしくBGM使いも悪くないし、ポップなアクション映画としては一定以上の強度はあると思うんだけどなんか意外にがばがばというかがたがたな感じがして今一つのめり込めなかったな。まぁ、なんも考えんとみられるアクション映画見たいなって夜にはまぁまぁオススメ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4786749132919760034/comment/Gl17
https://b.hatena.ne.jp/entry/4742477410485629295/comment/worris
◎最近は法華狼さんがエントリを上げると即座にブコメを付けに来る
ratepuroika さんの仲間がずいぶん増えたな。
そのうちロンクハラライスがどうのこうのと書くようになるのだろう。
「即座にどうのこうのだあ」とかニチャル
限定させずとも明らか
commentatorHeader
ホックシールド氏の言葉は重い課題を投げかけていると思います。「皮肉な矛盾です。左派は自分たちをコスモポリタンで多様性に開かれていると誇る。また複雑な世界だから他の言語を学びたいという傾向が強いのに、実際には自分と違う考えの人々に耐えられない。すぐに警戒心を抱き、心を閉ざしてしまう。リベラル派こそ、頭の中の警戒システムの電源を切って他者の声を聞く訓練が必要です」。
私の印象では、近年の日本のリベラルは負けました。決定的に敗北した。しかし、その敗北の事実を認めることができていません。敗北を認めなければ、リベラルな価値観を再構築し、戦後民主主義を継承していくことはできません。
正直にいえば、現在の日本国内のリベラルたちの他責思考と衆愚論、批判的検証の不在には、かなり不安を覚えます。現政権の政策や価値観をしっかりと状況的に批判しながら、リベラリズムの普遍的正義を堅持し、かつ、現状のリベラル陣営のあり方の欠点(戦略や戦術、語り口、物語の構築、情報技術の変化への対応、階級問題の認識など)を反省的かつ対話的に改善していく、という路線がそれほど難しいものだとは思われません。
少なくとも(普遍主義的リベラリズムではなく)戦後民主主義的な革新リベラルは「負けた」。保守・右派陣営に政治的に負けたし、しかも有権者/大衆のリアリティから解離して負けたのであり、敗北を認め、敗北を抱きしめないと、戦後民主主義の理想を批判的に継承することもできないのではないでしょうか。
このような反省の姿勢は極めて穏当で常識的なものだと思うのですが、リベラル陣営の人々が、自分たちは負けていない、変わる必要はない、ちょっと情報戦略を怠っただけだ、大衆は愚かで知的に劣化した、自分たちが嫌われるのは正しいからだ、多数派の大衆に阿るのはポピュリズムだ、等々といまだに主張するのを見ていると、やはり不安を感じるのです。このままでよいのでしょうか?
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.sankei.com/article/20260429-VK3RNDENEVKTVOPASB6TEA6PCI/
こちらでは発表するのはおかしい、発表するべきではないという意見もあるが、発表せざるを得なかったと思っている
https://jp.reuters.com/world/mideast/3H4222U7WVN43DMXNT3UENHMOA-2026-04-28/
これによれば船舶追跡システムで確認したとのことであり、イランと関わりのある船をブロックしている米軍も通過した船を確認できるということである。
さらに米軍は衛星や偵察機の写真によって確認できるわけで「偽装された船ですよ」「何も運んでないですよ」という言い訳はできない。いくら隠そうとしたとて早々に通過したことは世界に向けたニュースになるわけである。
では、世界に知られてしまった出光の船が通過したというニュースにどう対応すべきか?
日本が自由と民主主義の陣営に留まるためにはまだ「個別交渉で通行料を払って通過した」とは言えないのである。
どうやって通過したかのストーリーとして、日章丸などの歴史的な友好関係によって、日本人を乗せた船、つまり人道的な理由を添えて通行料を払わずに通過させる交渉をしたというのが落としどころだろう。そういう言い訳が無ければアメリカが日本に対していちゃもんつけざるを得ない
たとえば中学生が「小学校の勉強をちゃんとやるべきだった。小学1年生からやり直したい」と思っても時間は絶対に戻らない。
これはどんなに幼くても変わらないことだ。
40歳の人間が「せめて30歳からやり直したい」と願うのと、4歳の子供が「3歳からやり直したい」と願うのは、絶対に不可能であるという点では全く同じような願いなんだ。
それでも世の中の数多くの場所で陣営の軌道修正は行われている。
「やり直すことが出来ないなりに、やれる範囲で人生を買えることは出来るかも知れない」というのが現実だ。