■ Jリーグ史上最も魅力的なチームボクは、Jリーグ史上、最も魅力的だったチームは、95年の名古屋グランパスエイトだと思う。
基本は、<4-2-2-2>。飯島、トーレス、大岩、小川の4バックは、常に高い位置をキープして、中盤をコンパクトに保った。ただし、ベンゲル監督は、飯島と小川の両サイドバックに攻撃面では多くを求めなかった。アップダウンを繰り返すには能力不足と感じたようで、守備に関する要求がほとんどだったようだ。
中盤はボックス型。ダブルボランチは、日本代表の経験があって展開力のある長身の浅野哲也とフランス代表に呼ばれた経験をもちオールラウンドな能力をもつデュリックスのふたり。そのころでは比較的珍しい、フラット(横並び)なダブルボランチだった。
ダブルボランチの前に位置したのは、岡山哲也と平野孝。右の岡山は、決して器用な選手ではなかったが、豊富な運動量と思い切りのいいシュートで多くのチャンスに絡んだ。対照的に、左の平野は、スピード溢れる突破と強烈な左足をもつ典型的なウインガーで、ピクシーと並ぶ攻撃の核だった。
フォワードはピクシーと小倉隆史の2トップが基本形。ダイナミックさと繊細さを兼ね備えた小倉は、五輪代表のエースストライカーであり、このチームのトップスコアラーでもあった。ピクシーは説明無用のスター選手。トラップひとつであれだけ観衆を沸かせられる選手は、ほかにはいなかった。このシーズンのピクシーは、15得点28アシストという信じられない数字を残している。
■ ヴェンゲルの志向監督は、アーセーヌ・ヴェンゲル。95年に名古屋グランパスエイトの監督に就任したヴェンゲルは、前年最下位だったチームを、ニコス・シリーズで2位に、天皇杯で優勝に導くなど、輝かしい成績を残した。
当時、リーグを2連覇していたヴェルディ川崎が、密集地帯を高い技術とアイディアで潜り抜けてゴールを狙うブラジリアン・スタイルだったのに対して、名古屋グランパスのサッカーは、シンプルで優雅なサッカーだった。当時の世界の最先端のサッカーであり、Jの中では異質なスタイルであった。
このチームほど、サイドチェンジを効果的に使えたチームはなかった。浅野の精度の高いロングボールが左サイドで待つピクシーの足元に吸い込まれたとき、ただただ、ため息だけが漏れた。
ヴェンゲル監督という、アーセナルで見せているようなクリエイティブなサッカーが代名詞となっているが、当時のヴェンゲル監督は、「ディシプリン(規律)」というフレーズを多く使って、チーム作りを行った。
「規律」というと選手を縛り付けるものというマイナスイメージもあるが、本来あるべき規律とは、選手の個性を生かすためのものである。基本的には、アタッキングエリアに入るまでの攻撃と、アタッキングエリアに入ってからの攻撃は、分けて考えた方がいいと思う。
アタッキングエリアに入るまでは、できるだけシンプルにボールを回して攻撃を組み立てていき、アタッキングエリアに入ってから、各プレーヤーが個性を発揮していけばいい。当時の名古屋は、このあたりのバランスが絶妙だった。
■ ライバルチームたちこのシーズンの名古屋のサッカーは魅力的だったが、この年は、それ以外にも、優れたチームが多く存在した。
先ほども例に出した、ヴェルディ川崎は、ジェノアから帰ってきたFW三浦知良が大活躍を見せて、ニコス・シリーズの王者に輝いた。カズ・アルシンド・ビスマルクらの攻撃陣と、柱谷・林健太郎を中心とした守備陣がうまくかみ合って、王者らしい戦いを見せた。
18歳の中田英寿を擁したベルマーレ平塚も、忘れがたいチームである。右サイドバックに名良橋晃、左サイドバックに岩本輝雄を配置し、超攻撃的なスタイルでリーグを席巻した。MFベッチーニョを中心に、中田・田坂・エジソンで組む中盤は、川崎や名古屋にひけをとらず、野口とアウミールの2トップの能力も高かった。
DFブッフバルトを中心とした堅い守りから、ウーべ・バイン→福田正博のホットラインでゴールを量産した浦和レッズも、同様に面白い存在だった。浦和のスピード溢れるカウンターアタックは、見るものを魅了した。
また、94年W杯のブラジル代表の優勝メンバーだった、レオナルドとジョルジーニョを擁した鹿島も、かみ合ったときは攻撃的できれいなサッカーを見せた。当時25歳のレオナルドは、正真正銘の世界的なスター選手で、抜群のテクニックで数多くの印象的なシーンを演出した。
■ いろいろな楽しみ方ボクは名古屋グランパスのサッカーが一番好きだったが、名古屋のサッカーとは対照的な川崎のスタイルも、同様に魅力的だった。サッカーの世界では、「A」が正しいからといって、「A」とは真逆の「B」が間違っているとは限らない。
いろいろなスタイルがあることを理解して、それぞれのよさを感じることができれば、観戦の楽しみは広がることだろう。
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