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ヤマトの西崎義展氏と手塚治虫氏とガンダムの富野由悠季監督の関係~海のトリトンの頃 

はじめに

「宇宙戦艦ヤマト2199」が好評放送中だ。

個人的には新登場の女性キャラ達が良い味出しているなぁと感じながら
特にメガネっ娘の新見薫さんがお気に入りである。
結城信輝さんのキャラ絵は良い。

そしてヤマトに関連する話題といえば、
西崎義展の手記というサイトに
「宇宙戦艦ヤマト」の企画書が掲載され話題となっている。

http://web.archive.org/web/20070106185820/http://homepage3.nifty.com/newyamato/omoi.html
(西崎義展の手記:宇宙戦艦ヤマト企画書)

西崎義展氏はオリジナルの「宇宙戦艦ヤマト」の製作総指揮・プロデューサー。
ヤマトを世に送り出した功績者である。
そして企画書をみると、今我々が目にするヤマトの形とは違うとはいえ
並々ならぬ決意感がこの企画書から感じ取れるだろう。

こうした決意感を含め、
本編におけるわずかな希望を賭けてイスカンダルに行く沖田艦長/ヤマトクルー達と、
当時としては極めて珍しいオリジナルアニメという未知なるモノづくりに挑む
西崎氏達の姿はシンクロするといってもよいだろう。

「宇宙戦艦ヤマト」は今のアニメの流れの礎となった作品の一つなのである。

手塚治虫氏の版権を巡るひと悶着

そんな「宇宙戦艦ヤマト」を世に送り出した西崎氏ではあるが、
一方では手塚治虫氏と版権を巡ってひと悶着があったようである。
以下の引用を読んでほしい。

2階で作業をしていたところへ3階から手塚先生が降りてきて「もう私のものが作れなくなってしまいました」というのであった。涙ぐんでいて、話の内容がよくつかめず、「海のトリトン」がスタッフルームですべて、制作することになり、手塚プロで制作できなくなったというような内容だと受け取った。

手塚先生を慰めようと、当時個人で企画していた、エンゼルの丘や、キャプテKEN等があったので、「いいじゃないですか、こっちの企画を進めて、頑張りましょう」と言ったが、 そうじゃないんです、私の今まですべての版権を、西崎に取られてしまったのだ、と言うのであった。 そして悔し泣きに、血の涙を流していた。

島方社長に話を聞いた。手塚先生と西崎弘文との契約書がありそれに手塚先生の記名と捺印があって 今までの手塚治虫のキャラクターは、すべて西崎広文個人の物になってしまった。

だから今後手塚原作の作品を作っても、利益は、西崎個人に入ってしまうので、作れないというのであった。

裁判になったが、契約書があるので敗訴した。そして手塚治虫は一切そのことを語るのをやめた。
※西崎弘文=西崎義展

(http://blog.goo.ne.jp/mcsammy/e/74eae7ddff12129853ef34561a80c477
出典:真佐美 ジュン-海のトリトン)

端的にいうと、西崎氏は手塚治虫氏がもっていた版権を買い取ったようである。
その為に手塚氏の著作収入が西崎氏個人へにわたることになった。
そしてこの事に手塚先生は気つかず、気づいたときには時すでに遅し。
契約書も手塚先生がよく読まずに盲判状態で押してしまったようである。
その為に手塚氏は西崎氏に騙されたという想いが強かったのだろう。
※その後、版権は手塚氏が買い戻しているようだ。

この引用先で出てくる「海のトリトン」とは富野由悠季(当時:富野喜幸)の初監督作。
そして西崎氏は「海のトリトン」のプロデューサー。

富野監督は「海のトリトン」の制作経緯を聞かれて以下のように語っている。

聞き手「いよいよ『海のトリトン』になるわけですが、これは西崎さんが作った新会社でやりましょうと、お話が来たんですか。」

富野「違います、初めは手塚先生が手塚プロで作るつもりでいて、虫プロに下請けを出すという話もありましたがそれもなくなり、そして虫プロ商事と虫プロが分派したのか、自活していかなくてはいけないということで『海のトリトン』の企画を引き受けたんだけど、結局虫プロ商事も潰れて、スタッフルームだけが残った。で、最終的にプロデュース権というか© 権を西崎さんが買って、手塚先生から『トリトン』を引っペがした。」
※スタッフルームとは西崎義展氏が1972年、虫プロ商事に在籍したメンバーを中心に設立した会社。「海のトリトン」を制作。
出典:富野由悠季全仕事(キネマ旬報社)

富野監督の話だと、ただの権利関係の移転の話のようにも見えるが
「引っペがした」という言葉のニュアンスから
富野監督もおそらくある程度の事情は知っていたのだろうと推測される。

ちなみに手塚治虫氏はその後、西崎氏の名前を出すと烈火のごとく怒り出し、
「西崎の名前を僕の前で口にしないで下さい」という噂もあったようだ。

その意味では富野監督はかつての会社の社長であり、
子供時代に好きだった漫画家でもあった手塚氏から見れば
「海のトリトン」という望ましくない仕事を引き受けてしまったわけだ。

ともあれ「海のトリトン」が富野監督の初監督作品となり、
内容面では結末を巡る賛否両論はあったとしても一定の評価を得た。
「機動戦士ガンダム」に至る道筋は「海のトリトン」から始まったとみて良いだろう。

西崎義展氏と手塚治虫氏と富野由悠季監督

結局、手塚氏と西崎氏が和解することはなく、お互い亡くなられた。
細かい真相は藪の中であるが、西崎氏が手塚氏の版権を買取り、
手塚氏に苦汁に舐めさせたのは間違いない。

ただ、西崎氏が手塚氏から版権を「引っペがした」結果、「海のトリトン」が制作され、
手塚治虫氏の薫陶を受けた富野由悠季氏が監督したことを含め、
富野監督のその後のキャリアに大きな影響を与えてしまった意味でも
西崎氏の存在がアニメ界に良くも悪くも影響を及ぼしてしまったといえる。

その後富野監督は、西崎氏から「宇宙戦艦ヤマト」の4話の絵コンテの依頼を受けたが、
シナリオが気に食わず、富野監督はコンテでシナリオを改竄した。
これが西崎氏の怒りを買い、富野監督は元のシナリオ通りに修正したが
その後二人が一緒に仕事をすることはなかった。

そして富野監督も西崎氏と「縁が切れて良かった」と富野由悠季全仕事で語っている。
これは富野監督なりの手塚治虫氏への義理の通し方だったのかもしれない。

まとめ

最後に。前後するが「海のトリトン」を制作後、
上記の企画書にあるように起死回生の想いで作ったであろう
「宇宙戦艦ヤマト」製作の中心人物となった西崎義展氏。

そのヤマト打倒を掲げて作られたのが「機動戦士ガンダム」であり、
この目標を掲げたのが原作・総監督である富野由悠季監督だ。

その意味では「海のトリトン」は「ヤマト」を契機に
「ガンダム」で最高潮を迎えたアニメブームの流れを決定づけた作品だったのかもしれない。

「ヤマト」「ガンダム」を世に送り出した中心人物、
西崎氏と富野監督には「海のトリトン」を挟みつつ、
手塚治虫氏との因縁と西崎氏の功罪の大きさも含め、
アニメに表現に生きた方々の人間関係の奥深さを感じさせてくれる。

こうした事を踏まえて「ヤマト2199」を見ると、また面白いのかもしれない。
  
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[ 2013/05/20 21:10 ] 富野由悠季 | TB(1) | CM(2)
自分もこの話を記事に書きたかったんですが、さすがにohagiさんのほうが早いですね。
といっても自分はその4話の絵コンテを中心に展開する話を書く予定なので、ohagiさんのこの話のちょっとした続きみたいな感じかもしれません。

ちなみにトリトンに取り巻く虫プロと富野さんの関係は、富野とかBLOGサイト2さんのところにも取り上げられました。博学のohagiさんならきっとご存知でしょうが、一応ご参考までリンクを貼ります。
http://tominotoka.blog.so-net.ne.jp/2013-04-03#comments
[ 2013/05/20 23:03 ] [ 編集 ]
西崎氏が手塚氏の版権買ったのは、版権の散逸(作品毎に版権所有者がバラバラになる)を防ぐ為だったが、それを独断でやらかした為に関係が悪化したとか読んだ記憶があります。
まあ、当人達が既に鬼籍にある今、実際の処はどうだったのかわかりませんが。
[ 2013/05/21 01:44 ] [ 編集 ]
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[2013/07/05 08:09] フェラガモ 店舗

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