全ては「愛してる」。この為にあった!ついに「輪るピングドラム」最終回。
今回の記事は最後の冠葉と晶馬の描写について
セーラームーンR劇場版とセーラームーンS
少女革命ウテナを交えて考えてみました。生存戦略しましょうか?
感想輪るピングドラムの結末とセーラームーンR劇場版と
セーラームーンSと少女革命ウテナの類似点
輪るピングドラムの最終話を掻い摘んで説明するなら
冠葉が命を懸けて陽毬を救い、晶馬が苹果の呪文を唱える代償を引き受ける事で
二人は新しい世界から消え、関係者からの記憶からも無くなりました。
世界を乗り換えるというのはこういう事なのでしょう。
それでも最後のシーンは、冠葉と晶馬に似たような少年が
高倉家の前を歩き去るシーンがあり、彼らはペンギンを連れてどこかへ向かいました。
冠葉・晶馬の二人にも救いがあった事を指し示すこれらの描写。
ツイッターではこれらの描写について「幾原監督も丸くなった」みたいな意見があり、
最初はそうかもなぁと感じましたが実はそうではない可能性があるのではと感じました。
なぜそう思ったのか。その理由として幾原監督の「セーラームーンR劇場版」
「セーラームーンS」「少女革命ウテナ」のそれぞれのラストの展開から探ろうと思います。
① セータームーンR劇場版の場合
セータームーンR劇場版のクライマックス。
敵の小惑星が地球に落下するのをセーラームーンが持つ銀水晶の力と
他のセーラー戦士の協力によって小惑星の軌道を変えるのに成功します。
しかし力を使い果たしたセーラームーンは命を失います。
そこへ現れたのは劇場版の敵役だったフィオレ。
どうやら悪の心から解放され、元の心を取り戻す事に成功しました。
(「劇場版美少女戦士セーラームーンR」より。以下4点の画像も同様)
そんなフィオレは子供化し自分の命を集めた花の蜜を
セーラームーンに与える事でセーラームーンは生き返ると言います。
元々花自体、子供時代のセーラームーン(うさぎ)が守へあげたもので
さらに守からフィオレに渡されたものなのです。
この花は、セーラームーン→守→フィオレ→守→セーラームーンと
まるで輪っているかのようにキャラとキャラの間を動きます。
つまりこの花ってセーラームーンにおける「ピングドラム」だと思います。自己を犠牲にして人の命を救うものとして
「ピングドラム」と「花の蜜」は一緒のものであると解釈できるでしょう。
守ちゃんが口移しをする事で、このあとセーラームーンは目覚め、映画は終幕を迎えます。
フィオレ→守→セーラームーンと、命の蜜が輪っている。
この作品でも花の蜜=ピングドラムは輪っているのです。
フィオレもまた体を丸めて左上に移動し画面外へ退場します。
子供の姿になってどこかへ行ってしまうっていうのも
ピングドラムの結末っぽいですね。
こうした一連の描写を見ると輪るピングドラムと類似していると感じてしまいます。
まとめると、
①フィオレと冠葉・晶馬の子供化
②自らの命を犠牲として、ピンドラであれば陽毬と苹果を冠葉と晶馬が救い
セーラームーンであればフィオレがセーラームーンを救う展開。
③セータームーンにおける花(および花の蜜)と
ピンドラのりんご(ピングドラム)が命を救うものとして機能的に類似している事。
以上になります。
② セーラームーンSの場合
セーラームーンSの後半では巨大な悪であるファラオ90(ナインティ)の進行を止める事、
および破滅の戦士セーラーサターンの覚醒を防ぐという2つの目的に集約されます。
どちらが起こってしまっても、世界は破滅するといわれながら、物語は進みます。
(美少女戦士セーラームーンS 36話「輝く流星! サターンそして救世主」より。以下4点の画像も同様)
結局、ファラオ90は地球にやって来てしまい、さらにセーラーサターンも目覚めてしまいます。
世界は破滅を迎えるかに思いましたが、ここで奇跡が起こります。
セーラーサターンはセーラームーン、およびちびうさの頑張りによって
セーラーサターンは正義の戦士として覚醒し、その力を持ってファラオ90と戦います。
しかし、ファラオ90が戦えば自らは消滅してしまうそうです。
これを聞いたセーラームーンも一緒に戦うといいますが、サターンは
「全ての力を使い果たしたセーラームーンではファラオ90と戦えない」とは言います。
単身ファラオ90に乗り込むサターン。己の無力さに絶望するセーラームーン。
そんなセーラームーンの魂の叫び、および他のセーラー戦士の祈りが
セーラームーンに力を取り戻させました。そしてセーラームーンはサターンの後を追います。
そしてファラオ90はサターンによって消滅させられ、サターンもまた消滅したかにみえました。
しかしセーラームーンが奇跡の力を使って、サターンを赤子として転生させます。
これらの描写と「輪るピングドラム」と共通するのは
①サターンのちびうさ達を助けたいという自己犠牲の精神
②サターンの救済が赤子として転生される事。
つまりセーラームーンR劇場版、セーラームーンS、
そして輪るピングドラムは、自己犠牲と自己犠牲を行ったものが
子供化・転生化されるという意味で救済されるという点で類似しているのです。
特にセーラームーンRと輪るピングドラムの共通点は酷似しているといえましょう。
それはセーラームーンR劇場版が幾原監督の個性を前面に打ち出そうとして
企画された映画だからだそうです。そういう意味では幾原監督の原点は
全てこの映画に集約されているといっても良いのかもしれません。
③少女革命ウテナとの類似点
簡単に少女革命ウテナの最終回とも比較しましょう。
(少女革命ウテナ39話「いつか、一緒に輝いて」)
(輪るピングドラム24話「愛してる」)
ウテナは姫宮アンシーを最後の最後まで救おうとします。
自己犠牲という気高い心によって、やっと二人の手が繋がれた瞬間。
物語的にはここで二人がやっと精神的に結ばれたクライマックスとして描かれています。
またピングドラムでは冠葉と晶馬の手の取り合いを
りんごと絡めることでよりメッセージ性を強く描写しています。
しかし、アンシーを助けた代償としてウテナは百万本の剣という罰を受けます。
ウテナの背中に迫る百万本の剣は憎悪をむき出しにしてウテナに容赦なく降り注ぎます。
この描写後、ウテナの存在がアンシーとラスボスである鳳暁生以外の
関係者全員からの記憶から消えてしまい、忘却の彼方になってしまったようです。
この記憶が消えてしまうというのは、
ピングドラムでは陽毬と苹果が最後に辿り着いた世界で
陽毬と苹果が冠葉・晶馬を忘れてしまった状況と酷似します。
このウテナとピンドラの共通点としては自己犠牲による代償として
世界から存在を抹消されている事を描いているように見えます。
④ 結論的なもの。幾原監督が繰り返し描く自己犠牲の話
これらの作品の展開を見ると、幾原監督作品の多くは自己犠牲とそれに伴う代償
そして自己犠牲者の救済をそれぞれの作品のコンセプトに従って描いているともいえます。
その中でも全て作品に完全に共通するのは、自分を省みない非打算的な自己犠牲であり、
それに対する代償も全て受け入れるっていう意味では全ての作品が通底しているといえます。
つまり、輪るピングドラムのラストの描写は幾原監督的な視点で考えた場合に
過去の作品の文脈があって、ピングドラムの描写があるといえます。
ある意味幾原監督は初監督作品だった「セーラームーン」の頃から
変わっていない、ブレていないともいえます。
なので私としては「輪るピングドラム」で幾原監督が特別丸くなったわけではないと思います。ただ、最後にペンギンを連れて歩く2人の姿を見ていると、
この姿が悲観的なものではなく、これからの未来を生きる姿に見えるのは私だけでしょうか。
そういう意味ではより肯定的な描写が輪るピングドラムにはあったといえるでしょう。
「愛してる」。この言葉を伝える為にすべてがあった。
上記が本編ラストのカットです。
陽毬が「ずっと、ずっと・・・」と言いながら最後にこのタイトルカットが挿入されます。
このタイトルカットで物語が締めくくられるのは「少女革命ウテナ」でも同様です。
ウテナもウテナとアンシーが「いつか」「いつか一緒に・・・」ってお互い言いながら
上記のカットに移り変わります。
(まぁウテナにはこの後、ウテナとアンシーが手を繋ぐカットがありますが)
さて本題です。ピンドラのラストカットが「愛してる」という事から
この作品がいかにして「愛してる」という言葉を
伝えたかった作品であるという事が明白になります。
でも「愛してる」って伝えたいなら、わざわざTVの24話も使う必要はありません。
1話の冒頭のカットに「愛してる」と書けばいいのです。その方が効率的でしょう。
ではなぜTVで24話も費やしてこの言葉を出してきたのか。
それは輪るピングドラムという作品が「愛してる」という言葉をただ伝えるのではなく
どう伝える、この「どう」に全てが集約されている作品だからです。
ではなぜこんなにもいろいろ費やして幾原監督はこの言葉を届けたかったのでしょう。
それは、少女革命ウテナの映像特典の幾原監督のインタビューにヒントがあるように思えます。
このインタビューでは、幾原監督が劇中で用いられるJ.Aシーザーの合唱曲について聞かれ
合唱曲の歌詞のシュールさに周りの反応が笑っていた事に対して
幾原監督が
「日本人は日本語を嫌いなのではないか」という問題提起をしていました。
また「薔薇の容貌」という本の幾原監督へのインタビューでは
「日本人が相対的な言葉でしか物事を評価できない。」とも話していました。
これらの発言を私なりに解釈すると幾原監督は日本における日本語、ひいては言葉の力が
弱まっていると感じているのでしょう。それは「愛してる」という言葉に関しても
ただこの言葉だけを取り出すと一見陳腐にしか聞こえません。
また「愛してる」と伝えたいのがテーマというのも陳腐に聞こえる。
少なくとも私にとっては。他の皆様はいかがでしょうか。
でも幾原監督は陳腐に聞こえようが「愛してる」と伝えないといけない。
今の時代に必要なのは「愛してる」という言葉をきちんと力をもって伝える事なのではないか。
それが「輪るピングドラム」を作るモチベーションになったのではないでしょうか。そして「愛してる」という言葉を陳腐な形では無く、言葉として力のあるものにしたいために
あれだけの表現とキャラクターと物語と設定と音楽を用意したのでしょう。
ここで、表現におけるテーマについてに語ります。
どんなテーマを伝えたいというのも表現にとって大事ですが
一方で、どう伝えるのかっていうのも、とても大事なポイントだと思います。
つまり「ピングドラム」は一見陳腐に見えがちな「愛してる」というテーマを
例えていうなら様々な回り道をしながら届けた作品なのです。
この回り道というのがドラマでありストーリーであり表現そのものなのです。
そして様々な紆余曲折があったからこそ「愛してる」という言葉が陳腐に聞こえない。
「愛してる」という言葉に力を感じる。ラストのカットを見て心を震わす事ができるのです。逆にいえば、幾原監督がここまで作品作りにおいて回り道をしないと
「愛してる」って言葉が伝わらないと今の時代に感じている事でもあるのでしょう。
でも最後の最後に「愛してる」と言えた。伝えた。
つまり「愛してる」という言葉がこの作品にとって「絶対」になったのです。
ここでMAGネットの幾原監督のインタビューで、幾原監督には
「輪るピングドラムのテーマには僕のテーマと作品のテーマの2種類がある」と言いました。
おそらくこの「愛してる」は「作品のテーマでしょうね」
そんな幾原さんの「僕のテーマ」。気になるところです。
まとめ「輪るピングドラム」とは?
最終回の描写の解釈は既に多くのサイトでやられているようなので、
私は私の切り口で目についていない部分を書きました。
(りんごの中の蜜の部分がハートの形、もしくはりんごそのものがハートの形、
つまり「ハート=LOVE=愛してる」って見えるのは私だけでしょうか)
一つ言えるのは「輪るピングドラム」。このタイトル通りの作品だった事。
りんごが冠葉から晶馬に半分渡り、晶馬から陽毬に手渡された。
このりんごは、冠葉が晶馬に半分に割って分け与えた事からもわかるように
自己犠牲の象徴でもあったのでしょうし、りんごがあったから生きていけるという意味で
生きる意味そのものであるという事でもあるのでしょう。
運命が輪り、世界が輪り、ピングドラムが輪る事。
その輪る模様を描いたのがこの作品でした。
このピングドラム=生きる意味というのは私の中では腑に落ちます。
それは
「きっと何物にもなれないお前たちに告げる。ピングドラムを手に入れるのだ」というプリンセスの台詞のピングドラムを生きる意味に置き換えると
「きっと何物にもなれないお前たちに告げる。生きる意味を手に入れるのだ」になり、より鮮明に何を伝えたいのかがわかる感じに聞こえます。
そして「生きる意味」とは「愛してる」という事に他ならないのです。生きる意味があれば、何物にかなれる。そんな気がするのです。
さらにいえばこの「何物」っていうのは「家族」なのかもしれません。
冠葉から晶馬へ。晶馬から陽毬へ。陽毬から冠葉へと輪ったピングドラム。
最終話でピングドラムによって円環関係が達成された事で、
血の繋がらない3人は本当の家族になれたのではないでしょうか。
家族とは命を分け与える存在同士である事。そしてお互いに愛してると思える存在である事。
輪るピングドラムは「家族」を命と愛で描いた作品でもあり、
血の関係が無くても、家族になりえる可能性を描いた作品でもありました。
結局、冠葉と晶馬はプリンセスの予言通りに「何者にもなれなかった」わけです。
でも最後の最後で生きる意味は見つけましたし、愛する人に「愛してる」と伝えました。
だから彼らはこれでいいのだと思います。
冠葉も晶馬も陽毬も苹果も新しい世界に乗り換えてそれぞれの人生を生きていくのですから。
シリーズのまとめ
幾原邦彦監督の個性が山崎みつえさんや中村章子さんといった若いスタッフと
一緒になることよって表現として結実した作品だと思います。
そして私は幾原監督と「セーラームーン」や「ウテナ」など
幾原監督作品が改めて格別に好きだって事に思い知らされました。
そして好きなリストの中に「輪るピングドラム」も入るでしょう。
繰り返しますが「愛してる」というシンプルで簡単、
でもそれだけでは効果的に伝わらないこの言葉を伝える為に
様々な表現や音楽、設定などなど、持てるすべてを出そうとした作品。
後半になるにつれて、作っている側の悲壮感や思い入れがヒシヒシと伝わる作品でした。
改めてアニメにおける表現の面白さを教えてくれた作品でもありました。
それだけ幾原監督がアニメの表現を信じているって事でもあり、
その監督の表現に対する信頼が見る者の虜にするのでしょうね。
またARBのアレンジをした楽曲の数々は私にとっても大きな収穫でした。
ARBの曲の数々がこんなにカッコいいとは、そしてアレンジ曲の見事さも含めて素晴らしい。
幾原作品では作品とともにシーザーなりARBというように
音楽そのものを教えてくれるという意味で色んな楽しみがあります。
また橋本由香利さんの楽曲も本当に素晴らしい。
本編中に自然に聞こえつつも、それでいて楽曲として屹立している感じが良かったです。
最後に。私が幾原監督および作品を支持するのは
耐えず果敢に「生きるためのモチベーション」を問い続けているからです。
そして「輪るピングドラム」でも「どう生きれば幸せになれるのか」という事を
問い続けた作品だと思います。そしてその答えは一つではないと思います。
各人がこの作品から、幸せに生きるヒントを掴んでくれるキッカケになる事、
生存戦略ができることを願いながら、お開きにしたいと思います。
幾原邦彦監督、
スタッフの皆様、
ありがとうございました!
- 関連記事
-
感想輪るピングドラムの結末とセーラームーンR劇場版と
セーラームーンSと少女革命ウテナの類似点
輪るピングドラムの最終話を掻い摘んで説明するなら
冠葉が命を懸けて陽毬を救い、晶馬が苹果の呪文を唱える代償を引き受ける事で
二人は新しい世界から消え、関係者からの記憶からも無くなりました。
世界を乗り換えるというのはこういう事なのでしょう。
それでも最後のシーンは、冠葉と晶馬に似たような少年が
高倉家の前を歩き去るシーンがあり、彼らはペンギンを連れてどこかへ向かいました。
冠葉・晶馬の二人にも救いがあった事を指し示すこれらの描写。
ツイッターではこれらの描写について「幾原監督も丸くなった」みたいな意見があり、
最初はそうかもなぁと感じましたが実はそうではない可能性があるのではと感じました。
なぜそう思ったのか。その理由として幾原監督の「セーラームーンR劇場版」
「セーラームーンS」「少女革命ウテナ」のそれぞれのラストの展開から探ろうと思います。
① セータームーンR劇場版の場合
セータームーンR劇場版のクライマックス。
敵の小惑星が地球に落下するのをセーラームーンが持つ銀水晶の力と
他のセーラー戦士の協力によって小惑星の軌道を変えるのに成功します。
しかし力を使い果たしたセーラームーンは命を失います。
そこへ現れたのは劇場版の敵役だったフィオレ。
どうやら悪の心から解放され、元の心を取り戻す事に成功しました。
(「劇場版美少女戦士セーラームーンR」より。以下4点の画像も同様)
そんなフィオレは子供化し自分の命を集めた花の蜜を
セーラームーンに与える事でセーラームーンは生き返ると言います。
元々花自体、子供時代のセーラームーン(うさぎ)が守へあげたもので
さらに守からフィオレに渡されたものなのです。
この花は、セーラームーン→守→フィオレ→守→セーラームーンと
まるで輪っているかのようにキャラとキャラの間を動きます。
つまりこの花ってセーラームーンにおける「ピングドラム」だと思います。自己を犠牲にして人の命を救うものとして
「ピングドラム」と「花の蜜」は一緒のものであると解釈できるでしょう。
守ちゃんが口移しをする事で、このあとセーラームーンは目覚め、映画は終幕を迎えます。
フィオレ→守→セーラームーンと、命の蜜が輪っている。
この作品でも花の蜜=ピングドラムは輪っているのです。
フィオレもまた体を丸めて左上に移動し画面外へ退場します。
子供の姿になってどこかへ行ってしまうっていうのも
ピングドラムの結末っぽいですね。
こうした一連の描写を見ると輪るピングドラムと類似していると感じてしまいます。
まとめると、
①フィオレと冠葉・晶馬の子供化
②自らの命を犠牲として、ピンドラであれば陽毬と苹果を冠葉と晶馬が救い
セーラームーンであればフィオレがセーラームーンを救う展開。
③セータームーンにおける花(および花の蜜)と
ピンドラのりんご(ピングドラム)が命を救うものとして機能的に類似している事。
以上になります。
② セーラームーンSの場合
セーラームーンSの後半では巨大な悪であるファラオ90(ナインティ)の進行を止める事、
および破滅の戦士セーラーサターンの覚醒を防ぐという2つの目的に集約されます。
どちらが起こってしまっても、世界は破滅するといわれながら、物語は進みます。
(美少女戦士セーラームーンS 36話「輝く流星! サターンそして救世主」より。以下4点の画像も同様)
結局、ファラオ90は地球にやって来てしまい、さらにセーラーサターンも目覚めてしまいます。
世界は破滅を迎えるかに思いましたが、ここで奇跡が起こります。
セーラーサターンはセーラームーン、およびちびうさの頑張りによって
セーラーサターンは正義の戦士として覚醒し、その力を持ってファラオ90と戦います。
しかし、ファラオ90が戦えば自らは消滅してしまうそうです。
これを聞いたセーラームーンも一緒に戦うといいますが、サターンは
「全ての力を使い果たしたセーラームーンではファラオ90と戦えない」とは言います。
単身ファラオ90に乗り込むサターン。己の無力さに絶望するセーラームーン。
そんなセーラームーンの魂の叫び、および他のセーラー戦士の祈りが
セーラームーンに力を取り戻させました。そしてセーラームーンはサターンの後を追います。
そしてファラオ90はサターンによって消滅させられ、サターンもまた消滅したかにみえました。
しかしセーラームーンが奇跡の力を使って、サターンを赤子として転生させます。
これらの描写と「輪るピングドラム」と共通するのは
①サターンのちびうさ達を助けたいという自己犠牲の精神
②サターンの救済が赤子として転生される事。
つまりセーラームーンR劇場版、セーラームーンS、
そして輪るピングドラムは、自己犠牲と自己犠牲を行ったものが
子供化・転生化されるという意味で救済されるという点で類似しているのです。
特にセーラームーンRと輪るピングドラムの共通点は酷似しているといえましょう。
それはセーラームーンR劇場版が幾原監督の個性を前面に打ち出そうとして
企画された映画だからだそうです。そういう意味では幾原監督の原点は
全てこの映画に集約されているといっても良いのかもしれません。
③少女革命ウテナとの類似点
簡単に少女革命ウテナの最終回とも比較しましょう。
(少女革命ウテナ39話「いつか、一緒に輝いて」)
(輪るピングドラム24話「愛してる」)
ウテナは姫宮アンシーを最後の最後まで救おうとします。
自己犠牲という気高い心によって、やっと二人の手が繋がれた瞬間。
物語的にはここで二人がやっと精神的に結ばれたクライマックスとして描かれています。
またピングドラムでは冠葉と晶馬の手の取り合いを
りんごと絡めることでよりメッセージ性を強く描写しています。
しかし、アンシーを助けた代償としてウテナは百万本の剣という罰を受けます。
ウテナの背中に迫る百万本の剣は憎悪をむき出しにしてウテナに容赦なく降り注ぎます。
この描写後、ウテナの存在がアンシーとラスボスである鳳暁生以外の
関係者全員からの記憶から消えてしまい、忘却の彼方になってしまったようです。
この記憶が消えてしまうというのは、
ピングドラムでは陽毬と苹果が最後に辿り着いた世界で
陽毬と苹果が冠葉・晶馬を忘れてしまった状況と酷似します。
このウテナとピンドラの共通点としては自己犠牲による代償として
世界から存在を抹消されている事を描いているように見えます。
④ 結論的なもの。幾原監督が繰り返し描く自己犠牲の話
これらの作品の展開を見ると、幾原監督作品の多くは自己犠牲とそれに伴う代償
そして自己犠牲者の救済をそれぞれの作品のコンセプトに従って描いているともいえます。
その中でも全て作品に完全に共通するのは、自分を省みない非打算的な自己犠牲であり、
それに対する代償も全て受け入れるっていう意味では全ての作品が通底しているといえます。
つまり、輪るピングドラムのラストの描写は幾原監督的な視点で考えた場合に
過去の作品の文脈があって、ピングドラムの描写があるといえます。
ある意味幾原監督は初監督作品だった「セーラームーン」の頃から
変わっていない、ブレていないともいえます。
なので私としては「輪るピングドラム」で幾原監督が特別丸くなったわけではないと思います。ただ、最後にペンギンを連れて歩く2人の姿を見ていると、
この姿が悲観的なものではなく、これからの未来を生きる姿に見えるのは私だけでしょうか。
そういう意味ではより肯定的な描写が輪るピングドラムにはあったといえるでしょう。
「愛してる」。この言葉を伝える為にすべてがあった。
上記が本編ラストのカットです。
陽毬が「ずっと、ずっと・・・」と言いながら最後にこのタイトルカットが挿入されます。
このタイトルカットで物語が締めくくられるのは「少女革命ウテナ」でも同様です。
ウテナもウテナとアンシーが「いつか」「いつか一緒に・・・」ってお互い言いながら
上記のカットに移り変わります。
(まぁウテナにはこの後、ウテナとアンシーが手を繋ぐカットがありますが)
さて本題です。ピンドラのラストカットが「愛してる」という事から
この作品がいかにして「愛してる」という言葉を
伝えたかった作品であるという事が明白になります。
でも「愛してる」って伝えたいなら、わざわざTVの24話も使う必要はありません。
1話の冒頭のカットに「愛してる」と書けばいいのです。その方が効率的でしょう。
ではなぜTVで24話も費やしてこの言葉を出してきたのか。
それは輪るピングドラムという作品が「愛してる」という言葉をただ伝えるのではなく
どう伝える、この「どう」に全てが集約されている作品だからです。
ではなぜこんなにもいろいろ費やして幾原監督はこの言葉を届けたかったのでしょう。
それは、少女革命ウテナの映像特典の幾原監督のインタビューにヒントがあるように思えます。
このインタビューでは、幾原監督が劇中で用いられるJ.Aシーザーの合唱曲について聞かれ
合唱曲の歌詞のシュールさに周りの反応が笑っていた事に対して
幾原監督が
「日本人は日本語を嫌いなのではないか」という問題提起をしていました。
また「薔薇の容貌」という本の幾原監督へのインタビューでは
「日本人が相対的な言葉でしか物事を評価できない。」とも話していました。
これらの発言を私なりに解釈すると幾原監督は日本における日本語、ひいては言葉の力が
弱まっていると感じているのでしょう。それは「愛してる」という言葉に関しても
ただこの言葉だけを取り出すと一見陳腐にしか聞こえません。
また「愛してる」と伝えたいのがテーマというのも陳腐に聞こえる。
少なくとも私にとっては。他の皆様はいかがでしょうか。
でも幾原監督は陳腐に聞こえようが「愛してる」と伝えないといけない。
今の時代に必要なのは「愛してる」という言葉をきちんと力をもって伝える事なのではないか。
それが「輪るピングドラム」を作るモチベーションになったのではないでしょうか。そして「愛してる」という言葉を陳腐な形では無く、言葉として力のあるものにしたいために
あれだけの表現とキャラクターと物語と設定と音楽を用意したのでしょう。
ここで、表現におけるテーマについてに語ります。
どんなテーマを伝えたいというのも表現にとって大事ですが
一方で、どう伝えるのかっていうのも、とても大事なポイントだと思います。
つまり「ピングドラム」は一見陳腐に見えがちな「愛してる」というテーマを
例えていうなら様々な回り道をしながら届けた作品なのです。
この回り道というのがドラマでありストーリーであり表現そのものなのです。
そして様々な紆余曲折があったからこそ「愛してる」という言葉が陳腐に聞こえない。
「愛してる」という言葉に力を感じる。ラストのカットを見て心を震わす事ができるのです。逆にいえば、幾原監督がここまで作品作りにおいて回り道をしないと
「愛してる」って言葉が伝わらないと今の時代に感じている事でもあるのでしょう。
でも最後の最後に「愛してる」と言えた。伝えた。
つまり「愛してる」という言葉がこの作品にとって「絶対」になったのです。
ここでMAGネットの幾原監督のインタビューで、幾原監督には
「輪るピングドラムのテーマには僕のテーマと作品のテーマの2種類がある」と言いました。
おそらくこの「愛してる」は「作品のテーマでしょうね」
そんな幾原さんの「僕のテーマ」。気になるところです。
まとめ「輪るピングドラム」とは?
最終回の描写の解釈は既に多くのサイトでやられているようなので、
私は私の切り口で目についていない部分を書きました。
(りんごの中の蜜の部分がハートの形、もしくはりんごそのものがハートの形、
つまり「ハート=LOVE=愛してる」って見えるのは私だけでしょうか)
一つ言えるのは「輪るピングドラム」。このタイトル通りの作品だった事。
りんごが冠葉から晶馬に半分渡り、晶馬から陽毬に手渡された。
このりんごは、冠葉が晶馬に半分に割って分け与えた事からもわかるように
自己犠牲の象徴でもあったのでしょうし、りんごがあったから生きていけるという意味で
生きる意味そのものであるという事でもあるのでしょう。
運命が輪り、世界が輪り、ピングドラムが輪る事。
その輪る模様を描いたのがこの作品でした。
このピングドラム=生きる意味というのは私の中では腑に落ちます。
それは
「きっと何物にもなれないお前たちに告げる。ピングドラムを手に入れるのだ」というプリンセスの台詞のピングドラムを生きる意味に置き換えると
「きっと何物にもなれないお前たちに告げる。生きる意味を手に入れるのだ」になり、より鮮明に何を伝えたいのかがわかる感じに聞こえます。
そして「生きる意味」とは「愛してる」という事に他ならないのです。生きる意味があれば、何物にかなれる。そんな気がするのです。
さらにいえばこの「何物」っていうのは「家族」なのかもしれません。
冠葉から晶馬へ。晶馬から陽毬へ。陽毬から冠葉へと輪ったピングドラム。
最終話でピングドラムによって円環関係が達成された事で、
血の繋がらない3人は本当の家族になれたのではないでしょうか。
家族とは命を分け与える存在同士である事。そしてお互いに愛してると思える存在である事。
輪るピングドラムは「家族」を命と愛で描いた作品でもあり、
血の関係が無くても、家族になりえる可能性を描いた作品でもありました。
結局、冠葉と晶馬はプリンセスの予言通りに「何者にもなれなかった」わけです。
でも最後の最後で生きる意味は見つけましたし、愛する人に「愛してる」と伝えました。
だから彼らはこれでいいのだと思います。
冠葉も晶馬も陽毬も苹果も新しい世界に乗り換えてそれぞれの人生を生きていくのですから。
シリーズのまとめ
幾原邦彦監督の個性が山崎みつえさんや中村章子さんといった若いスタッフと
一緒になることよって表現として結実した作品だと思います。
そして私は幾原監督と「セーラームーン」や「ウテナ」など
幾原監督作品が改めて格別に好きだって事に思い知らされました。
そして好きなリストの中に「輪るピングドラム」も入るでしょう。
繰り返しますが「愛してる」というシンプルで簡単、
でもそれだけでは効果的に伝わらないこの言葉を伝える為に
様々な表現や音楽、設定などなど、持てるすべてを出そうとした作品。
後半になるにつれて、作っている側の悲壮感や思い入れがヒシヒシと伝わる作品でした。
改めてアニメにおける表現の面白さを教えてくれた作品でもありました。
それだけ幾原監督がアニメの表現を信じているって事でもあり、
その監督の表現に対する信頼が見る者の虜にするのでしょうね。
またARBのアレンジをした楽曲の数々は私にとっても大きな収穫でした。
ARBの曲の数々がこんなにカッコいいとは、そしてアレンジ曲の見事さも含めて素晴らしい。
幾原作品では作品とともにシーザーなりARBというように
音楽そのものを教えてくれるという意味で色んな楽しみがあります。
また橋本由香利さんの楽曲も本当に素晴らしい。
本編中に自然に聞こえつつも、それでいて楽曲として屹立している感じが良かったです。
最後に。私が幾原監督および作品を支持するのは
耐えず果敢に「生きるためのモチベーション」を問い続けているからです。
そして「輪るピングドラム」でも「どう生きれば幸せになれるのか」という事を
問い続けた作品だと思います。そしてその答えは一つではないと思います。
各人がこの作品から、幸せに生きるヒントを掴んでくれるキッカケになる事、
生存戦略ができることを願いながら、お開きにしたいと思います。
幾原邦彦監督、
スタッフの皆様、
ありがとうございました!
- 関連記事
-