二鳥修一の視線の先には
何が見えているのでしょう。女の子になりたいロミオと
男の子になりたいジュリエット。
まるで修一と高槻よしのを表しているようです。
また各キャラの話も同時並行で青春群像劇のようです。
感想今回は、クラスの出し物として女の子が男の子の役
男の子が女の子の役をやる倒錯劇を行うことが決定しました。
ニ鳥と千葉が一緒に劇のシナリオを書く事で急接近する過程を描きつつ、
他のキャラクターもめいっぱい活躍するエピソードが描かれました。
この作品はキャラクターの把握で手一杯になってしまいますね。
自分中学の時だったらこの作品を理解できなかった
この作品には色々思うところがあります。
それはたぶん彼らと同じ中学時代にこの作品を見ていたら
理解できていない事がわかるからです。
理解できないというのは中学時代の私は単純に
「男はどうあるべきか」「男としての生き方」に憧れていたからです。
男とは何かを学ぶために、少年漫画や小説やヤクザ映画とか、
戦国時代や三国志を好み男としての生き様を学ぼうとしていました。
「女の子になりたい」なんて価値観の範疇外でした。
だから当時、「女の子」になりたいというのは冗談としては言えますけど
本気でそう考える同級生がいたら理解不能だったと思います。
もし、中学時代の自分が今回みたいな倒錯劇を行う方向で話が進んだ場合、
ギャグとしてなら参加したいし、シナリオも考えますが
本気でやるのであれば内容を否定したし、到底出来ないでしょう。
でもこの倒錯劇で話が進んだということは
中学時代の僕みたいな価値観を持っている人間は
この作品には出てきていないようにも見えました。
今後は出てくるのかもしれませんが、絵柄・ビジュアルがから見ても
またテーマから考えてもさして効果があるとも思えません。
その意味ではある種の価値観で、支配されている言い方も出来ると思います。
まぁそんな中学以降はとにかく少女マンガ等、様々な創作物に触れ合う事で
自分の価値観を広げていこうと努力していったおかげで
こうした作品も抵抗無く受け入れられるようになりました。
でも昔だったらどうだったのだろうと、この作品は思い返させます。
この作品は中学時代の自分と今の自分が違う事、
考え方やモノの見方が変わっていった様を実感します。
違いという意味では今回、声変わりという要素がクローズアップされました。声変わりは男になっていくわかりやすい状態変化だと思います。
この段々と男の子になりつつある事に色々思うニ鳥修一君ですが
男になる前の自分と男になっていく自分とのギャップで苦しんでいるのでしょうね。
自分が自分で無くなる感覚に陥っているのかもしれません。
千葉さんが可愛い
大人びた彼女が可愛すぎる。アニマとアニムス、そして劇中劇の意味
この作品は思春期時代のアニマの中にあるアニムスと
アニムスの中にあるアニマを徹底的に描くのでしょうね。
そのため、
見る側が男なら男の中にある女の子的な部分を動員しますし
逆に
女性であれば、女の中にある男の部分を動員すてみる作品なのだと思います。
今回の女の子が男の子の役、男の子が女の子の役をやる倒錯劇は
まさしくテーマを純化した展開のようにしか見えませんね。(劇中劇がテーマの純化効果を期待して設定されるわけですから)
この劇を行うこと自体が彼らを色々な衝動へ誘うのでしょう。
まぁ既に修一は女の子の服を着る事自体が、修一が女の子を演じているともいえます。こう考えると、放浪息子の劇中劇はリアルの世界でも女の子を演じ、
劇中劇でまた別の何かを演じるという状況を発生させます。
つまり極めて複雑な状況の中での劇中劇だということがわかりますね。
この作品の凄いところは、みんながみんな変態性を有していて
それがクラス全体でその変態性が共有しているような感じですね。
女の子の服を着たい男の子がいる日常を淡々と描く。
描いた描写の先に何があるのか。案外何もないというのもアリかなぁと思います。
このアニマとアニムスを通して思春期の性の問題を扱うのでしょう。
とても難しくハードなテーマ設定だと思いますが、
アニメという表現でマンガとは違ったメッセージに期待です。
まとめ
青春群像劇のような作品なのかもしれませんね。
修一だけではテーマを描けないのでしょう。
様々なキャラクターを用いて、その関係の中から
テーマを描く構造になっているように思われます。
群像劇の中からテーマやメッセージを発信するタイプの作品のように思えます。絵コンテは、ほしかわたかふみさん、これまたベストチョイスな選択をしてきました。
1話・2話があおきえいさんで、3話がほしかわさんなのは豪華すぎます。
「candy boy」でみせた、ほしかわさんの情緒的で繊細な拘りぬいた演出が堪能できました。
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感想今回は、クラスの出し物として女の子が男の子の役
男の子が女の子の役をやる倒錯劇を行うことが決定しました。
ニ鳥と千葉が一緒に劇のシナリオを書く事で急接近する過程を描きつつ、
他のキャラクターもめいっぱい活躍するエピソードが描かれました。
この作品はキャラクターの把握で手一杯になってしまいますね。
自分中学の時だったらこの作品を理解できなかった
この作品には色々思うところがあります。
それはたぶん彼らと同じ中学時代にこの作品を見ていたら
理解できていない事がわかるからです。
理解できないというのは中学時代の私は単純に
「男はどうあるべきか」「男としての生き方」に憧れていたからです。
男とは何かを学ぶために、少年漫画や小説やヤクザ映画とか、
戦国時代や三国志を好み男としての生き様を学ぼうとしていました。
「女の子になりたい」なんて価値観の範疇外でした。
だから当時、「女の子」になりたいというのは冗談としては言えますけど
本気でそう考える同級生がいたら理解不能だったと思います。
もし、中学時代の自分が今回みたいな倒錯劇を行う方向で話が進んだ場合、
ギャグとしてなら参加したいし、シナリオも考えますが
本気でやるのであれば内容を否定したし、到底出来ないでしょう。
でもこの倒錯劇で話が進んだということは
中学時代の僕みたいな価値観を持っている人間は
この作品には出てきていないようにも見えました。
今後は出てくるのかもしれませんが、絵柄・ビジュアルがから見ても
またテーマから考えてもさして効果があるとも思えません。
その意味ではある種の価値観で、支配されている言い方も出来ると思います。
まぁそんな中学以降はとにかく少女マンガ等、様々な創作物に触れ合う事で
自分の価値観を広げていこうと努力していったおかげで
こうした作品も抵抗無く受け入れられるようになりました。
でも昔だったらどうだったのだろうと、この作品は思い返させます。
この作品は中学時代の自分と今の自分が違う事、
考え方やモノの見方が変わっていった様を実感します。
違いという意味では今回、声変わりという要素がクローズアップされました。声変わりは男になっていくわかりやすい状態変化だと思います。
この段々と男の子になりつつある事に色々思うニ鳥修一君ですが
男になる前の自分と男になっていく自分とのギャップで苦しんでいるのでしょうね。
自分が自分で無くなる感覚に陥っているのかもしれません。
千葉さんが可愛い
大人びた彼女が可愛すぎる。アニマとアニムス、そして劇中劇の意味
この作品は思春期時代のアニマの中にあるアニムスと
アニムスの中にあるアニマを徹底的に描くのでしょうね。
そのため、
見る側が男なら男の中にある女の子的な部分を動員しますし
逆に
女性であれば、女の中にある男の部分を動員すてみる作品なのだと思います。
今回の女の子が男の子の役、男の子が女の子の役をやる倒錯劇は
まさしくテーマを純化した展開のようにしか見えませんね。(劇中劇がテーマの純化効果を期待して設定されるわけですから)
この劇を行うこと自体が彼らを色々な衝動へ誘うのでしょう。
まぁ既に修一は女の子の服を着る事自体が、修一が女の子を演じているともいえます。こう考えると、放浪息子の劇中劇はリアルの世界でも女の子を演じ、
劇中劇でまた別の何かを演じるという状況を発生させます。
つまり極めて複雑な状況の中での劇中劇だということがわかりますね。
この作品の凄いところは、みんながみんな変態性を有していて
それがクラス全体でその変態性が共有しているような感じですね。
女の子の服を着たい男の子がいる日常を淡々と描く。
描いた描写の先に何があるのか。案外何もないというのもアリかなぁと思います。
このアニマとアニムスを通して思春期の性の問題を扱うのでしょう。
とても難しくハードなテーマ設定だと思いますが、
アニメという表現でマンガとは違ったメッセージに期待です。
まとめ
青春群像劇のような作品なのかもしれませんね。
修一だけではテーマを描けないのでしょう。
様々なキャラクターを用いて、その関係の中から
テーマを描く構造になっているように思われます。
群像劇の中からテーマやメッセージを発信するタイプの作品のように思えます。絵コンテは、ほしかわたかふみさん、これまたベストチョイスな選択をしてきました。
1話・2話があおきえいさんで、3話がほしかわさんなのは豪華すぎます。
「candy boy」でみせた、ほしかわさんの情緒的で繊細な拘りぬいた演出が堪能できました。
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