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万葉集で親しむ大和ごころ(その2)

さて、肝心なことは大概、冒頭や末尾のように書かれるものだ。
と、いうほど大げさなものではないが、僕が考えさせられた点が末尾の方に書かれていた。
それもまた現代の感覚に当てはめることがたやすいせいかもしれない。
それは、万葉ひとの・・いや、日本人の感情表現に関することだ。

日本人は公式の場では感情を押し殺す。
例えば、アナウンサーはどんなに悲しい出来事であったとしても、淡々と事実だけを報じねばならない。
そこに自己の感情をこめるなどもってのほかだ。
大相撲で横綱なるもの、勝利したからといってそこでガッツポーズととったり、にやけたり・・・は、非常にはしたないし、品格を疑われる。
既に引退したが、それを顕著に行う横綱がいて、大いに非難されていたとは記憶に新しい。
直近でも、奈良で選挙遊説中の安倍もと首相がテロリストに銃撃された事件がある。
その日の夕刻に現職の総理大臣である岸田氏は、安倍さん訃報を会見で知らせるときに涙を流したのは異例である。
政治家がそのようなときに感情を露わにするなど、精神の脆弱な証拠と叱咤する人もいた。

土俵

このように、我が日本の風習ではひとまえで感情を発露することは少なくともプラスではない。
だが、チャイナやコリアでは人が亡くなったときには、大げさに泣きわめくのがふつうらしい。
これと比較して感情を露わにしない日本人は心が冷たい、と彼らは思うらしい。

たしかに彼の国では、○○○ー、とかいって大泣きする風習があるようだ。
葬式ではないが、五輪競技で負けたときに悔しさのあまり、会場で大泣きして競技を長時間ストップさせた選手もいた。
だが、それは果たして賞賛されるべきものだろうか?
むしろはた迷惑と思う。
それこそ「公式の場」では自身の感情は押し殺して、競技の進行がスムーズにいくように協力すべきだ。
自分の感情で全体に迷惑をかけるのは「自己中心的」であることでしかない。

葬式にもどそう。
日本人であれば、葬式の場ですら自身は「主催者」であることから感情は押し殺すのが普通だ。
(無論、時折泣き崩れるようなことがあっても、それは許容されると思うが・・・)
つまりは、感情を抑制しているだけで悲しさは厳然としてあるのだ。
感情を無制限に発露して、演技過剰気味になっている状態の方が実は悲しさの比重は軽いように思う。
じっと耐える姿にこそ、他人は感銘したりリスペクトしたりするのだと思う。

< また、つづく >

Tag : 文化多摩武蔵野歴史読書和歌

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