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人は神様の真似事をしたい生き物だ(その4)

花鳥画だって、違いは無い。
植物や鳥や獣を描いて、その造形を美しく精神的に描く。
神は5日目に「生めよ、増やせよ」と動物をお造りになられた。
実物よりも美しく、あるいは誇張された美をもつ花や草木や鳥や動物・・・。
これもまた、至高の芸術作品であれば、あたかも生命が吹き込まれたかのようである。

竹内栖鳳「飼われたる猿と兎」左隻

つまるところ、万物や世界を形作った神様の模倣をするのが「芸術」の本質なのではなかろうか。
人間は神様の真似事をしたくて、芸術品や美術品を創造するのではなかろうか。
あるいは神様の真似をすることで、エクスタシーを感じることができるのではなかろうか。

人間は、「元の場所」に戻りたい、という本能があるに違いない。
帰巣本能などともいう。
「元の場所」とは.生まれる前にいた場所である。
天国なのか、彼岸のむこうなのか、はたまた集合意識なのかそれはわからない。
ノスタルジーという感覚は、故郷や時間をも超えた、その「元の場所」への憧憬なのであろうと思う。
芸術や美術、文化などは、「元の場所」へ戻ろうとする本能が働いて生み出される、神様の模倣という行為なのではなかろうか・・・。

秋汀白鷺図

< おしまい >

Tag : 文化歴史自然芸術美術日本画

人は神様の真似事をしたい生き物だ(その3)

山水図軸

僕もまた創造を好む生き物のひとりだ。
子供の頃から、絵を描くのが大好きだった。
図画工作は大の得意だった。
いまでも、自分の原点に戻り、書や書画を学んでいる。
とりわけ山水画は好きだ。

郷土の森ジオラマ1

上空から俯瞰したような視点で、山奥などに人の住まう世界を描くのが山水画だ。
この山水画を見ていて思ったこと・・・僕はまた博物館のジオラマが大好きなのだ。
それはあたかも山水画のようではないか。
限られた空間を切り出して、その中に地形や村落をはめ込み、人や動物を住まわせる。
実際にジオラマもどきを作ったことがある。
博物館の手伝いで、粘土やいろんなパーツを使って、小さな地形のモデルを作ったのだ。
とても気分が良かった。
自分の作った作品ではあまり感じなかったが、専門家が作った緻密なジオラマはまるで神様が世界を作ったかのような錯覚を得る。
そう、山水画はまるで神様が手のひらの上にお造りになった小宇宙のようではないか。

< ふたたび つづく >

Tag : 文化歴史自然芸術美術日本画

人は神様の真似事をしたい生き物だ(その2)

なぜ人間だけが、想像・創造ができるのか。
まことに不思議ではないか。

大仏

石材や木材を削って、人の姿や神仏の姿を彫る。
筆や絵の具を使って、自然の景色や生き物の姿を描く。
道具を使って音を出し、それらを組み合わせて曲を紡ぐ。
・・・・・
様々なジャンルで崇高な精神性を持つに至った作品は「芸術品」と呼ばれ、「文化」として後世に伝えられる。
行き着くところまで行き着いたものは「神の業」とまで言われる。

僕は不思議に思う。
なにが動機で、このようなものが作り出されるのだろうか?
無論、頂点にまで行き着いたものは、ごく限られた才能によって生み出されるのだが、程度の差こそあれ、人間は誰しも「創造」を好むのである。
誰でも子供の頃に砂場やビーチで砂遊びをするだろう。
道路にチョークなどで落書きをするだろう(良い子はそんなことしてはなりませぬ)。
粘土細工で好きな動物を造りだして遊ぶだろう。
人は「創造」する生き物なのだ。

< またつづく >

Tag : 文化歴史自然芸術美術日本画

人は神様の真似事をしたい生き物だ(その1)

人は考える葦である。

僕もたまには哲学する。
ただし、哲学をよほど学んだり、本を読んで誰かに私淑したりするほどのものではない。
ごくごく一般的なそこらの人が「哲学する」のと同程度か、それ以下である。

人生この歳に至って、「思想」というものがいかに人間の社会や行動に根付いたものか、気づいたのも確かだ。
それまでは、「思想」だの「哲学」だのは、いかにも退屈な人間か偏狭な変人の好むものだと思っていた。
この現代においてLGBTだのBLMだのが世界を席巻していることが、共産主義の嵐が猛威を振るうことと結びつけて考えられる人は少ないと思う。

おそらくは日本人の大半、おそらくはほとんどの人が気がつかないでいることだろう。
それほど、日本人は「思想」に関して無頓着なのである。
おまけに宗教や文化についてもそうだ。
我々、日本人は精神的に無防備なのである。

と、まぁ言葉のあやで本稿とあまり関係のないことを書いてしまったが、僕もいい歳になってようやく考える葦になりかけているのである。

貫名菘翁筆七絶詩屏風

我々、人間は地上の生物のなかで唯一、想像力があり創造することの出来る生き物なのである。
まぁ、こういうと鳥や蟻だって巣を作ったりするではないか、と反論が来そうだ。
それも立派な「創造」といえるが、果たして生命活動に直結しない創造をする生物ははほかにいるだろうか?

典型的な例は、芸術・美術だ。
芸術活動でメシを食っている人は勿論いるが、メシのためだけにやっている人はあまりいない・・・と思う。
芸術や美術はやはりなにか表現をしたい人間がそのために行う活動である。
方や孔雀などの動物は美しく、その姿を芸術として作品化したものはあるが、孔雀は自身の意思でその姿を創造した訳では無い。
それは自然の造形であり、芸術作品ではないのだ。

< つづく >

Tag : 文化歴史自然芸術美術日本画

今日は「節分」

今日は「節分」。

節分とは、「立春」「立夏」「立秋」「立冬」と4つある季節の変わり目のうち、「立春」の前日にあたる日です。
本来は上に上げた日の前日はすべて節分といいますが、我が国ではとりわけ春が始まる日である「立春」の前日を指すことがほとんどです。
立春は春の始まる日であることから、節分は冬が終わる日ともいえます。
そのため、邪気や厄を落として新しい年を迎えるために、節分という行事が行われていました。

豆まき

節分には豆まきが行われます。
邪気や鬼を払うために、炒った豆が使われます。
これは「魔物を滅ぼす=魔滅(まめ)」という説があります。
神社や子供達の集まる行事では、この豆まきがよく行われるようです。
ただ、炒った豆を使うといいましたが、実は豆まきに使えるのは神社で祝詞をあげた豆ということです。
霊力のないただの豆を撒いたところで邪気も鬼も払うことは出来ません。

以前にもこちらで書きましたが、そもそもは豆でもないようです。
豆は代用品で、本当は桃を投げるのがもともとの由来とのことです。
桃は霊力のある果実ですが、日本神話ではイザナキが黄泉の国で、化け物となったイザナミに追われたときに桃を投つけたのが始まりです。
しかしながら、あの高級な桃を投げつけるのはなんとも勿体ない。
そのため豆が使われているのだそうです。

もも1

また、いわしの頭を玄関先に飾る風習もあります。
これは「柊鰯(ヒイラギイワシ)」といって、いわしの頭を焼いて、それをひいらぎの小枝に刺して作ります。
焼くとニオイが強くなるいわしで鬼を寄せ付けないという意味があるのです。


Tag : 文化多摩武蔵野自然

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無心庵ひょっとこ斎

Author:無心庵ひょっとこ斎
郷土と自然とネコをこよなく愛する多摩っこ。

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「うず」(十一歳没)
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「小うず」二代目。H27年生。♂
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