はてなキーワード: 瞑想とは
シンギュラリティを待ってみるというのはどうかな。
ダリオ(Anthropicの偉い人)が書いたこの文章とか、AIが進化した世界の展望について結構面白いことが書いてあるよ。
Machines of Loving Grace
https://darioamodei.com/essay/machines-of-loving-grace
行動介入。神経科学の生物学的側面に焦点が当てられているため、これについてはあまり触れていませんが、精神医学と心理学は、もちろん 20 世紀を通じて行動介入の幅広いレパートリーを開発してきました。AI が、新しい方法の開発と、患者が既存の方法に従うのを支援することの両方で、これらを加速させる可能性もあるのは当然です。より広い意味では、常に最高の自分になれるよう支援し、あなたのやり取りを研究して、より効果的になる方法を学ぶのを手助けしてくれる「AI コーチ」というアイデアは、非常に有望に思えます。
臨床疾患とは考えていない日常的な問題も解決されるでしょう。私たちのほとんどは、通常は臨床疾患のレベルに達するとは考えられないような日常的な心理的問題を抱えています。怒りっぽい人もいれば、集中力に欠けたり眠気を催すことが多い人もいれば、恐れや不安を感じたり、変化に反応しにくい人もいます。今日、覚醒や集中力を高める薬(カフェイン、モダフィニル、リタリン)はすでに存在していますが、他の多くの以前の分野と同様に、さらに多くの薬が開発される可能性があります。おそらく、そのような薬はもっとたくさん存在し、発見されていないでしょう。また、標的を絞った光刺激(上記のオプトジェネティクスを参照)や磁場など、まったく新しい介入方法もあるかもしれません。20世紀に認知機能と感情状態を調整する薬がどれだけ開発されたかを考えると、誰もが脳の働きを少し良くし、より充実した日々を送れるようになる「圧縮された21世紀」について私は非常に楽観的です。
人間の基本的な経験は、もっと良くなる可能性があります。さらに一歩進むと、多くの人が啓示、創造的なインスピレーション、思いやり、達成感、超越、愛、美しさ、瞑想的な平和といった特別な瞬間を経験しています。これらの経験の性質と頻度は、人によって大きく異なり、同じ人でも時期によって異なり、さまざまな薬物によって引き起こされることもあります(ただし、多くの場合は副作用があります)。これらすべては、「経験可能な空間」が非常に広く、人々の人生の大部分がこれらの特別な瞬間で構成されている可能性があることを示唆しています。さまざまな認知機能を全面的に改善することもおそらく可能です。これはおそらく、神経科学版の「生物学的自由」または「寿命の延長」です。
私は、月一が必要な時期が一年ぐらい続いてから、三ヶ月に一回で大丈夫になったよ。
月一の時に、運動や瞑想が少しずつ継続できるようになって、それで三ヶ月に一回で済むようになったんだと思う。今みたいな、新年度とかはちょっとキツいけどね。
毎日がつらいです。
何をしても何をしなくてもつらいです。
どう時間を過ごせばいいのかわかりません。
横になっても落ち着かないし、テレビを見てもつらいし、漫画を見ても頭に入らないし、スマホやPCもあまり集中できないし、ゲームは疲れて逆効果になりそうだし、瞑想も散歩も一日にそう何度もできないし
このまま耐えられる自信がありません。
今も、氏にたい気持ちからどうやって逃げるのか?この辛さ苦しさからどうやって逃れられるのか?今の薬は合っているのか?合う薬は見つかるのか?主治医の判断は合っているのか?
等々ずっと頭の中がぐるぐるして辛いです苦しいです
なぜか一目で「あの」ブクマカだと分かった。
「あっ…xxxxxです」
「やっぱり。いつもブコメ、拝見しているわ。で、今日はどんな相談?」
「実は…」
注目コメントに入らなくて悩んでると伝えた。
「フフッ、本当にそんなこと悩んでるの?」
ドキッとした。さすがはてなの母だ、こちらのことなど丸っとお見通しなのだ。
清潔感を出して、相手をエスコートして、こちらがお金を払ってるのに、次のデートを断られてしまうんです。
年収は600万円、仕事はエンジニア、年齢はミドサー。やはり、年収が少ないのでしょうか」
するとはてなの母はこう答えた。
後回しにしてる男は嫌われるわ。
全部読んでスッキリしなさい。
③カラースターを買い、みんなに配りなさい
無料ではてなのサービスを使わせてもらう、そういう邪な気持ちがダメなの。
カラースター1万円分を購入し、手当たり次第カラースターをつけなさい。
与えないと返ってこないわよ。
どうせ増田ばっかり買いてるんでしょ?
はてなブログで人気ブロガーになり、Books&Apps でライターの依頼を受けるくらいになりなさい。
さあ、今すぐに!」
俺は彼女に言われるがまま、会員になった。一年分、自動更新だ。
今はとにかく「あとで読む」記事を読みまくり、キャベツをかじり、チョコザップに通い、彼女のブログを貪り読んでいる。
すると、なんと2回目のデートの申し込みがあったのだ。
すごい…早速効果が!
瞑想によって第六感を鍛えると、天の声が聞こえてくるようになるらしい。
天気も良いし、春めいてるし、無性にどこかへ出かけたい
がその「どこか」が分からない
でも桜にはまだちょっと早い
じゃあ海か、高尾山でも行くか
でも休日だしな
と迷っている内にもう5時も近い
どこへ行くにしてもちょっと遅い
結局出かけるのはATMの営業時間のリミットに迫られてになってしまった
取り敢えず駅まで行って、ひとまず一服しながら考える
「春 出かける場所」で検索してみるも、どれも今日は違う感じがする
と来た道を引き返して、どの辺をうろつこうか考えながら歩いていると、なんだか妙に心が凪いでいる
というか頭が全く動いてない感じがする
昔ってもっと無性に頭がゴチャゴチャしていたし、訳もなくにイライラするしムラムラするし、こんなんではなかった
なんか色々と考えていた
むしろ今みたいな落ち着きが欲しかったはずなのに、いざなってみるとそれはそれでなぜだか妙に寂しい
久々に考え事モードになりたい
常に流している音楽を止めよう
ちょうどクイーンのベスト盤の、キラークイーンの次の曲に差し掛かった所でキリよく止める
静かに流れる景色の中だと、目に入るささやかなもの全てにも感動を見出すような姿勢になってしまいがちな気がする
なんかこう、内省的な考えを巡らせたい
が、「無」ばかり
瞑想でもしてるよう
内省なんて、それこそ多感な時期にもうとことんやってしまったしな
もうそれ以上思うことはない
とか何だかんだで考え事はしつつ、歩く
光の多いほうへ行ってもいつもと同じようなコースになるだろうし、魅力なさげな方知らない方を敢えて選ぶ
やはり何も思うことはないが、遠くには行けない事が確定しつつ自宅近辺をウロウロするこの感じ、実にティーンの頃を思い出す
と、銀のさらの原付がエンジンかけっぱで停めてあるのが目に付く
こういうのって乗り逃げしたらどうなるだろうな
そのままどっかへちょっと走り去ろうとしても、なんか不安であんま遠くへは行けそうにないよな
今日一個目の「歩きながらの考え事」的なやつだな
この道はこの道に接続されるのかという新発見も数ヵ所でありつつ、そういえば昔授業中暇つぶしに自分の家から始めてどこまで地図を書けるか、というのをやったな
いくらも書けなかったが
それが自分の行動範囲の閉鎖性を自覚するきっかけになったかならなかったのか、もう思い出せない
迷路を描くのもすぐに飽きた
結局チンポを描くのにハマったけれど、入試も近づけば英単語帳めくるなりなんなり自習するようにはなってな
この頃までは順当な生き方だったな
とか思いながら歩いていたら、逃げ切れずにディーラーとコンビニばっか並んでる幹線沿いに出てしまった
青い標示に新宿まで何十km、府中まで、八王子でさえも20kmとか言われると、日帰りでテクテク歩く限界を突きつけられた気分になる
小回りを繰り返した所で大局的には結局知ってるパターンに収束してしまう
川まで来てしまっては河川敷を歩かない訳にはいかないが、少し抗いたい
川の脇のデケェ運動公園が良さそう
そっちへ逸れると、新発見の哲学の道のパチモンみたいなのがある
手を後ろに回してのんびり歩きたくなるような良い感じだが、やはり特に思索は湧かない
そのまま通り抜けて多摩川の方へ行く
しかし思春期を神格化してしまっているだけで当時も案外こんなもんだったか
そういえば今日は音楽を止めているが、別に当時も音楽は聴いてたな
1000円か2000円かそこらでも、月5,000円の小遣いから捻出するか何度か本屋に行って大分迷ったな
ブックオフでCDを買うということになんとなく憧れがあって何枚か買ったが、あんまり聴かなかった
大体歌詞がないか聴いてもわからん洋楽とかだったし、あまり思考のノイズにはならなかったんだろうな
でも当時は当時で、小学生の頃とかってスマホもウォークマンもなくて、もっと考え事してたよな
とか思ってた気がする
当時に戻りてェ〜とか思っても、当時は当時で不愉快な思いだらけではあった
可処分所得一つとっても、今の感覚で当時を生きたら発狂ものだな
この不快さを都合よく忘れて、美化して懐かしむような奴は死んだ方が良い
自分もそうなったら死んで欲しいと思ってたし
当時の感覚を新鮮に保存しておかないと、いよいよそうなってしまう
とか、帰るにはちょっと早いし駅前のパチ屋の休憩室にピットインして今日の記録を残したが、やはりなんか思い出の補修作業ばかりで、新しい考え事は無かったな
まだ帰るにもちょっと早いし、プロジェクトヘイルメアリーでも観に行くか
面白いことを祈る
面白かった
祈るとは何か
「戦火で苦しむ人が減りますように」と強く願う、望む……のような行為だろか
祈る/願う/望むなど「強くそうであれと思う」行為の辞書的な意味の違いは今は注目しない
ここで私が落ち着かないのは、「祈る」という行為は暗に何かに祈っているのではないかという点
「何か私が祈っている対象よ、なんとかしてください」というわけだ
何かとは……一番わかりやすいのは神仏だよなあ
しかし私は神など霊的な存在、特に現世に影響……つまり奇跡……を及ぼす類のそれの実在を信じない
対象が存在しないので「祈り」の効果は不発、「祈り」は墓地に送られます……のようなTCG的比喩
①「サイコロを振った時に6が出ろと思うように幸運、確率、運で私に都合の良い結果が出ろと念じるようなものだ」……という解釈はどうか
②「現実に存在する特定の人物、団体などに対して「なんとかしてくれ」と祈っているのだ」……という解釈はどうか
③「祈るという行為は心の整理、言語化、マインドセット、瞑想的な行為であり、なんとかなれと他力本願的に思う行為ではない」……という解釈はどうか
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「辞書的な意味の違いは今は注目しない」と書いたが考えを改め、やはり祈るとは何か、祈るとはどのようなこと、私が祈った時、別の言葉で言い換えるとそれはどのような行為をしていたと言えるのか、をはっきりさせたほうがいいかもしれない
どうにも宗教儀礼、信仰行為としての祈りと日常用語としての祈りを混同して考えているきらいがある
前者は黙禱とかも含む……みんなで揃って行うこともある……つまり「そうあれかし」という価値観の表明、連帯
また、もちろん神などへの要望も前者
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なーんだ、じゃあ超自然的な存在や現象を認めないスタンスなのに神の存在を暗に認め祈っていたわけじゃなかったんだ、よかった~
とはならない
いったん「広義の無神論者が祈るとき、それはどのような行為を指すのか」の話は終わり、ここからは別の話
じゃあ具体的な「なんとかしよう」とすればいいじゃないか なぜ私はそうしないのか
いや、実際には飛躍がある 「なんとかなってほしい」が即「じゃあなんとかしないといけない」とはならない
わたしは善く生きたいのだよな、そのような価値観を内面化しているので 「なんとかしたい」なのだよな
しかし私一人個人だけならいいのだが、配偶者を私の自己満足的善に巻き込むのは本意ではないのがつらい所
その寄付金はどの財布から出るのか?身近の手の届く範囲で善を為し、身近の手の届く範囲を守ればよろしい、家族と美味しいものでも食べに行くといい、食洗器を買いたいと話していたじゃないか
なぜ今気に病むのか?これまでも世界各地で戦争紛争はあった……ロシアウクライナの件で自分は何もしなかったというのに
しかし、せめて何か…… 偽善でも何でもいいのだ 何とかしてくれる「何か」の存在を認めない以上、心の安寧は自分が何とかしないと訪れない
割けるリソースが限られているので与したい対象を選ばなければならない、犯罪者の更生支援とかにも募金したさがある せめてちょっとだけでも……
選ばなかった対象には祈りだけか与えられる、そんな悲しいことがあるかよという気持ちがある
また「祈る」を混同しているな……言語に思考が縛られているのかも 結局自分独自定義の「祈り」なのだ
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疑似問題だったな 問いが違う
「無神論者が祈るとき祈る対象がいない、であれば何の意味があるのか」
で、それぞれに「祈るという言葉の定義問題であり、倫理的姿勢の表明にすぎない」「私にとっては意味がない、行動を伴わせよう、しかしリソースは有限のため、選ばれなかった悲劇には祈りだけとなり、それは意味がない」と答えた
いや、この後者の回答はラディカルなんだよな 祈りに意味はあるよ 姿勢の表明結構なことじゃないか、即効性はなくとも世界を変革しうる
また、他人に「私と同じ価値観を内面化せよ」とはとてもじゃないが言えない
だが恐ろしいことに私には幼い子がいる
教育の名を借りて私の価値観を我が子に植え付けてしまうかもしれない
なんと恐ろしいことか
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まただらだらととっ散らかった駄文を書き捨てて…… ため息が文章の形をとった、みたいなもんだな
ここまで書いておいてなんだが「せめて祈りだけでも」という気持ちもある お花畑とか理想主義とか言われようとも何もできなくともせめて祈りだけでも……
なんで理想主的考えを揶揄する比喩として「お花畑」というんだろう?これは今度調べよう 急激な思考の向き先の変化 調べものをしているときは心が安らぐ
絶対に公式あらすじ以上の情報を仕入れずに見たほうが面白いクソ映画。69点。
家族が引っ越しの準備をしている最中、幼いリデが森の中でこつ然と姿を消す。そこへ追い打ちをかけるように火災が発生。迫りくる炎の中、母は娘を救い出すことができるのか。
ちなみにこのあらすじも実はウソで、娘の失踪前から火災は発生しています。
で、もうネタバレしていくんだけど、このあらすじからだとディザスター(災害)映画、迫りくる火災の中、主人公が森の中を走り回って炎をかいくぐり知恵を尽くして娘を探しだすハラハラドキドキのアクションサバイバル映画を期待すると思うんだけど、実際にはそんな映画じゃ全然ない。
じゃあどんな映画かって言うと「追い詰められた人間は疑心暗鬼に陥り判断能力を喪失し、いとも簡単に他人を傷つけられる」様を延々と描く胸糞キチガイ映画。
娘を探すために夫の友人でもあった隣人に助けを求めるんだけど、なんかちょっと怪しい。疑念を募らせた主人公と弟は彼を誘拐犯だと決めつけ家宅侵入し隣人を拘束、拷問を行い始める。いろいろあってボコボコにされた隣人は苦し紛れに娘の居場所を知っていると言い出し、燃え上がる森の中に侵入し隙を見て逃げ出す。そうして森を逃げ惑う隣人は遠くで娘の声を聴きそれを追うと道に迷って穴に落っこちて抜け出せずにいた娘を発見。なんとか娘の救出に成功。遅れてやってきた主人公は隣人をライトで何度も殴打し娘を連れて脱出。その後、娘から真相を聞いた主人公は森に戻り隣人を救出し、隣人はすべてを許し主人公は再出発するのだった。
俺が一番嫌いな「正義という名の思い込みで一方的に他者の権利を平気で侵害するカス」が前面にフューチャーされたマジのクソ映画だった。
隣人は自然由来の幻覚剤や鎮痛剤も用いた瞑想指導、セラピーなどの民間療法を執り行う一種のシャーマンのようなことを生業としている一種の宗教的マイノリティ。主人公は娘を救いたいという一心から彼の行動すべてを怪しみ否定し、全て本当のことを話している隣人の話を嘘だと決めつけ、自白を強要する。異常にヒステリックで自身は何の証拠も示さず、そんなわけない、怪しい、不自然だと延々と詰問を続ける。
そもそもこの女が父親の喪失を悼む娘を怒鳴りつけ傷つけたたことが失踪の引き金なのに、いや、だからこそそれを受け入れられずに私が悪いんじゃなくてこの目の前の怪しい男が悪いんだという自己正当化、自己防衛のために善意の隣人を痛めつける様はもう本当に無理。
義妹からは根拠のない暴力をふるうお前たちはおかしい警察を呼ぼうと提案されるも火災が近いから娘、姪を助けるために必要なんだと暴力を正当化する姉弟に絶望する義妹というコントラストも効いてる。
そして、実際には娘を穴から救出してくれた隣人を殴り倒し火中に放置して脱出し、娘から「隣人に助けてもらった」と聞いても「言わされてるんでしょ?」「本当はなんかされたんでしょ」「彼がつれていったんでしょ」としつこく聞き返すクズ。そして真実を確信した後もとりあえず安全地帯まで娘を連れて行きしばらく悩んだ後にようやく隣人の元に戻るカス。
一度疑念に火がついてしまった人間はここまでキチガイになれるのかと本当に鬱々とさせられる。
っていうのを「火災」と紐づけるのは比喩としてあまりに直球すぎると思いつつも正しいアプローチだと思う。
オープニングもよくて。電話で喧嘩をする音声が遠くから聞こえて、その喧嘩を中継している電波塔の機材がショートし火花が地面に落ちてそこからボヤが発生する(ここのCGがクソチープで危うく絶望しかける)という、些細な諍いから発生した火花が止めようもない巨大な災害に発展するというこの作品のすべてを表しているのが良き。
そして隣人を殴り倒して放置して帰る場所が防火帯(ファイヤー・ブレイク)という、森の中に敢えて木が植わっていない場所を作って火災の時に火が燃え広がらないようにする場所になっていて、左側は大火災、右側はまだ燃えていない森、そしてその真ん中に3人がいるという「冷静と情熱のあいだ」みたいになっているのも象徴的で、なにより絵としてめちゃくちゃ美しくて感動した。そしてその防火帯を管理するのが隣人の仕事だったんだよね……
難病で苦しむ夫は余生を静かに暮らそうと森の中に引きこもり自分の好きな熊の彫り物を作って静かに死んでいったことに対しても主人公は「彼を救えなかった自分」と「私に救わせてくれなかった彼」の両方を責めていて、夫の死をうまく消化できていないのは理解できるが、それを何も悪くない娘や隣人に向けるのは俺は許せない。
最終的に隣人と姪は同じ病院に収監され助かり、隣人はおそらく主人公が通報(自首)してやってきた警官に「小熊を守ろうとした母熊に襲われただけ。刑務所に熊は入れられない(から被害届を出すつもりはない)」と主人公の母性の暴走を許し、それを見て弟はほっと胸をなでおろし(ジュネーブ条約違反だし)、夫の思い出が詰まった家に戻った主人公は隣人から「灰の中から育つ花」をもらって新たな生活に歩み出すのだった死ね。
心底胸糞悪いクソ映画だったけど、この映画は間違いなくそれを狙って作られていると思うので俺が好きか嫌いかは別としてこの映画にくらわされたことは事実なのでちょっと高めに点はつけた。倫理的に間違った現象を倫理的に間違っていることを自覚して描く映画は俺は正しいとは思うし。母は強し(キチガイ)な映画が好きな人にはオススメ。