はてなキーワード: 上下とは
「始祖(創始者)」と「猿真似の二番煎じ(フォロワー)」の違い。
後者は前者に「寄生」した不要不急の存在なので、自身の存立(アイデンティティ)の
ために、前者に「過剰な意味付け」を行いがちになる。トンデモ解釈、深読みのしすぎ。
そこにしか、「自分(ニセモノ)の存在価値」が見い出せないから。
「ホンモノ」を過剰に持ち上げることで、「出来損ないのコピー(=自分)」の価値を上げようという卑しい魂胆。
なんだ、出羽守じゃん。
「ゴールポストを動かす」って何?という疑問をずっと持っている
「この言い回しがされるとき、言った人はどのような情景をイメージしているのだろう」という話
まずそもそもサッカーのゴールポストなのかどうか、という話もある
次に動くのは左右方向なのか、前後方向なのか、上下方向なのか、どれをイメージしているのか、という話がある
あるいはゴールポストを殴るなどして揺らして「ゴールポストに嫌われる」を人為的に発生させるイメージというのもありえる
100人いれば100通りのゴールポストの動かし方がありそうな気がする
個人的には映画『少林サッカー』の作中描写であった、ゴールポストをとっさに揺らしてゴールを緊急回避するシーンを想起する
『少林サッカー』が好きなだけ
日曜に日記を書いた
おわり
4年間ずっと暖めていたのか
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三牧聖子
米国の政治社会を蝕んできた分断の克服の道を探るべく、トランプ支持者や保守派と長年対話を重ねてきたホックシールド教授の貴重なインタビュー。大変勉強になるが、他方、注意して読まないと、分断の克服より、分断をさらに深める逆効果になりかねない部分があるように感じた。
インタビュー中の「ある研究によると、自分と意見が違う相手との会話を自分から打ち切ってしまう割合は、保守派よりもリベラル派の方がはるかに高い」「保守派の方がまだ相手の話を聞く姿勢を持っている」という言及だ。もちろん、注目されるべき調査であり、この結果から、リベラル派が自省することは大事だろう。しかしここだけ切り取られて、「保守派よりも、保守派の差別主義や排他主義を糾弾するリベラル派こそが不寛容で、分断を生み出している」という単なるリベラル批判の言説になってしまえば、分断を深める結果にしかならない。
この貴重なインタビューに、若干欠けていると思われるのが、現代アメリカ政治において、真に重要な対立軸は、リベラル・保守、あるいは左派・右派ではなく、上下、つまり格差問題であるという視点だ。私見では、現在この問題を最もよく理解し、取り組んでいるのは、民主党の左派たちである。新たにNY市長となったゾーラン・マムダニを筆頭に、従来の民主党の在り方を批判しながら台頭してきた民主党左派の政治家たちは、多様性や差別をめぐる文化闘争自体は否定しないが、それが権力者や億万長者によって利用され、富の格差という核心的な問題から人々の関心を背ける役割を果たしてきたこともよく理解している。トランプや共和党が、不法移民やトランスジェンダーの脅威を常に煽り続けるのはなぜなのか。庶民が左右に分かれて文化闘争に汲々とし、互いに怒りをぶつけ、憎み合い続ければ、自分達たちは安心して巨万の富を蓄え、低い税率などの恩恵を受け続けることができるからだ。そこで民主党左派の政治家たちは「1%の億万長者」を主敵にして、「労働者の党」という看板と「労働者の誇り」を民主党に取り戻そうとしている。
非合理的な関税政策で物価上昇を促進し、戦争まで引き起こして庶民の窮乏を加速させておきながら、人々の感情やプライドをくすぐる術を熟知するがゆえに延命させられてきたトランプ政治。「労働者の誇り」を掲げる民主党の新たな世代が、トランプ政治を打ち破れるかどうかに注目していきたい。
わーい!
まあ私はいつものゲームの積みゲーのっていっても落ちものパズルのぷよぷよのぷよを積むとかそういう意味じゃなくて壁を折返しての多段のたくさんの連鎖ができないせいぜい4連鎖ぐらいまでしかできないんだけど連休は5連休ぐらいあるのかしら?ってそのぐらいな勢いで挑む感じなのよね。
このゲームをやっぞ!って勢い余っているところはいいんだけど、
ゲーム以外になにかお利口さんになることはないのかしら?って、
本屋でも覗いてトミーフェブラリーの川瀬智子さんが掛けている赤い縁の眼鏡をクイッとあげたらなんかもの凄くお利口に見える感じのゴールデンウイークの過ごし方にならない?
本屋さんに行っても、
本を買って満足するのが関の山親方もそう言いそうなぐらい読まないそれこそ積みゲーもとい積み本になっちゃうのよね。
でもそういった時は、
何か本を買うぞ!って意気込みで行くのではなくって、
本を見に行くって、
向こうから声を掛けてくるような気がする私を呼んでいる、
そう!
なにのお惣菜を選ぶか迷っていたら一向に3つセット買うことができないし、
ここはお惣菜の声に耳を傾けて、
端から飲む気満々で『プラグマタ』もプレイする気ないでしょ?って一発でバレちゃいそうな感じ。
私思ったのよね。
よりどり3セット1000円セールで3つお惣菜セットを買ってきて、
おつまみにするでしょ?
量多過ぎるのよ!
3つって買い過ぎ!
私のハイボールのおつまみ多すぎ問題に口を覆い隠して悲鳴を上げるぐらいなの。
多すぎて食べきれないわって。
これが居酒屋おつまみ3種盛りだったら1000円でかなりリーズナブルに思えるので、
そういった時は、
よし!ここは居酒屋おつまみ3品1000円セット!って呪文を唱えるとそんなに価格が高くなく感じるからそういうことは、
心に思っても口に出した方がいいと思うわ!
そういうのに耳を傾けたら、
知らないコーナーの棚の本の『マンガで分かる虚数入門』って本も、
マンガで分かるなら買って読んでみる?って
漫画の絵で騙されると思ったけれど、
その漫画の登場人物の台詞が膨大すぎてマンガのコマの1コマの大半を占める台詞で、
これならなんか文字だけの本を読んでいるのと変わらないぐらいの迫力のセリフで吹き出しいっぱいにキャラクターが登場人物しゃべっているの!
登場人物が愛くるしいだけで、
難しいことしゃべっていることには変わりないのよね。
私が確定申告初めてするときに緊張して『マンガで分かる初めての確定申告物語』を読んだけれど、
確定申告博士の言っているマンガのコマの中の吹き出しの台詞が難しすぎて全くよく分からなかったそれが私のマイファーストマンガで分かる物語だったのよね。
もっと早く気付くべきだったわ。
マンガで分かるシリーズで本当にわかった人っているのかしらって思うぐらい私のポンコツな頭脳は、
それこそトミーフェブラリーの川瀬智子さんが掛けている赤い縁の眼鏡をクイッと上げるぐらいではお利口さんにはなれないんだなぁって。
でも何の気なしに本屋さんにいって本を眺めているのだけでも楽しいからそれもいわばレジャーの一つといってもいいかも。
あれってさ、
シーディー屋さんのシーディー眺めててもそんなグッとこないのに、
ゲーム屋さんのゲームのパッケージを眺めていてもそんなにグッとこないのに、
本とレコード屋さんは眺めているだけでも、
なんかエモイというかグッとくる所があるのよね。
それこそ針?針すなお先生じゃない方の針を落として聴く?って全くよく意味が分からないけれど、
針すなお先生のようにヘッドホンを上下逆に装着して私はもの凄く今審査してますよ!ってぐらい、
あのジャケットの大きな表紙には圧倒されて見ているだけでも楽しいそうよね。
なんかそうやって一所懸命レコードを棚から持ち上げてパパパっと手際よく見て探している人を見るとただならぬなんかレコード好きな人に見えちゃう。
私がここでトミーフェブラリーの川瀬智子さんが掛けている赤い縁の眼鏡をクイッと持ち上げても、
誰もきっとこの人はレコード好きなんだなって思ってくれないじゃない。
でも今どきレコードないけれどレコードのジャケットが可愛いから買っちゃう!ってのもあるのかもね。
実際レコードって買ったとて、
私聴き方が分からないわ。
持て余しちゃう!
だから辛うじて私が行ってそこで辛うじてお利口さんを演じられることができるであろうトミーフェブラリーの川瀬智子さんが掛けている赤い縁の眼鏡をクイッと持ち上げることができると言えば、
やっぱり本屋さんなので、
目的もなしにぶらり本屋さんの売り場を端から端まで売り場をぶらぶらしているのがあっているかも知れないわ。
そう思ったら、
本屋さんにはそういう意味でじっくり時間を掛けて行ってないなぁって。
良い機会なので
せっかくのゴールデンウイーク行楽地はどこも人が多いそうだから
ゲームクリアするんだい!って勢いだけのある事ばかり言ってるけれど、
そんなゲームの合間に本屋さんに行って気分転換するのいいかも知れないわね。
もういつも無計画なのに、
ゴールデンウイークは有意義に過ごすんだい!って勢いだけは一丁前なのよね。
あらよ出前一丁も驚くほどの一丁前なのよね。
でも絶対にショート動画を見入っちゃって時間が溶けちゃっていた!って事態に陥ることは絶対に避けたいわ!
とにかく凄い自信なのには間違いないわ!
うふふ。
とくに深い意味はないんだけど、
赤いパッケージのお気に入りの豆乳の銘柄のものが深い味がして好きなのよね。
それと時々トマトジュースいや
また買いに行かなくちゃ!
起きたときに一杯飲みたい冷たいシュワッとしたものと言えばそうよね!
こっちもきっと連休中無くなりそうなので
ストックまた注文しておかなくちゃ!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
連休を挟むので、
「あ、鳴つた。」
と言つて、父はペンを置いて立ち上る。警報くらゐでは立ち上らぬのだが、高射砲が鳴り出すと、仕事をやめて、五歳の女の子に防空頭巾をかぶせ、これを抱きかかへて防空壕にはひる。既に、母は二歳の男の子を背負つて壕の奥にうずくまつてゐる。
「近いやうだね。」
「ええ。どうも、この壕は窮屈で。」
「さうかね。」と父は不満さうに、「しかし、これくらゐで、ちやうどいいのだよ。あまり深いと生埋めの危険がある。」
「でも、もすこし広くしてもいいでせう。」
「うむ、まあ、さうだが、いまは土が凍つて固くなつてゐるから掘るのが困難だ。そのうちに、」などあいまいな事を言つて、母をだまらせ、ラジオの防空情報に耳を澄ます。
母の苦情が一段落すると、こんどは、五歳の女の子が、もう壕から出ませう、と主張しはじめる。これをなだめる唯一の手段は絵本だ。桃太郎、カチカチ山、舌切雀、瘤取り、浦島さんなど、父は子供に読んで聞かせる。
この父は服装もまづしく、容貌も愚なるに似てゐるが、しかし、元来ただものでないのである。物語を創作するといふまことに奇異なる術を体得してゐる男なのだ。
ムカシ ムカシノオ話ヨ
などと、間まの抜けたやうな妙な声で絵本を読んでやりながらも、その胸中には、またおのづから別個の物語が※(「酉+榲のつくり」、第3水準1-92-88)醸せられてゐるのである。
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瘤取り
ムカシ ムカシノオ話ヨ
ミギノ ホホニ ジヤマツケナ
このお爺さんは、四国の阿波、剣山のふもとに住んでゐたのである。(といふやうな気がするだけの事で、別に典拠があるわけではない。もともと、この瘤取りの話は、宇治拾遺物語から発してゐるものらしいが、防空壕の中で、あれこれ原典を詮議する事は不可能である。この瘤取りの話に限らず、次に展開して見ようと思ふ浦島さんの話でも、まづ日本書紀にその事実がちやんと記載せられてゐるし、また万葉にも浦島を詠じた長歌があり、そのほか、丹後風土記やら本朝神仙伝などといふものに依つても、それらしいものが伝へられてゐるやうだし、また、つい最近に於いては鴎外の戯曲があるし、逍遥などもこの物語を舞曲にした事は無かつたかしら、とにかく、能楽、歌舞伎、芸者の手踊りに到るまで、この浦島さんの登場はおびただしい。私には、読んだ本をすぐ人にやつたり、また売り払つたりする癖があるので、蔵書といふやうなものは昔から持つた事が無い。それで、こんな時に、おぼろげな記憶をたよつて、むかし読んだ筈の本を捜しに歩かなければならぬはめに立ち到るのであるが、いまは、それもむづかしいだらう。私は、いま、壕の中にしやがんでゐるのである。さうして、私の膝の上には、一冊の絵本がひろげられてゐるだけなのである。私はいまは、物語の考証はあきらめて、ただ自分ひとりの空想を繰りひろげるにとどめなければならぬだらう。いや、かへつてそのはうが、活き活きして面白いお話が出来上るかも知れぬ。などと、負け惜しみに似たやうな自問自答をして、さて、その父なる奇妙の人物は、
ムカシ ムカシノオ話ヨ
と壕の片隅に於いて、絵本を読みながら、その絵本の物語と全く別個の新しい物語を胸中に描き出す。)
このお爺さんは、お酒を、とても好きなのである。酒飲みといふものは、その家庭に於いて、たいてい孤独なものである。孤独だから酒を飲むのか、酒を飲むから家の者たちにきらはれて自然に孤独の形になるのか、それはおそらく、両の掌をぽんと撃ち合せていづれの掌が鳴つたかを決定しようとするやうな、キザな穿鑿に終るだけの事であらう。とにかく、このお爺さんは、家庭に在つては、つねに浮かぬ顔をしてゐるのである。と言つても、このお爺さんの家庭は、別に悪い家庭では無いのである。お婆さんは健在である。もはや七十歳ちかいけれども、このお婆さんは、腰もまがらず、眼許も涼しい。昔は、なかなかの美人であつたさうである。若い時から無口であつて、ただ、まじめに家事にいそしんでゐる。
「もう、春だねえ。桜が咲いた。」とお爺さんがはしやいでも、
「さうですか。」と興の無いやうな返辞をして、「ちよつと、どいて下さい。ここを、お掃除しますから。」と言ふ。
お爺さんは浮かぬ顔になる。
また、このお爺さんには息子がひとりあつて、もうすでに四十ちかくになつてゐるが、これがまた世に珍しいくらゐの品行方正、酒も飲まず煙草も吸はず、どころか、笑はず怒らず、よろこばず、ただ黙々と野良仕事、近所近辺の人々もこれを畏敬せざるはなく、阿波聖人の名が高く、妻をめとらず鬚を剃らず、ほとんど木石ではないかと疑はれるくらゐ、結局、このお爺さんの家庭は、実に立派な家庭、と言はざるを得ない種類のものであつた。
けれども、お爺さんは、何だか浮かぬ気持である。さうして、家族の者たちに遠慮しながらも、どうしてもお酒を飲まざるを得ないやうな気持になるのである。しかし、うちで飲んでは、いつそう浮かぬ気持になるばかりであつた。お婆さんも、また息子の阿波聖人も、お爺さんがお酒を飲んだつて、別にそれを叱りはしない。お爺さんが、ちびちび晩酌をやつてゐる傍で、黙つてごはんを食べてゐる。
「時に、なんだね、」とお爺さんは少し酔つて来ると話相手が欲しくなり、つまらぬ事を言ひ出す。「いよいよ、春になつたね。燕も来た。」
言はなくたつていい事である。
お婆さんも息子も、黙つてゐる。
「春宵一刻、価千金、か。」と、また、言はなくてもいい事を呟いてみる。
「ごちそうさまでござりました。」と阿波聖人は、ごはんをすまして、お膳に向ひうやうやしく一礼して立つ。
「そろそろ、私もごはんにしよう。」とお爺さんは、悲しげに盃を伏せる。
アルヒ アサカラ ヨイテンキ
このお爺さんの楽しみは、お天気のよい日、腰に一瓢をさげて、剣山にのぼり、たきぎを拾ひ集める事である。いい加減、たきぎ拾ひに疲れると、岩上に大あぐらをかき、えへん! と偉さうに咳ばらひを一つして、
「よい眺めぢやなう。」
と言ひ、それから、おもむろに腰の瓢のお酒を飲む。実に、楽しさうな顔をしてゐる。うちにゐる時とは別人の観がある。ただ変らないのは、右の頬の大きい瘤くらゐのものである。この瘤は、いまから二十年ほど前、お爺さんが五十の坂を越した年の秋、右の頬がへんに暖くなつて、むずかゆく、そのうちに頬が少しづつふくらみ、撫でさすつてゐると、いよいよ大きくなつて、お爺さんは淋しさうに笑ひ、
「こりや、いい孫が出来た。」と言つたが、息子の聖人は頗るまじめに、
「頬から子供が生れる事はござりません。」と興覚めた事を言ひ、また、お婆さんも、
「いのちにかかはるものではないでせうね。」と、にこりともせず一言、尋ねただけで、それ以上、その瘤に対して何の関心も示してくれない。かへつて、近所の人が、同情して、どういふわけでそんな瘤が出来たのでせうね、痛みませんか、さぞやジヤマツケでせうね、などとお見舞ひの言葉を述べる。しかし、お爺さんは、笑つてかぶりを振る。ジヤマツケどころか、お爺さんは、いまは、この瘤を本当に、自分の可愛い孫のやうに思ひ、自分の孤独を慰めてくれる唯一の相手として、朝起きて顔を洗ふ時にも、特別にていねいにこの瘤に清水をかけて洗ひ清めてゐるのである。けふのやうに、山でひとりで、お酒を飲んで御機嫌の時には、この瘤は殊にも、お爺さんに無くてかなはぬ恰好の話相手である。お爺さんは岩の上に大あぐらをかき、瓢のお酒を飲みながら、頬の瘤を撫で、
「なあに、こはい事なんか無いさ。遠慮には及びませぬて。人間すべからく酔ふべしぢや。まじめにも、程度がありますよ。阿波聖人とは恐れいる。お見それ申しましたよ。偉いんだつてねえ。」など、誰やらの悪口を瘤に囁き、さうして、えへん! と高く咳ばらひをするのである。
カゼガ ゴウゴウ フイテキテ
春の夕立ちは、珍しい。しかし、剣山ほどの高い山に於いては、このやうな天候の異変も、しばしばあると思はなければなるまい。山は雨のために白く煙り、雉、山鳥があちこちから、ぱつぱつと飛び立つて矢のやうに早く、雨を避けようとして林の中に逃げ込む。お爺さんは、あわてず、にこにこして、
「この瘤が、雨に打たれてヒンヤリするのも悪くないわい。」
と言ひ、なほもしばらく岩の上にあぐらをかいたまま、雨の景色を眺めてゐたが、雨はいよいよ強くなり、いつかうに止みさうにも見えないので、
「こりや、どうも、ヒンヤリしすぎて寒くなつた。」と言つて立ち上り、大きいくしやみを一つして、それから拾ひ集めた柴を背負ひ、こそこそと林の中に這入つて行く。林の中は、雨宿りの鳥獣で大混雑である。
「はい、ごめんよ。ちよつと、ごめんよ。」
とお爺さんは、猿や兎や山鳩に、いちいち上機嫌で挨拶して林の奥に進み、山桜の大木の根もとが広い虚うろになつてゐるのに潜り込んで、
「やあ、これはいい座敷だ。どうです、みなさんも、」と兎たちに呼びかけ、「この座敷には偉いお婆さんも聖人もゐませんから、どうか、遠慮なく、どうぞ。」などと、ひどくはしやいで、そのうちに、すうすう小さい鼾をかいて寝てしまつた。酒飲みといふものは酔つてつまらぬ事も言ふけれど、しかし、たいていは、このやうに罪の無いものである。
ユフダチ ヤムノヲ マツウチニ
この月は、春の下弦の月である。浅みどり、とでもいふのか、水のやうな空に、その月が浮び、林の中にも月影が、松葉のやうに一ぱいこぼれ落ちてゐる。しかし、お爺さんは、まだすやすや眠つてゐる。蝙蝠が、はたはたと木の虚うろから飛んで出た。お爺さんは、ふと眼をさまし、もう夜になつてゐるので驚き、
「これは、いけない。」
と言ひ、すぐ眼の前に浮ぶのは、あのまじめなお婆さんの顔と、おごそかな聖人の顔で、ああ、これは、とんだ事になつた、あの人たちは未だ私を叱つた事は無いけれども、しかし、どうも、こんなにおそく帰つたのでは、どうも気まづい事になりさうだ、えい、お酒はもう無いか、と瓢を振れば、底に幽かにピチヤピチヤといふ音がする。
「あるわい。」と、にはかに勢ひづいて、一滴のこさず飲みほして、ほろりと酔ひ、「や、月が出てゐる。春宵一刻、――」などと、つまらぬ事を呟きながら木の虚うろから這ひ出ると、
ミレバ フシギダ ユメデシヨカ
といふ事になるのである。
見よ。林の奥の草原に、この世のものとも思へぬ不可思議の光景が展開されてゐるのである。鬼、といふものは、どんなものだか、私は知らない。見た事が無いからである。幼少の頃から、その絵姿には、うんざりするくらゐたくさんお目にかかつて来たが、その実物に面接するの光栄には未だ浴してゐないのである。鬼にも、いろいろの種類があるらしい。××××鬼、××××鬼、などと憎むべきものを鬼と呼ぶところから見ても、これはとにかく醜悪の性格を有する生き物らしいと思つてゐると、また一方に於いては、文壇の鬼才何某先生の傑作、などといふ文句が新聞の新刊書案内欄に出てゐたりするので、まごついてしまふ。まさか、その何某先生が鬼のやうな醜悪の才能を持つてゐるといふ事実を暴露し、以て世人に警告を発するつもりで、その案内欄に鬼才などといふ怪しむべき奇妙な言葉を使用したのでもあるまい。甚だしきに到つては、文学の鬼、などといふ、ぶしつけな、ひどい言葉を何某先生に捧げたりしてゐて、これではいくら何でも、その何某先生も御立腹なさるだらうと思ふと、また、さうでもないらしく、その何某先生は、そんな失礼千万の醜悪な綽名をつけられても、まんざらでないらしく、御自身ひそかにその奇怪の称号を許容してゐるらしいといふ噂などを聞いて、迂愚の私は、いよいよ戸惑ふばかりである。あの、虎の皮のふんどしをした赤つらの、さうしてぶざいくな鉄の棒みたいなものを持つた鬼が、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである。鬼才だの、文学の鬼だのといふ難解な言葉は、あまり使用しないはうがいいのではあるまいか、とかねてから愚案してゐた次第であるが、しかし、それは私の見聞の狭い故であつて、鬼にも、いろいろの種類があるのかも知れない。このへんで、日本百科辞典でも、ちよつと覗いてみると、私もたちまち老幼婦女子の尊敬の的たる博学の士に一変して、(世の物識りといふものは、たいていそんなものである)しさいらしい顔をして、鬼に就いて縷々千万言を開陳できるのでもあらうが、生憎と私は壕の中にしやがんで、さうして膝の上には、子供の絵本が一冊ひろげられてあるきりなのである。私は、ただこの絵本の絵に依つて、論断せざるを得ないのである。
見よ。林の奥の、やや広い草原に、異形の物が十数人、と言ふのか、十数匹と言ふのか、とにかく、まぎれもない虎の皮のふんどしをした、あの、赤い巨大の生き物が、円陣を作つて坐り、月下の宴のさいちゆうである。
お爺さん、はじめは、ぎよつとしたが、しかし、お酒飲みといふものは、お酒を飲んでゐない時には意気地が無くてからきし駄目でも、酔つてゐる時には、かへつて衆にすぐれて度胸のいいところなど、見せてくれるものである。お爺さんは、いまは、ほろ酔ひである。かの厳粛なるお婆さんをも、また品行方正の聖人をも、なに恐れんやといふやうなかなりの勇者になつてゐるのである。眼前の異様の風景に接して、腰を抜かすなどといふ醜態を示す事は無かつた。虚うろから出た四つ這ひの形のままで、前方の怪しい酒宴のさまを熟視し、
「気持よささうに、酔つてゐる。」とつぶやき、さうして何だか、胸の奥底から、妙なよろこばしさが湧いて出て来た。お酒飲みといふものは、よそのものたちが酔つてゐるのを見ても、一種のよろこばしさを覚えるものらしい。所謂利己主義者ではないのであらう。つまり、隣家の仕合せに対して乾盃を挙げるといふやうな博愛心に似たものを持つてゐるのかも知れない。自分も酔ひたいが、隣人もまた、共に楽しく酔つてくれたら、そのよろこびは倍加するもののやうである。お爺さんだつて、知つてゐる。眼前の、その、人とも動物ともつかぬ赤い巨大の生き物が、鬼といふおそろしい種族のものであるといふ事は、直覚してゐる。虎の皮のふんどし一つに依つても、それは間違ひの無い事だ。しかし、その鬼どもは、いま機嫌よく酔つてゐる。お爺さんも酔つてゐる。これは、どうしても、親和の感の起らざるを得ないところだ。お爺さんは、四つ這ひの形のままで、なほもよく月下の異様の酒宴を眺める。鬼、と言つても、この眼前の鬼どもは、××××鬼、××××鬼などの如く、佞悪の性質を有してゐる種族のものでは無く、顔こそ赤くおそろしげではあるが、ひどく陽気で無邪気な鬼のやうだ、とお爺さんは見てとつた。お爺さんのこの判定は、だいたいに於いて的中してゐた。つまり、この鬼どもは、剣山の隠者とでも称すべき頗る温和な性格の鬼なのである。地獄の鬼などとは、まるつきり種族が違つてゐるのである。だいいち、鉄棒などといふ物騒なものを持つてゐない。これすなはち、害心を有してゐない証拠と言つてよい。しかし、隠者とは言つても、かの竹林の賢者たちのやうに、ありあまる知識をもてあまして、竹林に逃げ込んだといふやうなものでは無くて、この剣山の隠者の心は甚だ愚である。仙といふ字は山の人と書かれてゐるから、何でもかまはぬ、山の奥に住んでゐる人を仙人と称してよろしいといふ、ひどく簡明の学説を聞いた事があるけれども、かりにその学説に従ふなら、この剣山の隠者たちも、その心いかに愚なりと雖も、仙の尊称を奏呈して然るべきものかも知れない。とにかく、いま月下の宴に打興じてゐるこの一群の赤く巨大の生き物は、鬼と呼ぶよりは、隠者または仙人と呼称するはうが妥当のやうなしろものなのである。その心の愚なる事は既に言つたが、その酒宴の有様を見るに、ただ意味も無く奇声を発し、膝をたたいて大笑ひ、または立ち上つて矢鱈にはねまはり、または巨大のからだを丸くして円陣の端から端まで、ごろごろところがつて行き、それが踊りのつもりらしいのだから、その智能の程度は察するにあまりあり、芸の無い事おびただしい。この一事を以てしても、鬼才とか、文学の鬼とかいふ言葉は、まるで無意味なものだといふことを証明できるやうに思はれる。こんな愚かな芸無しどもが、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである。お爺さんも、この低能の踊りには呆れた。ひとりでくすくす笑ひ、
「なんてまあ、下手な踊りだ。ひとつ、私の手踊りでも見せてあげませうかい。」とつぶやく。
スグニ トビダシ ヲドツタラ
コブガ フラフラ ユレルノデ
お爺さんには、ほろ酔ひの勇気がある。なほその上、鬼どもに対し、親和の情を抱いてゐるのであるから、何の恐れるところもなく、円陣のまんなかに飛び込んで、お爺さんご自慢の阿波踊りを踊つて、
赤い襷に迷ふも無理やない
嫁も笠きて行かぬか来い来い
とかいふ阿波の俗謡をいい声で歌ふ。鬼ども、喜んだのなんの、キヤツキヤツケタケタと奇妙な声を発し、よだれやら涙やらを流して笑ひころげる。お爺さんは調子に乗つて、
大谷通れば石ばかり
笹山通れば笹ばかり
とさらに一段と声をはり上げて歌ひつづけ、いよいよ軽妙に踊り抜く。
ツキヨニヤ カナラズ ヤツテキテ
ヲドリ ヲドツテ ミセトクレ
ソノ ヤクソクノ オシルシニ
と言ひ出し、鬼たち互ひにひそひそ小声で相談し合ひ、どうもあの頬ぺたの瘤はてかてか光つて、なみなみならぬ宝物のやうに見えるではないか、あれをあづかつて置いたら、きつとまたやつて来るに違ひない、と愚昧なる推量をして、矢庭に瘤をむしり取る。無智ではあるが、やはり永く山奥に住んでゐるおかげで、何か仙術みたいなものを覚え込んでゐたのかも知れない。何の造作も無く綺麗に瘤をむしり取つた。
お爺さんは驚き、
「や、それは困ります。私の孫ですよ。」と言へば、鬼たち、得意さうにわつと歓声を挙げる。
コブヲ トラレタ オヂイサン
ツマラナサウニ ホホヲ ナデ
オヤマヲ オリテ ユキマシタ
瘤は孤独のお爺さんにとつて、唯一の話相手だつたのだから、その瘤を取られて、お爺さんは少し淋しい。しかしまた、軽くなつた頬が朝風に撫でられるのも、悪い気持のものではない。結局まあ、損も得も無く、一長一短といふやうなところか、久しぶりで思ふぞんぶん歌つたり踊つたりしただけが得とく、といふ事になるかな? など、のんきな事を考へながら山を降りて来たら、途中で、野良へ出かける息子の聖人とばつたり出逢ふ。
「おはやうござります。」と聖人は、頬被りをとつて荘重に朝の挨拶をする。
「いやあ。」とお爺さんは、ただまごついてゐる。それだけで左右に別れる。お爺さんの瘤が一夜のうちに消失してゐるのを見てとつて、さすがの聖人も、内心すこしく驚いたのであるが、しかし、父母の容貌に就いてとやかくの批評がましい事を言ふのは、聖人の道にそむくと思ひ、気附かぬ振りして黙つて別れたのである。
家に帰るとお婆さんは、
「お帰りなさいまし。」と落ちついて言ひ、昨夜はどうしましたとか何とかいふ事はいつさい問はず、「おみおつけが冷たくなりまして、」と低くつぶやいて、お爺さんの朝食の支度をする。
「いや、冷たくてもいいさ。あたためるには及びませんよ。」とお爺さんは、やたらに遠慮して小さくかしこまり、朝食のお膳につく。お婆さんにお給仕されてごはんを食べながら、お爺さんは、昨夜の不思議な出来事を知らせてやりたくて仕様が無い。しかし、お婆さんの儼然たる態度に圧倒されて、言葉が喉のあたりにひつからまつて何も言へない。うつむいて、わびしくごはんを食べてゐる。
「瘤が、しなびたやうですね。」お婆さんは、ぽつんと言つた。
「うむ。」もう何も言ひたくなかつた。
「破れて、水が出たのでせう。」とお婆さんは事も無げに言つて、澄ましてゐる。
「うむ。」
「また、水がたまつて腫れるんでせうね。」
「さうだらう。」
結局、このお爺さんの一家に於いて、瘤の事などは何の問題にもならなかつたわけである。ところが、このお爺さんの近所に、もうひとり、左の頬にジヤマツケな瘤を持つてるお爺さんがゐたのである。さうして、このお爺さんこそ、その左の頬の瘤を、本当に、ジヤマツケなものとして憎み、とかくこの瘤が私の出世のさまたげ、この瘤のため、私はどんなに人からあなどられ嘲笑せられて来た事か、と日に幾度か鏡を覗いて溜息を吐き、頬髯を長く伸ばしてその瘤を髯の中に埋没させて見えなくしてしまはうとたくらんだが、悲しい哉、瘤の頂きが白髯の四海波の間から初日出のやうにあざやかにあらはれ、かへつて天下の奇観を呈するやうになつたのである。もともとこのお爺さんの人品骨柄は、いやしく無い。体躯は堂々、鼻も大きく眼光も鋭い。言語動作は重々しく、思慮分別も十分の如くに見える。服装だつて、どうしてなかなか立派で、それに何やら学問もあるさうで、また、財産も、あのお酒飲みのお爺さんなどとは較べものにならぬくらゐどつさりあるとかいふ話で、近所の人たちも皆このお爺さんに一目いちもく置いて、「旦那」あるいは「先生」などといふ尊称を奉り、何もかも結構、立派なお方ではあつたが、どうもその左の頬のジヤマツケな瘤のために、旦那は日夜、鬱々として楽しまない。このお爺さんのおかみさんは、ひどく若い。三十六歳である。そんなに Permalink | 記事への反応(0) | 18:24
昨今の「日本の女性クリエイターがいなかった」との誤解にまつわる話で、「紀貫之は平安時代に土佐日記を書いたじゃん」って話が出てくるけど、そこで「当時の仮名は漢字より格下扱いだったのを、どう解釈してるのか」という趣旨のブコメがあったので個人的な所感を書きます。なお、自分は別に国文の専門家というわけではなく、単なる古典オタクの増田です。
まず、かなが「格下」という話ですが、漢字は公式なものであり外に出す文書に使われるもので思想を記すもの 、かなは非公式なものであり内々のもので心情を記すものです。前者は男の領域で、後者は女の領域ですね。当時の社会構造において、男がやることと女がやることは明確に区別をされておりました。これは現代では差別と言われることですが、当時は必然的な分業です。格上か格下かでいうと、公が格上で私は格下、それはそうですね。
ただ、「格」という概念には上下はあるものの、格上こそ価値が高く、格下は価値が低いかというと必ずしもそうではない。和服の世界の格もそれに近いものがあって、ユースドで5000円で買った留袖と、50万円の作家ものの紬とでは、価値が高いのは後者ですが、前者のほうが格上です。格が求められるシーンにはどんなに高価でも格下は着ていけないし、格上だからといっていつでも着られるということはない。格上でないといけないシーンもあり、格下でないといけないシーンもあるわけです。格下が女と紐付けられていることは必ずしも差別とは言い切れない、そういう要素もあるかと思います。さらにいうと、当時は男女差別以上に出自での差別が厳然としてあったわけですしね。
さて、紀貫之ですが、紀氏という氏族自体、すでに当時は落ち目でした。まあ貴族ではあるんですけど、中央で偉くなれるような血筋じゃない。学者になるか国司になるかがキャリアのゴールです。さらにいうと貫之は父親が早く亡くなり、母の職場(宮中で女性に舞楽を教える部署)の託児所で育ったシンママの子です。父も頼れず母の実家も頼れない、当時としては産まれたときから負け組なのですが、和歌の名手としては名高く、天皇からお声がかかり本邦初の勅撰和歌集を作るほどの第一人者です。漢字の世界ではパッとしないが、かなの世界では大活躍できるそういう人なわけです。
古今集の仮名序文「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」とか読むと、たぶん「和歌が認められたぜ!」ってすっごい嬉しかったのが伝わるし、それと裏腹の社会的な地位の低さに、忸怩たる思いもあったんじゃないでしょうかね?
で、日記です。当時の日記は男が漢字で書く「業務日誌」でした。男が書く日記を女が女手で書いたらどうだろう、と、かなの世界の第一人者の紀貫之が、地方駐在から中央に帰るときにそう思ったというのは、まあなんかわかる気がします。土佐日記当時50代で従五位下だよ?土佐では国司として地元民からチヤホヤされ偉そうにできても、都に帰ったら無職の下っ端貴族よ?
まあ、そんなこんなで「かなは格下扱い、だからこそできることがあるんだぜ!」とかなの世界のおじさんは思ったんじゃないかな?「歌がヘタな客がやってきて子供のほうがよっぽどうまかったのよ」「駐在中にお家のメンテを頼んだ隣人がロクに仕事をしなかったんだけどムカつくのは私だけでしょうか?あ、お礼はちゃんとしますけどね」「駐在中に亡くなった娘のことを思うと何をみても悲しくて仕方がない」なんてのは漢字じゃ書けないでしょと。漢字で書くと単なる「家内の些事」でしかないですしね。
女になりたかったというより、かなで書きたいことがあり、かなで表現したかったんだと思います。日記をかなで書く言い訳として女になった、そういうことかと。そもそも和歌の世界では男が女になりきって恋歌を詠んだり、言ってもいない場所や、やってもいない恋を詠むのは普通、ネカマ嘘松当たり前で、そういう下敷きはありますしね。
そこで日記をかなで書いてもいいんだ、という名分ができて、そこから女性が日記を書くようになったという流れがつながります。
まとめると、かなは「格下」であったけれども、芸術の分野では和歌は漢文とならんで評価されていた。ゆえに天皇自ら和歌集を編纂させたし、歌人として名をのこす女性もいた、というのは本当。一方、社会的に差別はあって、芸術を評価する立場にいるのはだいたい男だったし、そこに差別がなかったということはない。いくら歌が上手くても出世はできない。(死んで1000年近くたってから従二位なんて遺贈されてもねえ)
ただ、格上格下については、どっちかというと分業と解釈するほうがしっくりくるかな?という所感です。女に男の役割はできなかったし、男に女の役割はできず、越境するには嘘が必要だったし、その嘘は認められていた。それは今日では差別と解釈されるわけですけどね。
というか、日本において芸能とか芸術とかいうのは、神事以外は基本的には「格下」なので、それを差別というならまあ差別なんですが「格下としつつも、良きものについてはやんごとなき方が評価し、後世に継承される」そこはわりと一貫しているので、そういうとこが日本におけるクリエイターの立ち位置の特殊性でもあり、「日本は差別が残る後進国」ってことにしたい人からは今ひとつ理解されづらいのかも。歴史的にクリエイター全体がエディターより格下で、日本においては編集者やらディレクターがやたらいばっていて、そっち側には男女差別は色濃く残ってるわけよ。クリエイターなんて替えが効く木っ端商売なんだから男だろうと女だろうと関係ないってわけ。それをまとめて宣伝して金にするやつが権力持ってて、そこは一部を除いてボーイズクラブだよね。
すごいシニカルに考えると、クリエイターの到達点って園遊会にお呼ばれしたり勲章もらうことだったりするので「上つ方に認められればすべての差別はチャラ」という身分制があるだけといえなくはないし、そういう言い方すると自称先進国様からもご理解いただけるのかもね?
新しいディスプレイを買う。箱を開ける。
まず最初にすることは何か?
そう、付属のモニタースタンドを袋から取り出し、一度も組み立てることなく、箱の奥底かクローゼットの闇へ葬り去ることだ。
俺の部屋には、これまでに買ったディスプレイの「未使用のスタンド」が山のように積み上げられている。
特にゲーミングディスプレイとかいう奴らに多いんだけど、足が三又になっていたり、やたら奥行きが長かったりする。
あのスタンドを設置した時点で、俺の大切なデスクスペースの20%が死ぬ。
ノートPCを置く場所も、キーボードを置く位置も、すべてその「ゴミみたいなプラスチック」のせいで制限される。
結局、我々はみんなモニターアームを使う。
あのスタンドは、最初から「モニターアームまでの繋ぎ」でしかない。
「調整できない」という罪
さらにたちが悪いのは、そのスタンドが「調整機能」をほとんど持っていないことだ。
上下の高さ調整? なし。
チルト(角度)調整? 申し訳程度。
結局、モニターアームを買うハメになる。
最初からアームを使うことが前提のユーザーにとって、あの付属スタンドは「最初からゴミとして梱包されている重量物」でしかない。
全世界で、どれだけのモニタースタンドが「未使用のままゴミとして廃棄」されていると思っているんだ?
すべてが環境負荷だ。
もし本当に環境のことを考えるなら、SKU(在庫管理単位)を分けてほしい。
通常版(スタンドあり)
この選択肢を作ればいいだけだろう。
ディスプレイの本体価格が1,000円や2,000円安くなるなら、全員が「スタンドレス版」を選ぶはずだ。
メーカーとしてもコストダウンになるし、ユーザーも邪魔なゴミが減るし、環境にも優しい。Win-Winじゃないか。
そろそろ、この「当然のごとくスタンドがついてくる」という古い常識を壊してほしい。
インターホンに出ると、ド金髪の若者がモニタに映し出されて一瞬身を硬くした。
若者はだるそうに「あーぜぇース」と言った。何?
やっとわかった。彼はAmazonの配達員で、「アマゾンでーす」と述べたつもりだったのだ。たぶん。
女房はよくAmazonで化粧品を買うので今日もまたそれらのひとつが届いたのだろう。
受け取りに出ると、当然のことだが、先ほどインターホンに映し出された若者がそこにいた。
現物全身の印象は、インターホンから受けた警戒感の上を行くものだった。
ド金髪の頭の下は、よれよれのグレーのスエット上下、素足にサンダルなのである。
サンダル言うてもあれよ、アウトドアカジュアル的なオシャレなやつじゃなくってよ。
刑事被告人が出廷の際に逃走防止にために履かされる便所サンダルよりは少しいいかなくらいのやつよ。
部屋着やん。深夜なら近所のコンビニにギリ行けるかなくらいのラインやん。
雪が細かく、音もなく降り続けていた。山奥の駐車場は、白いヴェールをかけた舞台のように静かだった。気温はマイナス九度を下回っていた。吐き出された息が、空気に触れた瞬間に白く凍りつき、すぐに雪の景色に溶け込んで消える。まるで、どんな言葉もこの白さの前に無力だと言われているようだった。8人の男たちが車を降りた。誰も何も言わなかった。服を脱ぐ動作も、いつものように淡々としていた。ここでは余計な言葉は必要ない。必要なのは、ただその場所にいることだけだった。
全員が完全に裸だった。頭はつるりと剃り上げられたスキンヘッドで、眉以外の毛は一本も残っていない。陰部も、陰嚢も、アナル周りも、すべてパイパンに処理されていた。肌は深い墨色に焼き上げられていた。長年かけて全身を黒く日焼けさせた結果、雪の白さと冷たい光の中で、その肉体は磨き上げられた黒檀のように艶やかに浮かび上がっていた。そして8人全員が、容赦ない寒さの中で勃起していた。8本の黒い肉棒が、冷気の中で血管をくっきりと浮き立たせ、太く反り返っている。男たちの黒紫色の亀頭は張り詰め、先端から透明な液が長く糸を引いて、雪の風にわずかに震えていた。リーダーはその中心に立っていた。
彼は元々は一人でPornhubに全裸の滝行動画を上げ続けていた。その滑らかな黒い頭と、淀みない黒い体は、すでに何万もの視線を集めていた。彼の肉棒は特に重厚で、根元から太い血管が何本も盛り上がり、冷風の中でゆっくりと脈打っていた。俺もその一人だった。最初はただ動画を見ていただけだった。いつしか憧れが強くなり、毛をすべて落とし、体を黒く焼き、このサークルに加わっていた。今もこうして、雪の中で勃起したまま立っている。他の6人も同じだった。肩幅の広い者、脚の太い者、腹にわずかな厚みのある者。それぞれ体型は違うが、誰もが同じ条件を満たしていた。全身黒く焼け、すべてを剃り上げ、寒さの中で硬く反り返った肉棒を晒している。
「よし、行くぞ」
リーダーが短く言った。8人は雪の山道を歩き始めた。膝下まで積もった新雪を、ゆっくりと掻き分ける。雪は音を吸い取り、足音さえも柔らかく飲み込んでしまう。8人の黒い裸身が、白い世界の中で静かに動いていく。その姿は、まるで墨で描かれた線が、白い紙の上をゆっくりと横切っているようだった。歩くたびに、8本の黒い肉棒が優雅に上下に揺れた。冷たい風が亀頭を撫で、先端から透明な糸が長く伸びては、純白の雪の上に落ちる。一瞬だけ光るその滴は、すぐに新たな雪片に埋もれて消えた。肩や頭に積もる細かな雪が、体温で溶けて冷たい水の筋となり、黒い胸や腹、太ももを伝い落ちる。その軌跡が、黒い肌の上に一瞬の白い光を描き、すぐに消える。雪はすべてを等しく覆う。汚れも、熱も、言葉も。寒さは肉体をより敏感にし、黒い肌の表面を張り詰めさせ、血管の一本一本までを際立たせる。反り返った肉棒の先端に雪片が触れては溶け、冷たさと熱が同時に体を貫く。その感覚は痛みとも快楽ともいえる。誰も声を上げなかった。荒い白い息遣いだけが、静寂の中でかすかに重なる。黒い肉体同士の距離は近く、時折視線が交差する。その視線は雪の白さの中で、言葉にならない熱を静かに伝え合っていた。
この雪の中を歩く8人の姿は、奇妙に美しかった。黒と白のコントラストが極限まで研ぎ澄まされ、俗世の雑音をすべて削ぎ落とした、静かな絵のようだった。雪は清め、雪は美化する。そして雪は、すべてを無に帰す。それでも、そこには確かに青春の爽やかさが満ち溢れていた。
二十代半ばの若者たち。大学を卒業して社会に出た者もいれば、まだ学生の者もいる。誰もが忙しい日常を離れ、ただこの山に来て、体を黒く焼き、毛を落とし、寒さと水に打たれることを選んでいる。
憧れだった。潔さだった。自分を極限まで削ぎ落として、ただ「あるがまま」に立つことの、痛いほどの爽快感だった。
雪の中で勃起したまま歩くこの行為は、どこか馬鹿げているようにも見える。だが、同時にひどく真っ直ぐで、ひどく若々しかった。
寒さで体が震えながらも、誰一人として萎えない肉棒。痛いほどに硬く反り返ったそれは、青春そのものの象徴のようにさえ思えた。
恥じらいを捨て、視線を恐れず、ただ前を向いて歩く。笑いも、照れも、すべてを飲み込んだような潔い笑顔が、時折浮かぶ。
俺たちの姿は、汚れを知らない、荒々しくも清らかな青春の匂いがした。まるで夏の部活後の汗のように、痛快で、眩しくて、胸の奥がすっと軽くなるような爽やかさだった。
滝に着くと、水音が一気にその静けさを破った。半分凍りついた滝。巨大な氷柱が牙のように垂れ下がり、中央の流れだけが容赦なく落ち続けている。
1周目は一人ずつだった。最初の一人が滝の下へ入る。黒いスキンヘッドに凍てつく水が叩きつけられ、体がビクンと硬直する。水の勢いが黒い胸を打ち、腹を滑り、反り返った肉棒を激しく打ち据える。肉棒は左右に激しく揺れながらも、さらに硬く張り詰め、血管を鮮明に浮かび上がらせる。黒い肌が水に濡れて艶やかに光り、雪の白さと重なって、まるで黒い宝石が洗われているようだった。次々と、黒い裸身が滝に打たれていく。誰もが背筋を伸ばし、目を見開き、水圧と寒さに耐えながら勃起を保っていた。水に打たれるたび、黒い肉棒が跳ね、透明な液が水しぶきに混じって飛び散る。その姿は、雪の中で鍛えられた肉体が、さらに純粋な水によって磨かれ、輝きを増しているように見えた。若さの勢いが、水しぶきとともに弾けているようだった。
リーダーの番になった。彼は堂々と滝の中心に立った。長年の経験から姿勢は完璧だった。凍てつく水が頭から肩、胸、腹、そして重厚な黒い肉棒を容赦なく打ち据える。肉棒は激しく揺さぶられながらも、ますます太く硬くなり、先端から大量の液が水に混じって流れ落ちる。黒い肌全体が水に濡れて鏡のように輝き、雪の白い背景の中で、動く黒い彫像が儀式を行っているかのようだった。
最後に俺だった。冷水が全身を一瞬で支配する。黒い肌が赤く熱を帯び、反り返った肉棒が水圧で激しく打たれる。痛みと快楽が混じり合い、雪の中で育まれた感覚がさらに鋭くなる。若い体が、水の冷たさを跳ね返すように、生き生きと反応していた。
休憩を挟んで、2周目はペアで行うことになった。俺とリーダーが肩を並べて滝の下に入った。二人の黒い裸身が、ほとんど触れ合う距離で並ぶ。二本の逞しい黒い肉棒が、水の勢いで激しく揺れ合い、時折先端が軽く触れ合う。冷水の中で、二人は同時に声を上げた。「はあっ……うおおっ」リーダーの低い、喉を震わせるような声。「んああっ……はああっ」俺の、熱く途切れ途切れの叫び。二人の黒い肌と黒い肉棒が、滝の中で静かに響き合うような気がした。雪の白さと水の透明さが、二人の黒さをより深く、力強く際立たせていた。若さの熱が、水しぶきを飛び散らせながら、爽やかに弾けていた。滝行の終わり近く、俺たちは雄叫びを上げながら、ほぼ同時に射精した。白い精液が凍てつく水の中に勢いよく飛び散り、すぐに雪の白さに溶け込んで消えた。
全裸黒い男たちが横一列に並び滝に深く礼をした。
「清められたな」
「……はい」
帰り道、8人の黒い裸身が湯気を立てながら雪道を戻る。雪は再びすべてを優しく覆い始め、さっきの熱と叫びを静かに記憶の中に封じ込めるようだった。俺とリーダーは少し遅れて歩いた。木陰に入ったわずかな瞬間、手を握り合った。冷え切った指先が触れ合い、互いの熱だけが一瞬、強く結ばれる。すぐに離し、また何事もなかったように歩き出した。駐車場に戻ると、皆が無言で服を着始めた。リーダーと俺も最後にジャケットを羽織り、車に乗り込んだ。
「今日もいい滝行だったな」
「次はいつにする?」
希死念慮が出るほど辛い時期を乗り越え、戻ってこられたこと、本当に本当にお疲れ様でした。まずは、ご自身を最大限に褒めてあげてください。
うつ病が寛解(症状が治まること)した後、「以前のようなバイタリティ(情熱・やる気)が戻ってこない」と感じる方は非常に多いです。結論から言うと、「治ったはずなのにやる気が出ない」のは決してあなただけではありません。
1. なぜ「昔の情熱」が戻ってこないのか?
うつ病は脳が深刻なエネルギー不足に陥った状態です。希死念慮があったほどの負荷がかかった後、脳は「また倒れるかもしれない」と警戒し、以前のように100%のエネルギーを出さないよう制御している可能性が高いです。いわば「省エネモード」です。
もし以前の情熱が、無理や焦りから来ていた場合、それが「正常な状態」ではなかった可能性もあります。今は「健康な静けさ」の中にいるのに、過去の「ハイテンション」と比較して「やる気がない」と誤解しているかもしれません。
「早く元に戻りたい」という焦りが、かえって「1日中やる気が出ない」という徒労感につながっています。
2. 「うつが治った人」みんなこんな感じ?
うつ病の回復プロセスでは、「症状が消える」のが最初で、「情熱や楽しさを感じる心」が戻ってくるのは最後と言われています。
今の状態: 気分の落ち込みや希死念慮はない(素晴らしい進歩!)
これからの過程: 興味やバイタリティが少しずつ戻ってくる(数ヶ月〜年単位のことも)
良くなったと思っても、波のように調子が上下することもあり、それは自然な過程の一部です。
3. どうすればいい?(焦らないための考え方)
「元の自分に戻りたい」ではなく、「新しい、無理をしない自分を作る」と考え方を変えてみてください。以前のあなたには、その情熱が必要でしたが、今のあなたには「穏やかに過ごすこと」が必要かもしれません。
「やらないこと」を決める
1日中やる気が出ないなら、無理に何かをする必要はありません。今は「静かに過ごすこと」が最大のエネルギー充填です。
小さな変化を喜ぶ
「今日はコーヒーが美味しかった」「少し外の空気を吸えた」など、小さな良いことに目を向けてください。情熱は、急には戻りませんが、小さな安心の積み重ねで少しずつ湧いてきます。
4. 受診について
もし、今の「やる気が出ない」状態が、ただの「穏やかな日常」ではなく、「何をしても全く楽しめない(アンヘドニア)」「将来の希望が全く持てない」という場合は、まだ少し回復の途中段階にあるか、再発の前兆の可能性もあります。
診察の際に「気分は悪くないが、情熱が戻らない」と主治医に相談してみてください。薬の調整や、行動療法的なアプローチが役に立つことがあります。
今は、焦りや不満を感じても大丈夫です。戻ってこられただけで100点満点です。今の「少し物足りない、穏やかな日常」を、ゆっくりと味わう時間を持ってみてください。
東屋の屋根を激しく叩く雨音が、俺たちの世界を外界から完全に隔離した。遠くで新聞配達の原付がプルプルと音を立てて通り過ぎる以外、何の物音もない。潮風と雨の匂い、アルコールの匂いが混じり合い、頭をぼんやりと熱くさせる。俺はテーブルの上に全裸で大の字に寝そべっていた。
裸体を晒し、チンポを天井に向かってビンビンに勃起させたまま。左右にはまだ服を着たままの健と康太がいる。健は中学時代からの腐れ縁だ。高校が別々になっても、時々会って夜通し遊ぶ仲で、俺が全裸になるのはもう「当然の事」になっていた。以前も何度も繰り返してきた、二人だけの秘密の儀式みたいなものだった。一方、康太は健の高校の同級生。
健が「うちの高校の奴がお前に会いたいって言ってる」とメールで連絡してきた物好きな奴だ。
健の話によると、康太はクラスでちょっと目立つタイプで、サッカー部で一番足が速く、明るくてノリが良くて、女子からも人気があるらしい。でも根は好奇心旺盛で、悪戯好きな悪ガキが服を着たような奴だ。健が俺の「全裸になる話」を面白おかしく話したら、康太が目を輝かせて「マジで? 会わせてくれよ!」と食いついてきたんだとか。
健曰く、「康太は一度興味持ったら止まらないタイプ。俺より積極的かもな」と笑っていた。実際、さっき「はじめまして」の挨拶を交わしたばかりなのに、康太の視線は俺の裸体に遠慮なく突き刺さっていた。夜中二時頃、大雨が本格的に降り始めた。
健と康太が「もう少し飲もうか」と椅子に腰を下ろす。
テーブルの上には、酒でフラフラになりながらもフル勃起した俺がいる。康太が最初に動いた。
「チンポでけえな」
ニヤニヤした顔で、何の抵抗もなく俺の勃起チンポを右手で握ってきた。熱い指が幹を包み、親指でカリ首を軽く擦る。
俺はわざとらしく体をくねらせ、大声で反応した。
「アァァ!気持ちイいい!」
「ずっと勃起しっぱなしで苦しくないか?」と言いながら、もう片方の手で俺の乳首を摘まんできた。コリコリと指で転がし、軽く捻る。
俺が大げさに喘ぐと、東屋中に大爆笑が響いた。健は最初、若干引いた顔をしていた。
中学からの付き合いなのに、康太の積極的なタッチを見て少し戸惑っていたようだ。でも俺が過剰に体をくねらせ、わざとらしい喘ぎ声を連発すると、健も腹を抱えて笑い始めた。
「腹がよじれる!」
「じゃあ俺も」
健がついに俺のチンポを握ってきた。上下にガシガシと揺らされ、俺は当時流行っていた北島康介のネタを全力で叫ぶ。
「康介w」
「アホ水泳部w」
三人で大爆笑。康太の積極性がきっかけで、健も一気にノリノリになった。俺は嬉しくてどんどん過激になった。
「おう」
大雨の中、俺はチンポを振りながら全力疾走した。
雨粒が全身を叩き、車のヘッドライトに何度も裸体を照らされる。アドレナリンで頭が真っ白になり、怖さなんて吹き飛んでいた。ただ友達の笑顔が浮かんで、俺は笑いながら走った。
コンビニ前に着いた瞬間、スーツ姿の中年男性が雑誌を立ち読みしている姿を見て急に萎え、チンポがしぼんだ。慌てて東屋に戻ると、二人が笑いすぎてヒクヒクしながら「おかえり勇者」と迎えてくれた。
康太がタオルで俺の濡れた体を丁寧に拭きながら、
「また勃起させろよw」と言った。でも一度萎えたチンポは中々復活しない。
「シコったら勃つんじゃねぇか」
康太が呟いた。
「やめろよ」と健は言うが、俺は即座に解釈した。
するなよ!ということは、つまり…やれ!ということだ!!ダチョウ倶楽部方式だ!!!
「みんな!注目!俺のオナニーを観てくれ!」
大声で叫んで、俺はテーブルの上でシコり始めた。
最初は中々勃起せず、頭がフラフラする。康太と健が心配そうに顔を近づけて覗き込んでくる。
シコシコシコ。
ようやく硬くなり、俺はいつものスタイルに戻った。右手でチンポを激しくしごき、左手で乳首を摘まみ、足を内股に。
「普段そうやってるん?」
「ああ」
「気持ちいい?」
「ああ……」
康太が俺の右乳首を強く摘まんできた。
「おおおおおっ!」
鋭い痛みが一瞬走った。
ところが不思議なことに、痛みは全身を駆け巡る快感に変わる。俺は泣きそうになりながら、その感覚を二人に詳細に話した。
「俺はマゾかもしれない」
しばしの沈黙の後、康太の指は容赦なく乳首を捻り、引っ張り、爪を立てるように刺激してくる。初めて会ったのにまるで俺の体を自分の遊び道具みたいに扱う積極性が、健とは明らかに違っていた。康太はそんな男だ。
俺は無言で立ち上がり、オナニーを続ける。
「こんなまじめな表情してたんだw」
「顔芸?」
「乳首つまんでいい?」
「はい!」
「マゾかよw」
「康太、片方頼む」
「おうまかせろ!」
健と康太が左右の乳首を同時に容赦なく摘まみ、強く捻り、引っ張り、指の腹で擦りまくる。
「うぎゃあああああああああー!」
俺は叫び声を上げ、体をビクビク震わせた。痛いのに、痛いほど気持ちいい。乳首が熱く腫れ上がるような感覚が、チンポに直結して快感を増幅させる。
康太の指は特に強く、俺の反応を楽しむように力を加減しながら責めてくる。
「たえろ!耐えろよ。」
「うっす……」
完全に二人のおもちゃになっていた。
康太の積極的な責めと、健のノリに乗りながらも少し遠慮が残るタッチのコントラストが、俺をさらに興奮させた。ずっと心のどこかで、こんな風に親友二人に徹底的に責められることを願っていたのかもしれない。康太がチンポを握ってシコるスピードを上げ、健が乳首をさらに激しく捻る。
俺はもう限界だった。
「超気持ちいいいいいい!」
北島康介のセリフを全力で叫びながら、熱い精液を勢いよく噴射させた。でも、まだ勃起は収まらない。
「賢者モードとか無いのかよw」
「まったくないw」
俺は再びシコり始め、
「雨に打たれながらシコるので見ててw」
「ちょっと泳いでくるw」と言いながら、東屋の外へ出て大雨に打たれ、海に飛び込んだ。
明け方。雨が止んでセミが鳴き始めた頃、俺はヒクヒク震えながら立っているのもやっとだった。
何度射精したのだろう。
健と康太が無理やり全裸の俺を押さえつける。
「男の潮吹きって見てみたいな」
健が言った。康太が俺のチンポを激しくシコり続け、健が乳首を容赦なく責め続ける。
最後の瞬間、透明で清潔な液体が噴水のように勢いよく噴き出した。
「止まらねえな」
「ああ……止まらねえ……」
全身真っ黒に日焼けした俺を見て、康太が驚いた顔をした。
「今更かよw」
雨上がりの朝の空気が爽やかで、どこか甘く感じられた。