はてなキーワード: ミスリードとは
震度の強弱は例えば4.8なら5弱で5.3なら5強なのに、なぜか5.3が5弱で5.8が5強と誤解されている所までがセットの高度なミスリードなんだな。
これって典型的なチェリーピッキングで2005年までの数字しか出してないのがせこいよな
2005年~2010年で非正規雇用が123万増えたというならその時の派遣社員の数も併記すべきだろう
派遣社員は2005年106万で2010年96万で減ってるけどこれ書いたら説得力なくなるもんな(ミスリードしようとしてるんはお前や)
2003年改正で製造業務への派遣解禁と、26業務以外の派遣受入期間の1年から最長3年への延長が行われました。
問題は“ゼロから作ったかどうか”ではなく、派遣を常用代替に使いやすくする方向へ制度をさらに押し広げたことにあります。厚労省の整理でも、2004年3月の製造業務派遣解禁後、2000年から2005年にかけて「労働者派遣事業所の派遣社員」は73万人増となっています。
製造業は日本の基幹産業で、景気変動時の雇用調整の圧力が強い部門です。そこに派遣を本格導入したことで、工場現場の雇用を、直接雇用より切りやすい形へ制度的に開いたことが重要なのであって、「全体の人数では非製造業のほうが多い」というのは、影響の質を無視したミスリードです。実際、リーマンショック時には製造業派遣切りが社会問題化し、その脆弱性が露呈しました。
制度改革の影響は、単純な頭数だけでは測れません。派遣法改正は、派遣社員そのものの増加だけでなく、企業に対して“正社員以外を使うことは当たり前だ”という制度的シグナルを与えました。厚労省の労働経済分析でも、2000年から2005年にかけて派遣社員が73万人増え、2005年から2010年にかけても非正規雇用は123万人増と整理されています。つまり派遣は非正規化の“唯一の原因”ではないにせよ、非正規化を押し広げた重要な制度要因の一つです。
これは、火事の出火点が一部屋だから「家全体の延焼原因ではない」と言っているようなものです。非正規化は、パート、アルバイト、契約、嘱託、派遣など複数の形態が積み重なって進みましたが、派遣規制緩和はその中で、企業が直接雇用責任を薄めながら人を使うことを正当化した象徴的政策でした。だから批判され続けているのです。
実に興味深くない。28点。
とある閑静な寂れた田舎町で有村架純の父親が殺される事件が発生。被害者の弟であり元世界を席巻した天才マジシャンの福山雅治がやってきて現場をかき回しながら事件の究明に挑む。
みたいな話ちゃうの?知らんけど。
俺は映像化、特に映画やドラマといったフィクションエンタメにするべきではないものがいくつか存在すると思ってるんだけど、その中の一つが「マジック」で、この作品はそれを最も使用すべきではない方法で使用していると思う。なんでマジックはフィクションエンタメ映像に向いてないかって言うと、そのジャンルにおいて「できなさそうなことをできているように見せる」ことは非常に日常的であり特別なことではないからで、マジックは「できなさそうなことをできているように見せる」ことの非日常性こそが大切なジャンルだから。
冒頭、福山雅治が現役時代にアメリカで行った大掛かりなプロジェクションマッピングでのイリュージョンショーが見せられるんだけど、CGみたいなニンジャが出てきたり消えたり、分裂したり、場所が入れ替わったりするんだけど、実際にこれを生でやっていて現場や無編集の映像で見られらたらおぉ~ってなると思うんだけど、映画という媒体で見たときには一気に「安っぽい映像」になっちゃう。
いや、作中では生でやってる設定なんだから驚いてください!って言われてもいやこれ映画やしってなる。これは本能レベルでなるからどうしようもない。だって現代のVFX技術がある前提で作られた映画じゃん。それはもう何をどうしたってそうじゃん。
一方で福山雅治が現代で作劇とは何の意味もなくちょこちょこライターを消したり、トランプを食ったり吐いたりするマジックを披露するんだけど今度はこれがヘタクソすぎて見るに堪えない。いや、たぶんましゃが一生懸命練習して本人がちゃんとやったんだと思うよ。でもさぁ、思うんよね。トランプをシャーッて口に入れてシャーッて吐くマジック。福山画角のドアップで見せること自体が間違ってんじゃないかって。あんだけドアップで見せられたら「いや食ってないやん、口からは出てないやん」ってなるよ。
そしてさっきも書いたけど作劇上福山のマジシャン設定は全く活きてこない。だってこいつがやってることって基本的には警察からものスって後は警察からものスって、他には警察からものスることだけだもん。警察からスマホスって情報盗んで戻す。これ以外には相手を小ばかにするときにマジック披露するくらいしかしてない。元スリの天才とかでよかった。つーか湯川教授でよかった。
肝心のミステリとしてはいかにも有村の同級生の怪しげなミスリード担当が次々出てくるけど、こいつらがいかにもすぎてこれが西村京太郎とか赤かぶ検事みたいな60歳以上向けの二時間ドラマならそれでいいけどマジシャンが主役のドラマでそんなわけないし。中に元は陰キャだけど今では伝説的漫画家になって同じく同級生に病死した友人がいる奴が出てきた時点で作品は死んだ奴のものでその絡みやろなって普通はなっちゃう。
で、最終的に容疑者を教室に集めてプロジェクションマッピングで死んだ教師に成りすました福山が説教、もといカマかけをするんだけど、いや普通に考えて死んだ恩師をプロジェクションマッピングで再現されたら戸惑って従うよりも先にブチ切れて暴動起こすだろ。失礼すぎるし死者への冒涜すぎる。娘の有村は何も言わんかったんか。何、素直に卒業文集読んでるんだよ。つーか、卒業文集の原本を自宅に保管してる教師って何なんだよ。職業倫理感ゼロか。
職業倫理感ゼロかで言えば、病死した生徒に個人的に出していた作文の宿題を同窓会もあることだしみんなに公開したろwでもその中に伝説的漫画の原型書いてあったから漫画家に先に読ませたろwってする教師とかマジでどうかと思うし、その作文があることで自分の立場が脅かされると思ったからよくわからんし家ごと燃やしたろwってなる犯人のイカれ具合もヤバすぎる。
殺人事件の証拠は一切ないのに「漫画の原型は死んだ同級生のものだった」という盗作の証拠を突き付けられただけで発狂して自供するのも意味わからんし、ミステリとしてどうかと思う。あと、遺体にライターオイルが染みついていたという理由でジッポ使ってる福山が疑われる設定があるんだけど、それは放火しようとしていた犯人のものだった!いや、犯人はライターオイルで家燃やそうと思ってたん?あんま聞いたことないけど。
マジシャンを主役にしてやってることは犯人以外の登場人物の闇を暴いて(容疑者から外して)いくっていうある種の人情サスペンスなのも個人的にはチグハグに感じる。マジシャン使うならやるべきなのは新本格のトリック、ロジック重視であるべきでしょ。
あと、こればっかりはもう完全に俺の個人的主観で好みの問題だけど、福山雅治さすがにもう無理じゃない?近年のトム・クルーズにも通じるところがあるんだけど甘いマスクにニカッと爽やか笑顔、が通じるのは彼らくらい若く見えても30代までだと思う。もう還暦近いおじいちゃんがやったら何ニタニタしてんねんってなっちゃう。もう若くない。年齢にあった深みのある役をやった方がいいと思う。
カッコイイよりも痛々しいが勝ってるように見えた。
そういう意味ではキム・タクは教場でうまいことそこを脱却したなとは思ったかな。マスカレとかは見てないから知らんけど。
なんか新しいブラックヒーローみたいな感じらしいけど、なんか無礼なのはいつもの福山キャラだし金に汚い所だけちょっと新しかったかな程度で、その金に汚いも「ギャランティが云々」言ってるだけで実際に金を受け取るシーンもなければ取り立てるシーンもない、結局「キレイ」なんだよね。くだらん。
そんな感じかな。
ここ重要ですよってシーンではなんかトランプをパラパラやるモノクロカットが入る演出もダサいし映画じゃなくて2時間ドラマでやればいいのにって感じのクオリティの作品だったかな。有村架純はめっちゃかわいかったのでそこはよし。有村架純ファンと福山雅治ファンだけ見ればいい映画だと思いました。おわり。
モーニングショーで80過ぎたら肉を食べるといいという特集をやってたが、なぜ資料映像として焼肉牛肉を執拗に映すのか理解できない。
出演者の医者もタンパク質を取るためだとか言ってて自前のパネルでも鶏肉が一番タンパク質が高いデータを出しちゃってるのにどういうことなのか。
肉=牛肉とミスリードさせたい意図を感じるがそれになんのメリットがあるのか不明すぎるから余計わからない。
そしてパネラーが誰もなんで牛肉ばっか映してるのかに突っ込まないのもう不気味のレベル。
dorawiiより
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いじめもない、家庭トラブルもない、学校も普通、けがも病気もないけど学校に行かなくなってしまう「マイルド不登校」が増えているらしいという話
https://togetter.com/li/2684194
この件さあ。無茶苦茶なんだけど同意している人が多くてドン引きしてる。こんな不登校ビジネスの連中に耳を貸すべきではない。
事実として、文部科学省の調査だが、不登校の直接的なきっかけとしては
ぐらいの割合で多くは変わってない。昔からトップが連中が言う「マイルド不登校」ってやつで、具体的な問題があって不登校であるという事の方が少ない。
なので「増えている」ということそのものがミスリードでおかしい。全体の認知件数は増えているが、特段連中が「マイルド不登校」と称するものが割合的に有意に増えていると言うことはない。
恐らくこれを言うと「マイルド不登校」という定義不明の理屈をひねり出して「私もかなり精査しました」とか主張するんでしょうがね。
また、ここでいう「きっかけ」や「原因」と言うのは、それを取り除いたら復帰できた、という結果から逆算されるケースがほとんどなので、それが分かった時点で解決したも同然なのである。
むしろその原因を丁寧に探って言語化していくことこそが問題を解決するプロセスの一つのルートであって、分からないことが普通なのだから、それを「マイルド不登校」などという定義を作って煽ること自体がナンセンスだ。
これも印象論で、これもきちんとした追跡踏査が行われているが、おおよそ不登校の8割が継続した就学就労についているなど、いわゆる「社会適合」している。
そしてこの「継続し就学就労についている」といった「社会適合」の定義でいくと、労働人口の1割強が適合できていないと分類されるので、不登校を経験している人たちが特別に高いかというとそうでもない。
一方で、短大・大学・専門学校進学率でいくと4割強で、一般の5割強よりもこれも1割ほど少ないと言う数字になっているが、これでも大幅に少ないわけではない。
生涯年収については不登校というよりも進学先の学校による違いほぼ同じという事にはなっている。
これは同じ人間が不登校になった場合と、強引な手を使って強制的に学校に行かせた場合と、超高額なフリースクールなり塾なりの業者に金を払った場合で、対照実験できるわけではないのでわからない。
例えば、元々本人が備えた資質が、集団行動に馴染まないものであった場合、強引な手を使って学校に行かせた方が良いとは言えない。
ただ言える事は、高額な塾に金を払ったら問題が解決した、というようなコンセンサスが取れた研究例は存在しない。
それから「もし自分があの時不登校にならなかった活躍していたに違いないから、なんであの時強制的に学校にいれてくれなかったの?」みたいな事を言うのは、本人の勝手ではあるが、それは何も担保しないのであんまり全体の議論に資するものではない。
それは結局「あの時無理矢理学校にいかされたせいで社会に適合できなくなって、今は引きこもりで仕事ができない」(場合によっては自殺さえも多く発生して社会問題になった)と言う多く発生した問題を解決するために今の考え方になっているということをまるっと無視しているからである。
不登校の件数は右肩上がりで増えている。これは割合も件数も全体的に増えている。
それに対して、不安を煽った上で、高額の料金をふっかけて対策をする、と称する業者が登場している。
当たり前だが、多くの不登校児はそんな高額の金を払う事はできないわけで、彼らを利用して問題の解決ができた例は少ない。
なので、彼らが持っている例というのはどこまで行っても一般化することが難しい特殊例であり、彼らが見えている部分で全て語ることはできないのである。
幸運にも彼らに払える金があって、その環境に合うのなら否定はしないけれど、彼らを使わなければ問題外解決できないと思い込むことは間違いであり、利用には冷静になりたい。
現在進行している自転車への「青切符」導入議論において、国土交通省の発表資料および「オールドメディア」と揶揄される既存報道機関による情報発信には、
国民の正確な判断を妨げる深刻なミスリードが含まれている。実態に基づかない「自転車の危険性」のみを強調する現在の世論工作に対し、以下の4点において強く抗議する。
報道の多くは「自転車が危険になっている」という印象を植え付けているが、警察庁の統計資料を見れば、自転車が当事者となる事故件数自体は長期的に減少、あるいは横ばい傾向にある。客観的な「事故件数の年次推移グラフ」を提示せず、特定の強い印象を残す断片的な情報のみを強調することは、事実を歪曲する不誠実な報道姿勢である。
2. 生データではなく「加工された2次データ」による数字のすり替え
事故の絶対数(1次データ)ではなく、「全事故件数に占める自転車事故の割合」といった加工済みの2次データを用いる手法は極めて悪質である。自動車事故が安全技術の向上により急減した結果、相対的に自転車の割合が上がって見えるだけであり、これは「自転車が以前より危険になった」ことを意味しない。分母の変化を無視した統計の悪用は、国民に対する重大な欺瞞である。自動車事故は年々、急激に減っているのだからそれと自転車事故件数を比較して、割合が増えてるグラフを表示しても、それは自転車の危険を意味しない。
取締りによる「検挙数」の増加を、さも「違反や事故の危険が増えた」証拠として扱うのは論理破綻している。交通安全週間などの取締り期間を2倍、5倍に増やせば、検挙数も比例して増えるのは自明であり、数字は行政側で容易に操作可能である。取締りの強化という「行政側の行動結果」を、利用者の「モラルの低下」にすり替える論法は断じて容認できない。
全体の事故件数が減少しているにもかかわらず、事故要因が複数ある中から「一時的に微増している特定の項目(スマホみながら運転)」や「限定的な条件下のデータ」のみを抽出して強調している。多角的な要因分析(インフラ整備の遅れや車両側の問題等)を放棄し、一部の数値のみを肥大化させて自転車利用者のみを悪者にする手法は、法改正の正当性を無理に作り出すための世論工作と言わざるを得ない。
正確な統計データに基づかない法整備は、国民の権利を不当に侵害し、真の交通安全には寄与しない。国土交通省および各報道機関は、特定の結論に導くための数字の加工をやめ、科学的かつ公平なデータを国民に提示すべきである。
Xで以下の投稿が目に入ってきた。
https://note.com/sho_hiroumi/n/n52a7f10be3c7
本当にたくさんのことを考えた。
それについてコメントを書いていたら長い長い長い長いクイズ論になってしまったので、こっちに載せることにした。
「上手にボタンを押せる人」よりも「上手に問題を作れる人」が称賛されやすい、という論には本当かどうか?という疑問がある。
たしかに出題サイドは、その多大な労力ゆえに参加者サイドよりも分母が少なく、競争環境としては「ブルーオーシャン」の側面がある。
「面白い問題を出す大会」というブランディングが、主催団体の評価に直結するのも事実だ。
しかし、それが個人への「称賛」に結びつくかどうかは別問題だと考える。
先日、浜押会オープンで話題をさらった「アサシン」の問題を思い出す。
問題そのものは鮮やかにバズったが、では「その作問者が誰か」まで即座に答えられる人はどれほどいるだろうか。
個人が作問・主催する”個人杯”であれば作問者個人にスポットライトが当たるが、サークル主催の大会では、評価は組織の中に埋没しがちだ。
この傾向はメディアでも顕著だ。QuizKnockを見ても、主流は「問う」ことよりも「答える」コンテンツであり、メンバーも「答える側の演者」として人気を博している。
純粋な作問能力が評価される場面があったとしても、それがコンテンツの主役になることは稀だ。
取り上げられているQuizbowlのシステムにおいて、問題作成が競技参加のプロセスに組み込まれているのは興味深い。
ただ、これは「称賛」のためというより、大会をスケールさせるための「供給の仕組み」と捉えるべきだろう。
しかし出題スタッフはサービス提供側の側面が強く、労力も膨大だ。
自発的な協力者だけで賄うのは困難であるため、パケット提出(問題作成)の義務化といった「強制力」が必要になる。
ACF(アメリカ大学クイズ連盟)の公式ページでは、この制度の意義を「編集者とプレイヤーの知識共有の精神を守るもの」と定義している。
しかし、わざわざ言葉を尽くしてその意義を称揚しなければならないこと自体、それが「強調しなければ誰もやらないキツいタスク」であることを裏付けている。
編集歴がコミュニティ内のキャリアとして記録され、NAQTのような組織では1問ごとに報酬が支払われるなど、作問が「名誉ある職務」として確立されている、という例は興味深い。
分野ごとに専門の編集者を置く高度な組織設計は、品質管理の観点から合理的だ。
だが、ボツや添削というストレスフルな工程を経てなおモチベーションを維持させるためには、相応のインセンティブや評価制度が必要となる。
報酬の一部として「Head Editor」などの地位を提供していると考えた方が良いように思える。
そして原文の例にある通り、これほど作問者がプロフェッショナルとして敬意を払われている海外でも、やはり「スター」はプレイヤーだ。
箱根駅伝のマネージャーたちが、もし許されるなら自ら箱根路を走りたいと願うランナーであるように、「作問者」側はスターではない、という認識は変わらず持っていた方が良いように思う。
私はオンラインクイズサークル「Virtual Quiz Studium」(以下「VQS」と略する)を主宰している。
今日で誕生から3年を迎え、4年目に入る比較的新しいサークルだ(めでたい!)。
参考 : https://sites.google.com/view/vqs-quiz/
「VQS」では、毎月25〜50問が集まる「問題出題大会」を開催している。
ここでの取り組みを掘り下げることで、そもそも「よいクイズとは何か」を掘り下げてみる。
最大の特徴は、予選・決勝の「2段階投票システム」を採用している点だ。
(注:「みんはや」開催の第2部は異なる)
数十問を一気に並べて1問を選ぶ形式では、比較がどうしても雑になり、印象に残りやすい後半の問題が親近効果で有利になりがちである。
予選を5問程度の小規模なグループで行い、評価プロセスを細かくすることで、個々の問題と誠実に向き合い、良い問題をなるべくすくい上げるよう工夫をしている。
1年半の運営を経て痛感したのは、まず「良い問題の基準は人によって異なり、一様ではない」ということだ。
もちろん、明らかに構造的な課題がある問題には厳しいスコアがつくが、一方で、何らかの「光るもの」を持つ問題には必ず誰かが票を投じる。
「何が良いか」という評価が割れることこそがクイズの豊かさである。
問題の価値を安易に、あるいは拙速に決めつけることの危うさを日々感じている。
一方で、歴代の上位入賞問題を分析すると、そこには「評価されるだけの理由」が明確に存在する。
(もちろん、これが全てとは考えていない)
上位入賞するような問題には、これらを複数複合させて達成しているケースが目立つが、単一の要素で突き抜けるものもある。
ここがこの大会のだいご味でもある。
(参考)歴代の入賞問題 : https://sites.google.com/view/vqs-quiz/%E5%A4%A7%E4%BC%9A%E7%B5%90%E6%9E%9C/%E5%95%8F%E9%A1%8C%E5%87%BA%E9%A1%8C%E5%A4%A7%E4%BC%9A%E7%B5%90%E6%9E%9C
興味深いことに、こうした多様な評価軸がある中でも、不思議と上位入賞の常連となる凄腕プレイヤーが存在する。
クイズの実力との関連性もそれほど強くないところが興味深い。
これは、クイズ作問という行為が、が単なるクイズ用のネタのピックアップではなく、一種の表現技術であることを示唆している。
現実として、そこには歴然とした作問力の差が存在するようなのである。
クイズ問題が正当に評価される際、それは単発の問題としてよりも、「〇〇大会の問題はよかった!」と、一塊のパッケージとして語られることが多い。
競技としてのクイズを成立させるためには、個々のクイズの良し悪しとは別に、セット全体をプレイした際の「体験」という観点が必要不可欠と考える。
優れた問題を揃えることは、大会成功の必要条件ではあるが十分条件ではない。
DJが選曲と繋ぎによってフロアの熱量をコントロールするように、主催者には「(事前に)用意した問題をいかに配置し、どのような『場』を構築するか」という編集・演出の手腕が問われる。
私は2年間にわたり、「VQS」の中で深夜のオンラインクイズ大会「まよなか大会」を毎月開催している。
その運営経験から得たのは、クイズ大会において「参加者の体験をいかに設計し、コントロールするか」はとても重要だ、ということだ。
問題の難易度曲線、ジャンルの連なり、そして出題のテンポ。これらが精緻にマネジメントされ、参加者の体験がポジティブに設計されているかどうか。
「いやなら来なければよい」と開き直ることは、集客力がある人達であれば違うかもしれないが、自分達には現実的には無理だ。
体験を構成するための「問題セット」を的確に構成し、そのうえで参加者が楽しめるような「面白い問題」をいかに出題することができるか。
結局のところ、クイズの問題セットとは単なる問題の集積ではない。
それは、参加者が競技を通じて得られる「体験」を最大化するための、緻密な設計書なのである。
問題セットの品質を考えるうえで一つ自戒を込めて強調したいのは、他の専門領域を扱う際の作問態度である。
他分野の問題を作成する場合、その知識がその業界において「現在進行形でアクティブな知識であるか」を精査する習慣を持つべきだ。
土足で他人の専門領域に入り込み、「正しい」「間違い」の審判を下すのだから。
私の専門であるIT分野を例に挙げれば、残念ながら「読むに堪えない」品質の問題(事実誤認や、もはや使われていない死語など)を目にすることは決して少なくない。
情報のアップデートを怠った古く間違った問題を見ると、それだけでがっかりしてしまう。
大量に作問する際、どうしても手癖に頼りがちになるが、「改めて確認する」というひと手間を、決して忘れないようにしたい。
これは多分に主観的な見解だが、クイズとは作問者、あるいは作問チームとの「知的対話」であると私は考えている。
ゲームとして巧みに構成されているかという機能的な側面とは別に、対話として楽しめる内容であったかという内容的な側面も、自分の中ではとても大事だ。
対話である以上、当然出題者だけでなく解答者側にも知識が求められる。
解答者の力が不足していれば対話は成立しない。
双方向的であり困難な試みではあるが、クイズと言う形式だからこそできるコミュニケーションができた、と思えたときの満足感は大きい。
よくよく考えたらこれどういう倫理観で見たらいいの?って感じのブラック・ジョークみたいな映画だった42点。
交通事故にあい妻を亡くし記憶障害を患った主人公は事故前の感性も戻らず、性格も変容、就職も決まらず困り果ててしまう。そんな中、神経科の医者が記憶を鮮明に映像化するブラック・ボックスという装置の研究をしておりその実験体に自分を所望していることを知った主人公は迷いながらも実験体を志願。しかし装置に繋がれて見た映像は自分の中に残る記憶とは全く違うものだった。治療を進める中で主人公は自身の中に眠る恐るべき陰謀と対峙していく。
みたいな話だっけ?
実はこの神経科の医者がマッドサイエンティストで2年前に死んだ自分の息子の脳波を保存していて、交通事故で脳死した主人公の脳に自分の息子の脳波を転送。主人公の中に自分の息子の人格を転移させていて、ブラック・ボックスは転送した脳波を強化、固定するための装置だったのだ!という世にも奇妙な物語的なアイデア一発勝負の作品だった。
なんかもっといい感じの展開にできただろと思うんだけど、このアイデア以上に見るものがほとんどなくて、なんかふ~んって感じで終わっちゃったのがもったいなかった。
よくある記憶喪失による「自分の知らない自分」ものに「実在した他人の人格を植え付ける」という一ひねりを加えただけの作品にすぎなくてそれが作品に深みを加えてはいなかったかな。
もろちん、生き返った死人はDV男で妻とやり直そうとするも結局感情を抑えられず拒絶され、母からブラック・ボックス内に登場する謎の男 a.k.a. 元の身体の持ち主(主人公)を殺すことでこの身体を自分のものにできる、完全復活できるんや!と言われて試みるけど、実験室にやってきた主人公の娘の声を聴いて「もう悲しむ人を増やすことはないんだ」と身体を主人公に明け渡し暗い部屋に消えていくという悲しい成長、贖罪エンドはわからんじゃないけど、でもそもそもこいつが悪人なのが悪いしなぁ。しかも成長に至るドラマも薄い。親子愛の力、エモの力で逆転勝利ってのも工夫がない。
あとブラック・ボックスの使い始めは記憶が定着していないので人の顔がボヤボヤってなっててよくわからないって演出があって、髪型の感じとかが主人公と死人の妻、娘でよく似てるから「同一人物だけど違う場所にいた記憶」みたいなミスリードがあるんだけど、これって黒人女ってみんなソバージュ爆発させたみたいな髪型してるよね~見分けつかないよね~っていう、一種のステロタイプジョークなの?ってのが気になっちゃった。
死人の方の人格が粗暴で感情的でDVに走る奴っていうのも黒人偏見の具現化みたいに見えてきちゃうし、そうなるとタイトルの「ブラック・ボックス」のブラックもそういう意味なの?ってなっちゃう。でもこの映画ブラックしか出てこないから、じゃあこれは誰に向けた偏見なんだよって感じ。結局面白いアイデア思いついちゃった!以上のものがあんまない作品に見えたかな。
最後にクビになったマッドサイエンティストが家でブラック・ボックスを再建して息子の脳波をDL。その機械をニタニタしながら覗き込むところで終わるんだけど、でもたぶんそいつが見たいのは息子の姿であって息子の記憶ではないと思うんだよな。自分の息子が嫁殴って怯えられてるところ見て何が楽しいんやと思いました。
記憶の謎を追うところまでは記憶喪失サスペンスとして一定の強度はあるし演出も悪くないし何より音がいいので楽しめると思うんだけど、アイデアバレしてからは実は他人の人格でした~以上の広がりがあんまないのでなんか微妙な感じになるかも。まぁサスペンス好きにはちょろっとオススメ。
「トランプは英国・オーストラリア・日本・オランダがイランの女子校を爆撃したと非難した。最初はイランのせいにし、次にトマホーク使用について問われると、これら同盟国も(米国から輸出された)トマホークを使用していると述べた」
トランプはまずイランを非難し、「目撃した限り、イランがやったと思う。彼らは弾薬の精度がない」と述べた。
英国・オーストラリア・日本・オランダが米国からトマホークを購入・取得している(または購入契約を締結している)のは事実であり、米国以外でトマホークを保有する国はこの4か国のみ。
トランプは「トマホークは非常に汎用的で、他の国にも売られている」と発言した。
ツイートは「トランプがこれら4か国を爆撃したと非難した」と読める表現をとっているが、実際はそうではない。
トランプはこれら同盟国を直接名指しで非難したのではなく、「イランもトマホークを持っている可能性がある」と主張しつつ、複数の国がトマホークを持つという事実を「誰がやったかわからない」という責任回避の論法として使った。
つまり:
イランがトマホークを保有しているという証拠は一切なく、トマホークは厳格な輸出規制のもとにある。
さらに、仮にイランがトマホークを不正入手したとしても、飛行経路のプログラミングや発射装置が必要であり、イランにはその技術的能力がないと専門家は指摘している。
米上院多数党院内総務チャック・シューマーは「イランはトマホークを持っていない、トランプ!この主張は常識外れだ」と批判した。
| 主張 | 判定 |
|---|---|
| トランプがイランを最初に非難 | ✅ 事実 |
| トマホークが使用された | ✅ 事実(専門家・Bellingcat確認) |
| 英・豪・日・蘭がトマホーク保有 | ✅ 事実 |
| トランプがこれら4か国を「爆撃した」と非難 | ❌ 誤読(責任回避の論理を告発と解釈) |
| イランもトマホーク保有という含意 | ❌ 証拠なし(専門家が明確に否定) |
結論:ツイートの事実的要素(トマホーク保有国の列挙など)は正確だが、「非難した(accusé)」という動詞の選択によって、トランプの責任回避の詭弁を同盟国への告発と誤って提示しており、読者に誤った印象を与えるミスリードな投稿といえる。
twitterで意気揚々感想を書き散らしていましたが、巷ではやれ内容が薄いだの過大評価だの言われている。
そういった人が対抗馬としてクスノキの番人を挙げていたのでどんなもんか見に行った。
個人的には超かぐや姫がストーリーが薄いのは認める。ただその分の余白が解釈し甲斐をうまく作っている。芦花の激重感情だの、ヤチヨがどんな思いで彩葉と接したのかだの、お兄ちゃんと乃依が付き合っててヤバいだの本編のどこにも描写ないだろ。幻覚だよ幻覚。
インターネットの興隆によって誰もが表現者でいられた世界で表現者になれなかった一般人の自分が昔持てたかもしれない熱量に自分は共感してしまった。最後に流れるrayは自分にとって表現者でありたいと望んだ最初のきっかけだったかもしれない。昔TSUTAYAにCDを借りに行ったことを思い出した。あの日の初期衝動がもういちど燻った。この感情は単に描写があれば同じ感情を抱けるものではなく、勝手に抱いてしまったものだ。こうした魅力に取り憑かれてる人は多いと思う。
一方クスノキの番人。
きちんと対比関係を描く、ミスリードを入れる、種明かしもちゃんとある。マジで脚本を外さない人だ。各人の意志が最後に明らかになっていく姿にはストーリーそのものの感動よりも関心が勝ってしまったかもしれない。
東野圭吾すごい。各キャラクターに意志があり、生き生きとしている。
ただ、その分幻覚は見づらい。各人の性格やどう成長したかをありありと見せられてしまったために腹落ちしてしまって自分の中で狂ったように膨らませられない。作品のなかで解決してしまっている。これは決して悪いことではない。(むしろいいこと)
一方は幻を、一方は解決を見せる映画を同列に語ってよいのかは甚だ疑問だし、同列に語る人は本当に同じ作品を見たと信じられない。
「集団的自衛権」。
まず、このネーミングが悪いと思っている。私見だが、このネーミングのせいで誤解している人が相当数おり、ミスリードを狙っていると思う。
集団的自衛権という言葉だけを単純に見ると、自衛隊の小隊のような数人〜せいぜい数百人単位の「集団」を自衛する権利かのように見えてしまう。
自衛隊員が複数人で行動していて、そのうち一人が撃たれそうになっている時に、撃たれるのを止めるために別の人が狙撃者を攻撃する事の是非であるかのような印象を与えてしまう。これがよくない。
まるで集団的自衛権が認められなければ、このような行為が認められないかのように思われてしまう。
この「個別的自衛権」 というネーミングも悪い。
「個別的自衛権」と言われると、まるで自衛の対象が自分個人でなければならないかのような印象を与えてしまう。
実際にはそんな事はない。
刑法36条は正当防衛の要件の一つとして、「自己又は他人の権利を防衛するため」と定めている。
「自己又は他人」。つまり、自分じゃなくて他人の権利を守るためであっても認められている。
(正当防衛)
例えば満員のコンサートホールに爆弾が投げ込まれようとしている時に、犯人を狙撃するような場合が考えられる。