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さようなら・・・昭和の名優・西田敏行

17日に仕事先の休憩室でスマホを開くといきなり訃報が目に飛び込んできた。
俳優の西田敏行さんが76歳でご逝去。
柳田国男の記事の連続投稿のせいで、タイムリーに投稿できなかった。

昭和を代表する名優だった。

「池中玄大80キロ」「西遊記」「釣りバカ日誌」・・・などなど。
様々な役柄を演じて見せた、二枚目ではない二枚目俳優だった。
僕個人としては、どちらかというとコミカルな演技の方が印象に残っている。
たぶん、「池中玄大80キロ」の印象だろう。
当時は、「80キロ」ってデブだなぁ、と思っていたが、いま自分の体重は軽く超えている。
近年ではやはりお歳を召したせいか、そういった役で存在感を示していた。
「坂の上の雲」では、高橋是清役を好演していた。

西田敏行といえば、やはりこの曲が外せない。

「もしもピアノが弾けたなら」



なんとも男性の心理を的確に射貫いたようなフレーズ。
それを優しげに、恥ずかしげに歌い上げるには、男の色気がなければ唱っても様にならない。
そう思うが、西田敏行が唱うとなんとも様になっていた。

なんとはなしに寂しい。
また昭和の香りが漂う人物を亡くしてしまった。

「降る雪や 明治は遠くなりにけり」

俳人、中村草田男の有名な句だ。
しかし、いまは「昭和も遠くなりにけり」ではないか。

・・・合掌。

Tag : 文化

「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」鑑賞録(その4)

さて、一村の代表作として、本展でも最後に展示された二作「不喰芋と蘇鐵」「アダンの海辺」です。
「閻魔大王えの土産品」だと記した一村畢生の「大作二枚」であり、さすがに他の作品群を圧倒していました。

「不喰芋と蘇鐵」は、熱帯である奄美の極彩色の植物を画面いっぱいに配したお得意の構成で描かれてます。



まるで、日本美術の特徴である空間美、余白美を目の敵にでもしたかのように、植物を配置しています。
しかし、そのわずかに残された背景の空間に、奄美の島人の信仰の象徴、精神の象徴でもある「立神」(神がまず降り立ち道標とするという海中に屹立する岩・小島)を描き、この作品がたんなる風景を切り取った作品ではないことを示しています。

スケッチをもとに細密描写をした植物は見事ではあるが、その一方で「没・生命感」な、平面的で平板な印象を受けます。
にもかかわらず、生命感を損ねるようなことがない、矛盾した感想を持ってしまう不思議な作品だと思うのです。

「アダンの海辺」は、その逆でメインのモチーフであるアダンの背後に、広大な海と雲の沸き立つ空が描かれています。

田中一村展

キャプションによれば、この作品の主眼として背後にある海の手前の砂礫を、一村は挙げていたようです。
なるほど、この砂礫と海の波の表現は「表現」あるいは「画法」として確かに成功だと思います。
この作品の背景を描き上げることに、いかに心血を注いだかというほど精密な描かれ方です。
「閻魔大王えの土産品」にふさわしい作品といえます。

砂礫の描法に通ずるものとして思うのは、得意のモチーフである枇榔樹の葉を、これでもかと重ねて重ねて描くその心魂です。
それは狂気でもあり、あるいは反対に崇高さをも感じます。
この矛盾する双方のを精神を内包してところが、一村の生涯をかけて到達した境地なのでしょうか・・・。

いやはや、圧巻でありました。

< おしまい >

Tag : 文化多摩武蔵野歴史自然芸術美術日本画

「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」鑑賞録(その3)

一村は、奄美時代に大画面での作品作りを主にしますが、それまでの作品は半切条幅や屏風・襖絵が多くありました。
しかし、いわゆる日本画画壇を活動の場としなかったことから、作品の発表機会も恵まれなかったようです。
このためか、この画家は色紙サイズの作品を大量に残されています。
地元の人や支援者、縁者などへの寄贈作品が多いようです。
これらは特別展でも多く展示されていました。
僕はここには非常に関心を寄せられました。

色紙というものは、ほぼ正方形に近い四辺で、画面としてはあまりに手狭なうえに拡がりを持たない形式です。
ただ、近代日本画は山水画の趣をほぼ残していないこともあり、恐らくは一村もさほど苦にはならなかったでしょう。
もっとも、山水画を熟知している一村なればこそ、苦にしなかったのかもしれません。



僕も書道では色紙サイズの紙に和歌や俳句、あるいは漢字書を作品にする機会があります。
最近になって、改めてこの色紙作品を寄贈品とする手軽さに気がつきました。
大画面の大作はやはり作者としては腕の見せ所ではありますが、この手軽さも捨てがたいものに思えてきました。

若書きの南画作品は、八大山人に傾倒したといわれているが、やはり省筆を多用した大写意が多くみられるように思います。
二十代以下の作者にしては、洒脱でまるで人生を極めた大人が描くような画風ですが、これが次第に変遷していきます。
さすがに日本画作品として制作された作品は、「写意」そのものが封じられ、線書きの細密畫となります。
しかしながら、一村の特徴でもある画面一杯に植物などの枝葉や花卉を配する構成は、若書きの南画時代から見られました。
このように、生涯貫徹した美意識を持っていたことが窺えます。

< まだ、つづく >

Tag : 文化多摩武蔵野歴史自然芸術美術日本画

「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」鑑賞録(その2)

僕がこの人物にもっとも関心を寄せられることは、中央画壇とは一線を画したことです。
日展・院展を落選していることから、富岡鉄斎のように決して自分から遠ざけたわけではありませんが、結果的にまったく独自の路線を歩んだことになります。
それにもかかわらず、時代を超えて再評価されつつあることが、特異であることを示しています。

一方で、東京美術学校をわずか二か月で退学し、独自路線を辿ったことは無謀極まりないことです。
詳しい訳ではありませんが、おそらくは日本画画壇も、やはり既存勢力の画風や作風、そして師弟の影響力は大きいと思います。
事実、「青龍展」で自信作が落選した際に、川端龍子より「「青龍展」の目指す作風とは合わないため」と言われたそうです。



今回の特別展は、一村の生涯を通じての作品が一挙に観ることが出来ます。
子供の頃の南画や、のちの作品作りに活かされたと思われるスケッチなども公開されています。
展示の構成も、その生涯を追うように順を追って、作品が展示されていました。

若き頃の南画作品はおそらくほとんどが初見のものでしたが、なかなかのものです。
本格的にチャイナの古典作品を勉強しているらしきが、うかがい知れます。
若書きの作品は十代の頃のものも多数ありました。
感心したのは、時代人故にという面はあるでしょうが、落款の文字の立派なことです。
近代の日本画家は、なにしろ落款が酷いものが多いことは指摘するまでもありません。

< さらに、つづく >

Tag : 文化多摩武蔵野歴史自然芸術美術日本画

今日は「神嘗祭」

今日は「神嘗祭(かんなめさい)」です。

神嘗祭は宮中祭祀のひとつで、宮中および伊勢神宮で祭祀が行われます。
1874年(明治7年)から1947年(昭和22年)まで同名の祝祭日であったそうです。

「神嘗」は、「神の饗(あえ)」が変化したものと言われています。
「饗え」は食べ物でもてなすという意味です。
また、饗は新殻を意味する贄(にえ)が転じたとする説もあります。

稲穂3

つまり、その年の初めての収穫である新穀を、伊勢神宮の天照大御神にお供えし、収穫に感謝する祭祀です。
神嘗祭は宮中祭祀と述べましたが、これは祭祀主である天皇は宮中より伊勢神宮をご遙拝される形式です。

これに対して、11月に行われる新嘗祭は天照大御神および天神地祇に、その年に収穫された新穀をお供えして、収穫して感謝する日です。
この日に天皇も収穫された新穀をお召し上がりになります。

正しくは、天皇がお召し上がりになられる新嘗祭まで新米に手をつけたくはありませんが、現状では11月23日まで旧米で繋ぐのは現実的ではありません。
その際には、神嘗祭・・・つまり今日までは我慢する、という選択肢もありますが、今年のように旧米が在庫切れになってしまうと、それすら困難です。
せめて、ありがたく感謝していただくことにしましょう。

炊けた新米2016

Tag : 文化多摩武蔵野歴史

「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」鑑賞録(その1)

東京都美術館(通称:「都美」)で9月19日(木)〜12月1日(日)まで開催されている特別展『田中一村展 奄美の光 魂の絵画』を観に行きました。

田中一村は、栃木出身で彫刻家の父親を持つ。
東京に転居した子供の頃から南画を得意とし、神童と呼ばれた。

東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学したが、二か月で退学。(同期に東山魁夷や橋本明治がいる)
その後、千葉に転居して農業に従事しながら制作活動を続ける。
川端 龍子の「青龍展」で入選するが、日展・院展での落選が続き画家としては不遇の時代が長い。

やがて、50歳で単身奄美大島へ渡り、染色工をしながら資金を貯め、奄美の自然を主題とした絵を描く。
昭和52年、自宅で享年69歳で生涯を閉じた。



その絵柄、世界観、南方を目指したことから「日本のゴーギャン」と呼ばれることもあるようです。
たしかに、日本画としては珍しい熱帯地方の極彩色の自然をモチーフとした作品が多く観られます。

決して知名度の高い画家ではありません。
僕も一村を知ったのは、新宿の本屋で並ぶ画集のなかから目を引いたからです。
上記のとおり、生前は画家としてまったくの不遇の一生を送っています。

現在高まってきた知名度は、没後に奄美の有志で開催された遺作展に始まります。
その後、テレビでの美術番組放映や評伝などにより拡がりを見せました。
平成13年、奄美に田中一村記念美術館が設立されました。

< 一日スキップしてつづく >

Tag : 文化多摩歴史自然芸術美術日本画武蔵野

甲辰初秋の上野公園散歩(その2)

上野公園のなかにある都美(東京都美術館)で展覧会を観たかえり。

思っていたよりも観覧に時間が掛かって、帰りはすっかりと日が落ちていました。
あたりは真っ暗。
もう秋ですからね。
日の暮れる時間も早いようです。

甲辰初秋上野公園1

都美を出ると、煌々と公園内の夜光燈が点灯していました。
明るいのですが、さすがに上野公園は広いので、とっぷりと暮れた趣があります。
上空の夜空に浮かぶ雲の方が明るく見えました。
ついついカメラを向けたくなりますが、夜空と雲などよほど露出をしなければとれるわけもなし。

いいですね。
この景色。
とっぷりと暮れていますけど、恐ろしげな暗闇ではありません。
楽しく散歩ができそうな暗さ、明るさ。
でも、まぁ油断はできませんね。

甲辰初秋上野公園2

展覧会を見終わった満足感、そして軽い疲労・・・。
夜のとばりが優しく包み込んでくれるようです。
公園の夜道をまっすぐに進むと、西郷さんの像がある公園入り口へ。

この日は金曜日。
金曜日は博物館・美術館は20時まで利用できるんですよ。
そういえば、以前のお勤めのときにも、金曜日に仕事帰りにトーハクの平成館へ立ち寄ったことがある。
さすがに慌ただしかったですけどね。
でも、金曜日の夜の充実したことといったら・・・。
金曜夜の美術館・博物館・・・おすすめです。

Tag : 文化多摩武蔵野自然散策

今日は「スポーツの日」

今日は祝日「スポーツの日」です。

10月の第二月曜日となっており、「スポーツを楽しみ、他者を尊重する精神を培うとともに、健康で活力ある社会の実現を願う。」という趣旨です。
国民の祝日に関する法律が改正し、2020年(令和2年)1月1日に施行されたことで、体育の日が「スポーツの日」に変更されました。

その前は、「体育の日」という祝日でした。
1964年(昭和39年)に東京オリンピックの開会式が行われた10月10日に固定された祝日でした。
この日は「特異日」といって、『統計上雨が降らない日』と言われていました。

因みにカタカナ文字の祝日は、この「スポーツの日」が初めてだそうです。
個人的には、「体育の日」が一番スッキリしますね。
教育上もよろしいのではないか、と思います。
いまの時代でも学校の単元は「体育」ですよね?(たぶん)

東京五輪エンブレム

なお、この「スポーツの日」(「体育の日」は、2020年および2021年は東京五輪大会の開会式の日に合わせて、日付が変更されました(ただし、2020年は武漢ウィルスの影響により大会は延期になったが祝日はそのままとされている)。
1964年(昭和39年)の東京五輪(の開会式)がいかに国の重大事項として扱われたかを顕わしています。
50数年後の五輪にまで影響を及ぼしているのですから・・・。

さて、季節はスポーツの秋。
日本では人気も認知度も非常に高い高校野球が、猛暑・酷暑のなか夏休みに合わせて開催されていますが、誰がどう考えたって異常です。
それらの期間中は、天気予報がこぞって熱中症の警報を発しているのです。
学生や選手、観客の健康も考えて秋開催にすべきです。
サッカー、ラグビーなどは秋から大会が開催されます。
もっとも、開催日近辺はまだまだ暑い最中ですが・・・。

高校野球はおいといて・・・楽しく興じるスポーツはこの季節が狙い目です。
是非とも健康に気をつけて、体力をつけるよう運動の習慣を身につけて欲しいです。
ちなみに、僕は日頃からフィットネスジムに通っています。

ではでは。

日章旗1





              

Tag : 文化

甲辰初秋の上野公園散歩(その1)

今年は夏に来ることのなかった上野公園。

東京都美術館で開催中の特別展に行くために来ました。
まぁ、都美(東京都美術館)は上野公園の敷地の中ですから必然的に通りがかるわけです。

初秋・・・と書きましたが、それでいいんでしょうか。
今年は夏が終わるのが遅かったせいです。
どうしても、そういう感覚になってしまうんですよ。
だって、いまだに夏日、真夏日が続くのですから・・・。

いつものように、都営大江戸線上野御徒町駅からアプローチ。
左手方向に不忍池が見えてきます。
やぁ、まだ暑い日もあるせいか、初秋のせいか、蓮の葉もさほど枯れてはいません。
とはいえ、さすがに夏の頃のような旺盛な生命力は感じません。

甲辰初秋不忍池1

疲れて、萎れていく蓮は絵画的です。
ある意味では、完全に枯れてしまった蓮よりも無残に感じます。
滅びてしまったものは美しいが、滅んでいくものは残酷だと言いますが、それと同じでしょうか。
なんとはなしに、生々しさを感じるのです。

池の畔の柳も枯れていく過程か・・・。
かつては上野の近くに遊郭・・・つまりは吉原があったようです。
その名残で、この池の畔にも柳が多いのかな・・・?

甲辰初秋不忍池2

この一年の生命が尽きて、枯れていこうとしている公園。
毎年のサイクルです。
春先には生命の萌芽を観ることが出来るように、いまはそれが尽きようとしている。
この大量の蓮が枯れて、水面が見えるようになることが信じられません。
でも、すべてが枯れ落ちて、そして次の年のための生命が水面下に宿るのです。

< つづきは1日スキップします >

甲辰初秋不忍池3

Tag : 文化多摩武蔵野自然散策

人は神様の真似事をしたい生き物だ(その4)

花鳥画だって、違いは無い。
植物や鳥や獣を描いて、その造形を美しく精神的に描く。
神は5日目に「生めよ、増やせよ」と動物をお造りになられた。
実物よりも美しく、あるいは誇張された美をもつ花や草木や鳥や動物・・・。
これもまた、至高の芸術作品であれば、あたかも生命が吹き込まれたかのようである。

竹内栖鳳「飼われたる猿と兎」左隻

つまるところ、万物や世界を形作った神様の模倣をするのが「芸術」の本質なのではなかろうか。
人間は神様の真似事をしたくて、芸術品や美術品を創造するのではなかろうか。
あるいは神様の真似をすることで、エクスタシーを感じることができるのではなかろうか。

人間は、「元の場所」に戻りたい、という本能があるに違いない。
帰巣本能などともいう。
「元の場所」とは.生まれる前にいた場所である。
天国なのか、彼岸のむこうなのか、はたまた集合意識なのかそれはわからない。
ノスタルジーという感覚は、故郷や時間をも超えた、その「元の場所」への憧憬なのであろうと思う。
芸術や美術、文化などは、「元の場所」へ戻ろうとする本能が働いて生み出される、神様の模倣という行為なのではなかろうか・・・。

秋汀白鷺図

< おしまい >

Tag : 文化歴史自然芸術美術日本画

プロフィール

無心庵ひょっとこ斎

Author:無心庵ひょっとこ斎
郷土と自然とネコをこよなく愛する多摩っこ。

愛猫:
「うず」(十一歳没)
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「小うず」二代目。H27年生。♂
→*「ネコ煩悩」」(↓カテゴリ)

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