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2010年11月10日 (水)

幻の左翼

Chris Hedges

2010年11月2日

"Truthdig"

アメリカの左翼というものは幻だ。バラク・オバマに、社会主義者というレッテルを貼るために右翼が捻り出し、自分たちの自己満足と不活発さを正当化するのに、リベラル層が利用しているのだ。この幻が、大企業権力に対する注意を逸らせてしまう。この幻が、国民の投票で、影響を与えることができる民主的な制度、政治綱領や国会議員の仕事という神話を永続させてしまう。これが、世界を巧妙に、左右に分裂したままに保つのだ。幻の左翼が、都合のよいスケープゴートとして機能している。右派は、モラルの低下と経済的混乱を、幻の左翼のせいにする。リベラル層は、“中庸”を呼びかけるのに、これを活用している。我々が馬鹿げたことを語って無為に過ごしている間も、大企業権力の機関は、本性を隠し、非情に、吟味もされずに、楽しく、国家をむさぼっている。

アメリカ政治における先鋭的左翼の消滅は、破滅的だ。左翼は、かつては戦闘的な無政府主義や共産主義の労働組合、独立した、反体制的な新聞雑誌、社会運動や企業の後援者の紐付きではない政治家達を擁していた。だが、共産主義者に対する長期にわたる魔女狩り、脱工業化と、グローバリゼーションなるもののユートピア的展望に支持を表明しなかった人々の沈黙の結果として、左翼が消滅したことは、大企業による新封建主義へと、我々が次第に落ち込むのを押しとどめる反対勢力が皆無であることを意味している。この厳しい現実は、とはいえ、心地よいものとは言えない。そこで、マスコミを支配する大企業は、幻の左翼をひねりだしたのだ。連中は、アメリカの瓦解を、この幻のせいにしている。そして、連中は我々に、ばかげたことを語らせるようにしているのだ。

幻の左翼が、今週末、ワシントンのモールで、中心的な役割を担った。幻の左翼は、自身のラリーで、怒りと恐怖を吹き込む避雷針として活用したグレン・ベックのために、立派に活躍した。そして、幻の左翼は、米国国旗色の衣装を着た群衆に語りかけたコメディアンのジョン・スチュワートやスティーヴン・コルベアにとっても、同様に有用であることが証明された。二人のコメディアンは、むしろ無気力と表現する方が適切な「中庸」を擁護するため、リベラル層がいつもしているように、幻の左翼を喚起した。右翼が狂っていて、左翼が狂っているなら、と議論は進む。我々中庸派が妥当なのだ。我々は愛想よくしよう。エクソンやゴールドマン・サックスが、略奪的な銀行や軍需産業と共に、国のはらわたを食いちぎり、人身保護法を含む我々の権利は破棄されてしまったかも知れないが、怒ってはいけない。辛辣になってはいけない。左翼のいかれポンチのようになってはいけない。

“アメリカの憲法を積極的に打倒しようとしているマルクス主義者やら、自分たち自身以外の、他人の人間性は決して認めない人種差別主義者や同性愛恐怖症の人々と、一体どうして協力などするでしょう?”スチュワートは尋ねた。“わが国がどれだけ脆弱か? 破滅の瀬戸際にあるか?対立する憎悪によって分裂させられ、物事をなし遂げるために協力しあえないのは、なんとも残念だ、我々は日々聞かされている。だが本当のところ、我々はそうしているのだ。我々は、物事をなし遂げるために、日々協力をしている。ここ[ワシントン]、あるいは、ケーブルTVそのものに、我々が存在していないのにすぎない。”

集会は、現実味や中味の欠けた政治的メッセージを打ち出した。選挙による政治は、企業献金とロビイストによって買収されてしまっていることや、投票を通して、何とかアメリカをデモクラシーに戻すことができるのだという素朴な信仰は、情緒的カタルシス優先で、無視されてしまった。右翼は憎悪する。リベラル派は笑う。そして国は人質になっている。

ワシントンのナショナル・モールで開催された、Rally to Restore Sanity(健全さを取り戻す集会)は、リベラル層終焉に対する悲しい脚注の一つだった。催しは、ボーイスカウトのジャンボリーと同じくらい人畜無害のものだった。ティー・パーティ運動を支持した人々が表現した痛みや苦悩が、現実であるばかりでなく、正当なものでもあることを認めずに、ティー・パーティ支持者をからかった。支持者達が、リベラル層、特に、企業から金を貰って、労働者階級に背を向けた民主党によって、売り払われてしまったことを受け入れず、共和党を占拠すべく、道徳の沼地から立ち上がった連中を、物笑いの種にした。

憎むのに十分な理由を持った何千万人ものアメリカ人がいるので、フォックス・ニューズのベックと、彼の極右仲間は、憎悪を動員用のエネルギーとして活用できる。そうした人々は、法人国家を運営するエリート達、二大政党、テレビという公的な場を与えられている連中を含め、職が消滅し、賃金が低下し、失業保険が底を突く中、中庸を説き続けるリベラル派擁護者に裏切られている。リベラル層は、中庸という効能の無いセリフを言い続ける限り、右翼の反発に油を注ぎ続けるのだ。リベラル層が、この怒りを自らのものとした時、民主党を含め、権力の確固たる制度に対して、立ち上がった時にのみ初めて、我々は共和党の過激派を阻止するという希望が抱けるだろう。

ウオール街による国庫の略奪、我々の市民的自由の抑圧、何百万件もの詐欺的な差し押さえ、長期的失業、医療費による破産、中東での果てしない戦争と、決して返済など不可能な、数兆ドルに上る債務が、内部崩壊というホッブズ的世界へと我々を押しやりつつある。愛想よく、中庸でいても、役にはたたない。アメリカ合州国を、新封建主義という制度に作り替えることに専心している企業勢力が存在しているのだ。こうした大企業勢力は、おかしなプラカードや、米国旗色服装をした漫画のヒーロー、キャプテン・アメリカのような格好をしたコメディアンやら愛想の良い言葉で押しとどめられることはない。

リベラル層は、道徳的、政治的に束縛されずにい続けるために、政治の中心で暮らしたいと願っているのだ。右翼同様に馬鹿げていて、矮小化された幻の左翼が存在している限り、リベラル層は関与せずにいられるのだ。もしもリベラル層が、我々国民から権力が奪い取られてしまった敗北を認めれば、そして、もしも行動する意思があれば、政治制度の外側で、運動を立ち上げることを強いられるだろう。わが沈滞した民主国家にかろうじて残されたものを救い出そうという試みとしては、リベラル層が、市民的不服従を含む抵抗行動をすることが必要になろう。しかし、この種の政治活動は、莫大な金がかかり、困難で、魂を企業権益に売り渡してしまって、破綻した体制派リベラルにとっては、到底受け入れがたい。そこで幻の左翼が、長らくアメリカに生き続けるというわけだ。

アメリカの政治は見世物に堕している。芸能産業のもう一つの形態なのだ。テレビによってしっかり教え込まれた、ワシントンの集会の群衆は、カメラの前で、それなりの演技するよう仕込まれていた。“家賃は余りに高すぎる(The Rent is Too Damn High)”“本当の愛国者は、意見の違いを乗り越えられる”あるいは“俺は自慰し、投票する”といった類のポスターは、現在の政治論議の空虚さと、テレビのねじけた認識論を反映していた。集会では、もっぱらテレビの不毛な図像と言語で語られていた。集会は、無意味な政治的敬けんさ、音楽とジョークに満ちていた。あらゆるテレビのバラエティ番組と変わらなかった。政治綱領ではなく、有名人連中が売り込まれていた。そしてこれこそが見世物社会の本質だ。

理論家のギー・ドゥボールが指摘したように、現代の見世物は、宣撫工作と非政治化のための強力な手段だ。見ている連中を麻痺させ、自分たちの生活を支配している勢力と、彼等の関係を断ち切ってしまう“永久アヘン戦争”だ。見世物は、怒りを幻に向けて、搾取と不正の犯人どもから、そらせてしまう。見世物は高揚感を作り出す。見世物は、参加者達が、見世物そのものと政治行動とを混同するのを可能にする。

ケーブルテレビ局のコメディー・セントラルの有名人や、フォックス・テレビのくずのような対談番組の司会者連中は、皆ご同業だ。連中はエンタテイナーだ。連中は、想像上の左翼や右翼に関するテレビ番組で、行きつ戻りつの果てしないおしゃべりを推進する空虚で、感情満載の話題を提供する。これは全国規模のパンチとジュディのドタバタ人形劇だ。だが騙されてはならない。政治番組ではないのだ。娯楽番組だ。見世物だ。放送されている、あらゆる国民的論争は、同じ空虚なゴシップ、同じ馬鹿げた些事、同じ有名人達の一巻の終わりやら、同じ奇妙な振る舞いによって動かされている。見せ方こそ、色々とひねってはある。しかし、そういうものは、いずれも理想や真実とは無縁だ。そういうものは、いずれも参考になりはしない。感情を満足させるだけだ。我々が、知識を得て、物事について意見を持つ方向を混乱させるのだ。結局は、このたわごとを提供する連中にとって、視聴率と広告という形での金を巡るゲームに過ぎない。ベックもコルベアもスチュアートも皆同じご主人に使えているのだ。そして、その主人というのは私たちではない。

毎週月曜日にTruthdigに寄稿しているChris Hedgesは、新刊“Death of Liberal Class”の著者である。

記事原文のurl:www.truthdig.com/report/item/the_phantom_left_20101031/

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話題の集会、素人が遠くから眺めていると、さっぱりわからない。

「幻の左翼」の効用と、最後の結論部分、つまり、宗主国も属国も、等しく同じ空虚なテレビ番組ばかりが大活躍していることは良くわかる。

小生、国会の「論戦」やら「事業仕分け」も、娯楽・洗脳番組だと思って眺め、洗脳されている。

「日教組」、というより日本の「労働組合」を連想した。

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コメント

“冬いちご”さんのコメントの内容はアメリカの進歩派とか左翼と呼ばれる人々の間でも確かに多い意見ですが、疎の様な意見を持つ方が見逃している事は西欧文明では古代ギリシャの時代からサタイア風刺(satire)は政治や社会を批判する伝統的手段で(アリストファネスetc,が日本でも知られていると思います)特に圧政的政府による支配の存在する時代はポリティカルサタイアは特に流行すると言う史実です。現代アメリカでもポリティカルサタイヤの例は多く此れは現在のアメリカ社会が圧政的政府によって支配されていると言う証明でもあるのではないでしょうか?一寸思い付く有名な人物は、作家Mark Twainマークトウェイン, コメディアン アクターWill Rogersウイルロジャーズ(1920~1930年代に活躍),コメディアン Mort Sahlモートサル(1950~70年代), コメディアンLenny Bruceレニーブルース、(1950~60年代)コメディアン兄弟Smothers Brothers(1960年代)etc,マイケルムーアも疎の様な類の人物であり社会で特定の機能を果たしているのです。
特に現代アメリカは1950年代に2nd Red Scare (第二次赤狩り) から始まり70年代に(参照: http://eigonihongonews.blog110.fc2.com/blog-entry-269.html ) 右翼資本層の組織的工作(右翼シンクタンク開設、プロパガンダを含める)によりメディアは全く資本に支配され、情報をテレビ等の企業メディアに頼っている“5千万人の貧困最下層”に属する庶民は全く政治的“愚衆”となり、彼等自身の損失となる政策を推進しているリバタリアンに属するコーク兄弟の様な超富豪によって操られているティーパーティー派共和党等を支持しているのですから現在のアメリカ社会では論理的に政治を論じる事が不可能になっているのです。
其れに加え平和団体、環境団体,リベラル傾向を持つ団体、動物保護団体まで政府によるsurveillanceを常に受け下手をすると“テロリスト”として逮捕される様な状況になっている現在“ポリティカルサタイア”と言う様な“風刺”や“コメディー”の形態をとって社会政治批判する事は安全な手段でもあるのです。先にも述べた様に圧政的政府が支配する社会ではサタイアが流行すると言う歴史を振り返ると、現在のアメリカはやはり圧政的政府によって支配されていると言う事になるのではないでしょうか?
“第三の政党”については、情報が操作され超右翼資本層よりの情報しか手に入らない現在の米社会ではティーパーティーに代表されるリバタリアン党系の右翼政党が第三党になる可能性が高く、クリスヘッジスが此処で説明している“幻の左翼”と言う現状は社会を右翼左翼で別けて考える場合゛5千万人の貧困最下層”を代表する第三党が生まれる可能性は殆ど在り得ない状態です。
 Information is the currency of democracy. (情報は民主主義の通貨だ。)と言ったのはトーマスジェファーソンだそうですが、アメリカの建国の父と呼ばれる人々は民主主義が正常に機能する為には民衆が正確な情報が手に入れられる事が必須であると見抜いていたようですが、現在の保守や右翼支配層はアメリカ建国時の人々の民主主義についての思想からは全く逸脱した方向に向かっているようです。
まあ、この様にして全ての文明は支配層の廃頽によって衰退して行くのが運命のようですが----------

みなさん!こんにちは「たかしズム」のたかしと申します。
ただいま私のブログでは以下のような「企画」を開催いたしております。
もしお時間がございましたら、是非一度おこしくださってご投票をお願いします。

今年のバカウヨは果たして誰?「輝けネトウヨ大賞!2010」!

さて今年もやってまいりました。恒例の「今年一番の馬鹿」を決定したいと思います。
昨年は年も押し迫ってからの投票でしたので、今回は少し早めにリリースさせていただく
ことに致しました。結果発表は2011年1月10日と致します。
皆さんどしどし投票してください。今回エントリーされたネトウヨは次の四名です。
・latter_autumn
・ぶさよでぃっく
・キンピー
・反売国

ではよろしくお願いを申し上げます。
http://takashichan.seesaa.net/article/168182327.html


このエントリーを読んでいたら、こちらにもリンクがありますが、私も常々拝読しているブログ、『私の闇の奥』の藤永茂先生の「Jesterとしてのマイケル・ムーア(1)~(4)」が思い出されました。その中で、ムーアとそのファンの”リベラルなインテリ層”について、藤永先生は手厳しく批判されていますが、それはヘッジス氏が批判する人たちと重なっているように思えます。

>アメリカでの、また、日本でのマイケル・ムーアの支持基盤をなしているのは、どういった人々でしょうか。私の経験から、アメリカやカナダでは、大学教授や学生たち、日本では、進歩的なインテリ層でしょう。マイケル・ムーアがきびしく告発するアメリカの諸悪に実際に打ちひしがれている五千万人の貧困最下層の人々は、ムービーハウスに出かけて、マイケル・ムーアの辛辣痛快なジョークを楽しむ余裕など、金銭的にも気分的にも、ありません。では、彼の支持基盤をなしている人々には、マイケル・ムーアはどういう影響を持っているのでしょうか? 主要な影響として私は二つのことを考えています。

>その第一は、前回のブログ『Jesterとしてのマイケル・ムーア(1)』に頂いたYYTさんのコメントの「こうやってマイケル・ムーアにガス抜きされて・・・・・」という至言に尽きます。問題はこうです。マイケル・ムーアが指摘するアメリカの諸悪については、彼のファンである中流層インテリたちは、彼に教えられなくとも、先刻ご承知なのです。キャピタリズムの残忍性も、『ロジャーとわたし』以来の20年、わかりきった事実です。もし彼等に義侠心が、本当の社会正義の思いがあるならば、日々の生活苦や困難に余りにも酷く苛まれ続けたために、集団的に政治的発言をする気力さえ失ってしまった五千万人の貧困最下層の人々を政治勢力として動員し、出来れば、共和、民主の二大政党が無視することの出来ない、第三の政党をつくる努力を始めることです。それは、アメリカという国の将来にとっても、大変望ましいことだと思われます。しかし、マイケル・ムーアの作品の娯楽性たっぷりの毒舌ぶりに喝采を送っただけで、鬱憤を晴らし(カタルシス)、ガスが抜けてしまった彼等にそれが出来る可能性はゼロです。

http://huzi.blog.ocn.ne.jp/darkness/2009/12/jester_21d9.html
『私の闇の奥』Jesterとしてのマイケル・ムーア(2)

私も殆んどの場合クリスヘッジスの世界観に同調するものですが(彼は神を信じ、私は神は余り重要な主題ではないと言う考えの違いがあるのですが)此の彼の記事の主題であるジョンスチュワートとコルベアーによるワシントンモールでの集会には違った意見を持っています。
 先ず彼等の“正気を取り戻す集会”は右翼やコーク兄弟の様なリバタリアン系の超富豪に操られているティーパーティー派の支持者達(彼等の殆んどは支配層によってでっち上げられた“アメリカンドリーム”と言う馬鹿げた幻想を何の疑いも無く信じ、白人、キリスト教徒以外は差別し、自由の意味も理解しない)が参加したグレンベックの集会(マーチンルーサーキングJrの"私には夢がある----"で有名な集会が行われた同じ日に行われた何と言う人を馬鹿にした様な行為!)に対して行われた物で、ベックによるメディアを利用した愚衆扇動の影響力を少しでもニュートラライズし様とした努力だと思っています。
 現在のアメリカ社会でベックはナチ時代のゲッペルス宣伝相と同じ役割を担っていて(テレビエンターテイメントと言ってもコメディー番組には多くのコメディー作家が陰で働いていて、彼等の中にはユダヤ系アメリカ人も多くジョンスチュワートの母親もホロコーストの生存者なのですが)多くの歴史的知識のある教育水準の高い人々にとってはベックは単なる企業の“太鼓持ち”と言うだけの存在ではなく民衆扇動でアメリカをファシズムに向かわせる悪夢のような存在と捉えているのだと思います。ヘッジスが言って居る様に多くのアメリカ人の理解力は非常に単純でテレビから情報を得る人々が多く、スチュワートのようなコメディアンは何もせずには居られなかったと言う事だと私は思っています。
 其れと、日本や朝鮮半島文化は儒教的傾向が今でも多く残っていて政治を取り扱うコメディーはジャンルとしては確立してい無いのだと思いますが欧米では政治は茶化す物でありポリティカルサタイアや政治風刺コメディーは非常に人気があり、彼等コメディアンはアメリカでは政治家の人気を左右する一つの存在でもあるのです。
 -----と言う事で此のコメディアン達の集会についてはクリスヘッジスは一寸真面目すぎる見方をしているのではないのか?一寸したヒューモアも時には人間社会には必要だと言う事を見逃しているのではないのか?-----とか色々私は思うのです。
 勿論、今のアメリカ社会を見ているとクリスヘッジスの怒りや失望感も理解は出来るのですが、19世紀末20世紀初頭のリベラルや左翼と言う概念では人間社会を説明時代になっている事も彼が見逃している事実の一つではないでしょうか?

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