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2008年4月

2008年4月28日 (月)

9/11の矛盾:チェイニーはいつバンカー(掩蔽壕)に入ったのか?

デヴィッド・レイ・グリフィン

The Canadian

9/11の朝、9:03(ワールド・トレード・センター南棟が攻撃された時刻)からしばらくたって、10:00前に、ディック・チェイニー副大統領が、ホワイト・ハウス東翼地下にある、時には単に「バンカー」と呼ばれる大統領危機管理センター(PEOC)に降りて行ったということは皆が同意する。一度そこに入れば、自分で決定を下すか、ブッシュ大統領の決定を伝えるかして、チェイニーが統括するのだということも誰もが同意する。だが、正確にいつチェイニーがPEOCに入ったのかについては、非常に大きな不一致がある。

9/11委員会報告によれば、チェイニーは「10:00ちょっと前、おそらく9:58に」到着した(9/11委員会報告[以下、9/11CRと略す] 40)。この公式時間は、しかしながら、中には9:20以前に彼がいたとしているものもある、ほとんど全てのそれ以前の報告と矛盾する。もしも9/11委員会の時刻が正しければ、ペンタゴンが攻撃された時点、あるいは、ユナイテッドの93便がワシントンに接近しつつあった時間の大半、チェイニーは、PEOC中で統括していなかったたとになるので、この差異は重要だ。しかし、もしも9:20には彼がそこにいたという報告が正しければ、彼はずっとPEOC中で統括していたのだ。

チェイニーが早く到着していたとするミネタの報告

9/11委員会と矛盾する最も良く知られている発言は、運輸長官ノーマン・ミネタが、2003年5月23日の9/11委員会での公開証言で行ったものだ。彼は「午前9:20頃にPEOCに到着した」と語った。ミネタはそこで、明らかに彼が到着する前から始まっていた、一人の若者とチェイニー副大統領との進行中の会話の一部を耳にしたと報告していた。この会話はワシントンに向かって飛んでくる一機の飛行機についてのもので、チェイニーが「命令は依然有効だ。」と確認して終わった。委員のティモシー・レーマーが後に、ミネタに、彼が到着してどれほどしてから、この命令が依然として有効かどうかについての会話を耳にしたのか尋ねると、ミネタは答えた。「おそらく5分か6分です」これはつまり「9:25か9:26頃」であることを意味するとレーマーは指摘した。

これは著しい矛盾だ。ミネタによれば、チェイニーが、進行中の会話をしていたという事実からすれば、ミネタが9:20に到着する数分前から、彼はPEOCにいたに違いない。もしもチェイニーが、そこに9:15からいたのであれば、ミネタの証言と9/11委員会報告の間には、43分間の矛盾があることになる。なぜこれほど大きな矛盾が存在するのだろうか?

あり得る説明の一つは、ミネタは間違っていたということだろう。彼の話は、しかしながら、他の多くの証人たちの証言と一致している。

チェイニーが早く到着したことを支持している他の報告

リチャード・クラークは、彼とチェイニーと、コンドリーザ・ライスは、9:03のすぐあと短い打ち合わせをし、その後で、シークレット・サービスは、チェイニーとライスに、PEOCに入ってもらいたいと思っていたのだと報告している。ライスは、しかしながら、まず最初にクラークとホワイト・ハウスのテレビ会議センターに行き、そこでクラークがテレビ会議を設定することになっており、それは9:10頃に始まった。そこで数分間すごした後、クラークによると、ライスはこう言った。「至急、いくつか判断をもらわなければなりません。私はPEOCに入り、副大統領に合流します。何が必要か言いなさい。」9:15頃、ノーマン・ミネタが到着し、クラークは「彼に副大統領と合流するよう提案した」 (Against All Enemies、2-5)。クラークはここで、9:15の数分前にチェイニーはPEOCにいたことを暗に語っている。

9/11一周年のあるABCニューズの番組で、チェイニーのホワイト・ハウスのカメラマン、デヴィッド・ボーラーは、9:00のすぐ後で、何人かのシークレット・サービス職員がチェイニーのオフィスに入り、「長官、我々と一緒に参りましょう」と言ったと報告している。この同じ番組で、ライスは言った。「長官たちの全員を見つけようとしていると、シークレット・サービスが入ってきて言いました。「今出て、バンカーに行っていただかなければなりません。副大統領は既に入っておられます。ホワイト・ハウスに向かってくる飛行機があるようです。」そこで、ABCのチャールズ・ギブソンはこう言った。「バンカーで、副大統領はライスとノーマン・ミネタ運輸長官と合流しました」(“9/11: Interviews by Peter Jennings,” ABCニューズ、2002年9月11日)。

9/11委員会の、到着は遅かったという主張

9/11委員会は、一機の飛行機がホワイト・ハウスに向かっているという話を受けた後で、副大統領がPEOCへとせかされたことには同意している。報告書は、しかしながら、この話は9:33までは受けなかったとしている。だがそうであっても、委員会によると、シークレット・サービス職員達は、飛行機が方向を変えたことを伝える他のメッセージを即座に受け取っており、それで「この時点で副大統領を避難させる動きは何も行われなかった。」シークレット・サービスが、チェイニーに地下に行きましょうと言ったのは、「9:36直前」より前ではなかった(9/11CR 39)。しかし、9:37に地下の廊下に入った後でさえ、チェイニーは即座にPEOCには行かなかった。そうではなく、

中に入ってから、チェイニー副大統領とシークレット・サービス職員達は、トンネルの中の盗聴防止機能付き電話と、ベンチとテレビがある場所で休止した。副大統領は大統領に電話をしたいと言ったが、電話がつながるまで時間がかかった。彼はトンネルの中でペンタゴンが攻撃されたことを知り、建物から煙が出てくるテレビ報道を見た。(9/11CR 40)

次に、リン・チェイニーが「トンネル中の夫に加わった」後、委員会は、電話会話を終えた後で「チェイニー夫人と副大統領はトンネルから、シェルターの会議室に移動した」と主張しており、それは9:55以前ではなかった。ライスに関しては、委員会は、彼女が「副大統領のすぐ後に、会議室に入った」と加えている。(9/11CR 40)

これ以上矛盾を明らかにすることはできない。委員会によると、チェイニーは、9:20前にPEOCに入るどころではなく、ミネタや他の人々が言っているように、9:38のペンタゴン攻撃から20分後の9:58頃迄、そこに到着してはおらず、チェイニーは、攻撃について、廊下で知ったのだ。

「ミート・ザ・プレス」でのチェイニーの説明

9/11委員会の説明は、チェイニー自身がある有名なインタビューで言ったものとさえ矛盾している。9/11からわずか五日後、NBCの番組「ミート・ザ・プレス」で、ティム・Russertに、チェイニーはこう言っている。「大統領と話をした後、. . . 私は . . . 大統領危機管理センターに降りて行き. . . . すぐそこに到着し、ペンタゴンが攻撃されたという話を聞いた。」チェイニー自身、それゆえ、 ペンタゴン攻撃(9:38)の前にPEOCに入ったと言っており、委員会が後に主張するように、その20分後なのではない。

矛盾への対処

チェイニーのPEOC到着時刻に関する委員会の主張が、ボーラー、クラーク、ミネタ、ライス、何人かのマスコミ報道や、チェイニー自身のものにさえ矛盾するという事実に、9/11委員会はどのように対処したのだろう? 委員会は単純に、これらの矛盾する報道に対する言及を全く省いたのだ。

そうした省略の中で、最も重要なものは、委員会が公開聴聞会の委員会で行われたものである、この委員会(2003年5月23日)の筆記録を読めばわかるとおりのノーマン・ミネタの証言に触れなかったことだ。9/11委員会記録の9/11委員会聴聞会の公式版ビデオ記録からも、ミネタの証言部分は削除された。(ただし、インターネットでは見られる。)

2006年のカナダ放送のインタビューのなかで、ハミルトンは「午前10時前に、ディック・チェイニーがどこにいたとミネタは委員会に答えたのですか」と質問された。ハミルトンは答えた。「覚えていません」(“9/11: Truth、Lies and Conspiracy: インタビュー: リー・ハミルトン,” CBCニューズ、2006年8月21日)。ミネタが、若者とチェイニーの会話の話をしたことを質問していた人物なのだから、ハミルトンが思い出せないのは驚くべきことだった。ハミルトンは、更に、ミネタにこう言って質問を始めていたのだ。「あなたは、あそこ[PEOC]に、あの日かなり長時間おられましたね。副大統領と一緒にそこにおられたのだと思います。」そして、ミネタが9:20頃に到着したことが確実だとされることになった、ミネタのティモシー・ローマーとのやりとりは、ハミルトン尋問のすぐ後に行われたのだ。それなのに、ハミルトンはこれを全く思い出すことができず、ただこう言った。「チェイニー副大統領は10時ちょっと前にバンカーに入ったのだと思います」

ミネタの問題ぶくみ証言の痕跡抹消

公的記録から、ミネタの話を消し去ろうと9/11委員会が努力するあり得る動機を考えるには、彼が委員会に報告した会話を検討する必要がある。彼はこう言ったのだ。

飛行機がペンタゴンに接近しつつある間、入ってきて、副大統領に「飛行機は50マイル先です」「飛行機は30マイル先です。」という一人の若者がいたのだ。そして、それが「飛行機は10マイル先です」となった時点で、若者は副大統領にこうも言った。「命令はまだ有効でしょうか?」すると副大統領は振り向き、首の回りを叩いて言った。「もちろん命令はまだ有効だ。君は何かそれと反対のことを聞いたのかね?」

ミネタの話には、9:38に起きたペンタゴン攻撃に関して危険な含意があった。9/11委員会によると、軍は一機の飛行機がペンタゴンに接近しつつあったことを9:36まで知らず、「ワシントンに接近しつつある正体不明の飛行機に対応するために、最大で一ないし二分」しかなかった(9/11CR 34)。この主張は、何よりも、なぜペンタゴンで、攻撃される前に避難しなかったのかという、125人の死者を生じさせてしまった事実を説明するのに必要不可欠なのだ。ラムズフェルド国防長官のある広報担当官は、なぜ避難をしなかったのか尋ねられて答えた。「ペンタゴンは、単にこの飛行機がこちらにやってくることに気づいていなかったのです。」(Newsday、2001年9月23日)ミネタの証言は、対照的に、チェイニーや他の連中は、攻撃の約12分前に、一機の飛行機がワシントンに接近しつつあることを知っていたことを暗示している。

一層問題なのは「命令」の本質にかかわる疑問だ。ミネタは推測して、それは飛行機を撃墜させる命令だと言った。だが飛行機は撃墜されなかった。また、特に、二機のハイジャックされた旅客機がニューヨークのビルに既に突入したという日に想定される命令は、ワシントン上空の「民間の飛行が常時禁じられている」「禁止」空域に侵入するいかなる非軍事的航空機でも撃墜せよというものだったろう。(“Pilots Notified of Restricted Airspace; Violators Face Military Action,” FAA報道発表、2001年9月28日)。こうした命令が下されていれば、命令が依然として有効かどうか尋ねる理由などなかったろう。飛行機を撃墜するのではなく、何かただならぬことをする命令であった場合にのみ、この質問は意味をなす。従ってこれは、ミネタが、ついうっかり警備態勢を解除しておくという命令をチェイニーが確認したことを報告してしまったように見える。

ミネタの報告が危険視されたことは、9/11委員会が、ミネタの証言を削除し、チェイニーがバンカーに入った時刻をおよそ45分遅らせ、ミネタの話を、侵入してくる飛行機についての新たな話で置き換えたという事実が示唆している。9/11委員会報告によると、本当に起きたのはこういうことだという。

10:02に、シェルターの通信担当官達は、一機の侵入してくる飛行機についてのシークレット・サービスからの報告を受け取り始め. . . . 10:10から10:15までの間のどこかの時点で、ある軍事顧問が副大統領や他の人々に飛行機は80マイル先だと言った。チェイニー副大統領は、飛行機と交戦する権限を要求された. . . . 副大統領は戦闘機がやってくる飛行機と交戦することを承認し. . . . 軍事顧問が、数分後、恐らく10:12から10:18迄の間に戻り、飛行機は60マイル先だと言った。彼は再び交戦する許可を求めた。副大統領は再び、許可すると言った。(9/11CR 41)

9/11委員会はこうして、侵入してくる飛行機の話を、警備体制解除ではなく、撃墜の命令で終わるものとして提示した。10:10以後にそれが起きたことにすることで、委員会は、それをペンタゴン攻撃から切り離したばかりでなく、チェイニーの撃墜承認が、ユナイテッド航空93便(委員会によれば、10:03に墜落した)の撃墜に至った可能性をも阻止したのだ。

チェイニーのバンカー入室についての9/11委員会説明が、ノーマン・ミネタの証言ばかりでなく、チェイニー自身を含めた他の多くの証人とも矛盾するという事実からして、議会とマスコミは、何が実際に起きたのかを判断するための調査を立ち上げる必要がある。

著者について:

本エッセイは、デヴィッド・レイ・グリフィン博士によるThe Canadianへの寄稿連載記事の二編目。本記事は、グリフィン博士の著書"9/11 Contradictions: An Open Letter to Congress and the Press"「9/11の矛盾: 議会とマスコミに対する公開質問状」(Northampton: Olive Branch、2008年3月刊)の第2、3章の簡略版である。

記事原文のurlアドレス:www.agoracosmopolitan.com/home/Frontpage/2008/01/22/02147.html

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2008年4月26日 (土)

「国境なき記者団」のまやかし

突如として有名になった?「国境なき記者団」、イラク侵略や、パレスチナ問題に対して、積極的に活動しているという報道を見た記憶が全くない。関連記事を調べてみたところ、標題のような記事があった。以下抄訳。

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「国境なき記者団」のまやかし

2005年5月13日

サリム・ラムラニ

国境なき記者団(RSF)の、うさんくさい党派的活動をめぐる強い疑念は、根拠がないものではなかった。プロパガンダを活用するのが特徴の、パリ人組織による政治活動、特にキューバとベネズエラに対する活動を、長年にわたって、様々な批判者たちが、みえすいているとして糾弾してきた。ハバナとカラカスの政府に対するRSFの立場は、キューバ人やベネズエラ人革命家たちに対してワシントンが仕掛けている政治・マスコミ戦と、完璧な相関関係にあることが分かる。

とうとう真実が明らかになった。20年間RSFの事務局長をしているロベール・メナールが、主な役割が、世界中でホワイト・ハウスの狙いを推進することであるアメリカ国務省から資金を受けている全米民主主義基金(NED)から資金を得ていることを告白したのだ。メナールは実に明快だった。「我々は確かにNEDから金を貰っている。それだからといって、何も問題にはなっていない。」(1)

軍による暴力行為が、国際問題を解決するための伝統的な外交にとって代わった時期1983年に、元アメリカ大統領ロナルド・レーガンが、全米民主主義基金(NED)を設立した。財政的浸透力という強力な能力を持ったNEDの目標は、ワシントンの海外覇権に反対する政府を弱体化させることだ。(2) ラテン・アメリカでの、二大目標はキューバとベネズエラだ

中略

RSFの2004年の年次報告書によると、「少なくとも53人の報道を職業とする人々が業務遂行時に、あるいは意見を発表することで命を失った。」この報告によれば、イラクはジャーナリズムにとって最も危険な国で、19人の記者が殺害されている。2003年以来イラクを占領しているアメリカ軍がこの国を支配しているのだから、アメリカ軍はこうした殺人に責任がある。しかしながら、RSFはアメリカ当局を非難するどころではなく、またもやワシントンの公式発表を受け入れ、様々なジャーナリストを死に至らせた発砲を、「偶発的だ」と書くにとどめている。しかしながらイラクはメナール氏にとって重要ではない。(8)

中略

2003年の支出をみると、問題になっているジャーナリスト達の救済そのものには、予算のわずか7%しか割り当てられていないことが明細書でわかる。(14) 予算の93%はどこにいっているのだろう? 国境なき記者団に資金を供与している人々の、つまりフランス政府、そして大手の経済、金融集団、フロリダ州の極右キューバ人、そしてアメリカ国務省の利益に奉仕するためのプロパガンダと偽情報の業務にささげられているのだ。

「報道の自由を守れ」というのはうわべにすぎない。国境なき記者団は、政府や強力な経済、金融団体の利益のために奉仕している。それこそが、報道の自由に対する主要な脅威である「情報手段の集中」を、メナール氏の組織が決して非難しない理由だ。それこそが、とりわけ、記事と政治的立場を理由に20年以上も投獄されているアメリカのジャーナリスト、ムミア・アブ・ジャマルの運命に、RSFが決して関心をもたない理由だ。不幸にして、メナールと、大手マスコミと、金融資本の共謀が、人道主義という煙幕の陰に連中が隠している本当の狙いを、人々が発見する邪魔をしているのだ。

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記事原文urlアドレス:

www.zmag.org/content/showarticle.cfm?SectionID=45&ItemID=7851

「国境なき記者団」ついては、wikipediaにも、資金源なども含め書かれている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%A2%83%E3%81%AA%E3%81%8D%E8%A8%98%E8%80%85%E5%9B%A3

また

「国境なき記者団」の正体

という英語記事もある。そのごく一部だけ(末尾)を翻訳しておく。

引用開始

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世界第4位の、マーケティング・広報コングロマリット企業Publicis Groupe(ピュブリシス・グループ)の第三の柱であるサーチ・アンド・サーチ社が、無償で「国境なき記者団」の広報をしている。ピュブリシス・グループは、フランスの広告業界では独占的な立場を享受しており、その結果、おしゃれな「国境なき記者団」のプロパガンダが、同社によって、パリの日刊紙やスーパーマーケットで無料で宣伝される。同社が販売する書物も、Vivendi Universal Publishingによって、無料で印刷してもらっている。こうしたサービスの全てが、「国境なき記者団」の予算として考慮されるべきだ。ピュブリシス・グループのこの仰天するような寛大さの理由はあきらかではないが、ピュブリシスの主要顧客がバカルディ(訳注:世界最大のラム酒ブランド)で、同社の2001年広告予算が5000万ドルをわずかに下回るということは注目に値しよう。

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引用終了

記事原文urlアドレス:www.counterpunch.org/barahona05172005.html

気になって日本の広告大企業との関係を見たところ下記の記事があった。

www.nikki.ne.jp/news/112284.html

つまり、電通も、ピュブリシス・グループの株を所有しているのだ。

「国境なき記者団」の提灯報道はあっても、正体については全く報道されないわけだ。

ネグリは入国を禁じるが、煙幕のメナールは大歓迎。

911郵政選挙時の連日のメディア・プロパガンダを思い出した。

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追記:

時折、"「国境なき記者団」"を、様々な検索エンジンで検索し、このページが一体何ページ目に掲載されているかを見て、検索エンジンの開放度をチェックしている。(この記事、参照回数が、なぜか、比較的多い。)

某検索エンジンでは、当初、常に2ページ目にあったが、今ではかなり下位のページに移動された。まず普通はそこまで探すまい。これが、いわゆる「八分」というものだろう。「電通のタブー」に触れているからだろうか?もちろん、そのエンジン、かなり昔から常用していない。カウンターの不正操作というのもあるようだ。庶民のための検索エンジンが不可欠だろう。

本記事を引用くださっているblogがいくつかある。大変ありがたい、と言うべきなのだが、不思議なことに、肝心な末尾の太字部分が、なぜか引用されていなかったりする。

末尾太字の核心部分を、欠落させずに、引用していただきたい。

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2009/4/7追記

大変に興味深い記事が、YahooニュースJapanに載った。以下引用しておく。文中の太字は、加工させていただいたもの。

<電通>新たに408億円の特別損失 最終赤字の可能性も

4月6日20時20分配信 毎日新聞

 電通は6日、09年1~3月期に有価証券評価損として連結ベースで408億8300万円の特別損失を計上すると発表した。このうち377億円が同社が
15%を出資する仏広告会社「ピュブリシス」の株式評価損。4~12月期に計上した他の有価証券評価損を加え、特別損失は通期で510億円に膨らむ見通
し。09年3月期業績への影響について、同社は「集計中」としているが、最終損益の従来予想は110億円の黒字のため、特別損失計上によって最終赤字に転落する可能性もある。

 電通は1901年の創業時期をのぞき、業績が赤字になったことはない。【窪田淳】

2009/6/11追記

重要な資金源が怪しくなれば、当然『国境なき記者団』の経営基盤も危うくなったろう。そこで、ロベール・メナールなる人物の最近の仕事場は下記の通りであることを明記しておこう。

『国境なき記者団』のロベール・メナールは、2008年の9月に、事務局長を辞し、2008年10月に開設された、カタールのDoha Center for Media Freedomの事務局長に就任した。

2010/6/10追記

上記サイトを見ても、もはや存在していないようだ。メナールによる辞任の弁、どこかで見た記憶があるが、翻訳には及ぶまい。

2008年4月24日 (木)

反中国デモの偽善と危険

2008年4月14日、CommonDreams.orgで公開。

Floyd Rudmin

チベット人は「人口構成による侵略」や「文化的虐殺」で苦しんでいるという話を聞く。しかし、こうした言葉がスペインやフランスの少数民族バスク人政策について使われるのを聞いたことはない。こうした言葉が、1898年のアメリカによるハワイ王国併合について使われるのを聞いたことはない。そしてディエゴ・ガルシアについて。さほど遠からぬ昔、1973年、イギリスが、チャゴス諸島先住民全員を、インド洋のディエゴ・ガルシア島から強制的に国外退去させた。人々は衣装スーツケース一つしか持たせてもらえなかった。それ以外は何もなしだ。家族で飼っていたペットは毒ガスで殺され、埋葬された。完璧な民族浄化だ。完璧な文化破壊だ。何故だろう? 巨大なアメリカ空軍基地建設のためだ。それはアフガニスタンとイラク爆撃のために活用されたし、間もなくイランとパキスタン爆撃にも利用されるかもしれない。イギリス人とアメリカ人以外は誰もいないディエゴ・ガルシアは、引き渡しや拷問や他の非合法行為にも、うってつけの場所だ。

2012年のロンドン・オリンピックでは、ダライ・ラマやデズモンド・ツツは、きっとディエゴ・ガルシアでの「人口構成による侵略」や「文化的な虐殺」に対する抗議デモの先頭に立つだろう。国連事務総長、フランス大統領、ドイツ首相、そして新たなアメリカ大統領や全アメリカ議会が、開会式をボイコットするに違いない。

アメリカやイギリスや40以上の有志連合諸国が、イラクに対する侵略戦争をおこなっている一方で、ラサにおける人種的な暴動で100人が亡くなったことに対するこの道徳上の姿勢は、偽善の極みだ。イラクでの戦争は「人口構成による侵略」などでなく、むきだしの衝撃と畏怖による侵略だ。戦争犯罪だ。上下水道施設と配電網の意図的な破壊を含む、民間人に対する戦争だ。100万人以上のイラク人が亡くなった。500万人が難民にされた。西洋の侵略者は、「文化的な虐殺」こそしなかったかもしれないが、西洋文明のまさに揺籃の地で、膨大な規模の文化的破壊をおこなったのだ。なぜニュースは、チベット問題のデモの話題ばかりで、イラク問題のデモではないのだろう?

さらに「人口構成による侵略」や「文化的虐殺」は、イスラエルの入植地政策やパレスチナ人共同体の組織的破壊にこそぴったりあてはまるということを、誰もが知りながら、触れる人はほとんどいない。この点について、ダライ・ラマは沈黙したままのようだ。デモをする人々は、ブルドーザーで潰された家屋や、破壊された果樹園や、殺されたパレスチナ人の子供たちのためには旗をふらない。

中国という文脈

中国政府は人類の四分の一の福祉と治安に対する責任を負っている。仏教の僧侶によって行われた場合ですら、人種暴動や反乱は容認しえないのだ。

エジプト人がピラミッドを建築し始めた頃には、中国文明は既に成熟していた。しかしこの200年間はうまく行っていなかった。二度の阿片戦争で中国は麻薬の輸入を強いられ、植民地支配を完成する手段としてヨーロッパ人が沿岸の港を掌握し、更に義和団の乱、満州王朝の崩壊、内戦、日本による残虐な侵略と占領、更なる内戦、更に共産党による統一と社会変革、そして毛の文化革命だ。そうした出来事によって何千万人もの人が亡くなった。それゆえ、中国の近代史には、個人の権利より、社会秩序に高い優先順序を置く、もっともな理由がある。人種暴動や反乱は容認しえないのだ。

こうした文脈を考えて、西欧世界が自らの国内の少数民族に対して行ったことと比較すれば、中国の国内少数派民族の扱いは模範的だ。何千年もの中国支配にもかかわらず、中国には依然として50以上の少数民族がいる。北と南アメリカにおける数百年にわたるヨーロッパ支配の後、本来の少数民族文化は、根絶されたか、損なわれたか、減少した。

中国通貨には五カ国語が表記されている。中国語、モンゴル語、チベット語、ウイグル語、チワン語だ。これに比べ、カナダ通貨には英語とフランス語表記はあるが、クリー語もイヌクティトゥト語表記もない。もしアメリカが中国と同じくらい少数民族に配慮しているなら、ドル紙幣には英語、スペイン語、チェロキー語とハワイ語表記があるはずだ。

中国では少数民族は小学校教育を彼等自身の共同体によって運営される学校で、自らの言語で始める。中国語教育は10歳になるまで導入されない。これは大半の西洋諸国における強制的な言語的同一化の歴史とは、際立って対照的だ。最近オーストラリア政府は、子供たちを家族から引き離し、子供たちに英語を話すよう強制し、母語を話すと子供を叩いたことを、オーストラリア先住民少数派に対し謝罪した。中国は、チベット人や他の少数民族に対して、そうした謝罪をする必要はない。

中国の一人っ子政策は西欧人にとっては圧政的なものに見えるが、これは少数民族には適用されてはおらず、漢民族中国人にだけ適用されている。チベット人は好きなだけ何人でも子供を育てることができる。もしも漢民族が一人以上の子を持つと処罰される。

大学入学の点でも、少数民族に対する同様な優遇策がとられている。たとえば、チベットの学生は、中国のエリート大学たる北京大学に、漢民族の中国人学生より低い試験成績で入学できる。

中国は少数派民族の権利問題に関して完璧な国ではないが、大半の西欧諸国よりはましだ。また中国は、自らを復興し、200年の連続的な危機と外国による侵略から回復するという歴史的文脈の中でこれをなし遂げたのだ。

歴史的主張

国境というのは自然にあるものではない。国境は常に歴史から生まれるものだが、あらゆる歴史が、議論の余地があるものだ。国境に対する主張やら証拠というものは、いつでも見つかるものなのだ。中国は過去200年間、その主張を執行することは困難ではあったのだが、チベットは自国領土の一部だと長らく主張してきた。ダライ・ラマは、チベットに対する中国の主張に反論はしていない。最近のチベットにおける人種暴動と反オリンピック・デモによって、中国が縮小し、自国領土の一部を放棄するようなことにはなるまい。暴徒やデモ参加者もそれを知っている。

チベット分離主義者を後押ししている外国政府や、チベット独立を要求しているデモ参加者たちは、自分の国をもっと良く見つめるべきだ。カナダ人は、ケベック独立運動のキャンペーン活動をすることができる。アメリカ人は、プエルトリコ、バーモント州、テキサス州、カリフォルニア、ハワイ、グアム、そしてアラスカの分離主義者を支持することができる。イギリス人はウェールズ解放と、「スコットランド人の為のスコットランド」のために働くことができる。フランス人は、タヒチ人、ニュー・カレドニア人、コルシカ人、そしてバスク人の解放を支援することができる。スペイン人もバスク人や、カタロニア人を支援することができる。イタリア人はシチリア人分離主義者や、北部同盟を支援することができる。デンマーク人はフェロー諸島を独立させることができる。ポーランド人はカシュビア人を支援できる。日本人は沖縄の分離主義者を支援することが、フィリピン人はモロ民族を支援することができる。タイ人はパタニ独立を促進することができる。インドネシア人はアチェ人の独立を促進することができる。ニュージーランド人は、島々をマオリ族に渡すことができる。オーストラリア人はパプアを立ち退くことができる。スリランカ人はタミール人独立主義者を支援することができる。インド人はシーク人分離主義者を支援することができる。

ほとんど全ての国は、なんらかの独立運動を抱えているものだ。民族的分離主義を推進するために、はるばる世界の頂上のチベットにまででかける必要はない。中国は他国において、独立運動を推進しているわけではなく、他国が中国内で独立運動を推進することを喜ぶわけもない。最も抑圧され、最も自分たちの国を必要としているのはパレスチナ人だ。推進し、デモをするに値する他のプロジェクトがあるのだ。

デモの危険性

これらのデモはチベット人の役には立たず、むしろチベット人を隠された動機のために利用している。多くのチベット人は、したがって、こうしたデモには反対している。多くの中国人は歴史を忘れてはおらず、ラサの暴動とそれに続くデモを、中国を分断し、弱体化しようとする外国勢力の新たなたくらみだと見なしている。中国がチベット人を裏切り者として恐れるようになり、中国において、反チベット感情が広範に広がる結果となるという深刻な危険性がある。

少数民族が外国勢力のために働くのではという恐怖から、カナダは、第一次世界大戦の間、カナダ国内のウクライナ人少数派を強制収容所に監禁した。同じような理由で、オットーマン帝国は、自国内のアルメニア人少数派を国外退去させ、死の行進で100万人以上を殺害した。ドイツのナチスは、ユダヤ人少数派が第一次世界大戦敗北を招いた裏切り者だと見なした。それで、1930年代に国外追放がおこなわれ、1940年代に死の収容所があったのだ。第二次世界大戦中、カナダとアメリカ両国は、日本人移民という少数派が裏切るのではないかと恐れ、彼等を強制収容所に移送した。自国内の中国人少数派を恐れたインドネシア人は、1959年には100,000人を国外追放し、1965年には何千人以上も殺害した。同様にイスラエルは自国内のアラブ人少数派を恐れており、国外追放と弾圧をおこなっている。

願わくは、中国政府と中国人が、チベット人を、外国の強国の手先というより、外国の強国の犠牲者と見なして欲しいものだ。だがもしも中国が、歴史上他の国々がしたように対応して、チベット人に対し、体系的で過酷な弾圧を始めるようなことになれば、現在デモをしている人々は、そうした出来事を招来した自分たちの役割を忘れるべきではあるまい。

結論

現在中国を非難しているデモ参加者達は、自らが、そして他の人々が、自国政府の現在の失敗を見つめ、改めることからそらせる役にしか立っていない。もしもデモをする人々が、しばし耳を傾けるなら、彼等自身の偽善という沈黙の声が聞こえるだろう。

こうしたデモの結果は 1) 中国が、チベット人に暴動をあおった外国の影響を見いだそうという決意を固めるであろうこと、そして 2) アメリカ、イギリス、フランス、そして他の西欧諸国の政府では、ここ数週間、国内での政府批判は減ったろうということだ。それだけのことだ。これらのデモはなんら好ましい結果をもたらせまい。

Floyd Rudminとは、emailで連絡がとれる。

記事原文のurlアドレス:www.commondreams.org/archive/2008/04/14/8287/

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関連記事翻訳:

「国境なき記者団」のまやかし

2009年7月13日追記

今度は、新疆ウイグル自治区。

今年、沖縄にでかけた。安保の丘というか、嘉手納道の駅で、しばらくラプターの離着陸を見学した。米軍航空機騒音判決の日にも、米軍機の離着陸演習はやまなかったというが、本土の新聞には、そのような話題は全くのらず、テレビ・ニュースでも流れなかった。

昨年、北海道に何度かでかけた。アイヌの人々の蜂起、1789年 クナシリ、メナシの蝦夷の蜂起が最後だという。そこで、下記のような感想を持った次第。(上記記事を流用させていただく)

ウイグル分離主義者を後押ししている外国政府や、ウイグル独立を要求しているデモ参加者たちは、自分の国をもっと良く見つめるべきだ。

ナオミ・クラインの名著『ショック・ドクトリン』の第9章 「歴史という扉をバタリと閉鎖 ポーランドの危機、中国の虐殺」を読んで初めて、天安門事件とフリードマン流経済政策との結びつきの深さを知った。

『ショック・ドクトリン』翻訳もでないまま、日本は、こりずに小泉911欺瞞選挙の繰り返し。政権交代が自己目的化しているというのは、異常だが、全ての茶番、巧妙に長い年月をかけて、計画されてきたのだろう。植民地支配に邪魔な小政党の排除という目的のために。

2008年4月22日 (火)

西欧マスコミは本当のチベット情報を報じそこねている

Michael Backman

The Age

2008年4月9日

数年間にわたって、このページで、アジアの犯罪人たちを明らかにしたり、世間一般に持たれている考え方と逆の視点を提示したりしてきたが、私はとうとう初めて殺しの脅迫を受けた。

それほど深刻なものではないのだろうが(匿名の電子メールだった)、小生の経歴上、非常に画期的な出来事ではあるだろう。それはインドに暮らすチベット人難民で、ダライ・ラマの信奉者だ、と称する人物から来たものだった。

私に投書してきた人物は、今度私がインドを訪れたら、殺され(食べられる、と彼は言った)、家族は私の遺骸を決して発見できまいと書いていた。

投書してきた人物が不快に思ったのは、私が昨年The Ageに書いたコラムで、その中で、大半のマスコミ報道が無視しているダライ・ラマのいくつかの側面を私は強調していた。たとえば、亡命政府の運営にあたり、多くの親族を高位につけ、かなり縁故主義的だったことや、1950年代、60年代中と、70年代初頭まで、彼が個人的にCIAから給料をもらっていた、といった事実だ。

先週そのコラムが、チベット問題という文脈で、北米のウェブ・サイトに承認なしで複製され、この問題をとても危ぐしている人々のそうでなくとも不安な感情に油を注いだ。

元のコラムは、昨年のダライ・ラマのオーストラリア訪問にあわせて書かれたものだ。当時のオーストラリア・マスコミがダライ・ラマに関しておこなっていた、莫大で無批判的なマスコミ報道と釣り合いをとるべく書かれたものだった。

中国のダライ・ラマに関するマスコミ報道が、あきれるほど否定的な方向に偏向しているのと同様、ダライ・ラマに対する西欧マスコミの報道は、これまで過度に好意的かつ無批判的だと私はいつも考えてきた。

明らかに、過去数週間に、チベット系住民が中国軍に殺害された。これは広く報道されてきた。

だが、人種問題を原因とする攻撃で、中国系住民がチベット系住民によって殺害されたことも明らかだ。これは、西欧のマスコミではそれと同じ様なレベルで明らかにされいるわけではない。にもかかわらず、1998年、同様の原因から、ジャカルタで中国系住民が強姦され、殺害された時は、西欧マスコミは、しかるべく愕然とした。非中国系現地人を犠牲にして過剰な経済支配をしている、と受け止められたのが原因だった。

ラサでは、働いていた洋品店がチベット人の抗議参加者に放火され、四人の中国人女性と一人のチベット人女性が焼死した。だが、中国人に対する狂暴な行為は、漢民族中国人に対する攻撃だけという単純なものではない。中国系イスラム教徒商人まで攻撃された。古代シルク・ロードの遺産であるラサには、イスラム教徒の商人は何世紀にもわたって住んできたのだ。しかし二週間前の騒乱では、ラサの古い地区にあった大寺院も焼け落ちた。

チベット文化が、中国人移住者によって、明らかに圧倒されているのは悲劇だ。だが、小企業を営む中国系住民の殺害は、あるいは実際、誰の殺害であれ、誤っており、疑いもなく、ダライ・ラマが退位をするぞと警告した理由の一つだ。

だがまたもや、この扱いは、西欧のマスコミには、チベット報道となると偏向があることを示唆している。不幸にして、この無遠慮な批判は、宣伝行為という点では、中国に対してもあてはまる。

中国とチベットに関しては、どちらかの側が絶対に正しいということはない。いずれの側も、自分の主張を強化しようとして、信頼できる歴史的主張を挙げる。中国は、チベットは長らく中国の一部だったと本気で信じている。チベット人は、その逆を本気で信じている。

中国国内の普通の中国人は、チベット人を恩知らずで、身勝手だと考えている。前回北京を訪ずれたとき、ある若い中国人がチベット人のことを、攻撃的で、中国がチベットに対しておこなったあらゆる開発に対し、感謝の念がないと言った。私は彼に、彼等は、自分たちが、中国人移住者たちによる、意図的に企てられた文化的大虐殺とも見えるもので、圧倒されつつあるのを一番懸念しているのだと説明した。彼の顔に驚愕の表情が一瞬よぎった。彼はこうした主張をこれまで聞いたことがなかったが、その論理は明らかに彼の心に訴えたのだ。中国のマスコミはこれを決して報道しないために、彼はそれまで聞いたことがなかったのだ。

中国の民族主義は高まりつつあるので、中国でこのような見方が受け入れられる可能性は少ない。おそらく多数の西欧の投資家は、この問題に関して、中国の肩をもった明白な発言をした方が、中国への参入がより円滑になることに気づいているだろう。

場合によっては、ダライ・ラマによる支配、豊かな僧院や、メンバーたちは大体、シチリアの珊瑚、イランのトルコ石やビルマのルビーだらけだったので、ほとんど身動きすらできなかったような、裕福な貴族的家族の一団を、打倒した時に、中国は普通のチベット人に対して、偉大な貢献ができる可能性があった。政権打倒は、土地と農民の生活に対する完全な支配を築き上げたイギリスの修道院が、ヘンリー8世によって解体されたのに匹敵する。

不幸なことに、チベットの場合、神政的で、私利的な支配と置き換わったものは、ずっとましだとは到底言えぬものだった。中国共産党だ。現地の独裁者が外国のそれに置き換わった。

スターバックスのラサ一号店は、おそらくわずか一、二年のうちにできるだろう。経済制裁のおかげで、ビルマが世界最大の生ける博物館として保存されたのと同じように、自分たちの個人的な楽しみのためには、むしろチベットは中世にとどまったままであって欲しいと考える多くの裕福な西欧人旅行者にとって、これは特に悲劇だ。

チベット問題を取り巻く利権は多く、「チベット解放」の類の単純なスローガンより、はるかに複雑なことになっている。もしも中国がこの問題を中和するつもりであれば、今はまだ欠けている、一定レベルの洗練、成熟と自信をもって行動することを学ぶ必要があろう。中国支配下での苦難に対し、チベット人に詫びるのは、そうしたひとまとまりのものの一部になるべきだろう。だが、そこまでのレベルの悟りにいたるのは、明らかに、ずっと何年も先のことだ。

おわり

Ageウエブ・サイト上のコラムのウエブ・アドレス:

http://business.theage.com.au/western-media-miss-the-real-tibet-story/20080408-24nz.html

上記記事のurlsアドレス:

www.michaelbackman.com/NewColumn.html

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文中言及されているものと思われるGlobalResearch.ca記事を「CIAの役割:ダライ・ラマの聖なる僧衣の背後」として先に訳出した。

「著者により否定・取り下げられたGlobalResearch記事...」というweb記事を貼り付けた匿名コメントを頂いた。記事が取り下げられたことには気づかずにいたので、訳は保留にした。

同じ著者のこの4月9日記事を訳しておく。

GlobalResearch.caでは取り下げた様だが、The Ageの元記事は下記で読める。記事のタイトルは「ダライ・ラマの聖なる僧衣の背後」である。

www.theage.com.au/news/business/behind-dalai-lamas-holy-cloak/2007/05/22/1179601410290.html

関連記事の翻訳:

「国境なき記者団」のまやかし

2008年4月20日 (日)

FBI、P2Pネットワークを調べ回る準備中

Kurt Nimmo

Truth News

2008年4月19日

マスコミを信じるならば「人気のあるP2Pネットワークや、ウエブ・サイトや、チャット・ルームでの非合法なファイル共有活動を監視し、解読する」ため、FBIはインターネット上ではびこっているとされる児童ポルノ禍を口実にしている。

「昨日の上院の犯罪麻薬小委員会の公聴会で、反児童ポルノ活動家達が、オンライン児童ポルノと戦い、P2Pネットワークや、ウエブ・サイトや、チャット・ルームでの児童ポルノ密売を狩り出すことができる次世代ネットワーク監視・データベース・システムを作る計画を進めるべく、上院議員達に、FBI予算を増額するよう要請した」とジョン・ストークスがArs Technicaで報じている。「新システムは、FBIの地域情報共有システム(RISS)ネットワーク上におかれ、現在オンライン児童ポルノ密売人を発見、逮捕するために使われている、ワイオミングにある既存システムを、全国でより多くの取締機関職員が使えるようにするもの」

しかし、記事を読めば、FBIが児童ポルノ密売人より、反戦活動家を捕らえることに強い関心をもっていることがわかる。「インタビューや極秘のメモによると、FBIは、反戦デモ参加者の戦術や、訓練や組織に関する広範な情報を収集し、抗議行動におけるあらゆる怪しい活動を、現地警察官が反テロ特捜班に報告するよう要求している」と、ネオコンがイラクを爆撃し、侵略してから一年もたたない2003年、ニューヨーク・タイムズが報じていた。「FBI当局者は、インタビューで、情報収集活動は暴力行為を企んでいるアナキストや過激分子を特定するのが目的であり、法律を遵守して抗議をする人々の政治発言を監視しているわけではないと語った。」

結局のところ、アナーキストだとされている連中の多くが、カナダ、モンテベロでのNAUサミットでそうであったように、実は政府の工作員だということは、マスコミも報道している事実だ。アメリカでは、「法律を遵守して抗議をする人々」が標的にされ、脅迫、嫌がらせ、信用をなくさせたり、該当者が警察への密告者であると周囲に思いこませたり、ありとありゆる権威主義的で違法な策略を駆使し、何十年間も「制圧してきた」が、FBIは先駆者であった。

確かにFBIは児童ポルノ売人の一人や二人は捕まえるだろうが、これまでの歴史から見て「次世代ネットワーク監視・データベース・システム」が本当に狙っているのは活動家たちだ。

2005年にニュージャージー州選出の民主党上院議員、フランク・ローテンバークが訴えかけ、「FBIは、政府の政策に反対した人々を、テロリストになる可能性がある人物と見なしているのではないかと懸念している」とクリスチャン・サイエンス・モニターが、当時報道した。自らが認める「環境保護論者」であるローテンバークは、国土安全保障省が、シエラ・クラブを追い回すのではないかと危惧した。もちろん、そんなことはない。シエラ・クラブは、ロックフェラーとフォード財団の策謀の一つであり、特権的な立場を享受しているが、反戦・愛国活動家、あるいは、少なくともFBIとは親交がない連中の場合には、そうは行かない。抵抗勢力を破滅させるために、FBIは、こっそり広範囲に調査する能力や「次世代ネットワーク監視・データベース・システム」が必要なのだ。

児童ポルノ作者叩きは、単にそれを売り込む最も効果的な手段に過ぎない。

元記事のurlアドレス:www.truthnews.us/?p=2157

2008年4月17日 (木)

元州知事ジェシー・ベンチュラ: WTC崩壊は制御解体だ

元海軍軍人で映画俳優の彼は公式説明を猛烈に批判し、マスコミは攻撃に関する真実を隠蔽していると語った。

ポール・ジョセフ・ワトソン

Prison Planet

水曜日、2008年4月2日

今日、元ミネソタ州知事ジェシー・ベンチュラは、全国放送されているラジオ番組で、、9/11の公式説明を猛烈に批判し、WTCは制御解体のように崩壊し、粉々になったと語り、10秒という信じられないタワーの自由落下速度についても強調した。

アレックス・ジョーンズ・ショーに電話出演し、9/11に対する最初の対応は当時の大半の人々とほとんど同じで、公式説明を無条件に信じたが、当時は権力のある立場にあり、権力を沢山鋭い質問をするのに使えたはずだったのにと、今は当時の対応を後悔しているとベンチュラは語った。

ベンチュラは、息子が見るように言い張るので「ルーズ・チェンジ」を見たのが、事実に目覚めるきっかけの一つだったと付け加えた。

ホストのアレックス・ジョーンズは、史上最も多く見られているインターネット上の映画ルーズ・チェンジ(ここで見られます)の製作総指揮者。映画を見た時には、感情の激しい変動を味わったとベンチュラは語った。

「とうとうあの映画を見た時には、想像できる限りのあらゆる感情を味あわされましたよ。笑い、泣き、胸がむかつき、もうあらゆる感情を」と元州知事は語った。

「私にとって、そうした疑問は未回答のままで、9/11については明らかになっていない」とベンチュラは語り、飛行機が突入していない47階建ての高層ビルが、9月11日の夕方、建物面積上に崩壊した、第7ビルの件のことも強調した。

以下略。

記事原文のurlアドレス:www.prisonplanet.com/articles/april2008/040208_jesse_ventura.htm

Fox Newsテレビの番組Hannity & Colmesにも、登場し、同様発言をしている。

The Daily Tube

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宗主国の元州知事、プロレスラー、属国の先生が謝罪した話を聞いたら、驚くのだろうか?爆笑するのだろうか?

関連記事:

25の容認しえない矛盾:9/11公式説明の決定的な否定 デヴィッド・レイ・グリフィン新刊書評

2008年4月 9日 (水)

来週のペトレアス証言はイラン攻撃の合図に

ポール・クレーグ・ロバーツ

Global Research、2008年4月8日、

LewRockwell.com - 2008-04-05

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4月7日、ロンドン・テレグラフは「イギリス当局者は昨日、在イラク・アメリカ軍司令官が、イランがアメリカが支援しているバグダッド政府に対する戦争を遂行していると発言するだろう、と警告した。英国政府の見立てでは、イラクへのイラン介入に関するデビッド・ペトレアス司令官の強い発言は、アメリカによるイラン軍事施設攻撃のお膳立てになりかねない。」と報じた。

ネオコンの従僕ペトレアスは、チェイニーに自分の演説原稿を書いて貰い、ペトレアスは、バグダッドのグリーン・ゾーンにいる駐イラク米大使のネオコン戦争屋ライアン・クロッカーと共に、火曜日と水曜日に議会で嘘をつくはずだ。そのための道筋は、キンバリー・ケーガンのようなネオコンの伝道者たちによって、しっかり準備されている。「アメリカは、イラクにおいて、イランが、アメリカに対する全面的な代理戦争を遂行していることを認識しなければならない。」

議会が、戦争をけしかける以外のことをするなどと期待してはならない。4月3日、インターナショナル・ヘラルド・トリビューンは、上院・下院議員たちは、国防企業への何百万ドルもの投資を行っており、その総計は1億9600万ドルにのぼると報じた。国家軍事委員会の議長である民主党のアイク・スケルトン下院議員は、既にイラン攻撃の側にたっている。ロンドン・テレグラフは、スケルトン発言を引用している。「イランは、瀬戸物屋で暴れる牛のようなものだ。要するに、イランは、全てのシーア派集団に対し、政治的であれ、軍事的であれ、つながりをもっているようだ。」

スケルトンが知っているのは、戦犯のブッシュ政権が彼に教えたことだけだ。もしもイランが実際にそうしたあらゆるつながりを持っているのであれば、イランは、ワシントンに、イランを脅かすのを止め、アメリカを悪夢から抜け出させるために、イラクを安定化させるべくイランと仲良くするようにさせることこそ、ふさわしい。

4月4日のテヘランからの報道で、ロイターは、アメリカ傀儡のイラク・マリキ政権の盟友であるイスラム最高評議会の指導者アブドル・アジズ・アル・ハキムの息子、モフセン・ハキムの発言を引用した。「テヘランは、イラク国民に対する前向きな影響力を行使して、イラクの平和回復への道を開いてくれた、新たな状況はイランの努力の結果だ。」

イランに感謝し、イラクの安定を取り戻すためにイランと外交的に協力するかわりに、ブッシュ政権は、イランに対する軍事攻撃によって悪夢を拡大しようとしている。ライアン・クロッカーは、バスラでの戦闘を終わらせるために、イランが影響力を行使したというハキム発言に素早く反論した。クロッカーは、イランが戦闘を始めたのだ主張している。ネオコン・アメリカ・マスコミでさえ、バスラでの戦闘は、シーア派のアル-サドル民兵を一掃する目的で、アメリカとマリキが始めたのだと報じている以上、クロッカーの主張のばからしさは明白だ。大半の専門家は、アル-サドルに対する攻撃の本質は、アメリカがイランを攻撃する際、クウェートからのアメリカの補給線に対する潜在的な脅威を除去することだと見ている。

クロッカーは、バスラでの戦闘中、グリーン・ゾーンに投下されたロケットは、2007年にイランで製造されたと主張している。ぼんやりしたアメリカ人にすら明らかな話だが、もしもイランがイラク人武装勢力に武器提供をしていれば、武装勢力はアメリカのヘリコプター攻撃機や重戦車に反撃するための新兵器を持っているはずだ。武装勢力は、そのような兵器は持っていない。イランがイラク人武装勢力の原因だというネオコンの嘘は、サダム・フセインが大量破壊兵器を所有し、アルカイダとつながっているという嘘やら、アフガニスタンのタリバンがアメリカを攻撃したというブッシュ政権のもう一つ嘘にすぎない。

中東での「仕事をやり終える」ためなら、ブッシュ政権はどんな嘘でもつき、どんな出来事でも画策するだろう。

「仕事をやり終える」というのは、イラクやイランやシリアが、イスラエルの侵略に対し、パレスチナ人や南部レバノンのヒズボラに支援提供する能力を破壊することだ。イラクとイランが混乱状態になれば、シリアは、あっさり降参して、アメリカの属国の一つになるかも知れない。イラクとイランが混乱状態になれば、イスラエルは、ヨルダン川西岸の残りの部分を、南部レバノンの水資源と一緒にかすめ取れる。これこそが「対テロ戦争」の実態なのだ。

世界中がこれを知っている。結果的に、アメリカとイスラエルは、本質的に孤立している。アメリカは、買収ができて、代価を支払ってもらえる国の支持を頼るしかないのだ。

ルーマニアのブカレストでのNATO-ロシア・サミットで、4月4日、プーチン・ロシア大統領はこう述べた。「イランがあえてアメリカを攻撃するなどと真面目に考える人などいない。イランを追い詰めるよりも、どうすれば、イランが、より予測可能な、透明度の高い国になれるかを一緒に考えることの方が、はるかに賢明だろう。」

もちろん、そうなのだが、戦争屋ブッシュ政権はそんなことは望んでいない。

おそらくイギリス政府は、チェイニーがペトレアスとクロッカーのために、火曜日と水曜日に、共謀者であるアメリカ議会で発言するように準備した偽情報を、事前にロンドン・テレグラフに漏らし、イランを攻撃するという陰謀を頓挫させようとしたのだ。一方、アメリカの傀儡マスコミは、真実を覆い隠して、イラクのアメリカ兵士を殺害するための武器を送り込んで、イランは事実上、既にアメリカに宣戦している、というペトレアスの主張を喧伝する可能性が高い。

木曜には、アメリカ議会での、ペトレアス-クロッカー・コンビによるくだらない見せ物の演じ方と、マスコミの報道ぶりから、ブッシュ政権が、イランを攻撃して、もう一つの戦争犯罪を犯すのかどうか、我々にもわかるだろう。

元財務次官補で、元ウォール・ストリート・ジャーナルの副編集者のポール・クレーグ・ロバーツは、衝撃的な検察の職権乱用例を20年間報道してきた。ローレンス・ストラットンとの共著、アメリカ人がいかに法による保護を失ったかについて書いた本The Tyranny of Good Intentionsの新版が、ランダム・ハウス社から2008年3月刊行予定。

ポール・クレーグ・ロバーツは、Global Researchの常連寄稿者。ポール・クレーグ・ロバーツによるGlobal Research記事

 

 

ご支援に熱く感謝いたします。


免責条項:本記事の見解は、著者のみが責任を負うものであり、必ずしもCentre for Research on Globalizationの見解を反映するものではありません。

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© Copyright Paul Craig Roberts, LewRockwell.com, 2008

記事原文のurlアドレス:www.globalresearch.ca/index.php?context=va&aid=8600

2008年4月 8日 (火)

9/11の矛盾: 教室のブッシュ大統領

デビッド・レイ・グリフィン博士

Global Research、2008年4月4日

The Canadian

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9/11の公式説明は内的矛盾にみちている。こうした矛盾の一つに、9/11朝、ブッシュ大統領がどれだけの時間、フロリダ州、サラソタの教室にいたのかという疑問がある。

      ブッシュは、小学生が本を読むのを聞いている所を撮影させて、彼の教育政策を宣伝するためにそこにいた。彼は午前8:55に学校に到着したが、その頃には、彼は飛行機がツイン・タワーの一棟に突入したことを初めて聞いていたとされている。突入は事故だと片づけて、ブッシュは、そのまま進めよう「とにかく読書をしよう」と言ったのだ。

      ブッシュは、サンドラ・ケイ・ダニエルズ先生が教える二年生の教室に、午前9:03頃入った。9:06頃、大統領首席補佐官アンドリュー・カードが入ってゆき、ブッシュの耳元でささやいたが、後にカードが語ったところによると「二機目の飛行機が、第二棟に突入しました。アメリカは攻撃されています。」と言ったのだ。

その後に起きたこと

2004年に公開されたマイケル・ムーアの映画「華氏9/11」のおかげで、世界中がそれから何が起きたかを知っている。ブッシュはそこに何分も、何分も、そこに座り続けたのだ。

      ところが、ジャーナリストたちはブッシュの奇妙な振る舞いを早くから報道していた。例えば、2002年9月1日、ジェニファー・バーズは、カードがブッシュの耳元でささやいた後、大統領は教科書を持って、子供たちと一緒に「8分か9分」読んだとタンパ・トリビューンで報じている。2002年に書いた著書「Fighting Back(反撃)」で、ワシントン・タイムズのホワイト・ハウス特派員ビル・サモンは、本を読む授業が終えた後も、ブッシュはぐずぐず居残り、サモンは彼に「最高なまけ漢」(最高司令官のもじり)というあだなをつけることになったと書いている。

一周年におけるホワイト・ハウスの説明

しかしながら、9/11一周期に、アンドリュー・カードが先頭となって、ホワイト・ハウスは根本的に異なる説明をし始めた。2002年9月9日、カードはNBCニューズのブライアン・ウィリアムズに語っている。「私が大統領を離れると、それから何十秒もしないうちに、大統領はお別れを言って教室を去り、私たちは待合室に集まり、状況について話し合いました。」9月11日のサンフランシスコ・クロニクル記事で、ブッシュに二番目の攻撃を伝えると、大統領が「見上げていたのは、わずか数秒間でしたが、何分間ものように思えました. . . . それから彼は先生と生徒たちに、とても丁寧に挨拶し、退去したのです」とカードは語っている。

     その同じ日、カール・ローブはNBCニューズのキャンベル・ブラウンに語っていた。

アンディー・カードが入って行って大統領に話をしましたが、彼が大統領の耳元でささやいている有名な写真を覚えておられるでしょう。すると大統領は、やや、ええ、彼は子供たちをびっくりさせたくなかったのです。彼は授業が終わり近づいているのを知っていました。それで彼はしばらく間を置き、まあ、文字通り、終わるまでは、決して長い時間ではありませんで、それから彼は休憩室に入ってきました。

      また、その同じ日、カードとローブは、9/11の一周期に放送された別番組のABCニューズに出演し、彼等の修正版説明を請け合った。この番組には以下のような部分があった。

アンドリュー・カー:瞬間、衝撃を受けて、大統領はほんの一瞬、あらぬ方を見ていたように思います。

チャールズ・ギブソン:大統領は落ち着いて、生徒たちが終わるのを待ちました。

カール・ローブ:大統領は、ほんの一瞬だけ、立ち上がって教室から歩いて出ることを考えました。しかし、授業も終わりに近づいていたので、生徒たちを脅かしたくなかったのです。

ギブソン:そうはせずに、ブッシュは間をおいてから、生徒たちにお礼を言い. . . そして隣の無人の教室に向かいました。

ダニエルズ先生の援助

この改訂版説明を提示するだけでなく、ブッシュ-チェイニー ホワイト・ハウスは、明らかに、サラソタ小学校の二年生の教師サンドラ・ケイ・ダニエルズの支援をも求めていた。2002年9月11日に掲載されたロサンゼルス・タイムズの記事の中で、彼女はこう言っている。

ブッシュ大統領が、教科書を手にして、授業に参加しようはとしないので、何か起きたことがわかりました.... 彼は言いました。「ダニエルズさん、私は行かなければなりません。フランク・ブローガン副知事に残って貰い、私の代わりに演説させますから。」彼の表情から、何かまずいことになっているのがわかりました。私は大統領の為に短いお祈りをしました。彼は私と握手して、立ち去りました。

      ダニエルズによるこの説明は、わずか10日前に書かれた上記のジェニファー・バーズ記事で言っていることと根本的に違っている。「ブッシュ大統領は、膝の上の教科書を忘れたまま、明らかにじっと考え事をしていました」と言った後、ダニエルズはこう言ったと、バーズは引用している。「彼をそっと蹴りつけるわけにもいきません。. . . . 「さあ大統領。教科書を持ってくださいな。とは言えませんでした。世界中が見ていますからね。」

      ダニエルズ先生が、わずか10日前にこの説明をしたという事実からして、彼女の訂正版を、記憶力の悪さで説明するのは無理だろう。唯一、あり得る説明は、ホワイト・ハウスが、彼女に改訂版の説明を広めてくれるように説得したということであるように思える。虚偽の説明を広めたり、ダニエルズ教師に手伝うよう説得までするホワイト・ハウスの動機とは一体何だったのだろう?

考えられる動機

その一方で、大統領を、その生命に対するいかなる潜在的脅威からも守る責務を負っているシークレット・サービスは、テロリストが重要な標的を追っていることが明らかになった後で、大統領がそうした標的の一つであると想定すべきであった。ある記事にあるように、「ブッシュの居場所は、. . . 予定されていた読書会の催しは、予測される標的となった」「宣伝の行き届いた小学校での催しのおかげで、その日のブッシュの居場所が秘密でないことは確実だった」のだ。一方、人々は、シークレット・サービスが、その通りには行動しなかったことを観察していた。9/11の翌日、カナダのグローブアンド・メールはこうコメントしている。「何らかの理由で、シークレット・サービス職員は[ブッシュ]をせき立てなかった。」

      このコメントの背景を、シークレット・サービスに関する本の著者フィリップ・メランソンは、こう説明している。メランソンは言う「テロリスト攻撃が進展する中では、大統領をできるだけ早急に最寄りの安全な場所に連れて行くのが手順のはずです。」これこそが、標準作戦手順であったはずだということは、ワールド・トレード・センターへの二番目の突入がテレビで報道されるやいなや、一人のシークレット・サービス職員が、サラソタ郡保安官のビル・ボークウィルに「我々はここから退去する。皆に準備させて貰えるか?」と言ったという事実が、例証している。

      しかし、ブッシュは教室に7分あるいはそれ以上居続けることが許されたばかりでなく、小学校に更に20分も滞在したのだから、この職員の判断は、誰かシークレット・サービス幹部職員によって、明らかに覆されてしまったのだ。大統領が依然として小学校にいることを万人に知らしめる、国民へのテレビ演説をすることさえ許されてしまった。

      当時、11機もの飛行機がハイジャックされたという報告が出されていたことを考えると、この振る舞いは、特に無謀に見える。シークレット・サービスは、こうした飛行機のうちの一機が、まさにその瞬間、小学校に向かっているのではと懸念するべきだった。ところが、シークレット・サービスの行動は、シークレット・サービスは、小学校が攻撃されるだろうという不安を全く持っていなかったことを示唆している。

      このシークレット・サービスの振る舞いは、イスラム教テロリストが、ブッシュ大統領を殺害する目的で、イタリア、ジェノバでの先進国サミットに、旅客機を突入させるかも知れないという報告に対する2カ月前の反応と実に対照的だ。イタリア政府は、ジェノバ上空の空域を閉鎖し、空港に対空ミサイルを設置した(2001年9月25日、ニューヨーク・タイムズ、デビッド・サンガー記事)。これだけの防備をしたにも関わらず、ブッシュは、他国の首脳たちのように豪華客船ではなく、航空母艦に宿泊した(CNN、2001年7月18日)。なぜ、7月のジェノバでの単なるテロリストによる飛行機攻撃の可能性では、それほど懸念したのに、そのような攻撃が実際に行われつつあった9月のサラソタでは、そうした懸念が皆無なのだろう?

      シークレット・サービスが、ブッシュをせき立てて移動させそこねたことは、チェイニー副大統領や、コンドリーザ・ライスや、数人の主要議員は、素早く安全な場所へ案内されたという報告に照らして、一層奇妙にみえる。ブッシュ大統領の保護こそ、より優先度が高いはずではなかろうか? セント・ピータースバーグ・タイムズのスーザン・テイラー・マーチンは、2004年7月4日に書いているが、「あの日について、答えがされていない多くの疑問の一つは、ディック・チェイニー副大統領に対しては明らかにそうしたように、なぜシークレット・サービスが、即座にブッシュを安全な場所に移動させなかったのかということだ。」

      この疑問が9/11直後に提起され、その後も提起され続けたという事実を、ホワイト・ハウスが危険だと感じ取った可能性がある。この疑問は、実際、危険な結果を引き起しかねない。なぜなら、実際いくつかのサークルではそうなったのだが、これはブッシュが小学校から避難しなかったのは、シークレット・サービスが、彼は狙われないことを知っていたからだ、という推論を導きかねないからだ。この種の推測は防ぎたいという願望がブッシュの行動に関する改訂版の説明を大衆の意識に染みこませるというホワイト・ハウスの企みの背後にあった可能性が高い。

9/11委員会によるこの件の扱い方

9/11の犠牲者の家族にとって、サラソタでの、ブッシュと彼のシークレット・サービスの奇妙な振る舞いは、重要な懸念の的だ。9/11委員会・家族運営委員会が提示した核心となる疑問の一つは、「なぜシークレット・サービスは、ブッシュ大統領が、子供たちに本を読んでいたサラソタ小学校にとどまることを認めたのだろうか?」というものだ。(この疑問が提示されたことを、2006年の本の中で、委員会の議長と副議長のトーマス・キーンとリー・ハミルトンが認めている。Without Precedent: The Inside Story of the 9/11 Commission、54ページ) 9/11委員会は、しかしながら、これに答えてはいないのだ。委員会の唯一の答えは以下のものだ。「シークレット・サービスは、大統領をより安全な場所に是非移動させたかったが、大統領が走って外に出ることが、どうしても必要だとは思わなかった」(9/11委員会報告、39ページ)。しかしながら、この対応は、シークレット・サービスには、二つしか選択肢がなかったということを暗示している。(a)大統領が走って教室の外にでる(b)大統領に、更に30分間、そのまま小学校にいてもらう。だが三つ目の選択肢があったのだ。シークレット・サービスは、大統領に歩いて出てもらい、大統領リムジンに乗せ、さっと連れ出せたはずだ。

マスコミの扱い方

2004年3月のウォール・ストリート・ジャーナルの「9/11に関する政府説明には、空白や矛盾がある」という記事は、9/11に関する公式説明中の矛盾について報じる大手マスコミでは数少ない記事の一つだった。ジャーナルが、ホワイト・ハウスに特にサラソタでの出来事の矛盾について尋ねたところ、スポークスマンのダン・バートレットは、ホワイト・ハウスの改訂版を守ろうとはせず、二度目の突入の報告を受けてから、少なくとも7分間、ブッシュが教室にいたままだったことを確認した。バートレットは言った。ブッシュ大統領は、すぐさま立ち去りはしませんでした。なぜなら、大統領は「いきなり教室の外にとび出すことで、子供たちを脅かさないほうが良いと直感したからです。」

      しかし、たとえバートレットの発言が、カードとローブが大統領がやったと主張したことを、なぜブッシュがしなかったのか、ということの説明として容認できるものだとしても、WSJ記事が触れなかった本当の疑問は、なぜホワイト・ハウスが、カードや、ローブや、ダニエルズ教師を通して、虚偽の説明をしたのかということなのだ。確かに、これはマスコミが全体として調査すべき問題だった。特に、ホワイト・ハウスの虚偽の説明を流布するために利用された、ABCニューズ、NBCニューズ、サンフランシスコ・クロニクル、そしてロサンゼルス・タイムズは、ホワイト・ハウスに、なぜ全く虚偽の説明をしたのかという説明を要求すべきだったのだ。これら新聞や放送局には、読者や視聴者に訂正し、なぜホワイト・ハウスが、嘘を広めるために彼等を利用したのか調査を試みる義務がある。

      なぜホワイト・ハウスが嘘をついたのかを調べながら、マスコミは、もちろん、元々の疑問、なぜシークレット・サービスが即座にブッシュを安全な場所に移動させなかったのか、に対する答えを発見するよう努力もすべきだったのだ。

このエッセイは、デビッド・レイ・グリフィンの著書、9/11 Contradictions: An Open Letter to Congress and the Press (Northampton: Olive Branch、2008年3月刊の第一章の省略版である。

デビッド・レイ・グリフィンは、Global Researchの常連寄稿者。デビッド・レイ・グリフィンによるGlobal Research記事。


 

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2008年4月 6日 (日)

番外編・エクアドル、アメリカ軍駐留拒否へ

08/04/06

マスコミは、ひたすら、暫定税率期限切れによるガソリン値下げについて、面白おかしく報道している。

個人的には、そんなことより、朝日 2008/04/04 夕刊2面記事に大きな衝撃を受けた。

「エクアドル アメリカ軍駐留拒否へ」という下記の記事だ。webでも読めた。

どうやら、問題の重要さと、記事面積は反比例するという法則がありそうだ。「小金持ちのイジメラレッコ国」、人口とGNPでこそ上回っても、品格という点では、エクアドルにとうていかないそうもない。

引用開始

エクアドル、米軍の駐留拒否へ 制憲議会が改憲案承認

2008年04月04日12時16分

 【サンパウロ=石田博士】エクアドルの制憲議会は1日、外国軍の基地設置や駐留を認めないとする改憲案を承認した。同国では米軍が99年から10年の契約で太平洋岸マンタ基地に駐留しており、09年に期限が切れる。左派のコレア大統領は以前から、米軍の使用権延長を認めない意向を示してきた。今年後半にも予定される国民投票で是非を問うが、大統領の支持率の高さなどからみて承認される可能性が高い。

 ロイター通信によると、制憲議会はこの日、国家の主権や領土に関する五つの条項について承認した。

 米軍はマンタ基地を隣国コロンビアの左翼ゲリラ、コロンビア革命軍(FARC)鎮圧作戦の拠点として使用してきた。大統領は、米軍の撤退を実現した後、物流の拠点となる国際空港として拡張、整備したいとしている。

引用終了

今や本土でも沖縄同様に、宗主国の兵士による悪質な犯罪が起きている。地位協定の見直し程度で納まるはずは無い。エクアドルに習うしか本当の解決策はあるまいに。

上記記事に関連する情報を探したところ、2007年日本平和大会in沖縄 国際シンポジウム・パネリスト発言が見つかった。

パウリナ・エリザベス・ポンセ・カンド(エクアドル) エクアドル反基地連合(反基地世界ネットワーク構成団体)

エキュメニカル人権委員会(CEDHU)人権監視部門コミュニケーション局長によるものだ。

引用開始

エクアドルにおける米軍の存在は、交代で約300人の兵員が駐留するマンタ基地だけではありません。アメリカ国務省は、「エクアドルは、駐留米軍兵士の数において、地域内でコロンビアについで二番目に大きい国である」としています。エクアドルは、エスメラルダスやオレヤーナなどの県で行なわれているように、軍事訓練の場としても利用されています。

 アメリカ大使館は、マンタ基地の存在によって、毎年650万ドルがマンタの地域経済に注入されていると言っていますが、このお金は軍関係者のさまざまな任務の活動費にあてられており、マンタの発展に貢献するものにはなっておらず、何十人もの農民が土地も船もなく、将来を奪われています。

 2007年3月、キトとマンタで外国軍事基地撤去国際大会が開かれているそのときに、エクアドルのアメリカ大使館は、メディアを使って麻薬欧州活動の「成果」を強調するキャンペーンを開始しました。アメリカ軍部は、今年は1999年以降最大の成果をあげているとしています。

 ラファエル・コレア政権は、米軍の存在はエクアドルにとって利益にならず主権を損なうものであると考えており、2009年11月に期限を迎える協定を更新しないことを表明しています。エクアドルの地に米軍が存在することによって、主権と平和が大きく損なわれているのです。

中略

エクアドル反基地連合は、エクアドルでこの11月に発足する憲法制定議会に向けて憲法草案をつくる特別委員会に、提言をおこないました。提言は、憲法の「基本的主権原則」という項に次のような節を挿入せよというものです。

 「エクアドルは平和の領土であり、その主権の行使により、外国軍事基地および外国軍の駐留を認めず、ほかの形態での外国軍の存在を示唆するいかなる協定も結ばない。一方的であれ他の国々との連携によってであれ、他国の紛争に軍事的な関与はしない。」

 この提言にはエクアドルの16の地域的・全国的組織が署名しました。憲法制定議会を目前にして、エクアドル反基地連合は、提案している文言が確実にそのまま新憲法にもりこまれるようにするため、世論にはたらきかけるとりくみを強めていかなければなりません。

後略

引用終了

発言は下記で終わっている。

今こそ外国軍事基地撤去を!

     マンタにイエス! 基地にノー!

石油価格に一喜一憂するより、マスコミがほとんど報じないうちに、あっけなく通過した「思いやり法案」やら、基地廃絶の為の方策に思いを馳せることのほうが、「人間の品格」ではないかと思うのは、自家用車を持た(て?)ないせいだろうか。

ちなみに、この2007/12/4、パウリナ・ポンセのメッセージ、スペイン語原文、英語訳文は、YMCAエクアドルWebにある。

グリーン・ゾーンの敗北? サドルという名の政府への「引き渡し」 占領軍もはやグリーン・ゾーンを支配せず

アリ・アル・ファディリとダール・ジャマイル

Global Research、2008年4月2日

Inter Press Service

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バグダッド、4月2日(IPS)

アメリカ高官達や、彼等と共謀した企業が支配するマスコミによる、イラクでのアメリカの成功を世界に信じさせようという膨大なメディア・キャンペーンにもかかわらず、現場でおきつつある事実は壮大な失敗を現している。

今年の3月25日という日は、5年間にわたる占領を経た真実の日として記憶されよう。

「マフディ軍団の民兵が、すぐさまバグダッド全てのシーア派地域と、混在地域を支配しました。」あるバグダッドの警察官が匿名を条件にIPSに語った。「イラク軍と警察、更にはバドルとダーワの民兵も突然に街路から消え去り、彼等の装甲車を置き去りにしたので、マフディ民兵は歓喜し、バグダッド中をあちこち車列で走り回ってから、本拠地であるバグダッド東部サドル・シティーに乗って帰りました」

イラク国内最大の民兵であるシーア派のムクタダ・アル・サドルのマフディ軍団のメンバーと、彼等のライバルであるシーア派民兵、つまりバドル軍団メンバーで構成されていることが広く知られているイラク政府軍のメンバーとの間の、最近の戦闘について、この警察官が語った。

バグダッド、バスラ、クート、サマワ、ヒッラ、そして大半のシーア派南部諸州で、マフディ軍と、アメリカ、イランおよびイラク政府が支援する他の民兵との間で起きた戦闘で、双方の側で何十人もの民兵が死亡した。

バドル軍団民兵はアブドゥル・アジズ・アル・ハキムに率いられているが、彼は、政府を牛耳っている組織イラク・イスラム最高評議会(SIIC)の指導者でもある。ダーワ党はイラク首相ヌリ・アル-マリキが党首だ。

この戦闘で死亡あるいは負傷した民間人の人数はいまだ不明である。イラク政府当局は、出来事に関してはほとんど沈黙状態のままだ。

「バスラの住民なら誰でも、こうした石油泥棒連中の間でいつ衝突が勃発しても当然で、バスラはまた民兵による戦闘で苦労を味わうことを知っています」と医師で、元バスラの住民だったが先月バグダッドに逃げてきたサルマン・カスムはIPSに語った。

南部、特にバスラの支配をめぐって、サドル派、SIIC、アル-ファディラ党の間の闘争が、これまで何カ月も続いている。

アル・サドルと同盟している議員のファラ・シェンシャルは、3月26日アル-ジャジーラに、アル・マリキは政治上の敵を狙っているのだと語った。「彼等は無法者の一団を標的にしていると言うが、それなら何故サドル派の人々がいる地域から始めるのだろうか? これは政治的な戦闘だ...一つの党派(アル-マリキのダーワ党)の政治的な利益のための。間もなく地方選挙(今年末に予定されている)が行われるからだ。」

アメリカ軍がまさにイラクにおける4,000人目のアメリカ兵士の死亡を発表して直ぐ、イラクへのアメリカ兵士「増派」によって、現場の状況が成功裏に向上したことを見せるように仕組んだ入念に計画されたPRキャンペーンの直ぐ後に、この戦闘が起きた。

「今回は、一体どういう嘘をデヴィッド・ペトレウス大将(イラク駐留アメリカ軍司令官)がでっちあげるのでしょう」バグダッドのジャーナリスト、マレク・シャキールは、IPSにそう語った。「3月25日の出来事は、イラクにおけるアメリカの占領計画の本当の失敗を明らかにしたのでし。今後更に面倒な事態が起きるでしょう。」

マリキ自身、マフディ軍団の民兵に対する攻撃を率いるべくバスラにおり、アメリカは同盟しているバドルとダーワを支援する狙いでサドル・シティーを包囲するために軍隊を派遣していた。

サドル・シティーから、限定的な戦闘と空爆のニュースがあり、民間人に多数の死傷者がでている非公式報告もあった。バグダッドの多くの地区と4つの南部諸州での夜間外出禁止令で、既に生活は困難になっている。

「この失敗のおかげで、イラクは振り出しに戻ってしまい、更にひどくなった」イラク軍准将のカスム・アルワンは、バグダッドでIPSに語った。「わが軍の士官が職場を放棄し、放置した車両を民兵に乗っ取られてしまったのを見れば、わが軍の編成が誤っていたことを認めなければならない。」

アルワンはこう付け加えた。「我が軍や警察は、部隊の一つたりとも、バグダッドでの任務に従事し続けることなく、何をすべきか我々を途方にくれさせただけだ。職場を放棄した大半の士官たちはバドル軍団とダーワ党のメンバーで、マリキ政府に最も忠実なはずの連中だ。」

アメリカ大使館とイラク政府と議会の建物があるバグダッドのグリーン・ゾーンが、複数のミサイルで攻撃された。ペトレウス大将は記者会見に現れ、イラクで最も安全な地域だと思われているゾーン砲撃の背後にいると、イランを非難した。少なくともアメリカ人一人が攻撃で死亡し、更に二名が負傷した。

「大半のアメリカ人とイラク人職員が、地下深く避難するよう命じられたので、グリーン・ゾーンは、さびれてみえます」ゾーン内の外国企業で働くある技術者がIPSに語った。「この地域にも夜間外出禁止令が出されています。もはやイラクに安全な場所はありません。」

イラクを占領する連中にとって、更に頭が痛い問題は大半が元レジスタンス戦士から構成されている、アメリカが支援する覚醒運動集団が、アメリカ軍からの延滞分支払いを要求して、ストライキをしょうとしていることだ。

IPSのバグダッド特派員アリは、アメリカを本拠地とするわが社のイラク問題専門ライターで、イラクや中東から多数の報道をしているダール・ジャマイルと密接に協力して仕事をしている。

アリ・アル・ファディリによるGlobal Research記事

ダール・ジャマイルによるGlobal Research記事



 

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© Copyright Ali al-Fadhily, Inter Press Service, 2008

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2008年4月 5日 (土)

戦争物語の制作では、ペンタゴンはハリウッドの強敵-『戦勝文化の終焉』あとがき

トム・エンゲルハート、University of Massachusetts Press刊。2007年9月22日投稿。

イラクにおける数々の見事なプロパガンダ技術から見て、トム・エンゲルハートの著書『戦勝文化の終焉』からの下記抜粋が説明しているように、アメリカ軍は、いかにして戦争を遂行しながら、同時にマスコミを打ち破るかを習得したのだ。

第二次世界大戦が始まって間もなく、陸軍参謀長ジョージ・C・マーシャルの依頼で、ハリウッドの監督フランク・キャプラがアメリカの戦争の目的を説明する公式プロパガンダ映画シリーズ制作を始めた。このシリーズには共通の題名「なぜ我々は戦うのか」がついていた。「なぜ」シリーズは、本来、純粋に情報を提供するものだった。そこにはいささかの疑問の余地も存在せず、ひたすら強力な答えがあるだけだった。

二十年以上後、1965年の血なまぐさい行き詰まったベトナム戦争の最中、アメリカ政府は「なぜ我々は戦うのか」シリーズに習って、「なぜベトナムか」という題名でもう一本の公式プロパガンダ映画を公開した。しかし共通点はそこまでだった。もはやそのような映画制作は、敵は攻撃的で野蛮だが、戦勝は確実であり、戦後の目標は明白だという、アメリカ的真理に肉付けすればすむという単純な話ではなくなった。それまでには、まさに何世紀も続く生まれながらの権利にほかならないものと思われていた、かつての戦勝というアメリカのお話の中深く、疑念が忍び込んでいた。

この映画も、最後には疑問符なしで登場したとはいえ、その頃には、あらゆる種類の疑問、疑念が、表面直下いたるところに存在していた。当時の国務省東アジア専門家ジェームズ・トムソン・Jr.による記事のおかげで、アメリカが一体何故ベトナムにいるのかをいぶかる疑問符が、アメリカ国民の心中に既に深く留められているのを認めるという問題が、リンドン・ジョンソン政権内部でも、まさに文字通り論じられていたことを私たちは知ることができる。彼はこう追憶している「広報活動の世界で、一番意気阻喪させられた仕事は、1965年9月の「何故ベトナムか」という題のホワイト・ハウス・パンフレット作成だった。自分の良心に対する決意として、私は戦い、破れた。題名に疑問符をつけ加えるという戦闘に。」

だが戦争が長引くにつれ益々顕著になる疑問符や疑念を避ける方法は皆無だった。ベトナム後、ペンタゴンは傷をなめながら、疑問符を売国的なマスコミになすりつけるキャンペーンを開始し(連中がアメリカの戦争に対して裏切り行為を働いたのだ)マスコミを服従させ、疑問符をアメリカ文化から追い出す計画を始めた。以下の抜粋は、「戦勝の文化」が息子ブッシュの時代に復活し、結局はイラクにおいて記録的短時間ですっかりだめになっていった姿を考慮に入れ、ペンタゴンのキャンペーンに焦点を当てて、改訂し再刊されたばかりの拙書『戦勝文化の終焉』の新たなあとがきの抜粋だ。

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今どき大衆に満足感を与えられるような戦争の話を作り出すのは、決して容易なことではないことが明らかになった。アメリカの戦勝についての永続する物語を造り出す為の何十年にもわたる計画的で、たっぷり予算をつけたベトナム後の努力にもかかわらず、ペンタゴンは依然として、目処のたたないまま苦闘していた。1982年、ベトナムの傷を舐めつつ、戦争が負けたのは、ほとんど売国的なマスコミ報道の影響によるものだと確信しながら、ペンタゴン幹部は、人里はなれた南大西洋で、イギリス軍がアルゼンチンに対して一方的な勝ち戦をおさめ、しかも同時に報道陣をも打ち破ったのを見つめていた。記者たちをほとんど海軍艦船に閉じ込め、非協力的なジャーナリストはおいてけぼりにして、イギリス軍(彼らの視線はアメリカ軍のベトナムでの経験を向いていた)は戦争報道の流れをほぼ完璧に支配した。これにひらめきを得て、アメリカ軍ももっと具合の良い戦争を見せる企みを始めたのだ。

レーガン政権1983年にグラナダという小さな島の侵略を命じて以来、アメリカの数多くの戦争と介入のそれぞれが、より新しい、より強力な、より技術的に高度な世次代兵器実験用の、軍産複合体のためのもう一つの生ける実験場だと言われてきた。例えば、事実上準核爆弾級のMOAB(massive ordnance air burst)つまり巨大燃料気化爆弾(略称をもじって「Mother of all Bombs-あらゆる爆弾の母」とあだ名された)は、フロリダの試験場からペルシャ湾地域へ急送されたが、イラク侵略で使用するにはわずか数日遅れた。この爆弾の最初の実戦テストは、アメリカの次のフロンティア戦争を待たねばならない。たとえそのフロンティアが、再び、地上の石油の中心地帯ということになった場合でも。

戦争のたびごとに、マスコミ報道という側面でも同様の実地試験工程が進行していた。ペンタゴンの最初の衝動は、イギリスの例に習って、単にメディアに対し、戦争を認めないこと、またある意味では大衆にたいしても認めないことだった。イギリスがフォークランド諸島で、記者たちの出番を無くしたように、グレナダ侵略では、ペンタゴンは記者たちを「一カ所にまとめ」て、沖合に置き、数日間彼らには出来事を見ることも、撮影も、あるいは報道も許さなかった。これはアメリカ人にとって何かわくわくするものとしての戦争の画を再建しようという企ての粗削りな始まりに過ぎなかったが(陸軍そのものが、全志願制の軍隊として、再び国民の尊敬を惹きつけるべく再建されつつあった)、強力な残滓的要素、つまりベトナム時代のマスコミに対する怒りと復讐心をも含んでいた。戦争報道は、一種の懲罰として扱われていたのだ。

パナマから、アフガニスタンに至るまでのそれぞれの戦争で洗練されたとは言え、ペンタゴンのやり方は、本質的には、一連の否定的な、聖書のような禁止命令に基づく防御的なもののままだった。例えば、テレビでは「遺体袋」を映させるべからず(アメリカ兵死傷者は、大衆に嫌気を起こさせ、国内の戦争支持を弱めさせる可能性があるので)。この過程で、遺体袋は改名され、アメリカ兵死者の遺体は、機能的に真夜中に本国へ空輸され、柩は注意深く記者やカメラの目に触れないところで下ろされた。もう一つのベトナム時代の禁止命令は、2001年アフガン戦争の司令官トミー・フランクス将軍の痛烈な言葉によれば「我々は死者数を数えない。」だった。この禁止命令はイラクが全面的な対反乱軍戦争になって以来の侵略後の日々でゆっくりと褪せたが、しばらくは戦争の双方側で戦死者は存在することを止めていた。

2006年11月になって、ブッシュ大統領は、保守派ニュース・コラムニストの集団に、いらだちを現して言った「[我々は]そういうことは言わないものだ。千人の敵を殺害したであれ、人数がどうであれ。それは起きているのだ。皆さんがそれを知らないだけだ。」問題は、彼がいらだちながら言ったように「死者数を数えるチームにならないよう意識的に努力しているのだ。」これは、ブッシュ政権がどの程度まで、ベトナムの有害な「教訓」と見なすものの反対を、依然として意識的に演じようとしていたかの、おそらく最高の立証だろう。

第一次湾岸戦争この受け身版では、記者たちは再びひとまとめにされて、ほとんど「戦闘」から引き離され、アメリカ本土のアメリカ人は、ロケットが青空の中へ発進するものやら、ノーズ・コーンの画面、ペンタゴンによって編集され公開された、狙ったイラク側標的の破壊といった華々しいイメージを見るだけとなって、ペンタゴンの報道管制のは頂点に達した。しかしある意味で、そのような報道には真ん中に穴が空いていたのだ。そして、それは依然として、ベトナムの壊滅的な遺産を象徴していた。結局、「戦争」活動は一体どこにあるのだろ? 戦勝文化の画面版にあった、全てのあのわくわくするほど英雄的な瞬間は一体どこにいったのだろう? 再び記者たちを現場から外した結果、制作物は奇妙に生気のないものとなった。戦争は、実際は空からの虐殺が、殆ど人目につかない場所で、計画どおりに起きていた。あたかもペンタゴンの連中がニュース映像を支配したかのようだが、彼等が放映できるものと言えば、軍事版スクリーン・セーバーでしかなかったのだ。

勝利が宣言され、これはベトナムとは違うことを証明する大規模な戦勝パレードが組織され、今度は兵士たちは、彼らが、ペンタゴンが、そして第一次ブッシュ政権がまさにそれに相応しい群衆の拍手喝采に迎えられて帰還するのだ。しかし、大統領や幹部たちの期待にもかかわらず、破れた「ヒットラーのような」独裁者軍内部では、いかなる策士の集団もフセインを打倒せず、戦勝物語は実に冴えないものになった。第一次湾岸戦争後、それまで同様、サダム・フセインはイライラさせるほど権力を握り続けていた。ロナルド・レーガン大統領の特使として、ドナルド・ラムズフェルドが1983年12月20日に握手をした相手、イランのアヤトラ・ホメイニに対するアメリカのかつての同盟者、そのためにアメリカの偵察衛星が、イラン-イラク戦争終盤、大量破壊兵器で毒ガス攻撃をする対象となるイラン軍の集結点を見つけてやった司令官は、明らかに、すぐさまどこにも消えはしなかった。

20年後、第二次湾岸戦争の「体制変革」戦争は、アメリカの第一次イラク戦争のもっとうまい改作になるように仕組まれた。今回、独裁者はノックアウトされるのだから、流布されるべき物語はたっぷりあるはずだ。しかしそういう記事を書く記者たちを、一体どのようにしっかり管理すればよいのだろう? 一つは、第一次と第二次湾岸戦争の間に、携帯通信技術は更に一段と大進歩をとげ、リアルタイムに近い形で、大いにブッシュ政権の気に障りそうな可能性がある記事や画像を送信する即席の独自報道に必要な全ての装置を、戦闘地帯にいる記者が携帯することがずっと簡単になる脅威をもたらしたことだ。(第一次湾岸戦争の際、自分の力で戦闘地帯にたどり着いた記者などごく稀だったが、彼らは軽蔑的に「単独行動者」と呼ばれたが、十年後息子ブッシュのワシントン幹部がアメリカ世界政策のエッセンスとして奉じる、あの「単独行動主義」と同じ用語だ)

元NBCニューズのチーフ、ルーベン・フランクは、2001年後半の報道の雰囲気を思い出してこう語った。「アフガニスタン戦争は[テレビ放送される戦争報道という点で]テレビ電話とよばれる装置のおかげで大きく前進していた。」ラップトップ・パソコンほどの大きさで、それより厚めの装置で、いくつかのスーツケースで運べるほど小さく(かさばるアップリンク用トラックも固定通信装置も不要で)、「数分で組み立てたり、分解したり」できる「自動車のシガーソケットにつなげ」られるものだ。フランクは、そのような技術で「新種のジャーナリストが出現しつつあった... 一部はカウボーイ、一部はエレクトロニクス技術者、一部は警察担当記者、一部は海外特派員という人々が」と言った。

ペンタゴンはこれと、メディアが、独自の戦争報道を、よりもっともらしく、魅力的にできそうな類の情報にアクセスできそうないかなる可能性も憂慮した。フランクによれば、アフガニスタン戦争時、アメリカ軍がそのような課題に対処しようとした、ちょっとした例は、コロラド州ソーントンの、商業的には最高の地球衛星写真を提供しているスペース・イメージズ社に「アフガニスタンや周辺地域の同社衛星写真の独占使用権の為に、一カ月190万ドル」支払ったことだ。軍自身の衛星の似たような写真は解像度が10倍高いにもかかわらず。そしてアフガニスタンの画像は禁止された。フランクが言っているように「この取引の本当の狙いは、他の誰もアクセスできなくすることだった。つまり、主として、マスコミが。」これは記者たちが戦闘地帯で独自かつ効果的に移動し報道する能力を妨害するための計画の一部にすぎなかった。

アメリカの戦勝物語を造り出す必要性と、高度技術で可能となった報道が決して独自にはされないことを保証する必要性から、新たな手法が生まれた。記者は今や、出征前の「新兵訓練所(ブートキャンプ)」によって軍と親密になってから、軍の部隊に「埋め込まれ」、無数の西部劇映画の中で、西部へと向かう開拓者の幌馬車の長い列と非常によく似た、あのブラッドリー歩兵戦闘車やエイブラムス戦車の車両集団から、部隊ごとに戦争をアメリカに伝えるべく送り出された。一部は技術的な必要性から生まれたのだが、記者を埋め込むというアイデアは、政権がサダム・フセインの非力な軍に対する戦勝にどれほど確信をもっていたかをも反映していた。かつては憎み、恐れたメディアからのリアルタイム画像の絶えざる流れという好機を活用できるほど確信を持っていたのだ。

映画制作と戦争遂行は今や深く絡み合っていた。制作ロケ地はイラクだ。監督はペンタゴンだ。ドーハ、カタール中央軍司令部の戦況ブリーフィング用25万ドルセットに制作スタッフは腰を据え、アメリカ人は、まさにそうあるべき姿の、昔栄光の日々に画面に映された通りの、わがアメリカ軍勝利の前進を見るというわけだ。

侵略を開始してから、様々なイラク人がアメリカによる解放を歓迎するのを拒んだり、一時、南部で泥沼にはまりそうになったりするなど、ブッシュ政権には都合の悪い瞬間も何度かあったが、アメリカ軍は、実際に重大な死者なしに、三週間でバグダッド陥落に成功した。サダム・フセインは消え失せた。彼の政権は最早消滅した。イラク軍は帰省した。そして彼らの物語作りのあらゆる夢が実現したかのように見えた。おそらくペンタゴンの即席映画制作の極みは、所属部隊がナシリヤ付近の間違った交差点で曲がり、待ち伏せ攻撃を受けた19歳の一兵卒ジェシカ・リンチの救出だった。部隊のうち9人は殺され、彼女は捕獲された。8日後、彼女がイラク人医療関係者による治療を受けていた病院に、暗視カメラを装備したアメリカ軍特殊部隊の兵士たちが到着し、救助の場面を写し、リアルタイムでドーハの中央軍司令部に送信し、そこで映像が編集され、放送された。結果として、本当のアメリカ人の英雄(ヒロイン)と、本土でのマスコミによる夢のような愛国主義狂乱が生まれ、ジェシカ・シャツやその他一連の身の回り品まで現れるに至り、あるNBCの週の番組では、彼女の人生と「救助」に焦点をあてた。

ジェシカ・リンチの物語ですらも、バグダッドで引き倒されたサダム像や、サダムの大量破壊兵器の膨大な兵器庫といったお話同様、すぐにぼろぼろになった。あらゆるわくわくする詳細が欠如している非英雄的な方の話、リンチの有名な銃創あるいはナイフ傷、イラク人捕獲者による彼女への虐待とされるもの等が、文字通り全速力で画面に躍り出た。大いに喧伝されたペンタゴン版物語を、リンチ自身の話をまとめた本『私は英雄じゃない』で事実上否定する頃には、もう手遅れだった。世間はどの版にも興味を失っており、彼女の話は雲散霧消し、本はあっと言う間に売れ残り値引き本カウンター商品になった。

これは、カメラがいくらハイテクであれ、あるいはテレビ装置が如何にドラマチックであれ、その場で神話を造り出すことにまつわる問題の一例にすぎない。第一次湾岸戦争では、ペンタゴンは、各放送会社から視聴者を奪うためCNNによって使われた毎日24時間週7日のニュースという新現象に真っ正面から挑んだ。当初の両者の出逢いは、この初期段階でさえペンタゴンが勝利者であるかのように見えたかも知れないが、誰もが知る通り画像は往々にしてあてにならない場合がある。第二次湾岸戦争迄に、すぐに気の散りやすい、年中無休のケーブル・ニュース・システムを支配し、注意を惹きつけておくという問題は十分に認識されていた。しかしそうこうするうちに、予期していなかった新たな要素が現れた。現地にカメラマンと記者のチームを持つ、中東におけるアル・ジャジーラの成長だ。突然に、ブッシュ政権やペンタゴンの力が及ばず、しかも、彼らのやり方によるお話作りに有害な、新たな一連の画像とメッセージを提供しはじめたのだ。両面からのアル・ジャジーラ恫喝で、一つはアメリカ企業の幹部からカタールの支配者(ネットワークを設立した、忠実なアメリカ支持者)経由、もう一つはアル・ジャジーラの施設、まずはカーブルで2001年に、次に2003年のバグダッドという本当の攻撃によって、報道の性格を変えさせようとした企みも、役に立たないことが明らかになった。

一方、「一日36時間/週7日」働き続け、益々多くの読者を惹きつけている、全く制御しようのない政治インターネットの成長が、もう一つの問題であることが明らかになった。インターネット上の様々な反政府的サイトやブロガーは、ブッシュ政権による英雄的なお話が現れるやいなや、脅しに屈した大手マスコミであれば、まずやろうとしないような形で、熱心にそれをぶちこわそうとする。例えば、世界中、そしてあらゆるアメリカの新聞で、瞬時に広まった、憎むべき独裁者サダム・フセインの銅像を、バグダッド・フィルドス広場で歓喜に沸くイラク人たちが引き倒すわくわくする英雄的な大写しの写真。この画像は、間もなくウエブ上で台無しにされた。その群衆のロング・ショットでは、群衆の人数がごく少数で、アメリカ軍によって組織され、指揮されていたことが見え見えだった。

適切な説明がついた、こうした対抗的な写真は、瞬時に政治インターネット中を巡り、ゆっくりと主流世界へと近づいて行った。政治インターネット・サイト、インフォメーション・クリアリングハウスが、政権が極めて熱心に人目に触れぬようにしてきた国旗で覆われたアメリカ人死者の柩の画像を最初に掲載した。ブッシュ政権が2002年に実際どれだけイラク攻撃に熱心だったかを示すイギリス政府内部の書斎からもたらされた秘密文書、ダウニング・ストリート・メモが、イギリスの新聞に漏洩され掲載された。当初アメリカ合州国の全ての大手新聞に無視されていたものが、アメリカ「上陸」を果たしたのは、政治インターネット上でだった。(オリジナルのダウニング・ストリート・メモが、アメリカ合州国で初めて記事になったのは、新聞ではなく、ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックスであったという事実が、主流マスコミの状態を雄弁に物語っている。)この年月、政治インターネットは現場にいた。ブッシュ政権による戦争前の嘘やWMDという白昼夢から、アフガニスタンにおける元NFLフットボール選手パット・ティルマンの「誤爆」死という真相を隠すためペンタゴンがでっちあげた英雄談に至るまで。対象範囲と読者数は限られており、ネットが、そうした現実に対する説明を主流にもちこむ力は限られているとは言え、確かに最新版の戦勝文化を着実に台無しにする一つの要素である。

トッド・ギトリンがメディアの「奔流」と呼んだ、我々の騒々しい文化宇宙の中では、遅かれ早かれ(大抵は、早かれだが)ほとんど何事についても、戦争と政権も含め、押し流されてしまう。バグダッドの国立博物館のように、話題や画像、目を惹きつける筋立て、生活の中で画面や音に釘付けにする番組によって、我々の世界は繰り返し強奪されてきた。2004-5年までには、メディアに対して、イラクについて何か「良いニュース」記事を造り出してくれ、と荒野での絶叫を続けてきたブッシュ政権も、ドナルド・ラムズフェルドの記憶に残るあの言葉、いつも「そういう事はおきる」略奪者の天国で、あるいは、再建をするよう命じられている連中自身が略奪者であるような状況の中では、何か永続的なものを作り上げるのが容易ではないことを発見した。瞬間という文化の自由市場においては、戦争の中から永続する神話を創造することは不可能だ。次の出来事まで話をもたせることすら困難なのだ。

Tomdispatch.com編集人のトム・エンゲルハートは 、American Empire Projectの共同設立者で、The End of Victory Cultureの著者である。

記事原文のurlアドレス:www.alternet.org/waroniraq/62951/?page=entire

両者とも敗戦国、勝者なし-『戦勝文化の終焉』まえがき

2008年4月 2日 (水)

9/11のバーバラ・オルソンからの電話というテッド・オルソン報告と、それに対する3つの公式な否定

デビッド・レイ・グリフィン

Global Research、2008年4月1日

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9月11日遅く、CNNはこういう出だしで始まるニュースを放送した。「保守的な評論家で弁護士のバーバラ・オルソンが、火曜日の朝、自分が乗っている飛行機がハイジャックされていると、夫の司法省訟務長官テッド・オルソンに警告する電話をかけてきたと、テッド・オルソンがCNNに語りました。」この報道によれば、オルソンは妻が「アメリカン・エアラインズ77便から、彼に二度電話をかけてきた」と語り、「乗客全員とパイロットを含む全乗務員が、武装したハイジャッカーによって飛行機の後部に集められた。彼女が言及した武器は、ナイフと開こん用カッターナイフだけだ。」と言ったという。

テッド・オルソンの報告は極めて重要だった。ペンタゴンに突入したとされるアメリカンの77便が、午前9:00頃にFAAのレーダーから消えた後も、依然として空中にあった(この消滅後に、飛行機はオハイオ州-ケンタッキー州境に墜落したという報道もあった)唯一の証拠となったのだ。しかも、バーバラ・オルソンはCNNで極めて著名な解説者だった。アラブ人イスラム教徒たちにハイジャックされた飛行機の中で亡くなったという報道は、ブッシュ政権の「対テロ戦争」に対する国民の支持を獲得する上で一つの重要な要素だった。テッド・オルソンの報告は別の点でも重要だ。ハイジャッカーが開こん用カッターナイフを持っていたという、広く受け入れられている情報の唯一の根拠なのだ。

とはいえ、妻からの電話会話というテッド・オルソンの報告は、9/11の公式説明の中心的な主柱であるにもかかわらず、この報告は完璧に崩されてしまっている。

オルソンの自己矛盾

オルソンは、この取り崩し過程を、自己矛盾した陳述から始めた。彼は最初CNNに、我々が見聞きした通り、妻が「携帯から二度電話をかけてきた」と語ったのだ。しかし彼は9月14日にこの主張を否定し、報道番組ハニティー・アンド・コルムズで、彼女は司法省に受信者払いのコレクト・コールで自分に電話をしてきたのだと語った。従って、「彼女はともかく自分のクレジットが使えなかったので」彼女は「飛行機の電話」を使っていたに違いない、と彼は推測した。 しかしながら、オルソン談話のこのバージョンは、彼の最初のバージョンと矛盾するばかりでなく、自己矛盾でさえある。なぜなら、客席に設置されさた電話を起動するには、そもそもクレジット・カードが必要なのだから。

同じ日遅く、オルソンは更に、ラリー・キング・ライブで、「飛行機上の携帯電話からの信号は余り良く機能しなかった」ので、妻からの二度目の電話は突然切れてしまったと語った。最初のバージョンにこうして戻った後、彼は最終的には、二つ目のバージョンに落ち着いた。つまり、彼の妻はコレクト・コールで電話をかけてきたので、財布を持っていなかったからには、「客席の電話」を使ったのに違いない、というものだ。

最終的にこの話に落ち着くことを選択して、オルソンは技術的な落とし穴を避けた。2001年当時に使われていた携帯電話システムでは、高い高度の飛行機からの電話は不可能だった、あるいは、少なくとも事実上、不可能だった(オルソンの発言「飛行機上の携帯電話からの信号は余り良く機能しなかった」というのは極端に控えめな表現だ。)高い高度の飛行機からの携帯電話通話を可能にする技術は、2004年7月まで開発されていなかった。

しかしながら、オルソンの二つ目の話は、自己矛盾するだけでなく、アメリカン・エアラインズによって否定されている。

アメリカン・エアラインズは、オルソンの二番目のバージョンを否定している

AA77便はボーイング757であることを知っていたある9/11研究者が、アメリカン・エアラインズのウェブ・サイトには、同社の757には客席電話が取り付けられていないとあるのに気がついた。彼が2001年9月11日もそうだったのかという質問をすると、アメリカン・エアラインズの顧客サービス部担当者はこう答えた。「そのとおりです。弊社のボーイング757には電話を設置しておりません。77便の乗客は、テロリスト攻撃時には、ご自分の携帯電話を使って通話されています。」

この新事実に対して、公式説明を擁護する人々は、テッド・オルソンの最初の話は明らかに正しいではないか。彼女は自分の携帯電話を使ったのだ、と答えるかも知れない。ただし、2001年当時に使われていた携帯電話技術にからして、このシナリオはありそうにないという事実のみならず、FBIによっても否定されているのだ。

オルソン談話はFBIによって否定された

テッド・オルソンの話の最終的な崩壊は、2006年、20人目のハイジャッカーとされるザカリアス・ムサウイの裁判で起きた。この裁判で、FBIによって提出された証拠には、9/11の飛行機四機全ての電話通話に関する報告が含まれていた。アメリカン航空77便に関する報告で、FBI報告書は、バーバラ・オルソンは一度だけ電話したとしており、しかもそれは(もちろん)継続「0秒」の「接続されなかった発信」だとしている。FBIによれば、従って、テッド・オルソンは、携帯電話、飛行機電話のどちらかによる妻からの電話など一度も受けていないのだ。

9/11に、FBI自身がオルソンを尋問していた。その尋問の報告書は、オルソンが、FBI捜査員たちに、彼の妻が77便から二度電話をかけてきたと語っていることを示している。それなのに、2006年に提示された、77便からの電話に関するFBI報告書は、そのような通話など皆無であったことを示している。

これは驚くべき進展だ。FBIというのは司法省の一部門なのに、その報告書が9/11に妻から二度の電話を受けたという元司法省訟務長官の有名な主張を台無しにしたのだ。

オルソンの談話はペンタゴンの歴史家にも否定された

テッド・オルソンの話は、国防省が刊行したペンタゴン攻撃についての説明である「ペンタゴン9/11」を書いた歴史家によってもひっそりと否定されていた。

オルソンによれば、彼の妻は「乗客全員とパイロットを含む全乗務員が、武装したハイジャッカーによって飛行機の後部に集められた。」と言ったのだという。これはそもそも本質的に信じがたいシナリオだ。二人のパイロットを含め、60人ほどの人々が、ナイフと開こん用カッターナイフしか持たない三人か四人の男たちによって(ハイジャッカーの一人か二人は操縦室にいただろう)釘づけにされたのを我々に信じろというのだ。このシナリオは、ハイジャッカーだとされる連中が全員小柄で、強健とはいえず(9/11委員会は、「がっしりとしたハイジャッカーとされる連中は、実際には肉体的に堂々としていたわけではなく、彼等の大半の身長は165 cmから170 cmで、体つきはきゃしゃ」であることを指摘し)、パイロットのチャールズ・「シックな」バーリンゲームは、重量挙げ選手でボクサーで、かつての相手選手たちの一人によれば「実にタフ」だったということがわかれば、一層不合理なものになる。それに、バーリンゲームがハイジャッカーに飛行機を引き渡しただろうという発想を彼の弟は否定しており、「操縦室で何が起きたかは知りませんが、連中は兄を動けなくするか殺害しなければならなかったはずです。兄ならあの飛行機に起きたような悲劇を防ぐためなら何でもしていたでしょうから」と語っている。

ペンタゴンの歴史家は、いずれにせよ、バーリンゲームと副操縦士は飛行機を引き渡し、乗客や他の乗務員と一緒に飛行機の後部にいたとするオルソンの話を採用しなかった。彼等は、「テロリストは、二人のパイロットを動けなくしたか、殺害したかのいずれかだ。」と書いた。

結論

アメリカン・エアラインズ、ペンタゴン、そして特にFBIによるテッド・オルソンの話の否定は、この上なく重要な進展だ。バーバラ・オルソンからのものだとされる複数の電話通話以外に、77便がワシントンに戻ったという証拠はない。また、もしテッド・オルソンの主張が嘘とするなら、可能性は二つしかない。彼が嘘をついたか、それとも彼は、彼の妻を装う音声変更技術を使った誰かに騙されたかだ。いずれにせよ、バーバラ・オルソンからの電話に関する公式説明は虚偽に基づいたものだ。そして、もしも9/11に関する公式説明のこの部分か欺瞞に基づいたものであれば、他の部分も怪しいのではと思って当然ではなかろうか?

テッド・オルソンの報告が、9/11に関する公式説明を擁護する他の人々によって否定されたという事実は、9/11の新たな調査を要求する根拠となる。この内部矛盾は、しかも、私の最新著書「9/11 Contradictions: An Open Letter to Congress and the Press」で私が説明した25もの、そうした矛盾の一つに過ぎないのだ。


注記

この記事は、デビッド・レイ・グリフィンの最新著書、「9/11 Contradictions: An Open Letter to Congress and the Press (Northampton: Olive Branch、2008)」の第8章に基づいている。

本書は、9/11の中心的な出来事を、一連の25件の内部矛盾として再構成している。読者が、公式説明をそのまま信じ続けられるようにする唯一の方法は、お互いに矛盾する説明をそのまま受け入れることだ。
 
"9/11 Contradictions"は、デビッド・レイ・グリフィンのあらゆる本(あるいは、いかなる本)の中でも、 9/11の新たな調査を開始させる可能性が一番高い書物かも知れない。

デビッド・レイ・グリフィンは、Global Researchの常連寄稿者。デビッド・レイ・グリフィンによるGlobal Research記事。


 

ご支援に熱く感謝いたします。


免責条項:本記事の見解は、著者のみが責任を負うものであり、必ずしもCentre for Research on Globalizationの見解を反映するものではありません。

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© Copyright David Ray Griffin, Global Research, 2008

本記事原文のurl:www.globalresearch.ca/index.php?context=va&aid=8514

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2008年4月 1日 (火)

両国とも敗戦国、勝者無し-『戦勝文化の終焉』まえがき

[トム・エンゲルハート著『戦勝文化の終焉』2007年全面改訂版]まえがき

TomDispatch.com記事

1989年11月9日と2001年9月11日。前者は、ベルリンの壁崩壊最初の瞬間、『戦勝文化の終焉』刊行の6年前のことだ。後者は、本書刊行から6年後に起きた、19人が関与した民間ジェット機ハイジャックと、ニューヨーク市にあった二つの壮大なタワーの崩壊だ。11/9。9/11。この二つの日付の間に、アメリカの勝利と敗北についての考え方には顕著な浮き沈みがあった。

1991年、レーガン風表現で言うところの「悪の帝国」、ほぼ半世紀にわたるアメリカの敵ソ連が、あっけなく消滅した。ほとんど最後の瞬間まで、ワシントンの高官たちは、ソ連は永遠に続くものと考えていたので、ソ連が消滅した時、彼らのほとんどが最初はそれを信じられなかった。しかし間もなくこの出来事はアメリカ最大の勝利として歓呼で迎えられた。アメリカは冷戦に「勝利」し、史上これまで無かったような形で、本当の勝利を得たのだ。四十数年にわたる巨大な闘争は、超強力な敵の往生に終わった。

本書は、あの「戦勝」後に書かれた。広島上空での原子爆弾爆発の瞬間から、ソ連の崩壊までという、ほぼ半世紀の独特な時代は、歴史として、また(私自身が)生きた体験として振り返るべき最初の歴史時期の一つだった。私は自分がその中で育った世界の探検もした。(これからお読みいただく本には、1950年代と60年代の子供時代はどんな感じだったかについて色々書いてある。) ある種の驚異の念、当惑さえ持ってそうした。なぜなら、私の世界と人生を元気づけてくれた多くのものも、1990年代初期の日々には、私にとってすっかり終わったことのように思えたからだ。そして私は、何が起きたのか、それは何時、何故なのかに思いを巡らせた。

今気がつけば、現世紀末では(まだ)さほど明らかではないにせよ、アメリカは、不滅アメリカ至上主義と反対の側の、不可解なずっと短い期間の瞬間にある。最初、本書は冷戦終結からジョージ・W・ブッシュのぞっとする登場までの小休止期に刊行されたので、しかるべく書き改めた。

『戦勝文化の終焉』が刊行された年、アメリカ合州国は、強国として奇跡のように無類で、取るに足らない世界諸国上にそびえるものと見なされていた。アメリカは、誰も想像しなかったほど最強で、最もハイテクな、最も斬新な軍を有する「世界の保安官」 地球「最後の」超大国、あるいは最初の「超強大国」だった。海外の軍事基地ということになると、アメリカのグローバルな「フットプリント=足跡(占有面積)」は、ペンタゴンの官僚たちが間もなく使うようになった用語だが、それほど巨大なので、複数形では語れないほどだった。アメリカ合州国は、一時に片足しか地上に足を下ろす場所がないほどの巨人だった。当時のアメリカ戦略思想家たちが、やがて、宇宙の、そしてその下の俗人たちの絶対的軍事支配という最後の「宇宙のフロンティア」を夢想し始めたのも無理はない。(アメリカのフロンティアという夢は、間もなくお読み頂く通り、本書において多くの部分を占めている。)

だが実に奇妙なことに、アメリカ合州国には並ぶものがなく、敵無しなのに、小人のような悪玉連中(間もなく「ならず者国家」と呼ばれるようになった)世界の中で困惑しているようだった。戦勝を祝う美辞麗句にもかかわらず、当初のアメリカの対応は、ある意味、肉親が逝去した後に落ち込むような、困惑と麻痺の状態だった。国家、経済、そして連邦予算のペンタゴン化抑制についてのおしゃべりが、束の間マスコミに現れた。「平和の配当」が無造作に口にされてはいたが、何事もおきなかった。その間も、巨大な核戦力が任務もないまま存在し続けていた。「相互確証破壊」という長い狂った日々の後、ミサイル地下発射台は満員のままで、誰もそれに言及しようとしなかった。

第一次湾岸戦争から2001年9月11日の攻撃までの、冥界のような年月の間、不滅アメリカ至上主義の爆発は、不安と自信喪失、怒り、恨みで意見を異にする政治、かき乱されたアイデンティティとカルチャー戦争で、動揺していたのだ。そして2000年、「国造り」より「思いやりのある保守主義」のジョージ・W・ブッシュが大統領に就任した。彼と共に男性たちの一団(それに若干の女性たち)が登場したが、彼等の思考は冷戦中に形成されており、アメリカの軍事力という考えにすっかり幻惑されていた。彼等はそれまでの十年間、ある種のグローバルな遍在と、偉大な冷戦を征服した国家にふさわしい全知と呼べるかもしれないものを夢見ていた。

9/11攻撃が起きると、まさに同じ高官たちが、究極の大惨事のように思われた衝撃から、驚くべき速さで脱け出し、脅えて精神的外傷を与えられた国民をおどして、アメリカ合州国を地球上の新たなローマにするはずの(ジョージ・W・ブッシュのネオコン支持者の一部がそう考えたがっている)一連の戦争、あるいはリベラルなマイケル・イグナチェフが2003年1月、イラク侵略のわずか一月前に書いていたように、「低カロリー版グローバル帝国」へと追い込んだ。その過程で彼等は、本書の焦点である、不滅アメリカ至上主義という昔からの伝統に頼ることとなった。これは私が「戦勝文化」と呼ぶものであり、それはベトナム戦争の終結までに、本質的に瓦解していたのだ。彼等は、新たな、何世代も続く「邪悪な」敵に対するマニ教的な善悪二元論の闘争における「戦勝」を約束しながら、その言語とイメージの多くを回復させたのだ。この戦争は、次の冷戦、あるいは代案として「第三次世界大戦」、あるいは「第四次世界大戦」でさえあり、更には大統領が呼ぶ通り「対テロ世界戦争」であるべきはずだった。この戦争は、アメリカの「フロンティア」(それがたまたま地球上の石油の中心地に一致したのだが)と、それにつきものの敵を取り戻してくれるはずだった。

大統領と彼の最高幹部らは、この時期、冷戦間の前任大統領たちより、頻繁に、執拗に(時として、一つの演説で10回ないしそれ以上)勝利を約束した。あれほどかたくな、かつ非常に頻繁に主張し続けることで、おそらく彼等は皆ある種の懸念を示していたのだ。結局、冷戦後世界において(前世紀の朝鮮戦争とベトナム戦争時代にあったように)、戦勝は間もなく、新たなローマの指導者にとってさえ、並外れて移り気な概念であることがわかった。ベトナムで戦った歴史学者のアンドリュー・バセビッチが、アフガニスタンとイラクにおけるブッシュの戦争を考察して言っているように、「東は西洋式戦争法の謎を解いてしまった. . . . アラブ人は今や、特に自分たちの縄張りで、自国民中でおきるあらゆる争いについて、アメリカの戦勝を拒否する能力を有し、また能力を有していることを自覚している」

この時代の歴史が書かれる時に、おそらくより特筆すべき変化は、強大な帝国が、地上のほぼどこにおいても、自分の意志あるいは自分のやり方を、当たり前のように他国に強いることができなくなったことだろう。ソビエト連邦共和国が蒸発して以来の事実として、力の指標としてこれまで最も認められていたもの、とりわけ軍事力が疑問視されるようになり、その過程で、戦勝が否定されたということがある。今現在こうして勝ち誇っていても(アメリカ軍の将軍たちはサダム・フセイン宮殿の一つで大理石テーブルの向こう側に座り、にっこり笑っていた)、明日は、それさえ、まず確実に(道端に仕掛けられた爆弾が爆発し始め、自動車を使った自爆テロが増えて)消え去るのだ。

戦勝がアメリカから去りゆく速度のもう一つの尺度として、「新たなローマ」といった言い回しや、右翼評論家チャールズ・クラウトハマーがタイム誌で語った「ローマ以来」のいかなる世界的大国より、アメリカは「更に優勢だ」という言説の類は賞味期限がかなり短かったことがある。イラク侵略は2003年に行われ、2004年始めには、アメリカ合州国をローマになぞらえることも、パックス・アメリカーナがパックス・ロマーナになれそうな見込みも消滅した。同様に、本来のアメリカ「戦勝文化」は200年ほど続いた一方、崩壊するのにほぼ半世紀かかり、その続編も、イラクにおいてわずか数年で破壊され黒焦げとなり、ブッシュ政権は自らの帝国プロジェクトの瓦礫の中に立ち尽くしている。この部分の物語については、新たなあとがきで取り上げ、第一次湾岸戦争から昨晩遅くまでの、不滅アメリカ至上主義の終焉物語について扱っている。

2006年9月11日迄には、戦勝文化は再び屈辱を受け、アメリカ合州国が新たなローマとはほど遠く見えるようになり、二カ国とも冷戦の敗者だったのではなかろうかと評者たちが思案しても許されるようになったのかも知れない。前世紀後半における二大強国のうち、より弱い方のソ連が単に最初に崩壊しただけで、戦勝という美辞麗句と自画自賛の花輪で囲まれたアメリカは、手を振って別れのあいさつすることもないまま、ゆっくりと出口に向かっているのではないだろうか? 9/11後の日々が再検討される頃には、世界的軍事優勢という野心的な計画を追求したブッシュ政権幹部は、そうとは気づかずに、アメリカ帝国の衰亡に対し、下り坂で決定的な後押しをしたのだと見られるようになるのかも知れない。

そして私たちがアメリカ戦勝文化の「余生」中で暮らし続けている今、すっかり書き改められた本書は、戦勝文化の容赦ない終焉を回顧するものとなっている。

本書について(英語記事を)読むには、ここをクリック。

記事原文urlアドレス:www.tomdispatch.com/p/victory_preface_2007

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同著者による、残り半分(あとがき)は下記。

戦争物語の制作では、ペンタゴンはハリウッドの強敵-『戦勝文化の終焉』あとがき

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