はてなキーワード: 扶養とは
なおワイ自身は実際に試していない。いろんな記事とかgeminiに壁あてしてまとめた。
【年間で得する金額】
年間で約100万円ほど得する。
【手順】
失業給付の取得、国民年金(全額免除)、住居確保給付金の取得、国民健康保険(減免)を組み合わせた手順です。
【今回省いた給付など】
がっつり35年ローンで小さな家を建てたので、ローン返済のため子供は0歳児から保育園に預け、両親共に働いて、働いて、働いております。
核家族のため、祖父母のアシストもなかなか受けられず、かなり苦しいですが、毎日必死に働いて、働いて、働いております。
ジュニアNISAが廃止になってから、子供の学費をどうやって貯めるか悩んでいたから、返してくれて助かりました。
今後は生活をきりつめて、きりつめて、きりつめて、子供分のNISAやっていくつもりです。
しかし、こどもNISAでやったーとぬか喜びしていたところに、悲しいニュースが飛び込んできました。
皆さんもご存知の通り、かの民主党政権がこどもの年少扶養控除を廃止しやがったため、高校生以下の子供たちは税制上の優遇がない状態であります。
ちなみに高齢者や大人のニートを扶養している場合、ガッツリ控除がきいてきます。なんで?
現状、子供手当は3歳までは月15,000円、3歳以上からは月10,000円貰えますが、
子供はご飯をもりもり食べ、すくすく成長するので洋服はすぐにツンツルテンテンになるし、大きくなって習い事や塾に行くようになればそれだけ出費も増えるし、大変です。
我が家の方針では、子供は取り敢えず2人にする予定ですが、もう少し生活に余裕がもてるようなら3人目も産みたいと考えておりました。
でも子供の扶養控除のさらなる縮小のニュースを見て、3人を養育するのは無理だなと感じました。
この扶養控除縮小について、私立高校の無償化を引き合いに出されていましたけど、県や公立ならともかく、私立高校の無償化って必要なのですか?
田舎では、そもそも私立高校がごく少なく、皆公立の高校に進学しますから、あまりピンと来ません。
家が裕福ではない子は必死に勉強して私立の特待生を目指したり、公立高校のレベルを落として安全圏を受験したりしていました。
成績が悪い子は、偏差値の低い県立に行くので、学校教育の受け皿はありました。
都会ではまた事情が違うのでしょうか?
条文上や書類上の「夫婦」「父母」といった単語とか、細かい修正が必要なところはそりゃあるだろうけど、なんか別制度を設けた方が合理的なように無理矢理見せようとしてない?
分かりやすく具体的に説明すると、異性婚と同性婚を同じ制度にまとめると生じる無理や課題は、法律・制度設計・社会実務の三つの側面で現れます。ここではそれぞれの観点から詳しく解説します。
1. 法制度上の無理
現行の結婚制度は、歴史的に異性カップルを前提に作られてきました。民法上の結婚は、戸籍制度・財産権・相続権・扶養義務などと密接に結びついており、これらは性別を前提に構築されています。例えば相続法では「配偶者は生存配偶者として法定相続分を受ける」とされていますが、同性婚を同じ枠組みに無理に押し込む場合、法律の条文は性別を前提に書かれている部分が多く、条文改正や運用の調整が必要です。
また、養子縁組や戸籍の扱いでも不整合が生じます。異性婚での連れ子は、親権者や配偶者の関係性をもとに法的に整理されますが、同性カップルの場合、誰が法的親になるのか、相続・扶養・戸籍上の記載をどうするのか、といった具体的な制度設計の課題が生じます。単に「同性カップルも結婚できる」と法律で書くだけでは、個々の権利義務関係を正確に処理できず、運用が混乱する可能性があります。
2. 社会実務上の無理
結婚制度には、戸籍や税務、保険、年金、医療、子育て支援など、多くの社会制度が絡みます。たとえば、扶養控除や社会保険上の被扶養者認定は、配偶者の性別や生計を共にするかどうかで判断されることが多く、同性カップルを同じ枠に当てはめるだけでは不整合が生じます。医療現場でも「家族としての同意権」や「緊急時の決定権」の扱いが不明確になる場合があります。
さらに、養子縁組や子育て支援では、同性カップルの場合、実親以外の配偶者の親権や子どもに対する法的権限が従来制度では保障されていません。異性婚では自然に補完される権利が、同性婚では個別に明文化・制度化しないと不備が残るため、社会実務上の混乱が避けられません。
結婚制度は単に法律の問題だけでなく、社会慣習や文化的前提にも基づいています。現在の結婚制度は血統の継承や家族の形成を前提としており、異性婚を中心に組まれてきました。これをそのまま同性婚に適用すると、文化的前提とのズレが生じます。例えば、家督相続や家名継承といった概念は歴史的に男性中心であり、同性カップルにそのまま適用することは制度設計として無理があります。
また、教育や福祉の現場でも、制度の枠組みが異性婚前提で作られている場合が多く、同性カップルを同じ枠組みに押し込むだけでは「誰が保護者として扱われるのか」「子どもにどのような権利が保障されるのか」といった具体的問題が生じます。これらは単なる条文の改変では解決できず、制度全体を見直す必要があります。
よく「同性カップルでも精子提供や連れ子で子育てしている事例があるから、異性婚と差をつけるのはおかしい」と言われます。しかしこれは個別の事例であって、制度全体を設計する際の前提とは別です。異性婚の枠組みでうまくいくのは、異性婚を前提に作られた制度の下だからです。同性カップルも同じ枠に無理に当てはめると、制度上の矛盾や調整不足が必ず生じます。
例えば、相続や親権の扱いを個別に調整する必要があり、場合によっては裁判で争われることも考えられます。つまり個別事例で補完するだけでは、制度全体の整合性を保てず、結果的に同性カップルに不利な運用や混乱が起こりやすくなります。
5. まとめ
以上を整理すると、異性婚と同性婚を同じ制度にまとめることは、一見平等に見えても、実務・法律・文化の三つの側面で無理が生じます。条文改正だけでは解決できず、運用面や社会制度との整合性を含めた全体設計が不可欠です。そのため、同性婚向けに別枠で制度を設計し、必要な権利やサポートを確保する方が現実的であり、混乱や不利益を避けることができます。
結論として、異性婚と同性婚を同じ枠に押し込むのは制度設計上の無理が生じるので、制度の本質に合わせた別枠の整備が必要だということです。
結婚と子供と同性愛について世間の人が勘違いしていると思うのは
結婚は権利の問題じゃなくて義務の問題なのに、権利の問題だと思い込んでいる事
もちらん結婚する事が義務なんじゃなくて、結婚する事によって子の扶養と相続という義務が生じる
子供が「出来た時に」、子供の扱いで揉めないために必要なんだと思うんだよね
だから子供を作らない男女カップルは結婚してもしなくても問題ない、どっちでもいい
ただし子供が出来る可能性がゼロではないので、した方が望ましい
女性はある年齢から絶対に子供が出来なくなると言い切れるものでもないので、一律に要件を区切るのは現実的でないから高齢者の結婚も禁止していないだけ
「虚弱に生きる」とはまた少し違う話になるのかもしれないが、書きたいと思ったので書く。
精神障害者になってから、思うように体が動かなくなった、という話なだけなので、「虚弱に生きる」とは少しズレているかもしれない。
『虚弱に生きる』の筆者は、診断ももらえず、手帳もなく、内科的な病気も見つからない、という立場だと聞いている。そういう意味では私とは違う。でも、どこか近いところがある気がして、思うことを書いてみる。
外出は多くても月に1回程度。電車で30分以上かかる場所へ行くことは、それ以上の頻度では難しい。
それ以外の予定は、すべて「最悪ドタキャンになっても大丈夫なもの」だけ。家族と近所で食事をするとか、本屋に行くとか。徒歩圏内か、乗り換えなしで15分前後の場所なら、なんとかなる。
一番頑張っている外出は、月に1〜2回の精神科通院で、電車で1時間ほどかかる。とても信頼している先生なので、ここは変えるつもりがない。これ以外で、片道1時間以上かかる場所へ遊びに行くことは、現実的ではない。
遊んだ次の日もまた外出する、というのは極力避けている。できれば翌日は一日中横になっていたい。
夜遅くまで外で飲む、というのも気が進まない。オンライン飲みは少し好きで、たまに(本当に数年に一度くらい)夜更かしすることはあるが、翌日何も予定がないときだけだ。それもジュースかお茶のみ。
飲み会も苦手。精神科の薬の関係もあるし、もともとアルコールにとても弱い。飲み放題プランでは必ず損をする。
コース料理も、おつまみ中心でお腹に溜まらず、一品一品は一口二口しか食べられない。お酒も飲めず、ずっとお茶を飲んでいる。人と話すこと自体は好きだけれど、あのにぎやかな空気の中にいると、帰宅後は一歩も動けなくなる。お腹をすかせたまま帰ってきて、数千円を払う。ときにはそれ以上の金額になることもある。身の回りの人と金銭感覚が合わないことを自覚している。
コミュニケーションのためだということは理解しているが、「飲み会」自体に良い印象はあまりない。人との潤滑油のためだと割り切って、時折参加している。
オフ会にもよく誘われる。ありがたいことだと思っているし、仲良くしてくれる人も多い。
ただ、オフ会の頻度があまりに高く、断ること自体に疲れてしまい、最近は「行きたいときに行くから、もう誘わないでほしい」と、少しきつい言い方をしてしまった。限界だった。
観劇、テーマパーク、イベント、旅行。SNSには楽しいことだけを載せている。
その裏では、何か月も前から段取りをして、体調を逆算して、やっと年に数回参加できるだけだ。SNS上では「アクティブな人」に見えているかもしれないが、旅行にいけば部屋は泥棒が入ったかのように散らかり、片付けるまで1ヶ月はかかる。
働くこともあまりできていない。
「虚弱」を名乗る人の中には親の扶養に入っている人も多いようだが、私はそうではなく、一人暮らしをしている。
正直に書くと、生活保護を受給している。精神障害の診断があり、働くことが難しく、診断書を経て受給が決まった。ありがたい制度だと思っている。
週に1回、小さなアルバイトをして、少しだけ社会とつながっている。週1回以上働くと、調子を大きく崩してしまう。周囲がすべて自分を攻撃しているように感じ、普通に生活すること自体が困難になる。
生活費の中から少しずつ積み立てて、「楽しみ用」のお金を作り、たまに外出やイベントに使っている。
生活保護や障害のことは、身の回りの多くの人には話していない。話すようなことではないと思っている。
何度も飲み会や旅行に誘われるのはしんどい。行けば体力もお金も削られ、断っても気力が削られる。
(生活保護で生きていけていることには本当に深く感謝しております。無駄遣いをしないよう、業務スーパーと激安スーパーの激安切り落とし肉とブラジル産鶏肉で生活を回している。本当にありがたいことです。)
精神障害者3級は美術館・博物館のためのクーポン券であるなんて意見もあったが、わたしはこの3級手帳のおかげでなんとか健康的で文化的な最低限度の世界を送れている。
「ギリ健」なので、周囲からは健常者として扱ってもらえる。しかし、「みんなとおなじ」ように振る舞ったあとには、大きな揺り戻しが来る。
これまで読んできた、いわゆる「本当の虚弱」(長時間眠る、ほとんど起き上がれない、退学や留年など)と比べると、私は動けている方だと思う。一人暮らしもできているし、診断も出ている。
だから「虚弱を名乗るな」と思われるかもしれない。でも、それでも「ギリ健の生活」については、書いておきたかった。
「なぜ働くと本が読めなくなるのか」2024年最も話題となった書籍の一つ。友人と話していると、同書は非常に危険な本だと話になる。新書だからテキトーに読んでいる気付かないのだが、マトモに読むと「半身で働く」という主張に至る過程に論理の飛躍があるからだ。
加えて、三宅の書籍にモヤモヤするのは、彼女の著作の問題というより、出版業界全体が抱える“退行の空気”が透けて見える。本来、批評とは対象を切り離し、構造を浮かび上がらせる作業のはず。「斜陽産業」の出版業界は、読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げ、「本にしなくてもいい内容」を巧みな営業戦略で売りまくる世界になってしまった。
論理や構造より、“共感”や“エモさ”。そうした市場環境の中で、『なぜ働くと本が読めなくなるのか』のようなお気持ちエッセイが主流になるのは必然だ。
問題は、その本が社会構造の分析をしているように見せかけながら、突然「本が読めないのは社会が悪い」という感情論にジャンプする点だ。書籍の大部分を占める読書と社会人の近代史パート(9章くらいまで?)
はどう読んでも「半身で働く」の根拠になり得ない。提言だとしても、提言をするだけの根拠が前文には書いていない。。こうなると、構造を論じているようでいて、じつは個人の感情の物語に回収されているだけで、「社会がない」と批判されるタイプの語りに近い。
さらに「半身で働く」という提案は、階級的な前提をあまりに無視している。映画「花束みたいな恋をした」を引用して田舎出身の労働者・麦くんが本を読めなくなっていく過程を記述しているが、はっきり言って世の中の麦くん化している社会人に失礼だ。
現実に半身で働けるのは、富裕層家庭出身者、ホワイト企業勤務者、配偶者の扶養に入れる人(その多くは事実上女性だ)など、ごく一部に限られる。つまり映画「花恋」でいうところのヒロイン絹ちゃんだけだ(親が大企業、都会に実家、定職につかなくても生きていける、好きなことだけして生きていきたい)。
一般的な労働者が週5日・フルタイムの構造から抜けるのはほぼ不可能で、そんな生き方が“みんなが選べる選択肢”かのように語られると、不公平と言わざる得ない。
その社会構造自体がおかしいと主張したいのであれば、大部分の都市サービスを享受すべきではない。インフラを維持する人々の労働あってこそ、「半身で働く」ことは可能になるからだ。
そうした現実に目を向けず、都市部の特権だけが享受可能な理想論を大衆に説く。ここにはグロテスクとしか言いようのない欠陥構造がある。
また、三宅が語る「批評の文体をひらく」も、実際には論理の緩和=読者への迎合になってしまっている。例えば、同じ言葉を生業にするジャーナリズムでは誤りは許されない。5W1Hや誰が何を言ったかを間違えて報道すれば即座に批判が殺到する。(近年のオールドメディアに対するヘイトはその裏返し。合っていて当然のものが一部フェイク化したから批判されている。そもそもフェイクや根拠不十分なら叩かれないで済む)
批評は「論証できないけど感覚で書く」が成立する世界でいいのか。かつてのジャーナリズムや批判が担っていたのは理路整然の文章を大衆に届けることではないのか。論理の飛躍があっても共感(=いいねが取れる)できるなら読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げてもいい。売れるなら「本にしなくてもいい内容」を本にしていい。これが国民の知る権利を盾に商売をする出版業界で許されていいのか。
これは批評の民主化ではなく、文化が“推し活”に吸収されていくプロセスだ。文化人が読者の機嫌を損ねない戦略を取ると、批評はどんどんお気持ち表明コンテンツへ変質していく。自分の好き・推しを言語化するツールに批評が成り下がると、推しを肯定する言説しか生まれなくなる。批評とは本来対象をそれ以外のものから切り離し、特異であることを浮かび上がらせる作業のはずだ。その点において共感を求めるスポーツや音楽ライブの一体感とは真逆にある。消費者の感情におもねる批評でいいのだろうか。
出版とは、知を鍛える公共財だ。だからこそ独占的な販売方法が許容されている業界だ。しかし今は、情緒と共感を売りにして市場縮小を乗り切ろうとしている。「共に賢くなる」ための活字文化が、「共感」のツールに成り下がっている。
批評が論理を疎かにし、読者の気持ちに寄りかかり、階級の現実が曖昧になる。事実上「半身で働く」ことができない人々に対して、「半身で働く」特権階級のよさを説くというのは、パンがなければケーキを食べればいいと言っているのと同じだ。
「なぜ働くと本が読めなくなるのか」2024年最も話題となった書籍の一つ。友人と話していると、同書は非常に危険な本だと話になる。新書だからテキトーに読んでいる気付かないのだが、マトモに読むと「半身で働く」という主張に至る過程に論理の飛躍があるからだ。
加えて、三宅の書籍にモヤモヤするのは、彼女の著作の問題というより、出版業界全体が抱える“退行の空気”が透けて見える。本来、批評とは対象を切り離し、構造を浮かび上がらせる作業のはず。「斜陽産業」の出版業界は、読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げ、「本にしなくてもいい内容」を巧みな営業戦略で売りまくる世界になってしまった。
論理や構造より、“共感”や“エモさ”。そうした市場環境の中で、『なぜ働くと本が読めなくなるのか』のようなお気持ちエッセイが主流になるのは必然だ。
問題は、その本が社会構造の分析をしているように見せかけながら、突然「本が読めないのは社会が悪い」という感情論にジャンプする点だ。書籍の大部分を占める読書と社会人の近代史パート(9章くらいまで?)
はどう読んでも「半身で働く」の根拠になり得ない。提言だとしても、提言をするだけの根拠が前文には書いていない。。こうなると、構造を論じているようでいて、じつは個人の感情の物語に回収されているだけで、「社会がない」と批判されるタイプの語りに近い。
さらに「半身で働く」という提案は、階級的な前提をあまりに無視している。映画「花束みたいな恋をした」を引用して田舎出身の労働者・麦くんが本を読めなくなっていく過程を記述しているが、はっきり言って世の中の麦くん化している社会人に失礼だ。
現実に半身で働けるのは、富裕層家庭出身者、ホワイト企業勤務者、配偶者の扶養に入れる人(その多くは事実上女性だ)など、ごく一部に限られる。つまり映画「花恋」でいうところのヒロイン絹ちゃんだけだ(親が大企業、都会に実家、定職につかなくても生きていける、好きなことだけして生きていきたい)。
一般的な労働者が週5日・フルタイムの構造から抜けるのはほぼ不可能で、そんな生き方が“みんなが選べる選択肢”かのように語られると、不公平と言わざる得ない。
その社会構造自体がおかしいと主張したいのであれば、大部分の都市サービスを享受すべきではない。インフラを維持する人々の労働あってこそ、「半身で働く」ことは可能になるからだ。
そうした現実に目を向けず、都市部の特権だけが享受可能な理想論を大衆に説く。ここにはグロテスクとしか言いようのない欠陥構造がある。
また、三宅が語る「批評の文体をひらく」も、実際には論理の緩和=読者への迎合になってしまっている。例えば、同じ言葉を生業にするジャーナリズムでは誤りは許されない。5W1Hや誰が何を言ったかを間違えて報道すれば即座に批判が殺到する。(近年のオールドメディアに対するヘイトはその裏返し。合っていて当然のものが一部フェイク化したから批判されている。そもそもフェイクや根拠不十分なら叩かれないで済む)
批評は「論証できないけど感覚で書く」が成立する世界でいいのか。かつてのジャーナリズムや批判が担っていたのは理路整然の文章を大衆に届けることではないのか。論理の飛躍があっても共感(=いいねが取れる)できるなら読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げてもいい。売れるなら「本にしなくてもいい内容」を本にしていい。これが国民の知る権利を盾に商売をする出版業界で許されていいのか。
これは批評の民主化ではなく、文化が“推し活”に吸収されていくプロセスだ。文化人が読者の機嫌を損ねない戦略を取ると、批評はどんどんお気持ち表明コンテンツへ変質していく。自分の好き・推しを言語化するツールに批評が成り下がると、推しを肯定する言説しか生まれなくなる。批評とは本来対象をそれ以外のものから切り離し、特異であることを浮かび上がらせる作業のはずだ。その点において共感を求めるスポーツや音楽ライブの一体感とは真逆にある。消費者の感情におもねる批評でいいのだろうか。
出版とは、知を鍛える公共財だ。だからこそ独占的な販売方法が許容されている業界だ。しかし今は、情緒と共感を売りにして市場縮小を乗り切ろうとしている。「共に賢くなる」ための活字文化が、「共感」のツールに成り下がっている。
批評が論理を疎かにし、読者の気持ちに寄りかかり、階級の現実が曖昧になる。事実上「半身で働く」ことができない人々に対して、「半身で働く」特権階級のよさを説くというのは、パンがなければケーキを食べればいいと言っているのと同じだ。
私について→未就学児を2人抱えるシンママ。週5で事務系のパートをしている。出戻り実家で70代父と子供2人の4人暮らし。サブスクでアニメや動画を見たり、本を読んだり、pixivを徘徊するのが趣味。収入はパート代+児童手当+児童扶養手当+養育費。
父について→サブスクで映画やドラマを見たり、家庭菜園したり、平日昼間にジム通いするのが趣味。収入は年金。
一番これを言いたいがために書いてる。
とにかく国保+国民年金より協会けんぽ+厚生年金が安過ぎて…!!国保は扶養家族分全員払わないといけないのが本当に辛かった。半分払ってくれる会社様々です。
所得税: 35万円
住民税: 30万円
これが本当に助かるー!!!!!😭😭
住民税が非課税かどうかであらゆる手当や給付金が変わる!本当に本当にありがとう。
これ、所得税がかからないだけでなく、しれっと児童扶養手当の上限額も上がったんです。去年の収入的に満額もらえるはずなかったのに今年も満額だった。びっくりした。
来年は一部支給になる見込みだけど、就学児援助の要件の一つが児童扶養手当を頂いているかどうかなので、一部支給の上限が上がったことも非常に助かる。
私のような経済的弱者の視点の話があまり流れてこないため、結構助かってるんだよ〜というのをアピールしたかった。
でも我が家は家賃負担がないので(父が固定資産税も火災保険も払ってる)、経済的弱者と言いつつわりと恵まれている方。生活費負担としては、食費の全額+子供にかかるあれこれ+サブスクやスマホ含む通信費が私負担という感じ。父は家関係は元々一人でも払ってるからと言ってくれてるが、光熱水費の比重が重いかなと思って家電の買い替えとかをたまに私が負担してる。それこそ一時給付金とかを貯めて賄ってる。
納税者の皆様には頭が上がらない……
考えてもしょうがないなと後から気づくことも、人から諭されることもたくさんあった
でもここ5年で変わったなあ、変えることができたなあと思うことが増えてきたので書き留める
(ボキャ貧だからなのか、後半宗教チックな文章になってるけど増田は何も崇めていないし陶酔していない)
5年前(20歳)
・母に「産むんじゃなかった」と言われるくらい私はきっと迷惑をかけているのだ
・人のために生きねばならない
・友達やパートナーには幸せになって欲しいが、自分が自分の幸せを求めることは悪
・人に認められなければいけない
今
・読書感想文が上手く書けなくて悩んでいる小学生に対して毎年言う言葉か?きっと疲れてたんだろう
・母の言葉通りに縛られる必要はないし、顔色を窺いすぎる必要もない
・まずは自分のために生きよう
・人に認められるために頑張り過ぎるといいように使われるので、自己実現のために頑張ろう
親の扶養から外れて自分が働いて稼いだ金で生活できるようになったし、県外の大学に進学してから一人暮らしで就職を機にさらに物理的に距離が離れたのは大きかった
幼少期、仕事でほとんど家にいなかった父と少しずつ話す機会が増えて「母が言ってたほど悪人じゃないじゃん」と気づけたのもよかった
父親に、夫としてあなたが介護の責任を放棄するなら、私たち子は将来あなたの介護を放棄すると通告すれば良い。それで代わらないなら通行通りの行動をすれば良いです。
その上で、あなたたち子は母親を支えてください。地域包括支援センターに相談して使える支援やサービスを探して、僅かなお金を支払ってお母さんの介護を支えてください。
私の父は母に同じ様なことをして、私は将来支援しないと言い切っていて、実際にするつもりはありません。扶養義務は出来る範囲内ですることになっているので、その際に出来ませんと言うだけです。地域包括支援センターに相談して公的介護の範囲内で介護につなげることだけをします。それ以上はしません。
受験戦争乗り越えて大手企業入って、夜まで働いて金も能力も権力もある相手仕事するのに比べたら、楽すぎて何が大変なの?ってなるよね。
俺は風呂入ってる時も2コール以内に顧客対応できるようにしてるし、
深夜に起きるのなんて当たり前だし、朝早いのも当たり前だし、人に人格を否定されるのなんて当たり前だと思ってるよ。
朝5時に起きてジム行って1日の準備して、
ドロドロのスープみたいになるまで働いて帰宅0時以降、飲みや接待あったら朝帰りなのが「普通」だからね?
子育ての何が大変なの?
ねえ、何が大変なの?
答え、あるじゃん。
大体教科書通りにやりゃいいよね?
ミスっても「自分の身内」しか損しない時点で精神的疲労なんてないよね?
ねえ、何が大変なの?マジ。誰にも味方してもらえないなんて当たり前だよね?
仕事なら他人の育児が如何に上手く行かないようにするか考えてるやつと戦うのが当たり前だしさあ。
ガキは3人育てたけど「大変」とか思ったことないわ。
それが普通なんだよ?
そういう中で、ガキ育てるのなんて「笑顔」って報酬があるだけ大いにマシ。
何が大変なの?ねえ?ねえ?本当に何が大変なの?