はてなキーワード: 増長とは
釈迦(ブッダ)は、諸行無常・一切皆苦・諸法無我を喝破し、輪廻そのものを「苦のバリエーション」に過ぎないと断じた。六道のいずれに生まれようと、天界の神々でさえ天人五衰の恐怖に襲われ、再び堕落する。
ブッダは、死体を穢れとし、僧侶が葬送に深く関わることを避けさせた。遺骨を塔に納めることすら、在家信者の世俗的習慣に過ぎなかった。死後の「マシな世界」を求める俗人の欲望に、決して迎合しなかった。
釈迦入滅後500年経って、大乗仏教が現れるや否や、事態は一変した。
これは原始仏教には一切存在しない、明らかな後付けである。方便(upāya)の名の下に、民衆の「死後の安寧を求める弱い心」に迎合した結果に他ならない。
極楽浄土は確かに「悟りへの通過点」と理論上は位置づけられるが、実際の民衆信仰では「死ねば安らげる」安寧の場として理解され、原始の「一切皆苦」の洞察は骨抜きにされた。方便の名を借りて、ブッダの厳しい実践を希薄化させた典型である。
中国に伝わると、祖先崇拝や民間信仰と結びつき、死後の世界を「安寧」と見なす俗人の欲求にさらに深く迎合した。唐代の善導らが体系化した浄土教は、現世の苦しみと末法の不安を前に、「他力一本」で救済を約束する甘美な教えとして広がった。
日本では鎌倉時代に法然・親鸞がこれを継承し、江戸時代の檀家制度で決定的に俗習化した。幕府の統制道具として寺院が葬儀を独占し、戒名授与・読経・高額布施をセットで「極楽往生」を売るビジネスが成立した。ここに至って、ブッダの教えは完全に裏切られた。
死体を防腐し、化粧を施し、数日間安置し、重い棺を霊柩車で運び、骨を割り折って壺に納める煩雑な儀式――これを「極楽への送り」と称するなど、ブッダは激しく非難するだろう。
原始仏教では僧侶が金銭を受け取ること自体が律蔵で固く禁じられていた。金銀は「毒蛇のごとし」。
極楽浄土という方便は、方便の域を超えて、仏教を「葬式屋」へと堕落させる最大の原因となった。
ブッダの見地から見ると、極楽浄土の導入とそれに伴う死後の安寧信仰は、俗人の弱さに迎合した明らかな堕落である。輪廻からの完全脱出を理想とした教えを、「死ねば極楽」という安易な安心にすり替えた。結果、仏教は祖先崇拝と金銭取引の道具と化した。現代の葬式仏教は、ブッダの教えから最も遠く離れた姿と言わざるを得ない。
釈迦(ブッダ)はバラモン教の階級制度・有料儀式・神々への依存を徹底的に喝破した。
金銭で功徳を買う行為など、想像すらしていなかったはずだ。それが特に日本では、死後の戒名授与や高額お布施を伴う「葬式仏教」として定着した。なぜ、輪廻からの完全脱出を理想とした教えが、死者供養のビジネスに変貌したのか。原始仏教の思想と大乗仏教の展開、そして日本独自の歴史的必然を、独立した視点で整理する。
紀元前5世紀頃のインドで、釈迦は当時の宗教界を根本から批判した。バラモン教は祭祀・呪術・金銭による功徳取引を基盤とし、永遠の魂(アートマン)を前提に輪廻を語っていた。これに対し、釈迦は諸行無常・一切皆苦・諸法無我の四法印を掲げた。世界は瞬間ごとに生滅し、固定の実体(我)はなく、生老病死は避けられない苦である。
出家者(比丘)に対する戒律は厳格だった。律蔵(Vinaya Pitaka)では、金銀の授受を明確に禁じている。「比丘よ、金銀を受け取ってはならない。他人に受け取らせてはならない。これを破れば捨堕の罪である」(Nissaggiya Pācittiya 18)。布施は自発的な喜捨でなければならず、対価としての儀式販売は許されなかった。葬儀自体も、僧侶の直接関与を避ける傾向が強かった。死体は「穢れ」とされ、修行の妨げになるとされたからだ。
「完全な消滅」(無余涅槃)が理想で、永遠の魂を前提とする常住論も、すべてが無になるとする断滅論も、ともに「中道」から逸脱した邪見とされた。
神頼み・儀式依存・金で救済を買う商売を、毒矢の譬え(矢が刺さったまま原因を詮索する無益さ)で一蹴した。目的は個人の解脱であり、組織化された宗教団体すら、釈迦自身は最小限に留めた。
釈迦没後約500年後、インド北部で大乗仏教が興った。「小乗」(上座部)と自らを区別し、「大いなる乗り物」として一切衆生の救済を掲げた点が決定的だった。原始仏教の個人解脱に対し、大乗は菩薩道を理想とする。菩薩は自らの涅槃を遅らせ、衆生を救うためにあえて苦行を続ける。
衆生の能力や文化に合わせて教えを柔軟に変容させる手段だ。これにより、厳格な出家戒律や無神論的性格が緩和された。
中国に伝わった大乗は、現地の祖先崇拝や道教的儀礼と融合。死後供養・功徳回向が積極的に取り入れられ、在家信者向けの浄土信仰(阿弥陀仏による救済)が拡大した。戒律も大乗戒(梵網経など)として再解釈され、菩薩の利他行を優先するようになった。
この方便は、仏教の「生存戦略」でもあった。民衆に広まるためには、現地文化に適応せざるを得なかった。しかし同時に、原始の精神を薄め、儀式・供養・経済的布施への依存を許す土壌を生んだ。インド・中国ではまだ「死後ビジネス」までは発展しなかったが、日本への伝播で決定的な変化が起きる。
仏教は6世紀に日本へ伝来したが、当初は国家鎮護・貴族の氏寺として機能した。飛鳥・奈良時代、僧侶は葬儀に直接関わらなかった。死の「穢れ」を嫌う神道的な観念が強く、官僧(国家公認の僧)は死体に近づくことを避けた。
転機は鎌倉時代だった。遁世僧(とんせいそう)と呼ばれる民間僧が現れ、死の不安に苛まれる庶民のために葬儀・供養を積極的に担った。
1630年代、幕府はキリスト教禁制のため寺請制度(檀家制度)を全国に施行した。全庶民をどこかの寺院の檀家に強制登録させ、寺が戸籍(宗旨人別改帳)を管理。出生・死亡・婚姻の証明を発行し、死体検分まで行った。結果、葬儀・法事・戒名授与が寺の独占業務となった。戒名(死後与えられる仏弟子の名)は、元々出家者の生前名だったが、日本では位階付き(信士・居士・院号など)で一般化し、「長い戒名=高額お布施」という金銭取引が生まれた。
荘園崩壊後の寺院経営危機も、檀家からの継続的布施を必要とした。こうして、原始仏教の「金銀は毒蛇のごとし」という戒律は、遠い過去のものとなった。
江戸幕府は仏教をキリシタン摘発の道具に利用した。信仰の自由などなく、寺檀関係は義務だった。
大乗の方便が、日本古来の祖先崇拝・家制度と結びついた。死後の供養は「家」の存続を象徴し、戒名は家名を仏教的に昇華させる手段となった。
少子化以前から、寺院は布施に頼らざるを得なかった。方便の名の下に、原始の喝破精神は置き去りにされた。
浄土真宗のように法名を簡素化・生前授与する宗派もあるが、多数派は戒名料を伴う葬儀中心だ。
今日、寺離れ・直葬(火葬のみ)の増加は、この歴史的矛盾を浮き彫りにしている。原始仏教の視点から見れば、戒名料や葬儀独占はブッダの教えに明確に反する。金で徳を買う行為は、貪欲を増長させるだけで、涅槃の道ではない。
大乗の方便は、仏教を世界に広めた功績がある。しかし、少子高齢化で檀家減少が進む今、僧侶自身が「生活仏教」への転換を模索している。生前からのつながり、戒名なしの俗名供養、原始の喝破精神への回帰―これが、本来の仏教が「葬式屋」から脱却するための道かもしれない。
アンチ宗教の精神を忘れたとき、仏教は単なる葬儀屋となる。2000年の歴史を振り返り、私たちは再び「中道」を問う時を迎えている。
原始仏教(パーリ経典・律蔵)では、こうした商業化された「功徳取引」は一切認められていません。以下に、ブッダの直接的な言葉を引用しながら、論理的に評価します。
律蔵(Vinaya Pitaka)のNissaggiya Pācittiya 18(捨堕法第18条)で、ブッダはこう喝破しています:
さらに、Saṃyutta Nikāya 42.10(比丘と在家信者との対話)で、ブッダは頭首(在家指導者)に対してこう明言します:
また、同様の文脈で:
戒名授与や葬儀での「謝金(お布施名目)」は、僧侶が金銭を直接・間接に受け取る行為です。これは律蔵違反そのもの。ブッダは「金銀は毒蛇のごとし」とまで戒め、托鉢(最低限の食のみ)で生きる純粋な出家生活を定めました。金で「戒名(仏弟子の証)」や「功徳」を売るのは、僧侶が世俗の商売人になることを意味し、ブッダの教えの根幹を崩します。免罪符も同様で、「罪の免除」を金で買うのは、バラモン教の有料祭祀(ブッダが激しく批判したもの)と全く同じです。
ブッダは布施を最高の徳の一つと讃えますが、それは期待や対価を伴わない純粋な generosityでなければ意味がないと繰り返します。Dhammapada 354(法句経):
また、Sappurisa Dāna Sutta(善人の布施経)では、布施の正しいあり方を5つ挙げています:
• 敬意をもって与える
• 適切な時に与える
• 慈悲の心で与える
これに対し、金銭で「戒名を買う」「功徳を買う」は、対価を前提とした取引です。ブッダはこれを「貪欲の汚れ」と見なし、SN 16.3(月のような経)でこう警告します:
戒名料は「長い名前=高額」「位階付き=高額」という明確な価格表があり、功徳を「買う」商業行為です。これは布施の本質(無私の喜捨)を汚し、僧侶・信者双方の貪欲を育てます。ブッダがバラモン教の「有料祈祷・供犠」を喝破した理由もここにあります。免罪符も「金で罪を帳消しにする」という同じ論理で、ブッダなら「無益な戯論(無意味な議論)」と一蹴したでしょう。
ブッダの核心は諸行無常・一切皆苦・諸法無我。輪廻からの脱出(涅槃)は、貪欲・執着を断つことによってのみ得られます。金で徳を買おうとする行為は、執着を強化するだけで、苦の根源(渇愛)を断ちません。むしろ「金さえ出せば救われる」という幻想を生み、悟りを遠ざけます。
ブッダはĀdiya Sutta(AN 5.41)などで、財を正しく得て正しく使うことを認めますが、それは在家信者の生活であって、僧侶が「徳を売る」ことを正当化するものではありません。僧侶が金銭に手を染めると「沙門の道に非ず」と断じています。
原始仏教の立場から、戒名料や免罪符のような行為はブッダの戒律・教えに明確に反する。それは大乗の「方便」や日本独自の檀家制度で後から生まれた慣習で、原始の精神から逸脱しています。ブッダ自身が生きていたら、「金で仏弟子の名を買うなど、愚か者のすることだ」と痛烈に批判したでしょう。真の布施は「心の喜捨」であり、金で買えるものではありません。
地頭がいい人の6つの特徴「面倒くさがり」「理由が気になる」あとは?
世間一般では学歴というものは非常に大切で、学歴なんて関係ないという人も実際には大半が高学歴だ。
正直、設問に答えるだけの繰り返しで頭が良くなるとも思えないが、ほとんどの人はそこに価値を見出している。
世間一般では一所懸命に仕事をする人はそれなりに評価されるし、それは悪い事じゃない。
ただ、会社として利益を上げるためにどうするかという一点に絞るなら、昔ならマクロ、今だったらAIを多用するとか、
見方によってはずるをしている、面倒くさがりに見えるような行為でも積極的に採用しなければならない。
それを怠った結果、10年ぐらい後になってから「デジタル化の遅れ」だと騒ぎ始める。
AIも、人間の考える力が衰えるとか、よくわからないことを言っている。日本人がAIの真価に気付くのはまた10年後だろうか。
世間一般では至極当然のように信じられていることであっても、本当に正しいかどうかは自分で確かめてみなければわからない。
日本人の貯蓄額の中央値は、どの世代であってもせいぜい数百万だが、老後の資金はいくら必要かと聞くと、1憶でも足りないという。
現時点で数百万の貯蓄しかない人が、数十年後、老人ホームに入居するためだけに1憶貯金できるとでも?辻褄が合わない。
今までは、ただ乗りしたいだけの高齢者に若者の労働力が食い潰されるだけだったが、代わりがいくらでもいる時代、労働力が無限だった時代はもう終わる。
世間様が我慢は美徳だとか言っているうちに、徳の無い人々が随分と増長し好き放題やっているようじゃないか。勝手にやってろ。俺はもう加担しない。
私はこの増田のいうところの左派にあたるかもしれないけど元々は右に近い側だったと思う。
日本の防衛、安全を維持するにあたり軍備が必要なのは認めるが明らかに予算分配がおかしい。まず既に日本は軍事大国であるというが利用されていない飛行機があるにも関わらず追加の飛行機を購入したり、明らかに今の技術では持たない方がいいと思うものを購入している事に有り難がって与党を盲信応援してる右派やそれを反対する左派に暴言を浴びせるネトウヨを見るとゲンナリする。
例えば、衛星や地政学優位を保つために文科省から各大学への研究費を増やし恒常的な安定を保つための議論を多角的に行わさせる。これは長い目で見ても人材も育つし未来は繋がる金銭の投資となりうる。
また外国人政策において、現与党は明らかに隣国を仮想敵国としていたり、一部イスラム圏の国々に対して行われているレイシズムについて見て見ぬふりをし続けている。レイシズムを放置する事によって国内における外国人憎悪を増長させ何かしらの意図的に国民を排外主義を抱く側に向かわせている。
大抵の外国人移民は言語教育のアクセスと普通の国民と同等(日本なら年収400万)を目標に整備すれば国内の混乱はある程度は防げるにも関わらず、そういった事業への効果的なコスト配分も行わず、声を挙げる人間に対して冷笑という名の蔑視行動を伴った嫌がらせをする。
この辺は古くは朝鮮半島や南部から人を移動させて酷使し意図的に教育や就職にアクセスさせず、その子供達が職を得られず一部が犯罪者化して治安が悪化したことや、残留中国人孤児と共に日本に移住したその家族が同様のことが起きた事から明らかである。
スパイのリスクがどうのこうの言うんだったら、まず防げる手立てを固めてから言えよバカとしか思わないよ今の政権。
要するにさ、他国と共存するにしても敵対するにしてもその姿勢とカネの使い方が滅茶苦茶。
福祉範囲まで手を出さなくてもいいけど、教育範囲に掛かるべき金をどんどん削って、単純でバカにもわかりやすい既に潤沢な金を注ぎ込んでる軍事側の飛行機や弾薬を購入に利用していてさ、「国民の金を効果的に使ってますアピール」 も嘘くさいし、同じ軍事関連に使う金でも、自衛隊に所属して国のために頑張ろうとしてる人間を右翼洗脳教育して安い賃金でも文句言わないように圧力をかけたりしてさ、その浮いた金をさ、無駄なものに当てて外交確約とか言いながら買わされてるようにしか見えんわけ。お国を守る自衛隊の宿舎くらいもう少し綺麗にしてやれよ。
左翼は右翼をバカにしてると言い出す連中がいるけど、中身の精査もせずあんなの見てて熱狂して支持してる奴らがバカに見えるのは当然だろ?
戦争をけしかける前に出来ることが今の知見ならいくらでもあるよな。なんでそこを無視して茶番でしかない戦争準備アピールしてるの現政権?そんなに悪徳宗教からの支持が欲しいのか?んで、なんで日本の俺たちが汗水垂らして稼いだ金がわけのわからない宗教経由で外国に流れてることや、軍事費に無駄に金をかけていることを受け入れてるのお前ら右翼。目を覚ませよ。
その分日本の子供の教育も給食も教員の給与も滅茶苦茶だよ?そっちが先じゃねえか?
あと教育に金をかけるにしても、明らかにバイアスのかかった純潔教育とか愛国教育とか洗脳するようなどこかの企業が挟まって作った利益優先した気持ち悪いものじゃなくて、純粋に思考力を養うようなのしろって思うよ。その前にこの国教育に金ほぼかけてないけど。
今職場に複数の国(北米アジア欧州)の人間と一緒に働いていて、みんな子供は現地校入れてるけど、子供を自分の国に連れて帰っても自国の教育レベルについていけるか不安に思ってるよ。
昼過ぎは4月にやめる予定の蕎麦屋のバイトに行ってきた。かわいい子が2組来たんだけど、タイミング悪くてむさくるしい男の接客をすることになってしまった。かわいい子の接客をして連絡先交換したかったなー。あと久しぶりに同郷のmちゃんとめしくえてよかった。お菓子の話で盛り上がった。バイト終わりは、群馬に帰って保育園で好きになって中学で付き合ったsとkと飲みに行く予定だったけどうまく人が集められなくて中止になってしまった。俺は三人でもよかったけど、ぐだっちゃったからかなー?会えなくて残念、同窓会で迷惑かけたの軽く謝りたかったのによー。まあ、また今度ってなったしいつか会う機会もあるでしょ、てか作る。ふつうにあいたいしね。でも、中学の時は返信が遅いとかそんなことはなかったのに、年月って人を変えるんかな、自分がかわいいことを自覚して増長しちゃったのかなーって思って悲しくなった。昔は、かわいさを鼻にかけずに誰にでも優しくて八方美人過ぎて嫉妬することもあったんだけども、そんなところが本当に好きでいいところでもあったんだけどね。東京に出て、サークルやバイトとかでよくない方向に曲がってしまったんかな。上京するっていいことばかりではないんだよね。って言ってるけど、よくない方向に曲がった云々は俺の妄想であって返信が遅いっていう一つの要因だけで、俺の経験したカス女と勝手に重ねてみていて、実際はどうなのかは本当はわかんないんだけどね。本当にひねくれてしまったのは、神奈川に出てきて治安悪い感じになってしまったおれのほうなんでしょうね。残念ではありましたが、時間は有限。とくに大学生のという人生の中で4年しかない貴重な時間の2年をもう使ってしまっているのだから、あと二年悔いのないように過ごしたい。決して中学高校時代のような、ゲーム三昧で振り返ってみれば何も残っていない、そんな生活はしたくない。であるから、暇な時間といえば、やはり学科教習にかぎる。はやく車の免許を取りたい。今となって考えるなら、高校卒業して大学に入学してすぐに取っておけばよかったと後悔している。免許を取ってしたいことがあるかと聞かれれば、別にとくにあるわけではないんだけど、地元に帰ってきたときに女の子と車でデートとかなった時に女の子に運転させるのがダサすぎるから、俺が助手席に乗って「もう、恋なんてしないなんて」の歌詞みたいに、別れた後に左に少し戸惑ってみたいね。これらのことより、一日でも早く免許を取って女の子を隣に乗せたいよね。まだ、乗せる女の子もいなければ、車もないんだけどな。しかし、ここ最近はもっぱら教習ばかり見ているから、趣味は何ですかって聞かれたら教習になるな。まったくもってちゃんと見てないんだけどね。教習見ながら「遺書公開」と「きさらぎ駅」見てしまったね。遺書公開は、結構おもしろかったし、いきなりクズに代わるときの表情とか演技はよかったと思うんだけど、コメントではやりすぎとかオーバーすぎるとかいうコメントが多くて悲しかった。若い子が頑張るのはいいことだろ、老害が邪魔だけはすんなよ。今日日記を始めようと思ったのも遺書公開で日記が重要な手掛かりになっていたからなんだよな。もともとおれは、思い出を大切にするに人間だから日記は初めてみたかったし、いいきっかけになった。これをいつか見返す日が来て懐かしくなって、書いてよかったなって思える日が着たらうれしいな。初めて書く日だから、こんなに長く書いたけど今後はもう 昔の話とか必要最低限で出来事とか感情メインで書いていくことをここに宣誓します。読んでくれてありがとう。