はてなキーワード: 読者投稿とは
沖縄タイムスに掲載された辺野古沖の転覆事故に関する読者投稿(2026年5月1日付)について、掲載内容が事実と異なるとして沖縄タイムス社がおわびを掲載するなど議論が広がっています。
流出した音声データに基づくと、当該読者投稿にある「逃げろ叫ぶ暇なく」という表現は事実と異なる可能性が高いと指摘されています。投稿では「二人の声が聞こえてくる」という形で、事故の状況が叙情的に描写されていましたが、実際の事故直前の音声では異なるやり取りがなされていたとされています。
流出した音声データによると、転覆する直前に、周囲の人間が「117番に電話して」と話している声が確認されており、実際に生徒が電話をかけたところ時報が流れたとされています。この直後に船が転覆したという内容が指摘されており、緊急時に時報(117番)に電話させていたという状況が事故直前の音声データとして公開されています。
沖縄タイムス社は、この読者投稿について「不適切な表現があった」として、5月3日・4日付の紙面およびWebサイトでおわびを掲載しました。同社の松田駿太記者は、この投稿の掲載について「掲載はありえない」と自身の思いを表明しています。
「右」と「左」の対立はもういらない? 対話で見えた予想外の世界線
https://digital.asahi.com/articles/ASV1G2HJNV1GULLI003M.html
【宇野】 朝日新聞で論壇時評を2025年3月まで2年間担当し、そのときに梶原さんの『「“右翼”雑誌」の舞台裏』(星海社新書、24年)を読みました。
論壇とは何なのか、いつも考えていて、論壇時評といっても取り上げる雑誌はやっぱり朝日新聞っぽいものを選んでいるんじゃないのか、と感じることがある。「WiLL」や「Hanada」も時々読んでいたけど、取り上げることは限られていた。一方で本屋さんに行くと、論壇時評で取り上げるような雑誌は1、2冊くらいで、「WiLL」「Hanada」がずらっと山積みになっていて。ただ正直に言うと、熟読するのはやや抵抗あるな、とも。
そんななかで梶原さんの本を読んで、面白いと思いました。現場で学園祭のノリで編集していく様子が楽しそうで、何より梶原さんがちゃんと対話しようとしていたのが印象的だった。まずは自分たちが考えていることを知ってもらい、そして相手がどう思うかも聞いて話し合おうという企画を色々と練っている。うまくいかなかったものも含めて、いわゆる「左」とか「右」というのを超えた対話を実現しようとする努力が伝わってきました。
【梶原】 実は「WiLL」の編集部にいたとき、コラムニスト・勝谷誠彦さんの「あっぱれ!築地をどり」という連載を、入社当時から19年に退社するまで13年近く担当していました。
朝日新聞の論調を、東京本社の所在地にちなんで「築地をどり」という流派になぞらえ、いわばおちょくるものです。とにかく朝日新聞を隅から隅まで毎日読んで、ネタを探す。細かい記事や読者投稿まで読んで、今月はこれにツッコミを入れるぞ!というのを勝谷さんと相談して作っていく。
たぶん朝日新聞の人はあまり好きじゃなかったと思うし、応答が返ってくることはほとんどなかったんですけど、日々の紙面に対してツッコミを入れることで、一つのやりとりが成立していたと思う。私にとっても鍛錬になりました。
24年の論壇時評(7月25日付朝日新聞)で「Hanada」の記事(石丸伸二・前広島県安芸高田市長についての地元の人たちによる座談会)を取り上げてもらったときは、編集部内がどよめいていたそうです。読んでくれている、というのは編集者としてすごくうれしいと思います。
【宇野】 実際読んでみると面白い記事もあるわけで、それを雑誌に対する一方的な思い込みでこれはダメだっていうのはおかしいですよね。
ただ、いまどきのネット空間では、見出しすら半分くらいしか見ずに、とりあえず相手にかみつく。批判する対象も丁寧に読むというのは、それだけで誠実かもしれません。
具体的にはどういうのがありましたか? 梶原さんが見た「朝日新聞っぽさ」というのが浮かび上がってくるかと。
【梶原】 衝撃だったのは連載初回で、04年11月に中国の原潜とおぼしき船が日本領海内を航行した際の記事です。朝日新聞の社説(同11日付)で小見出しに「中国潜水艦?」って書いているんですけど「?」の級数がものすごく小さいんです。他のメディアはもう「ほぼ中国船」といった形で報じているけど、まだ違う可能性があるからなのか、あるいは中国に対して気を使っているからじゃないか、と。
他にも、旭日(きょくじつ)旗に対して韓国から批判的な声が高まるなかで、朝日新聞は夏の甲子園大会の開会式で、毎回、旭日旗を元にしたような社旗をボールにくっつけてヘリから落とす。それに対してここでは言えないような下品ないじり方をしていたんですけど、客観的には面白い。意見は違うけど存在を否定しているわけではなく、風刺というか笑いにしてしまおう、という精神は良かったのではないかと思うんです。
連載のネタにはならないけれど、朝日新聞を読んでいて説得されるようなこともありました。読み続けることで変化も分かるし、相変わらず、というところもあって、定点で見ていくことに意味があったと思います。
【宇野】 立場が違うとどうしても殺伐としたやりとりになって、特に今のネットでは相手を斬らなかったら自分が斬られるというか、どちらが先に相手をののしり倒すかみたいな感じがある。それに比べると、笑い、ユーモア、からかいを含めた風刺は大切ですね。雑誌という媒体の性質なのか、あの時期はまだそういう対話が成り立ったのか……。
【梶原】 編集長の花田紀凱さんの方針で、雑誌は新聞に対して批判の目を向けなければ、というスタンスで、朝日新聞の特集を何号もやっていました。
【宇野】 花田さんが週刊文春などで鍛えたジャーナリズムの感覚のようなものでしょうか。ただ、その大前提には、朝日新聞というのは権威であって、それをたたいたり、ちょっとおちょくったり、それ自身が面白い、というのがあったわけですよね。
【梶原】 論調の違いや歴史認識に関して言えば、非常にシビアな批判もたくさんあった。でも、そうじゃない視点から面白くいじり倒すというのもあって、「品はないけど愛はあった」というか。
たとえば、朝日新聞の記者が年末年始にホームレスの人たちと寝袋で寝たという記事があって、もちろんその動機とかそこで見えてくるものは当然あると思うけど、ちょっと離れたところから見ると、「朝日の記者は高給取りなのに、それは偽善では……」みたいな。そんな視点です。
【宇野】 権威とされているものにツッコミを入れたりひっくり返したりするのは、ジャーナリズムやメディアの基本でもありますね。
■「敵」がいなくなった保守
【梶原】 でも、権威があってそれをたたく構図、「革新」と「保守」というか、「左」と「右」といった構図がずっとあったけれど、徐々に「保守」のほうが強くなってきた。第2次安倍政権になってさらにそれが見るも明らかな状態になっているにもかかわらず、まだ左派にカウンターを打つだけでやっていこうとしてしまった。本来、保守側が論を立てなければならない側になったのに、保守側の意識が変わらなかった。ここが雑誌を作っていて難しかったところです。
【宇野】 まさに朝日新聞というのが批判する側の言説の権威としてあるのが大前提で、逆に言うと、朝日新聞が権威の座から転げ落ちてしまうと今度は敵がいなくなってしまう。ということで今度は、裏側から朝日新聞頑張れ!とエールを送っているところもある。
加えて、保守のなかにも「正論」や「諸君!」(09年休刊)といった既存の「ガチな論壇誌」があって、「WiLL」「Hanada」はそれともまた少し距離を置いた媒体で、面白くなきゃ、読者を楽しませなきゃ、という感覚がすごくある。でも、これも保守の“正規軍”があってこそ。それもだんだん力がなくなっていくんですよね。
そんななかで、雑誌は売れるけど、自分たちが対抗する相手や保守の牙城(がじょう)みたいなものが弱くなって、何に向かって茶々を入れていけばいいのか見えにくくなってきた。メディアや政治の潮流がどんどん変わっていくなかで、梶原さんは居心地が悪くなって、結局飛び出した。何が一番大きなきっかけだったのですか?
【梶原】 やっぱり第2次安倍政権の時期に抱いた違和感がすごく強くて。政権が朝日新聞をはじめメディアからたたかれるなか、こちらがそれを押し返すという構図がありました。でも本来は、保守だからできる保守派の政治の批判というのも当然あって、安倍政権にまだできていないこと、もっとやってもらわなければということが結構残っていたんです。実際、あそこまで政権が続いても憲法改正はできていません。
なぜそれができないのか、を突きつけていかないといけない。岩盤支持層であればあるほど、その人たちがグラグラすることによって政治は危機感を覚えるし、支持が離れることになって初めて本気になる。何をしても応援しています、できないことはやらなくていいよ、という状態が続いてしまうと、政治の側の「現状を変えよう」という動機づけが希薄になる。
だからこそ、保守からの批判をちゃんとしないと、自分たちが思い描くような政治にはならないんじゃないか、という思いがありました。
ところが実際には、北方領土返還をめぐる日ロ交渉が失敗し、四島返還が事実上遠のいたにもかかわらず、「安倍さんは頑張ったからいいじゃないか」といった意見や、「モリカケ問題」の文書改ざんを擁護する声も出てきた。最終的に、やっぱり憲法改正を言わないほうが正しいという意見まで雑誌に載るようになって、そうすると一体何のために雑誌をやってきたのか、安倍政権を擁護するあまり今までずっと訴えてきた保守側の意見とも違うものまで雑誌に掲載されたことで、これはさすがに許容できないと思った。葛藤がどんどん大きくなっていって、体調も崩してしまいました。
【宇野】 ある意味で筋を通そうとしたわけですね。保守の原点、特に安倍政権の本来の志は憲法改正であったとすると、それは置いておいて、むしろ政権を続けること自体が目的化しているとしたら、それは本来めざしていたものからそれているんじゃないのかと。当然これは保守の側から出てきてしかるべき疑問だと思いますが、右派系の月刊誌を含めたメディアの多くも安倍さんの人気に乗っかって応援団のようになってしまった。おかしければおかしいと言うのがむしろ筋なのではというのは、本当にそう思います。
私は『保守主義とは何か』(中公新書、16年)という本も書きましたが、保守って、自分たちの大切にしている価値があって、それが絶対だとか、一切変えちゃいけないとまでは言わない。でも大切なものは放置しておくとだんだん失われていくので、必要な変化は認めた上で、でも大切な価値はこれだ、とそれを守り抜いていく。それが保守の保守たるゆえんだと思う。
でも現代の保守は何を守ろうとしているのか。あいつはおかしいというカウンターははっきりしているけれど、肝心の自分たちが守ろうとしているものがよく分からなくなってきているのではないでしょうか。
【梶原】 保守の側にもそういうことを言う人は出てきてはいますが、大勢ではありません。今は良い意味でも悪い意味でも右とか左とかではない時代になってきています。
まだちゃんとあったほうが良かったと思うのは、自分が何に立脚してものを考えているのかがあった上で、あなたはそういう価値観だから私とは意見が違いますね、とある程度分かったほうがまだ話はできると思うからです。
【宇野】 確かに、保守主義って生まれたときから明確な敵があったんですよね。フランス革命、20世紀の社会主義、アメリカ流の「大きな政府」(ニューディール政策)と対象は変わったが、常に敵があるときに元気が良くて論理も鋭い。だけど21世紀になったぐらいから、だんだん明確な敵が分からなくなっていった。
【梶原】 今は私も、保守派の人と話していても話が通じないことがあります。ネットの言説の影響が大きいと思うけれど、とても変わってきています。
たとえばLGBTの問題で、本来の日本の文化で言えば西洋の男女二元論のような捉え方とは違うはず。ところが保守派は、性別は絶対的なものであると主張し、LGBTを許容する発想を危険視するようになっています。「女のふりをした男が女湯に入ってくる」というようなレアケースを持ち出すことで危険性を訴え、「LGBT思想が蔓延(まんえん)すると女性を守れない」と印象付けようとしていました。
そういう時だけ「女性を守れ」と言いますが、日ごろ「痴漢撲滅、女性を守れ」などとは言っていない。LGBTを推進する左派に対抗したいというイデオロギーのために「女性を守れ」の方便が持ち出されているだけです。また、「LGBTを許容することで性別不明の人間や同性愛者が増える」とも言うのですが、保守派が認めようが認めまいが、当事者はすでにこの社会で暮らしているわけで、「認めなければ存在しない」かのような言い方には違和感しかありませんでした。
【宇野】 今の保守・右翼を論ずる上でのポイントで、かつてのようなイデオロギーに基づくような明確な敵はいない。
むしろ、もっと素朴な違和感、何か嫌だという感覚がある。そこからスタートするのは議論の仕方としてはありだとは思う。ただ、お互いになぜ嫌なのか、考えてみると自分のこういうものを脅かすと感じるから嫌なんだ、くらいまでいけば、それならお互いの大切な部分をなるべく傷つけないように、どうしたら共存が図れるか、といった議論もできる。けれど、たぶんそこまでいっていない。
【梶原】 移民などに対してもそうですが、海外で起きている事例とか、嫌悪をあおるような動画を見聞きして、それをそのまま取り込んで日本でも近い将来こうなる、といった言い方がすごく増えています。防衛本能みたいなところから出てくるのは分かるけど、社会の違いがあるのでそのままそうなるわけじゃない。これも保守の人には分かるはずと思っていたんですが……。
【宇野】 もちろん、地域によっては外国人労働者が増えて、住んでいる人との間に摩擦やトラブルが起きることもある。そのとき、お互いに反発があるなかで、どう一緒にやっていくのか、どうルールを決めていくか、という議論ならいいけれど、今あるのは「なんちゃって排外主義」というか、漠然とした排外主義的な気分。本来は自分たちのものであるものが、いつの間にか外国人に奪われているのではないか、という不安感だと思います。そうした不安自体は否定しないけれど、相手の存在を否定する、いなかったことにする、というのは違う。
そもそも梶原さんは最初から自分は右派的な意見を持って雑誌に行ったときも「最右翼」と自認されていましたけど、何かきっかけがあったんですか?
【梶原】 さかのぼってみると、父が自衛官で、小学校時代に父の仕事について担任の先生から、「あなたのお父さんの仕事って嫌われてるよ」と言われたり、PKOの派遣が1991年に議論になったときに、父は行きたいと言ったけど母がそれを止めて、「あなたは正義心で世界のために命をかけようとしているんだろうけど、死んでも誰も感謝しない、この国は」という言い方をしていたり。実は母も自衛官の娘で、そういう立場の人がそんな風に言うこの国とは一体なんなのだろう、とすごく疑問に思ったんです。
父の仕事が他の仕事と比べて特別すごいとは思っていないけれど、でも誇りを持ってやっていることだし、自分も観閲式に行ったりして親しみもあったので、なんでそんなことを言われるんだろう、という思いがありました。大学に行ってからいろいろ雑誌を読んだりするなかで、それって憲法の話からきていたのか、それで存在を否定されてこうなっちゃうのか、と。そのあたりから、だんだん保守系の雑誌を読むようになって、自分にはしっくりくるなと思った。
そして2002年に北朝鮮による拉致問題の大きな進展があったとき、こんなことが起きていると知らなくて、それを解決できずにきていたんだとショックを受けて。そこから保守派の考えになったのが大きかったと思います。
【宇野】 お母様の言葉が重たいですね。もちろん個人の意見として、憲法9条についての考えが多様なこと、自衛隊という存在に対して否定的な考えがあるのはしょうがない。でも実際問題として、この国のために働いて亡くなったところで、誰もそれを嘆いてくれないというのはおかしいんじゃないか、というのはそう思います。国のあり方としてどこかおかしいっていうのは、非常によく分かる感覚です。
拉致問題にしても、この国のあり方とか外交とか特定の国に対する姿勢とかを考えるとき、決定的に重要な事実を知らなかったのはショックですよね。大切な事実や前提が分からなければ対話も始められない。
その後も、お父様やお母様とはそういう話はしていますか?
【梶原】 憲法の話とかをするようになったのは編集部に入ってからでした。雑誌も購読してくれて、感想も聞かせてくれました。母方の祖父が仏壇に雑誌を供えることもあって、軍に入って終戦を迎えた後に警察予備隊にも入隊していましたから、戦後の風潮に対する何らかの思いがありながらも言えないこともあったんだろうな、と感じました。あまり多くを語らない人だったのですが、もうちょっと聞いておけば良かったと思います。
私自身も編集部に入る前から「WiLL」の読者だったので、編集者になっても雑誌を読んで毎月楽しみにしている気持ちは読者と共有できている、という感覚がありました。
【宇野】 思いがある問題意識を書いて、それが読み手に届いて共有され、一緒にやっている感覚。ジャーナリストとして幸せですね。
【梶原】 読者からの電話やお手紙などのリアクションもすごく多くて。批判ももちろんありましたが、でもそこでまたコミュニケーションが生まれた。
ただ、第2次安倍政権期に入って私自身も疑問を持つようになったとき、読者からお手紙をいただきました。「保守の雑誌は本当のことを書いてくれるから読んでいた。リベラルの媒体と違ってちゃんとフェアにやってくれると思っていたのに、安倍擁護ばかり
エロ漫画雑誌の読者投稿見てると絵が下手な人も多いなーっていう当たり前だがつい忘れそうになる現実を思い出す
dorawiiより
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ルポや新書的な内容など事実を説明した内容なら活字媒体よりも漫画になっていたほうが、たとえ興味がない人間でもまだ読むのに苦痛がないというイメージを持ってる人がいると思うが、それは間違いだと思う。
嫁姑の読者投稿みたいな内容は発言小町で読むほうがまだ耐えられる。
なんとかさゆみが表紙の漫画雑誌やぶんか社の作品はそのターゲット以外の多くの人にとって、そのキャラのことごとくが視覚的に生理的嫌悪感を呼びおこす醜い人相というか画風になっているというのが個人的な感想。
端的に言えばページに映る全てが汚物のようだ。だから漫画を読めというほうが見る刑罰に値する。
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というわけでお漏らし文学をChatGPTに調べてもらった
Last time I paid 1€ to take a piss,
I walked into the Sanifair, looked around,
and just… left.
It was so disgusting I decided to go outside and search for a bush instead.
— Reddit / r/AskAGerman
「1ユーロ払ってトイレに入ったんだけど、あまりに汚すぎてそのまま出てきた。結局、外の藪を探すことにした。」
ドイツ人ですら「お金払って藪で用を足す方がマシ」と言ってしまう悲哀。
URL:れでぃっと r/AskAGerman
I used to squat when using public toilets.
Then one day, I slipped.
That day, something inside me died… and something outside me was never clean again.
— れでぃっと / r/AskEurope
でもある日、足が滑った。
その日、僕の中の何かが死んだ… そして僕の外側も、二度と綺麗にはならなかった。」
もう「しゃがむ」という選択肢すら許されない。
In Belgium, there’s an unwritten rule.
You hand the bar owner a euro,
he silently hands you the bathroom key.
you find a dark corner of the street instead.
— Blog post “The art of le pee in Belgium”
バーの店主に1ユーロ渡すと、無言でトイレの鍵を渡してくれる。
観光都市ブリュッセルでも、路上で立ち尽くす影が絶えない理由。
URL:saintfacetious.com
All cafés were closed, all public toilets locked.
I stumbled along the riverbank,
In the end, the Seine saw everything.
— れでぃっと / r/Paris
「深夜1時、セーヌ川沿い。
ワインと後悔で酔った体を引きずりながら歩き、
パリの夜は美しく、そして容赦ない。
観光客だけでなく、現地の人すらこうなることがある。
I was in Bilbao, desperate to pee before the match.
I ran into one of those self-cleaning toilets…
and then the cleaning cycle started
僕は全身びしょ濡れになって出てきた。」
水と泡まみれで出てきたマンチェスター・ユナイテッドファン。
In Amsterdam, we had these half-open urinals called ‘pee curls.’
They were meant to stop men from peeing in the canals.
Now they’re disappearing…
and the canals smell like history again.
「アムステルダムには、半分だけ壁のある露天トイレ『pee curl』があった。
でも今はそのpee curlも減り、
I have MS.
Since the public toilets closed,
Last month, I didn’t make it home in time.
I cried, then laughed, then stayed inside for a week.
— The Guardian 読者投稿
「私は多発性硬化症です。
先月、家に帰る前に間に合わなくて…
URL:The Guardian
まあまあだな、また探す
____
読者投稿を漫画にする雑誌の漫画家って自分で話書けないからそんなことしてるの?
-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA512 https://anond.hatelabo.jp/20250905174641# -----BEGIN PGP SIGNATURE----- iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaLqjcQAKCRBwMdsubs4+ SOijAP4k7dH/xP3/o8z+Qa/TK03MCyNOhOoQm6n+LjyTmbkuOQEAxC4MNe7jJ1Bj LEvk5aY8pj7n8OypViXpml7bo4eNkQI= =jXPm -----END PGP SIGNATURE-----
思い返すと、私が持病を患っていた頃、母が「下方婚がいいらしいよ」と言って無理やり紹介してきたのが始まりだった気がする。
最初は、どこにでもあるちょっと変わった健康マニアだと思ってた。でも気づけば、母は今や、反ワクチン、参政党礼賛、トランプ支持、ディープステート信仰、嫌中・親露、コロナは生物兵器でただの風邪・マスク無用、がんに効くスープ、生活保護受給者叩き、日本で起きた犯罪はまず「日本人じゃない」と決めつける差別主義者に仕上がっていた。
最近では「弥助は本当は忍者だったのよ」「本能寺の変の黒幕はテンプル騎士団」「アサシン教団は今も日本の皇室に繋がってる」とまで言い出した。え、それゲームで見た話では……?
そして最悪なことに、妹もそっち側に転がっていった。
「弥助はフリーメイソンのエージェントだった説が濃厚なんだよね」とか言ってて、最初は冗談かと思ったら真顔だった。
姉妹の会話が「アサシンブレードは宇宙エネルギーを中継する装置だったんだよ」とかになってて、頭がどうにかなりそうだった。
「先生が解明したんだって」と言っていたけど、その“先生”、YouTubeと講演会で語ってるだけの人だった。経歴詐称で有名な“月刊ムーの読者投稿欄の常連”みたいな人だよ。
妹がそうなったのも母の影響らしい。「あの子には感性があるから陰謀の本質がわかるのよ」とか言ってて、もはや宗教。
否定せず柔和に聞くのが一番とよく言うけれど、そもそも日常会話の中に突然「参政党の神谷さんは弥助の生まれ変わりかも」とか差し込まれたら、もう無理なんだわ。
それにしても困るのが、祖母まで同じことを言い始めたこと。母と妹の二人に吹き込まれたらしく、「味の素には悪魔崇拝者のサインがある」とか、「アジア人はユダヤの失われた支族」とか。しかも祖母は認知症が入っていて、何度も何度も繰り返す。
本当は祖母とゆっくり穏やかに過ごしたかったのに、母と妹が常に同席してて、気づけば世界政府やらナノチップやらアサシン教団の話ばかり。穏やかどころか、カオス。
唯一まともなのが父。寡黙だけど、私の病気のことも理解してくれて、「医者を信じて頑張れ」とだけ言ってくれる。昔は頑固な昭和の男って感じだったけど、今はそれがかえって安心する。
母は、私が薬で治療しているのを見て複雑な顔をする。「免疫力で治せるはずよ」「波動療法があるのよ」と、動画の影響そのままに言ってくる。でも、一方で退院すれば「あなたが元気になって嬉しい」と言ってフルーツを買ってくれる。
優しさと狂気が同居していて、つらい。
妹も同じ。子供の頃は仲が良かったのに、今では会えば「マスコミはみんなDS」「アサクリの設定は真実に基づいてる」しか言わない。
本を読まなくなった女たちが、YouTubeとSNSだけを頼りに「真実」に辿り着いた気になって、どんどん先鋭化していく。
話し方は一方的で、見下したように「あなたはまだ目覚めてないのね」と言う。
なのに、こっちが黙ると、どこか寂しそうにしてるのも見てしまって、またつらくなる。
うちの家庭は昔から団らん中もニュースにあれこれ言うような空気はあったけど、気づけば女たちが揃って陰謀論で意気投合する地獄になっていた。
母、妹、祖母。みんな陰謀論。アサクリと日ユ同祖論と反ワクチンの融合。もうどうにもならない。
女は感情が先に立つから、陰謀論にハマると戻れなくなるのかもしれない。しかも自信満々で、根拠のない“真実”を語る姿は、もはや狂信者。
情報を鵜呑みにして、物語としてしか歴史を見れなくなっている。
女の直感(笑)で世界を解釈した結果がこれなら、もう未来はない。
私はどうなっていくんだろう。自分も女だから、いつかこうなるのかと思うと怖い。
実家をまた離れる予定だから、少しは距離を取れる。関わり方も変わるだろうけど、母と妹はおそらくこれからもどんどん“真実”に目覚めていくだろう。
私が病気でつらかったときに心配してくれたのも事実だから、冷たく切ることはできないけれど、差別や非科学を隠しもしない人たちと顔を合わせ続けるのは、やっぱりしんどい。
最近、ネットニュースがやたらと読みにくくなってきた。特に新聞社系のサイト。
昔はもうちょっと無料で読めた気がするのに、今はタイトルだけ見せて有料会員じゃないと1文字たりとも読めやしない。
このままじゃストレス溜まる一方なので、仕方なく有料プランを検討。とはいえ新しく金払うのもな…と思って、
結局まったく使ってなかったサブスクを解約して、そのぶんの予算をニュースサイトに回すことにした。どこにするか迷った結果——
というわけで、月980円でコスパが良い「毎日新聞+WSJ」セットで契約した。感想としては
1. 全文読めるのはめちゃくちゃ快適。 途中でブツ切りにされないって、こんなにストレス減るんだなって改めて思った。
2. 検索機能は本気でクソ。 サイト内検索は化石レベル。結局Googleのニュース検索の方が千倍マシ。でもサイト内の記事を読むにはこのクソ検索しかない。
3. 記事の質はピンキリ。まあ当然だけど。特集系は割と良いのが多くて読み応えある。
4. 読者投稿欄、高齢者の巣窟。 いや本当に、年齢層偏りすぎじゃない? 60 70 80代多過ぎ
5. 若者の投稿もたまにあるけど、なんか変な意見が多い。というか今時わざわざ新聞に投書する若者は100%変わり者
6. そもそも素人の感想が読みたければSNSで充分では? こんなもんにコストかけて人力の検閲しなくていい。
7. WSJ読めるのはマジで良い。英語の記事でも今は自動翻訳+AIでだいたい意味わかる。時代すげえ。
今のところ「元取れてるな」って感じはあるけど、続けるかどうかは半年くらい使ってからまた考える。検索だけはどうにかしてくれ。マジで。
近年放送された『ガンダムジークアクス』は、視聴者の間で賛否両論を巻き起こしている。その大きな理由の一つが、「とにかく情報量が多い」という点だ。画面に映るシンボル、断片的に提示される過去の戦争、唐突に引用される哲学用語や神話モチーフ。これらが次々に提示されるにもかかわらず、ストーリーの本筋に対する説明や関連づけはほとんどされない。まるで「意味があるように見せる」情報のシャワーに晒されるような視聴体験だ。
この感覚、どこかで経験したことがある――そう思った視聴者は多いだろう。1995年に放送されたテレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』もまた、まさに同じような作りだった。エヴァンゲリオンもまた、謎が謎を呼ぶ構成、断片的に差し込まれる宗教的記号や心理学的用語、キャラクターの内面描写が突如として象徴化される演出など、「情報の多さと不明瞭さ」が最大の特徴だった。だが、今振り返ると、多くの視聴者が没頭していたそれらの“考察”の多くは、本筋のストーリーとは実はほとんど関係がなかった。
たとえば、「カバラの生命の木」や「セフィロトの樹」、「ロンギヌスの槍」など、当時は「この配置には深い意味があるに違いない」と騒がれたが、後に監督自身が「それっぽく見せるために使っただけ」と述べている。つまり、それらは「本質」ではなく、演出上の装飾だったのである。
これとまったく同じことが、今『ガンダムジークアクス』でも起こっている。情報過多、意味深なセリフ、過去作の引用――それらを受け取った視聴者たちは、掲示板やSNS、考察系YouTubeチャンネルなどで、あれやこれやと解釈を試みている。しかし、そこに見出された“深読み”の多くは、結局のところ物語の展開とは直接関係しない。なぜなら、それらの情報は「世界観をそれっぽく見せるため」のツールであり、作者からの「本当に読んでほしい意図」ではないからだ。
では、こうした「意味のない情報量」による演出は、視聴者を欺くためのものであり、悪しき作劇法なのだろうか? いや、決してそうではない。むしろ、そうした“意味のない意味深さ”こそが、今のアニメ文化における重要な快楽のひとつになっている。つまり、「意味があるように見える情報」を自分たちで咀嚼し、解釈し、語り合うというプロセス自体がエンターテイメントなのだ。
エヴァンゲリオンの時代は、まだネットが発達していなかったため、考察は雑誌の読者投稿欄や、限られたオタク同士の会話の中で行われていた。しかし、現在ではSNSやYouTubeなどのプラットフォームが整備され、視聴者が考察を“コンテンツ”として発信・共有する時代になった。『ガンダムジークアクス』は、そのような現代的な「考察文化」にぴったりとフィットする作品なのである。
とはいえ、ここで忘れてはならないのは、**「考察と物語は別物である」**という点だ。考察はあくまで視聴者側の楽しみであり、物語の本質はその枠の外にある。エヴァンゲリオンの本質は、父との関係に苦しむ少年の心の成長であり、ガンダムジークアクスの核もまた、パイロットたちの「選択」と「責任」の物語である。シンボルや用語が何を意味しているのかに囚われすぎると、かえってその本質を見失う危険がある。
結局のところ、情報量の多さは、作中世界に厚みやリアリティを与えるための「霧」なのかもしれない。その霧の中に意味を探そうとする視聴者の営みもまた、作品を楽しむ一つの方法であることは間違いない。しかし、その霧の向こうにある「物語の本筋」を見失ってはならない。情報を読み解く楽しさと、物語を味わう感動の両方を得るためには、「この情報は本当に必要なのか?」という視点を持つことが、実はとても大切なのではないだろうか。
『ガンダムジークアクス』の情報過多に圧倒されながらも、どこか懐かしさを覚えるのは、それがエヴァンゲリオン的な「問いかけの形式」を受け継いでいるからだ。だが、その形式の本質は、「答えが提示されること」ではなく、「答えのない問いを前にして、我々がどう考えるか」にある。つまり、考察とは“解答”ではなく、“自己の姿勢”の表れなのだ。
だからこそ、『ジークアクス』のような作品に向き合うとき、必要なのは「正解」を求めることではない。むしろ、あの情報量の洪水の中で、自分が何を感じ、どう解釈したのか――その“対話”こそが、この種の作品の最大の魅力であり、現代アニメ文化における「考察することの意味」なのだろう。
印刷物の「縦の列」を指すようになり、
この増田では、コラムの語源と起源を軸に、その社会的役割と現代における展開を考察する。
コラムの語源は、古代ローマ建築を支えた石柱「columna」に由来する。
紙面の縦方向の区画を「column」と呼ぶ慣習を生み出した。
日本で「コラム」が外来語として定着したのは明治期以降とされる。
1874年創刊の『郵便報知新聞』が初めて縦組みの短評欄を導入し、
当初は「雑報」と呼ばれていたが、
興味深いことに、
戦前の新聞では「円柱」の原義を意識した「柱記事」という表現も併用されていたが、
戦後GHQの指導で横組みが普及する過程で「コラム」が優勢となった。
1751年3月11日、
イギリスの『ロンドン・アドバイザリー・リテラリー・ガゼット』が紙面右端の縦長スペースに批評記事を連載開始した。
これが「コラム」と呼ばれる契機となり、
当時の記事は縦12cm×横4cmのスペースに収められ、
この形式が人気を博し、
1777年には初の有料コラムニストが登場するまでに発展した。
年間人気コラムランキングが出版されるほど社会的影響力を持った。
朝日新聞「天声人語」の執筆陣には芥川賞作家の井上靖や開高健ら文学者が名を連ねた。
この時期の特徴は、
800字前後の制約の中で比喩と時事批評を融合させる文体の確立にある。
インターネットの普及により、
コラム文体の最大の特徴は、文字数制約(新聞で400-800字、ウェブで1500字前後)の中で最大限の表現効果を追求することにある。
この制約が比喩の多用を促し、「経済の体温計」(日経新聞)のような定型表現を生み出した。
「具体例(30%)→データ提示(25%)→比喩(20%)→結論(25%)」
①擬人法(「円が踊る」)、
2000年代以降は、
といった読者参加型の手法が増加している。
特にYahoo!ニュースのコラムでは、
本文冒頭に読者アンケートを組み込む「インタラクティブ型」が2018年から導入されている。
公式報道では扱えない市井の声を拾い上げる機能を果たしてきた。
実際に地方自治体の政策変更につながった事例が複数報告されている。
近年では、毎日新聞「発言」欄が東日本大震災後の被災地ルポを継続的に掲載し、
コラムは教養主義から大衆文化への橋渡し役としても重要な役割を担ってきた。
2010年代には、
産経新聞「産経抄」が日本の伝統工芸職人を紹介するシリーズを展開、
2023年、
朝日新聞社はAIコラム生成システム「COLUMN-BOT」を試験導入し、
感情分析アルゴリズムを組み込んだ「共感型AI」の開発が進められている。
一方で、
2024年の読売文学賞では初めてAI生成作品がノミネートされる事態が発生した。
読者の閲覧履歴に基づくパーソナライズド・コラムが一般化している。
ユーザーの位置情報・検索履歴・心拍数データ(ウェアラブル端末連動)を分析し、
これに伴い、
職能の変容が進んでいる。
その形態は変化し続けているが、
今後の課題は、
AIとの協働の中でいかに人間らしい洞察を深化させられるかにある。
次世代の「知の柱」としてどのような発展を遂げるか、
文通相手を探していたところ、1914年(大正3年)に出版された少女向け雑誌『處女』(処女の旧字)を発見した。
この雑誌は大正時代の少女が読者投稿を行うものであり、文通相手の募集も紙面で行われていたのだ。
しかし文通を出そうにも紙面に住所を書いている少女たちはもうほとんどが死んでいるので、しかたなく1914年『處女』9月号に掲載されていた投書を読んでいたところ、ある女性が「女にもてない夫を持つた私の感想」というものを投稿していた。
最初は単なる愚痴かと思ったが、読み込むうちになんかなんだか気分が落ち込んでしまった。
とりあえず書き起こすことにする。
私がこの家に嫁いでからもう今年でちょうど5年になります。夢のように過ぎた5年の間には可成(かなり)色々な事がありましたが、楽しいことも悲しい事もみな断片のことであって、私の心に根深く止まっているというようなものは殆どなかったのです。
根本の気に染まない所へ嫁いだということは、いくら考えても私自身ではどうすることも出来ないものと、目をつぶって諦めておりました。
まったく迂闊なようですが、自己ということや、結婚、愛情などということについて考え始めたのはつい近頃のことなのです。
ぼんやりと無心なうちにまかせてきた今までの私が嫌に感じたことを申してみますと、今なお続いている夫の道楽ということでしょう。
しかし私がそれを嫌に感じるというのは、世間普通の人のする嫉妬という意味では無く、道楽をしている独りよがりの夫が、いかにも気の毒に思われるからなのです。
夫が遊びだしたということに私が気づいたのは、嫁いでから2年ばかり後のことでした。あるいは以前から遊んでいたのかもしれませんが、私があまり注意して見なかったせいか気がつきませんでした。
世間にもままある物質上から、余儀なく家庭の犠牲になったというような嫌な性質のもとに嫁いだ私は、夫に対してまるで愛情はありませんでした。
したがって、家庭というものがいかにも潤いのない、しぱしぱした、無趣味なもののように感じられて、新婚当時だれしもが味合うような、スウイートな気分は味わずにしまいました。
そんなわけで、私が夫に対して執着心がないから、夫が道楽をしても冷静な態度を持って客観することができたのかもしれません。
夫が私をもらった動機というのは、ある場所で初めて私に会ったとき、どこが気に入ったのかということを、非常な熱望を持って親たちに申し込んだのです。そうして学位も何もない夫は、金の地力をもって私をめとったのでした。
しかし趣味もない粗暴な性質の夫の愛は一時的のものであって、年の経つにつれて平凡な形がつまらなくなり、少しずつ花柳(かりゅう。現代でいうとキャバクラか)の巷に恋をあさるようになりました。
しかし女房にさえ愛されない男が、浮気な社会のひとたちに、どうしてもてましょう?
いつも無駄にお金を使うばかりで、心から充実した気分になったことはないようです。ときどき、可成(かなり)のぼせていることもあるようですが、いつも相手に反応がないので結局は失望に終わっているのです。
そしてお金があるという点からかもしれませんが、なかなか望みが高く、中やそれ以下の女は気に入らないで、いつも名の売れた、ずいぶん良い方の席にも出るような女にばかり目をつけているのです。
そういう女が、どうして生半可な財産家等を相手にするのでしょう?
もてるどころか、口をかけて一寸でも顔を出してくれれば上の部なのです。
まして、風彩の上がらない、青白い顔をした、顔の狭い痩せた、女性のような型の人、神経質でこせこせと、待合の女中らでさえ困るほど細かいことに気がついて、そのくせあまり思い切りのよくない、ほとんど振られる男の資格を完全に備えているような人が、どうして女にもてましょう?
しかし割合に罪がないとでもいうのでしょうか、芸者らが誰に対しても使うような、有りふれた常套語をさも自分にばかり殊別(格別)に言われたように、欣々然(いかにもうれしそうに)としているのです。
そして私が女の話や待合(芸者と遊ぶところ)の話をされても平気でいるものですから、すべて私に話してしまいます。
先日も例の如くお酒くさくなって帰ってきて
「おい、後龍(※)が俺の顔を見て、非常に良い毛だと言っていたよ」
(※おそらく当時、日本一の美女と言われた芸者・萬龍であると推測できる)
と言う。私はそれを聞いて赤くなってしまいました。
なるほど主人の顔の毛はいいに違いありませんが、頭の鉢の割合にバカに毛ばかり沢山あるので、ぴったりとくっつかず、ちょうど30年ばかり前、いまだに髪を分け始めた頃の人のような妙な格好をしているのです。
人の悪い芸者が皮肉に冷やかしたのだと思うと、喜んでいる正直な夫の顔が、ほんとうに気の毒に見えます。
また道楽する人には似合わず、自慢そうに女房を連れて歩くのが好きなのです。
芸者らが見て、そういうことは鼻つまみなことだと知っているのか知らないのか、私を着飾らしては、芝居だのカツフエー等に連れて回ります。
そしてときおり知った顔の芸者たちが挨拶をしますと、いかにも得意そうなのです(私に対しても)。
それも男の虚栄心の一つかもしれませんが、側から見てもあまりいいものではありません。
いつでしたか、夫に連れられて芝居に参りました時、二、三人の一流どころの綺麗首がきていて、夫に向かって挨拶をしたが、すこし夫が横を向いた時、三人で首をすくめて、嫌な笑いを漏らしていました。
ふとその態度が目に入った私は、思わずカッとなって夫のそばを離れてしまいました。そして並んで芝居を見ているのがたまらなく嫌でした。
だいたい、夫にはちっとも友人というものがいないのです。ある私立の専門学校を出たのですが、同窓の人とか、気のあった友達というものはほとんどありません。
こう友達などが少ないというのも、つまり夫があまりにもわがままで、そして神経質な利己主義な人を毛嫌いする癖があるから、どうしても誰と交際しても長続きがしないのでしょう。
男に嫌われる人は、やはり女にも愛されません。
ただし金銭の前には何物も無い花柳社会のことですから、夫の背後に光っている黄金の前に、いつどんな悪どい手段を講ずるものができるかもしれません。私は胸に企みのあるような者は、夫のために近づけるほかないと思っております。
夫とはぜんぜん趣味も性格も合わないし、また夫として手頼る(たよる)にたるような敬慕すべき人格のある人とは思われないから、1人で食べてさえ行かれれば、そっちを望んでいるのです。
しかし私は今すぐここを出なければならないほど自分に差し迫った事情もないし、また今出てはずいぶん惨めな暮らしをしなければなりませんから、こうして安全に生活の保証を得ているうちに出来るだけ自分を修養し、いついかなる境遇の変化に遭遇しても狼狽えず、静かに自分の希望に向かって實行(じっこう)出来るように準備をしようと思っております。
それですから、とにかく今まで同棲した夫のために、また一度名乗った●●家のために、物質ということを抜きにして、心から夫を愛するような女を、夫のために欲しいと思っております。
しかし近頃は以前に比べると遊び方も円熟して来たし、物質によって得た愛情は長続きしない虚偽なものであるということを覚えてきたようですから、早晩気にいるような間違いのない、實(じつ)のある女を得られるであろうと喜ばしく思っています。
(終)