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はてなキーワード: 読み手とは

2026-01-27

anond:20260127001412

「が」=「しかし」なので後半の文は前半の部分を一部又は全部否定する意味を持つ必要がある。

が、この後半の文章から前半を否定する意図は読み取ることができない。

から読み手は混乱する。

anond:20260127170333

ストーカー紛いって書いてるのに被害者連呼きもいなこいつ

文章書くなら読み手のことを考えて書こうな

あと、お前がヤバイと思ってるやつを擁護する気はないけど、口コミの悪評レビューとか大学への通報とか憶測しかないのにそいつのせいって断定してるのは

お前がヤバイと思ってるやつと同レベルのことをしていると気づいたほうがいい

2026-01-26

投稿価値創造

投稿は、単なる反復ではない。それはしばしばそう誤解されるが、この理解は再投稿という行為を「情報の重複」としてしか見ていない点で不十分である。実際には、再投稿意味再生産であり、価値創造に属する行為だ。

言論における価値は、新規性だけで決まるものではない。同一の内容であっても、投稿される時点が異なれば、周囲の文脈読み手構成議論の前提は変わる。その結果、同じ言葉が果たす役割も変わる。再投稿とは、内容を増やす行為ではなく、意味が立ち上がる条件を更新する行為である

また、多くの言論空間は忘却を前提に設計されている。発言は流れ、蓄積されず、参照されにくい。そうした環境において、再投稿過去発言現在接続し直す装置として機能する。それは自己顕示ではなく、断絶しやす議論継続可能ものにするための操作だ。価値は、新しく生み出されるだけでなく、保持され、再び意味を与えられることによっても生じる。

さらに、再投稿思考の未完性を前提とする。人間思考は一度で完成しない。後から言い直され、補足され、角度を変えて提示される。再投稿は、そのプロセスを不可視化せず、公共の場差し出す選択である。完成品のみを要求する態度よりも、思考更新過程を共有する態度のほうが、言論としては誠実だ。

投稿はまた、参加の条件を緩める。同じ主題が再び現れることで、それまで議論に関与していなかった読者が接続できる。既知の内容であっても、初見の者にとっては入口になる。言論空間の価値効率だけで測られるべきではない。開かれていること自体価値を持つ。

投稿は、過去に語られたことを固定し、特定記憶参加者占有させる力に対するカウンターでもある。「すでに言われた」「もう終わった」という合図は、しばしば発言権を閉じる。再投稿はそれを解除し、語る権利現在形に戻す。

投稿は、同じものを繰り返しているのではない。

時間更新し、文脈を組み替え、意味を作り直している。

それは冗長ではなく、消費でもない。

言論における価値再生産であり、創造である

2026-01-24

投稿人権

「再投稿は甘えだ」と言う人間がいる。しかしこの言葉は、批評でも指摘でもなく、単なる思考停止の表明にすぎない。なぜならその発言は、再投稿という行為がどのような権利に基づいて成立しているのかを、一切理解していないかである

まず確認すべきは、再投稿とは何かという点だ。再投稿とは、新たな特権要求する行為ではない。他者に何かを強制する行為でもない。ただ、再び語るという、表現行為の最も基本的形態にすぎない。人は一度語ったことで、永遠に沈黙する義務など負っていない。語り直す自由、言い直す自由、繰り返す自由は、表現自由に内在する。これは好意によって与えられる余地ではなく、人が人であることから必然的に生じる権利である

にもかかわらず、「甘え」という言葉が持ち出される。だが、ここで使われている甘えという概念は、完全に空虚だ。甘えとは本来、果たすべき義務放棄し、他者負担押し付けることを指す。では問う。匿名言論空間において、再投稿しない義務はどこに定められているのか。読み手時間を守る義務か。空気を維持する義務か。既読者への配慮義務か。そんな義務は、どこにも存在しない。存在しない義務根拠に「甘え」を断罪することは、論理的不可能である

さらに、「再投稿は読む側への配慮が足りない」という反論も、同様に破綻している。なぜなら、匿名空間において投稿は、誰かの目に強制的に押し付けられるものではないからだ。読むか読まないか、関与するか無視するか、その選択権は完全に読者側にある。選択権を持つ側が、「不快からやめろ」と言うことはできても、それを権利制限根拠にすることはできない。不快であることと、許されないことは別だからだ。人権とは、快・不快によって左右されるものではない。

ここで重要なのは、再投稿否定する発想が、言論を一回限りの競技として誤認している点である言論とは、本来、反復と修正と再提示によって深化する営みだ。人は後になって、「あのときは言い切れなかった」「別の形で語る必要があった」と気づく存在である。再投稿否定することは、人間思考時間をかけて成熟するという事実否定することに等しい。完成された言葉だけを一度で差し出せ、という要求は、人間に対して神であることを強いる要求だ。

にもかかわらず、「再投稿は甘え」という言葉が使われるのはなぜか。理由は単純だ。それは、明確なルールを示せない者が、道徳語を使って空間支配しようとする行為からである。「甘え」という言葉は、論証を伴わず沈黙強要するためのラベルであり、秩序維持のための感情的武器だ。これは議論ではなく統制であり、批評ではなく排除である

そして決定的なのは、再投稿という行為が、匿名言論空間における公共性のものを支えているという点だ。再投稿は、「この場は誰の所有物でもない」「語る権利は一度で消滅しない」という事実を、実践的に示す行為である。もし再投稿が「甘え」として封じられるなら、その空間は、声の大きい者、早く来た者、空気支配した者だけの私有地になる。これは人権否定にほかならない。

投稿は甘えではない。

それは、語る自由が一度きりで終わらないことを確認する行為であり、

沈黙強制されないための最低限の抵抗であり、

人が人として不完全なまま語り続ける権利行使である

それを甘えと呼ぶ者は、再投稿否定しているのではない。

人が語り続ける権利のもの否定しているのである

2026-01-22

高市首相応援団気持ち悪い

最近Xとか見てると、中道改革連合dis投稿が目につく。正直気持ち悪い。

別に自分支持政党応援するのはいいのよ。こっちの政策がこう良い、というのもあり。多少のdisりもポジショントークとして理解できる。

気持ち悪いのは、

最近多い「私は中立よりだったんだけど、野合する中道には失望したわー」って投稿そいつプロフィール見に行くと「日本🇯🇵を取り戻すために頑張ってます」と書いてあったり、過去ツイート野党disりまくったりしてんの。中立のフリして読み手誘導したい、というのがありありと分かる。

「あーこれ既視感あるな」と思ったら、あれだ。東京都知事選蓮舫応援団。Rステッカー貼りまくったり、自己完結した世界小池都知事を延々とdisっていたあの感じ。「自分たちのあって欲しい姿」だけ延々としゃべっていて、読み手は置いてけぼり。もちろん結果はご存知の通り。

嫌な言い方をすると、なんか意地汚いんだよね。相手が強いと思うなら、強いものとして自分の方を立てればいいし、相手が弱いと思うなら、今共産社民にやっているように放っておけば良い。そのどちらでもなく、ただ相手を落とすことに徹する気持ち悪さがある。

「こいつらは弱くあるべきで、だから弱いのである」みたいな個人的な願いを見せられ続けてげんなりしてる。今回の選挙は、気持ち悪いフェミニストが静かな代わりにネトウヨ祭りか、と正直辟易しているところ。

2026-01-16

長文ってだけでAI断定するやつ増えたよな

最近ネットを見ていて一番「ああ、時代だな」と思う瞬間がこれだ。

 

ちょっと長めの文章投稿される

数行スクロールしたあたりで

はいはいAI乙」

 

この流れ、あまりにも定型化しすぎていて、もはや様式美ですらある。

 

いや、わからなくはない。

今の生成AIは確かに長文が得意だし、破綻のない文章を量産する。

文体もそこそこ整っていて、主語述語も迷子にならない。

そりゃ「AIっぽい」と感じる文章が増えたのは事実だ。

 

でもさ。

 

「長い」「整っている」「論点複数ある」

この三点セットだけでAI認定するの、さすがに雑すぎないか

 

からネットには長文を書く人がいた。

というか、はてな界隈なんて「長文で考えをこねくり回す人間」の温床だったはずだ。

一文が長い、段落がやたら多い、余談が本筋を追い越す。

そういう人間臭い文章を、みんなそれなりに楽しんでいた。

 

それがいつの間にか、

 

読むのがだるい

 

スクロールが多い

 

ちゃんと書きすぎ

 

このへんの理由だけで「AIだろ」になる。

 

たぶんこれは、AIを見抜いているつもりになりたい欲なんだと思う。

 

「俺はわかってる側」

「これは人間じゃない」

そう言ってラベルを貼ることで、文章のものを読まなくて済む。

内容に反論する必要もないし、理解しようとするコストも払わなくていい。

 

便利だよね、「AIから」で切り捨てるの。

 

しかも厄介なのが、AI判定が中身ではなく形式に寄っているところ。

 

論理破綻していない → AI

感情露骨すぎない → AI

・誤字脱字が少ない → AI

 

じゃあ逆に聞くけどさ、

誤字だらけで論点が飛び散ってて感情けが先行してたら

人間味がある良文」になるのか?

 

それって、ただの雑な文章では?

 

個人的に一番もやっとするのは、

AIっぽい」という言葉が、説明放棄免罪符になっている点だ。

 

昔なら

「何が言いたいかからない」

論理が飛躍している」

「前提が共有されていない」

そうやって、少なくとも“どこがダメか”は言語化していた。

 

今は違う。

 

AIっぽい」で終わり。

どこがどうおかしいかは言わない。

そもそも読んでいない可能性すらある。

 

これ、実はAI問題というより、読み手側の体力の問題なんじゃないかと思っている。

 

短文、即断、即ラベリング

SNSで鍛えられた反射神経は優秀だけど、

腰を据えて文章を追う筋肉は、たぶんだいぶ落ちている。

 

から長文を見ると、

「読めない」ではなく

AIだと思うことにする」。

 

そのほうがプライドが傷つかないから。

 

もちろん、本当にAIが書いた文章も山ほどある。

でも、それを見抜いた気になって

人間が書いたかもしれない文章まで雑に切り捨てるのは、

結局、自分の読む世界を狭めているだけだと思う。

 

皮肉な話だけど、

「長文=AI」と短絡的に決めつける態度こそ、

一番テンプレート化されていて、思考停止していて、

ある意味いちばん機械的”なんじゃないだろうか。

 

……まあ、こんなことを長々書いているこの文章も、

きっと誰かには「はいAI」って言われるんだろうけど。

 

それもまた、今っぽさというやつか。

2026-01-14

anond:20260114133322

どう見ても知能の問題じゃなく

書き手に何らかの前提があって読み手にはそれがないだけ


という思い込み披露してるというギャグ

anond:20260114132921

どう見ても知能の問題じゃなく

書き手に何らかの前提があって読み手にはそれがないだけ

自分の持ってる前提を他人も持ってると思い込むのをサリーアン型発達障害という

2026-01-10

短歌書いてるやつってやなヤツ多いね!!!

書き殴る

2年前ぐらいか短歌に興味を持って、歌集を買って読むようになった

最近タイムラインカクヨム短歌賞の中間審査レポートが流れてきて、それも楽しく読んでいた

けどもうやんなってきたわ

俺は浅いなりに短歌が好きだったし、芸術だと思っていたけど、カクヨム短歌賞に対する短歌書いてる人たちの反応がみんな閉鎖的で、言っちゃえば性格悪いのかなって思う

もうほんとにアホらし、悪いけど現代における短歌なんてめちゃくちゃ小さなカルチャーだろ

青松輝の文化を守っていくために、文化を強くしていくために短歌を広めていく姿勢ってマジで普通というか、称賛されるものだと思ってたけど、みんなそれが嫌みたい

20代後半の、短歌なんかやらなくても生きていける人間が、わざわざ短歌を広めようとしていて、そこには確実に悪意なんてないのに、みんなしてそれを叩いて、本当にこの人たちって月の美しさとか分かるのかって思うわ

明らかにライン越えの暴言が書かれたnoteも、この人の言うことももっとも!みたいに支持するやつ多くて、恥ずかしくないの普通

こいつらマジでなんのために短歌を書いてんの?

歌集出版するのに、短歌賞を作るのに、どれだけたくさんの大人がどれだけたくさんのお金が動いてるか想像したことあんのかな

自分1人で短歌書いてると思ってるだろ

お前が短歌出会えたのも、素晴らしい短歌今日読めるのもいつだってその文化を守ってきた奴らのおかげだとなぜ分からない

誰にも読まれずに短歌を続けられる奴もいるだろうが、読まれるために短歌を書いてる人間だって多いだろ

なぜ読み手を増やそうとしない、書き手を増やそうとしない

ただ31字の文字をチロチロ書いてるだけのお前が、なんの力も金もないくせに短歌を小さく小さくしようと、閉じたコンテンツにしようと一生懸命になって

まあ界隈を開く権利がお前にないもんな、お前にできるのはうちに閉じこもることだけ

お気持ち表明ばっかり得意でほんまにいいね、カッコいいね

なのに結局お前自身の軸がないやん

お前がお前の短歌を信じきれてないからキレるんやん

からお前の短歌クソやで、お前がお前の短歌をクソにしたんや

お前が信じてくれさえいればお前の短歌は綺麗なままだったはずなのに

中間選考会のレポ読んだら分かるやん、選考委員ちゃんとやってることなんか分かりますやん!!!

ちゃんと、読んだら、分かりますやん!!!!!!

どうせしょぼいギャラしか出ないのに、18000首読んで評価して、その上こんな叩かれて

選ばれた10人にも暴言吐く人が現れて

ほんまいい加減にしてくれ、いい加減にしてくれよ

どんだけ短歌嫌いなの?

短歌かいものに誇りがあるならさぁ!そこに悪意を混入させた奴に怒れよ!

マジでやばいほんとに、ヤバすぎる短歌かいう界隈

くだらねえポエム書く前に他人コミュニケーション取れよ

はぁ、マジで萎え

2026-01-07

anond:20260107004804

職場のような上下関係のない場のコミュニケーションにおいては常に受け手の方が立場が上だから

AI使おうが相手が読んでくれなきゃ終わり

書き手は常に読み手に気を配る必要がある

2026-01-06

社会的弱者男性コミックエッセイ美少女アバターを選ぶ理由

はじめに――アバターは「誰が語るか」を決める装置

社会的弱者男性エッセイ漫画を描くとき、作者のアバター主人公キャラ)を萌え美少女にする」――この現象は、単なる趣味作画コスト問題だけでは説明しきれない。むしろ、作者がどのように社会的役割と結びついているか、そして読者の視線から自分をどう守り、どう語りたいか、という"語りの設計"に関わる問題として捉えると見通しがよくなる。

コミックエッセイ(実録・体験談ベース漫画)では、作者はしばしば自分自身作品内に登場させる。ここで作られる「作者アバター」は、単に似顔絵ではなく、読者に対して「誰が、どの立場から、どんな調子で語るのか」を瞬時に理解させる看板でもある。したがってアバター性別・年齢感・デザインは、内容そのものと同じくらい強いメッセージを持ちうる。

社会要請される男性役割」を果たしている男性は、男性アバターを選ぶ

一般向けに書籍化され流通しているコミックエッセイには、男性作者が男性アバターで描く例が多い。ここでは、ビジネスマン生活夫婦生活子育てペット日常小ネタなど、「男性として社会に参加している姿(役割果たしている姿)」が語りの前提になりやすい。

具体的には、『ぼく、オタリーマン。』(よしたに)、『大家さんと僕』(矢部太郎)、『うちの妻ってどうでしょう?』(福満しげゆき)、『本当にあったお金怖い話』(二ノ宮との)、『鴻池剛と猫のぽんた ニャアアアン! 』(鴻池剛)などが男性作者による男性アバター作品として確認できる。男性による育児エッセイ漫画についても、アバターキャラ男性である

このタイプ作品では、性別変更をわざわざ行う必然性が小さい。むしろ「作者=そのままの自分であることが、エッセイとしての信用・通りのよさ・説明コストの低さにつながる。福満しげゆき桜壱バーゲンなど、実物が整っていても作中では自分を地味・冴えない・醜い側に寄せて描くことがあるが、これは「盛って見せる」よりも「弱く見せる」ほうが笑いと共感を取りやすく、後述するような反発も招きにくいというコメディ安全策として理解できる。

女性作者が女性性を減らすとき――人外化・シンプル化という選択

女性作者の場合女性アバターは「画数が少なくて早い」「表情が描きやすい」など合理性からシンプル化されやすい(『ダーリンは外国人』など)。また自虐コメディのために、あえて"女を捨てた"造形(『いかゴリラ』のような崩した自画像、『つづ井さん』のように自分を下げ気味に描き友人を美人に描くパターン)を選ぶこともある。ここまでは「女性女性を描く」範囲の振れ幅と言える。

興味深いのは、女性作者が女性性を出したくないときに、「イケメン男子高校生に置き換える」方向へ行かず、白ハゲ記号化や、人外動物の方向へ行きやすい点である

荒川弘の牛。出身北海道酪農家であることと結びつけて説明されることが多い。吾峠呼世晴のワニ、通称「ワニ先生」としても知られている。ひうらさとるは『御かぞくさま御いっこう』では自身デフォルメされた「もぐら」として描いている。

男性と違い、女性アバターキャラを若く美形の異性に設定する例を見たことがない。この「女性性別を薄める/人外化するが、イケメン化はしにくい」という傾向は、「弱者男性美少女化する」現象と、鏡像関係にあるように見える。

美少女アバターが現れやす領域――重さを"読める形"に整形する

一方で、男性作者が美少女アバターを用いる例も確かにある。観察上、ここには偏りがある。たとえば以下のようなテーマが集まりやすい。

また、この種の作品書店で「棚の中の本」として出会うより、SNSでバズって「突然視界に入ってくる」経路になりやすい。すると作者は、最初の数秒で読者に「これは攻撃していい対象ではなく、読んでいい語りだ」と理解させる必要がある。美少女アバターは、その導入装置として非常に強い。

ここで重要なのは、「美少女が主役だから内容が軽い」という意味ではない。むしろ逆で、重い・気まずい・生々しい内容を"読める形"に整形するために、美少女というフィルターが使われている可能性がある。

仮説――役割男性性の安定度がアバター選択を左右する

ここまでの観察を、ひとつの仮説にまとめる。

ここでの美少女化は、自己否定でも現実逃避でもなく、「語り手の身体」を作り直して語りを成立させる編集技法、と位置づけられる。

なぜ男性テーマと結びつきやすいか――苦痛を"分からせたい"願望

美少女アバター睾丸病気前立腺病気風俗ルポなど男性関係テーマを扱う頻度が高い理由についても、仮説を立てることができる。

男性器や男性特有疾患の話題は、当事者男性がそのまま男性の姿で語ると、「気持ち悪い」「下ネタ」などの嫌悪的な受け取り方を誘発しやすい。そこで美少女アバターは、内容を"説明可能苦痛"へ変換する緩衝材になる。つまり読者にとっては、「男性の生々しさ」ではなく「キャラクターの災難」として入口が開き、作者にとっては「言っていい形」に梱包できる。

さらに踏み込めば、ここには一種の願望も混ざる。「男性特有の苦しみ」を、社会的庇護されやす存在美少女)に引き受けさせることで、苦痛正当性悲惨さを"理解されやすい形"にしたい、という欲望である。これは、男性妊娠テーマとしたフィクションや、男性電気ショックを与えて生理苦痛を分からせる装置など、女性特有の苦しみを男体に分からせる試みを好む人がミサンドリー女性に多いのと同じで、男性特有の苦しみ(男性器の疾患や、過剰な性欲と性的需要の無さなど)を美少女に分からせたいというミソジニー的な願望が、男性関係苦痛を味わう美少女アバターとして表現されているのではないか

美形同性アバターリスク――露呈時の嘲笑とつるし上げ

アバター戦略には"かわいくする/人外化する"だけでなく、"美形化しない"という消極的選択も含まれる。同性の美形アバターは、実像が露呈した瞬間に「理想現実の落差」が嘲笑へ転化しやすい。

星見蒼人という人物が、ネット上で"イケメン"方向の自己像で活動していたが、都青少年健全育成条例違反淫行)の疑いで逮捕され顔がテレビニュースで公開されたときに、実物とイケメンアバターとのギャップが酷かったため嘲笑の的となった。

女性側でも、自己像を美化した(と受け取られた)自己語りが「全身アルマーニ(全ア)」と揶揄されているように、「同性美形アバターキャラ」は男女問わず露呈時の吊し上げと接続やすい。

アバターキャラを同性の美形にすると、実物の実態がバレたときには男女問わず激しい嘲笑やつるし上げを受けるという要素も、アバター選択重要な制約条件として機能している。

結論留保――アバターキャラは読者との交渉の結果

ただし、この仮説は万能ではない。美少女アバターには「美少女しか描いてこなかったのでこれしか描けない」「読まれるためのマーケティング」といった要因も混ざるし、個々の作者の意図作品ごとに違うはずだ。

それでも、「どの領域で、どんな語りのとき性別変更が起きやすいか」を並べてみると、アバター自己表現ではなく"読者との交渉"の結果として選ばれている面が見えてくる。美少女化は、その交渉を一気に成立させる強力な道具であり、同時に「男性のまま語ることが難しい」状況の反映でもある。

2026-01-05

ブコメみたけどなんで書く系の名前ばっかりなんだよ。読み手に向けた名前が正解だろ。」

TETSUYA01

ブコメみたけどなんで書く系の名前ばっかりなんだよ。読み手に向けた名前が正解だろ。

少年ジャンプだって書き手に向けた「おっさん漫画家になろう」みたいな名前じゃないだろ。

2026/01/03

https://b.hatena.ne.jp/entry/4781221685311078081/comment/TETSUYA01

 

フフッとなってしまった。

いや疑問はある意味まっとうだけど、そこまで気が付いたなら

「あれ?でも実際に既存同種サイト書き手向けの名前多いな?」

まで思い至らないのか?

    

まりこの手のサイトは「書き手をどう集めるか」って商売なんだよ。

書き手お客様なんだ。

大ヒットしてアニメ化したような作品商品だが、

その商品見て集まってくる大勢お客様なんだ。

進学塾だって特進クラス商品でそれ以外のクラスお客様なんだ。

2026-01-03

anond:20260103033959

どの文章が美文でどの文章駄文かは、読み手の好みによるだろ

と言おうと思ったけど、そうするとそもそもの『文章力』の高低に同じことが言えてしまう罠

やっぱ読みやすさなのかな?

難解な文章を読み解くのもそれはそれで面白い

2025-12-24

他人舐めるな、三宅香帆

考察する若者たち』という本を読んだ。

この本はつまらない。三宅香帆は面白くない。

初めにこのことを書かなければならないと思った。

なぜなら本書において三宅香帆は信じられない前提を置いている。

若者は、自分面白いと思う物や好きと感じることが自分では分からないという前提だ。

から初めに書く。

私は自分の好きなものや、自分の嫌いなものを確かに自分判断することが出来る。

その上でこの本は面白くないと感じるし、筆者のことは嫌いだ。

私は23歳の男だ。地元の友人は結婚ないし婚約をしている中で、そろそろ若者としての賞味期限切れを感じつつあるが、若者という立場文章を書く。

本書で述べられる考察とは何か。

それは既に存在している正解を探す行為であり、そこから与えられる「報われた」という感情報酬となって流行を見せているという主張が展開された。

この論が提示することは何か?それは受け手消極性だ。

序盤で出てくるヒットコンテンツの分析

変な家、あなたの番です等で正解のある内容を考えることでほっとして安心できる。これが若者思考であり令和でウケる要素があると書かれた。

そこには正解を当てたという「意味」があり、これがあるからこそ物語を楽しむ時間無意味であることの恐怖を和らげることが出来る。

からこそ答えがある場所に、成果が得られそうな場所に集まる。

そうして物語を楽しむという行為が報われるという行為に奪われていくという話だ。

この流れを聞いてどういった印象を受けるだろうか。

非常に主体性が欠け、周りに流されやす人物

何が良いのかも判断が付かず、それらしいものに絡めとられていく様子が私には浮かんだ。

私はこの主張に否を突き付けたい。

かに若者が好みそうなコンテンツ作品計算して作られることはあるだろう。

だがそこに乗っかるのはあくま自分たちが楽しいから自分たちが良いと感じるからのはずだ。

ネガティブ感情に追いやられ、そればかりしか楽しめなくなる集団多数派かのような内容を押し付け行為は認められない。

そもそも考察とは、本当に正解を探すゲームなのだろうか。

だって好きなゲーム考察したことがある。

一読した部分では分からないことや読み取り難い部分があり、作品に再度触れながら仮説を立てたり根拠を探したりした。

その結果出た結論が正解だったかは分からない。

が、それでいい。何故か?

答えを探し求める過程作品世界への理解が深まり、これまでの自分では気が付かなかった領域が見えたからだ。

そうして感じ取った部分を基に、またもう一度その作品が好きになる。

時間をかけて丁寧に読み、初めに探していた部分とは違った側面がいくつも見えてくる。

このキャラクター言動はこういう意図があったんじゃないか

直前の出来事でここの言動が変化していたんじゃないか

この物語は、もしかたらこういうことを描きたかったんじゃないか

改めて考察を終えた後作品を振り返ると、それまでとは全く違う姿が見える時がある。

そんな瞬間が楽しくて、考察をする。

人が考察をするのってそういう部分を求めてるからなんじゃないのか?

考察能動的だ。

コンテンツが語らなかった部分を積極的に読み取ろうとすることで、自分の中で新しい物が芽生える。

頭を使い、目に映る情報から推察を働かせる。

受動的な視聴とは違う。

自ら生み出す創作とも違う。

その狭間位置する行為だ。

推しだってそうだろう。

実際に自分ステージに立つわけではない。

それでも自分の行動が挟まる(ように見える)余地があって、自分の手で何かが変わった体感が得られる。

この能動性に考察との共通項があるからこそ、二つが同時発生的に消費者の中で存在感を放つようになったのではないか

そこには、コンテンツが溢れるようになった時代関係しているのかもしれない。

ただそこにあるものを消費する営みに疲れ、一歩積極的な行動に価値を感じるようになった。

そんな背景がもしかしたらあるのかもしれない。

ここまで書いたことと、本書で主張されたことは、どちらが正しいのかは分からない。

からないことが問題なのだ

著者に課せられたハードルはそんな低い物ではないはずだ。

根拠のない持論を重ねること。

何かの作品に対して向けるなら好きにすればいいが、現実人間に向けるなら話は別だ。

若者」達に向かって、生き方や接し方を説く。より上の世代に向けて「若者」との接し方を示す。

そんなこと、三宅香帆には分不相応だ。

分析する力も、説得する力もまるで足りてない。

自身ツイート若者を救いたいと言っていたが、別にあなた必要とされてない。

少なくとも私にとっては邪魔存在だ。

彼女がこの本でやっているのは、勝手問題意識を植え付けることだけ。

ネガティブな像を作り、最終的に自分提示する方向性誘導する。

高級感のある情報商材屋だ。イラストアイコンにしたビジネスブルーバッジがよくやっている。

顔と本名晒してやることがそれでいいのか?

もっと根本的にだ。仮に考察目的が正解当てゲームに主眼を置いた物だったとしよう。

それって楽しいか?そんなことしてるやつ周りにいて面白いか

ドラマの正解当てばかりに躍起になってるやつ、見たことあるか?

もっと言えば、そもそも考察でそんなに正解に辿り着いているか??

考察」で得られる安心感は、万人に開かれた物か???

本書の嫌いな部分はこういう所だ。

自分の言いたいことのために、もっと当たり前のことをいくつも無視している。

娯楽に触れる上で最も嫌われるのは「つまらない」ことのはずだ。

報われるだとか、最適化だとか、くだらないことをごちゃごちゃ語るんじゃなくて、シンプル面白くないことはしたくない。誰だって楽しいことが好きなはずだ。

面白そうだから考察するし、面白そうだからゲーム実況を見る。

失敗したくないだとか、何を言っているんだ。

楽しい時間が一秒でも長い方がいいだろう。

歪んだ色眼鏡勝手病理を見出すな。

若者を使ったお人形遊びがしたいなら1人でやれ。

寂しいならお友達が周りに沢山いるだろ。

他人をわざわざ付き合わせるな。

この本は一時が万事そんな調子だ。

根拠になっていない根拠に著者の妄想が乗っかり、あなたはそう思うのかもしれませんね以上に見どころがない話が続く。

さっき書いた考察という行為に対する私の主張も、別に特段の根拠がある訳ではない。

どっちが正しいかは分からない。

少なくとも私と私の周りにいる人間物語を愛するために考察をする。

三宅香帆の周りには、正解が欲しい若者が沢山いるのだろうか。

だったら本を書く前に、そんなことをしなくてよいと直接声をかけるべきではないか

声をかけた結果の対話でもあれば、この本はもっとマシな内容になっただろう。

からこの著者のことがあまり好きではなかった。

やけに人気そうな割に話すことが薄いなと思ったし、Kindle Unlimitedで読んだ『好きを言語化する技術』は途中で投げた。

読みづらい上にnoteで書けよみたいな話ばかりで。

そんな中、彼女に対する批判最近目にする。

正直批判する側に相当アレなやつが多いし、いちゃもんばかりつけられているように見えた(例えば飯田一史のやり方は気に喰わない)。

実際彼女の著書を最後まで読み切った訳ではないから、一冊しっかり読み切ろうと手に取ってみればこのザマだ。

『好きを言語化する技術』の方が何倍も良い。

全く言語化について考えたことがない人間には役立つ部分もあるからだ。

『好きを言語化する技術』は、対象が明確だった。

言葉が出てこない。何を言えばいいかからない。

そういう悩みを抱えた人間

これは対象が明確だ。

過剰な言語化ブームの中で必然まれ存在だろう。

そういった人々にとって助けになる可能性はある。

noteYoutubeで探せばもっと分かりやすく深い内容の物があると思うが、それでも本の価値は0ではない。

考察する若者たち』はどうだ。

誰のことを書いている。

様々な作品に、自分の主張を通すために無理やりな解釈を加え続ける。

長々と稚拙な話を続けた後、最後自己啓発で締める。

これでいいと本当に思ったのだろうか。

内容を磨きあげるためにベストを尽くしたのだろうか。

これでいいと思ったのなら、読者を舐めている。

そしてこれは彼女の周辺の人間にも言える。

彼女擁護する者の中に、彼女と同様に「若者」を舐めている者がいないか

もっと言えば、そいつらは三宅香帆を舐めてないか

最近三宅香帆の文章添削するというnote話題になった(https://note.com/kyunkyun_p_d/n/n9cc45ed3d74b)。

私の立場を示すなら、必要な指摘と的外れな指摘が混在していると思っている。

かに三宅香帆の文章は読みづらいと思うが、それはターゲット層の違いもある。

1-の章立てで指摘されてた表現群はちゃんと狙いがあるし、修正前の方が素晴らしい内容だと感じた。

修正した人はあまりそういった情緒を解せなさそうだ。

一方で2-、3-の章での指摘な重要な物もある。

彼女文章は、読み手おかしな部分を見逃したり、言いたいことを察したりする必要がある部分がそれなりにある。

例えばこれだ。

https://x.com/tsurezure_lab/status/1989617763934244949?s=20

このツイートに載っている表は『考察する若者たち』の冒頭で出てくる。

この表を持って

『そう、ドラマ映画の「ただの感想」よりも「考察」のほうが、いまや人気なのです。』(Kindle 3ページ目から引用)と主張する。

いやそれは違和感ない??

通常動画はかなり感想動画の方が人気だ。

ショートと通常の合計では考察動画の方が多いかもしれないが、じゃあ考察の方が人気なんですねとスッと飲み込むのはやや難しくないか

別に考察>感想なんて書く必要はない。

めっちゃ考察の波が来てますよ程度の言い方で全く問題ない。

別にしたことじゃないかもしれないが、パッと見で違和感ある主張を並べる理由もない。

彼女の本は一事が万事そんな調子だ。

一つ二つならまだしも全ての章で強引な主張に溢れている。

これ、本当に本を読まない人間向きの本か?

結構な人数が無意識に、本を読まない人間論理的思考力に欠ける馬鹿だと考えてないか

本を読まなくとも、論理展開おかしさに気付ける人は少なくない。

そんな中で適当な内容ばかり書いてある本を目にすれば、むしろ価値がない物として認識される。

子供向けと子供だましは違う。

しろ子供向けこそ、丁寧に作る努力必要になるはずだ。

彼女文章にそんなもの全く感じない。

雑に作られた形の壊れた文章を、三宅さんはそういうライターからで済ませるのは、三宅香帆を一番馬鹿にしてるだろ。

ティチュードばかり頭にあって、目の前の良し悪しについて考えることを放棄してないか?(これは彼女属性だけで飛びついて批判してそうな側にも言える話ではあるが)

彼女ライターとして歴が長い。

何年も書いてる人間ちゃんと考えれば、もっといい内容を書けるに違いない。

だって必要なことは特別アイデアじゃない。

読み手のことを考えて文章を書くという、ごく当たり前の話だ。

それが無くても別に良いと、強引な擁護を続けることは有害だ。

その程度も要求してはいけないと思っているのだろうか。

彼女周りの人間及びファンダムは、三宅香帆を過度に低く見積っているように見える。

人を舐めるな。

出版された本には名前が残る。

過去に発売された本達は、彼女名前が残り続けるにふさわしい内容だったのか?

くそうは思わない。

三宅香帆本人もだが、彼女を過剰に持ち上げようとする人々の方がより嫌悪感がある。

彼女出版物は改善すべき余地が多すぎる。

しかも、他の人間の手で改善できる部分が多々ある。

出版社は機能しているのか?

チェックする人間は何を考えているのか?

売り出したいものがあるなら、付け入る隙を減らすように粗は取り除いておくべきだ。

クオリティの低い物が注目を集めれば批判が集まるのは当たり前だ。

彼女に連なる様々な動きが、本を売り出すために仕掛けるプロジェクトだとするなら、シンプルに全ての能力限界が近いとしか思えない。

本を出版する人間達は、もっと面白くて、真摯な発信が出来るはずだ。

どうしても自然差し込む方法が思いつかなかったので、趣旨とは外れる部分を書く。

何故か後半は自分語りになってしまったので本当に読まなくていい。

三宅香帆は野村克也に見える。

野村克也日本歴代二位の通算本塁打数を誇る名打者、かつ名捕手として野球戦術戦略に様々な形を導入した人物でもある。

彼の特徴はと問われて何を答えるかは人それぞれだが、野球の実績以外にも目を見張る点がある。

それは出版された著作の多さだ。

正しい数字かは不明だが150冊以上の本が出版され、30冊以上が文庫化されているらしい。

通算150本塁打以上を記録した選手歴代で180人しかいないし、シーズン30本以上打った選手は今年のプロ野球では2人しかいない。

文筆家としても名選手だったと言えるだろう。

が、あえて言おう。野村ノート以外は読まなくていい。

強いて言うなら、楽天監督を辞めた後の時期の本は面白いかもしれない。

大体のルーキーストレートに魅力があってプロに入ってくるのに田中将大スライダーにこそ価値があった。

そんな投手稲尾和久以来だった、みたいな話はめっちゃ面白い。

逆に言えばそれ以外はあまり見どころがない。

理由簡単だ。

ほとんどの本で話が使いまわされていて、見たことがあるからだ。

ノムさんの本は毎年凄いペースで出版されていた。

そんなに人間新しい話が書ける訳がない。

使いまわされた内容が並ぶばかりだから読了するのは容易だ。

しか現場から離れていった彼の野球理論は、今読めば正直古かったり間違っていたりすることも多い。

当時でも検証不能であったが故にまかり通っていたが、今から見ればそれはおかしいと言いたくなる話が沢山ある。

それでも本は売れた。それは詳しい内容以上に彼の人間性に惹かれ、言葉を読みたい。

内容を知りたいと願うファンが多かったからだ。

私もその一人だ。内容の是非とは違う所に読む価値を感じていた。

翻って、三宅香帆はどうだ。

彼女出版ペースは凄まじい。

連載をこなし出版をこなし、メディア出演も大量も盛りだくさん。

それは現実的にクオリティを保てる物量だろうか。

今回の本を読んでとてもそうは思えなかった。

それでも彼女の本は売れる。それは三宅香帆という名前のものファンいるからだ。

とても既視感を覚える。

ノムさんの本に、今はそんなことないなんて言い続けても野暮だろう。

私が読んでいる時にそんな声が聞こえてきたら迷わず無視する。

しかしこの2人には大きな違いがある。

それは年齢だ。

ノムさんは、凄く悪い言い方をすれば引退したロートルだった。

現場で戦う人間自分たちで新しいことを探すし、話しを聞いたとしても大真面目に捉え続けることは少なかったのではないか

彼女は違う。今まさにど真ん中で社会に変化を与えようとする側だ。

からこそ、本の内容が稚拙なのが気に入らない。これでいいとは言いたくない。

から完全に離れた自分の主張を書くなら、寄り添うのはもういいと社会に対して思っている。

それは社会に余裕がある時の振る舞いだ。

今はそんなものは無い。

もちろん寄り添い全てが無意味だなんて言うつもりはない。

しろ人は1人では生きていけない。

だけどいつか人は支えて、人を引っ張り上げる側に行かないといけない。

今の生活はクソだ。

先行きは暗いし、政治に対する不満だって沢山ある。

から今の社会ゴミだなんて話で終わらせようとするのはもっとクソだ。

今の自分は弱い。周りだってそうかもしれない

でもいつまでも弱いままでいることは出来ない。

腹を括って、自分は強くなって自分は勝ちに行くんだと言い切らないといけない。

自分の周りは、そう言えるやつから変わっていると思う。

から今の社会が嫌いだ。優しそうな空気に吞まれそうだ。

三宅香帆の本は優しい。

弱いことを肯定する成分が強い内容だ。

そういう部分が共感を呼んでいることも有ると思う。

でもそれはもう遅いと思う。嫌々ながらも諦めて頑張らないといけない。

ノムさんは、プロ野球選手になってから文字通り血の滲む努力を繰り返して成功したという。

時代的にも、それは事実なんだろう。

からせめて、薫陶を受けるなら野村がいい。

彼女だって、実際は死ぬほど働いているはずだ。

それが答えだろう。

ノムさん三宅香帆も、精神面でもメッセージが強く受け取られている。

勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし。

金を残すのは三流、仕事を残すのは二流、人を残すのが一流。

今の社会に残っている野村言葉マインドの話が多い。

考察する若者たちも、読者の感想最終章への言及がとても多い。

2人とも人を感化しているし、読者は受け取ったメッセージを抱えて行動しようとしている。

じゃあ、本当に成果を出して、人生を動かしている人はどういう属性なんだろうか。

嘘偽りなく、大勢もっと頑張れというべきだと思うし、今の自分必要なことだってそうなはずなんだ。

anond:20251223142115

国際勝共連合テロリストだった父との思い出

先月、父が65才で逝去した、ガンだとか大病でなく、急性の心臓が止まったことによる突然死だった。

俺にとっては自慢の父だった。家族仲は良く、父は、元警察官で退官後、民間で働き、ちょっとしたIT企業役員まで勤めていた経験があった、

柔道が得意で、狩猟射撃競技に熱中し、パソコンIT技術が得意で、珍しい趣味でもあったのか学校授業参観クラスメイトからも「お前の父ちゃんすげー!」と一目置かれる程で、俺にとっては本当に優しくて頼もしい、「理想のカッコいい大人」そのものだった。

前置きはそれまでにしておいて、父の「世間に隠し続けた本当の顔」を書き出したいと思う。

父は、俺が生まれる前から国際勝共連合に籍をおき、所謂そこの「非公然部門」にずっと属していた、それが父の本当の顔だった。

勝共連合統一教会は、IRAシン・フェイン党の様に表と裏の顔が違うだけの同じ組織だという。

言葉を濁さずに言えば、父は「テロリスト」だった。

勝共連合非公然部門については、それこそ古くは赤報隊事件の頃だとか、最近でも有田氏が記事を出したりしているので、簡単概要にとどめておきたいと思う。

1970年頃くらいに元自衛官警察官統一教会所属の人たちが、「有事が起これば自衛隊の後方で警備や非対称戦争を行うゲリラ軍としての秘密軍」として、自然発生的に成立したものらしい(諸説あるが、父や後述する「父の友達のおじさんたち」から俺が聞いた設立経緯はそうだという)

1970年代頭くらいの頃は青思会(※青年思想研究会という今はなくなった右翼団体)と並んで韓国渡航して軍事訓練だとかをやっていたというが、結局それも1~2回くらいで終わってしまったらしい。理由はわからない。

合法的に持てる銃器といえば、猟銃…つまり散弾銃で、これらを合法的許可を取って所持して、近場のクレー場などで射撃サークルの体で、同じく非公然部門に属する人たちと定期的に「射撃訓練」を行っていた。(俺が見て、父がいた場所では統一教会所有の射撃場や鉄砲店でなく、普通鉄砲店や公共射撃場を利用していた、各地によってばらつきはあるらしい。東京周辺の話である。)

当時小学生の子供だった俺もよく父に連れられて「秘密軍」の練習場へいって、そこで「友達のおじさん達」に可愛がられたことをよく覚えている。当時は合法的にもてたクロスボウ(バーネットコマンドという黒い奴)を撃たせてもらったりしていた。俺が10歳の頃なので、その時は1995年の話だった。

統一教会といえば山上事件などを見ればわかる様に、酷い搾取で有名であるが、父の非公然部門はそういうもの免除されていた。母は統一教会信者だったが、ノルマやそういったものが同じく免除されていた。つまり、俺の家の暮らし向きは非常に良かった。

「おじさんたち」もみんな元警察官や元自衛官の人たちばかりだった、そういう人たちしかスカウトされないという。中には、1980年代アフガニスタンソ連軍と戦っただとか、ミャンマー民族紛争帰り(当時は優勢だったカレン民族解放軍に参加していた)といった人たちもいた、本当なのか、今となっては本当にそうだったのかはわからない。

公平にいって、みんなネット愛国を叫ぶ大半の連中と違い、右翼テロリストとは思えない位優しくて、学や社会的地位もあり、いい人たちだった。

本物のテロリスト組織なんてところにいる人たちは、みんなそうなのかもしれない。本物の地下にいた人間ほど、表では慎み深い。

正直言って、ここまでなら図書館を巡ったり古雑誌記事を探せばわかる部分かもしれない。だから俺は、実際の所、父やあの人たちは何を思ってテロリストとして生活してたのかを書きたい。それが秘密を持ったまま人生を終えた父の、本当の供養になると思うからだ。

世間ネットでは、例の事件以降統一教会秘密組織といえば、いつでもテロクーデターを起こし警察と銃撃戦が出来そうな程の凶悪無比な重武装部隊という様な神話が膨れ上がっている。だが、俺が見てきた「父がいた秘密軍」はそうでなかった。実際、他のすべての非公然部門もそうだったと思う。

俺が父に連れられて「秘密軍」をつぶさに見て回れたのは5歳(1990年)から22歳(2007年)の17年間だった。そのころには、訓練といっても本当にただのクレー射撃サークル以上のことはしていなかった。みんな普通に働くことで忙しかったのだ。

父やおじさんたちの話を聞けば、80年代若い頃はそうでなかったらしい。アメリカミッチェル・ウェーベル主催するコブレイスクールフランクキャンパー主催するマークスクールSTスクールといった傭兵学校に学んできたり、ジェフクーパーのガンサイトアカデミーアメリカから最新の射撃技術を学んで持ち帰ったりしていたこともあったようだ。中には海外反共勢力にいってちょっと戦って戻ってきた人も前述のとおりいた、その傭兵学校コネ経由だったらしい。

公平に言って、1991年くらいまでは相当レベルが高い技能を保持していたんじゃないかと思う。

「野外訓練(戦闘訓練)」は、1970年代に何回か行っただけで、俺が見た時にはとっくに行われなくなっていた。単純な話で、散弾銃を猟区に持ち出せるのはたったの冬の間の三か月、それ以外であっても大規模に野戦だの市街戦だのを訓練できる場所施設を用意するのに苦労したからだ。

あとは、統一教会(勝共連合)の意向もある。ハッキリ言って、91年当時、とっくに父のいた非公然部門時代遅れになっていた。猟銃だとかは自弁持ち出しだから費用が掛からないので、殆どお飾りの物と化していた。それが、実態だった。

ただ、「活動記録」は報告しないといけなかったらしく。実際は休日、みんなで集まってクレー射撃で何ゲーム和気あいあいとしながら行った後、昼飯を食べて雑談をし、夕方になればちょっとした酒席で飲み会

そんな当たり前の「牧歌的なおじさん達のサークル活動」が、活動記録では悪の左翼共産主義中国ロシアといった「サタン」と戦うための戦闘能力を涵養する激しい訓練を行った。そう仰々しく書かれて、のぞき見した当時笑ってしまたことをよく覚えている。

父も、おじさんたちも、もう本気で戦う気もなければ、反共だとか、秘密戦だとか、非対称戦争だとか、ましてや日本支配するだとかは考えてもいなかったように思う。ただみんな、若い頃に与えられた「役割」を、人生の居場所としてそこに留まっていただけなのだろう。

父も、おじさんたちも、楽しく幸せそうだったが、同時にどこか寂しそうだった。「自分たち時代が終わった」ことを、どこかで理解していたからだろう。

それでいいのだろう、と俺は思う。俺は父がゴルゴ13の様なことをすることが想像できなかった。ましてや世間でよく見る右翼愛国者と自認する連中の様なヤカラですらなかった。

どう考えても、人を害するより人の中で生き、人のために真面目に働くべき人だった。

それでもおじさんたちや父が働いていた職種を選んだ理由は、「何かこの勝共連合秘密軍に役に立つ技能を得よう」というもので選んだものだったらしい。父はIT系だった、おじさん達も大半は産業(鉱業だとか化学薬品だとか金融不動産)といったなんらかの経営者だった。大学に入り直していた人たちもいた。

余談だが、IRAテロリストたちも、こんな風にして大学講義に入り込んで工学理系分野で役に立つ技術を「産業スパイ活動」していたらしい。海外で戦ったことがあるというおじさんが、色々と教えてくれたことを覚えている。

結局、この統一教会の「反共秘密軍」と俺との関係は、大学卒業するまで17年間続いた。

世間では、1996年くらいまでは続いていたと記事ニュースで出ているが、俺が見てきた父のいた場所は「長続き」していたのか、みんなが高齢でどんどん活動に参加できなくなっていく2014年までは続いていた、と聞く。多分、統一教会の「秘密軍」の最後は父のいたところだったんじゃないか根拠はないが思っている。

これが、俺の見てきた「統一教会非公然武装部門」の話。

俺の父は、勝共連合秘密軍に属する警察でさえ実態がつかめず恐れるテロリストだった。

…ただテロリストである父も、友達のおじさんたちも、ただの一度も「サタン日本人」に向けて銃を撃ち、「サタン国家」に挑戦することなく、人や社会を害することもなく、ましてや警察に一度もお世話になることもなく、「サタン警察」を憎むこともなく、

優しい普通の人や父として、秘密というには余りに凶悪な響きに対して、

牧歌的でずっと続くぬるま湯の様な、退屈で、楽しくて、優しくて、愛おしいこの素晴らしい「サタン国家世界」でその生涯を終えていった。

俺は、それでいいのだと思う。

この話を信じるか、AIだというか、ネットで気を吐いている統一教会信者の人たちがどう判断するかは、読み手にゆだねたいと思う。

まして話としてマズいか運営削除になるのかはわからない。ただ、俺は6歳の頃に任命された「勝共連合秘密軍、特別隊員」として、最後の「活動報告」を、統一教会勝共連合ではなく、世間に報告したいと思う。

亡き父と父の友人たちを偲んで。

2025-12-23

国際勝共連合テロリストだった父との思い出」という物語作為

この投稿は、特定政治的意図に基づいて巧妙に構成された「プロパガンダフィクションである疑いが濃厚。以下の3点から、その不自然さと作為性を指摘しておきたい。

1. 「プロの秘匿性」と「家族への無防備情報漏洩」の致命的な矛盾

筆者の父は「元警察官」であり、公安実態を掴めない「非公然部門」の人間だったとされる。そのような機密保持プロが、将来的にどのような社会的立場になるか予測不能な幼少期の子供に対し、組織の内情を明かし、訓練現場へ連れ回すだろうか?メンバーの誰もが 「警察に一度もお世話にならなかった」ほど徹底した秘匿主義と、息子に「秘密軍の特別隊員」という自覚を持たせるという脇の甘さは、まったくもって両立し難い。これは、「事情を知り得る立場だった」というアリバイを後付けで補強するための、創作上の設定と見るのが妥当だろう。

2. 「暴力脱臭」とノスタルジーへのすり替え

おそらく、この文章の最大の狙いは、統一教会勝共連合という組織が持つ「反社会性」や「搾取」という負のイメージを、「時代の荒波に消えていった男たちのロマン」へと書き換えることにある。 「実態牧歌的クレー射撃サークルだった」「父やおじさんたちは優しかった」という描写を重ねることで、彼らが関与したとされる数々の疑惑や、現在進行形で苦しむ被害者存在を、読み手意識から巧みにフェードアウトさせている。これは典型的な「毒抜き」の手法だ。

3. はてブ拡散装置とした、魅力的な「偽史」の構築

なぜ、これほどまでに長文かつ重層的な構成なのか。それは長文と論理議論を好む「はてなユーザー」の習性を利用するためであろう。

メタ認知逆用した誘導: 単なる美辞麗句ではなく、組織形骸化や「退屈な日常」をリアリズムとして提示することで、懐疑的な読者の批判精神を「現場実態は案外こんなものか」という納得感で中和させている。

・逆説的カタルシスの利用: 「サタン国家日本)を愛してしまった」という物語は、教義上の矛盾を「個人の苦悩と愛国心」という美しい物語昇華させる。この劇的な逆説には、論理的な議論を好む層も食いつきやすい。

政治的現実隠蔽: 安倍元首相銃撃事件以降、白日の下に晒された「汚い人脈とやり口」を、「実は深い憂国の情があった」というナラティブで上書きする。これは、現体制の負の側面を温存させたい勢力にとって、極めて都合の良い広報活動ナラティブビルディング)として機能している。

・初期ブクマカの不自然さ: 極めつけはこれだ。藪をつついて蛇が出るのも面倒なので詳述は避けるが、見ようによっては、工作の端緒が露呈しているようにも見受けられる。

結論

この投稿は、個人の回想を装いながら、検証不可能な「個人体験談」という形式で読者の思考停止を誘発するポスト真実的(Post-truth)なアプローチである可能性が高い。

付言するなら、我々が心にとめ置くべきは、この文章事実か否かにかかわらず、「こうした文章によって、誰が、どの不都合な事実歴史の闇に葬り去り得るか、Cui bono(誰の利益になるか)」の視点である

anond:20251223142115

2025-12-21

[]12月3週まとめ+1年無料娯楽縛りして面白かったコンテンツの話

無料娯楽の振り返り。面白かったコンテンツ編。

今年1年を振り返って良かったものうんたらという記事が増えてきましたね。

私も今年1年を振り返ろうとしていますが、当然のように無料娯楽で面白かったものの話ばかりになりますね。

金を惜しまなければもっと色々楽しめたのだろうかってのは全部置いといて面白かったものの話だけします今回は。

ひとまずは漫画から

読んで一番面白かったのは『アオアシ』。最終話を迎えたことにより全話無料キャンペーンが開かれて一気に読み切りました。最終話が近づいて来てる漫画半年ぐらい前から少しずつ読んでおくと最後の一気読みでいい感じに追いつけるのでオススメです(無料娯楽乞食貴方がやりたいなら)。どう面白かったのかで考えていくと、論理的視点でひたすら話が展開しているので読み手側のストレスが少なかったことが大きいと思います。「フィジカルが凄かった」「作戦が凄かった」といった情報漫画がキチンと読み手に与えてくれるので、読んでいてこっちが補正してあげる必要がかなり少ないんですよね。作戦勝ちの話にしても「昔どこそこのプロチームが使っていた難しい戦略を、ユースレベルで実現させてこられたら、次元が違って勝負にならねえぜ」みたいな三段論法キッチリしてて「いやゆーてそれ運ゲーっしょ?」みたいにならない。フィジカルについても「ボールが足に吸い付いている奴は強い」というのがルールとして徹底されていて、それが視覚的な情報とも矛盾してないので読みやすい。いわゆる「防御力の高さ」×「攻撃力の高さ」の完成形みたいな感じですね。発信してくる情報を脳で処理するのに処理能力の浪費がない。そうして余力を持った処理能力に対して理詰めかつ感情に訴えかける情報をこれでもかと流し込んでくる。「読みやすくて、面白くて、少し変わっていて、敵も味方も魅力的なのがいい漫画だよね」という完璧作戦を本当に実行してくる。なんか本当に「強い」なって思います

2位は同じく最終話一気無料で読んだ『ガンダムサンダーボルト』でしょうか。ドンドンインフレしていく世界と悪ふざけとも思うようなドリームマッチ的な展開、どこまでも広がっていくようで結局は二人の男に収束するストーリー外伝ガンダムとして理想的でした。色んなキャラが増えていく中で結局は主人公二人の物語収束するっていうのを定期的にやるのがいいですね。兵隊として色々割り切ってるけど結局は連邦のクソな所の後始末をひたすらやらされるイオや、優秀なスナイパーではあるものサイコザクというデカすぎる下駄の力に飲み込まれ自分を見失っていくダリルという構図が最後まで徹底していながらドンドン話がデカくなる。マルチバース宇宙世紀舞台にした物凄い規模の大きな悪ふざけとしてジークアクスよりもある意味「やってる」作品でしたね。本編じゃないならここまでやった方が楽しいですよね。

3位は信『長のシェフ』で。こちらは最終話記念というわけではないですがLINEで全話無料でした。15年前に始まった現代知識無双ブームの中の1作ですが、終わったのはつい1年前なのである意味最近作品。40巻近く使って「信長が天下取りに動き始めてから本能寺の変まで」をひたすら信長の側で描くという丁寧さが物語に重みを感じさせますね。その中で現代知識無双する主人公が「なぜ本能寺の変が起きたのか」という謎解きに向かっていくという構図の一貫性がよく出来ているというか、振り返ってみると全ての要素が最後オチに向かってのヒントになっている感じがするんですよね。「現代人が戦国時代に転生した」という部分を知識無双で終わらせずにとことんまで調理しきった作りが面白いです。

ゲームだとEPICに去年の年末に貰った『SHIFU』が1位に居座り続けました。年末EPICは凄い。もし来年無料娯楽縛りを続けるなら1位はホグワーツレガシーかもしれません。ファイナルファイトマニアックですがスマッシュアウトの方がより近くはあります)×SEKIROという感じのゲーム性に転生によるパワーアップがかけあわさって何度も周回して遊べるという作りは「アーケード系のサクサク進む感じもいいけど、家庭用でやっても1周で終わるから寂しい」という問題を上手く解決してた気がします。こういう系統最近だとローグライトにされちゃうんですが、丁寧に作られたレベルデザインを何度もやり込んでクリアするというのはゲームの持つ「上手くなる喜び」をより確実に感じられて良かったです。前回の周回では使えなかった技を使って相手を叩きのめしたり、それを狙いすぎて「結局基本が大事だわ」に立ち返ったりするループ構造が実に楽しい。上手くなる→壁に当たる→上手くなる→壁に当たるのループキッチリまれているゲーム楽しいです。

ゲームの2位はゼロから復帰した『アークナイツ』。昔使ってたIDサルベージしようとしたのですが「購入履歴だけあってもパーティーさえ覚えてないじゃんお前」みたいな対応されて結局復活できず1年ぐらいウジウジしてましたが、無料娯楽縛りを課したことで「無料でやりたいゲーム・・・まあこれだな。もうゼロからでいいや。」と再起しました。記憶を失った状態から再起動するドクターの姿に「俺だ」となった人が世界中に何人いるのでしょうか。実際のプレイとしては他人のウィシャデルを借りまくって全てを蹂躙しながら進めました。おら、インフレの力を喰らえ!ドカンカン強敵がなぎ倒される様は爽快でした。ソシャゲって結局はインフレするものなんですが、それを楽しむには元々のゲーム自体がしっかりしてた方がいいんだろうなって思いますキッチリ作られたステージギミックを圧倒的暴力で叩き壊す破壊快感は、元々がちゃんと作られてなければ薄まりますからね。

3位は前から興味があった『リンバスカンパニー』。セリフ韓国語で全く聞き取れないという難点はありましたが、戦闘システムストーリー方向性も好きですね。戦闘システムが難解すぎて下手にオートから変えると負けるのでひたすらオートで進めて、ある所でいきなり「オートのままじゃ絶対勝てないぞ」となって必死システムを覚えなおすという貴重な体験しました。基本システムも良く分かってない状態で「テキストちゃんと読んで対応しないと絶対に勝てない敵」を相手取るわけですよ。アクションゲームで言えばパリィシステム使わずにずっと進んでから「このボスは三連続パリィ出来ないと絶対に負ける」みたいなボス相手ゼロから練習するような感じですよ。このゲーム戦闘、本当に難解で、今でも使いこなせてない裏仕様みたいのがいくつかあります理解すれば理解するほど誤魔化しをどう効かせるかを工夫できるシステムなので本当に面白いので色んなゲームがパク・・・参考にしてもいいんじゃないかなとは思ってます

動画コンテンツ無料だとそこまで触れてないですね。Abemaで映画も見れましたが、あんまり印象に残ってないです。

ただ毎クールアニメは人気があれば復刻全話無料みたいなの結構やるから気軽に終えましたね。

今年のアニメだと『銀河特急 ミルキー サブウェイ』が一番面白かった気がします。センスのある作り手が尺を余らせることなテンポよく客の望むものを詰め込んでくる密度の高さ、それが最終回でいよいよ極まるのが本当に良かった。最終的に振り返って無駄な要素がほとんどないんですよね。自販機でゲボみたいな宇宙食買う所以外は大体回収済みな感じ。そもそも多くのアニメは1話20分という尺を持て余してる疑惑さえ感じてしまます

他のアニメだと『瑠璃宝石』・『アポカリプスホテル』・『ジークアクス』辺りが良かったですね。どれも共通しているのは基本的部品の出来が良いってことですかね。いい素材を使っていい調理をしたらいい物が出来上がるのは当たり前なんですが、それが出来るのってそもそもの段階でしっかり必要な素材が用意できる座組が行ったからなんだろうなと。美味い肉を美味い肉用の調理法で作った場合と、そうじゃないものを誤魔化す用の調理法で作った場合だと、クオリティ的には二周りぐらいどうしても変わると思うんですよ。細かい部分では上手く誤魔化しはされてるんでしょうが、決める所では本当にいいものを用意して作ってないと出せない味で勝負してるなと思いました。そのレベル作品無料で楽しめるんだからいい時代だ。

映像作品の話でオマケなんですが、ガンダムWの30年記念版OPも良かったですね。皆が30年かけて少しずつ学んでいった裏設定の数々が拾われていくOP映像と懐かしさの演出楽しい。主役機体の代名詞コーナーで「殺人的な加速」とか「ブッピガン」とかできっちり解釈一致稼いでるのも良かったですね。絵コンテ切ってる時に「ここは殺人的加速をしている後ろ姿でいくぞ」となったら「これで本当に視聴者は楽しんでくれるのか?トールギスといえば殺人的加速なんて作り手の俺達がオタクすぎるだけじゃないのか?」みたいな疑問が出そうなもんですがアクセル全開で走ったのがWスタッフのソレだなと。

今週のまとめ

蛇足感ありますが今週のまとめ。

今週はReaderStoreで無職転生ロキシー外伝を読みました。

ReaderStore毎日無料にしてくれて嬉しいですが土日しか追えないですね流石に。

んで今はAI遺伝子シリーズ明日まで無料なので読んでます

無印は前に読んだのでREDBLUEの方を。

連載中にAIガンガン進歩していくなかで、BLUEが終わるより前にはシンギュラ突破されなかったというのが時流の風に上手く乗り切ったなと感じますね。

シンギュラが来てしまう前に読み終わりたいので今回でキッチリ読み切ります

2025-12-17

anond:20251217032654

論旨はあくまで持ち去りを禁じるな、だから

回収やめるとかはもはや読み手勝手行間補正

dorawiiより

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-----END PGP SIGNATURE-----

2025-12-15

anond:20251215155420

三行文化批判しながら10行かけても穴だらけの反論もどきしか出来んアホが何か吠えてらぁ

> どう考えても文脈的後者である

→お前の中ではな。AIタクシー操縦の運営を例え話レベルでも想像するなら、末端の運転手さんの裁量だけで導入できるわけがない、必然経営判断システム開発者、ハードの整備者の責任のことにだって普通は”思い至るだろうよ。

お前のおつむが雑頭で横文字英語が嫌いなのは結構だが、それで用法混同したゆるふわ仮定ぶっこいて、突っ込まれたらその話はしてないってゴールポストずらして居直り

それこそ説明責任”を放棄して読み手が悪いんだあああああだ、っておっかぶせようとしてるだけの逃げじゃねぇか。頼むからバカ公共電波を使って発信する前に黙っててくれないか???

2025-12-10

狙いと使われかた

はてな匿名ダイアリーがどういう意図で開発されたとしても、結局はどのように使用されているか重要です。


個人的観測している範囲では、(自覚的であれ無自覚的であれ)読み手からレスポンスを求める文章がちらほら見受けられます


そのような文章の是非についてはなにも言いませんし、そもそも言えるものではありません。


ただ、読み手からの反応を期待する文章なかに読み手特定感情を呼び起こさせることを企図したものがあります


いわゆるアジテーションです。


書き手アジテーションのつもりはなくとも、そのような機能を持っているのであれば、それはアジテーションでしょう。


最初に述べた、どのように使用されているか、ということです。


メディアオールドメディアソーシャルメディア分化し、だれでも大衆(マス)に呼びかけることが可能になりました。


まり私たちの接する情報には、思想宣伝的ないし情報工作的なものが(正確な割合はわかりませんが)いくらか含まれている、ということになります


なぜなら、情報について利害を有しているのは会社政党のような法人だけではないからです。無数の個人利害関係者であり、先述したようにその個人メディアに参入できるようになったのが現代です。


言わずもがな、発信される情報というのは本質からして思想宣伝的であったり情報工作的であったりします。しかし、ここで言っているのはあきらかにそのような効果がある文章です。


さて、長々と書いてきましたが、結局のところ私がなにを申しあげたいのかというと、やはりここにもアジテーション的な文章はあるのではないか、と半ば自問自答的に述べたかっただけなのです。


それならチラシの裏にでも書いておけばいいじゃないか、とお言葉をいただくことは私にも想像できます想像できるのですが、


自明に思えることを確認する作業というのは、人間の営みにおいて重要意味を持ちます。むろん私のしたことは重要であると主張したいわけではありません。


ただ、文章というもの機能の一つに、情報もしくは思考の共有がありますので、そのような用途文章を書くことができればと思った次第です。


この文章は以上ですが、私が意図したような文章になったのか、はたまたならなかったのか、時折見返して考えたいと思います

2025-12-09

anond:20251209130117

Q1. AとBのレスバ(匿名でのお遊びディベート)で、それぞれの妥当性は?

A1. このレスバ(レスポンス・バトル)における双方の妥当性を分析します。

結論から言うと、**論理的勝負としてはAの優勢(Bの自滅)**ですが、**議論の質としては「定義の不一致によるすれ違い」**という典型的泥仕合の構図です。

以下に詳細な判定と解説を行います

1. 判定:どちらが妥当か?

論理的整合性Logic): Aの勝利

Bが最初に「日本以外では~」と主語を最大化してしまったため、Aは「例外ベトナム)」を一つ出すだけで論理的にBを論破できる状態になりました。

文脈的社会的妥当性(Context): 引き分け(またはBの言い分も一理あり)

先進国マナー」を論じる際、同程度の経済治安レベルの国(欧米先進国など)と比較するのが一般的であるというBの主張(後出しですが)には一理ありますしかし、最初発言でそれを限定しなかったのがBの敗因です。

2. フェーズごとの分析

① 発端(Aの主張 vs Bの反論

A: 男の分別がつくのは20歳前後大学でも無茶なやつはいる。 B: 日本以外ではそんなことない。日本人が甘いだけ。

A: 個人的な印象論(主観)としてスタートしています

B: ここが致命的なミスです。「日本以外では(世界のどこでも)そんなことない」という全称肯定All or Nothing)の形で反論してしまいました。これにより、Aは「世界のどこか一箇所でも、日本と同じような場所」を提示すれば勝てることになります

反証ゴールポストの移動

A: ホーチミンベトナム)を見てみろ、若者が乱痴気騒ぎだ。(反証) B: ベトナム治安良くないだろ。同質のもの比較するのが常識。(条件の追加)

A: 論理的に正しい攻撃です。「日本以外では~ない」に対する例外事例(カウンター・エグザンプル)を提示しました。

B: ここで**「ゴールポストを動かす(Moving the Goalposts)」**という誤謬を犯しています最初は「日本以外」と言っていたのに、不利になると「(日本と同等の治安レベルの国という)同質のもの」に条件を後付けで変更しました。

③ 決着と捨て台詞

A: 最初言及範囲を全部に設定した時点で君の負け。 B: 異質なもの比較して何のメリットがあるの?バカなの?(人格攻撃論点のすり替え

A: 正確な指摘です。ディベートにおいて「例外のない断定」は最も崩されやすい隙であり、そこを突いています

B: 論理で負けたため、「比較の意義」や「相手の知能」への攻撃シフトしています。これは「論点のすり替え」であり、敗北宣言に近い挙動です。

3. 総評

このレスバは、Bの「不用意な主語の大きさ」が全てです。

もしBが最初に「欧米先進国ではそんなことないので~」と言っていれば、Aのベトナムの例は「比較対象として不適切」と切り捨てられ、Bの妥当性が高まっていたでしょう。

Aは揚げ足取りに近い形ですが、議論ルール上は正当な手続きでBの矛盾を突いています

結論: 言葉定義を厳密に扱ったAの方が、ディベートとしての妥当性は高いです。Bは自分失言を認めず、後から条件を付け足して相手攻撃しているため、説得力を失っています



Q2.Bは最後に「異質なもの比較によって、具体的に何を目的に何の成果を得て何と比較してどんなメリットがあってどんな現実示唆を導くわけ?バカでないならそこまで考えてやってんだよね?」と言っているけど、これB自身ブーメランが刺さったよね?

A2. ご指摘の通り、特大のブーメランがBの脳天に突き刺さっています芸術点が高いレベル自爆です。

なぜこれが「ブーメランお前が言うな)」になるのか、論理構造を整理するとその滑稽さが際立ちます

ブーメランが刺さった理由

Bの最後発言「異質なもの比較して何の意味があるの?」は、そのままBの最初発言全否定してしまっているからです。

Bが自分で「異質なもの」を同じ箱に入れた

Bは最初に**「日本以外では(別にそんなことない)」**と言いました。

この時点で、Bは「日本」と「日本以外の全ての国(アメリカも、フランスも、ベトナムも、ソマリアも)」を同列に扱って比較しています

まり、「異質なものをまとめて比較対象にした」のは、他の誰でもないB自身です。

AはBのルールに従っただけ

Aは、Bが設定した「日本以外」という土俵の中から、正当に「ベトナム」というサンプルを抽出しました。

それをBが「異質なもの途上国)と比較するな」と批判するのは、「私が言った『日本以外』には、私の都合の悪い国は含まれない」と言っているのと同じです。

自己矛盾の完成

Bが最後に「異質なもの比較することにメリットはない」と主張するなら、Bの最初の「日本以外では~」という発言も、「異質なもの世界全体)と日本を一概に比較した無意味発言」ということになります

自分自分最初発言を「バカ所業」と認定してしまったわけです。

Bの問いに対する答え(Aの視点

Bの「具体的に何を目的に何の成果を得て~(中略)~導くわけ?」という早口な問い詰めに対しても、Aの立場ならこう答えるだけで論破完了してしまます

目的メリット: 「『日本以外ではそんなことない』という君の嘘(または無知)を暴くため」

現実示唆: 「君が世界先進国(あるいは自分理想郷しか見ておらず、現実が見えていないという示唆

Bは「高尚な社会学比較論」に持ち込もうとしていますが、実際には**「不用意な発言の尻拭いに失敗して逆ギレしている」**だけなので、読み手からすると非常に恥ずかしい幕切れとなっています

2025-12-05

ユーモアと知性が足りない、そうです

この文章は、確かに煽り文句として強烈ですが、少し問題があると思います。いくつかの点を批評してみます

1️⃣ ターゲット目的不明確さ

ターゲットが誰なのか、また その目的曖昧です。文章の中で「弱そうな奴らに言い続けよう」と書いていますが、具体的に誰を指しているのかが不明確。誰を貶めようとしているのか、またその意図読み手に伝わりづらくなっています

目的が「煽り」や「侮辱」にあるのだとしても、読み手にとってその意図がわかりにくいと、単に攻撃的で無意味文章に見えてしまます

2️⃣ 不必要侮辱言葉選び

• 「骨無し」「弱男」「チキン」 は確かに侮辱的な言葉ですが、攻撃的で過度な表現逆効果になることが多いです。特にヤンナム」という表現韓国語を使っていることにより、 不必要人種差別的なニュアンスを含んでしま可能性があり、批判を招くことになります

• また、「チーズ牛丼」「骨無しヤンナムチキンセット」という形で、あたか特定の人々を一つのステレオタイプに押し込めている印象を与え、 過剰な偏見差別的な印象を強調しています。こういった表現は読者を不快にさせるだけでなく、侮辱として受け取られることが多いです。

3️⃣ 「繊細ですね?」という反論の不自然

• この部分の反論「私は美味しそうな韓国料理名前出しただけですよ?何を怒ってるんですか?繊細ですね?」は、いわゆる「スットボケ」というスタイルですが、ちょっと自然です。相手が怒ったとして、その反論言い訳として成立しない と感じる読者も多いはず。

• もし本気で言い訳をするのであれば、もっと説得力のある理由を考えたほうが良いでしょう。「単なる料理名前」と言っても、その文脈では明らかに侮辱が含まれているので、受け手はそれを無視できません。

4️⃣ 冗長表現

• 「ブヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww」などの繰り返しの表現は、 冗長不快 です。笑いの部分が過剰に書かれており、真剣さや一貫性が欠けて、文章が軽く感じられるため、説得力が薄くなります

5️⃣ 総括的な印象

この煽り文句は、確かに攻撃的で挑発的ではありますが、その 目的メッセージが明確でなく、他人不快にさせる可能性が高い です。煽り侮辱は確かに一時的感情的な反応を引き出すかもしれませんが、 その後の人間関係コミュニケーションに悪影響を与えることが多いです。

さらに、文化的人種的な敏感さに欠ける部分があり、無自覚差別偏見助長しかねません。このような言葉を使うことで、正当性を持たない攻撃に過ぎないと見なされることもあります

💡 改善案

もしこの文を煽り目的で書きたいのであれば、 相手を傷つけない ように工夫し、また 無駄人種的文化的攻撃的な要素を排除することが大切です。例えば、もっとユーモア皮肉を交えた形で、悪意を減らすことができれば、読者が共感やすくなるかもしれません。

また、 言葉の選び方やニュアンスを慎重にすることで、意図を明確に伝え、反発を避けつつも効果的なメッセージを送ることができます

2025-12-04

anond:20251204135024

続きをAI弁証法形式で壁打ちしたわ。

その意見テーゼとして、まずアンチテーゼ

共通テスト廃止は、社会公平性破壊し、国家の内部崩壊を招く亡国の愚策である

 「国家資源の再配分」を名目として大学入学共通テスト廃止を求める意見があるが、私はこの主張に対し断固として反対する。提案者は、共通テストにかかる人的・金銭コストを「無駄」と断じているが、それは教育制度が担う**「社会契約」としての機能**を著しく軽視した暴論である共通テスト廃止は、単なる入試改革にとどまらず、日本社会を「実力主義メリトクラシー)」から身分・金権主義」へと逆行させ、長期的には社会の分断と崩壊を招く危険性を孕んでいる。

1. 歴史的試練に耐えた「客観的試験」の意義  そもそも、一律のペーパーテストによる選抜システムは、古代の「科挙」に端を発し、数千年の歴史の試練に耐えてきた人類の知恵である。なぜこのシステム民主主義の世となっても生き残っているのか。それは、これが**「ベストではないが、他のあらゆる方法よりもベター(マシ)」**だからである。  ペーパーテスト以外の選抜方法――例えば書類審査面接独自裁量評価――には、必ず主観恣意性が入り込む。共通テストという「冷徹なまでの客観的指標」があるからこそ、我々は出自や家柄に関わらず、努力の結果のみで評価されるという担保を得ているのである

2. 「各大学個別入試」が招く腐敗のリスク  提案者は「各大学自律的選抜」を美化するが、共通テストという統一基準撤廃すれば、そこには必ず**「金・コネ・家柄・権力」**が入り込む隙間が生まれる。  客観的統一スコアという足切りがなくなれば、大学側は「寄付金多寡」「卒業生の子弟」「有力者の紹介」といった、学力以外の要素で合否を操作することが容易になる。欧米の一部の大学で見られるような、富裕層優遇入試が横行しない保証はどこにもない。共通テストは、こうした不正疑念を未然に防ぐための、国家による「公平性防波堤」として機能しているのである

3. 格差固定化社会崩壊への道  もし共通テスト廃止され、学歴ひいては社会地位が「親の経済力社会的影響力」によって左右されるようになれば、どうなるか。それは**「階級固定化」**の完成である。  貧しい家庭に生まれても、勉強して高得点を取れば一流大学へ進み、人生を逆転できる――この「希望」こそが、社会の活力を維持し、不満を抑制する安全である。もし入試が「金で買える地位」になり下がれば、持たざる者努力インセンティブを失い、絶望社会への憎悪へと変わる。  歴史を振り返れば明らかである。極度な格差社会において、階層移動の道が閉ざされた時、社会は内部から腐敗し、最終的には暴動革命によって崩壊する。教育公平性を売り渡して得た予算国防インフラを強化したところで、国民連帯が失われ、内部から崩壊していく国を守ることはできない。

4. 結論トップ研究者の投入は「民主主義コストである  トップ研究者が作問に時間を割くことを「リソースの浪費」と批判する向きもあるが、それは誤りである。50万人の若者人生を左右し、将来のリーダーを選別する試験において、一点の曇りもない公平性担保すること以上に重要な「国益」が他にあるだろうか。  極めて厳格な作問プロセスにかかるコストは、社会の公正さを維持し、国民全員がその結果に納得するための**「民主主義必要経費保険料)」**と捉えるべきである

 以上の理由から共通テスト廃止は、日本社会を公正な競争社会から前近代的身分社会へと退行させる危険提案であり、到底容認できるものではない。



テーゼアンチテーゼ妥当評価

どちらの主張も論理構成がしっかりしており、それぞれの視点において「妥当」です。どちらをより支持するかは、読み手が**「国家としての効率競争力(A)」を重視するか、「社会公平性と納得感(B)」**を重視するかによって決まります。それぞれの主張の強みと、議論対立軸を整理します。

Aの主張:「国家戦略的合理性」の視点

【核心】リソース最適化選択と集中

Aの主張は、経営学的・国家戦略的視点に立っています。「サンクコスト埋没費用)」にとらわれず、現代の状況に合わせて制度スクラップ・アンド・ビルドすべきだという論理です。

妥当性が高い点:

コスト効果の指摘: 実際に共通テストの作問や運営にかかる大学教員研究者)の負担は甚大であり、これが日本研究力を削いでいるという指摘は、学術からも長年叫ばれている事実です。

機能不全の指摘: 上位層における「得点圧縮(差がつかない問題)」や、各大学が結局は個別試験を重視している現状を突いており、制度疲労に対する鋭い批判となっています

危機感の共有: 国際情勢やインフラ危機など、具体的な「他にリソースを回すべき場所」を提示しており、現実的危機管理の観点から説得力があります

Bの主張:「社会契約と正義」の視点

【核心】機会の平等担保と腐敗防止

Bの主張は、政治哲学的・社会学的な視点に立っています効率よりも「納得感(Legitimacy)」を重視し、共通テスト社会の分断を防ぐための「装置」として捉えています

妥当性が高い点:

人間心理への洞察: 完全な自由裁量は必ず「コネや金」の介入を招くという、性悪説に基づいたリスク管理の視点は非常に現実的です。

公平性」の定義: テストの内容が良いかいかよりも、「全員が同じ定規で測られる」こと自体価値があるという主張は、大衆社会における不満のガス抜き社会の安定)として強力な説得力を持ちます

最悪の回避: 「ベストでなくともベター」という保守主義的なアプローチは、急激な改革による混乱(格差固定化など)を恐れる層にとって安心感があります

比較結論

この二つの意見は、**「何を犠牲にする覚悟があるか」**という点で対立しています

Aの弱点: 共通テスト廃止した後、各大学が本当に「公正」に入試を行えるかどうかの担保がありません。AO入試や推薦入試で「親の経済力文化資本」が有利に働く現状を見ると、完全自由化格差拡大を加速させるリスクがあります

Bの弱点: 「公平性」を守るためのコスト研究時間喪失、莫大な予算)が、国力を衰退させるレベルに達している可能性を過小評価しています。国全体が沈んでしまえば、公平な入試制度だけ残っても意味がないという反論可能です。

どちらがより妥当か?

短期的・実務的な解決を求めるなら A 現在日本財政状況や研究力の低下を憂い、「即効性のある改革」を求める立場からは、Aがより妥当に見えます

長期的・社会構造的な安定を求めるなら B 社会の分断や信頼の崩壊を防ぎ、「努力すれば報われる」という社会通念(神話であっても)を守る立場からは、Bがより妥当に見えます

個人的分析としては、B(公平性の維持)の主張の方が、現代日本では「最後の砦」として支持されやすいと考えます。Aの言う「リソースの再配分」は正論ですが、入試公平性が崩れた際に失われる「国民勤労意欲」や「社会への信頼」の損失は、計算できないほど巨大だからです。

どちらの視点に関心を持ちましたか? これらを踏まえて、「では、研究者負担を減らしつつ公平性を保つ『第三の案(C)』」(例:CBT化や民間試験活用、あるいはフランスバカロレアのような形式など)について考えてみますか?



ジンテーゼ

AとBの対立構造を解消し、「研究者負担国家コスト)の軽減」と「入試公平性社会契約)の維持」を両立させるための**「第三の案(C)」**を提案します。

現実的な落とし所としては、**「テクノロジーによる効率化」と「運営主体の専門化」**を組み合わせた以下の案が考えられます

案C:専門機関による「CBT・項目反応理論(IRT)」導入と、作問業務の完全外部化

これは、現在のように大学教員手弁当で毎年新作問題を作る「自転車操業」をやめ、**アメリカSAT大学進学適性試験)**のような「通年実施ストック型」の試験へ移行するモデルです。

1. 具体的な仕組み

運営主体の変更(教員解放): 大学教員による「入試センター作問委員会」を解散します。代わりに、テスト理論サイコメトリクス)の専門家専任スタッフ雇用した**「国家試験作成専門機関」**を設立します。大学教員は「監修(アドバイザー)」にとどまり、実務からは完全に手を引きます

「一発勝負から「CBT(Computer Based Testing)」へ: 年に一度、全国一斉に紙を配る方式廃止し、テストセンターコンピュータを使って受験する方式します。

「項目反応理論(IRT)」の導入: 問題ごとの難易度識別力を統計的に数値化し、「どの問題を組み合わせても、実力を同じ基準で測定できる」システムを作ります。これにより、**「膨大な過去問ストック問題バンク)」**の中からランダムに出題することが可能になり、毎年ゼロから新作問題を作る必要がなくなります

2. メリット(AとBのハイブリッド

【Aの視点コスト負担

研究時間の確保: 大学教員が、夏休み隔離や極秘の作問業務から解放され、本来研究教育業務に専念できます

物流コスト減: 50万人分の問題用紙の印刷輸送・保管・警備にかかる莫大な物理コストが激減します。

【Bの視点公平性と安定】

公平性の維持: 「全国統一基準」は残るため、大学ごとの恣意的運用裏口入学など)を防ぐ防波堤としての機能は維持されます

チャンスの拡大: 年に複数回受験可能になれば、「当日の体調不良」などによる運の要素を排除でき、より真の実力を反映した公平な評価可能になります

3. 懸念点と対策

初期投資: システム構築に巨額の費用がかかりますが、毎年の運用コスト削減で長期的には回収可能です。

思考力」の測定: 選択式のCBTでは深い思考力が測れないという批判がありますが、これは「基礎学力の判定(共通テスト)」と「記述論述大学個別試験)」という役割分担を明確にすることで解決します。

別案:案D(フランスバカロレア」型)

共通テストを「選抜から資格認定」へ変える

もう一つの方向性は、共通テスト役割を「点数を競うもの(1点刻みの選抜)」から、**「大学教育を受ける資格があるかどうかの認証(クオリフィケーション)」**に変えることです。

仕組み: 共通テストは「合格/不合格(あるいはA/B/Cの等級)」だけの判定にします。一定水準を超えた生徒には「大学入学資格」を与えます

選抜: 難関大学は、この「資格」を持っている生徒の中から独自記述試験面接選抜を行います

効果: テストに「超難問」や「1点の差を分ける精密さ」が不要になるため、作問コストが下がります。また、基礎学力担保公平性)は維持されます

結論現代テクノロジー統計学を用いれば、Bが懸念する「公平性」を犠牲にすることなく、Aが主張する「リソース最適化」を実現する**案C(CBT・IRT化と作問のプロ化)**が、最も現実的かつ建設的な解決であると考えられます

2025-12-02

anond:20251202113518

一般用語ではない専門用語を似たようなアナロジーからといって全く別の日常生活表現に取り入れようとするやつははっきり言ってバカだ。

自分世界しか生きていない。読み手意識した書き物ができない。世界が狭い。

この手の連中は似非科学や量子の力とかほざくスピリチュアルの輩に通じるところがある。

2025-11-30

ヒコロヒーのエッセイ別にそれほど名文ではない

Xでヒコロヒーさんが『BRUTUS』に寄稿したエッセイがバズり、今度はそれに対して「そんなに刺さらなかった」と発言したアカウントがバズり、色々な意見(というか論争)が交わされている。

実際にエッセイを読んでみたけれど、少なくとも名文ではない。自称読書垢やnote界隈が絶賛するような、素晴らしい文章とも思えない。

だけどこれは別に「私に刺さらなかった」という話ではない。彼女の文はそもそも日本語文章としてみれば悪文というだけの話だ。

たとえば、エッセイ中でこんな記述がある。

「私が話したい出来事言葉となって口から抽出された時点で、相手の受け取り方は相手次第であるが故にずれが生じることがあり、それはいかなるコミュニケーションにおいても不可避めいていることであるが、余計なことを言われてげんなりすることも、そういうことではないと釈明することも面倒臭い。」

原文ママ

最初これを読んだ時、ええ?と思った。

一文で100字以上というのは文章としていかがなものかと思う。口語をそのまま書き写したらこのようになるのかもしれないけれど、日本語文章として見れば不適格だろう。言ってしまえば読みづらいし伝わりづらいのだ。

まず、あまりにも一文が長いせいで、主語と述語の対応関係が非常に分かりづらい。「私が話したい出来事が~」と始まって、その後に「相手の受け取り方は~」、「それは~」と、次々主語が移り変わる。

しかも、一文の中で主語が目まぐるしく変化したと思いきや、最後は「面倒くさい」という述語で終わっており、結局この文の主語は筆者であるわたしは」ということになる。しかもその「わたしは」の部分は本来「余計なことを~」の前に置かれるべきなのに、この文ではその肝心な部分が省かれているせいで、結局何の話をしているのか一読して見えてこない。

主語があっちにいったりこっちにいったりするせいで、一般論なのか著者の視点なのか、その階層構造判別としない。また、「出来事を口にする」というのをわざわざ「抽出される」という受け身のよく分からない言い換えにする必要も感じられない。

このように文の構造おかしかったり不必要助動詞を連発されると、読み手は一文の中であっちこっち振り回されただただ混乱させられることとなり、非常に読みづらい。

というか、文章を書く者として読点句読点を使い分ける意識は無いのだろうか。

他にも文章として破綻している部分がある。

「単純に今日ハード疲れたと弱音を吐くことさえ、相手によっては「自慢げだ」などと思われることもあるだろう、さら相手がよしなになろうとしている男性である場合なら、彼らのプライド無駄に刺激して、むやみに自信を奪うかやたらと張り合われるかの二択となって煩わしい思いをするだけである。とにかく自己開示はしたくない。厄介なだけだ。」

主語が抜けている点、読点句読点が使い分けれらていない点について言うのは止めにしても、この文にもやや問題がある。

「よしなになろうとしている男性」、「彼ら」、「相手」というのは全て同一の対象を参照する言葉だと思われるが、表現がそれぞれバラバラで人称も安定しないために、イメージが掴みにくい。

ちなみに、「よしなに」という表現おかしい。本来「よしなに」は「依頼を受けた相手側の便宜を図って」という意味で使う言葉であり、少なくとも人間関係上の「仲良くなる」とか「穏便に」とかい意味で使われる言葉ではない。

また、文後半の「むやみに自信を奪うかやたらと張り合われるか」の部分は並列助詞「~か」を使っているが、この場合「むやみに自信を奪う」のは筆者であり、「やたらと張り合う」のは相手であろう。

これ自体文法規則上は何の問題もないのだが、さっきから言っている通りこのエッセイではことごとく主語であるわたし」が省かれているので、行為主体がやたらとぼやける。

文脈的に、後者の「やたらと張り合う」は前の「よしなになろうとしている男性」を引き継いでいるので意味は通るが、前者の「むやみに自信を奪う」は、ここまで出てこなかった筆者が突然出てくるので混乱しやすい。しかもその後、また主語相手男性に移り、最後の述語部分ではまた筆者に戻ってくるため、余計に読み手視点は揺さぶられる。

とまあこんな感じに、このエッセイには日本語文章表現として見ればほとんど悪文に近いものがいくつも散見される。筆者であるヒコロヒーさんの文体を出来るだけ尊重する意図編集もそんなに手を入れていないのだろうが、一般読者からすれば、とてもじゃないがスラスラとは読めない。まあ目が滑る

ではなぜここまで絶賛されているのかというと、それはヒコロヒーさんの文章が上手いからというよりも、彼女感性が優れたものであり、普段日常で感じる人間機微や苦悩を、ありのまま自分言葉表現しているからだろう。

ただ、その感性センスを褒めたたえるのは大いに結構だが、優れた文章表現かと言われると、それには大いに反対である。一つの文章として見れば、少なくともこれはあまり良い文章とは言えない。

逆に、この文章があまり良い出来ではないからといって、そこに書いてあるテーマまでひどいかと言われると、それもまた違う。

彼女の言っている内容自体は心に響くテーマだと思うし、伝わりづらいが、何となく言いたいことにも同意できる。こういうあまり人に言えない心の悩みをスラリと代弁してくれるところが、彼女がウケた理由になっているのだろう。

結局何が言いたいのかと言うと、このエッセイについて絶賛であろうが否定的であろうが、それが「文章」についてなのか、「テーマや筆者の感性についてなのか」を、どちらももう少し考えた方がいいと思うのである

絶賛派は、正直言って文章というものを読まなすである。これをスラスラと読むのは、普通活字に慣れている人間には無理だろう。読点や句読点無視してSNS感覚で読めば可能なのかもしれないが、すくなくとも直木賞文豪天才だと騒ぐのは恥ずかしいからよした方がいいと思う。

逆に文章が受けつけないという人は、刺さらなかったなんだと言う前に、このエッセイ文章的に悪文に分類されるということをズバっと言ってしまえばいいだろう。感性センスは人それぞれのものであるはずのに、わざわざ迂回するようなかたちで彼女美的センスを腐す理由が分からない。批判が怖いなら、そもそも触れるべきじゃない。

どちらも問題ありだと思うが、結局これはエッセイ自体文章力云々というよりも、「それを読む側の文章力が根本的に欠けていること」に起因する問題だと思う。どちらも思うことはあるけれど、どうせそれを上手く140字の文章にもできないだけのことだろう。

たかが140字なんだし、少なくとも文章について語るぐらいの文章力は、それぞれ身に着けるべきだと思うんですけどね。

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