はてなキーワード: 暴挙とは
有名な鉄道模型妻は2LDKの家で一部屋を鉄道模型に使い、何度も売り払うよう言ったけど言葉を濁すだけで説明もしない後の暴挙だから、それは夫も悪くないか?と思う。
寝室LDK鉄道模型部屋しかない家でずっと生活をするのはストレスがでかすぎる。
8畳間に積み上げびっしり天井まで埋め尽くすコレクションの量はキチガイじみていた。
プラモデル1000点以上、ミニカー80店以上、鉄道模型60点以上、コレクションは家族の倉庫や収納全てを埋め尽くして、娘達の部屋のクローゼット半分も侵食していた。
家族にもう買わないように頼まれてもどんどん買い足してきていた。
全部とは言わないけど減らして欲しいと家族が思うのは当たり前だ。
父親がこれだけ買うお金はあるのに、娘が嫁に行くまで家族旅行をした事がなかったのも異常だ。
売ったお金で結婚前に初めての家族旅行をしたいと言う娘からの依頼で、父親もこれだけあっても全部できないし売るかと同意していたが、オタク達はこの家族に対して怒り狂って何年も執拗に叩いている。
https://x.com/XU3F8wI1Csm5HQ2/status/2012419131182882930
月のうさぎ@XU3F8wI1Csm5HQ2
知らない内に親の財産を半分創価学会に寄付するという公正証書遺言を作られていた知人。
気付いてすぐ司法書士に連絡、撤回させ事なきを得た。この話、以前ポストしたらすごい攻撃を受けた。余程バラされたくなかったんだねwww
今でもこういう事やってるんだな…となり、思い出し怒りと憤りで横転した。
祖母が遺産を死後寄附するって遺言作られてて実際にほぼ全部、こちらからすれば見ず知らずの創価のカルトの糞連中に盗られたからね。
いくら近距離でちょこちょこ両親らも含めて様子見で通っていたとは言え、近距離別居で、祖父も亡くし、落ち込んでいた様子の祖母をどうするか、
父は同居しようかと話していたが母が反対し、膠着状態になっていた隙に付け込まれていた。
彼らが数十年かけて、子供である父と叔父、叔母、そして自分たち孫の為にと、貯めていた数千万の資産、ぜーんぶ盗られましたわ。
色々弁護士や警察にも相談したりと動いてたけど、警察は民事不介入、お婆さんの遺言があったんでしょ?と門前払い。
弁護士も、悪質ではあるが手続き自体は合法でやっているからどうしようもないと、結局白旗を上げた。
当時は認知症の老人の責任能力についてそこまで問題視されていなかったし、そもそもまだ軽度で一人暮らし出来る程度だった祖母に適用される訳も無く。
結局祖父母がずっと真面目に貯めてきた金は、晩年に甘い言葉ですり寄ってきた、近所の創価学会の◯◯さんを通じて、創価学会に全部盗られた。
以来創価学会はオウムとか統一教会と同様のゴミクソカルト新興宗教だと認識している。一生絶対に許さない。
さて、そんな創価学会=公明党が、立憲民主党を吸収合併する様な形で新党を設立するという暴挙に出た。
ゴミみたいな現状に歯がゆい思いをしながらも、公明党と連立を組んでいるという点でアンチ自民であった自分は
民主党時代から投票をしていた事もあった。その応援が盛大に裏切られた形だ。
狂っているなと思うのが、あれだけ自民と公明=創価との連立を批判し、
自民と統一教会とかいう糞カルトとの癒着を批判していた左翼やリベラルの連中、そしてはてな民らが、
いやマジで何なの?
あれだけキチガイみたいに壺壺連呼していた連中が、創価とかいう同類の糞カルトなら良いんだ?
壺壺ツボってた連中はどこに行ったんだよ?仏なら良いってか?なら仏教ごと潰せよクソが。
結局アイツらやお前らは、「自民党アンチ」、つまる所多数派のアンチである自分達の思想に酔いしれて
まずベネズエラの経済が崩壊したのはアメリカの制裁のせいで、それがあるなら政治家の手腕なんかほとんど関係ない
しかも異常なインフレが起きたのはマドゥロ政権だけだし、それも原因はやはり制裁と原油価格の下落っつー政治家の手腕ではどうしようもないことだろ
民主主義が正義、専制政治が悪みたいに言ってるのも馬鹿馬鹿しいしな 民主主義は世界の中では少数派に過ぎない、アラブの専制国家には何もしないくせにダブスタなんだよ
チャベス政権はアメリカを煽り続けたけどちゃんと経済成長してたし国民からの支持率も高かった、んでマドゥロ政権でのこないだの選挙も結局「不正選挙だ」と主張してるのは反体制派とそれを支援してたアメリカだけ
ノーベル平和賞の女が完全な売国奴でパレスチナ虐殺支持派な上、アメリカがこういう暴挙に出た以上その主張の信頼性なんか波平の毛ほどもないと思うけどな
マドゥロは最悪の独裁者だった。銀英伝とかで「有能な独裁者か、無能な民主政治家か」みたいな対比をよく見かけるけど、チャベスやマドゥロは「無能な独裁者」だった。この時点で彼および彼の体制に擁護する価値はまったくない。選挙結果に背いて大統領の地位に居座り続けていたのだから、ベラルーシのルカシェンカと同じように、そもそも彼は大統領と呼ばれるべきですらない。
無能なだけならまだよかった。彼は有害だった。南米ではそこそこ豊かなほうだったベネズエラを、常軌を逸した経済政策によって飢餓に苦しみ周辺諸国に難民が押し寄せる崩壊国家に変えた。案山子でも置いといたほうが遥かにマシだった。そして反対運動を武力で弾圧した。目端の利く国民は独裁政権に取り入るか亡命するかの二者択一を迫られた。これが十二国記の世界だったらとっくに麒麟が死んでいただろうが、この世界に失道はなく、過酷な圧政は長きにわたって続くことになった。
彼の体制には正統性がないのだから、武力で放伐されても文句はいえない。マドゥロ体制は、ルカシェンカ体制や金正恩体制がそうであるように、武力で崩壊させられるに値する体制だった。だからマドゥロ政権が倒壊したことそれ自体は、喜ばしいことではある。
問題はアメリカが、しかもトランプがそれを行ってしまったことだ。ふつうに考えて内政干渉とかいうやつだろう。しかし「保護する責任」というのもあり、隣国でジェノサイドや人道危機が起きているのに何も介入しないのは道義に悖るという意見も理解できるので、百歩譲って介入はよいとしよう。でもトランプって。これが他の大統領なら、たとえそれが小ブッシュであったとしても、ベネズエラ国民を地獄から救い出したいという良心ゆえの行動だと弁明することもできようが、トランプって。あいつはベネズエラが米国を攻撃しているという被害妄想と武力で領土を征服する偉大な指導者という自己顕示欲に取り憑かれたプーチン並の狂人にすぎない。潜伏生活を送ってたベネズエラの反体制派指導者がノーベル賞を獲ったときに、俺がもらえなかったのはおかしい、とか言ってたやつだぞ? 断言するがやつにベネズエラ国民への思いやりなど猫のひげの先ほどもない。トランプ政権の中からは「次はグリーンランド」とかいう寝言も聞こえてくる。狂ってる。こんな暴挙は許すべきじゃない。それはトランプ政権だからだ。同盟国の自治領を武力で接収する可能性を否定しないやつが大統領である時点で、今のアメリカの軍事行動にはミリほども信頼がおけない。
ただ、ベネズエラから最悪の独裁者が除かれたこと自体は良いことだ。壊れた時計も1日に2回は正しい時刻を指す。ベネズエラ人が時刻が正しかったことを喜ぶ気持ちはわかる。
という暴挙価格のセールを実施しているので全人類にプレイしてほしい。
ちなみにこのゲームを勧める増田はSFヲタ。どのぐらいヲタなのか例を挙げると、オスカー・ワオの短く凄まじい人生の比喩が脚注なしで全部わかるレベルのヲタだ。
これまで数多のSF作品に触れてきたが、それでも尚Detroit: Become Humanは名作だと断言できる。
良作のSFって、もはや哲学なんだよ。言語統制を描いて「言葉とは何か?」を語る。宇宙人とコンタクトすることで「常識とは何か」を対比させることで提示する。
そしてアンドロイドは人間の疑似体とすることで「人間とは何か?」を考えさせる。
Detroit: Become Humanはフランス産のゲームだ。ADVで3人のアンドロイドが主人公。
彼ら三人の運命は交差し、ユーザーが選ぶ選択肢によってストーリーが大きく変わる。
このゲームにはハッピーエンドもバッドエンドも存在しない。何故ならどのような世界もありえるからで、受取手によっての解釈のグラデーションもあるからだ。
人間とは何か?愛とは何か?生きるとは?
・根本的な問題として「私の苦痛をお前ら男も味わえ!」という行為が不毛でしか無い
→カウンターとして「男性ホルモン由来の性欲体験」や「男として粗雑な環境で扱われる体験」を女性に体験して貰うしか無くなるが、それでも良いの?という話
・直接痛みを体験しないまでも気遣って配慮している大多数の男性にまで電気ショック拷問を味合わせるのは不条理
・(元増田に対して)どうして多数の男性は男性なりに気遣いしているのに、「どこかにいる無理解な誰か」の為に責任を負わされるの?という話
→ハッキリ言ってメチャクチャ理不尽極まりない。パパ活女子()の為に成人女性は全員年に一回性病検査を受けろ、というのと同レベルの暴論
・今は管理職男性限定だが、利権問題も絡んでいる為、いずれ段階的に対象が広がり、ほぼ就業する全男性が電気ショック拷問体験を強制される様になる
→男性というだけで合法的に痛みを強制されるのは、どう足掻いても性差別、人権問題では?
・生理痛には個人差があると思うけど、一体誰に合わせるの?という話
→軽い人に合わせるのか、それとも期間中は起き上がれれず仕事も出来ないレベルの重い人に合わせるのか
→後者であれば、生理痛が軽い女性も対象にすべきだろう。痛みを実感出来ないなら理解出来ないんでしょ?
・賛成側には「とにかく男性にもっと苦痛を味わせたい」と考えている様な層が多くて苦痛。Kutooかよ
→同様に「満員電車でゲイに痴漢される体験」や「会社で上司にセクハラされる体験」「出産の痛み・苦痛を味わう手術体験」を義務化しようとか言ってる女性もいて本気で絶望した
・体験会は一回につき数十万の費用がかかる。勿論されらの原資は税金であり、実施企業側の負担にもなる
→税金の無駄遣いだし利権問題も絡む、企業側からしても男性社員に負担と不満が溜まるセミナーを強制的に受講せざるを得ない状態に
ぱっと思いつくだけでも、男性に対する人権問題から思想、利権問題まであるのだが
任意じゃなく義務にするというところに、本気で女性の働く環境を良くしようとしているのは感じる。
実感して初めて腹落ちする、ということも大いにあるとも思う。これはまじ。
とか言っちゃうのは、さすがに勉強が足らんというか、自己の世界だけしか見えてない、余りにも視野狭窄なのでは?という印象
「男性の苦痛を理解して貰う為に男性ホルモン由来の性欲亢進罪を売って男性が性欲に振り回される苦しみを体験しましょう!」とか言われたら、発狂するぐらい激怒するでしょ?
何故同レベルの事を言って、あまつさえそれを条例として義務化しるとかいう人権侵害レベルの暴挙をやりながら「否定的意見が多いのは微妙」とか言えるの?
地元の駅伝で活躍するスター。はいはい、ああいうのは便利に崇められる。努力・才能・環境・遺伝子、全部がキレイに整列した、まるで最適化アルゴリズムが吐き出したローカル・マキシマムの自己放尿。
決定論的な人生を恵まれた初期条件で滑走しているだけだ。そこには選択も責任もない。要するに 自己放尿を自己陶酔と勘違いしているだけの存在だ。
俺が尊敬するのは、前世で何をやらかしたのか知らんが、現世で愚者の初期条件を強制され、負債だらけの状態からスタートしたにもかかわらず、
「このクソ仕様の宇宙に、俺の自由意志をねじ込んでやる」と、苦悩し、狂い、計算外の行動を積み重ね、ついには決定論そのものを破壊する奴だ。
こういう存在は、一般にスターとは呼ばれない。むしろ周囲からは、無駄なあがきをする愚か者として扱われる。
だが、俺から見れば逆だ。
最初から勝てるレースで勝って何が偉い?そもそも勝つためのコースレイアウトが人生の設計段階で提供されている自己放尿ではないか。そこには自由など欠片もない。
それに比べ、愚者は違う。愚者の人生は、あらゆる局面が想定外で構成されている。
期待値が常に負の方向へ働き、行動を起こせばほぼ確定で損をする。
まるで宇宙の方から「お前はここに這いつくばっていろ」と決めつけられているような人生だ。
その状態でなお、「それでも俺は選ぶ」と言える奴。それが本当に自由を掴んだ人間だ。
決定論の中に自由意志を生成するというのは、因果律と自己保存欲という二大巨塔に同時反抗する行為である。
つまり因果と欲望のダブル放尿をぶちかますという、極めて非合理・非効率で、しかし人間的本質に最も近い行為なのだ。
理性だけで動くなら負け確定の選択をしない。感情だけで動くなら長期的な構造の破壊には至らない。
そのどちらでもない第三の行動。それは統計では説明できず、因果では予測できず、効用関数では表現できない。
そんな行動を繰り返すことで、愚者は宇宙のスクリプトを書き換えるという暴挙に到達する。
スターは人生というゲームのチュートリアルを美しく自己放尿する存在にすぎない。
だが愚者は、ゲームそのもののルールを破壊し、新しいルールを生成する。
宇宙の仕様バグを、自分の意志で強行突破する狂った修正パッチみたいな人間だ。
決定論的世界で敗者として生まれ、それでもなお自由を捻り出し、最後には運命そのものにNOを突きつける、そういう奴こそ本物の人間だ。
最近「tepp〇y」とかいう謎の新通貨サービスが出るらしいけど、SuicaだのPASMOだのJRE POINTだの、ただでさえ複雑怪奇な交通系まわりに、さらに“もう一枚レイヤー”を重ねてくる暴挙。
いやいや、なんでまた新しい財布を増やすのかと。
決済の革新? しらん。
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想像してみてほしい。
新しい挑戦はしない。
イノベーションもしない。
でも一応働かないといけない。
そうなるとどうなるか?
「なんか新しいプロジェクトやろうぜ!!(内容未定)」
↓
↓
「とりあえず新サービス作ったことにしようぜ!!(誰も望んでない)」
この流れがテンプレ化している。
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新サービスを立ち上げれば、とにかく人が動く。
会議が増える。
資料が増える。
調整メールが増える。
つまり、「ワイ今日めっちゃ働いた気がする!!」という気持ちになれる。
その結果として生まれるのが、
tepp〇yみたいなサービスは、この“こすりあい戦略”の最終形態だと思うわけですよ。
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“新しいことやってる感”の演出。
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・今日も働いているように見えること
・忙しそうに見えること
・社内で「頑張ってるね」と言われること
この3点セット。
「社内のほうを向いたプロジェクト」が量産される。
まぁ当然よね。
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まぁ……そうだよね、という感じ。
ごめん。100字じゃ書き切れなかったので増田に書く。
まず大前提として,日本は憲政国家であり,政府は憲法に反することはできない。これが絶対的な条件として存在する。
そして日本国憲法には第九条がある。その是非やら改正に向けた議論やらはあるが,現状は間違いなく存在している。
んで,自衛隊は憲法の禁じる「戦争のための戦力」ではなく「自衛のための戦力」だという建前で存在を許されている。その行動は自国の防衛(個別的自衛権)に限定され,他国が攻められたときの防衛(集団的自衛権)は明らかな戦争であり,絶対に許されない,というのが,この国の大原則だ。
それを踏み越えたのが,集団的自衛権の行使を認める2014年の安倍内閣の閣議決定と2015年の安保関連法の成立だ。本来なら,このような暴挙は許されるはずはない。
立法の意図は明らかだ。台湾有事には自衛隊が米軍と同調して介入することを可能とし,もって台湾有事の発生自体を抑止する,というものだ。
だが,抜いたら明らかに違憲状態になる「刀」を,あるだけで効果があるから,という理屈で成立させるわけにはいかない。野党はありとあらゆる手段で抵抗した。なので三条件をはじめとした数々の妥協と制限が成立に当たってはかけられた。
その一つが,この法律は特定の紛争を意図したものではなく,とんでもない状況(それこそ世界大戦とか)に対応するためのものである,という態度を政府が堅持する,ということだ。「刀」は存在はするけど,けっして特定の相手にむけて突きつけることはしない,ということだ。これは当然のことだ。その存在意義(紛争の抑止)からして,刀をむけてしまったら逆効果だからだ。
このような,存在自体があやうい「刀」であるが,台湾有事の発生の危険は現実的なものとなっており,それを抑止できるのであればと,野党はしぶしぶ存在を容認している。だが,野党はその義務として,ことあるごとにこの「刀」が正しく運用されていることを国会で確認している,というのが現状だった。
もちろん,「刀」の実際の行使者たる自衛隊は,刀が使われれる可能性があるあらゆる紛争に対して準備はしている。その中には台湾有事も含まれて,防衛白書にも載っている。が,政府が「刀はどこにも向いていない」という限り,野党も,そして中国も,しぶしぶ(後者については本当にしぶしぶ)静観している状況だった。
さて,高市早苗氏。首相就任前には,政府見解を逸脱する過激な発言を繰り返していた。特に台湾問題については,首相就任時に中国が慣例の祝電を送らなかった程に。中国は,その一挙手一投足を監視し,今後つきあえる相手かを見定めている状況だった。
で,岡田氏は就任後の質疑で恒例の質問をした。「刀」は台湾を向いていないですよね?と。これは助け船の意味もあったと思う。議員時代は過激な発言を繰り返してきたけれど,首相になったんだから,ちゃんと過去の政府見解を踏襲しますね?ということを確認し,中国を安心させるということで。
が,よりにもよって高市首相は,「刀」は台湾有事にむけて中国に向いている,と答弁してしまった。
そら中国は激怒するし,野党はあわてて政府から「刀」を取り上げるべく動き出す。麻生は「これから私が育てます」と言い出す。
これが現状だ。
ふざけんなよ。
そんな「精神病=収容→開頭→人体実験」みたいな自己放尿を垂れ流すやつに論理も倫理もあるわけがない。
ロボトミーが歴史的にどう終わったか。人格と機能を壊滅させ、後に医療界が恥じて放棄した残酷な暴挙だという事実を知らないのか?
有効性の根拠は薄く、致命的な副作用が山ほど報告されてきた。そもそも「人権がいらない人間未満」などという言葉は論理的に破綻しているし、法と倫理の観点からも完全に無効だ。
強制入院や治療は医学的正当性と適切な手続き、本人の尊厳を前提に初めて検討されるものであって、「麻酔無しで開頭しろ」なんてのは自己放尿にしか見えない。
失敗しても「どうでもいい」って言ってる奴の道徳観は、倫理の自己放尿だ。下品で無責任で、人としての体裁を放棄している。
あんたの論は科学的根拠も倫理的根拠もなく、単なる暴言のダブル放尿だ。表現をひねって言えば、あんたの主張は汚言と差別のダブル放尿みたいなもので、見ているこちらが不快になるだけだ。
精神疾患に苦しむ人間を「人間未満」に切り捨てるのは、無知と恐怖と残酷さの産物でしかない。
論ずるならエビデンスと法律、そして最低限の人間性を持ってこい。そこを放棄した自己放尿に対しては、冷徹に、徹底的に反論してやる。
今日もまた、僕のルーティンは完璧なシンメトリーを保っていた。7時00分に目覚ましが鳴る前に自然に目が覚め、7時01分に歯を磨き、7時10分に電子レンジで正確に85秒温めたオートミールを食べた。ルームメイトはまだ寝ていた。いつも思うが、彼のサーカディアンリズムはエントロピー的崩壊を起こしている。朝の段階であれほど乱雑な髪型が可能だということは、局所的に時間反転対称性が破れている証拠だ。
午前中は超弦理論のメモを整理していた。昨日の夜、AdS/CFT対応を一般化する試みとして、非可換幾何の上に定義された∞-群oid的対称性構造を考えた。従来の高次圏理論的定式化では、物理的可観測量の定義が局所的モデル圏に依存しているが、僕の新しい仮説ではそれをKan拡張ではなく、∞-トポス上の(∞,1)-層として扱う。これにより、M理論の11次元多様体上でのフラックス量子化条件を、デリーニュ‐ベイルン加群による層コホモロジーに書き換えることができる。ルームメイトに説明したら、彼は「君が言ってることの3単語目からもう分からない」と言った。僕は丁寧に言い直した。「つまり、我々が重力を感じるのは、実は∞-圏の射が充満埋め込みでないからだ」と。彼は黙った。いつも通りの知的敗北の沈黙だった。
昼食は隣人がくれたタコスを食べた。彼女は料理が下手だが、今回はまだ化学兵器レベルではなかった。ちなみに僕はタコスを食べる際、具の位置を中心から平均半径1.7cm以内に収めるように計測している。乱雑な配置は僕のドーパミン経路を不安定化させる。彼女は「そんなの気にしないで食べなよ」と言ったが、僕にとってそれは、ボーズ統計の粒子にフェルミ縮退を強要するような暴挙だ。
午後はオンラインで超弦理論のセミナーを視聴したが、正直、発表者の理解は浅かった。特に、彼が「E₈束のゲージ異常はスピノール構造で吸収される」と言った瞬間、僕は思わず笑ってしまった。そんな単純な話ではない。正しくは、E₈×E₈異常はString(10)構造のホモトピー群に依存し、実際にはTwisted Fivebrane構造の非可換層に束縛される。ウィッテンすらここまで書いていないが、僕の計算ではその層は∞-スタック上のドロップトポスとして扱える。つまり、物理的次元が11ではなく13.25次元の分数次元空間に埋め込まれるということだ。もっとも、僕以外にこの議論を理解できる人間は地球上に存在しないだろう。
夕方には友人たちとオンラインで『Baldur’s Gate 3』をプレイした。ハードコアモードで僕のウィザードがパーティを全滅から救ったのだが、誰もその戦術的優雅さを理解していなかった。僕は敵AIの経路探索を事前に計算し、Dijkstra法とA*の中間的ヒューリスティックを手動で最適化していた。彼らはただ「すげえ!」と叫んでいたが、僕にとってそれは数式の勝利にすぎない。ゲームの後、僕は『ワンダーウーマン: デッドアース』を読んだ。アートはDaniel Warren Johnson。筆致が粗いのに構図が完璧で、まるでFeynman図のトポロジーを手書きで描いたような迫力がある。コミックを読んで心拍数が上がるのは久しぶりだった。
夜になってルームメイトがNetflixを見始めた。僕は同じ部屋でノイズキャンセリングヘッドホンを装着し、Lagrangian多様体上の安定性条件についてノートを書いた。明日は木曜日のルーティンとして洗濯と真空掃除をする日だ。もちろん洗濯機は奇数回転数(今日の予定では13回)で設定している。偶数だと宇宙の安定性が崩れる気がするからだ。
この日記を書き終えたのは20時20分。シンメトリーの美がここにある。時間も数字も、理論も習慣も、僕の宇宙ではすべて整然と並んでいる。もし誰かがその秩序を乱すなら、僕は黙ってこう言うだろう。「君の世界はまだ正則圏ですらないね」。
むしろ逆だ。「不思議に思わなくなったこと」こそが、知の腐敗、つまり自己放尿の始まりである。
子供の頃に抱いた「なぜ?」は、世界を構造的に捉えようとする知性の原型だ。
それを「無知だから」と片づける態度は、思考停止を正当化するための自己放尿にすぎない。
自分が理解できない現象に対して、「性欲がすべてを説明する」と短絡的に断じることこそ、最も原始的な無知な自己放尿行為である。
「性欲」で説明できると信じた瞬間、お前は思考の排泄を終えた気になって便座から立ち上がった。しかし、そこに残っているのは知的探究の成果ではなく、自己放尿の尿跡だ。
人間の結びつきを「性欲」という単一変数で閉じることは、複雑系を線形近似で片づけるような暴挙である。
進化心理学、社会的文脈、愛着理論、自己同一性の相互補完性、それらすべてを棚上げして「分かった気」になる。この「分かった気」が、まさに無知の証拠だ。
雑にAIで作って数を増やせばもっと収益増えるのは分かってるが、露骨にやり過ぎることと、粗悪品を量産してしまうのは誰も付いてこなくなる気がして、結局、丁寧な作業をしてしまっている。
しかも、まだまだ先が見えない。
目標値を100とした場合、リアルタイムの旬が過ぎたものでも1日に「1」は取得してほしいと願ってる。
実際、1〜10を獲得できているものはある。でも、それは俺がリアルタイムで更新しているからこその流入であり、更新をやめればどうなってしまうのかが分からない。
リアルタイム更新であれば、5〜30を獲得できてる。でも、これはただのボーナスだ。ボーナスは勘定に入れたくない。
多分、酷いものだと「0.01」になると思う。「0.1」でマシと言ったところか。
だからこそ、数を増やしたい!増やしたいのだが…増やし過ぎると、そこで数字が取れず、過去のものになった時の価値が下がってしまう。
長い目で見なければいけない。
100作っても、得られるポイントが1つにつき0.01しかないなら意味がない。100作って、1つで得られるポイントが1ある状態。これが目標であると言える。
このペースだと、100作るのに2,3年かかる。おーまいがー。
一番うまくいけば、5〜10はもらえる。うまくいけば2〜3もらえてる。しかし、今はうまくいってない。
こいつらはどうなるんだ。こいつらが1でもあれば最高だが…そんなにある気がしない…
あるいは全てを捨て去り、0.01を10000個生み出すか?
リアルタイムで継続し続けるのも確実だが、そんなことをする気力がない…
いずれにせよ、長い道のりになるというわけだ。
どうせ暇なんだし、やれることは全部やろう。
お前らはコンビニ弁当の温め方を間違えている。本当に、心の底から、間違えている。
昨日の夜、仕事が遅くなって近所のコンビニに寄った。からあげ弁当を手に取り、レジで会計を済ませる。いつものように「温めますか?」と聞かれ、当然のように「はい」と答えた。
そして店員は、何の躊躇もなく、そのままレンジに入れて「チン」した。
ああ、なんということだろう。これが日本のコンビニの現実なのか。
お前らは根本的に勘違いしている。コンビニ弁当を温めるという行為を、単なる「冷たいものを温かくする作業」だと思っているだろう。違う。全然違う。コンビニ弁当の温めは、ひとつの芸術なのだ。
思い出してほしい。中学生の頃、初めて一人でコンビニに行った日のことを。部活の帰り、友達と一緒に、お小遣いを握りしめて選んだ弁当。その時の、温めてもらった弁当を受け取った瞬間の、あの嬉しさを。
あの時のお前らは、正しい温め方を知っていたのだ。いや、正確には、正しい温め方をしてもらっていたのだ。
まず、コンビニ弁当には明確な温めの順序がある。おかずとご飯は、熱の通り方が違う。それなのに、一緒くたにレンジに放り込むなんて、暴挙にも程がある。
本来なら、蓋を少しずらして、ご飯の部分にだけ先に30秒。その後、蓋を戻して、全体を1分30秒。これが基本だ。からあげなら、衣がサクッとするように、最後の10秒は蓋を完全に外す。
でも今のコンビニ店員は、マニュアル通りに「一律2分」で済ませる。効率重視。回転率重視。そんなことで、コンビニ弁当の真の美味しさが引き出せるわけがないだろう。
お前は今、幸せか?
「まあ、コンビニ弁当だから、こんなもんでしょ」と妥協していないか?
違うんだ。コンビニ弁当は、正しく温めさえすれば、もっと、もっと美味しくなる。ご飯はふっくら、おかずは熱々、それでいて水っぽくない。そんな完璧な状態になるんだ。
最近のお前らは、便利さに慣れすぎて、本当の美味しさを忘れてしまった。スマホで注文して、自動で温められて、サッと受け取って終わり。そんな無機質な工程に、どこに愛があるというのだ。
もしお前が、本当にコンビニ弁当を愛しているなら、今度は店員に言ってみろ。「すみません、温めは私がやりたいのですが」と。
30秒刻みで様子を見て、蓋を調整して、ご飯とおかずの温まり具合を確認して、最適なタイミングで取り出すんだ。
その時初めて、お前はコンビニ弁当の真の姿を知ることになる。
からあげの衣はサクサク、ご飯は芯まで温かく、野菜は程よくシャキシャキ。完璧に温められたコンビニ弁当を食べれば、お前の価値観は180度変わる。
でも、そんなことをする客なんて、今時いないだろうな。みんな忙しくて、効率重視で、「まあいいや」で済ませてしまう。
それでも俺は言い続ける。お前らはコンビニ弁当の温め方を間違えている、と。
近年、グローバル化の波に乗る形で英語教育の重要性が声高に叫ばれている。しかし、この風潮に対して私は一石を投じたい。日本人が英語を習得しようとすること自体が、生理的・文化的・構造的に無理筋である可能性を、視点の違いという観点から真剣に論じたい。
まず、日本語という言語は本質的にFPS(First-Person Shooter)的言語である。すなわち、発話者の視点を主軸とし、主語を省略し、感情や意図を文脈や空気に委ねる傾向を持つ。会話とは、自らの目を通して世界を直感的に撃ち抜く行為であり、文法よりも間(ま)が重要視される。一方、英語はTPS(Third-Person Shooter)的言語である。主語を明示し、論理構造に従って文章を構築し、対象を外側から俯瞰することを求める。英語を話すという行為は、自らの身体を後方から操作し、正確に標的を捉えるために多角的な視野と構造的認知を必要とする。
この視点操作の違いは、単なる言語的な好みではなく、脳内の情報処理構造そのものの違いを示している可能性がある。FPS型で育った脳にとって、TPS的言語操作は異物であり、自己視点の優位性を損なう危険性すらある。実際、主語を明示する英語的な話法を繰り返すことで、日本語話者特有の「空気を読む能力」や「察する力」が劣化する懸念がある。これはまさに、忍者にスナイパーライフルを持たせるようなものであり、文化的喪失を伴う暴挙と言えるだろう。
さらに、日本語というFPS的言語は、島国である日本において完結型の文化体系と結びついて発達してきた。主食としての米の存在もここで重要である。米は自給可能で保存性も高く、自己完結型のライフスタイルを支えてきた。翻って英語圏は小麦を中心とした交易型社会であり、視点の外在化(TPS的性格)を必然とする文化環境にある。つまり、米を食う民族が英語を話すのは、文化的には炊飯器にバゲットを突っ込むようなものである。
加えて、現代はすでにAI翻訳技術が飛躍的に進歩しており、英語を学ぶ意義自体が相対的に低下している。海外旅行でもスマホがあれば十分、映画も吹き替えで楽しめ、メールは翻訳ソフトが補助してくれる。あえて言語的アイデンティティを損なってまで英語を学ぶのは、将棋しかできない脳にチェスを強制インストールするようなものであり、逆にパフォーマンスの低下を招きかねない。
したがって、私は結論としてこう述べたい。**英語を学ぶことは、FPSで育った日本人にTPSで戦えと言うに等しい。できなくはない。しかし、それはもはや自分自身でなくなるということである。**英語をやめ、米を食い、日本語のまま空気を読み続けることこそが、この国の文化的持続可能性を高める最善の道である。