はてなキーワード: 守護とは
「子供に豊かな体験をさせる」は積極的義務だけど、「教員を無給に近い状態でこき使わない」は消極的義務。まず後者の義務を履行してから前者の義務を果たすよう務めるべきであって、前者のために後者を犠牲にするのは本末転倒。
(「子供にクリスマスプレゼントを贈る」と「窃盗や強盗をしない」の関係と同じ。前者を履行するのが望ましいけど、優先順位は後者のほうが上であるべき)
当然「国家予算に占める教育費の絶対額を倍増させて全国津々浦々の学校に部活動専属コーチを配置する」という方向での解決でも構わない。それなら体験格差も生まれないし、教員の奴隷労働もなくせる。一挙両得で素晴らしい! 財源は湿布代でも削って捻出すれば。知らんけど。
津々浦々コーチ案が無理だというなら、自動的に「じゃあ最低限の義務を履行しましょうか。部活動は廃止で」ってなるだけ。部活動を守護りたい人たちはぜひ国会前でデモかなんかして教育費の倍増を訴えてほしい。成功するよう祈っています。祈るだけならば誰の損にもならない。
東風商店街を防風"鈴"として守護する風鈴高校という優しいヤンキー高校。そんな街に先天性白皮症により顔面の半分の色素が抜けた狂犬みたいな主人公がやってくる。風鈴高校のテッペンを取るためにやってきた主人公だったが、しかし強さを喧嘩に生かすのではなく街を守るために使う風鈴高校のトップやその仲間たちに囲まれ少しずつ絆されていく。しかしそんな中、隣にある獅子頭連とトラブってしまいいろいろあって戦いが幕を開ける。
みたいな話。
まず間違いなく一番頑張っていると評価できるのは美術だと思う。
たぶん漫画?アニメ?原作だと思うんだけど、それに合わせて登場人物の9割くらいは安いコスプレ感にあふれているんだけど、今作の舞台になっている東風商店街は明るい方のティム・バートン映画に出てきそうなめちゃくちゃパステルカラーでファンシーな造形物がたぶん本当に作られていて、安いコスプレ感がほとんど浮いていない。背景のすべてを作りもの感のあるセットにすることでこんな奴ら現実におらんやろという登場人物たちがギリギリ世界観に溶け込んでいるように見えたり見えなかったりさせているのは何気にすごいと思った。てかティム・バートンに撮らせればよかったのに。
アクションに関して言えば、過去にあまた存在するそれ系の映画、クローズ・ゼロ、ハイローシリーズ、品川ヤンキー映画である程度のジャパニーズ・ケンカ・アクションの水準が作られた今見ると、正直レベルが高いとは言えない。明らかに当てていない殺陣、ヒッティングの瞬間にスローモーションになる演出はそれぞれの映画でも多用されてたぶんだいたいはハイスピードカメラと実際にゆっくりながらも当てているんだと思うんだけど、今作では当たっているのに顔が歪まない=スローモーションじゃなくて実際に拳を止めているのが見えてしまって激萎え。
ケンカ・スタイルでの書き分けに関しては、それぞれちょっとずつ頑張ってるんだけど気を抜くと振りかぶってパンチ、ヤクザ・キックになっちゃうのも不満。唯一、最初から最後まで通して頑張ってたのは眼帯の子くらいだったかな。特に風鈴のトップは守るために戦う派ということになっているんだけどそのスタイルが「めっちゃタフです」はどうなん。無防備に殴られることと守ることは別の概念だろ。めちゃくちゃディフェンス・テクニックが巧で何をやっても防がれてしまうとかでよくなかったか?まぁ不良っぽさはなくなっちゃうんだけどさ。
脚本に関しても基本はファンシーヤンキー映画として割り切るとしても、根本がやっぱちょっとどうかしてて。
まずこの街にとんでもなく厄介な他所者がやってきた……みたいな映画のテンションで主人公がやってきて初登校日。普通だったら転校生かなと思うんだけど、この日、入学式の日なんだよ。いやなんでだよ。もしかして地元民がエスカレーター式に上がる高校なん?高校ってそういうもんじゃなくね?色んな中学から集まってくるもんじゃね?もしかして俺が増田の民ながらある程度の公立高校を受験したいいとこの坊ちゃんなのがバレてる?
あとは今作では主人公の相棒キャラ的にデータキャラが出てくるんだけど、そいつ、最初に商店街のオムライス屋の娘がチンピラに絡まれていてそれを主人公が助けるときにずっと物陰からメモ取ってるのね。多勢に無勢になってボコられてても。いや、シンプル卑怯者じゃん。そんな奴応援する気になれないよ。そして、なんか町ブラしてるときに本人が「ここから先は獅子唐連のシマだから絶対入っちゃダメですよ」って言ってた場所に知らんあいだに入っちゃってトラブルの火種になる。データキャラなのにアホなんかよ。
そして獅子唐連のリーダー。強さと自由さを履き違えた強さ至上主義者で強くないと自由になれない、そして俺は強いのに自由になれないのは周囲が弱いからだからお前らは強くなるべきだし、弱い奴は死ぬべきっていうよくわからん設定なのはまぁ、ファンシーマッドキャラとして割り切るとして。その獅子唐連がやることが東風商店街を襲撃して町中にペンキを撒くことなのね。何?もしかして俺、実写版スプラトゥーン見てた?バケツでペンキバッシャーやったり、ロールでぬりぬりしたりしてんの。いや、そのことと強さ、自由さに何の関係があるねん、アホなんか。やってる側も、なんで俺は街にペンキ縫ってるんだと思わんのか。
ドラマとしては主人公はたぶん幼い時に両親を亡くしてるんだけど、アルビノがキモいって理由で親戚からハブにされて(そもそもそんな話ある?)、学校でもいじめられ(これはある)、孤独で自分自身の強さ以外何も信じないっていう獅子唐連タイプの人間なんだけど、これが風鈴高校にはいることでコミュニティに属し承認されるということを知る、という展開はまぁいい。だったら同じく自分自身の強さ以外何も信じない獅子唐連のカシラと戦って、孤独じゃないからこそ主人公が勝つという展開にすべきだとは思うけど、まぁ、そこはいいや。
で、なんか定期的に綱渡りをしている映像が挿入されてそのたびに自分の嫌な記憶がフラッシュバックするんだけど、嫌な記憶と綱渡りって基本的にあんま関係なくね?普通に考えたら綱渡りに対応する精神状態って「理性と本能」みたいなそこから落ちたらマズい概念じゃね?で、終盤、襲撃してきた獅子唐連に対して主人公が一人立ち向かってボコられたときに、また綱渡りが始まって落っこちるんだけど、俺はここで優しさを知った主人公がそれでも再び孤独の中の狂気に陥ってしまって街の人もドン引きのキラーマシンに変貌するんだけど、それを風鈴の仲間たちに呼び戻される展開かと思ったら別にそんなこともなく普通に風鈴の奴らが来てましたってなるだけ。
このシーンもだったら襲い来る獅子唐連に主人公が立ち向かおうとするも仲間から拒絶され、じゃあ俺一人で行く!→やっぱりみんな来た!とかなら成立するけど、主人公が一人で立ち向かうことになるのってこいつが一人でトンズラしようとしてたらたまたま襲撃が始まったってだけだから、別に風鈴は主人公を助けるために出てきたわけじゃなくて単に出遅れてただけだから別に格好いいシーンじゃないんよね。
なんかそんなんばっかりで、ちゃんと考えて脚本書いてる?って思っちゃった。これは不良という悪をファンシーにしましたじゃ説明がつかない。
まぁそんな感じかな。
イケメンがいっぱい出てきて戦闘シーンもほとんどファンタジーでバイオレンスもあんまないからヤンキー映画の入門としてはギリいいかもしんないけど正直現代の基準には達してないと思ったかな。あと、なんかジェネリックイケメン多いな。主人公は劇団ひとりだし、眼帯はジェネリックガクトだし、風鈴トップはジェネリック小泉孝太郎だし、ロンゲはジェネリック松田翔太だし、獅子唐の副頭取はジェネリック伊勢谷友介だし、イケメンのパターンも意外と有限なんやなと思いました。
あ、そゆこと?こちらは家庭の守護に全リソースを割いている専業主婦家庭だ。
3号廃止?勝手にしろよ。小銭程度の保険料のために騒ぎ立てるなんて、高給取り(笑)の割にはずいぶん余裕がないんだな。
それよりPTAだ。共働きだろうが「平等に役員をやれ」だと?ふざけるな。普段はバリキャリ面して社会の主役気取りのくせに、地域の義務となれば「仕事」を盾に逃げ回るフリーライダー共が。
世の中は適材適所なんだよ。家庭をネグレクトしてまで金に執着してる奴らと、家庭という基盤を支えている俺たちが、同じ時間ボランティアをするのが平等なわけないだろ。
え?「納税して社会に貢献してる」?こっちは日本の未来を直接育ててんだよ。金さえ積めば面倒事から免除されると思ってんのか?ガタガタ言わずに自慢の有給でも使って、黙って旗振りに立って最低限の地域貢献でもしてろ。
コロナ初期のニューメチャシコの田舎町エディントンで保安官をしている白人の主人公。ヒスパニック系市長のマスク政策に反発し、ノーマスクの老人を助けたのがSNSにアップされ称賛されたことで舞い上がり市長選に立候補する。一方、主人公の母親は陰謀論者で、心に傷を抱える妻はロックダウンの中影響を受け陰謀論にハマっていく。そんな中、ジョージフロイト事件を機にBLM運動が過熱。町は混沌に陥っていく。
みたいな話が前半。
とにかく分断された映画だったって印象。
主人公は白人で反マスクの家父長制に侵された個人主義の保守的な存在として描かれるが、一方で全体主義によって排除されようとしている老人(マスクをすると息ができないと主張する)や、作中でほぼすべての人に無視されるホームレスに水を与えたりする個人の守護者としても機能する。
一方でヒスパニックの市長は町を守るという名目でマスクの着用を義務付けたり半ばロックうダウンに近い状態を町に敷いてそれに対応できない人たちを排除し、一方で自身の支援者らに対しては自宅の敷地内で大掛かりなパーティーを行ったりするような二枚舌さがある。
主人公が愛する妻は先代の保安官長という町の守護者であり主人公家の家長であった父親から性的虐待を受けており、そこから自身の虐待経験からカルト教団を立ち上げた男に影響を受けていく。
市長の息子は自身の境遇からもBLM運動に影響を受けるがそこであっさりと出会った女の子と楽しむ立場に転身。
その友人の白人の少年は女の子漁りにBLMに参加するが最終的にいろいろあってSNSの英雄となり1年後には保守系の活動者として圧倒的なカリスマを得る。
その白人の少年が思いを寄せる女の子は同じく白人の身でありながらBLMに傾倒しているがその視点は「白人と言う特権階級」を下敷きとしていてどこか空虚。
その元カレで黒人保安官はなぜか黒人だからという理由だけで立ち上がれよ!と言われるが本人はそんなことより仮想通貨やテクノロジーに興味がある普通の若者。
中盤で起こる事件の捜査に現れる先住民居住区の捜査官は皮肉なことに最も法律を重視し公平な裁きが下されるべきであると考えている。
といった、それぞれがまったく別の思想、全く別の目的で動いている。まるでフラットなSNSのタイムラインのようにそれぞれが自分の主張を自分の支持者にだけ投げつけ続けるようなストーリー性のない分断がそのままエディントンという町にぶち込まれそれぞれがほとんど影響を与え合わずに並行して進行していく。
映画内でもそれぞれが各自のSNSの画面に向けて話す場面がめちゃくちゃ登場する。一番影響力のない主人公が外部に主張するシーンだけ一生画面の中央に置かれたスマホの画面の中に閉じ込められているのかわいそうでよい。
市長選で現市長と主人公が対決する構図になっても、市長はデータセンターの建築と町の発展をテーマに戦うが、主人公は市長は知事の操り人形で性的に危険な人間だというテーマで戦い、その主張は一生交わらない。市長も主人公もBLM運動にはほとんど興味がなく、主人公は陰謀論に侵された母親や妻とも向き合おうとしない。
なので一生「これ何の話してるんやろな」となる。
そして本当に中盤も中盤で主人公が家父長制と自分のプライドを守るために妻が市長にレイプされたとSNSにウソの告発を行い、性的じゃない政的に利用されたことで妻は完全に夫を見限り家を出てカルト教団に合流、SNSで市長にレイプされたのは嘘だと逆告発を行い、主人公はプライドも信用も妻も失いついにブチ切れてしまい、一度は守ったホームレスを撃ち殺し本当に排外主義に出る。暴力での市長の排除を行う。
と、同時におそらくエディントン市民としては初のコロナ罹患者となる。
そして市長の殺害をBLMの盛り上がりにつなげて、アンティファという極左過激派集団の仕業であると発表。するとガチのアンティファと思われる武装集団がエディントンに襲来、大銃撃戦に発展する。
この辺はもう話がめちゃくちゃだけど、SNS上の分断なんか関係なく得体のしれないが実在する脅威は訪れ世界を破壊尽くしていくというコロナそのもののメタファーとしての武装集団なのかなと思ったり。その戦闘の結果、主人公は頭をぶっ刺され脳に障害をが発生し全身麻痺のような症状になっちゃうのも、重症コロナの後遺症みたいだしね。
そして主人公は見事市長に当選するも意思は失われ陰謀論者の母親が実権を握り、リベラル派の視聴から保守派の市長に変わるも何も関係なく元々SNSのアルゴリズムから始まった分断、諍いの象徴のようなデータセンターは建築される。エディントンという先住民の土地を奪って作られた町で、奪われた町と残った土地のド真ん中に建てられるというのも実に皮肉。
見てて一番思ったのは日本ってSNSと"社会"のコネクトがまだまだ弱いよなということ。少なくとも俺が生息している地域やコミュニティにおいてはSNSでバズった思想みたいなものがコミュニケーションの中で表出することってほとんどないし、ほとんどの人間はこの映画のようにツラも名前も晒してSNSで自分の思想を表明したりもしない。
エディントンではそういう設置をされたからと言うのもあるけど、町という存在する箱の中に、人という存在するモノがあるためにSNSであればミュートすればすむことが、嫌でも可視化されて小競り合いを起こしてしまう。もしかしたらそもそもアメリカは既にそういう状態であるということかもしれないけど、普通の地域に住む日本人の感覚では正直あんま共感できなかったというのが本音かな。
というわけで、やりたいこと自体はめっちゃわかるんだけどじゃあこの各自がなんか好き勝手に動いた結果、なんかゴチャゴチャして悲劇が起こって最終的にはコロナ(過激派武装組織)によってドカーン!ってなっておしまい!っていうのが面白いかっていうと、別にそんなことはなかったかな。
少なくとも映画的なエンタメ精神は全然なかったので「ミッドサマー」とか「ヘレデタリー」みたいな感じの映画を期待して見に行ったらつまんなすぎて頭沸騰しちゃうと思うので、まぁなんか社会派みたいなツラして映画語りたい奴だけ見ればいい映画だと思う。
研究室の深夜、A子は青白く光るスマートフォンの画面をスクロールし続けていた。指先が微かに震える。
きっかけは、E子が泣きながら見せてきた、ある匿名アカウントのポストだった。
『研究室の人間関係で悩む暇があるなら、一行でも多くコードを書け。成果も出さずに被害者面をするのは、甘え以外の何物でもない。自己責任だ。嫌ならさっさと卒業しろ』
その文体、独特の句読点、そして専門用語の使い回し……。A子の脳裏に、いつも首元にヘッドホンを引っ掛け、だらしなく笑う三矢准教授の姿が浮かんだ。
調べていくうちに、同様の論調を展開する複数のアカウントが見つかった。あるアカウントは「教育的配慮」を装い、またあるアカウントは「冷徹な合理主義者」を演じている。しかし、その根底にあるのは共通した執念――被害を訴える女子学生たちの口を封じ、「研究への集中」という名の沈黙を強要する攻撃性だった。
さらにA子の吐き気を催させたのは、その匿名アカウントの毒を、実名に近いアカウントで熱心にリポストし、拡散している人物たちの存在だった。
「やっぱり三矢先生の言う通りだよな。研究室ってのは戦場なんだから。感情論を持ち込む奴は、最初から向いてないんだよ」
そう呟いているのは、D男だった。彼は石田教授からも三矢からも「期待の若手」として可愛がられている。D男は三矢の匿名アカウントを「正論を吐く謎のインフルエンサー」として崇拝し、その言葉をさらに研ぎ澄ませて、E子やG子といった弱っている学生たちへ投げつけていた。
SNSという閉鎖された空間で、三矢が種をまき、D男たちがそれに水をやる。
被害者たちは、物理的な研究室でも、デジタルの世界でも、逃げ場のない「自己責任論」の檻に閉じ込められていった。
『三矢准教授は、抽象的な概念を咀嚼する点では……少し、独自の「限界」があるのかもしれない』
あの時、石田が浮かべた薄ら寒い微笑みの意味が、ようやく氷解した。
石田は知っているのだ。三矢が夜な夜な匿名アカウントを操り、必死に学生たちを叩いていることを。そして、それを「頭が足りない男の、石田に好都合な、浅はかな工作」として、高みの見物で楽しんでいるのだ。
三矢が「嫌われ役」を引き受け、ネット上で泥臭い隠蔽工作に走れば走るほど、石田本人の手は汚れず、聖人君子としての地位は揺るがない。石田は三矢の短慮さを「バカだ」と蔑みながら、そのバカさが生む「沈黙の圧力」を最大限に利用している。
(……なんて醜い構造なの)
A子は画面を消し、暗闇の中で深く息を吐いた。
三矢は、自分が研究室を守る「守護者」であると信じ、歪んだ使命感でスマホを叩いている。D男は、それが強者の論理だと信じて、喜々として同調している。
そしてそのすべてを、石田教授は「物の本で読んだ」極地の風景を眺めるように、冷徹に観察し、序列を管理している。
三矢の「頭の足りなさ」は、石田という巨大な蜘蛛にとっては、網を強化するための安価な接着剤に過ぎなかった。
廊下の向こう、まだ明かりのついている准教授室から、カタカタとキーボードを叩く乾いた音が聞こえてくる。それは、誰かの人生を「自己責任」という言葉で塗り潰そうとする、終わりのない埋葬の音だった。
A子は、暗闇の中で決意した。
正直、見てて恥ずかしくなるんだよね。
それ、本気で言ってるの? ギャグ?
長年、本当の意味で「表現の自由」を勝ち取るために血を流して戦ってきたのはフェミニストたちなわけ。抑圧されてきた女性たちが、自分の声を届けるために、社会の偏見と戦って守り抜いてきた権利なんだよ。
それに引き換え、オタクや男たちはどう?
お前らがやってきたことって、結局「自分たちの気に食わない表現を弾圧すること」だけじゃん。
女性作家がちょっとリアルな男性像を描いたり、女性の権利を主張するような表現をした瞬間、群がって叩き潰してきたよね。自分たちの「聖域」を侵すものは、徹底的に抹殺することに命をかけてきた。それがお前らの言う「自由」の中身でしょ。
本当に「表現の自由」を信じてる女性たちは、たとえ自分が「うわ、キモいな」って思うような表現であっても、それが存在する権利自体は守ろうとする。多様な価値観を認めるっていうのはそういうことだから。
でも、オタクは違う。
お前らが守りたいのは「表現の自由」なんかじゃない。
ただ単に「自分たちがエロい絵を見てニチャニチャする権利」を邪魔されたくないだけ。
それをさも高尚な社会正義みたいにパッケージングして、「自由の守護者」面するのはマジでキツいって。
いい加減、その使い古されたお題目を振りかざすの、やめたら?
見てるこっちが恥ずかしいんだわ。
現代で活動していたDAICHIは、不慮の事故で異世界へ転生する。そこは人類と魔族が長く争ってきた世界だが、武力衝突の裏では古来より「大きな争いを最終決定するのは声の決闘」という文化が残っていた。剣で流血戦争をする前に、両軍の代表が“声の技”で優劣を競い、民衆がその勝敗を裁定するのだ。だが近年はその儀式も形骸化し、結局は武力で押し切る時代になっていた。
DAICHIは偶然、魔族の青年と人類の兵士の小競り合いをビートボックスで止める。彼の音は、ただうまいだけではなく、相手の呼吸・鼓動・感情を引き込んでしまう力を持っていた。その噂を聞きつけたのが、人類圏最大国家の和平執政官HIKAKIN。彼もまた圧倒的なビートボックスの使い手であり、戦争を終わらせるために「世界を一つのテンポに統一する」構想を進めていた。自由なリズムは衝突を生む。だから全種族が同じ拍、同じ様式、同じノリを共有すれば争いは消える――それがHIKAKINの正義だった。
DAICHIはそれに反発する。平和とは、同じになることではなく、違うまま同じ場で乗れることだと信じるからだ。終盤、人類と魔族の全面戦争を止める最後の機会として、古代闘技場で史上最大のビートボックス決闘が開催される。HIKAKINは、完璧なリズム、正確無比な構成、観客全員を支配する圧倒的カリスマで会場を掌握する。一方DAICHIは、魔族の喉音、人類の軍靴、子どもの手拍子、泣き声、笑い声を即興で混ぜ込み、バラバラな世界がひとつのグルーヴになる瞬間を作る。勝敗は僅差だが、最終的にHIKAKINは負けるというより、自分の理想では拾えない音があることを認める。
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異世界で人類と魔族の争いが長引く理由は、言葉そのものに呪いがかかっているからだった。交渉の場では誤解が増幅し、謝罪は侮辱に、譲歩は挑発に聞こえてしまう。そんな世界で唯一、言葉を越えて感情を伝達できるのがヒューマンビートボックスだった。転生したDAICHIは、その才能を使って各地で小規模な停戦を生み出していく。
だがHIKAKINは、そんなDAICHIの活動を危険視する。彼は“魔王”と呼ばれているが、実際には戦乱を食い止めてきた秩序の守護者だ。彼のビートは精密で、強く、安心感に満ちている。人々の怒りや恐怖を鎮め、場を一つにまとめ、混乱を収束させることに特化している。彼の理想は、全世界の争いを終わらせる巨大な“調律ネットワーク”を作ること。すべての都市と村に同じ基準音を流し、人々の感情を安定させ、暴発を防ぐのだ。
DAICHIは、そんな平和は生きているとは言えないと反論する。感情をならし、ズレを消し、違いを管理して得られる平穏は、本当の意味での融和ではない。物語後半、両者は各地で“公開ビート対話”を行い、音だけで民衆の支持を競う。HIKAKINの音は美しくて強い。DAICHIの音は危なっかしいが、人の声を残している。クライマックスでは両軍数万人を前に、二人が一対一でビートボックスバトルを行う。構成はまさに対面動画的で、煽り、間、返し、空気の支配、観客のどよめきがすべて演出の核になる。最後、DAICHIはHIKAKINを打ち負かすのではなく、HIKAKINのビートの“隙間”に民衆の声を差し込み、彼の理想を塗りつぶすのでなく拡張して終える。
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転生したDAICHIが着いた世界では、人類と魔族の戦争はあまりにも長く続き、誰も相手を知らないまま憎んでいた。唯一の例外が、数十年に一度だけ行われる“代表者同士の発声決戦”。かつてはそれで大戦を回避していたが、最近では一方的な演出と扇動の場になっていた。そこを事実上支配していたのがHIKAKIN。彼は史上最強のビートボクサーであり、誰よりも民衆を熱狂させ、誰よりも衝突を制御できる男だった。
HIKAKINの主張は極めて明快だ。人類と魔族は、互いを理解するには傷が深すぎる。ならば必要なのは共感ではなく統治である。彼はビートボックスを、自由表現ではなく“社会を安定させるための技術”と捉えていた。対してDAICHIは、ビートボックスは人と人が向き合うためのものだと考える。支配ではなく応答、統治ではなくセッション。その思想の差がそのまま音の差として表れる。
映画の中盤では、二人が各地で代理戦争のようにビートで民衆を動かしていく。HIKAKINのサイドは隊列が揃い、巨大で、強く、完璧。DAICHIのサイドは雑多で、不安定で、でも熱がある。終盤の最終決戦は、人類王都と魔族領の境界に築かれた巨大円形劇場。ルールは単純、「相手を黙らせたほうが勝ち」ではない。「人類と魔族の双方に、戦争より未来を選ばせたほうが勝ち」。HIKAKINは超絶技巧で会場を制圧するが、DAICHIは一人で勝とうとせず、途中から人類・魔族の若者たちをコール&レスポンスに巻き込む。そこで初めて、観客は“見物人”ではなく“当事者”になる。HIKAKINは敗北ではなく、自分が民衆を守っていたつもりで、民衆から選ぶ権利を奪っていたと悟る。
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DAICHIは異世界転生直後、自分が“口から出る音で魔力を起こす珍種族”として保護される。人類にも魔族にも属さない存在である彼は、両陣営の橋渡し役として期待されるが、現実はそんなに甘くない。停戦会談は何度も失敗し、現場では報復が続き、融和派は裏切り者扱いされる。そこでDAICHIは、互いの主張を言葉で翻訳するのでなく、ビートボックスによる真剣勝負の場を作り、「相手の存在感を認めること」から始めようとする。
この世界で圧倒的な影響力を持っているのがHIKAKIN。彼は人類・魔族の双方から恐れられ、同時に敬われてもいる伝説のビートボクサーで、“魔王”の称号も通り名にすぎない。彼はかつて何度も理想論で和平を試み、そのたびに裏切られ、多くの命を失った。だから今の彼は、衝突の芽を徹底的に摘み、完璧に管理された秩序だけが平和を守ると信じている。DAICHIの即興性や、余白や、偶発性は、彼にとってあまりにも危険だ。
だがそれは単なるバトルではなく、二人とも本気で世界を救いたいからこそ譲れない対決になる。HIKAKINは圧倒的な安定感、説得力、支配力で押し切る。DAICHIは崩れそうで崩れない危うさと、生身の熱量で返す。映像的には、口元のアップ、息継ぎ、汗、観客の目線、低音で揺れる瓦礫、ハイハットのように飛び散る火花など、とにかく“ビートで戦っている”実感に全振り。最後はDAICHIが勝つというより、HIKAKINが初めて即興で返し、予定調和を崩した瞬間に、二人の思想が接続する。
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異世界では、人類と魔族の争いを煽ってきたのも、止めてきたのも“広場での対面ビート勝負”だった。民衆は王や魔王の演説より、広場の一戦で世界の空気が変わる瞬間を信じている。そこへ転生したDAICHIは、辺境の市場で披露したビートボックスが偶然バズり、一気に「人類にも魔族にも乗せられる男」として注目される。
一方HIKAKINは、その世界ですでに頂点にいる存在。彼のビートは洗練され尽くし、どんな相手も飲み込み、どんな場も自分の空気に変える。だが彼は私利私欲で頂点にいるわけではない。分断された世界を一度でもまとめ上げられるのは、自分のような“絶対的中心”だけだと信じているのだ。バラバラのまま共存するのでは遅すぎる、まず全員を同じ場に従わせなければ破滅する、それがHIKAKINの論理である。
DAICHIはそれに対し、中心は要るとしても、永久に一人で世界を回すべきではないと考える。目指すべきは“誰か一人の神試合”ではなく、“誰もが混ざれるセッション”だ。中盤、二人は複数回バトルするが毎回決着はつかない。HIKAKINは技術と支配で勝ち、DAICHIは空気の巻き込みで勝つ。最終決戦では、ついに人類と魔族の合同広場で完全一対一のバトル。構図としてはまさに対面動画の究極版で、最初は互いに相手のスタイルを潰し合い、後半からは相手のフレーズを拾って返す“対立から対話への変化”が描かれる。ラストは明確なKOではなく、二人のセッションに観客全体が手拍子で入ってきて、戦争を続けたい両陣営の強硬派が完全に空気を失う。
おい、弱者男性ども。
毎日毎日「女はズルい」「俺たちは救われない」ってネットの隅っこでボソボソ呟いてるお前らさ、鏡見てから言ってる?
いいか、よく聞け。
女っていうのはな、本質的に弱くて、儚くて、守られるべき「守護対象」なんだよ。
知能も、判断力も、腕力も、全部男より一段劣ってる。それは差別じゃなくて「事実」だ。だからこそ、俺たち責任感のある「本物の男」が、彼女たちが道を踏み外さないようにリードしてやり、重い荷物を持ってやり、泥を被って守ってやる義務があるんだわ。女は、男の庇護があって初めて輝けるマスコットみたいなもんなんだよ。
「女は金を持ってる男しか選ばない」? 当たり前だろ。
自分の力じゃ何もできない、生存能力の低い生き物が、強い個体に保護を求めるのは生存本能だよ。それを「汚い」とか叩くのは、子供が親に甘えるのを叩いてるのと一緒。器が小さすぎるんだよ。
お前ら、子供相手に本気で短距離走して「ハンデずるいぞ!」ってキレてるのか? 恥ずかしくないの?
女は構造的に弱者なんだから、多少下駄を履かせてやるのは強者の余裕だろ。それを奪い合おうとする時点で、お前らの精神性は「女以下」なんだよ。
一番ヘドが出るのがこれ。「俺たち弱者男性にもケアを!」とかいう甘え。
男として生まれたからには、誰かを守って、支えて、背中を見せて死ぬのが役割だろうが。
守るべき対象であるはずの女に「理解してほしい」とか「愛してほしい」とか、尻尾振って媚びてんじゃねえよ。
「守る力のない男」なんて、この世で一番価値がないんだわ。
お前らがネットで叩いてるフェミニスト様の方が、まだ自分の権利を主張するバイタリティがある分、お前らより「オス」としてマシに見えるレベルだぞ。
女を叩く暇があったら、自分が「女を一人養って守れるだけの強さ」を持てない無能さを呪え。
「対等な権利」なんて寝言言ってないで、早く自分の弱さを認めて、強者の靴でも磨いてろ。
それができないなら、一生地下室で、自分よりさらに弱い(と思いたい)存在を探してろよ。
まあ、そんな存在、この世にはもういないけどな。
理想的な飼い主の下であればどちらも洗練されたペットライフを享受できることは間違いない。
米国の貧困層に飼われる場合、生活圏は「家の中」に限定される。
飼い主にとって唯一の慰めであるため、常に寄り添い、その不安を吸収する役割を求められる。家から一歩も出られない「密室の二人きり」という、精神的に濃密すぎる(時に共依存的な)関係を強いられる。
管理飼育が徹底されているため、他の犬との交流はほぼ皆無だ。ドッグランに行く余裕もないため、窓の外を通る犬を眺めるだけの「孤独な特権階級」のような状態だ。刺激不足によるストレスはあるが、感染症や闘争の恐怖からは隔離されている。
たとえ貧困層でも、保護団体などの介入により去勢されるケースが多い。本能的な衝動に振り回されない平穏は得られるが、生物としての再生産の可能性は完全に断たれている。
中国の農村や貧困層で放し飼い(放養)に近い状態で生きる場合、そこにあるのは「自由」ではなく「野蛮な生存競争」だ。
飼い主との精神的交流は断絶している。餌をくれる存在ではあるが、守ってくれる守護者ではない。人間は「無視すべき背景」か、時として「暴力を振るう予測不能な存在」となる。
他の犬との交流はあるが、それは遊びではなく、限られた残飯や縄張りを奪い合う「抗争」だ。狂犬病や寄生虫が蔓延する中での接触は、常に死のリスクを伴う。知性を持つ人間がこの状況に置かれれば、他者は「友」ではなく「脅威」としか映らないだろう。
去勢の概念がないため、本能のままに交配を繰り返す。しかし、産み落とされた命(自分の子)が目の前で「不要物」として処分されたり、売り払われたりする光景を繰り返すことになる。生殖本能が満たされる喜びよりも、その結果として生じる「命の軽視」を突きつけられる精神的苦痛の方が圧倒的だ。
米国の環境は、自由や同族との交流を奪われる代わりに、人間社会の「底辺」であっても最低限の物理的安全(屋根と壁)が保障される「閉じた不幸」だ。
中国の環境は、犬としての本能(交流・生殖)は解放されているが、それは法もモラルも届かない場所での「剥き出しの生存競争」であり、生んだ子も自分の命も、明日にはゴミのように消える可能性がある「開いた地獄」だ。
「他犬との交流」がある中国の方が、生物学的には自然に見えるかもしれない。しかし、その交流が「病気と怪我と死」を媒介するだけのものである以上、それは幸せではなく、むしろ過酷なサバイバルをより複雑にする要因でしかないのだ。
この「命がインフレ(過剰供給)し、価値が暴落している」中国の現状が、都市部の近代化とぶつかった時に起きる「凄惨な野犬狩り」などの社会現象について、さらに掘り下げて分析することも可能です。いかがいたしますか?
この問いに答えるため、我々は弱者男性100匹を用意した。
弱者男性には人権がないので実験に最適である。反対意見は存在しない。
なぜなら彼らには「存在を否定される権利」しか与えられていないからだ。
生命の実を食べた彼らの肉体はたちまち膨張し、筋肉が隆起し、眼光が冴え渡った。
空に向かって跳躍するもの、背中から翼らしき影を発現させるものも現れた。
しかし、それは不完全な飛翔だった。
重力に抗うには不十分であり、ほとんどが地面に叩きつけられた。
次に「神の力」を降ろしてみた。
その剣は空を飛ぼうとする弱者男性を一人残らず切り裂き、大地へと縛り付けた。
続いてケルビムが姿を現す。
四つの顔と六枚の翼を持つその怪物的な守護者は、生命の実の力を不完全に宿した弱者男性を次々と咀嚼し、再び「飛翔」という夢を打ち砕いていった。
弱者男性は空を飛ぶことができない。