日本代表の10番・中村俊輔が、ドイツワールドカップで日本代表の命運を握ることは、間違いない。中村俊輔が、何回、前を向いてボールを受けられるか、そして、どれだけゴール前でセットプレーのチャンスをつかめるか、これが日本代表のキーポイントになる。
中村俊輔が、初めて日本サッカー史に登場するのは、1996年秋のU19のアジア予選である。無名の高校生レフティは、柳沢敦(鹿島)、吉田孝行(横浜F)、山口智(市原)らすでにJリーグで活躍する選手をおしのけて、チームの王様になる。
繊細なボールタッチと類稀な視野の広さ、そして圧倒的なボールコントロール 。華奢な高校生が中盤でボールをもつと、攻撃は一気に活性化する。左サイドを駆け上がる定定の前に広がる、広大なスペース目掛けて、いともたやすくチェンジサイドのパスを繰り出す左足に、ファンタジーの香りを感じた。
それでも、柳沢敦や小野伸二、稲本潤一といった、「こいつは、将来、間違いなく日本代表に入って、日本サッカーを引っ張っていく存在になるだろうな」というオーラは感じなかった。あまりにも、繊細で、あまりにも華奢で、そのころは、期待の若手テクニシャンの一人に過ぎなかった。
中村俊輔の登場前にも、日本サッカー界には多くのファンタジスタが登場したが、例外なく彼らは、目の前の大きな壁にぶち当たって跳ね返されて、その結果、プレースタイルの変更を強いられ、そして、凡庸な一選手に落ち着いてしまった。中村俊輔の未来に、多くの期待がかけられない一番の要因だったのだ。
しかしながら、悲観的な予測は見事に外れた。トルシエ、黄金世代の突き上げ、シドニー五輪、日韓ワールドカップメンバーからの落選、レッジーナ移籍、アジアカップ2004、ワールドカップ予選、セルティック移籍・・・。多くの内的・外的要因が重なって、中村俊輔の進化は今なお続いている。
ドイツワールドカップ。日本代表がグループリーグで敗退すれば、日本国内から中村俊輔に罵声が浴びせられるだろうし、日本代表が決勝トーナメントに進むことになれば、世界中から中村俊輔に賞賛の声がかけられるだろう。全てを背負って、俊輔はピッチに立つことになる。
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